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 どうしてもその形を思い出すことが出来ない。大切なものだったのに。とてもとても、大切なものだったのに。たったひとつしかなかったのに。その時が来るまで、それを守っていなければいけなかったのに。ひとつしかなかったのに。他に代わりになるものなんてないのに。砕かれてしまった。壊されてしまった。砂漠の砂のように。万華鏡の煌きのように。すくいあげる指の間を、あっけなく零れ落ちて行くそれがなんだったのか、どうしても思い出すことが出来ない。どんな形をしていたのかを。なんの為に必要だったのかを。誰の為のものだったのかを。大切なものだったのに。大切にしていたのに。盗られてはいけなかったのに。どうしても、どうしても、必要なものだったのに。思い出さなければ。早く、早く。思い出して、ああ、でも、それは、なんだったのだろう。
 思い出せない。思い出すことが出来ない。どうしても、どうしても。胸の奥に降り積もる万華鏡の欠片。降り注ぐ光を虹の色に反射して煌く、砂粒のようなそれが。かつて、どんなものであったのか。その形を、色を。どうしても、どうしても。思い出すことができない。



 それは、悪戯な風に舞い上げられる木の葉を思わせた。くるくると円を描きながら立ち上った木の葉が、ふと風の流れからそれ、大地へやわり落下していく。落ちた葉は渦を巻く風に煽られて登り、けれどもまたすぐ、地へと落ちて行く。繰り返し、繰り返し。煌く魔力の欠片は形を成そうと収束しかけ、ぱきり、氷が割れるような、薄い硝子が砕けるような音を立てて散らばって行く。そのたび、ロゼアの指を包み込むように繋いだソキの手にきゅぅっと力が籠り、浅く早く繰り返される呼吸と共に、その意志が失われて行く。熱が出ている筈の体は熱く、汗ばんでいるのにその指先は驚くほど体温を失っていた。それはあたかも冷たい水に浸し過ぎ、体温を失ったままで、熱を呼びもどすことが出来ないでいるようだった。
 ぐったりと寝台に沈み込む体は、寝がえりを打つ力を失って久しく、すこしも動きはしなかった。ずっと眠れないでいるのだろう。瞼は閉ざされただけで、意識がまだそこへあるのがロゼアには分かっていた。片手を繋ぎ合わせ、もう片方の手でソキの髪を撫で続ける。ソキ、ソキ、と名を呼ぶ声に合わせて、唇が浅く早く、息を吸い込んでは吐き出して行く。その名が絶えれば息をすることを忘れてしまうだろう、と思わせる程にそれは弱々しく、また苦しげだった。ソキ、とロゼアが名を呼ぶに合わせて息を吸い込んだくちびるが、吐息を吐きださず、きゅっと力を入れて結ばれる。濃厚に立ち上るソキの魔力を、ロゼアは光の欠片として認識した。それは強い日差しを浴びて輝く、砂漠の砂を思わせた。
 雨風に洗われ、もっとも美しく砕けた岩石の欠片。無色透明な宝石。星屑すら連想させるそれ。ひとつの所へ収束していくそれが形を成せば、うつくしい宝石のように、星のようにも輝くだろう。けれども、それは形を成さない。涼しげに崩壊する音を立て、像を成す前に散らばってしまう。ひっ、と引きつけを起こしたようにソキの喉が音を立て、小さな体がびくりと震えた。力を入れ過ぎて震える瞼から、涙が滲み、零れ落ちて行く。けふっ、と乾いた咳を吐きだし、何度も、何度も嘔吐くように咳き込む合間に、ソキの声がやわやわと響いて行く。普段よりもっと形を成さぬその声が、なにを訴えているのか、ロゼアに理解できない訳がなかった。結晶化出来ない魔力が砕けて落ちるたび、ソキは咳き込み、無意識にこう口にする。痛い。嫌だとか、好きではないとか、そういう訴えをすぐ口にするソキが、痛みをあえて告げるのは極端に少ないことだった。
