前へ / 戻る / 次へ

 息をする瞬間を待っている、宝石のように。すぅ、と光を孕んで爆発するようにきらめく瞬間を、メーシャはすぐ傍で見ていた。
「ロゼアちゃん……!」
「ソキ。ただいま。……メーシャ、ソキの相手してくれてたのか? ありがとう」
 ぱたん、とそこでようやく扉が閉じる。ほんのかすかな足音が部屋の前で立ち止まり、扉が内側に動いた瞬間に、もうソキがその名を呼んでいた為だ。ロゼアの、ありがとうな、と感謝を告げる言葉に生返事を返しながら、メーシャは少女の前にしゃがみ込んだ中途半端な姿勢のまま、まじまじとソキのことを見ていた。とても、数秒前とは同じ存在とは思えない。まるで人形のように愛らしい幼い少女に、命が通っている。指先まで瑞々しく鼓動を巡らせ、赤らんだ頬と唇はふわりと咲く花のようで、やや腫れぼったい目尻にも体温がよみがえって行く。整えられた砂糖菓子のような声が、甘くほろりと崩れて喜びを宿した。ロゼアちゃん、ろぜあちゃん。一心にその存在だけを見つめて、はちみつみたいな笑顔で囁く。
「ロゼアちゃん。あのね、ソキね、いいこで待ってたですよ!」
「……ソキ、椅子に座らせて行かなかったっけ?」
「諸事情により移動しましたですよ。フィオーレさんにひょいってされたです」
 遠回しに、自分からは動いていないことを主張するソキは、ロゼアに向かって両腕をあげてみせているだけで、今も自分からは立ち上がろうともしていなかった。ふーん、と納得しているような、していないような声で頷き、ロゼアは足早に部屋を横断すると、メーシャの隣で立ち止まる。ちょっとごめんな、という囁きは、恐らくメーシャに向けてのものだ。ひょい、とあまりに簡単に、あまりに慣れた様子でソキを抱きあげたロゼアの手が、少女の背をぽんぽん、と撫であやす。ソキはロゼアの首に腕を回し、体をぴったりとくっつけて、満足そうに肩に頭を預けてしまった。ふにゃあ、とソキの体から完全に力が抜けているのが、メーシャの目からも分かる。ロゼアはそのまま、立ったままでソキの額にてのひらを押し当て、数秒考えた後に熱は出てないな、と安堵したように呟いた。確認の後、ソファに戻される気配を察して、ソキの腕に力が込められる。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん。ソキ、やです」
「いやでも、メーシャとお話してたんだろ?」
「ソキは嫌だって言ってます」
 ぷー、と頬を膨らませて主張するソキに、ロゼアは困った様子でメーシャを見た。僅かばかり考えた後、ロゼアはソキを腕の中に抱いたまま、ソファに腰をおろしてしまう。肩に額をくっつけ、目をぎゅぅっと閉じて動きたがらないソキの髪を、ロゼアの指が梳いて行く。
「じゃあ、これでいいだろ? ソキ」
「……はい」
「ごめんな、メーシャ。普段はもうちょっと聞き分けてくれるんだけど……」
 するり、指から抜けて行くソキの髪を何度も、何度も掬いあげて梳きながら、ロゼアは困惑したようにぴったりくっついて離れない少女に、そぅっと声を吹きこんだ。
「眠いのかな。ソキ、眠い? それとも、おなかすいたか? なにか食べる?」
「……ソキは、ロゼアに会いたかったんだと思う」
 どうして、こんな簡単なことが分からないんだろう。いっそ不思議な気持ちで立ち上がりながら、メーシャはロゼアと視線を合わせ、きょとんとする目を覗きこみながら、言い聞かせるように繰り返した。
「会いたかったんだと思うよ。だから、離れたくないだけなんじゃないかな。……そうだよな?」
