人生の中で最悪の朝の目覚めを述べなさいという問題があったとするならば、ナリアンは今後十年、『学園』に入学した次の日の朝と即答するだろう。今後十年どころか、こびりついた記憶が抹消されるまで同じになりそうではあるのだが。あるいは更新がかかり、上書きされれば別回答にもなるだろうが、最悪な目覚めというものに望んで巡り合いたい者は稀だろう。ナリアンはその稀な部類には含まれない。決して。よって、今後、すくなくとも十年のとある回答が決定されてしまったナリアンは、当然のことながら不機嫌だった。こんなにも感情を荒れさせるということが、久しぶりすぎて疲れると思うくらいには不機嫌で、ふらりとかしいだ体を廊下の壁に手をつくことで支え、軽く目を閉じて深呼吸する。
ざぁ、と耳元で血液の流れる音が聞こえる。貧血だ。怒りが貧血を誘発するかどうか確かめたことはないが、不機嫌は不調の理由のひとつであるので、あながち間違っている訳でもないだろう。ああ、ほんとうになんなんだ、あのひと。目覚めてから幾度となく繰り返した言葉、罵倒にすら近いそれを心の中で繰り返し、ナリアンはぐっと唇に力を込めた。これくらいの不調、乗り越えられないでどうする。浅く早い息を繰り返し、瞼を薄く開くと、ナリアンは歩みを再開しようとした。
「はい、そこまで」
確かに、そうしようとしたのだが。唐突に背後から響いて来た言葉と腕を掴む手に留められ、ナリアンの体がぐらりと揺れ動く。後ろに引っ張られて倒れるかと思いきや、その肩を支えるように温かな手が添えられた。
「無理して出歩くな、と言っただろう? 横になっててよかったんだ。朝食なら運んでやるし」
まあ、今日はどうしてもやってもらわなきゃいけないことあるから、時間になったら起きて貰わないと困るけど。苦い笑みのような感情を声に滲ませ、叱りつけるような響きでナリアンにそう告げるのは寮長だった。他ならぬ、ナリアンの最悪な目覚めの原因である。このひとに支えられるくらいならば、倒れて痛い思いをした方がよかった。心の底からそう思いながら貧血でぐったりとするナリアンは、不意に、呼吸が楽になって目を開いた。その顔を、ひょいと寮長が覗きこんでくる。
「ん? 楽んなったか? でも、まあ……いいこだから、もうすこしだけじっとしてな」
とん、とん、と指先がナリアンの肩を支えながら、あやすように触れてくる。あからさまなこどもあつかい。怒りと、それとは別のむずがゆい感情で腹の奥がかっと熱くなるナリアンに、寮長はやわりと目を細め、いかにも楽しそうに笑うばかりだ。その表情は朝、ナリアンが寝起きに見たものとよく似ている。あろうことかこの寮長は、鍵をかけて眠った筈のナリアンの部屋に無断侵入し、ぐたりと寝台に沈み込んで目覚める様子のないナリアンに、何故か添い寝して頭を撫でてきたのだ。なんか眉寄せて寝てたから撫でてやろうと思って、というのがびっくりして目を開き、硬直するナリアンに向けて放たれた寮長の言だが、ちょっと意味が分からないので呼吸しないでくださいお願いします、と魂の底から思った。
ナリアンの出身国である花舞をはじめ、五カ国の成人年齢は十五とされている。ナリアンは、十八である。成人してから、もう三年が過ぎた。仕事もしていた。ナリアンが魔術師の卵として学園に迎え入れられた以上、もうあの仕事は出来ないだろう。確かめたことはないが、それがかすかな心残りだった。『学園』での生活にある程度慣れたら、先輩か王宮魔術師の誰かに改めて問いあわせてみるつもりだったが、ナリアンの行っていたそれを、王宮魔術師が手掛けたという記録は無い。恐らくそれは、彼らには許されていない仕事なのだ。ナリアンだけがその職についていた訳ではない。けれどもナリアンには大切で、大好きな仕事だった。稼ぐ、ということを知っていた。立派な、とはいかないまでも、十分に大人であるつもりだった。その筈だった。こんな風にこどもあつかいを受けるだなんて、想像をしたこともなかったのだ。
