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 扉を開き、足を踏み入れた先は教会の身廊だった。え、と呆けた声をあげて振り返ったメーシャの視線の先、十数歩は離れた場所に閉まったままの扉が見える。ナリアンは眉を寄せ、三人を背に庇うように立ちなおした。ロゼアの腕が無言でソキの体を引き寄せ、抱きあげる。ふわりと靴底を床から離されながら、ソキは高くなった視界で惚れ惚れと天井を見上げた。抱きあげられてなお遠く、手を伸ばしても到底届かない高さに、白い石と古い木で組みあげられた天井がある。精密に設計され、形づくられた造形は全ての音を吸い込み、内包して、ざわめきながらも耳を冷やす静寂を奏でていた。息を吸い込み、抱きあげる腕に力を込められてはじめて、ソキはロゼアがひどく緊張していることに気がつく。
 両肩に指を触れさせ、額をそぅっと重ね合わせて。ソキはほんわりとした声で、ロゼアちゃん、と傍付きの名を呼んだ。
「大丈夫ですよ。『門』で移動して来たです。……ナリアンくんも、メーシャくんも。大丈夫ですよ」
 ソキねえ、三回目だからよく分かりましたです。突然、どことも繋がりのない空間にぽいと放り出される現状に、緊張しきる三人の視線を受けても、ソキは穏やかな気持ちを崩さなかった。たおやかな空気が満ちた場所で、親しい体温に寄り添い、抱きあげられた状態で守られているから、ソキが緊張する必要などなにひとつない。出てきた扉が見えないからちょっと分かりにくいですね、とほやほやした声で解説して、ソキはのんびりとあくびをした。談話室から出てまっすぐ進んだ先の扉は木の板ではなく、空間を歪めて接続する魔術具としての門だった。ソキがそれに気がつくことができたのは、ごく精密に編みあげられた魔術に触れる、単純回数の問題である。
 もしかしたら魔術師としての適性や、属性も関わる感知の能力なのかも知れないが、ソキはそれを『経験』として記憶し、覚えていたからあてはめられた。それだけのことだった。こういう、中途半端な位置に繋がっちゃう『扉』もあるですよ、きっと、と告げるソキに、ナリアンとメーシャの体からふっと緊張が解けていく。そっか、と安堵の囁きをメーシャが零しても、ロゼアはソキを抱きあげる腕を解こうとはしなかった。視線が鋭く辺りを一巡し、さらにもう一度円を描いてめぐってから、ようやくロゼアもソキの言葉を受け入れる。抱きあげられた時と同じく、無言でそぅっと靴を床につけられて、ソキはロゼアの服をぎゅっと掴み、よいしょと言って立ちなおした。
 旅の間はわざと意識から外して頑張っていたのだが、ソキはやはり、立つというのが苦手である。脚がなんとなく体重を支えきれていない気がするし、そもそも立ったり歩いたりということを、日常生活であまり行った記憶がないからだ。ふらり、ふらり、と揺れながら、んっ、う、とちいさく声をあげて安定しようとするソキが、いつ転んでもいいように、ロゼアは身構えて見つめている。ナリアンとメーシャも息をつめ、応援するように見守る中、ようやくソキは体重をどういう風に乗せればちゃんと立つことができるのか、というのを思い出した。息切れを起こしながら、なんとかまっすぐ立って安定したソキに、ナリアンが嬉しそうに拍手をしてくれる。気の抜けた笑みでナリアンに頷き、ソキはロゼアのことを見上げた。
 服を掴んでいた指から、そろそろと力を抜く。差し出された手に指を絡めて繋いで、ソキはじんわりと笑った。
「……行こうか」
