――ひつじかいはたびにでる。ひつじをさがしもとめながら。きんのおかこえたびにでる。
「なぁるほどなぁ。ここんとこウェスカたちの姿が見えないと思ったら、城にいるのか」
交代の時間にさしかかり賑わう休憩室の一角で、ロゼアが近況を話し終えると、かつての同僚は納得したと大きく頷いた。
「楽しそうだろ」
「そりゃぁもー……」
ミントティーに口を付けながらロゼアは笑った。
「裏方じゃあ大騒ぎだ。ソキも楽しそうだし、体調も安定してる。帰ってきてよかったよ」
ソキは秋口からずっと伏せりがちだった。実は砂漠には扉を使っての顔見世だけで終わるだろうとロゼアは密かに予想していた。馬車移動で砂漠まで到着できる可能性は低いと踏んでいたのだ。けれど幸いにして、予想は大きく外れている。
砂漠に帰省してから今日で七日目。午前中は屋敷で片づけや訓練をして、午後はソキやメーシャと共に過ごす日々だった。かつての世話役たちに囲まれるソキの調子はすこぶる良く、屋敷を訪れるかどうかはその日の気分で決めている。今日のソキは城に留まっていた。王との面談があるとかどうとか。
ロゼアから耳にするソキの近況に、しばらく陽気に笑っていた同僚の青年は、唐突にふっと表情を陰らせた。
「……いいよな、世話役たちは。……俺たち〈輿持ち〉は、ソキ様のお傍に侍りたくともどうにもならん」
彼はかつてソキの〈輿持ち〉だった。今は幼い花婿の輿を担当している。
〈輿持ち〉は花嫁花婿が外出時に用いる〈輿〉の運び手だ。傍付きとは別の特殊な訓練を経て養育される。緊急時を除いて、輿持ちは花嫁花婿とは言葉を交わさない。当然、親しくなることもない。とりわけソキは〈輿持ち〉を倦厭する花嫁だった。よって世話役たちのように彼はソキのために呼ばれることはなかった。たとえ彼が己の担当であった花嫁の身を心から案じていても。
「……また帰ってきたときに声をかけるよ。挨拶だけでもしたらいいよ」
「あぁ」
「おや、ロゼアじゃないか!」
ため息を吐く男を慰めていたロゼアの背に部屋の入口から声がかかった。振り返るとかつての同僚たちが歩み寄ってくるところだった。ひとりはロゼアよりみっつ上。もうひとりはロゼアよりもひとつ下だ。どちらも帰省して初めて再会する顔である。
「ひさしぶり、ふたりとも」
「おうよ。おまえ、魔術師の学校に入ったんだって?」
「いきなりだったから、下の奴らん中じゃそれなりに噂になってたぞ」
傍付きは己の花嫁花婿が嫁ぐときには屋敷の使用人たちに告知して回る。だが花嫁が嫁いだとされるロゼアは告知もなしに屋敷を去った。それを事情を知らぬ皆は不審がっていたらしい。
「それについては説明しておいたよ。妖精が来たから、仕方がなかったんだって」
ロゼアはソキが嫁いだ直後に妖精の要請を受けて、屋敷を離れたことになっている。妖精の訪れは世界を収める五王からの強制召喚に等しい。時間的に余裕がなかったのだと、ロゼアは説明して回っていた。
「妖精っているんだなぁ……」
同僚の片割れが隣に腰掛けながら呟く。そのしみじみとした物言いに、ロゼアはつい吹き出していた。
「ホントにな。俺もまさか本当にいるとは思わなかった。最初は目を疑ったんだ」
唐突に現れたいかにもな姿の妖精を、ロゼアは疲労による幻覚かと思った。そのことでシディにはずいぶんと拗ねられたものである。
「魔術って何ができるんだ? 食い物出せる?」
「だせないよ……」
「お前は食い意地が張りすぎだっつうの」
ひさかたぶりのやりとりにロゼアは笑い声を立てた。彼らも相変わらずだ。
食べ物を真っ先に連想するかはともかく、魔術の具体的な知識を知る者は少ない。ロゼアも自身が暴走を起こすまでは自分に何ができるのかを実感していなかったし、魔術師が行使できる術は己の属性と系統に厳密に縛られるということを学園で知って驚いた。