頭を撫でられる、だとか。倒れそうになって抱きとめられる、だとか。心配そうに顔を覗きこまれること、辛い時に感情に寄り添うように隣で寝てもらうこと、その全てを。考えたこともない。はじめてされたとは決して思わないが、その記憶は遠く遠くにあるもので、今という現実に現れるものでは決してないのだ。触れる男の手が、じわじわと魔力を流し込んでくるのも気に入らない。離してください。意志を響かせると、寮長は無言で笑みを深め、ナリアンの求めるままに手を離してくれた。それが、寮長が満足して大丈夫だと思うまでナリアンが回復していたからで、決して言うことを聞いてくれた訳ではないことを、なんとなく感じ取る。体が楽になっているのが忌々しかった。フィオーレさんに治療してもらった時にはそんなこと思わなかったのに、と苛立ち、ナリアンはふるりと首を振る。あれは治療、これは一方的な施し。ナリアンが望んだものではない。
半ば睨みつけるような緊張した顔つきで見てくるナリアンに、寮長は親しげな笑みを浮かべている。
「確認するが。寝ているつもりはないんだな? ナリアン」
気安く名前を呼ばないでください、と意志を叩きつけそうになり、ナリアンは服の胸元をぎゅっと手で握り締めた。あんまりこどもっぽい感情に、自分自身で困惑する。そんな、呼ばれたくらいでなにが代わる訳でもないのに。恥ずかしいようなむずがゆい気持ちを持て余しながら、ナリアンは視線を持ち上げ、寮長の目を覗きこんだ。春に咲く花のように鮮やかな、珊瑚色の瞳。
『ありません。……どこまでついてくるつもりですか。暇なんですか』
「俺は説明した覚えがないんだが」
暗に、ついてくるなあっち行け、と求めるナリアンの意志が分かっているだろうに、寮長は悪戯っぽく首を傾げた。目覚めてから交わす何度目かの会話だが、声に出せ、と言われなかったことがナリアンの緊張を無意識に緩める。寮長がナリアンに発声を求めたのは、昨夜の一度きり。それ以降は気が向くのを待っているかのように、咎めることもなく、言葉を交わしていた。
「お前、食堂の位置とか知ってんの? ああ、心配しなくてもいいぞ、ナリアン!」
両手を広げて高らかに宣言する寮長に、ナリアンはじとりとした視線を向けた。このひと、動作つきじゃないと会話もできないんだろうか。ナリアンの視線を感じていない訳でもないだろうに、寮長は広げた腕をそのままに、希望に満ちあふれた声で言った。
「ナリアンは俺が案内するから、聞かれても誰も教えるんじゃないぞって言っておいたからな!」
『なんでそんなことしたのか教えて頂けますか』
「決まってるだろう?」
これは一応上級生というか寮長、そして先輩。だから怒るなナリアンお前は大人だろうそう大人、大人だから深呼吸、とかなり追いつめられた精神でナリアンは己に言い聞かせ、視線を反らして堪えている。そんな新入生と寮長のやりとりを、他の生徒が遠巻きに眺め、ひとつの方向に向かっているので、彼らについて行けばほぼ確実に食堂へ辿りつけるのだが。それが分かっていて寮長を無視して行けないのが、ナリアンの受けた教えだった。会話の相手を放置して何処へ消えることなかれ。ねえばっちゃん、こういう場合でもだめなのかな、と彼方へ意志を投げかけて問うナリアンの目の前で、寮長はやたらと楽しそうに、問うた理由を教えてくれた。
「世界が俺にそうしろ、と囁いていたからだ……!」
もうやだこのひと、とナリアンは真剣に思った。寮長と初遭遇してから、実に九時間後のことである。