 ごくごくちいさなこどもに確認する口調に、ソキは声を出すのも出来ない様子で、こくこくと必死に頷いている。その目はぴたりと閉じられていて、すりよる体温と、あたたかな熱の匂いに意識を全て集中させているようだった。離れたくない、と全身で物語っている。そのことが、メーシャにはすぐに分かった。親から引き剥がされたこどものようだった。ようやく、拠り所へ戻れた、迷子のようだった。可愛いと思うと同時にどこか物悲しくて、メーシャは息をつめてソキのことを見つめてしまう。すん、と鼻を鳴らすソキが泣いているようで、メーシャまでくるしい気持ちになる。大丈夫だよ。もう、大丈夫なんだよ。そう言ってやりたくても、言ったとしても、きっとソキに言葉は届かないのだ。分かったから、言えない。
 きっとこの少女は、もたらされるなにもかもを信じない。受け取って、にっこり笑って、どこかへしまい込んでしまう。もしくは、繋ぎとめても、そっと空へ解き放つ風に紛れさせ、やがて告げられたこと自体忘れてしまうだろう。すこし話して、メーシャにはそれが分かった。ソキには鍵がかけられている。内側からも、外側からも。硬い錠。おおきな錠だ。それは冷たくて、熱くて、痛くて、悲しくて、今のメーシャには触れられない。それでいて、それは他者に対する拒絶ではないのだ。そういう触れあいしか、ソキにはできない。そういう風な形に、育てられてしまった。そのことを半ば意識していながら、根本的に本人が理解していない。言葉はなにも届かない。響いて響いて、消えてしまうだけ。
 けれども。それでも、響くから。響くのは分かったから、メーシャはゆっくり、それを口にした。
「大丈夫……って、ロゼアが言えば安心すると思うよ」
 届かないなら、届くように。花束を贈るような気持ちで、言ってあげて、と願うメーシャに、ロゼアがゆっくりと瞬きをする。なにを言われているのかよく分からない風に、ロゼアの瞳がソキを見つめた。ソキ、と囁くように名が呼びかけられる。ぱちりとようやく開いた少女の目が、じっとロゼアのことだけを映しだした。頬に手を触れさせながら、ロゼアは静かに問いかける。
「ソキ」
 一度だけ、名を呼ぶ。それが言葉の全てで、それこそがメーシャの言葉に対する問いだった。今も安心しきれていないのかと、問う。なにか不安になることがあったのかと、怖いことがあったのかと。そう、伺う声だった。ぱたぱた、まばたきをしたソキの目が、ロゼアを眺めて甘やかにきらめく。呼吸をする宝石の瞳。生ける喜びを宿す石。それこそが少女を『宝石の姫』と成らし得るうつくしさなのだと知らぬまま、メーシャは息を吸い込んだ。視線ひとつで物語る。命がけの愛おしさと、それを越す切なさ。ろぜあちゃん、とふわふわに解けた声が、青年を呼んだ。心の優しい場所、なにもかもを捧げるような、まるで無防備な響きで。
「……そんなことより。ロゼアちゃんは、なんの魔術師さんなんですか?」
 それなのに。一呼吸だけで気持ちを落ち着かせて、ソキはロゼアの問いを受け流した。なにがあったのかと、そう尋ねる意思に、肯定も否定も向けずに。言葉を返さないまま一方的に打ち切って、にっこりと笑う。返されない答えにロゼアの眉が寄るも、ソキはにこにこと笑うばかりで応えようとはしない。柔らかな風を抱く動きで振り返り、ソキがちょこん、とメーシャに対しても首を傾げた。
「メーシャくんは?」
「え……えっと?」
「メーシャくん。なんの魔術師さんで、なんの属性さんだったですか?」
 あ、あとメーシャくんも座っていいと思うですよ、とたった今思い出したように、ソキの手がぺちぺちとソファを叩いて着席を促した。どうあっても答えないつもりのソキの態度に、ロゼアが深々と息を吐く。その腕の中に甘えながらもちっとも気にした様子がなく、ソキはメーシャをじぃっと見つめたまま、ロゼアの隣に座ってくれるのを待っていた。怖々とした動きで腰かけながら、メーシャは思わず、ロゼアの肩に手を乗せる。なに、とばかり向けられる視線に、メーシャはなぜだか、心から言った。
