その『扉』には、武器庫、と書かれたプレートが取り付けられていた。誰かの手書き文字であるから、そこはかとなく緊張感のない、不思議な主張をしている扉だった。ソキはその『扉』をじぃっと見つめ、ぱしぱしと何度か瞬きを繰り返したのち、ロゼアの腕の中でこてりと首を傾げた。『学園』の新入生にはもれなく武器が配布されることになっている、と告げたのは、談話室から四人を先導してここまで歩いてきた寮長の言葉だった。時間通りに集合した四人のうち、何故かナリアンの頭だけを撫でながら遅刻しないで偉いなー、と褒めた寮長は、すさまじい勢いで機嫌を悪くする彼を宥めるでもなく、適当に放置している。今も寮長に一番近い位置に立っているのはメーシャで、ナリアンではなかった。ナリアンが意図して距離をとったというのもあるだろうが、ロゼアの腕の中からソキが見た所、寮長も別に近くへ行こうとはしていなかったように思われる。
恐らく、ナリアンには寮長がどういった理由で己ばかりを構ってくるのかちっともさっぱり全く分からないだろうが、それと同じくらい、客観的に見ているソキにも理解してやることはできなかった。考えても分からないので悩むのをやめにして、ソキは視線をもう一度、『扉』のプレートへと戻した。へにょへにょした手書き文字で、やはり、武器庫、と書かれている。間違いはなさそうだ。だからこそ、意味が分からなくてソキはねえねえ、とロゼアの肩を手でぱたぱた叩く。
「壁に扉がめり込んでるですよ?」
「うん。俺にもそう見える。ナ……えっと、メーシャは?」
「俺にも、壁に扉がめり込んでいるようにしか見えない。なにこれ」
うろんな目で目の前のそれを睨むメーシャに、ロゼアはだよなぁ、と息を吐きながらソキを抱きあげる腕をすこしばかり調整した。ややずり落ちていたソキが安定した状態に戻ったのを確認して、ロゼアは呼びかけを中断したナリアンに、そっと視線を送る。ぶちん、となにか切れた音がした、気がしたのはその時だ。
『俺から行ってもいいですよね?』
寮長がやたらと楽しそうに笑いながら、ナリアンにどうぞ、と扉を手で示していた。え、いまなにが。というか、なにを話していてそうなった、と問い、止める間もなく、ナリアンが『扉』に手をかけ、開いた。足が床から離れ、あっさりと扉の向こうへ踏み出された。その爪先が、扉の先へ着地したと同時、ナリアンの姿がかき消える。ぱち、とソキは瞬きをして、首を傾げた。ナリアンの姿はもうどこにもなく、ひとりでに閉じた扉がぱたりと音を立ててしまった。耳の痛い静寂が広がる。寮長、と低くとぐろを巻く声で口火を開いたのはメーシャだった。
「ナリアンに、なにを」
「ん?」
口元に人差し指を押し当て、意味ありげに笑いながら、寮長は素直に告げた言葉を繰り返した。
「今から、お前たちはこの扉をくぐり、武器に選ばれて帰ってくる。武器がお前たちを選ぶのであって、お前たちは武器を選ばない。さて、誰から行く? 怖いなら皆でおてて繋いで入ってもいいぜ? ただ、気が付いたらひとりだろうけど。同じ系統の武器でない限りな……って」
それをなぜ、ナリアンだけに、ナリアンを見ながら、ナリアンを挑発するようにして言ったのか。解せぬ、と瞬間的に新入生三人は思った。はふ、とロゼアの腕の中で呆れた息を吐きながら、ソキは光合成したいっ、光合成したいっ、と叫びながら地面の上を這いずる毛虫を一瞥するのと同じ視線で寮長を見やった。
「……あのねえ、ソキねえ、寮長みたいなひとのこと、なんていうか知ってるですよ」
「言ってみ?」
「好きな子ほど苛めたいです?」
ぶふおっ、と音を立てて寮長が吹き出した。なにがそんなに楽しいのだか、壁を平手で叩いてひとしきり悶え笑ったあと、肩を大きく上下させて寮長は深呼吸をして。のち、気を取り直したかのような落ち着いた態度で、三人に向き直った。
「よし、じゃあ説明してやるから、よーく聞けよ?」
「なんでナリアンにその説明をしてやらなかったのか、理解に苦しみます、寮長」
しっ、いいこだから見ちゃいけません、と子に言い聞かせる親のような顔をして、寮長の姿をなるべくソキの視線から外すか考えているロゼアが、ほとほと呆れた声で問いかける。寮長は、決まってるだろ、と輝かしいばかりの笑顔で告げた。
