学園の裏手には、小高い丘が広がっている。妖精の住まう花園程ではないが、細身の草が生えそろい、小ぶりの花がちらほらと咲き、夜風に揺れていた。周囲を木に囲まれた空間は、校舎の飾りや灯篭の明かりも遠く、星を仰ぎ見るに絶好の薄闇を保っていた。そこへ呼び出され、星座版とスケッチブックを教員から手渡されたソキが告げられたのは、自分で決めた星や星座を書き記せ、というものだった。星の動きでもいいし、物語でもいい。全く星についてを知らなければ天文部や説明部を捕まえて話しを聞くのでも可。提出は後日、と言い残し、教員は愛娘に綿飴を買いに行くべく丘を風のように駆けおりて行ってしまった。それが、数十分は前のことである。
全くなにも書かれていない、真白いままのスケッチブックとにらめっこしながら、ソキは一人で丘の上に腰を降ろしていた。ごく正確なところを表すのであれば、一人きり、ではなく。無言で、じわじわ泣きそうな気配を濃厚にするソキの手元を背からひょいと覗き込み、溜息をついたのは寮長だった。ロゼアではない。学園に帰ってからもあくまで一人で立って歩けると告げたソキを、ロゼアは強引に抱きあげようとした。それを止めたのが寮長だった。以後、俺が見てるから、とロゼアを追い払い、寮長はソキにつきまとっている。なにを言う訳でもないので、正直ものすごく気配が邪魔である。ぷぷー、と頬を膨らませながら、ソキは心底嫌そうに寮長を振り返った。
「寮長、じゃまです。あっちいってくださいです」
「課題終わるのか? ……じゃまとか、あっち行ってじゃないだろ? 分からないので、教えてください、だろ? はい、繰り返して言ってみ。それができたら、手伝ってやるから」
「やーでーすーぅ……ソキ、ちゃんと、お星様のお話知ってるです。だからそれ書くですよ」
課題は、それでもこなせる筈だった。寮長があっち行ってくれたら書くです、と言い張るソキに、シルはものすごく駄目な子を見守る眼差しで、ゆっくり、噛んで含めるように言った。
「お前、それが、どの星の話か分からないだろ?」
「……や、やーん! やぁああんっ! 寮長に教わるの、ソキ、やですやです! やあぁあんっ! ソキちょっと図書館行くことにするです!」
「ははははは。なんでそんなに嫌なんだ? んー?」
立ち上がろうとして上手く行かずにじたばたもがくソキと、それを絶妙な力加減で押さえ付ける寮長に、丘で星を見つめる者たちが遠巻きに向ける視線は、兄妹のじゃれあいを見守るがごときあたたかなものだった。そろそろ本気で泣きそうになりながら、ソキは涙目で寮長を睨みつける。
「だって寮長、ソキのこと怒るですよ!」
「理由があればな」
理由なく怒ったり叱ったりしたことないだろ、と苦笑するシルに、ソキはぴたりと動きを止めたのち、しばらく、真剣に考え込んだ。
「……あれ? 寮長、理由がないとソキのことを怒らないです?」
「お前、意味もなく俺が怒ってるとでも思ってたのか……?」
「ちがったですね……!」
握りこぶしで感心するソキに、寮長はにっこりと笑って。その無防備な額に、ごく軽く、指を弾いて当てた。怒ったですううううっ、とぴいぴい半泣き声で抗議するソキに、今の理由あっただろうが十分過ぎるほどにな、と言い聞かせながら、寮長は、ふとこちらへ歩んでくる足音に気がつき、ソキを背に庇うように体の位置を変えた。誰何の声をかけるでもなく。ゆらり、無色の波紋が寮長から広がるさまをソキは幻視した。意識していなければそれと分からないほど繊細に広がって行く魔力は、蜘蛛の巣を思わせた。そこへ足を踏み入れたが最後、敵意を持つ者に対しては迷いなく攻撃が仕掛けられ、あるいは防御の為の魔術が展開するのだろう。視認は不要とばかり目を閉じて息をひそめる寮長に、ソキはきゅぅと眉を寄せ首を傾げた。学園で、なにをそんなに警戒することがあるというのか。
