ゆっくりと歩いてくる青年の手に、杖は持たれていなかった。彼の武器がその形をしていないにしろ、歩くための補助具が必要ないのだと分かる。ウィッシュはソキよりはしっかりした足取りで談話室を横断してきた。のんびりと、余裕のある風に見えるのは足の運びが穏やかだからだろう。せかせかと急いで歩くことや、走ることは、きっと彼には出来ないのだ。エノーラが叫んだその通りに、彼は恐らく、走ると転んでしまう。ソキがおにいちゃんと呼び、寮生がウィッシュと呼びかける青年のことを、ロゼアはよく知っていた。とてもよく、覚えていた。二度と会えない筈のひと。他国へ嫁いで行った『花婿』である以上に、彼は死んだとされていたからだ。事故で。そうだ、事故。ああ、とロゼアは深く息を吐いて思い出した。詳しくは知らされなかった。なにも。事故であることと、死んだこと。それだけが屋敷にもたらされた報の全てで、後は風の噂が囁き告げた。
まるで、魔術が紡がれたような、そんな事故であったと。
「おにいちゃんです。おにいちゃん、こんにちはですよ」
コツ、と静かに足音が止まる。ソキの目の前で、茫然とするロゼアの手が届く場所で。声も出せない様子で、ウィッシュを凝視したままのロゼアの服を引っ張り、ソキは嬉しそうにはしゃいでいた。ウィッシュはソキの前に辿りついたことで一仕事終えた、とばかり息を吐きだすと、ゆっくり、ゆっくりした仕草でその場にしゃがみ込んだ。片膝をつき、ソキのことを見つめる。浮かべられたのは甘く、芳しいばかりの微笑み。ソキ、と優しい声で名を呼ぶ響きが、ロゼアの記憶をなお鮮やかに色付けた。ああ、彼は、彼が、確かに、間違いなく。
「うん、こんにちは。ソキ。……遅くなってごめんな、俺が、ソキの担当教官だよ」
「ソキの?」
「そう、ソキの……改めまして、魔術師のたまご。俺は白雪の国の、女王の王宮魔術師。風の属性を持つ、黒魔術師です。星降の国王陛下の指名を受け、我が女王陛下のお許しを得てこの場所まで来ました。これから、君が卒業を決めるその時まで。君の魔力の導きとなり、君の魔術の助けとなり、共に学んで行く力になるよ。どうぞ、よろしく」
きょとんとするソキにやわやわと言い聞かせるように、ゆったりとした響きでウィッシュは言葉を告げて行く。ソキはじっとウィッシュを見つめたままでこくんと頷き、手を伸ばしてロゼアの服の裾をきゅぅと握った。そして、感心しきった声で言う。
「おにいちゃん、今日はこのあいだよりずぅっと美人さんです」
「……昔からそんな気がしてたけど、うちのこホントひとの話聞かない。ソキ、こら、違うだろ。言うことあるだろ? 他に」
「にゃ? ソキですよ。よろしくお願いしますです。ソキねえ、一生懸命頑張りますですよ!」
呆れた顔つきで頬をぷにぷに指で突きながら叱るウィッシュに、ソキは不思議そうに声をあげた後、元気よくそう言い放った。うんまあいいかな、いいのかなぁ、いいことにしちゃえばいいのかな、うんなんかそんな気がしてきたからいいことにしようっと、と悩みをそのまま口に出して結論を出し、ウィッシュはソキの頭を親しく撫でながら立ち上がった。そこでようやく、ロゼアを見る。浮かべられたのは申し訳なさそうな、それでいて愛おしそうな笑顔だった。言葉に悩む僅かばかりの沈黙をへて、ウィッシュがすっと息を吸い込んだ。
「ソキは……ちいさかったから、俺のことを見てもすぐには思い出せなかったけど。お前はどれくらい覚えてる? ロゼア」
大きくなったな、と笑いながらロゼアに手を伸ばし、指先を頬に触れさせる青年の爪先は未だ『宝石の君』であると告げられても納得してしまうくらい、うつくしく整えられ艶めいていた。記憶の中のおぼろげな形と、恐ろしいくらい一致するのに、見上げる視線の角度だけがそれを裏切っている。あの時。最後に会って会話をした時、ロゼアはまだウィッシュより身長が低かった。ロゼア、とやさしくウィッシュが名を呼んで来る。それに、胸がいっぱいで上手く応えることができずに。ロゼアはじわじわと浮かんで来る涙に、目を強く閉じて息を吸い込んだ。思い出すのは、彼の死の報。その生も死も、嫁げばなにも伝えられない筈の傍付きの元にまで知らされ、届いてしまった彼の。死んだという、知らせ。
