迎えの魔術師に引きずられるような形で、星降の国王は身廊の奥へと消えて行った。ソキたちがやってきた方角とは違うので、身廊毎に行き先の違う『扉』があるのかも知れない。いつでも会いに来てくれていいんだからなあぁっ、と心底それを願っているようにしか聞こえない涙声を最後に星降の国王の気配がふつりと途切れた後、場に揺らめいたのは不自然なまでの警戒だった。とっさにメーシャとナリアンが視線を向けたのは、ややぼんやりとした顔で立つソキである。のたのた、瞬きを繰り返しながら、ソキはなにか思いつめたような、それについて考えているような雰囲気で視線を床に落としていた。どうしたのだろう。思って、ナリアンやメーシャが問うよりもはやく、少女を呼ぶ声があった。
「ソキ」
そう言うことを、まるで決めていたかのような顔をして。それでいて、ごく自然に。ロゼアはいつの間にか、すこしだけ離れた場所にぽつんと立っていたソキに歩み寄りながら、ふらり、ふらりと安定しない視線を覗きこみ、囁く。
「おいで、ソキ。もういいよ」
許し、逆にそれ以上続けることを咎めるようにも響いた、声だった。どこか怯えるように、無言で両腕をもちあげたソキに手を伸ばし、ロゼアはひょいと少女の体を抱きあげてしまう。無言で強くひっつかれるのに、ロゼアは笑んで、ソキの背をそぅっと撫でた。
「よくがんばったな、ソキ。……脚痛くないか? 落ち着ける場所に行ったら、筋を痛めてないかも確認しような」
「……ソキ、丈夫なんですよ」
「うん。うん、そうだな」
ぽんぽん、ぽん。なんの為にか棘だっているソキの意識を宥めるように、何度も、何度もロゼアの手が背をやわりと叩き、撫でさすって行く。ぐずる赤子をあやすのによく似た仕草でそうしながら、ロゼアはごく自然な様子で身を翻し、ぎこちなく見守る二人の元へ歩いてきた。目の前で、立ち止まる。ええと、となにを言えば良いのかも分からないメーシャにゆるく苦笑して、ロゼアはソキを抱き直して告げた。
「ソキはあるけないんだ。完全に、できないって訳じゃないけど。長くはあるけないし、ずっと立つのも難しいんだよ」
「え、そうなの?」
「うん。ソキは……『花嫁』だから」
メーシャの問いは二人に向けられたものだったが、声を返したのはロゼアだけだった。ソキは変わらずロゼアに体をぴったりとくっつけているだけで、身じろぎ一つしない。張り詰めた警戒も、緩んではいないようだった。ロゼアにも、それは分かっているのだろう。不思議そうな顔をしながら背に触れ、髪を撫で、ソキ、と囁いて顔をあげるように促している。いやいや、ちいさく首がふられ、言葉にならない声でむずがった。
『……ソキちゃんは』
それに、さてどうしようかと悩むロゼアに、唖然とした意志を響かせたのはナリアンだった。
『結婚してた、の?』
「え?」
『え?』
きょとん、としたロゼアと、びっくりしているナリアンの視線が、まっすぐに交わされる。ん、とぎこちなく首を傾げたのは両方だった。なにかが決定的に食い違っていて分かり合っていないのだが、お互いに、それがなんなのか、ちっとも理解できていないらしい。間にいたからこそ分かって、メーシャはそっと手をあげて発言した。
「花嫁って、言っただろ? ……花嫁さんって、結婚する女のひとのことをそう呼ぶんじゃ、ないのか?」
「……ああ」
数秒考えて、ようやく、ロゼアはその差異を理解したらしい。納得した呟きを発して、ひとつ、頷く。
「そうじゃなくて、ソキは『砂漠の国』の」
「ソキは」
花嫁だから、と続いて行く言葉を。他ならぬ少女が断ち切った。
「もう一生、誰とも、結婚しません。……しなくてよくなったんですよ」
「うん。……うん、そうだな」
「そうなんです。あと、ソキはまだ結婚してなかったですよ、メーシャくん」