不思議に思いながら、ソキは寮長の背中を人差し指でつっついた。
「どうかしましたですか? というか、寮長は、なんの魔術師さんなんです? ソキ、そういえば知りませんですよ」
「……内緒」
つーか今聞いてくるとは思わなかった、と呆れ顔で警戒を解いた寮長は、歩んでくる者の正体を知ったのだろう。安堵に緩んだ表情で立ち上がり、出迎える為、薄暗がりに向かって手を差し出した。
「そこ、足元の草結んであるから。転ぶなよ? ハリアス」
「え? えっ……きゃあぁっ!」
「……寮長はいたずらっこさんなんです?」
言われた直後、悲鳴をあげて転びかけるハリアスの腕を引き、危なげない仕草で抱きとめてやる寮長に、ソキは心から白んだ目を向けた。寮長はハリアスの肩をぽんと手で叩いて落ち着かせたのち、体を離しながらソキを振り返って、笑う。
「仕方ないだろ? 世界が俺にそうしろ、と囁きかけた結果だからな……!」
寮長に囁きかけるそのはた迷惑な世界は、速やかに反省のち消滅してくれないものか、と一部生徒が時折痛切に想っているのとだいたい同じような感想を抱き、ソキはふるふるふる、と首を横にふって息を吐きだした。どうして寮長と長く会話をしていると、それだけでちょっぴり頭が悪くなったような気持ちになってしまうのか。というかなぜ、寮長と会話というものを試みようとしてしまったのか。まずそこから間違えてしまっていた気がして、ソキはやや遠い目になり、過去の行いを反省した。そののち、ソキは一応落ち着いたものの、まだ胸に手を押し当てて深呼吸をしているハリアスに、にっこりと笑いかけた。お前その笑顔で俺にも対応してみろよ、とぶつぶつ文句を言ってくる寮長のことなど完全に無視である。いったいどうして、ハリアスと寮長に同じ対応などしなければいけないのか。
その昔、お前はロゼアだけではなくて俺にも懐くべきだろう妹として、と言いだした兄に抱いたのと全く同じ、なにを言いだしたのかちっともさっぱり分からないのでもうソキに話しかけないでくださいですよ、という感想を抱きつつ、ソキはにこにこと心からの笑みで、ハリアスにちょこりと首を傾げてみせた。
「ハリアスちゃん、こんばんはですよ! お怪我なかったです?」
「こんばんは、大丈夫よ……ありがとうございました、寮長」
「いや、俺こそすまないな。お前を転ばせたかった訳じゃないんだが……星を見に来たのか?」
じゃあ誰を転ばせたかったんですかナリアンくんですかまたナリアンくんなんですか、となじるソキの視線をまるっと無視してハリアスへ問う寮長に、少女はソキの隣へふわりと座りこんだのち、持っていた本と星座版を、胸元へ抱き寄せるようにして告げた。
「はい。すこし気になったものですから……ソキちゃん? あまり、年上のひとをそうして睨んではいけません」
「寮長が草結ばなかったらハリアスちゃん転びそうにならなかったです」
「ソキちゃん」
いけないと今言ったでしょう、と。叱りつけるのではなく、たしなめるのともすこし違う、しっかりと言い聞かせて理解させようとする声の響きに、ソキはぷーっと頬を膨らませた。ちがうですよ、ソキわるくないですよ、と訴えてくるソキにもう、と息を吐き、ハリアスは本を抱く腕を離した。荒れた気持ちを宥めるように、ハリアスの手はソキの頭に触れ、一度だけそっと髪を撫でて行く。
「……私を、心配してくれたんですよね?」
こくん、とソキは頷いた。そぉっとハリアスを伺うソキの瞳は、怒っていないか、嫌われないかを不安がるものだった。大丈夫ですよ、と微笑みかけ、ハリアスはソキの顔を覗き込む。前髪が触れ合うほど近くに顔を寄せて、ハリアスは柔らかな声で囁いた。