「世界が! 俺に! そうしろと囁いていたからだ!」
「ソキ、知ってます。寮長みたいなひとのこと、電波さんっていうですよ!」
「いや、もうこれ普通に変態でいいんじゃないか」
さりげなくない態度で寮長から距離をとりながらロゼアが言う。メーシャもそうしたかったのだが、何故か寮長が腕を掴んで離してくれないので、逃げることは叶わなかった。腕を掴まれているだけなのになぜかお嫁にいけないような気持ちになってくるのでやめて欲しい、いや俺はお嫁さんをもらうけど、とやや混乱しながら、メーシャは諦め気味に視線を床に落とす。
「それで、なんの説明を……?」
なにか大事なものを失ったり、なにかの代償に魂を売り渡した気分だった。ラティ助けて、家に帰りたくなってきた、と遠い目をするメーシャに、安全圏からロゼアとソキが拍手をし、勇気ある発言を称えてくれた。そうだろう聞きたいだろうっ、とやたら楽しそうに頷いた寮長は、そこでようやくメーシャの腕を離し、無駄に洗練された無駄のない無駄な動きで、ナリアンの消えた『扉』を指し示した。
「この『扉』は見て分かる通り、学園のどこかに繋がっている訳ではない。この『扉』が接続するのは、大戦争ののち、世界分割の時にできた『散らばった世界の欠片』、そのいずれにかだ。『こちら側の世界』でもなければ、この『中間区』のどこでもない。『向こう側の世界』でもない。無数に存在しているとされる、『散らばった世界の欠片』の、どれかひとつ。総称して、俺たちが『武器庫』と呼んでいる欠片へ、接続する」
だから、なんでナリアンにその説明を省いたのか。理解に苦しみながら、ロゼアが息を吐きだした。
「危険はないんですか?」
ロゼアの隣では歩んで来たメーシャが、腕を手でさすってちょっと妙な顔をしていた。ぐーっと体を伸ばしたソキが、いたいのいたいのとんでいけですよー、とメーシャの腕に触れ、それをどこかへぽいと投げ捨てている。良い子だけどじっとしていような、ソキ、と言い聞かせるロゼアに、寮長が今の所だが、と前置きをした上で『扉』を見る。
「危険があったという報告は一例もない。また、戻って来られないという事故も報告されていない。……お前たちは、『扉』をくぐった瞬間、その世界の欠片に選ばれ、引き寄せられる。気が付いた時に目の前に広がる空間に、お前たちの武器がある。杖、剣、槍、指輪、あるいは、その他のなにか。全く予想できない玩具のようなものに選ばれることもあるが、それがお前たちの武器だ。手にした瞬間、契約が結ばれる。武器はお前たちを終生守り、愛し続けるだろう。で、武器を手にすれば、気が付いた時にはここに戻ってくるから、安心しておけ。はい、質問は?」
「選ばれるですか? ソキが選んで来るじゃなくて?」
ロゼアの体温にすこしばかり眠そうな顔をしながら、ソキが不思議そうに問いかける。意志のないものに、どうして選択ができるというのか。そう言いたげなソキに、寮長はくすりと笑みを深めた。
「行けば分かる。……さ、行っておいで。お前たちの武器が、待ってる」
やさしく促され、背を押されて歩き出しながら、三人はほぼ同時に思った。だから、寮長。なんでナリアンにだけああいう態度であんな送り出しをしたんですか。ちょっとよく意味が分からないです、と呟くソキに、ロゼアとメーシャが心から頷き、三人は多少前後しながらも、ほぼ同時に、開かれた扉の向こうへその姿を消した。
ふ、と気が付いた時、ソキは床に座り込んでいた。つい先程まで、ロゼアの腕の中に抱きあげられていた筈なのに。メーシャとも一緒に『扉』をくぐった筈なのに、二人の姿は見える範囲のどこにも見つけることはなかった。記憶が切れて、飛んでしまったのだろうか。覚えのある事にぞっと体を震わせたソキは、しかしはくりと動かした唇から胸いっぱいに息を吸い込み、直観的に違うと判断した。魔力で操作された、鈍い体と頭の痛みがない。目を開くことの叶わない眩暈も感じないから、これはきっと、記憶が消えてしまったのとは違うのだ。恐れに似た感情ではやく拍を刻む心臓を持て余しながら、ソキは床に手をつき、よろりとふらつきながら立った。ひとりで立つのは、昨夜の入学式を終えて以来、はじめてのことだった。立つ、という感覚を思い出すのにやや時間がかかり、ソキは転び、立ち上がり、もう一度転んで、ようやく立ち上がった。