そこだけは、どうしても、訂正しておかずには居られない。そう言いたげな様子で顔をあげたソキはロゼアの腕の中で身をよじり、近くに立つメーシャのことをじっと見つめた。張り詰めた意志があった。なにかを、考えているようだった。ソキ、と不思議そうにロゼアが呼ぶと、なぜかその警戒が強くなる。なんだろう。なにかしてしまっただろうか、と思いながら、メーシャは怖々と息を吸い込んだ。なににせよ、伝えたい、と思うことがひとつだけある。ソキ、と呼びかけると、少女は素直な響きではい、と答えた。返事があることにほっとしながら、メーシャは心からの気持ちでそれを言った。
「ごめんな」
ぱちん、とソキが瞬きをした。灯篭の中で火が目を覚ますように、瞳の中で光がくゆる。息をすることを思い出したかのように、ソキの瞳に感情が現れた。ぱちぱち、瞬きをしたソキが、不思議そうに首を傾げた。なにがですか、と問われるより早く、メーシャはそっと言葉を贈る。
「さっき、ちょっと厳しい言い方しちゃったから、さ。歩かないと、いけない、とか。……歩くの、大変なんだろ?」
「ソキ、ちっとも気にしていませんですよ? メーシャくんは、ふつうのことを言ったです」
「……ん?」
あれ、じゃあ、どうして。警戒されている風なんだろうか、と。思わず疑問に満ちた声をあげると、ソキはじぃっとメーシャの目を覗きこんだ。じぃっと見て、考え込みながら、ソキは怖々と唇をひらく。
「……じゃあ」
ちいさな、ちいさな、囁きだった。
「めーしゃくんは、じゃあ……」
「うん?」
「……ろぜあちゃん、とらない、です? ごめんなさいって、言ったですから、もう、ろぜあちゃん、とらない?」
ソキの手が、震えながらロゼアの服を掴んでいる。それを見て、あ、とメーシャは気がついた。知らず、高揚していた気持ちを落ち着かせるように、すとんと答えが落ちてきた。そのちいさな手に触れて、ロゼアから離し、ナリアンに渡したのはメーシャだった。談話室から、入学式が行われる教会へ行く途中に。ロゼアの腕の中で夢とうつつを彷徨っていたソキを、結果として床に立たせ、ナリアンに手を引いてもらって先へ行かせた。ロゼアの具合が悪く見えて、心配になった為だ。体調を問う言葉に、ロゼアは大丈夫、と答えたけれど。眠っていたソキは、果たして彼の僅かな不調に気が付いていたのだろうか。言葉を探して、上手く見つからず、それでも告げずにはいられずにメーシャは口を開いた。
「……とらないよ」
喉の奥に引っかかって、感情も声も言葉も、上手く形にできない。息を、吸い込む。一度目よりは楽に、声が出て行った。
「そういう意味で、ソキをロゼアから離した訳じゃないんだ」
適性検査から帰ってきたロゼアに抱きあげられて、あんなにも離れたくない、と訴えていた姿を見ていた筈なのに。申し訳ない気持ちで、メーシャはソキの髪に指先を伸ばした。すこしでも、ほんの僅かでも警戒が残っていれば、触れられることを拒絶されれば、きっとこれが最後になるだろう。そっと、触れる。ソキはようやく緊張の解けた様子で、メーシャの手指を受け入れた。目を閉じて、すり、と触れる指先に肌を懐かせて甘えてくる。ラティ、と何故か、メーシャは己の保護者のような女性の名を胸中で呼んだ。同時に、強く、ルノンに会いたいと思う。兄のような、親友のような、案内妖精としてメーシャをこの場所まで導いてくれたルノン。彼になら話せるだろうか。分かってもらえるだろうか。指先にからむ、くすぐったいような、ひんやりとしている糸のような、途切れてしまった淡いひかりのような。心にある、この感情の名前を、彼ならば。
ソキ、と名前を呼ぶ。少女の目が、メーシャのことをしっかりと見た。緊張も、警戒も、すでにどこかへ消えてしまっていた。そうしなくていいのだと、安心した眼差しだった。なあに、と問うような表情に、メーシャはソキを撫でながら言う。
「……ロゼアの、具合が悪いみたいに見えて。だから、あの時、ちょっとだけ離れてもらったんだよ。ごめんね、ソキ」
「ロゼアちゃん、具合悪いですっ?」
大慌てでもちゃもちゃと身動きし、ソキはメーシャからロゼアへ意識の全てを移動させた。思い切り苦笑しているロゼアに、ソキは両手を伸ばして頬に触れた。ぺたぺたと触って熱を確かめながら、不安げに問う。
「ロゼアちゃん、どこか苦しいですか……?」
「あの時は、すこしだけ。……でも、いまはもう大丈夫だよ。ごめんな、メーシャ」
