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 熱砂の記憶 07

 ――ひつじがくにのさかいをこえるころ、てもとのきんをかきあつめ、ひつじかいはとびだした。おあしすのほとりをとびだした。



 リグの姿はひと昔前のロゼアの姿だ。花嫁と傍付き。砂漠の輝石と研磨師。花と園の番人。宝石を工房で死蔵させてはならない。花を砂漠で朽ちさせてはならない。花嫁、花婿を慈しみ、護り育て、最も咲き誇れる場所に花の行く末を委ねる。それこそが彼女たちの最大の幸福であると信じて。
 砂漠が産出できるものは、ほんの僅かだ。鉱石、砂鉄、宝石の原石。職といえば貴金属や絹綾、美術品を視る眼を生かして行商する程度に限られる。ひとびとは小さなオアシスに頼って生きている。
 そういった状況で多くの砂漠の者の生計を支える“事業”が、この屋敷だ。
 改めて居住区の寮に向かって廊下を歩くロゼアの耳に、ひとびとの絶え間ないやり取りが運ばれてくる。
「ティシス様のお熱が下がらない。このままだと」
「ヒエン、ヒエン、ヒエンはまだ戻らないの?」
「ねぇねぇ、きょう、おさんぽしたらだめ?」
「ご飯を食べることができたらね」
「こちらの衣装はいかがかしら?」
「残念だ。ラライが訓練で」
「お昼寝をしてくれたら、起きた時にちゃんとご本を読んであげる」
「今日からリオンをリオンと呼んで。シュリマ……」
 昔から変わらぬざわめきに、屋敷は今日も満たされている。
 居住区は休憩所の前や訓練場の脇を通り抜けた先にある。主に訓練生や候補生、まだ花嫁花婿を送りだしていない世話役たちの住まう単身寮が、砂漠を臨む形で数棟連なる。詰所で寮番に挨拶をし、鍵を受け取ったロゼアは、半年ぶりに長年過ごした自室へと戻った。
 ロゼアの自室は学園に向けて出立したときから何も変わっていない。埃避けの布が掛かった寝台。上着や鞄の類が放り込んである衣装掛け。書き物机の上は整頓してある。ロゼアは部屋の中に足を踏み入れて窓を開けた。風が動き、埃が舞う。だが予想したほどの量ではなかった。寮番か誰かが定期的に空気を入れ替えてくれていたらしい。
 窓の桟に手を突いて外を眺める。粉塵に滲む王都の街並みがよく見える。
 ロゼアは、深呼吸した。
 学園のもとのとは違う。
 けれど懐かしい、「屋敷」の空気だった。
 ロゼアは物心がついたときからこの寮にいる。始めは六人一部屋。その次は四人。二人。傍付きになったときにこの個室を与えられてからは五年ほどか。ソキの区画に詰めることも頻繁だったので部屋で過ごした時間もさほど長いわけではなく、私物も多いというほどではなかった。半年前まで身に着けていた衣類のほとんどは支給されたもので、手持ちはもう学園だ。一番多そうな私物は書籍か。ロゼアは窓辺から離れて壁備え付けの書架に歩み寄った。目に留まった一冊を抜きだして開けば、この一年で見慣れてしまった文字が紙面に躍っている。ナリアンの文字だった。
 ナリアンの文字は読みやすいと定評があり、屋敷の書庫に収められている本の何冊かも彼の手がけた者だったはずだ。その道では有名な写本師が、今ではロゼアと同じ魔術師で、同窓生で、友人なのだから、人生何が起こるかわからない。
「ロゼア」
 本を書架に収め直していると、背後からあたたかく呼びかける声がある。ロゼアは弾かれたように振り向いた。捩じりまとめられた戸布が両脇に追いやられた入口で、壮年の男女が並び立っている。女はロゼアと同じ赤褐色の髪と瞳。肌色は小麦色で、元は象牙だったものが陽に焼けたためらしい。やや小柄で、とろんとした表情が日陰でまどろむ猫のようだ。
 もう一方の男は砂漠の民特有の煮詰めた蜜色の肌ながら、髪は濃い鋼色。銀よりも深く、灰色より輝かしいという、ひどく珍しい色をしていた。瞳は一見髪色と同じに見えて、よくよく覗き込むと僅かに緑青がかっていることが窺える。背は高いが決して痩躯ではなく、強靭でしなやかな筋肉をしっかりとした骨格に纏っていた。