何度か咳き込みながら息を吸い込み、呼吸を落ち着いた状態に戻すことだけに専念する。しばらくして、生理的な涙が浮かんだ瞳を指で擦って顔をあげると、ようやく、薄暗い部屋の全貌が明らかになる。そこは、小規模な図書室に見えた。あるいは、広めにつくられた個人の書斎を思わせる。窓は閉められていて外の景色を見ることは叶わないが、昼間に本を読む為だろう。窓辺にはちいさな机が置かれ、椅子が押し込められていた。机の上には筆記具が何本かと、蓋が汚れたインクが数瓶、糸で閉じられた書籍が数点置かれている。写本師の書斎か、仕事部屋なのかも知れない、とソキは思った。そして、間違えた気がして眉を寄せる。それともこれは、間違えられた、なのだろうか。寮長は、世界の欠片がソキを選び、そこへ引き寄せる、と言った。そこで眠る武器が、待っているのだと。呼びよせるのだと、そう言ったのに。
見た所、部屋に武器と呼べそうなものは置いていなかった。剣も、槍も、弓もない。壁に飾られているのは美しい樹木を描いた絵画だけで、ラティが振り回していたような、長い杖のようなものもない。部屋にあるのは三列に置かれた背の高い本棚と、本。机と椅子と筆記用具。それくらいのものである。それとも、こことは別の部屋になにかあるというのだろうか。首を傾げながら部屋の中を歩きまわり、ソキは隣室、あるいは廊下へと続くであろう扉を探しまわった。異変に気が付いたのは、すぐである。窓辺に置かれた机と椅子から、本棚は三列。一列目を通り過ぎ、二列目、三列目を過ぎた所で、くら、と目の前が一瞬だけ暗くなる。意識が途切れる、ということもない、ほんの一瞬の立ちくらみ。とん、と足を下ろした時、視界の端には本棚がある。一列目の本棚。二回、注意しながらソキは歩き、三回目に立ち止まって息を吐きだした。
どうもこの部屋は、ソキをここから出したくないらしい。ねじれた空間に引っかかるすこしだけ手前、三列目の本棚に手をつきながら首を伸ばして見てみた所、扉があるのは確認ができた。試しに、ソキは窓にも歩み寄ってみた。ぺたりとてのひらを触れさせて硝子をたたき、鍵をあけて開いてみようとする。しかし、その鍵がどうしても開けられない。そういう形をした精巧な作りものか、あるいは錆で動かなくなってしまったかのように、ソキの力では鍵はびくともしなかった。しばらく奮闘したのち、諦め、ソキはてをふらふらと振って痛みを逃がしながら本棚を睨む。これはもしかして、もしかすると本当に、この中に武器があるということなのだろうか。本棚と本があるようにしか、ソキには見えないのだが。
本だって立派な武器になるんですよソキちゃんぶ厚い辞書の角とかをこうごすりと相手の後頭部とか延髄とか首筋とか肋骨とか背骨とか狙って振りおろせば十分に、あと小指の骨とか鼻の骨とかわりと弱いので余裕があるのならそういう細部もオススメです、ときらめくとびっきりの笑顔で顔見知りの砂漠の国の王宮魔術師が脳内で解説してくれたので、ソキは和やかな笑みを浮かべて頷いた。ソキの腕力では、ちょっぴり無理である。筆記具を投げつけるとか、そういう方が現実的なくらいだった。溜息をつきながら写本の準備が成されている机の上を眺め、ソキはなんとなく、筆記具を手に取った。散らばっていた紙の一枚を引き寄せ、インクの満ちた瓶のふたをあけると、ペン先をそっと浸してから持ち上げる。
書いたのは日付け。そして、朝食として口にしたもの。久しぶりにロゼアちゃんとずっと一緒で嬉しいですよ、と書き、けれども今は離ればなれであることに気が付いて気持ちが落ち込んだ。そういえば、日記を新調しなければいけないことを思い出す。旅の間に使っていたものは、いつの間にかページが破れ、何日分か紛失してしまっている。どこでなくなったのかも定かではないし、旅の途中であるから回収できることもないだろうが、その消えた数日分の記憶があいまいでちっとも思い出せない事実に、ソキの内心が落ち着かない気分でざわめいてしまう。ロゼアには、どうしてだか、相談することができなかった。旅の途中のことを、どう言えばいいのかも、分からない。平穏で、楽しいだけの道筋ではなかった。案内妖精のことはたくさん話したいのだが、そうすると、どう歩いてきたのかも自然と口にしなければいけないだろうから。