それは災難だったね、と心から同情した表情でメーシャが言った。こくりと素直に頷きながら、ナリアンはおずおずと椅子を引き、腰を下ろす。ナリアンがようやく寮長と別れられたのは、数分前のことだった。結局、食堂まで好き勝手にナリアンを引っ張ってきた寮長は、どうしていいのかも分からない新入生に説明をすることもなく、はいこれ持って、と四角い木製の盆を手渡した。ちゃんと両手で持つんだぞ、と言い聞かせる寮長の目にはいったいナリアンが何歳くらいの幼子に見えているのかと、疑問に思うくらいである。木盆で寮長の頭をひっぱたかなかった忍耐を、ナリアンはひそかに誰かに褒めてもらっても良いくらいだ、と思っていた。けれどもその時には反応をするのも疲れていたナリアンは、言われるままに木盆を床と平行になるようにしっかりと持ち、満足げな寮長に頭を撫でられて眉間に青筋を浮かべていた。
そんなナリアンに笑みを浮かべるだけでやはり説明をせず、寮長は食堂をぐるりと見回した。食堂はちょうど正方形を描く作りになっていて、天井が高く、開放的な印象を与えるつくりになっていた。全体の印象は、白である。床と壁、柱が真っ白に塗られていて清潔感があり、四人がけの円の机や六人、八人が座れる長方形の机も、白一色で塗られている。古い木をそのまま使った机が食堂の端に置かれているものの、そのひとつを覗けば全てが白い机だった。彩りを与えるように、椅子は様々な色をしている。赤、青、黄、桃、茶、黒、灰、碧緑、水色、黄緑、橙、紫。ありとあらゆる色の椅子が、空間の端からゆるりと変化していくように配置されていた。その色彩を床に影として滲ませる朝のひかりが、窓から差し込み、部屋をきらめかせている。壁の一面はそのまま硝子をはめたつくりになっているので、外の景色がよく見えた。そこには、ただ森が広がっている。木々の間によく目を凝らせば、いくつか建物が見つけられるだろう。そこが魔術師の学び舎。『学園』の一部で、校舎のひとつだった。
ざわめく空間をよく見渡せば、一角に二階へ上って行くらせん階段があることに気が付く。一階の空間上部の半分ほどに迫り出した天井は、その床であるようだった。階下を見下ろす形で設置された机と椅子は、七割程度が埋まっている。二階の倍近い広さを持つ一階の席が、やはり半分程度の埋まり具合であることを考えると、上階の方が人気があるようだった。そこからも、また一階からも、ちらりちらりとナリアンに視線が向けられていた。新入生だから、どうしても気になるのだろう。興味を持つ視線と、純粋に手助けをした方が良いのか考える視線は、けれどもすぐ傍に寮長の姿を認めると、一様にほっと安堵した様子で散らばって行った。彼の人がそこで世話を焼いているのなら、大丈夫だろう。そう言わんばかりの無言の信頼を肌で感じて、ナリアンはあまりの意味の分からなさに頭痛がした。
あの、このひと、ひとの部屋に無断で鍵を開けて入って添い寝して頭を撫でてきてひとが不機嫌になっても反省しないどころか謝りもしないで世界が囁いたとか俺が輝く為にそうしなければいけなかったとかちっとも意味の分からない発言ばかりを繰り返していて、あんまり意味が分からなさ過ぎて、あれ、意味が分からないってどういうことだっけ、分からないってつまりどういうことを意味しているんだっけ、とかいう混乱状態に陥らせるようなひとなのですけれど、その信頼はどこから来るのですか洗脳ですか、と全世界に向かって発作的に問いかけたくなったが、それがものすごく疲れる作業であるような気がして、ナリアンは深々と息を吐くことでやめにした。これは思考停止や思考の放棄ではない。
戦略的な、あるいは前向きな放置であって、それ以上でもなくそれ以下でもないのである。だから耐えろナリアン、大人として、と自らに試練を与えている新入生の内心なぞどこ吹く風よと、寮長は機嫌良さげに鼻歌を歌いながら、ぐいぐいと腕をひっぱって歩いて行く。その引っ張り方が、間違えてもナリアンが体勢を崩し、転ばない絶妙な力加減と速度であるからこそ妙に苛立ちが募った。あああああああ本当になんなんだこのひとっ、と何回考えてもちっとも答えの見つからない問いを内心で響かせるナリアンが、引いて連れて行かれたのは食堂の端。細長い机がいくつも並べられ、その上に所狭しと大皿が並べられ、料理が盛られている。大皿にとりわけ用の器具が置かれているものもあれば、あらかじめ一食用に小鉢に取り分けられているものもあった。見覚えのある料理もあり、食材の名すら分からない、見たことのないものもたくさんある。