「うー、うー……ロゼアちゃん、あのですね。ソキのガッツと根性はもすこしだけいける気がするですよ?」
でも離れたくないです、と言わんばかり、ソキはひしっとロゼアにくっついたままである。大丈夫だから、と言い聞かせ、ロゼアの手がソキの体を抱きなおした。ソキから降ろして欲しい、と言われない限り、ロゼアにそうするつもりはないのだろう。ソキにもそれが分かったのか、くたりと体から力が抜ける。ぽんぽん、とソキの背を撫でて、ロゼアはさて、と呟いた。
「移動しようか。……と言っても」
どこへ行けばいいのか分からないけど、とロゼアが言うのと、遠くから駆けてくる足音が聞こえたのは同時だった。ロゼア、メーシャ、ナリアンは揃って視線を見交わし、それとなく笑いあうと、その足を教会の出入り口へと向かわせた。荘厳なつくりの扉を押し開けば、息を切らして立つ青年の眼差しが、よろこびを宿して四人を出迎える。
「おつかれさまです、魔術師のたまごたち」
そう微笑んで告げたのは、学園の入り口でソキを待っていた青年。副寮長と名乗った年若き男だった。ソキが目を瞬かせるのと同時、メーシャが、あ、と不思議そうな声をあげたので、もしかすれば彼の案内もこの青年であったのかも知れない。副寮長はそれぞれに親しげな笑みを向けると、己の顔の高さまで灯篭を持ち上げ、ひかりに目を和らげてそぅっと言葉をはきだした。
「式は終わったようですね。これで、君たちは晴れてこの学園の生徒。そして、俺たちの後輩です。……眠たくて疲れているだろうけれど、もうすこし、付き合って下さいね。寮まで案内します」
建物はすぐそこだけれど、この場所は慣れないうちはどうしても怖いだろうから、そう言ってゆったりとした足取りで歩き出す青年の背を己の足で追うことなく、ソキはロゼアの腕の中から、教会の外に広がる景色を見た。暗闇の中なのでそうよく分かりはしないが、広い公園か、あるいは林の中のようだった。拓けた森の中へ抜け出してしまったかのような風景だった。広々と夜に染め上げられた空間に木々があり、その中に建物が点在している。歩く道を示す為なのか、均された土の上に煉瓦が敷かれ、建物と建物を繋ぐ道となっていた。木々は観賞用に植えられているとするよりも、自然に、まばらに生えた森を連想させた。それでいて、ある程度ひとの意志が関与している。自然を生かし、それでいて手を加えた空間の中に、そのまま建物を持って来た。そんな印象のある空間だった。不思議な落ち着きと、温かさを感じさせる。
今は黒く塗りつぶされ、遠くに星明りを見るだけの夜空も、多い茂る緑の隙間から窺い知るばかりである。建物も、そこへ繋がっていく道も、木によって外部から切り離され、隠されている。それでいて閉鎖感がないのは、木の生え方に密度がないからだ。木は自然の生え方を意識して成長させられながら、ごく慎重に間引かれ、整えられているのだろう。目線の高いナリアンの顔や手にぶつかってしまう高さに枝はなく、人に害のある草花がある風には見えなかった。もっとも暗闇の中であるし、真剣に確認した訳ではないので見落としもあるだろうが、手の付けられていない自然の中に放り込まれた印象はない。恐れる程の闇に目と意識が慣れてよく見れば、遠くに見える建物と、そこへ繋がっていく道の間には、ほわりと浮かぶ火の灯りが見えた。星明りが届かぬとも、あわい輝きが空気を染めているのは、その為だった。
目をすがめたメーシャが、灯篭が下げられてる、と呟いた。木の枝、高い位置に灯篭がくくりつけられ、道を示してゆらゆらと光を揺らしている。
『……ニーアの』
通り過ぎがてら、その灯篭のひとつに手を伸ばして。ナリアンが、幸福そうな意志を揺らす。
『案内妖精の、光みたいだ。……きれいだね』