「ありがとう、ソキちゃん。……でも、寮長を睨むのはいけないことよ。分かった?」
それに、分かりましたですよ、と言うのは、ソキにはとてもとても抵抗のあることだった。寮長がソキを見つめ、楽しげに口元を緩めて笑っているのが見えているので、なおさらである。十秒数えて、さらにもう十秒待ってもハリアスが諦めてくれないことを理解して、ソキは口の中に入れたピーマンをどうしても飲み込めない時と同じ表情で、ぷるぷると震えながらくちびるをひらいた。
「わ……分かりました、です……ソキ、寮長、にらみませんですよ」
あんまり、と早口でちいさく付け加えた言葉は、聞こえていたのだろう。仕方ないですね、と苦笑しながらもよくできました、とソキに笑いかけ、ハリアスは視線を星の輝く夜空へと移動させた。ひとつ、ひとつの星の輝きを、瞼の裏に閉じ込めるように。ゆっくりと瞬きをして、ハリアスは深く満ち足りた息を吐き出した。
「……どうしてかしら、ずっと、どきどきしているの」
しあわせで。ほんのすこし泣きそうで。落ち着かないんです。目の奥に焼きつけた星に祈るような声で、ハリアスは誰の答えを望むでもない声で静かに囁いた。
「ようやく、誰かに会えたような……会える、ような、そんな気がします」
「可能性の欠片が降る夜だからな。幸福な出会いの先触れだと思うが?」
気分が悪くなる警告じゃなくてよかったな、とそのことを心から安堵している表情で告げる寮長に、ハリアスは目を開き、はい、と一言頷いた。濃瑠璃の空を流れて行く銀の筋を見送りながら、ソキはううん、と首を傾げる。
「流れ星は、可能性の欠片なんです?」
「魔術師には、そう言い伝えられているな。占星術師が読みとる、夥しい程の可能性未来。その、一欠片が光を帯びた流星となり、この夜に魔術師の前に姿を現す。それは時に警告であり、時に祝福、時に災厄を教え、また時には先触れとなる」
「……ソキ、なぁんにも分かんないです」
しょんぼりしながら唇を尖らせるソキに、ハリアスが傍らに置かれたままの星座版を手に取り、差し出した。ハリアスのものは、彼女の膝上に置かれている。きょと、と見返すソキに星座版を手に取るよう促しながら、ハリアスは指でひとつの星を指し示した。
「見て、ソキちゃん。これが、今日の夜空を図にしたもの。……よく見たら、顔をあげて。空を見て……あれが」
デネブ、アルタイル、ベガ。指先できれいな三角形を空に描きながら、ハリアスは迷いのない声で言った。
「よく、見てあげて。魔術師の守護星は、必ず、私たちを呼んでくれているの。……赤い星がアンタレス。さそり座の星。赤星や、大火たいか とも呼ばれる星」
「……ハリアスちゃん。あれは?」
空に。ひときわ輝く青白い星を見つけて、ソキはその名を問いかけた。息を吸い、あれは、とハリアスは眩しげに目を細める。
「スピカ。おとめ座の星で……真珠星と、呼ばれることもあるわ」
「あの星、さっきも、見たです。ソキがね、夜を、呼んだ時に……一番、光って、見えた星……」
「それなら、あれがソキちゃんの星ね。さあ……もう、見失わないであげて」
白い手で懸命に指差されたひかりが、ソキの未来。うん、と頷いたソキに、ハリアスは満足げに笑って白紙のスケッチブックを手渡した。それも、もちろんソキのものだ。なるべく見ないように脇へ避けておいたのを、拾いあげていたらしい。
「はい、それじゃあ、課題を終わらせてしまいましょうね」
「がんばりま……寮長はなんで笑いを堪えてるですか。なんで笑いを堪えてるですか!」
「ソキちゃん! スケッチブックで寮長を叩こうとしないの!」