す、と寮長の指先が机のひとつを指し示した。
「左から、右に。星降、花舞、楽音、砂漠、白雪の料理」
それが食堂に入ってはじめての、説明らしい説明だった。きょとん、とするナリアンをやや振り返り、寮長は慈しむような表情で、そっと笑みを深めてみせる。
「新入生がはいって一ヶ月は、五カ国の料理が用意される。慣れない食事で体調を崩さないように、慣れた食事ですこしでも、心が落ち着き、穏やかに、楽しくなるように。一カ月が終わるとその週ごとに国が入れ替わる。あまりに口に馴染まないようなら、別途で作ってもらえもするから、その時は相談していい。まあ、将来、どこの国へ出されるかも分からないから、どの国の料理も食べられるようになっておくのが一番だが、好き嫌いは誰にでもあるから、そう気にすることでもないな。さて」
ひょい、と寮長が小鉢を取りあげたのは、説明を信じるのであれば、花舞の料理が並ぶ机からだった。ナリアンの家でもよく食した生野菜のサラダが、小奇麗な陶器の器に盛られている。それを無造作にナリアンの持つ木盆の上に置いて、寮長は考えるそぶりを見せつつ、好き勝手に食事を追加していく。カリカリに焼かれたベーコンに、焦げ目のついたソーセージ。透き通るコンソメのスープには葉物野菜と粒のとうもろこしとえのき、しいたけ、ふわふわの溶き卵が入っている。食べやすく切った果物は三種類、林檎とオレンジとグレープフルーツ。あとこれも、と別の机から、さらにそこに桃が加えられた。まだ温かさを感じさせる焼きたてのパンは、二種類。ふわりとバターの香りを漂わせるバターロールと、甘い黒糖の香りを広げるロールパンだ。それを三つ、なぜか縦に詰みあげて満足げに深々と頷き、寮長は最後にそれぞれ牛乳と水の入ったグラスをとんとんと乗せ、これでよし、と言った。
「いっぱい食べて大きくなれよ、ナリアン」
『……俺はもう十八ですが?』
ほかに言うことはあった筈だ。山のように。千とも億ともつかぬほど。無数にあった筈なのに、ぐるぐる廻ってナリアンの口から零れ落ちたのは、疲弊し切った響きの問いひとつきりだった。年齢を告げ、暗に成長期は終わっていると主張するナリアンに、寮長は晴れやかな笑みで頷いた。
「いっぱい食べて大きくなれよ、ナリアン!」
『……十八ですが』
「いっぱい食べて、大きくなれよ? ナリアン」
もうこのひとと会話するのをやめよう、とナリアンは心の底から思った。断固としてそう決意した。ぷい、と身を翻して離れて行く背を、寮長がぽん、とてのひらで押す。やさしく、送り出す仕草だった。思わず。本当に思わず立ち止まって振り返ったナリアンの目に、歩き去る寮長の後ろ姿が見える。見ている間に食堂から出て行ってしまった寮長は、一度として振り返ることがなく、また、立ち止まることもしなかった。あんまりあっさり去られて行ったので、ナリアンはしばし呆然としたのち、かぁっと腹の奥が熱くなってなんなんだあのひとっ、と思った。メーシャがナリアンを見つけたのは、ちょうどその時である。ぼんやりと肘をついて食堂を見回していたら、なんだかぷるぷるしているのを見つけて、思わず声をかけて呼びよせてくれたのだ。捨てられたみたいで放っておけなくて、というのは疲れたナリアンの幻聴に違いない。
メーシャは、ひととして、普通にやさしい。その優しさにしばらくぶりに巡り合った気がして、ナリアンはちょっとだけ泣きたくなった。はぁ、と溜息をつきながらロールパンに手を伸ばした所で、ナリアンは真正面からじぃっと見つめてくる視線に気が付き、ぱちぱちと瞬きをした。メーシャはナリアンの隣に座り、正面をやや興味深そうに見つめている。