それは、無垢な悪意から魔術師を守ろうとする愛にも似ていた。教会で受け止めた温かな意志。理由のない行為と感情が、灯篭に燈る火からも感じることができた。夜の闇を遠ざけ、道を示すきよらかな光。別れを惜しむようにゆっくりと歩いて、メーシャの足が建物の前で立ち止まる。半開きにした扉に背をつけて、副寮長は三人の歩みを待っていた。おつかれさま、と微笑まれ、促されて、三人は建物の中へと足を踏み入れる。まっすぐな廊下を歩いていき、辿りついたのは大きな扉の前だった。中からは楽しげなざわめきが聞こえて来ており、眠たげなソキの意識をすこしだけ揺り起こす。起きてますよ、と言う代わりにロゼアにぎゅぅと抱きつけば、指が慣れた仕草で髪を梳いて行く。さあどうぞ、と促される声に導かれ、ソキはロゼアと共に、その部屋の中へ体を滑り込ませる。とたん、わっと歓声が体中を包み込んだ。
色とりどりの花びらが、目の前にばらまかれたような衝撃だった。思わず目をぎゅぅと閉じてから、恐る恐るまぶたを持ち上げたソキが見たのは、広い談話室に思い想いに佇む少年少女、青年や女性。揃いの服に身を包む、学園の生徒たちの姿だった。驚き、扉から入ってすぐのあたりで動けなくなっている新入生を満足げに見つめ、副寮長はぱっと両手を開いて宣言する。
「今年の新入生は四人! 星降の国から、メーシャ! 花舞の国から、ナリアン! 砂漠の国から、ロゼア! 同じく、砂漠の国から、ソキ! それぞれ同じ国出身の者は、最初は積極的に話しかけてあげてください。俺たちが、先輩にそうされたようにね」
分かってるよ、いらっしゃい、おつかれさま、よく来たね。色とりどりの歓迎の声と意志が、新しく入学してきた仲間を出迎えた。今すぐにでも話しかけたい風な者たちに笑みを向け、副寮長は唇に指を押し当てる。
「でも、今日の所はお披露目だけ。もうそろそろ眠らせてあげなくては、明日の為に。長い一日を、おつかれさまでした、新入生! さ、皆もそろそろ部屋に引きあげなさい。彼らはともかく、明日は俺たちは普通に授業なんですから……と」
ぐるり、部屋の中を見回した副寮長の視線が、片隅の窓辺でぴたりと止まる。
「寮長!」
『……えっ?』
戸惑う、ナリアンの意志が鈴の音のようにきよらかに響く。不思議に思って首を伸ばし、そちらの方向を向いたソキは、副寮長が呼びかけていた相手を見つけ、そのまま絶句した。こげ茶色の短い髪をした、精悍な横顔の男がそこには居た。ただし、ちいさな書き物机の上に右足を、華奢な椅子の上に左足を置き、体を大きく背後にのけ反らせている。そのまま倒れそうな不安な態勢だったが、不自然に安定しているようだ。左腕はなだらかな線を描いて背後へ向けられ、右腕は顔の半ばを隠しながら、てのひらが後頭部を抱いている。芸術が爆発した結果、常人には理解できない境地に辿りついてしまったものが時々あるが、それと同じ印象を受けた。在学生は慣れ切った態度で、寮長おやすみなさいー、と『それ』に声をかけては談話室を出て行く。
半ば理解しながらも、分かりたくなくて、ソキはなんですかあれ、と怯えた声で副寮長に問いかけた。青年は、なぜか誇らしげに言う。
「我らが寮長ですが?」
「……えっと、なにをしてるんですか?」
そっと手をあげ、問いかけたのはメーシャだった。うるわしい喜びの笑みを唇にきざみ、副寮長は和やかな声で囁く。
「寮長の行動に意味など必要ありますか?」
「意味が……ないんですか?」
「そうですね」
そういう訳でもないのですが、ふむ、と考え込む仕草で首を傾げ、副寮長は発音しなれた様子で寮長、と呼びかけ。
「世界が! 貴方に!」
「もっと輝けと囁いている……っ!」
「……大丈夫です。本日も、とてもとても輝いておられますよ、寮長」
うっとりとした笑みでそう告げる副寮長の言葉に、男はぱしぱしと瞬きをした。世界の何処かへ向けられていた視線と意識が、ようやくソキたちの方を向く。もういっそ全然こちらを向いてくれたりしなくてよかったですよ、と思いながら警戒するソキの前に、身軽な仕草で男は歩いてきた。どこか野性的で、それでいて洗練された雰囲気を持つ、不思議な印象の男だった。背はロゼアと同じくらいで、ナリアンよりもやや、低い。ばらばらの長さで短く切られた髪は焼け焦げた土の色をしていたが、瞳は海にまどろむ珊瑚の彩を宿している。つり目気味の目が、四人、それぞれを順繰りに眺めてから、ナリアンを注視した。ふぅん、とおかしげな呟き。ひょい、と持ち上げられた男の手が、なぜかぽん、とナリアンの頭に乗せられた。そのまま、ぽんぽん、と一定の動きであやすように撫でながら、男の視線が副寮長を向く。