「うん。頑張れ?」
「……いつものことだから。でも、ありがとう」
 ほんのりと浮かべられたロゼアの笑みに、メーシャは嬉しく微笑み返す。そのまま笑いあう二人をきょろきょろと見比べて、ソキは分かりやすく唇を尖らせて、拗ねた。
「ふたりとも、なんの魔術師さんなんですか?」
「黒魔術師。属性は、太陽だって」
 そんなソキをたしなめるように、額をやんわり指先で弾いて咎めながら、ロゼアが言う。複合属性だったから、検査に時間がかかってしまったのだと付け加えながら、好奇心に満ちた目がメーシャに向けられた。問われる言葉より早く、楽しい気持ちでメーシャはそれを告げる。
「俺は、占星術師。属性は、月。俺も、複合属性だったけど、ロゼアより検査の終わりが早かったな。……なんでだろ」
「魔力量とか、制御力とか、個人差で色々調べることもあるみたいですよ」
 だから、単純に一般的な魔術師の適性だとか、単一属性だから早く終わるとかそういうことではないみたいです、とソキが言う。制御、と聞いた時にロゼアの腕が一瞬だけ震えたのに、すこしだけ不思議そうな顔をして。確か、と白雪の国で告げられた言葉を、そのまま繰り返した。
「問題児だったりすると、長くかかることもあるって言ってたです。……ろぜあちゃん、問題児さんなんです?」
「俺にそれを聞かれても……」
「でも、ロゼアちゃんは大丈夫ですよ! ソキがついていますからね!」
 えへん、とロゼアの腕の中で威張るソキの、なにがでもでなにが大丈夫なのかまったく分からない主張だったが、青年はもの慣れた様子で微笑み、頷いてやっている。大人の対応だ、としみじみ思いながら、メーシャはソキの顔をひょい、と覗きこむ。あどけなく見返してくる瞳に笑いながら、メーシャはごく当然の流れとして、ソキは、と問いかけた。
「ソキは、なんの魔術師なんだ? 学園に来るまえに検査が終わってるって聞いてたけ……ど……?」
 言葉の途中で、ものすごく嫌な顔をされたので、メーシャは訝しく語尾を掠れさせた。なにがそんなに嫌なのかメーシャには分からないのだが、ロゼアにも理解してやれなかったらしい。ソキ、と不思議そうに問いかけられるのに今度は息を吸い込み、少女はもそもそと呟いた。
「ソキ、風属性の……予知魔術師です」
「予知魔術師?」
「はい」
 おうむ返しに問うロゼアに、ソキはこくりと頷いた。それきり言葉はなく俯かれてしまったので、メーシャとロゼアの間で視線が交わされる。飛び交う声もなく、しばし。まったく分からない、という響きで問いかけたのは、ロゼアだった。
「って、なに?」
「……ふえ?」
「なにすんの? それ」
 メーシャも、ロゼアも、なんとなくその名を聞いた覚えはあるが、それだけである。検査前の説明にその単語が混じっていた、気がする、くらいの認識しかない。魔術師の門は開かれたばかりで、まだなにも知識がないからだ。間の抜けた声をあげたソキだけが、それを分かっている。えっと、と言葉を探しながら、ソキの手がロゼアの服を掴んだ。
「……言ったことが」
「うん」
「ぜんぶ。……かなう、です。ソキの言ったこと、全部、予知になるですよ」
 そういう魔術師です。たどたどしく告げたソキに、ロゼアの眉がきゅぅと寄る。びくりと震え、離れてしまいそうになるソキの手を上から包んで、押さえながら、ロゼアはソキの目を覗きこんで言った。
「なんでも?」
「はい……なんでも、です」