 砂漠の屋敷にあった頃、それは痛みという形を成す前に防がれた。ちょっとした違和を察知するに長けた傍付きたちは、かすかな痛みですら己の養育する『花嫁』、『花婿』に与えることをよしとはせず、それは頑ななまでに守られていた。またそうでなくとも、ソキの痛みは少女自身を守る恒常魔術によって瞬く間に消し去られるのが常であった。呪いのような守りの術は、それが発現してから常にソキを守り続け、病気からも、怪我からも、それらを知らせるどんな痛みからも少女を遠ざけ、消し去り続けた。予知魔術師が巡らせるその回復魔術について、寮長は報告書を読まされたからこそ知っており、副寮長は目にしたことがあるから把握はしていたのだという。だが、どちらも予想はしていなかった。不調を回復させ続けるその魔術が、正しく巡らないことが、ソキの体調を悪化させ続けることなど。
 最初にソキの不調に気が付いたのは、当たり前のようにロゼアだった。朝起きた時から、すこし熱があったのだという。普段より心もちぼんやりとするソキがロゼアに抱き抱えられて食堂へ現れた時、ナリアンとメーシャは口ぐちに食べ終わったら保健室へ行って今日はゆっくりしていなね、と少女を案じたが、それは差し迫った深刻さを感じさせるものではない、純粋に友を想う言葉だった。そこで普段とひとつ、違うことがあったとするならば、ソキの態度だろう。ソキはどうしてもロゼアから離れることを嫌がった。椅子に座らせようとするロゼアの首に腕を回し、いやですいやです絶対に離れたくないですロゼアちゃんの傍にいるです、と言い張り、中々一人で席に着こうとしない。ちょっとした騒ぎになったのを聞きつけた寮長が、洗練されきった一切の無駄の見受けられない無駄な動きで現れ、ソキをたしなめるまでその主張は続いた。
 寮長曰く、なに怖がってんだ、そんな風にしなくてもロゼアはすぐそこにいるだろうが、という言葉にナリアンがなに言ってんのこのひと、という視線を向けたのだが、それはあながち間違った指摘ではなかったらしい。ソキは思い切り不機嫌な、泣きそうな顔つきになりながらも無言で頷き、ロゼアのローブの端を片手で握り続けることで妥協した。普段より幾分、椅子の距離を近付けながら、ロゼアはソキに食事を促す。異変が現れたのは、食事の最中だった。恐らく、ソキは食欲もなく、体もだるかったのだろう。元気にならなくては、と思ったに違いない。ソキは大丈夫なんですよ、と己に言い聞かせるように言葉を口にした。魔力が巡り、体調はたちどころに良くなる、筈だった。ぱきん、となにか壊れる音がして、ソキがちいさな口を両手で塞ぎ、何度も、何度も咳き込むまでは。
 落ち着かせるように背を撫でるロゼアが、ソキ、と名を囁く。頷いたソキがぜいと息を吸い込みながら、なにかを告げかけた。きん、と音がして、ソキは悲鳴をかみ殺す。咄嗟に立ち上がったメーシャの肩を掴んだのは駆けこんで来た副寮長、ロゼア、と鋭く名を呼んだのはナリアンの肩に手を置いた寮長だった。いいか、それ以上ソキになにもさせるな、すぐ保健室に運べっ、という切羽詰まった寮長の指示に、ロゼアはソキを抱き上げ、学園に常駐する白魔術師の元へ駆けだして行く。薄い氷がひび割れて行くような、なにかが砕ける音は断続的に続き、白魔術師がソキを診た時には、すでに瞼が降ろされていた。白魔術師が下した診断は、二つ。最初の不調は、恐らく属性にないなんらかの魔術を発動した反動で、これは放っておけば自然回復する筈のもの。単なる疲労に近く、発熱やだるさ、咳を伴い、風邪の初期症状だと思っても間違いはない。
 深刻なのは、次の不調。なんらかの不調で魔術式がほんの僅か乱れ、噛み合わなくなり、発動しなくなっている。その乱れがどうして現れたのかは分からない。成長途中の魔術師にはよくあることで、これも自然に治るのを待つしかないが、不調が二つ重なっている上に、生来の体力のなさ、体の弱さがあだとなる。これがもし、ロゼア、メーシャに起きたことならお昼寝するくらいで回復してくるだろう。ナリアンでも、一昼夜寝込むくらいでなんとか元通りになるに違いない。深刻なのは不調が起こっているさなかに噛み合わなくなったことであり、この魔術が恒常的に巡っていること、一定のところまで体調が回復するまで発動し続けること、そして、それを止める術がソキにはないこと。