「ちゃんと名乗ったか? ガレン」
「いいえ。……それでは改めまして、学園寮の副寮長を務めております、ガレンと申します。歳は二十二、入学して七年目です。分からないことがあれば、なんでも聞いてくれて構いません」
「寮長のシルだ。二十六歳。入学して……今年でぴったり二十年だな」
いいながらも、シルの手はナリアンの頭をぽんぽんと撫で続けていた。やや茫然とした様子で成すがままになっているナリアンを、気遣わしげにメーシャが見つめているものの、ほぼ初対面の年上に向かってやめてあげてください、とは言いにくいのだろう。おろおろと寮長とナリアンを見比べては、口を開いたり、閉じたりしている。それを良いことにナリアンの髪を好き勝手にかきまわして撫でながら、寮長がさて部屋だが、とごく冷静な表情で告げて行く。
「学園に入学したら寮に住んでもらうことになる。設備は明日詳しく説明してやるから、今日はとりあえず寝ろ。部屋は魔術師適性によって階が分かれてて、メーシャは二階。ロゼアは三階。ナリアンも」
『……っと、ちょっと!』
「なんだよ。しゃべれよ」
わっしゃわっしゃ、ナリアンの頭を撫でくり回しながら言う寮長の腕を払いのけ、ナリアンは意志を響かせた。
『い、きなり、俺の頭、撫でないでください。なんなんですか』
「話せ」
その意志を、音高く払いのけるような声だった。冷え冷えとした、怒りとはまた別の、断固たる意志を感じさせる言葉だ。びくりと身を震わせたナリアンに、シルは呆れた様子で首を傾げる。
「声を出して、言葉で、話せ。俺になにか要求したいのなら、まずそこからだ」
「……寮長。お手柔らかに」
「気が付けって言ってやってんだよ。お前が嫌がる真似しても、風がなんも動いてないだろ?」
やや眠たげにあくびをして、シルはナリアンをまっすぐに見据えた。
「口を開け。寮内では魔術暴走を除き、各個人の意思に反した魔術反応、魔力反応が起こることはない。……まあ、すぐできる訳でもないだろうから、それをちゃんと覚えておけっていう話だ。ナリアン、お前は三階」
顔を望みこみ、また頭を撫でて来ようとするシルの手を、ナリアンはこころから嫌そうな顔でぐいと押しのけた。その反応に、くつくつ、こどものような顔をして寮長は笑う。
「男子も女子も建物は同じのを使ってる。全員一人部屋で、鍵はかけられるようになってる。階段を基準にして、おおまかに右半分が女子寮、左半分が男子寮だ。双方の立ち入りは禁じられていないが、節度を持って行動すること。不埒な真似をすると即処罰が下るから、そのつもりでな。二階、三階、四階が寮室。一階に食堂、談話室、入浴施設なんかがある、これは明日、地図と一緒に説明する。……忘れてた。ソキ。お前は四階。四階の空き部屋の位置は、あー……ハリアス!」
寮長が呼びとめたその名に、メーシャがびくりと反応した。矢のような早さで視線を向けた先、一人の少女が椅子に座っているのが見えた。本を読んでいたのだろう。しおりを閉じながらはいと控えめに返事をするのを示し、寮長は言う。
「あとで彼女に聞くといい」
「はい」
そう返事したのはロゼアだったが、寮長は気に止めた様子もなく頷いた。
「じゃ、各自解散。各階に空き部屋があるから、好きな位置を部屋にしていいぞ。どの部屋も掃除してある」
寝た部屋と違う空き部屋を選んでもいいし、と言う寮長に、なぜだかとても嫌そうな顔でナリアンがそろそろと手をあげた。
『……あの』
「ん? ……なんだよ」
『日当たりの良い部屋がいい、とか。希望がある場合は?』
話せ、と言われなかったことでやや安心したのだろう。苦笑いで促されてそう問うたナリアンに、寮長はうん、とちいさく頷いた。ナリアンの肩に、ぽん、と手を置く。
「男だろ? ナリアン」
ぽんぽん、と肩が叩かれた。
「男子寮ルールだ。男だったら、奪って来い。手段は問わん」