 ふたりとも、白い上下に花の意匠の入った鮮やかな色味の帯を締めている。
 久方ぶりに見る両親。父、ハドゥルと、母、ライラだった。
「とうさん、かあさん」
「もうひとりいるぞ」
 父が自身の背後を振り返る。ととん、と軽い足音がするかしないかのうちに、父の背後から知った顔がひょっこり覗いた。
「ろーぜあくん」
「シフィアさん?」
 彼女は、うん、と頷き、ロゼアに笑いかけた。
「そこでおふたりに会ったから、付いてきたんだよー。おかえりなさい」
 ゆるく波打つ淡黄色の髪を顎の位置で切りそろえた、二十代半ばの女性である。象牙色の肌は不思議と焼けておらず、笑みに細められる瞳の色は新芽を思わせる黄緑だった。生まれたてのひよこめいた、ふわふわとした空気をまとっている。けれど濃紺の上着の下に隠れた身体はばねのあるものだ。それもそのはず。彼女は幼いロゼアを仕込んだ年上の傍付きたちのひとり――とりわけ結びつきの強い、監督役だったのだ。
「顔をよく見せて、ロゼア」
 歩いてきた母が軽い抱擁に続いて、ロゼアの両頬をその手で包んだ。首筋、顔の輪郭、額、と滑って行く手を、ロゼアは渋面になりつつ押しやる。
「母さん、俺は花婿じゃないよ」
「あら、久しぶりに会うのだもの。しっかり確かめさせてちょうだいな」
 軽やかに笑う母から引き下がる様子はまったく見られない。ロゼアは嘆息し、母の好きにさせながら顔だけを父たちに向けた。
「父さん、ソキには会った?」
「あぁ。元のお部屋でくつろいでいらっしゃった。いろいろと見違えたよ」
「あなたのことたくさんお話してくださったの」
 気がすんだらしい。ロゼアから離れて母が父の話を引き継ぐ。
「正装がよく似合っていたって」
「あぁ、あれね……」
 ロゼアは思わず視線を虚空に投げた。新入生歓迎パーティーのあれだ。ソキは何を話しているのか。もっと積もる話はあっただろうに。
「ロゼアくん、正装ってなぁに?」
 ぱちぱち瞬いて小首を傾げるシフィアにロゼアは肩を落として答えた。
「学園で新入生歓迎のパーティーがあったんだよ……。その時の正装」
 砂漠の王城の針子たちが縫い上げたという正装は、華美ではないがとにかく見るからに金のかかった最上級の一品で、手に取ることすらおそろしかった。
「でも動きやすかったでしょ? アレ」
「母さん、あれを知ってるのか!?」
 うふふ、と横から口を挟んだ母に、ロゼアは目を剥いた。
 ふっふっふ、と不気味な笑いに喉の奥を鳴らして、父がぐっと親指を立てる。
「準備に立ち会ったんだよ。なー、母さん!」
「母さんたちのへそくりをね、予算に上積みしてもらっちゃった! ねー父さん!」
 ぱちん、と手を鳴らす陽気な両親にロゼアは思わず天を仰いだ。周囲から「ソレ王宮が組んでる予算超過してるよな?」と散々言われた理由がこれでわかった。
「……どうすんだよ、あれ……」
 パーティーは毎年あるものらしいが、今のロゼアの丈ぴったりに合わせてあるので、もう着ることはできないだろう。
「布地はひと財産になるだろう。持っておきなさい」
 と、父が言う。
「さすがに靴は売りにくいと思ったから、普段使いできるような形にしたのよ」
 使ってね、と母も笑った。
 我が両親ながら、まったく、人を疲れさせる。しかもそれが心からの善意だから始末に負えない。
 両親とロゼアのやり取りを眺めていたシフィアが不満そうに口先を尖らせた。
「えぇ、私もロゼアくんのその正装姿、見たかったなぁ。着てみせてよ」
「着ません」
「いじわるだなぁ」
「っていうか無理ですから!」
 もちろん正装は旅に必要ないので置いてきた。というか屋敷で話題になるとは思っていなかった。
「ソキ様にご挨拶に行って御覧なさいな、シフィア。ロゼアがかっこよかったって、たぁっくさん話してくれるんだから!」
 パーティーの様子を正確に描写する母にロゼアは今度こそ項垂れた。誰から聞いたのだ。ソキからに違いないが。