 促すメーシャの声にこくりと頷き、ソキはそろそろと慎重に歩いて行く。じれったいくらいの速度だろうに、誰もそれに文句を言わなかった。翼廊へ辿りつくにも距離のある身廊の、天井へ伸びて行く壁の半ばからはステンドグラスになっていた。多くは絵ではなく精緻な模様を描くものだったが、よくよく見れば妖精の姿が隠れていたり、祈りを捧げる魔術師らしき人物も見つけることができる。肺の奥まで息を吸い込み、ゆったりと吐きだす流れに乗せて、ナリアンが意思を伝わせた。なにかに、打ち震えるような意思だった。
『大戦争時代の……魔法使いだ』
「分かるのか? ナリアン。……もしかして、詳しい?」
『分かる、と言えるほどは知らないよ。でも、うん、そうだね……すこしだけ、この建物がなんであるかくらいは分かった、かな』
 教会だよな、と首を傾げるメーシャに、ナリアンは穏やかな仕草で頷いた。言葉より雄弁に意思を伝え、読みとる瞳がそろりと天井の高くまでを見上げる。吸い込む息を吐き出すことすら、惜しむように。震えながら吐息を送る唇が、言葉に動くことはなく、魔力を伝わせた。
『大戦争が終わり、世界が分割された後に建てられた……廟だよ。祈りの為の教会で、廟。……お墓なんだ』
 白雪の国にあった筈のものだよ。そう、意思を乗せて息を吸い込み、噛み締めるように吐き出して。ナリアンの、泣きそうにうるんだ瞳が、気高いまでの美しさを描くステンドグラス、その複雑な模様を眺めやる。
『利用され、迫害され、死んでいった。ただ、道具みたいに扱われた魔法使い。魔術師たちの……服の一部や、髪の一筋。砕けた骨の欠片や、残された手紙。なにも残らず、残さないで、消えるように死んでいった彼らの……残り香を、ほんの僅かな存在の証明を、世界中からかき集めて。守ろうと、してくれたんだ。安らかで、静かな眠りに魂がまどろめるように。もう、世界のどんな意思も、彼らを傷つけはしないようにって。……でも、火が放たれた。何度も、何度も。魔術師の報復を、呪いを……怖がったひとが、やさしい祈りの形さえ消そうとしてしまった』
 時の施政者たちは、それでもこの場所を守ろうとしてくれたけど、上手くは行かなかったみたいで、と。思い出を辿り、文面を読み上げるように伝えられる。
『そして、ある日突然、忽然と……その廟は消えてしまった』
「建物ごと、周囲の土地の一部も含めて、移動させたんだよ」
 はっとして四人が視線を向けた先、いつの間にか辿りついていた翼廊の先、丸天井の広がる聖域に、星降の国王が立っていた。
「ナリアンは物知りだな。……俺からすこしだけ捕捉してやるとするなら、この場所の移動は各国の王たちが協議を重ねた上で、当時すでに存在していた学園に隣接する形での移動が決定された。大戦争が終わって、ちょうど百年。……百年も経過して、でもまだ、たったの百年で。向こうの世界が受け入れるには、きっとすこしだけ早かったんだ」
 さあ、こちらへおいで、魔術師のたまごたち。立ちつくす彼らを手招いて呼びながら、空気を震わす囁き声で、星宿す王が告げて行く。
「これをそっくりそのまま転移させてくれたのは、お前たちが今通ってきた『門』を作った空間魔術師と同じヤツだよ。魔術師っていうか……魔法使い、かな。それからずっと、この建物はここにある。普段は使わないけど、出入りは自由だから。好きな時に来ればいい」
 この場所は魔術師の共有財産で、誰のものでもないけれど。ふふ、と吐息に乗せて笑って、星降の国王は四人のことを見つめている。
「今、この時だけは……お前たちのものだよ。一生に一度、このひとときだけ。魔術師の祝福の為に、この場所はあるのだから」
「……しゅくふく」
「うん。……おいで、ソキ。ロゼア、メーシャ、ナリアン。俺の近くまで、歩いておいで」