ソキがスケッチブックで全力で寮長をひっぱたいたとて、大した衝撃になどなりはしない。痛くないと思うから別に構わないけどな、と告げる寮長にそういう問題ではありませんと眉をきりりとつり上げて言い放ち、ハリアスはもう、と困った風に息を吐きだした。
「寮長も。ソキちゃんをからかわないでください。それとも、なにか、別に楽しいことでもありました?」
「いや、ハリアスだとソキが素直になんのが面白くて」
「ハリアスちゃん。ソキねえ、寮長は叩いてもいいと思うです」
左右から体を挟むようにして訴えられて、ハリアスは頭が痛そうに沈黙した。ややあって、スケッチブックは課題に使うものだから、と苦しげに言い放ったハリアスに、ソキはなるほど、と頷いた。やたらと神妙な顔つきで納得するソキの様子が、また楽しかったらしい。ぶふっ、とついに吹き出した寮長に、ソキはもおおおおおっ、とかんしゃくを起した叫び声をあげ。ソキ、寮長きらいなんですよおおおおっ、と涙声で高らかに訴えた。やですもうやですやですっ、と全力で訴えるソキを楽しげに眺め、寮長は少女の傍らにひょい、としゃがみ込んだ。反射的に止めようとするハリアスを眼差しで制して、寮長は押しのけようとするソキの腕を掴み、声をひそめて囁いた。
「あんまり騒ぐとロゼアが来るぞ? 一人で頑張るんだろ?」
「やあぁんそきひとりでできるもん! ひとりで、そき、そき……ふえ、ええぇ……っ」
あ、やべっこれは本気で泣く、と真顔で焦る寮長の目の前で、ソキはけふ、けひゅっ、と乾いた咳を苦しげに繰り返した。ぜい、と嫌な音を立てて息を吸い込む喉に、ハリアスの手が当てられる。真剣な表情で目を閉じるハリアスの指先から、あたたかな癒しの魔力がソキの中へと流れ込んで行った。しばらくそうして、ようやく、ソキの咳が止まる。ハリアスがなにかを告げるより早く、寮長の手がソキの汗ばんだ額に押し付けられた。ぼんやりとした目を覗き込み、寮長は申し訳なさそうに息を吐きだした
「病み上がりだったな、そういえば……ソキ、どうする。課題、できそうか?」
「……ソキ、ちゃぁんと、できますよ」
「分かった。……ハリアス、すまないが、様子を見ていてくれるか。俺は保健医に連絡しに行く」
そのあとでロゼアだな、と気が進まない風に呟き、寮長はソキに体調を悪化させない分だけの魔力を分け与え、立ち上がった。集中してすぐ終わらせろよ、と言い聞かせてくる寮長にこくりと頷き、ソキはうっすらと痛くなってきた頭に眉を寄せながらも、スケッチブックに向き合った。する、と紙の上をペンが滑って行く。夜の中でも書きやすいよう、ほの淡く白い光を発する特別なインクこそ、尾を引く星の流れのようだった。
星降の国王は魔術師という存在をこよなく平等に愛している。学園に在籍する魔術師の卵であっても、他国の王宮魔術師であってもそれは変わることなく、彼の人はにこにこと笑いながら『俺の魔術師』と囁き、愛を注ぐのだ。魔術師という存在に対する祝福の定例見本が星降の陛下だと思えばいいんだと思う、と告げたのは何処の国の魔術師であったかは定かではなく、深く考えれば意味もよく分からない発言であったのだが、それは瞬く間に全ての魔力を持つ存在に知れ渡った。つまるところ彼の人が囁く愛というものは異性愛を含まぬ、ひたすらに愛おしいと囁く情そのもののことを表すのであって、それ以上にはならないものなのだ。