 両親は本邸ではなくソキの部屋で彼女と再会したようだった。当然、メグミカや他の世話役たちも同席していたということになる。これは覚悟しておいた方がいい、とロゼアはひそかに戦慄した。彼女たちと次に顔をあわせたときに確実に追求されることだろう。ソキの様子だとか様子だとか様子だとかを根ほり葉ほり次々と。
 出来ればソキには、パーティーがあった、程度で流しておいて欲しかった。
「ソキ様に挨拶には伺いたいなって、私も思ってはいるんですけど」
 母の長話に一区切りついたところでツフィアが言った。
「ソキ様、お疲れじゃありませんでした?」
「今のところはお元気そうだったわ。挨拶させていただくぐらいなら大丈夫でしょう」
「そうですか……よかった、お元気そうで!」
 胸の前で手を組み合わせてシフィアが笑った。本当に嬉しそうだった。
 屋敷の人間なら誰しもだが、シフィアは特に花嫁花婿の安否を気に掛ける。己の花婿の姿を重ねてみているのだろう。
 傍付きたる彼女の、花婿の名を、ウィッシュ。
 数年前に死亡したとされながら密かに生き延び、現在はソキの担当教官となっている魔術師だった。



 両親と退寮について軽く話し合ったあと――ロゼアの荷物は一時的に両親の住まいに移すことにした――仕事が残っているという彼らと別れ、ロゼアはソキの様子を見に戻ることにした。もう午後だ。昼食は屋敷でとるとして、それからの予定をソキの体調を鑑みながら決めなければならない。
 何事もなければソキを連れて王の下へ挨拶に向かうつもりである。
 花嫁花婿たちの区画に続く廊下はまだ静かだが、そうまもなく昼の支度の為に往来する人々で賑わうだろう。
 ロゼアは隣を歩くシフィアに問いかけた。
「シフィアさんは、ゆっくりしていていいんですか?」
 彼女にも仕事があるはずだ。現在のシフィアは傍付き候補の補佐として年少の花嫁の世話を務めているはずである。その時分の花嫁は旅行に行くこともない。シフィアにはロゼアに付き合う余裕などないはずだった、が。
「だいじょーぶ。いまは私たち、三人一組(スリーマンセル)で動いているから結構暇なの」
「三人一組?」
 大抵はふたりである。
「ひとりはハヤなの」
「あぁ、ハヤ、復帰したんですか……。どっちが生まれたんですか?」
「男の子だよ。彼女に会ったらおめでとって言ってあげてね」
 それで合点がいった。出産直後の女性が所属する組は時期限定で三人となるのだ。
「……ハヤを私の組に入れたってことは、多分、上は私を結婚させたいんだと思う」
 その落とすような呟きに、ロゼアはシフィアを見た。
 彼女はちいさく苦笑していた。
「誰かが抜けてもいいように、三人一組にするんだもんね」
「シフィアさん、恋人は?」
 ロゼアの問いに、シフィアが首を横に振る。
「そんな気になれなくて」
「縁組は?」
 シフィアは問いに答えなかった。
 屋敷には花嫁花婿には知らされない約束事が多くある。そのうちのひとつが結婚だ。
 屋敷勤めの者たちは結婚することを義務付けられ、子を生むことを推奨される。
 恋愛しているならばその相手と。そうでなければ一定の年齢になった時点で屋敷から相手を宛がわれる。
 大抵は最初に世話した花嫁花婿を送り出した時点で、一度目の見合いを打診される。
 その話を断って働き続けても、二十を過ぎれば皆落ち着く。
 ソキが嫁いでいたら、ロゼアも、そうなっていた。
「ロゼアくん、私ね。屋敷を出ようと思うんだ」
 シフィアの唐突な告白にロゼアは足を止めていた。
「……辞めるんですか?」
 シフィアも立ち止まり、ロゼアに向き直る。
「すぐじゃないよ。ハヤが落ち着いたらのつもり。そろそろ候補の子たちからちゃんと傍付きが選ばれる頃だし、丁度いいと思って。……このまま働き続けていたら、結婚しなきゃいけないもんね」
 結婚の義務はあくまで「屋敷」の中だけだ。辞職するならば課せられない。
「あのね、ロゼアくん。私、ウィッシュを探したいの」
 とっておきだろう秘め事を、シフィアはロゼアに囁いた。
「ウィッシュはね、絶対生きてる。だから、探しに行きたいの」