 噛み合わないままに発動し続ける魔術はすでに呪いに等しく、けれども元は祝福の性質すら帯びた回復魔術であるからこそ、消してしまうことは難しい。一刻も早くかけ違えた釦が正しい位置に収まることを祈るしか、今できることはない。そう告げた白魔法使いは、ソキが最も安心できる場所で横にしておいてやれ、とロゼアに告げ、対処できるであろう可能性を持ったヤツに連絡はしてやる、と言った。ツフィアかリトリアか、さもなくばフィオーレ。この三人なら可能性があるが、一人は連絡自体が通じない可能性が高く、一人は学園に来られる可能性がほぼなく、もう一人は朝から国外に出かけていて連絡を繋げられるまで時間がかかる。誰かが間に合うか、さもなくばソキが自力で歪みを修正するか。待つしかできない、待ってろ、と告げられ、ロゼアはソキを連れて自室へと戻った。
 寝台を整えてソキを寝かせ、空気を一回入れ替えて、環境を整える。ナリアンとメーシャには薬の処方を紙に書きつけて託し、ソキが食べられそうなものの用意を頼んで、ロゼアは己の『宝石』へ、寄り添うように腰を降ろした。手を繋ぎ、髪を撫で、名前を呼び続ける。うん、と返事をする代わりに時々うっすらと目を開き、そこへロゼアが居ると分かると甘くとろけるような笑みを浮かべて、繋いだ手にきゅぅと力が込められた。巡る魔術と、その痛みにソキが疲れ切って反応できなくなってしまっても、ロゼアはずっと手を繋ぎ、名を呼びながら髪をそぅっと撫でている。か細い呼吸は時々途切れ、乾いた咳になって吐き出される。喉の通りを良くする香草の匂いが部屋に満ちているが、あまり助けにはなっていないようだった。輝きながら円を成す魔力が、またぱきり、音を立てて砕け散って行く。
 どこかで、笑う声がした。ソキの髪を撫でていた手から、力が抜け落ちる。触れる動きが変わったのに気が付いたのだろう。うっすらと瞼を開き、ソキの瞳がロゼアを映しだす。
「……あ、ちゃ……?」
 ロゼアは、それに応えなかった。ひゅうひゅう、苦しげな息を吸い込んでは吐き出している、ソキのほっそりとした白い首に、指先を這わせる。極端な怯えにソキの体が跳ね、目が大きく見開かれた。けふっ、けひゅっと苦しげに乾いた咳を繰り返し、ソキはいやいやと首を振る。
「あ、ちゃ……や、やっ、触らなっ……くび、や、やぁっ、やあぁっ!」
 怖い、怖い、怖い、と全身で訴えるソキの意思をまるで無視しているかのよう、ロゼアはすぅ、と慈しみ愛でる動きでソキの首、その肌を指先でなぞった。何度も、何度も咳き込みながらソキは息を吸い込み、ようやっと、その名をくちびるで紡ぎ上げる。
「――ロゼアちゃんっ!」
『ロゼア、くん?』
 どうしたの、と慌てた様子で入ってきたのはナリアンだった。ロゼアは夢から醒めた様子で瞬きを繰り返し、どうしたって言われても、と首を傾げてみせた。ナリアンが傍までくる僅かな間に、手はソキの首から外れ、また髪を撫で梳かしていた。
「……なにが? そんなに慌てて、どうしたんだ? ナリアン」
『……ソキちゃんが、泣いてた気が、して。……声が』
「ソキが?」
 慌てて『宝石』を凝視するロゼアの顔を、横からひょいと覗き込んでナリアンは意志を揺らした。
『……気のせい、だった、かな』
「なにが?」
 ひょい、とさらにナリアンの上からソキを覗き込みながら告げた男に、ロゼアはぎょっとして身を仰け反らせ、口をはくはくと動かした。咄嗟に、声も言葉も出てこない。半分圧し掛かられている為に、上手く振り返れないナリアンは、誰かも分からないらしい。えっえっなに誰寮長なの寮長だったら俺はとりあえず拳を顔面にぶちこめばいいのそうなのそうだよねよしやるね、と大慌てで決意して手を握るナリアンに、わああああっ、と叫んで、ロゼアはソキの髪を撫でていた手を外し、その腕を掴んで止めた。
「違う、寮長じゃない!」
 直後、部屋の入口付近でぶふおっ、と笑いに吹き出す音がした。それをうんざりと振り返り、ナリアンの上から退きながら、砂漠の王はちょいちょいと手招きをする。