「……生きて、いたんですね」
「うん。……うん、死んだことにしてもらったんだ。迎えに来てくれた案内妖精と、相談して……もう二度と、俺があの家に戻らなくてもいいように。死んだことにして、学園に来たんだよ。卒業して、今は白雪の王宮魔術師をしてるけど。……ロゼア、ロゼア」
また会えたことを喜んでくれると嬉しいんだけど、わがままかな、と苦笑する気配に、ロゼアは目を開けて青年をまっすぐに見た。そのロゼアを見たソキが、びくんと驚きに身を震わせて、目をまんまるくする。ロゼアちゃん、とちいさく呼びやう声は不思議がって、訝しんで、ただ純粋に驚いていた。ウィッシュも、ロゼアの瞳にある強い意志のひかりに、やや戸惑ったように首を傾げている。息を、吸い込んで。ロゼアが問う。
「……シフィアは、あなたが、生きていらっしゃることを……知っているんですか? ウィッシュ様」
「フィア?」
シフィア、というのが『花婿』としてのウィッシュと共にあった傍付きの名前だ。赤く咲く花のような名を、ウィッシュはきよらかな響きでフィア、と呼んでいた。今でも舌に馴染んでいるその名を紡がれ、ロゼアは無言で頷いた。えっと、と困ったようにウィッシュの視線が空を泳ぐ。
「言ってない。というか……魔術師関係者以外は、誰も、俺が生きていることを知らないよ」
砂漠の陛下にだけはさすがにお話してあるけど、と付け加えるウィッシュに、ロゼアはぐっと下唇を噛んで息を吸い込んだ。向ける視線を強く、睨みつけるようにして告げる。
「おれは、いいです。おれは、いいけど、なんで……なんで、あのひとに、生きてるって、伝えてないんですか? なんで、伝えることが、できなかったんですか……っ!」
怒りで染め上げられた声は、容赦ない真夏の日差しのよう、空気を裂くように叩きつけられた。ロゼアちゃん、と呼ぼうとして動き、声を発さずにソキはくちびるを閉じる。よく分からない、と言いたげに少女が首を傾げたのを、彼らの近くに居る者のうち、チェチェリアだけが見ていた。愚かなほど、哀れなくらいに、宝石と呼ばれる彼らには分からないのだ。ロゼアの怒りと悲しみの理由が、宝石には上手く受け止められず、理解ができない。傍付きと永久の別れを経験していないソキにはなお、分からないのだろう。ロゼアとウィッシュを見比べ、おろおろとしてさらに視線を彷徨わせるのに、チェチェリアは腕を伸ばした。少女を腕に抱きとめ、ぽんと頭を撫ででやる。終わるまで静かに聞いておいで。わたしのいうことが分かるだろう、と囁く女性の声に、ソキはふたりを心配しきった顔つきでこくんと頷いた。息をつめて見守る視線の先で、宝石が瞬きをする。
だって、と途方に暮れた迷子のような顔でウィッシュは言った。
「フィアが、その……い、いやがるんじゃないかと思って……」
「は?」
ロゼアちゃんのあんな声ソキははじめてきいたですなんかすごく怒っている気がするです、とチェチェリアの腕の中でソキがぷるぷると涙ぐむ。ウィッシュも同じ気持ちのようで、なんでロゼア怒ってんのなんでなんで分かんないなんでっ、と混乱した様子で涙ぐみ、ちょっと今なにを仰ったのか理解できないのでご説明をお願い出来ますでしょうか、と目を細めるロゼアに、だからぁ、と怖々と息を吸い込み、首を傾げながら告げる。
「俺はね、ロゼア。あんまり……幸せに過ごせていた訳じゃなかったんだよ。大事にはされてたのかも知れないけどね。大事に仕舞いこまれてたっていう意味で。大きな、立派なお屋敷だったよ。一度しか全部見て回ったことがないくて、あとは広い……立派な、俺の部屋から、出してもらえたことはないんだ。だから、その……だから……だって。だって……だって、フィア、最後に、俺に、しあわせでいてくださいねって」