 花婿ウィッシュの死の報が「屋敷」に届けられたのは、四年ほど前だった。
 嫁いだ後の花嫁や花婿たちの消息が知らされることは通常ありえない。
 なのに、届いた。
 ウィッシュの死の原因は婿入り先も一族の半数以上を失う大きな事故だったらしい。その場に不在だったごくわずかな人間だけが難を逃れた。例を見ないほど陰惨な死に満ちていたと、王宮から召喚され処理に関わった者たちが囁き合っていた。
 ウィッシュの死が周知のものとなって以後も、シフィアは事件の処理に喚ばれなかった。それが悪かったのか、彼女は精神の均衡を崩した。決まりかけていた縁談も立ち消えになった。毎日泣いて泣いて、ウィッシュを探しにいくと聞かず、本邸や、あまつさえ王城までに己れの花婿のことを尋ねにいくほどだった。
 そんな彼女を新しい花嫁に付けたのは上の判断だ。
 自分たち傍付きは、その、教育を受けた者たちは、与えられた花嫁花婿を、無碍にできない。
 そのように、できている・ ・ ・ ・ ・
 花嫁の傍に控えるうちにシフィアは従来の落ち着きを取り戻しはした。けれどウィッシュの件が尾を引いているのは、誰の目から見ても明らかだった。
「たとえ……本当に、ウィッシュが死んでしまっていたとしても」
 シフィアが歩き出す。
 ロゼアは彼女の横に再び並んだ。
「ちゃんとこの目で確かめたいんだよ。もう、五年も前のことだから、何も出てこないかもしれない。……でもね、私にはわかるんだ。ウィッシュは絶対生きてる。ウィッシュに預けた、私の心がそう言ってる。温かくて優しいひとたちに、大事にされながら生きてるの」
 シフィアの瞳は、いつのまにか熱っぽく潤んでいた。彼女の花婿の死の知らせを耳にしてから、ロゼアも幾度となく見た表情だった。
「もう……もういちど、傍に置いてほしいだなんて、思わないから」
 その希望は、傍付きになると同時に捨て去る。
 自分たちは、花嫁に、花婿に、選ばれた瞬間、いつかくる別れを、覚悟する。
 自分たちがあの、うつくしい少年少女たちの、国を背負ってどこかへ嫁ぐ、宝石の姫君たちの傍に存在を許されるのは、ほんの、ひとときなのだと。それ以上を願うことは許されないのだと。
 もう覚悟しているから。
「一緒に、生きられるとか、そんな希望は、もたないから。……だから」
 ウィッシュにあいたい、と、シフィアは言った。
「ウィッシュに会えるなら、わたし、死んだっていい」
「死なないでください」
 ロゼアは、たまらなくなって訴えた。
 とある庭園を横切り、棟と棟の間にまっすぐ架け渡された廊下に、声は思いがけず大きく響いた。シフィアが訝しげにロゼアを見上げる。ロゼアは声にならぬ言葉に唇を動かし、ひっそり作った拳を戦慄かせた。
 シフィアの花婿、ウィッシュは生きている。
 風の黒魔術師として目覚めた彼は今、白雪の王宮魔術師として働いている。学園における、ソキの担当教官でもある。
 なのに、それを口にできない。
 他ならぬウィッシュそのひとが、ロゼアに約束させたから。
『フィアに、しーって、しておいて』
(なんでだよ)
 ウィッシュは言った。シフィアに嫌われたくないのだと。だがそんなことは起こらない。傍付きが己の花嫁を、花婿を、厭うことは決して。
 ありえない。だから。
 このひとに告げてあげてほしい。ずっとあなたを想っているこのひとに。生きているって。元気なんだって。
 それだけで、彼女は救われる。
 ――傍付きはいつも置いていかれる。花嫁に。花婿に。己のすべてを捧げた砂漠の輝石に。
 その想いを理解されぬまま。
 真実を告げられない代わりにロゼアはシフィアに請うた。
「……生きて、会ってください。ウィッシュ様に」
 窓から覗く眩しいまでの青空を背に、シフィアがありがとうと微笑んだ。
「ロゼアくんもウィッシュが生きているって、信じてくれるんだね……」

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