「なんだその愉快な人違い……フィオーレ、笑ってないではやく来い」
「だ、だって、そこでなんで寮長……! え、ナリアンどうしちゃったの? 常日頃寮長からどんな扱いされてんの? そういう感じに可愛がられてんのぶふっなにそれ面白い」
「フィオーレ。俺は同じことを二度言うのが嫌いなんだが? ……笑ってないで、はやく、来い」
 あとお前は邪魔だからちょっとこっち来てろ、とナリアンの首根っこを引っ張って部屋の入口へ向かう砂漠の王は、黄金の瞳でロゼアを一瞥したのち、なにも言葉をかけずに距離を開けた。部屋の入口付近で王とすれ違い、えっなに俺今どうなってるのこの人教科書とかで顔を見たことがあるんですけれどもいやまさかそんな、と混乱しきった顔のナリアンにまたおかしげに笑ったのち、フィオーレは軽やかな足取りで、寝台に寄り添うように座りこむロゼアと、眠るソキの元へやってきた。
「やー、半年に一回の視察が今回砂漠の国でね、陛下と一緒に来てたんだけど、なんかソキが自家中毒起こしてるっていうからお見舞いにね? この状態、いつから?」
「……朝から、です」
「そっか、そっか。よく頑張ったな、ロゼア……そのまま、手は繋いでおいで。絶対離さないで」
 言う間に旅装を脱ぎ捨てたフィオーレが、ぐるりと肩を回して寝台に身を伏せる。口付けるように額を重ね、顔の距離を近くして、フィオーレはうっすらと微笑んだ。
「慌てちゃったんだな。大丈夫、だいじょうぶ……そんなに急がなくても、誰もお前を置いて行きやしないよ」
 ぱきん、と音がした。壊れる音だった。それでいて、硝子の花が蕾をひらく、そんな優しい音にも聞こえた。ふふ、と優しく笑みを深めたフィオーレが、静かに息を吸い込んだ。
「……ひかりは口付け、癒しの花が咲く。その透明な花びらを、風は運んで行く。遠くへ、遠くへ。指で指し示す青空、瞳が追いかける地の果て、その先へ、遠くへ」
 魔術詠唱だ、とすぐロゼアは気が付いた。戸口で居心地が悪そうにしていたナリアンも、はっと息を飲んで白魔法使いを見つめる。予知魔術師のように正確な文言を口に出し、魔術を発動させる魔術師は少ない。それはあくまで基礎であり、彼らは己の魔力と性質を学んだのち、世界でたった一つ、己だけの魔術式を組み直し、それによって力を発現させて行くからだ。市販の服に手を入れて、体の形にぴったりと合わせるように。組みかえられた白魔法使いの言葉が、ひっそりと空気を震わせて行った。それは子守唄のように優しく、戦歌のようにこころを震わせた。
「……アイツが詠唱するの、久しぶりに聞いたな」
 悪かったのか、と呟く砂漠の王の言葉は、幸いなことに誰の耳にも届かず消えて行く。やがてフィオーレが息を吸い込み口を閉ざした時、ソキの呼吸は深く、ゆっくりと落ち着いたものに変わっていた。赤らんだ頬から熱が引いていないことが分かるが、うん、と満足げに笑ってフィオーレは身を起こす。
「よし、これで大丈夫。……ロゼアは、ソキが起きたらすぐ、魔術で回復するのはやめなって言い聞かせること。ソキは多分、自分でやってるんじゃないからそんなの言われても分かりません、とか言うだろうけど、ちゃんと言い聞かせな。ロゼアが言うんなら、ソキは聞くから。恒常魔術が切れるとなると、今まで以上に……屋敷にいた時か、それよりちょっと弱いくらいに、体調を崩しやすくなると思うけど、数ヶ月の我慢な。そういう対処は、ロゼア、慣れてるだろ? よろしくな」
「はい。分かり、ました……」
「上手く行く時もあると思うよ。俺も、だから今まで見て見ぬふりしてた。回復は、ソキの日常生活の助けにもなるからね。……でも、もう、だめ。辞めた方がいい。今は俺が、半ば無理矢理落ち着かせたけど、ソキが魔術師として成長していく以上、必ずこれは起きると思う……しくったなぁ。もうちょっと早く、気がついてあげればよかった」
 ごめんなー、と眠るソキの頭を気が済むまで撫でて、溜息をつきながらフィオーレは立ち上がった。うん、と凝り固まった体を腕を伸ばすことでほぐしながら、もの言いたげなロゼアに視線を重ね、嬉しそうにふにゃりと笑う。