そう言ったんだよ、と『宝石』は告げた。愛を語るとうめいな声で。心の中の一番尊く、もっとも清らかで、ひときわ輝く想いを語る音色で。そっと目を伏せて思い出を零した。
「しあわせじゃなかったよ、なんて、言えない。寂しくて、辛くて、苦しくて……ずっとずっとひとりで、寂しくてしにそうだったよ、なんて、絶対。言えない。……俺を閉じ込めていたものは、全部ぜんぶ、壊して行ったから。なにかあっても、きっと分からないくらいに、して行ったから。だから、もし、俺が死んだことがフィアのところまで届いても。それまで、俺がちゃんと幸せだったって、思っていてくれるかな、って。フィアが願ってくれた通りに、幸せで、大事にされて暮らしていたって想像して、くれて。俺が、フィアが願ってくれた通りになれなかったこと、分からないままで。裏切らないで、いられるかなって、思って。……やだもん、だって。フィアのいう通りにできなかったから。それで、嫌がられたら……生きていけない」
最後の願いごとだから。叶えてあげたかった。ただ、それだけの理由で。己の生存を、今に至るまで告げていないのだと、ウィッシュは言った。ぐっと押し黙るロゼアを見つめ、ウィッシュに視線を映して、ソキはおにいちゃん、と宝石の名を呼ぶ。やんわりと向けられた視線を重ねて、ソキは透き通ったほんわりとした声で、呼ばなかったですか、と問いかけた。その意味は『宝石』だけが知り、けれどもロゼアも知っている。ウィッシュは唇にひとさしゆびを押し当て、泣きそうな顔で微笑した。
「呼んだよ」
そうして、歌うように告げる。
「何度も、何度も、呼んだよ。……でも、俺はお願いしておいたから」
「お願いです?」
「うん」
にこりと笑みを深めて、それ以上をウィッシュは告げるつもりがないようだった。ソキはそんな同族の姿をじっと見つめ、やがてもの分かりの良い様子でこくりと頷く。唇をほどんど動かさず、囁かれた言葉を。聞き届けたのは、恐らく、ロゼアだけだった。
「……フィア」
慣れた響きで紡がれる、それは。あまりにその存在を切望していながらも、同時に不在であるが故の幸福に満ちあふれていた。会わないでいるからこそ、自由な祈りを、幸福を願ってくれたその意志を、今も邪魔しないでいられるのだと。あまりに愚かに、純粋に、まっすぐに、信じ続けていた。零れた言葉を拾いあげられたことを知らず、ウィッシュがロゼアを覗きこみ、困ったように笑いかけてくる。
「言わないでいるのは、そういう理由。ごめんな? ロゼア。驚かせて」
「……っ!」
ロゼアが強く拳を握り、ウィッシュになにか告げようとしたその時だった。服をひっかけるように摘んだソキの指先が、ロゼアの袖口をくいくいと引く。はっとして少女を見たロゼアを、ソキは混乱し、やや怯えてもいる様子で見上げている。言葉を告げぬくちびるはきゅうと閉ざされ、泣いてしまう寸前にも見えた。ソキの手がおずおずと伸ばされ、かたく握られたロゼアのてのひらに触れる。じーっと目を覗きこまれたままでそうされたので、ロゼアは意識しながら、体から力を抜いて行った。ソキの手を、やわらかく包むように繋いで撫でる。ほっと安堵に笑うソキに、ロゼアはなんとか、冷静さを取り戻した。深く、この上もなく深く息を吐き、ウィッシュに向き直る。浮かべた微笑みと、言葉は、それでも本当のものだった。
「ウィッシュ様」
「うん?」
「生きていてくださって、ほんとうに……ありがとうございます。また、お会いできて、嬉しいです。ほんとうに」
ようやく、安心しきった笑みを浮かべて、ウィッシュがうん、と頷いた。ひとまず、落ち着いたことが周囲にも知れたのだろう。張り詰めていた談話室の空気がふっと緩んだのを感じて、ロゼアはゆるく苦笑いを浮かべた。ウィッシュは大仕事を終えた雰囲気で脱力しながらソファに向かいかけ、あ、と言ってふらつきながら振り返った。