昨夜も、朝食の席でも、何故かロゼアはソキの旅路を尋ねなかったし、己のものも口にはしなかった。まだ目の前のことでいっぱいで、思い出す余裕がないのかも知れないが、ずっとそうであるとも限らないだろう。聞かれる前に、思い出すことが出来ればいいのだが。忘れていること。失われていること。白く塗りつぶされ、暗闇に鎖された、夜のできごと。壊され、崩され、囚われた。夜の。闇の。あの一夜の。悪夢の。あの。悪夢のような。終わった筈の。七日間の。あの男。あの男が。
「っ……!」
混乱し、囚われてしまいそうになるソキの意識を救ったのは、ひかりだった。清らかなひかり。それでいて、鋭く薄暗闇を引き裂いた。光源があるのは、ソキの左手の小指だった。そこに通されている、誰の目にも映ることが叶わなかったアクアマリンの指輪が、台座に飾られたそのちいさな意志が、ソキを救いたがるよう、あたたかなひかりを発している。それを見つめているだけで、荒れて途切れそうだったこころが落ち着いて行く。なにを、考えて、思い出そうとしていたのだろうか。今は考えないでいいんだよ、と誰かに囁かれたような気がして、ソキはこくりと頷いた。また、あとで、ゆっくり考えればいいことだ。すくなくとも、この写本室から出たあとに。
もし、本当にこの部屋にソキを選ぶ武器があるとしたら。それは、本棚に収まっている筈だった。誰かに耳元でささやかれ、導きを得たかのようにソキはそう思い、脚に力を入れて立ちなおす。指輪は、まだうっすらとしたひかりを放っていた。薄暗がりの、灯りになってくれるようだった。暖かな火の踊る、灯篭のようだ。足元を照らし、障害物がないことを確認しながら、ソキはそっと本棚の間に体を滑り込ませる。見上げて、手を伸ばして、せいいっぱい背伸びしても指がかすりもしない場所まで、高く本棚がつくられている。見回せば奥に、脚立が立てかけられているのが見えたが、ソキはわずかばかり思案したのち、それを動かして登るのを止めにした。まず、たぶん、動かせない。そして、恐らく、登れない。さらに、かなりの確率で、降りられない。ロゼアが迎えに来て回収してくれる可能性が限りなく低そうである以上、冒険はただの危険だった。
仕方なく、目の高さにある棚と、それより下の段。それより、一段だけ上の段を重点的に眺めて行くことにする。手をかかげて指輪の光で本を照らせば、いくつかは題名を読みとることができた。いくつか眺めて分かったのは、随分整頓のされていない本棚だ、ということだ。歴史書、物語、旅行書、料理本、指南書、とある国の輸出品一覧などが、年代もなにもかもがごちゃごちゃに並べられている。それとも、これはこの部屋を使っている写本師の、仕事の順番に収められているのだろうか。部屋の主に会っていない以上、ソキには分からないことだった。それに、この部屋にはひとの命の息吹を感じない。亡くなった写本師の部屋を、生前のままに保管しているのかもしれなかった。寮長の言葉を思い出す。世界分割の時にできた、散らばった世界の欠片。それが、この部屋なのだとしたら。大戦争時代に生きた写本師の、部屋なのかもしれない。
本棚に納められた写本たちは、眠りについているようだった。そのひとつがもし、ソキの武器だとするのなら。なにが目覚めてくれるのだろう。なにが、ソキを選び、武器となって共に戦ってくれるのだろう。自然と高揚する気持ちに、息を弾ませる。一冊の、本棚に収まる写本とは別の雰囲気を持つものが棚の一番端に収められていることに気が付いたのは、その時だった。視線が引っ張られるかのように、その一冊を見つけ出したのだ。白い本だった。その本は、真っ白に染め抜かれた花束のような、色を落とされるのを待つ雪原ような、不思議な印象をソキに与えた。表紙には純白の帆布が貼り付けられていて、背表紙にはなんの文字も書かれていない。題名も、著者の名前も。指先を、伸ばす。