 ずっとそうして旅をしてきたように。その、二本の足で。最後の旅路、ほんの数歩の距離を、歩いておいで。丸天井の下で待つ王の招きに、メーシャが引き寄せられるように歩んでいく。ゆったりとした動きでロゼアが後を追うように歩き出し、ナリアンもまた続いて行った。数歩、歩いて立ち止まり、ソキは言い知れない不安に大きく息を吸い込んだ。立ち止まってしまって、これ以上は歩けないような、そんな気持ちになる。空気はひどく冷えていて、圧迫していて、急に息が苦しい。怖い。ぞわぞわと背をかけのぼって行く不安と、臓腑を撫でられるような不快感。泣いてしまいそうな怯えに、静かな声が大丈夫、と告げる。星降の国王はただ招き、そこから動くことはせず、声だけで道を指し示した。
「見上げてごらん、ソキ。上。……これが、お前たちに開かれた世界だよ」
 暗闇に差し伸べられた男のてのひらが、舞うように動かされる。そのてのひら、指先へ。するりと降りてくるように、零れてくるように、それでいて、立ち上って行くように。とうめいなひかりと、火の粉のような淡い輝きが、見えた。輝きはひとつ、視線を導くように上へ上へとのぼって行く。それを追いかけて顔をあげ、ソキは息を吸い込んだ。そこに、空が、あった。円天井の内部に、色硝子で空が描かれている。時計回りに紫黒から濃淡を変え、じわりじわりと瑠璃を抱いて白磁に染まり、やがて蘇芳を孕んではまた深く、黒く青くゆらめく夜に、色彩がぐるりと巡って行く。一日の、時のめぐり。それを留め、描かれた空。ひらかれた世界。言葉が耳の奥でわん、と反響し、一粒、涙が零れ落ちて行く。
 深く、深く、澄んだ夜に。外では星が瞬いているのだろう。色硝子を透かして降り注ぐ光は、祝福のように場をやさしく照らし出していた。その輝きこそ星のようで、うつくしい灯篭に燈された火のようだと思う。怨嗟の声を焼きつくす炎。利用され、迫害され、全てが終わった後にさえ排斥された魔術師たちの、呪いの意思を清め蘇らせる火だ。その火の熱。懐へ抱き、守ろうとする意思の名を、ソキは知っていた。先程も、それに確かに触れていた。息を吸い込む。ひかりを抱くように、両腕を伸ばして円天井を見上げた。
「……愛してくれて、いるですね」
 目覚めたばかりの、予知魔術師の声だった。確かな結果を導く囁きが、降り注ぐ意思を読み解いていく。
「世界中の、ひかりが……ソキたちを、愛してくれているんですね」
「……魔術師が生きるのに、この世界はまだ厳しいよ」
 やさしい世界はいつか訪れるかもしれないし、そんな日は来ないのかも知れない。俺には分からないよ、努力は諦めずに重ねるけれど。告げながら、ようやく歩み寄ったソキに微笑み、星降の国王は言った。
「それでも、魔術師として目覚めた希望を……どうか、心の中へ宿して、生きて欲しい」
「……はい」
「入学おめでとう。……俺は、ここで、ずっとお前たちのことを待ってたよ」
 魔術師として、そのたまごとして目を覚ましてしまうずっと前から。ずっと会いたくて、ずっと、会えると信じて。この場所から見守っていたよ。そう囁く星降の国王に、メーシャがやや目を見開いた。ずっと、と零れる言葉に、王は頷く。伸ばされた手は優しく、メーシャの涙を拭って行った。頬を包んで、引き寄せられる。歯を噛んで嗚咽を堪えるメーシャの顔を覗きこみながら、星降の国王は静かな声で言った。
「……お前がなにもかも断ち切って、そうして全て守ろうとした時も。俺はお前のことを知っていたよ、メーシャ」
「っ……!」
「名前は知らなかった。どんな顔をしてるのかも、どこに住んでなにをしているのかも。年齢も性別も、なにもかも、知らなかったし俺には分からなかった。でも……でも、いつかここで、お前に会えるのを、俺はちゃんと分かってたよ。迎えには行けないけど。ここで待つことしかできないけれど。確かにここへ辿りついて、こうして会えることを、俺はずっと知っていたよ」