「ロゼアは、相変わらず、ソキのこと大事だね」
「はい。……あの」
 戸惑いながら何事か告げようとしたロゼアに、フィオーレはぱたぱた、手を振って言葉を遮った。
「待って。うーん……うん、たぶん、ロゼアが聞きたいこと、俺はすこしは分かるけど。それは多分、担当教員に聞いた方がいいと思うよ。ウィッシュじゃなくて、チェチェリアね。……リィも一回こんな風に崩れたけど、ここまでじゃなかった筈だけど、なぁ」
 まあ同じ予知魔術師でも形が違うから当たり前か、とひとりごちて、フィオーレはすたすたと砂漠の王の元へ歩いて行った。その横に硬直して立っていたナリアンに、もういいよ、と告げ室内へ押しやってから、フィオーレは苦く笑って首を傾げる。
「なに、陛下。不機嫌な顔しちゃって」
「あれはなんだ?」
「自家中毒……。歩きながらでもいい? 陛下」
 ここだと聞こえるから、とロゼアとナリアンを気にしながらのフィオーレに、砂漠の王は戸口に預けていた背をあげた。立ちなおし、何処へと向かいかけて、砂漠の王はくるりと振り返った。
「ロゼア!」
「はい!」
 恐らくは背を正しているであろうまっすぐな声が、すぐ跳ね返ってくる。それに笑みを深めながら、砂漠の王は声に命令の意志を乗せ、告げた。
「親に手紙を書いてやれ。煩くてたまらん」
「ぶふっ」
「笑いごとじゃねぇよ、フィオーレ。仕事にならん。……余裕があったら、ソキにも書かせろ。お前の両親に向けてと、兄に向けてな」
 返事を聞かず、歩き出した王の背をフィオーレが追いかけて行く。階段を降りる所で横へ並び、フィオーレはそっと、潜めた声で囁いた。
「魔力の大きさは『手に持つ器』によって表されます。形は、一人一人、違う。それはあくまで例えではありますが、でも確かに、俺たちの中にそれはあって、常に自覚できるものです。……ソキの器は砕けてる」
「……はぁ?」
「壊されて、砕けて、欠片になってる。消された訳じゃないから、魔術はちゃんと使える。ウィッシュは相当慎重に授業を進めていると聞きました。たぶん、そのせいだ。粉々になった欠片を、どうにか、復元させようとしてるんだと思う。それが可能かどうかは置いておいて……使える魔術が増えて行けば行くほど、そのたび、ソキの魔力は不安定になる。収まるべき器が、どこにも存在していないから。それでも、なんとか安定しているのはね、陛下。ソキのあの指輪がそれを助けてくれているからで、ソキがまだ未熟な魔術師だから」
 とんとん、と階段を降りながら、フィオーレは一度だけ強く、目を閉じた。
「……『ひかりの前では煌き』」
 伝え聞いた言葉を、口に出して繰り返す。
「『闇の中では夜の一色に。風と共にあれば流れ、太陽の元では濃い影を落とす。鏡の反射で、それでいて違う。万華鏡と虹の七色。くるくると色を変え形を変え、決して安定しない。目に見えるのに決して触れさせない。蜃気楼で、水鏡。映し出すだけで、どこにもいない』入学式の祝福で、星降の陛下は、ソキにそう言ったそうです。……『お前は自分のかたちを思い出せるよ。万華鏡。虹の七色。砕けたものが、本当はなんだったのか』とも言ってくれたそうだけど。かなり条件ついていたみたいで……」
「ああ。……ああ、それ、そういうことだったのか」
「たぶん……。ともあれ、安定しないことは確かです。決して安定しないから、こそ、不意の魔術発動が上手く行かなくなって、今日みたいになる。……成長していくにつれ、どんどん、不安定になっていく」
 そして容易く、暴走は引き起こされるだろう。魔術師としての禁忌に近いそれは、予知魔術師としては致命傷となる。どうにかしてやらないと、と拳を握るフィオーレに、砂漠の王は拒否を許さぬ冷徹な声で、問う。
「あと、どれくらい保つんだ?」
「……講じる手がなければ、一年」
「手を尽くせ、白魔法使い」
 その期間を四年に引きのばせば、俺たちが守ってやれるだろう。告げる王に、フィオーレは無言で頷き、トン、と音を立てて階段を降り切った。そうしてから改めて気が付き、周囲に視線を巡らせてから、首を傾げる。