やたらと抱きつきたがるのは躾のきいていない犬が来客に飛び付いて尻尾を振りまくるアレと同じですからね、と告げたのは魔術師ではなく楽音の国を治める施政者そのひとである。同い年の幼馴染であるから、発言には一切の遠慮が見られなかったのだという。その言葉は彼の王からもたらされる愛をどう思えばいいのか、という問いに対する先の発言同様に、残念なくらいの早さで魔術師たちの間をかけ巡って行った。今それを知らない者がいるとすれば、学園に入学したばかりの新入生たちくらいだろう。入学して、一月半。無駄知識めいた雑談を先輩から吹きこまれるとして、耳を傾ける余裕が出てくるのはもう少し先のことだった。
ああ、それでも、もしかしたらメーシャは知っていたかもしれない、とラティは思う。星降の首都に産まれ、育ち、王宮にも近い場所に住居があったあの少年ならば、もしかすれば。その記憶は失われ。もう二度と戻ることもないのだけれど。白紙に塗りつぶされた、ラティの、不自然な記憶の空白と共に。思い出そうとすると、ちりちりと胸が火傷のあとのような痛みを発する。その感情の意味すら、上手く理解できない。家族。妖精が視認できることを知りながら、匿い、隠すようにして養ったメーシャのことを、ほんとうは。どう思っていたのか。想いは失われ、二度と蘇ることはない。
「……ラティ」
ふてくされたように名を呼ばれ、ラティは溜息をついて視線を己の腹辺りへ落っことした。腰にぐるりと腕を巻くようにしてそこへ顔を埋め、拗ね切った不機嫌顔で睨みつけてくるように目を細める男の、名を呼ぶことは魔術師には許されない。呼ぶことを許された愛称ならば知っていて、けれどもなぜかそれを告げる気にもなれず、ラティは響かせる声の音色にすら気をつかいながら、深く肺まで息を吸い込んだ。
「はい、陛下」
ああ、これは本当はもういけないのだった、と思って、ラティは己の唇に指を押し当て、溜息をついた。ラティがその呼称を向けるべきは己の仕える主君一人きりであって、かつて騎士として剣を捧げたこの男ではないのだった。ラティはすでに魔術師である。学園を卒業した、砂漠の国の王宮魔術師だ。星降の王の懐剣、護衛騎士であったラティは十五の時に妖精を視認したことで死んだも同然であるのに、慣れ親しんだ母国の空気と、そして未だ、王に対する『切り札』扱いする風潮があっけなく意識を昔へ戻してしまう。星降の国王は、ラティの全てだった。昔のことで、今は違う。この男を全てにしてはいけないし、そんなことは決して許されない。魔術師には。許される感情では、ない。
だから、本当に止めて欲しかった。新入生を抱きしめることも可愛がることもできなくて、それを理由に星降の国王が超絶と頭についてしまうくらい不機嫌で拗ね切っているからといって、城下で祭りを楽しんでいたラティを捕まえて、執務室にぽいとばかり放りこむような真似は、絶対に。なにが、ほおら陛下の大好きな大好きな魔術師ですよ、だあの馬鹿ども。そんなもんこの王宮の中にもごろごろしてんだろうが全員逃げたとかぬかすつもりか一列に並べ端から順番にぶん殴ってやる、と城下から引きずってきて部屋に投げ込んだ護衛騎士たちの顔を想い浮かべていると、また、名前が呼ばれる。執務室に備え付けられたふかふかの長椅子に所在なく身を置きながら、ラティはちいさく、息を吸い込んだ。
「はい。星降の王陛下。……ご機嫌はなおりました?」
「俺の王宮魔術師も、俺をかまってくれないんだけど……どういうことなんだと思う……?」
「……忙しかったのではないでしょうか。そして私も別に暇な訳ではないのですけれど」
流星の夜の特別休暇として、ラティに与えられたのは六時間。城下で捕まった時点で四時間は経過していたので、もうそろそろ、砂漠の国へ戻る準備くらいはしたいものだった。帰ったらまず真っ先に、指差して爆笑しながら助けてもくれず見送ったフィオーレを、心ゆくまで殴り倒し踏みにじるという大事な用事もあることだし。むかむかしながら、暗に腕を離してください、と求めるラティに、星降の国王はふすん、と不満そうに鼻を鳴らしてみせた。