 メーシャの手が震えながら伸ばされ、王の腕をすがるように掴んだ。宥めるような微笑みを浮かべたまま、穏やかな声がついに、それを告げる。
「お前の孤独に祝福を」
 魔力の滲む囁きは、祝福の魔法そのものだった。親愛によって恵みを与え、救済に満ちた力を分け与えて行く。囁きに魔力が溶け、触れられた箇所、吸い込む吐息から全身へ広がって行く。飲みこむ、あたたかな水のように。全身の隅々にまで、奥深くにまで広がって、染み込んで、溶け込んでいく。もたらされるのは、送られるのは、比類なき祝福と無条件の愛情だった。陽が昇るのと同じこと。風が吹き、火が燃え、水が流れ、地が花を芽吹かせ。繰り返し、繰り返し、夜が星を輝かせるのと、ただ同じ。めぐる愛情。その愛こそが、祝福。
「メーシャ」
 声もなく。涙を零すメーシャの頬を両手で包み、撫でながら、星明りのような声で王が笑う。
「昼の陽の中では木漏れ日になり、夕闇の中では虹色の輝きに、夜の藍の中では星のように煌き、火のように揺らめき、あたたかな、力強い、導きのひかりにお前はなるだろう。輝けるもの。誰かはそれを希望と呼ぶかも知れない。勇気や、意志。祈りと、そう名をつける者もあるだろう。お前は恐れながら進むけど、迷うことはない。足を進める方向を、己が進むべき、進みたいと心が願う方向を、お前は知っている筈だよ。疲れに、怖さに、立ち止まってしまった時は目を閉じて考えてみればいい。瞼の裏側にひかりがある。お前のひかりだよ。そして、お前を愛おしく思う者たちのひかりだ。お前が大事に想い、お前を大事に想う者たちのひかりだ。……そして、いつかお前は知るだろう。失ってしまったものなど、なにひとつないこと。全部、全部、お前の所へ戻ってくるよ。大丈夫。……だぁいじょうぶだよ、メーシャ。さあ、手を貸してくれな」
 この言葉と、これで入学の儀式はお終い。囁いて、王はメーシャの手の甲にそっと唇を押し当てた。右手にも、左手にも、一度ずつ。右手だけはくるりとひっくりかえし、てのひらにも祝福が落とされる。吐息を肌に掠めさせてから離れ、王はメーシャの肩をぽんと叩き、近くの長椅子に座らせてから離れる。すこし、考える間があったのち、てのひらが誘うように空へ出された。
「じゃ、次はロゼア。おいで」
「……はい」
 ややぎこちなく、緊張した面持ちでロゼアが一歩前へと踏み出す。そのまま手招かれるのにふらりと、足を進めて王の前に立ち、ロゼアは困惑したように眉を寄せた。
「あの」
「んー?」
「メーシャに言ってたみたいなこと。……もっと分かりやすくとか、お願いできませんか」
 ロゼアが視線を流した先、メーシャは告げられた言葉について考え込んでいるようだった。目を伏せ真剣な表情になりながら、ようやく落ち着いてきた呼吸を繰り返し、涙の止まった目元を指で拭っている。ロゼアの求めに、王はうん、と困ったように首を傾げる。そうしてやりたいのはやまやまなんだけどさ、と言いながら、国王はロゼアの腕に指先を触れさせた。
「俺の意思は関係ないんだよ、太陽のつるぎ。……俺の意識、記憶、経験、思考、感情。そういうのは、俺のいう言葉には関係ない。俺の意識は確かにここにあるけど、言葉は俺が紡ぐものだけど、なんて言ったらいいかな……お前に告げる言葉に、俺という個は介入しないし関係がないから、俺がどうしてやることもできないんだよね。一番素直に言うと、それは無理だから諦めてな。それで、意味は自分で考えて欲しい。分かんないトコがあったら、俺も後で一緒に考えてやるから。相談にも乗るから、気軽に俺に会いにおいで。……ロゼア、お前の虚無に祝福を」
 指先だけ。人差し指と、中指。二本の指でだけ触れられた腕から、祝祭の楽音を奏でるような、華やかでうるさい程に意識を揺らす魔力が、ロゼアの中に流れ込んでくる。目は閉じていて良いよ、と王は笑った。