「ロゼアが魔術師か……。不思議な感じだな」
「そう? 俺は納得したなぁ。ほら、ロゼアって前から魔術師に縁があったじゃん」
「馬鹿、黙れ」
ごん、と鈍い音が響き、目にも留まらぬ速さで横から小突かれた少年が悲鳴を上げる。
ふたりを眺めながらロゼアは呆然と瞬いた。
「……俺が、魔術師に……?」
縁など、あった、だろうか。
「二年前だ、ロゼア」
輿持ちの男が躊躇いがちに口を挟んだ。
「ソキ様が誘拐された、あの事件のことだよ」
それは忌まわしい記憶。
記憶の奥底に押し込められた、悪夢の七日間。
背後で柵が勢いよく閉まり、金属音が高らかに響く。
ロゼアはちらと後ろを振り返り、柵の向こうに広がる屋敷を見た。広大な敷地に茂るくすんだ緑と、その合間に並ぶ屋根を一瞥し、外套を頭から被って歩き出す。街のざわめきが瞬く間にロゼアを取り巻いた。
日差しこそ他国に比べれば格段に鋭いが、冬の風は肌に冷たい。夏場は日よけの為に纏う外套もこの季節では防寒具代わりだ。色とりどりの外套の裾が強い風に翻る雑踏の中を城に向かって進みながらロゼアは胸中で独りごちた。
(……なんで今まで、思い出さなかったんだろう)
他人に指摘される前に思い至っているべきだった。自分には魔術師と縁があった。二年前のあの事件を通じて。
あれは夏だった。
星が一段と眩く輝く、祭りの季節だった。
毎年その時期には街の方々に花灯籠が飾り付けられて、郊外に天幕を張った流れの大道芸人たちが街角で呼び込みに精を出す。子どもたちが仕事の合間に少ない小遣いを握りしめて異国の珍しい玩具や菓子を物色する。
ロゼアが語った星祭りの景色を見てみたい。そうソキが主張して、輿に乗って外へ出た。
その先でソキが攫われたのだ。
ロゼアが目を放した一瞬だった。輿持ちの男たちごとソキは行方知れずになった。ソキが発見されるまでの七日間を、ロゼアはよく覚えていない。あなたは壊れかけていたのよ、とメグミカは言った。あなたは狂って、壊れかけていた。ソキさまもあなたも、無事でよかった……。
当然ながら犯人の顔もロゼアの記憶には残っていなかった。聞くところによると、彼は魔術師であったらしい。
砂漠の国の王宮魔術師。
きし、とこめかみに痛みを感じ、ロゼアは軽く顔をしかめた。かの事件のことを思い出そうとするといつもこれだ。
ソキも怯える話題であるから、屋敷の誰も話したがらない。意識から外れていたのはそのせいであろうが。
それでなくともここのところ、己の記憶に自信がないのだ。
――……記憶に、穴がある。
自覚したのはパーティーのときだ。以来、丁寧に記憶を攫うと虫食いのように記憶の曖昧な箇所がある。人間の記憶というものは曖昧なものだ。昨夜の食事の献立さえ思い出せないこともある。だがロゼアは傍付き時代からの習いで、行動の記録を毎日欠かさず付けていた。それと一致しない記憶が、ほんの僅かながら、ある。
「……ちょっと」
かるく額に手をやりながらため息を吐いていたロゼアは、耳に飛びこむ聞き覚えのある声に思わず立ち止まっていた。
目抜き通りから一本逸れた商店街。そこに並ぶ露店の前でひとりの女が腰に手をやり、苛立たしげに足を踏み鳴らしている。彼女は店主を睨み据えながら店頭に並ぶ何かを指差し言った。
「言っていた値段と違うわよ。さっきは二つで、という話だったわ。違うならお金を返して頂戴」
「うん? そんなこといったか?」
とぼけた店主の返答に女の苛立ちは増す一方だ。あなたね、と低く唸り出す。
ロゼアは駆け寄り女の背後から顔を出した。
「どうしたんだ?」