「平和的に交渉するか、武力交渉するかはお好きにどうぞ、ということです。ナリアン」
『……分かりました』
触ってくる寮長の手をぐいぐい押しのけながら、ナリアンはすこし考えた末、こくりと頷いた。かぁわいくねえの、と笑いながら、寮長は素直にナリアンから手を引いて行く。それをなんとはなしに見つめながら、ソキはふぁ、とあくびをした。ロゼアの腕の中でもぞりと身動きをして、落ち着く体勢を整え直す。
「眠い? ソキ」
「……そきねえ、ねむぅいです」
「うん、分かった。部屋に行って眠ろうか。……えっと、ソキの部屋は四階だっけ?」
じゃあ、連れて行くから、と足早にロゼアが、部屋を辞そうとした瞬間だった。んーん、とむずがるようにロゼアの肩に額を擦りつけ、ソキは唇を尖らせて主張する。
「やですよ、ロゼアちゃん。ソキ、やです!」
「……なにが?」
「ひとりで眠るの嫌です、ってソキは言ってます」
ぷぷー、と頬を膨らませて言うソキに、ロゼアは困った仕草で首を傾げてみせた。
「……でもな、ソキ。ひとり部屋って言われただろ? ソキには部屋があるし、俺にも部屋があるんだよ」
「お家にも、ソキのお部屋はありましたし、ロゼアちゃん家にもロゼアちゃんのお部屋はありましたです」
「うん、そうだな。そうなんだけど……」
さて、どうしたものか。息を吐きながらその場で立ち止まり、ソキの髪を撫でて梳くロゼアは、与えられた少女の部屋に連れていき寝かしつけてくるつもりだったのだろう。悩むロゼアに、寮長が確認なんだが、と声をかける。
「ソキ、お前が『花嫁』で、ロゼアは……その傍付きだな?」
「はい。そうですよ」
ロゼアに抱きあげられてから、ほぼはじめて、ソキがちゃんと返事をした問いだった。だいたいの言葉にロゼアが代理で応え、ソキも当たり前としてそれを受け入れてしまっているからだ。そうしなければいけない、という意志が明確にある場合のみ、ソキは声をあげて言葉を告げた。分かった、と寮長は頷き。
「ロゼア」
仕方がないと言いたげに、笑った。
「寝かしつけてやれ。服を離さないようなら、添い寝してやれ。……体調を崩されるよりずっとマシだ」
「……それは」
「入学してから三日間、前にここに居た元『花婿』は、環境の変化で高熱を出し、起き上がれもしなかった。二の舞にするつもりはないし、俺たちより……対処の仕方も、体調を崩すきっかけも前兆も、お前の方がよく知っている筈だ。世話係だと思っておく。お前も入学したばかりでなにも分からない状態で、大変なことは多いだろうが……前の『花婿』の世話係をしてたのは俺だ。寮の規則も踏まえて、分からないこと、不安なこと、やっておきたいことがあれば言いに来い」
分かったら、はやく連れて行って寝かせてやれ。もうそろそろ限界だろうと促され、ロゼアは考えて悩む表情になりながらも、ソキを抱き直して部屋を出て行った。談話室の片隅で本を読んでいた少女がぱっと立ち上がり、足早にその後を追って行く。空き部屋の位置を案内するつもりなのかも知れない。
「さて」
ぐぅ、と大きく伸びをして、寮長があくびをする。
「俺も寝るか。……メーシャ。部屋まで案内しよう。ガレン、ナリアンを」
『ひとりで行けます』
頼む、という言葉にかぶせ、ナリアンはやや頑なな印象の意志を響かせた。それにはいはいと頷きながら、シルはメーシャの腕を掴んでゆったりと引き、談話室の扉へ向かう。廊下へ出る寸前に振り返って、シルはナリアン、と青年の名を笑いながら呼んだ。
「あまり駄々をこねるな」
ひゅぅ、と音を立てて不穏に風が揺れ動く。足元をすくって転ばせようとするかのような空気の流れに、シルは笑っただけで体勢を崩しはしなかった。さあおいで、と招かれるのに頷き、メーシャは階段に足を乗せる。長い一日が、ようやく終わろうとしていた。階段を登りながら、メーシャは瞼の裏に灯篭のひかりを蘇らせた。
『夜の藍の中では、星のように煌き』
言葉が、胸の中で反響する。
『火のように揺らめき、あたたかな、力強い、導きのひかりに』
その言葉と光景が、ちかちかと瞬き。
『お前はなるだろう』
あわく、あわく、響いて、消えた。