「こら、ソキ」
ナリアンに向けられる視線を遮るように、声がやんわりとたしなめて行く。
「先に言うことあるだろう?」
「おはようございますです、ナリアンくん。それと、違いますですよ、ロゼアちゃん。ソキべつに、ご挨拶するのを忘れていた訳ではないんですよ。ソキねえ、ナリアンくんが気が付いてくれるまで待っているつもりだったです」
「そうか? ごめんな、ソキ。でも、ほら、挨拶できたんだから食べような? ナリアン見ててもご飯減らないだろう?」
ふにゅ、とも、うにゃう、ともつかない呻き声をあげて、ソキがぎこちなく木の匙を口に運んで行く。少女の手の中には乾燥果物を混ぜ込んだヨーグルトの器が握られていて、見た所、半分くらいは減っているようだった。気のないようすで口を動かし、ソキがすこしばかり嫌そうに首を傾げる。
「あのねえ、ロゼアちゃん。ソキはもうおなかいっぱいなんですよ」
「んー? ……じゃあ、パン食べような、ソキ」
「……あのねえ、ろぜあちゃん。ソキねえ、もうおなかいっぱいなんですよ……?」
ロゼアの手がヨーグルトの器をひょいと取りあげ、代わりに半分程にちぎられた白パンを握らせた。むずがるような声でそう言いながら、ソキが白パンをちいさく千切り、口へ運んで行く。その様子をじっと見ながら、ロゼアがああ、と気が付いた風にナリアンとメーシャに言う。
「ソキ、半分くらいで一回食べるのに飽きるんだよ。本当に満腹なら分かるから、大丈夫」
「……そういうもんなの?」
「そういうもんなの」
首を傾げるメーシャに、確信的にロゼアが頷く。その会話が当然聞こえているだろうに、ソキは眉を寄せたままでもぐもぐもぐ、と口を動かしていた。ごくん、となぜか一生懸命さを感じさせる仕草で飲みこみ、ソキの視線が傍らのロゼアを向く。
「ねえねえ、ロゼアちゃん」
「なんだ?」
「あのね、ソキね、そういえばロゼアちゃんに聞こうと思っていたことがあったんですよ」
それで詳しい内容を今ちゃんと思い出すので待っていてくださいね、と真剣な顔をするソキにうんと頷き、ロゼアはそれが食べ終わったらお話しような、と言い聞かせた。ちょっと困ったような、拗ねた顔つきになったソキは、溜息をつきながらロールパンをちいさくちぎり、口に運んで難しそうな顔をした。
「だって、昨日は疲れてて思い出せなかったですよ。今、そういえば聞こうと思ってたことがあるのを思い出したです。……ご飯食べ終わったらつかれて思い出せなくなっちゃうですよ。困りました」
「うん。食べ終わったらゆっくり思い出そうな?」
「……ろぜあちゃんいじわるぅです。でもリボンちゃんよりずっとやさしいです。さすがはロゼアちゃんです!」
そういえば久しぶりにおしゃべりしても怒鳴られないですよ、と至極嬉しそうにきらきらの笑顔を振りまくソキに、ロゼアは不思議そうに首を傾げている。怒鳴る、と意味が分からない様子で口の中で呟き、ソキに、と言葉を繋げてロゼアはやや狼狽した様子で口元に手を押し当てた。え、え、と戸惑うロゼアは出来ることならばソキに詳しく聞きたい様子だったが、少女が打って変って機嫌の良い様子で食事を再開したので、声をかけることが出来ないでいるらしい。ううん、と思い悩み、やがて胸にしまいこむことにしたのだろう。ふうと息を吐いて、ロゼアの手がぎこちなく、目の前に置かれた木盆に伸ばされる。指先で拾いあげられたのは乾燥させ、油で炒った木の実だった。それをひょいと口の中に放り込み、数度噛んで、水でやはり、どこかぎこちなく飲みくだす。視線は一心に食事を続けるソキを注視したままで、己の木盆には向けられていなかった。