「いやぁ何でもありませんちょっとこの女が……げっ、ロゼア!?」
生成りの布を頭に巻いて、髭をたくわえた壮年の男が、ロゼアを見るなり目を瞠る。やっぱりこの男か、とロゼアは呆れ目になった。この男は王都のおのぼりとわかるや倍額を要求することで有名なのである。そして悲しいかな、顔見知りだ。王都は狭い。
「げってなんだよ。いいかげん外から来た人間相手にふっかけるのやめろよな。ここで店を持てなくなるぞ」
「そんなことしてねぇよ! このねーさん、どう見たって砂漠の人間じゃねぇか俺にとっちゃ身内だぞ身内! なんだよお前、花さま嫁いでどっか行ったってきいたぞなんでいんだよ!?」
「年末だから帰省してるんだよ」
あぁ、と頭を抱えた男は誰にも言うなと懇願し、慌てふためきながら弁解する。ちがうんだ。おれはただ。これにはわけが。
話を聞き流しながら眺めた店頭には揚げたパンが積まれている。
店主は最後にそのパンを紙袋にどっさりと詰めて押し付けてきた。口止め料らしい。
「これやる! もう用はないだろさっさと行け!!」
ロゼアが彼の悪行を言いふらすとでも思ったのだろうか。心外である。言いふらさなくても既に広まっている。
ロゼアは紙袋を抱えたまま女の手を軽く引いて人混みに混じった。立ち止まっていては人目を引く。女は戸惑っているようだったがロゼアの手を振り払う真似はしなかった。おとなしく従っていた。
「はい、これ」
空いている路肩で解放した女に、ロゼアは紙袋を押し付けた。
「どうぞあなたのものですよ。……こんなところでお会いするなんて驚きました。えぇっと……ツフィア、さん?」
ロゼアが問いかけると、女は肯定する代わりに肩をすくめた。
年の頃は二十代半ば。夜色の肌と紅の瞳を持つ冴えた美貌を持つ女だ。たった一度しかまともに顔を合わせたことはない。けれどひどく印象に残っている。
女の名を、ツフィア。
ロゼアたちと同じ魔術師――言葉魔術師だった。
学園の卒業生は学園にて職を得るか、なないろ小路で店を開くか、五国いずれかの国に王宮魔術師として派遣されるかの三択らしい。だがツフィアはそのどれでもないようだった。仕事で来たのか、と尋ねたロゼアに彼女は首を横に振った。
「観光よ」
そして自嘲めいた響きで彼女は付け加えた。
「わたしに、仕事はないわ」
彼女の住まいがあるらしい星降から遠路はるばる砂漠までやってきたのは探し物があってのことだという。
目的地の地図を持ってはいるが迷いかけているという女のためにロゼアは案内役を買って出ることにした。砂漠は皆がオアシスに身を寄せ合って暮らしている。それは王都ですら例外ではなく、密集した集合住宅や細く入り組んだ路地によって、時に地元の者でさえ位置を見失ってしまう。ここまで関わっておきながら放っておくのは酷というものだ。
ロゼアは隣に歩く女を改めて観察した。運動神経がよいのか、彼女はしなやかな肢体の隅々まで気を行き渡らせて歩いていた。この群衆の中にあっても影のように人と人のあいだをすり抜ける。
ツフィアと初めて顔を合わせたのはもう半年近く前になる。噂は時折聞いていたが、まさか彼女とふたりで砂漠の国の街を連れだって歩くことになるとは夢にも思わなかった。
「……あの予知魔術師の子はどうしたの?」
唐突に問いかけられてロゼアはツフィアに振り向いた。
「ソキですか? 城です。……ツフィアさんはソキと……パーティーのときに会われたんでした、よね?」
「少し顔を合わせただけよ」
「会われますか?」
目的の場所に案内した後、城に連れて行ってもいい。彼女も魔術師なのだから歓迎されるだろう。
だがロゼアの問いにツフィアは表情を曇らせる。
「いいえ。結構よ。わたしは城には入れない」