「強すぎる光はお前の目を焼き、暗闇へ閉じ込めるだろう。その中では眠りを促す声と、目覚めを泣き叫び乞い願う声が響き続けている。どちらを選ぶかでお前という剣の主が入れ替わる。お前の意思はそこに介在しない。お前は鞘を盗られて壊されてしまった。抜き身であることの恐ろしさを、けれどお前はもう知ってしまったね。……お前の生まれ持った鞘はもう存在しないけれど、それを蘇らせることは出来る。それは今度こそ、失われることも奪われることもない。太陽のつるぎ。お前もまた、ひかりだ。夜に輝くひかりではなく、暗闇を引き裂いて行く強い閃光だよ。恐怖は常にお前に寄り添い、歩む足を奪おうとするだろう。でも、お前は前へ行く。一歩でも歩けば、希望がお前の手を引き、風が背を押すだろう。その先で手を伸ばせば、失われぬ鞘が腕の中でよみがえる。決めるのはお前だ。諦めるな。……枯れた井戸の水も、そうすれば戻るよ。お前の水は今も満ちている。それに目隠しされているだけだね……ロゼア、目を閉じたままでいて」
 瞼に、そっと温もりが触れて離れて行く。もう開けてもいいよ、と告げながら、王はロゼアの胸元に身を寄せた。服の上から、心臓の真上に祝福を送る。考えながら唇に指先を押し当てた王が、ちゅ、と音を立てて指先を振った。口付けを投げたのはロゼアの脚の下あたり。戸惑うロゼアに、はいおしまい、と朗らかに言って、国王は背伸びをしてわしゃわしゃと頭を撫でてくる。
「いいこ、いいこ。頑張るんだぞ」
「……あの、こどもあつかい、やめてもらえませんか」
「心から全力で断る」
 にっこぉ、と笑みを深めて好き勝手に恥ずかしがるロゼアを撫で、あああああっ、と羨ましそうな声を上げるソキにしぃ、と唇に指先を押し当てて笑んだあと、王が手招いたのはナリアンだった。ふらり、メーシャの隣に座りに行くロゼアを、どこか不安げな眼差しで見送るナリアンに、王はくすくすと笑みを零す。その幸福な響きに視線を向けるナリアンの瞳を、下からそっと覗きこんで。王はごく柔らかに、目を細めて囁いた。
「哀切……哀惜かな。ナリアン。お前の哀惜に祝福を。意志なき風に宿る意志、世界を巡る魔力そのものに愛を向けられたお前の、失われ弔われ、それでいて残ってしまったその悲しみに安らぎあれ」
 どこか眠たげに、はたはたと、瞬きを繰り返しながら王はナリアンをじっと見ていた。
「花だな、お前は。巡り廻り、どこまでも強く吹きぬけて行く風でありながらも、地に根付き太陽に芽吹く、ひかりによって目を覚ます花。幼い悪意に踏み荒らされ、花であることを忘れた風。花を散らす風でありながら、花を守る風にもなる。ひとの背を押して行く風で、ひとの心に咲く花だ。お前は吹く先を、巡る先を決めなければいけない。お前を守る大地はすぐ傍に、お前が芽吹く為の種は愛によって守られている。でも、今のままでは決して芽吹かない。強く吹く風はあらゆるものをなぎ倒すだろう。でも、それがお前だ。……淀んだ空気はお前なら吹き飛ばせる。繋ぐ鎖も砕く風。暴風こそお前の力。荒れ狂う力はお前の友。恐れず、厭わず、あるがままに生きろ。その時こそお前は風となり、その時こそお前の花は咲く。花にはたくさんの名前がつくだろう。けれど、ナリアン。お前はもうその名を、響きを、知っている筈だよ。……えーっと、じゃあどうしようかな。とりあえずアレだ、屈め」
 最後ののんびりと考え込みながらの求めにだけ、王の意識が乗せられているようだった。まったくなにを言われていたのか分かりません、という表情をしながら、ナリアンはそろそろとしゃがみ込む。これでいいですか、とばかり見上げてくる視線に心からの満足で頷き、王はナリアンに唇を寄せた。額と鼻梁に口付けたあと、左手を持ち上げて指先にも唇を寄せる。そしてぽい、とばかりに手を開放すると、立っていいぞ、とナリアンの肩を叩いた。