「ラティ、どこ行ったんだっけ」
「……遠目にメーシャを確認して喜びに崩れ落ちて動かなくなったから、来る道に捨ててきた所までは覚えてるんだが」
「あー、じゃあ寮長が回収してくれたかなぁ……陛下、俺ちょっと寮長のトコ行ってきますね」
 回収してきたら帰りましょう、と告げるフィオーレに頷いて、砂漠の王は一人、寮の中を歩いて行く。迷う風もなく足を進めたのは、砂漠の王宮へ続く『扉』の前だった。人気もなく、静まり返ったその場所で、男は『扉』に手をかけ、開く。なんの引っかかりもなく開いた扉は、向こう側に見慣れた景色を映しだし、正常に働いているようだった。遠回りをして帰らなくてもよさそうだ、と息を吐き、王はふと窓ごし、広がる空を仰ぎ見る。灰色の雲が一面に広がっていた。晴れ間は、終ぞ見えないままだった。



 せいやぁっ、と謎の掛け声をかけて『扉』を開け放ち、覗き込んで、ラティは沈黙した。傍らに立っていたフィオーレは顔をそむけ、口元に手を押し当ててぶふぅっ、と笑いに吹きだしている。おやまあ、と申し訳なさそうに副寮長が息を吐き、寮長は潔く、砂漠の国王に頭を下げた。
「申し訳ありません。まだ……使えないようです」
「……五分前までは大丈夫だったんだが」
 向こう側に広がる景色はなく。白く濁った空間が、開け離れた『扉』の先に揺れるばかりだった。無言で『扉』を閉めたラティが、いっせーの、せっ、と声をかけ直してもう一度開く。結果はなにも変わっていなかった。ちょっと私たちがなにをしたというの、と悲嘆にくれて場にしゃがみ込むラティの肩を、フィオーレがぽんぽん、と手で叩いた。
「諦めて、星降経由で帰ろうな? あっちは繋がってるんだし……」
「な、なんで砂漠ばっかり。砂漠ばっかりー!」
「つーか」
 呆れかえった表情で首を傾げ、砂漠の王は溜息をついた。
「お前らなんかやってる訳じゃないんだよな?」
「なんかって、なんですか?」
 無実を訴えながら涙目で問うラティに、砂漠の王は気まずそうに視線を彷徨わせた。沈黙の後、よし、と頷かれる。
「察しろ」
「無茶ぶりは止めてください」
「もう良いから帰ろうぜ……? 遠回りでもいいじゃん。な?」
 ほら立って、帰るぞー、とラティを引っ張って歩きながら、フィオーレは先に行ってしまった王を追いかけて行く。迷う場所でもないが案内に先導する寮長を遠く眺めながら、ガレンはなんとなくその場に残り、中途半端に開いていた『扉』に手をかけた。そして、目を見開く。そこは、砂漠の王宮へ繋がっていた。嵐の前兆のように、梢が揺れ動く音が響く。砂を焼く、強い日差しに火の熱を宿した風が吹きつけ、ガレンは思わず目を閉じた。なにかを嘲笑うかのよう、ローブの裾がばたばたと激しく揺れ動く。ぐっと腕を引っ張られる感覚があった。踏ん張った足が床から離れ、開け放たれた扉の向こうへ体が倒れ込みかける。その時だった。
『――っ!』
 神経を貫いて行くかのような声にならぬ叫び。悲鳴のような、血を吐くようなそれに、ガレンは強く引かれる感覚から解放された。浅い息を繰り返しながらその場へ座りこむガレンのほんの目の前で、『扉』はひとりでに、音もなく、閉じた。酷く混乱する意識に息を乱しながら、ガレンは震える手を口元へ押し当てる。吐き気がした。眩暈がする。己の身を一瞬にして貫いて行った強い魔力が、ほどなく、この身から意識を奪い去っていくだろう。覚えていられるだろうか。否、忘れてしまってもいい。いつか必要な時が来る。その時に、必ず、それを思い出すことができれば。口唇を強く噛みながら、ガレンは廊下に背を預け、崩れて行く意識をかき集めて息を吸う。ガレンは、吐息に乗せて名を囁いた。腕を引くその魔力を断ち切り、彼を救った悲鳴の主。学園に入ったばかりの予知魔術師の名を、囁き、青年は意識を失った。

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