「そうだ、ロゼア。俺のことはちゃんと、ウィッシュって呼んで? それか、先生とか、なんかそんな感じで。様じゃなくて」
「ウィッシュ、せん、せい?」
ぎこちなく呟き、違和感が拭えない様子で首を傾げているロゼアに、おかしげに肩を震わせて笑って。ウィッシュは静かな声で、もういいんだよ、と告げる。
「俺はもう『花婿』じゃない。……『宝石』じゃないんだから」
今は白雪の国の王宮魔術師、そしてソキの先生です。誇らしげに胸を張るウィッシュに、ロゼアは目を瞬かせながらこくん、と一度だけ頷いた。ウィッシュがソファに倒れこむように座りに行くのを眺めていると、ソキの手にぎゅっと力がこもった。ああ、うん、とほぼ無意識の動作でソキを抱きあげ、ロゼアはそういうことじゃなかったですけどでもこれでもいいです、ともにゃもにゃ呟いている少女の髪を、指先で梳き、慈しんだ。
だから俺は伝えた方が良いと言ったろう、と席につくなりやさしくたしなめられて、ウィッシュはぷーと頬を膨らませた。
「そんなこと言ったって。何回も言ってるけど、寮長? 俺、フィアに嫌がられたら生きていけない」
「何回も聞いてるが、お前がなに言ってんのか俺には未だもってよく分からないな」
「シルに言われたらおしまいだぞ、ウィッシュ」
ふかふかのソファに身を沈めながら、女王と下僕のようにしか見えないロリエスとシルに声をかけられ、ウィッシュはますます不満げな顔つきになった。花舞の、風の黒魔術師であるロリエスが、ナリアンの担当教官だ。長年、寮長シルの求婚を受け続けている女性は、今日もシルを相手にするつもりがないらしい。愛を囁かれながらブランケットやら枕やらを与えられるのを受け入れながらも、好意を告げられる言葉その一切を半ば無視している。相槌と返事だけはしているので、完全な無視ではないのである。うるさい、聞き飽きた、嫌だ、黙れ、などの言葉しか発されていないが、それでもシルは幸せそうに笑っている。女神の声が己に向かって発されている、その事実だけで幸せになれるらしい。ウィッシュはもの言いたげな目で二人を見たあと、不満とも諦めともつかない息を吐きだして、久しぶりの空間にぐるりと視線を走らせた。
談話室には会話を楽しむ為の机や椅子、ソファがそこかしこに置かれている。ウィッシュが座り込み、ロリエスにシルがかしずいているのは、その一角でのことである。部屋の、どちらかといえば片隅の方にあるひっそりとした空間に身を置きながら、ウィッシュは顔見知りに挨拶を済ませ、誰が示した訳でもないが集まってくる担当教員たちを手持ちぶさたに眺めていた。探してみればソキとロゼアも、ナリアンとメーシャと机を挟み、対面する形で置かれたソファに座ってなにか話をしているようだった。はー、と疲れた息を吐きながらあくびをし、それにしても、とウィッシュはひとりごちる。
「驚かせたのは悪かったけど、ロゼアもあんなに怒んなくたっていいのに……」
「いや、あれは驚かせたから怒ったんじゃないと思うぞ?」
一部始終は聞こえていたのだろう。溜息をつきながら現れたストルが、ウィッシュの頭をポン、とてのひらで叩きながら横に腰を下ろす。星降の、水の占星術師。砂漠の国出身でもある彼が、メーシャの担当教員だ。ひさしぶり、と嬉しげに笑いかけながら、『宝石』はますます訳が分からなくなったようで、むぅっとくちびるに力を込めた。それに、あ、駄目だ本当に分かっていない、とばかりの視線を向けて呆れたのは女王と下僕だが、ぺちりと額を叩いて行ったのはチェチェリアだった。楽音の、氷の黒魔術師である彼女が、ロゼアの担当教官だった。女性はしなやかな仕草でソファに腰かける。その動きですらなぜか優美な印象を与える女性は、俺なんでいま叩かれたの、と拗ねるウィッシュに、幼子に対するような微笑で告げた。
「お前の傍付きにすら知らせていなかったことに、怒ったんだよ」
「……だって。俺、フィアには幸せでいて欲しいんだってば」