「これでおしまい。……ソキ、おいで」
「……はい」
「なんていうか……男共のあとだと、ソキ、ちっちゃいな」
 こいつらと会話してて首疲れたりしないの、としゃがみこんで尋ねる星降の国王に、ソキはえへんと胸を張って言った。
「今のところ、ロゼアちゃんが抱っこしてくれているので、ソキは大丈夫なんですよ!」
「抱っこされないでもいいようになろうな。しゃがんでもらうとか、屈んでもらうとか」
「考えておきますです」
 遠回しかつ迅速なお断りします、に王は柔和な微笑みのままソキの額をぺちんと叩いた。
「まったく……。ソキ、お前の枯渇に祝福を」
 額にてのひらを押し当てたまま、王はじっと見つめてくるソキの目を覗き返している。
「ひかりの前では煌き、闇の中では夜の一色に。風と共にあれば流れ、太陽の元では濃い影を落とす。鏡の反射で、それでいて違う。万華鏡と虹の七色。くるくると色を変え形を変え、決して安定しない。目に見えるのに決して触れさせない。蜃気楼で、水鏡。映し出すだけで、どこにもいない。……まだ、閉じ込められていて、お前は眠っている。鍵のかかった部屋の中。外側の鍵はお前を閉じ込め、内側の鍵がお前を守っている。閉ざすことでしか守れない。……やがて、部屋にはひかりが降り、風が吹くだろう。外の太陽を迎えに行く為に、お前は鍵を開けなければいけない。外側の鍵は壊していきな。それはいらない。お前には必要のないもの。……ひとりきりで立ち上がり、ひとりきりで歩かなくてはいけない。恐怖と痛みがお前の足を止めるけど、歩き出す勇気をくれる者がいる。恐怖と、痛みは消えない。それでもお前は歩かなければ。そうすれば、ようやく、お前は自分のかたちを思い出せるよ。万華鏡。虹の七色。砕けたものが、本当はなんだったのか。……はぁ、今年はなんか多くて疲れた……。ソキ、首出して。ぐーって上向いててな」
 言われるままに首を出したソキに、王はやんわりと身を寄せた。首筋、特に喉のあたりに唇を押し当て、そのまま髪に口付ける。胸元には口付けを指で飛ばして対応して、最後に頬に触れて、離れた。くすくす、くすぐったげに笑うソキに、おしまい、と王は囁いた。
「おつかれさま。……これで、入学式、おわりな」
「……ふえ?」
「おわり。……入学式っていうか、入学する為の儀式、略して入学式なんだよな。だから、これでおしまい。……改めて、学園へようこそ、魔術師のたまごたち! これで晴れて学園の生徒なんだからな! しっかり勉強して、一人前の魔術師になっておいでな」
 お前たちの成長を祈ってるよ、と笑いながら、星降の国王は立ち上がり、疲れた様子で伸びをした。どこか現実味のない様子で、ソキが王から数歩、離れる。その肩を支えるように、ロゼアの手が触れた。振り返れば座っていた筈の三人は立ち上がっていて、まっすぐな目で星降の国王を見ている。にっこり笑いかけてくる王に、一息の間があって。ありがとうございました、とロゼアが囁き、きれいな仕草で頭を下げた。二人も同じようにお礼を口にし、深々と頭を下げる。ソキはそれを、じっと見ていた。見て、それから王へ向き合い、同じように頭を下げる。一礼してから持ち上げた視線は、星降の国王と、その背後に広がる円天井の空を見ていた。広がる時の巡り。それを開かれた世界だと、王は告げた。魔術師に対して開かれたこれが、世界の形なのだと。ぐるりと円を成す色彩。うつくしい時の流れ。ひかりの煌き。それに、自然に笑みを浮かべながら。
 ちいさな声で、ソキは、ありがとうございますですよ、と言った。

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