そしてその意味を尋ねる間もなく、ツフィアは視線を伏せてしまった。
学園の事務方がツフィアについて述べていた。
『ツフィアはね、特別になってしまったの』
ロゼアは改めてツフィアを観察した。王について言及する彼女の声音は苦りきっていたように思えるのだが、前を向く紅玉の瞳はとても凪いでいた。天鵞絨のように艶めく夜色の肌と外套のフードから零れる漆黒の髪が、彼女の印象をより静謐なものにしている。
ロゼアの視線を感じたらしい。ツフィアがちらと一瞥を寄越し、軽く肩をすくめて見せた。
「……入れないこともないのでしょう」
と、彼女は躊躇いがちに言った。先ほどの発言に説明を補足してくれるつもりらしい。
「けれど嫌われているのよ、わたし。王にね」
「……シア王に?」
「そう。……誰だって理由なく気に入らない人間のひとりやふたり、いるものよ」
あの王にとって私がそうであるだけ。
淡々と語るツフィアに悲嘆の色はない。けれど本当に理由はないのだろうか。
ロゼアが告ぐべき言葉を探しあぐねていると、ツフィアのまとう空気が柔らかいものになった。彼女はちいさく笑っていた。
「そもそもあなたの国の王とはそんなにかかわることもないのよ」
「帰省のときに会ったりは……ツフィアさんのご出身は?」
扉を用いて帰省するなら王とも顔を合わせる機会があるはず。そう思いかけたところで、ツフィアの生まれは砂漠でないのかもしれないと思いなおした。彼女の肌色が砂漠以外ではあまり見られない類のものであるから早合点したのだが、ナリアンの例もあることだし他国の出身である可能性も充分にある。仕事か、帰省か。砂漠に赴く理由がなければ、王に拝謁することもない。
「私は星降」
生まれも育ちも。
「両親は砂漠生まれだったと聞いているわ。絹綾物を扱う貿易商だった」
「お仕事の関係で星降に移られたんですか?」
「らしいわね」
「今も星降に?」
「いいえ。死んだわ」
思わず黙り込んだロゼアに彼女は微笑んで続けた。
「病気だったの。私が魔術師になったから保護されて、手厚く介護されて逝ったわ。もうずっと昔の話よ」
だから気にする必要はないと、ツフィアから暗に示される。
ロゼアが目をしばたたかせたときには既に、ツフィアは元も無表情に戻って前を見ていた。
その横顔を眺めながら、ロゼアは頬が緩んでいくのを感じた。
近寄りがたい雰囲気を持ってはいるが、彼女は決して排他的な人間ではない。会話が不得意な感は否めないが、それでも気を回してくれはする。
(……あぁ、なんだ)
パルウェの、言った通りだ。
『面倒見がいい子でね』
そうですね。
やさしいひとだ。
ただ少し、不器用なのだろう。
「……なに?」
ツフィアが不審そうな顔をする。
「何でもありません」
ロゼアは慌てて頭を振り、道案内の役目に戻った。
「……あ、そこの角を右です」
ロゼアとツフィアは日よけの布が張られた商店と商店の間の路地に入った。黄ばんだ土壁の足元で細かな砂が揺れ動いている。建物の影に入っているせいか風は涼しい。尾を身体にくるりと巻き付けた猫が壁際で臥せっている。渡された紐に吊るしてある洗濯物を押し退けながら奥へ奥へと進み――……辿り着いた場所は、四方を建物に囲まれた空地である。
位置的には住宅街の真っ只中。通常であればまず縁のない場所だ。
ツフィアはもちろん、ロゼアも。
けれどもここに、見覚えがあった。
ロゼアは立ち竦みながら呆然と呻いた。
「ここは……」
ところどころが基礎近くまで倒壊している壁に四方を囲まれた空地。天を仰げば四角に切り取られた青空が見える。地面を薄く覆う砂の上では、壁からこぼれた煉瓦の欠片が強烈な日差しに焼かれていた。