「好いた相手が死んだと聞かされて、以後、幸せに過ごせる者は居ないことに気が付け、ウィッシュ」
眠たげに目を擦りながら言い聞かせてくるストルに、ウィッシュはしばらく沈黙したのち、あどけない仕草で首を傾げた。
「フィアが、俺のこと好きでいてくれたの、知ってるよ。だって傍付きだし……でも、傍付きだから、死んだとかそういうの別に今更じゃないかなーって。……悲しむ、かなぁ。そう?」
「うん。……うん?」
なんかちょっとおかしい気がする、というか今コイツなんて言った、と混乱する顔つきで相槌を打つストルに、ウィッシュは疲れ切った様子でつらつらと言葉を並べて行く。寝坊して遅刻したのでウィッシュは他の担当教員と比べて、僅かであっても眠っているのだが、元々の体力が無いに等しいのである。身に持つ疲労の具合は同じくらいで、頭がまだ半分眠っていた。だからこそ、考えなしの本音が零れ落ちて行く。
「傍付きが『宝石』を育てるんだよ、だって。他の誰かの元で幸せになるように、幸せでいてくれるように、長いと十五年。どんなに短くても十年、そうやって俺たちを『宝石』にしてくれる。言ったことあったかな。知ってる? 俺たちが『花嫁』とか『花婿』、傍付きは『宝石の姫』とか『宝石の君』とか、ただ『宝石』とか、そう呼ぶけど。俺たちがね、そういう風に呼ばれるのは条件があるんだよ。俺たちは、絶対にそれを満たしている……」
「……条件?」
初耳だと言わんばかり、眉を寄せて寮長が問う。学園在籍時代、それなりに交流を重ねていたロリエスも、ストルも、チェチェリアも、なにを言うのだとばかりウィッシュを凝視していた。ああ、そうか、言ったことなかったっけ、と『宝石』は息を吐く。それもそうだ。これは『宝石』たちだけが知る秘密。傍付きがそれを知っているのかは、知らない。ウィッシュは春の訪れを喜ぶ花のように、笑う。
「恋をすると『宝石』って呼ばれるようになるんだよ、俺たちは。それまでは、候補。相手は、まあ、時々例外もあるけど……傍付きだよ。自分の傍付きを好きになる。好きになって、恋をしてはじめて、俺たちはそう呼ばれるようになる。それで、そう呼ばれたら、もう絶対……絶対、どこか、遠くへ行くんだよ。幸せになってくださいって、ひたすら、それだけを祈って俺たちを磨き上げ、守ってくれた傍付きから離れて」
好きでいてくれたのは知ってるよ、と幸せな物語を綴るように、青年は囁く。
「だから、俺、フィアの……フィアに、俺は、幸せになったって思ってて欲しい。フィアがそう願って、送り出した通りに、俺はちゃんと幸せになったんだよって。フィアの……フィアの理想になれなかったんだもん、だって。フィアが、ちゃんと送り出してくれたのに、全然、だめだったんだもん」
「……だから?」
「だから本当は、死んだなんて知らせも届かなければよかったのにさぁ……でも、どうしても、死んだことにしないと駄目だったから、それは仕方がなかったのかも。でも、フィアに……フィアには、死んだことも、知らされなければよかったのに。ロゼアに怒られるくらいならさ。そんな、今更なこと、フィアは知らないでもよかったのに。知らせて、なに思う訳でもないだろうし。だいたい、ちょっとした事故くらいで済ませた筈なのに、まさか砂漠まで噂が行っちゃうとか。当主にだけ届けばよかったんだよ。当主にだけ知らせたかったんだよ、本当は。俺が死んだから、もうお金送るとかしないだろうし、援助も鈍ると思うっていう知らせも兼ねてさ。それだけでよかったんだから、傍付きにまで分かっちゃうなんて予想外だったんだよ……あーあ」