爪がひっかかるように、本の背表紙に触れる。くっと指を折り曲げ、本を引き出そうとした、その時だった。
『……わたしは、あなたを守れるかしら』
歌声のように、空間に声が響いた。とうめいな空気に魔力が満ちて行く。薄暗がりに魔力の花が次々と咲いて行くように、満ちてはぱっと明るく輝き、星のように声が輝いた。
『ああ、わたしはほんとうに、あなたを守れるかしら。愛し子。鍵をかけて鎖した子。壊れ、砕け、鎖され、忘れてしまったあなたのことを、わたしは、わたしが、ほんとうに守れるかしら……』
「……誰、です、か?」
恐ろしいほどに、覚えてしまうほどに、怖さをなにも感じなかった。辺りには人影もなく、言葉を話せるものなどここにはなにもない筈なのに。声が聞こえる。『声』の形を作って魔力を響かせ、意識にそれを言葉だと感じさせる音が、聞こえる。耳ではなく、意識が感じ取る。降り積もる雪の、灯篭に照らし出されたやわらかな影のように。溶け消える灯りのように。ひそやかで静かで、思慮深い声が聞こえる。
『わたしはあなた。もうひとりのあなた。予知魔術師、あなたの、わたしは写本』
「しゃほん……」
『ずっと会いたかった、ずっと待っていた、ずっとずっと、触れられる、その時を、わたしは……ああ、けれど、幼い子。愛しい子。戦うことも、守ることも未だ知らぬあなたを、わたしは、わたしが、守れるかしら……!』
かなしむように、言葉が咲いて行く。響き、響き、空気をふわりと染め上げては満ちて行く。ソキはそっと、白い本を棚から抜き出し、両手で目の高さまで持ち上げ、見つめた。純白の帆布の、表紙の一部。本の中央部分に、ごくごくちいさな宝石が編み込まれていた。うすい、うすい、とうめいな、碧の石。ソキが幻視したことのある、己の魔力、その泉を抱き眠る森の、木の葉の色だった。鼻の奥がつんと痛んで、涙が出てきそうになる。息を吸い込みながら、ソキはその本をぎゅっと胸に抱え込んだ。ああ、これだ、と思う。これが、この本こそが、ソキの武器。
『守りきることが、できるかしら。わたしは、わたしが……ああ、けれど、わたしが……わたしが選んだ。わたしが、あなたを呼んだ。いちばんさいしょに目につくように。いちばんさいしょに、ふれられるように。だから、わたしが、わたしは……』
胸元から本を離して、ソキはその表紙を見つめた。鈍い光を灯して、ちいさな碧の宝石が輝いている。その石の名前を、ソキは知っていた。蛍石、あるいは、フローライト。
『わたしが、あなたを守ってみせる』
わたしは、あなた。あなたは、わたし。歌うように声が咲き、魔力が空気を染め変えて行く。
『わたしは写本、あなたの写本。祝詞を告げ、呪詛を囁く。あなたの声の全てを記す。あなたの言葉の全てを記す。わたしは武器、あなたの武器。あなたを浸食し、書き換えようとする『言葉』からも、きっとあなたを守ってみせる!』
洪水のように、ひかりが溢れた。眩しくて目を細めたソキの、左手の小指から輝きが溢れている。誰にも触れられなかった、誰の目にも映ることが叶わなかったアクアマリンの指輪が、氷のように溶け、水のような雫と化して消えて行く。役目を終えたと泣くように。大丈夫だと信じて、祈って、喜びの涙を零したかのように。指輪は溶け、そして消えてしまった。くら、とソキは眩暈を感じる。目を閉じてうずくまった瞬間、あたたかなひかりを瞼の裏側に感じた。太陽の光。薄暗く閉ざされた部屋の中では、ついぞ感じることがなかったもの。しりもちをついてしまいながら、ソキはぱちん、と目を開き、そのまませわしなく瞬きをした。おや、おかえりなさい、と穏やかに副寮長が声をかけてくる。ソキが座りこんでしまっていたのは、へにょへにょの手書き文字で武器庫、と書かれた『扉』の前だった。ナリアンも、メーシャも、ロゼアも、すでにそこに立っている。
待っていてくれると思っていた寮長が、なぜか副寮長と交代していることに一抹の不安、とするよりせりあがってくる嫌な予感を感じながらも考えないことにして、ソキは両腕で抱き締めるようにして持ち帰ってきた白い本に、視線を落とした。これが、武器。予知魔術師としてのソキに与えられ、ソキを選んでくれた。世界でたったひとつ、ソキの為の武器だった。