ナリアンはソキの四倍速で食事を口へ運びながら、なんとなくロゼアの前に置かれた木盆を見た。その上にはナリアンの見たことのない料理が並んでいるが、どれもさほど手が付けられた様子がない。唯一目に見えて減っているものがあるとすれば、先程ロゼアが摘みあげた、数種類の炒った木の実の小皿だろうか。食欲がないのかとも思うが、それにしては木盆には腹にたまりそうな料理ばかり、何皿も選んで置かれている。不思議に思うナリアンに、見られていることに気が付いたロゼアがぎこちなく視線を向けてくる。言葉を探して数度、息が吸い込まれ、吐き出され。やがてそろりと、声がかけられた。
「……あのさ、ナリアン」
『う、うん。なあに?』
不躾に見てしまった自覚はあるので、ナリアンはやや申し訳なさそうに問い返した。どきどき言葉を待つナリアンに、ロゼアはゆるい苦笑を浮かべた。気にしていないから。そういう意志を伝えながら、ロゼアは気がかりなことをひとつ、問いかける。
「武器支給、とか言われただろ? その集合時間って、あとどれくらいだっけ……?」
ここに来る時に寮長に会って聞いた気がするんだけど、うっかり思い出せなくてさ、と告げるロゼアに、ナリアンは無言で麗しい笑みを浮かべた。隣で、メーシャががたりと椅子を鳴らしたが、そちらへ意識を向ける余裕がない。
『ごめんね、ロゼアくん。俺、聞いてないんだ』
どういうつもりなんだあのひと、という副音声が聞こえたのは、恐らくメーシャの気のせいである。そっか、と困った様子でロゼアが首を傾げるのに、メーシャが記憶を探りながら告げる。
「確か……十時? だった気がする。談話室に集合で」
「あ、そうだった。ありがとうな、メーシャ。……うーん」
現在時刻は、朝食を取るにはやや遅めの八時半である。集合までにまだ時間はある。けれど、と思い悩むロゼアの意識がそれた隙に、ソキは食べていたロールパンの口をつけていない部分をちぎって、傍付きの木盆に盛られたパンの中へ紛れさせている。ナリアンとメーシャに、しーですよ、しーなんですよっ、と必死で頼んでくるソキは、もうそろそろ本当に満腹らしい。水の入った器を両手で持って口をつけているのを眺め、ロゼアが深く息を吐いた。
「分かった。食べる。間に合いそうにない……ソキは、これ、もうちょっとだけ頑張ろうな」
己のなんらかの葛藤と折り合いをつけた様子で、ロゼアはようやく食事に手をつけた。ソキの手にフルーツヨーグルトを戻し、ぽんぽんと頭を撫でて言い聞かせると、ロゼアの手がソキの紛れ込ませたパンの残りを摘みあげる。それをそのまま口に運んで、今日は食べた方かな、とひとりごち、ロゼアはそういえば、とメーシャに気遣わしげな視線を向ける。
「メーシャ」
「うん」
「……すこしでもいいから、食べないとだめだと思う」
名を呼ばれて、返事をして、その時にはなにを言われるか分かっていたのだろう。苦笑するメーシャの前には、飲み物だけが置かれていた。しぼりたてのオレンジジュース。器の半分も飲まれてはいない。食事の八割をすでに胃に収めてしまいながら、ナリアンがぎょっとした様子でメーシャを見た。
『メーシャくん。体調でも、悪いの……?』
「そういう訳じゃ、ないんだけどさ……ルノンがいないな、って思って」
「ルノン?」
問いかけるロゼアに、メーシャはうん、と力なく頷いた。
「ずっと傍にいてくれたから……今日の朝、起きて、いなくて、おはようとか言えないのが寂しくてさ」
「じゃあ、ソキのアスルを貸してあげるですよ!」
「……ん?」
いつの間に食べ終わったのか、空の器をいそいそと木盆に置きながら、ソキが期待のこもった目でメーシャを見つめている。傍らのロゼアが驚きに満ちた目でソキを見つめているが、メーシャにはなんのことだか分からない。
「……アスル? って?」
「アスルはねえ、ソキのアスルなんですよー!」
もっと分からなくなった。え、と首を傾げるメーシャに、ソキはにこにことあとでお部屋に来てくださいね、と言った。アスル、というのが、ソキの大好きなあひるのぬいぐるみの名前であり。屋敷から飛び出して来た時に、唯一持って来たソキの私物であると、メーシャが知るのは、それから一時間後のことである。