「そっか。……駄目だからな、ソキ」
 なにがですか、と問い返すより早く。たしなめるような青年の声が、場の空気を震わせた。
「ソキはピーマン食べなくて良いです、とか言い出さないこと」
「ちがうんですよロゼアちゃんっ! ソキがピーマン嫌いなんじゃないですっ! ピーマンがソキのこと嫌いなんですっ! あとそういうことじゃないですっ!」
「えっ? ……あ、じゃあ三冊読まないとソキは寝ないことにします、とかか? 一冊目で寝ちゃうんだから、そういうことに使うのもいけないと思うぞ?」
 ごくごく真面目に言い聞かせるロゼアに、ソキはだってロゼアちゃんの声聞いてるとソキは眠くなっちゃうんですよ仕方がないことなんですっ、と主張したのち、断崖絶壁を見下ろしている表情で、あとそういうことでもないです、と付け加えた。二人のやり取りを見守りながら、メーシャはなんだかほのぼのとした気持ちになってくる。なんだこの二人、すごく面白い、という気持ちで見守るメーシャの前で、ソキがなにかを諦めた表情でふるりと首を振った。目の光がやや濁っている気がした。
「そうでした……ロゼアちゃんは、そうでした」
「なにが?」
「もう、ロゼアちゃん? ソキねえ、いつまでもちいさいこどもじゃないですよ?」
 でもピーマンは食べません絶対に嫌です、と主張するソキの頬をむにむにと手で触って溜息をつきながら、ロゼアはそうだなぁ、とのんびりとした声で言った。
「ソキ、もう十三だもんな」
「そうですよ!」
「じゃあ、もう寝る前に本読むの止めるか?」
 他の傍付き、そういえば十くらいで読むのやめてた気がするし。問いかけながら答えを待つロゼアに、ソキはちょっとなにを言われてるのか分からないですね、と言いたげな表情で口を開く。
「よそはよそ、うちはうちですよ、ロゼアちゃん」
「いや、うーん。でもさあ?」
「あ、ロゼアちゃん。ソキねえ、おなかすいてきた気がしますですよ」
 ごはんごはんと騒ぐソキに、ロゼアが嬉しそうな顔つきになる。じゃあなにか食べようか、とあっさり話題を変えたロゼアに、ソキが心からほっとした様子で頷いた。
「でも、あんまり部屋から……?」
 出たらいけないんじゃなかったっけ、と言おうとしたメーシャの鼻先を、ほわりと食べ物のにおいがくすぐった。不思議に思って目を向けた先、扉が開かれるのが見える。現れたのは、背の高い青年だった。やや顔色が悪いが、足取りはしっかりとしている。その両腕に、大きな皿が抱えられていた。白い大皿に乗せられているのは、たくさんのサンドイッチ。腕から下げられた保温瓶の中身は、スープかなにかだろう。暖められた野菜の良い香りが漂って来て、食欲をそそった。三人分の視線を受け、ナリアンは恥ずかしそうに微笑して、扉を閉めてしまう。そのまま足早にやや大きめの机へ歩み寄ったナリアンは、抱えてきた食料をてきぱきとした動きで並べ、満足げに頷いた。
 言葉を綴らぬ唇の代わり、向けられた瞳が意思を浮かび上がらせる。
『おまたせ。……おなかすいたでしょう? 皆の分も、もらってきたから。よかったら、一緒に食べよう?』
 もう夜も遅いからね、と微笑むナリアンの言う通り、時刻はすでに今日という日を三時間、残すばかりだ。通年通りなら十時くらいには入学式が始まるとのことだが、検査前に知らせがあって、すくなくとも一時間は普段の予定より遅くなることが知らされている。つまり、あと二時間は式がはじまらず、全てが終わるとなるともっと遅くなる。はじめて空腹を思い出したかのよう、腹を鳴らす青年二人に、どこか嬉しそうに笑みを深めて。ナリアンは、さあ食べよう、と言わんばかり、彼らのことを手招いた。

前へ / 戻る / 次へ