すん、と鼻をすするウィッシュが入学前に巻き起こした、その『ちょっとした事故で済ませた筈』の一件は、彼の国の王宮魔術師が総出でことの収拾に奔走し、未だ一帯は呪われて立ち入りが制限されている程度のものなのだが。噂は、恐らく風で運ばれた筈だ。宝石の死は、通常、傍付きには知らされないものだという。けれどもロゼアも、ソキも、ウィッシュの死を確かなことだとして知っていた。つまり、彼の死は届いてしまったのだ。不可解なもの、呪われた事故だとする報は、傍付きの心をどれほど痛めたことだろう。担当教員の誰もが分かるそのことを、しかし未だにウィッシュは理解ができないらしい。『宝石』は不可解な視線で沈黙されるのに拗ね切った態度で鼻を鳴らすと、ソキなら俺のいうこと分かるもん、というので、思わず誰もが頭を抱えた。そうか、これと同じ思考回路をしているのか、と全員の呻きが一致する。
寝不足の上に精神的な疲労が重なってぐったりとする担当教員たちを不思議そうに眺め、ウィッシュはごくごく暢気な様子で、あ、と何事か思い出した呟きを落とす。なんだ、と問うてやるストルの涙ぐましい優しさに気が付かず、ウィッシュは忘れてたんだけどさぁ、と目を瞬かせた。
「ソキの、というか、予知魔術師の候補ってどうすんの?」
どう、と言っても、それは彼らが決めることではなく、最終的に各国の王の総意が許可するものである。王たちに候補を示すことは出来るが、担当教員が勝手にあれこれできるものではない。そもそも、それは学園で生徒に教えることではないのだ。王宮魔術師として学園の外に出た場合、予知魔術師の『処置』に呼ばれることがある為、その立場にある者は知っていることではあるのだが。学園の生徒で、その存在を知る者は一割にも満たないだろう。魔術師を、同じ仲間を、それを苛むであろう悪意から守るべき者のことを。殺してやらなければいけないことを。ウィッシュ、と咎めるように呼んで来るチェチェリアの瞳をまっすぐに見返し、『宝石』はにっこりと笑う。
「ロゼアにしようよ。守る方」
「そうだった。こいつ、わりとひとの話聞かない」
額に手を押し当てて呻く寮長に、全世界でお前にだけは言われたくなかったと思うぞという視線を向けて呆れながら、ロリエスが問う。
「なぜ? ……傍付きだからか?」
「うん。ソキがいま、世界で唯一こころを開いてるのがロゼアだからだよ」
俺は同族でおにいちゃんだから、ちょっとは共感してくれたりもするだろうけど、と。それがなんでもないことのように、単なる事実のひとつであるように、ウィッシュは眠たげに告げて行く。
「ロゼアに守れないなら、ソキは他の誰にも守られようとしないと思う。絶対」
「……砂漠の国の黒魔術師。属性は、太陽。選んだ武器は」
指折り並べたてながら、チェチェリアの視線が離れた場所で談笑するロゼアを射抜く。
「……短剣」
「恐ろしいほど、条件としてはこの上ないな」
「まあ、ソキがそれに同意すれば、だけど……うーん、あとでこっそり聞いてみよう」
あ、守り手とかそういうのはあんまり言わないから大丈夫だよ、と全然大丈夫に聞こえない台詞をつらつらと並べたて、ウィッシュは眠たげにあくびをした。
くす、と。笑う、笑う、声がする。
「――が、いいの?」
何度も、何度も、繰り返し問う。じわじわと意識を染めて行くような、声が。
耳元で。響いたような気がして、ソキはびくんっと身を震わせて顔をあげた。ソキ、と訝しんで顔を覗きこんでくるロゼアに、少女はぎこちなく首を傾げる。
「……なにか言いましたですか?」
「俺? いま? ううん、なにも。……ソキ、つかれたか?」
メーシャもナリアンも、一瞬眠っていたらしきソキのことを心配そうに見つめていた。それに、大丈夫ですよ、と首を振って。ソキはすがるように、己の得たばかりの武器、白い帆布の本を両腕で抱き締めた。目を閉じれば、その白さが瞼の裏側に焼きついたように見える。星のようだと思った。黒く塗りつぶされるばかりの空に燦然と輝き、暗闇を寄せ付けず、見上げれば心を励まし、落ちつかせ、歩いて行く力をくれる。灯篭に燈る火のようなそれを、決して輝き絶やさぬそれを。ほのかに温かいように感じる、それを。ひとは時に、希望とも呼ぶ。
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