「俺をかまう以上に大事な用事がこの世にあんの?」
腰を抱く腕はぐるりと巻かれているだけで、強く抱き寄せることも、引き寄せることも決してしなかった。そのことに心から安堵しながら、ラティはしとやかな笑みでやんわりと頷く。
「残念ながら、山のように」
「ううぅ……ううううぅー! もっと俺を愛せよお前らさぁ! 俺の魔術師は、なんでこんな俺に対する愛が薄いの……」
大事な用事を優先して国王を後回しにしているだけで、星降の王宮魔術師たちは、こよなく彼らの王を愛している。時々無視するだけで。かなりの割合でないがしろにもするだけで。愛してはいるのだ。その証拠に、ラティは何度も見てきた。きっと明日の昼までには、殆ど全ての王宮魔術師が、この王の元へ顔をみせることだろう。どんなに多忙な者であっても、おはようございます、とたったその一言を告げるだけの時間しかなくとも。十五になるその時まで、十七で王宮を離れるその時まで。ラティは、つぶさにそれを見てきた。王宮魔術師というものが、どんなに、その国の王を愛しているのか。そしてこの国の王が、どんなにか、魔術師を愛しているのか。その愛がどんなに公平で、平等で、下心のないものなのか。理解していた。恐らく、どの魔術師より深く、ラティはそれを知っているだろう。
だからこそ、拗ねる星降の国王の腕にそっと手を触れさせ、たしなめるように視線を重ねた。
「あなたを想わぬ魔術師など、おりません。知っておいででしょう」
「……俺はどんな魔術師だって、心から、愛しているよ」
道を踏み外した者ですら、愛さずにはいられないのだと。懺悔のように告げる星降の国王に、ラティはそっと微笑んで。
「はい。……存じております」
指先で己を抱く腕に触れ、ぽん、ぽん、とあやすように撫でた。
「あなたの愛が、あまねく魔術師すべてに対して平等で、公平であることを。私は、誰より……」
それならば、いいと。まだ拗ねた顔つきであってもラティを閉じ込めていた腕を解き、星降の国王はソファに座り直した。入れ違いに、ラティは迷いのない仕草で立ち上がる。男の前に立ち、胸に片手を押し当て、一礼をした。
「……それでは、私はこれにて」
うん、と星降の国王は嬉しげに笑って頷いた。機嫌はすっかり戻ったらしい。それに心を和ませながらラティは身を翻し、振り返らず、王の執務室を出て行った。砂漠へ繋がる『扉』に歩きながら、ラティは焦げるような胸の痛みに、一度だけ立ち止まった。振り返りはしない。強く手を握って、息を吸い込み、ラティはなにかを振り切るようにふたたび、歩き出した。
流星の夜に結局熱を出して寝込んだソキが、ふたたび寝台から起き上がれるようになるまで、二日間かかった。当然、授業には出席することが叶わず、実技授業も今後半月はお休みすることがすでに決まっている。けふ、けひゅんっ、とまだ乾いた咳をする喉に眉を寄せながら、ソキは気のない様子で朝食のヨーグルトを口に運び、溜息をついた。
「ソキの……ソキの、ガッツと根性が本気を出すのは、これからなんですよ……! でももうおなかいっぱいなのでヨーグルトはいいです。ロゼアちゃんにあげます」
「……半分も食べてないだろ。気持ち悪いか?」
「気持ち悪くはないです。おなか痛くもないです。ソキ、おなかいっぱいです」
もうひとくちもいらないです、と差し出された木の器を覗き込み、ロゼアが嘆かわしげな息を吐く。メーシャもひょいとソキの手元を覗き込んでしぶい顔つきになり、ナリアンはもぐもぐもぐ、とパンを飲みこんだあと、きらめく笑顔でゆったりと頷いた。
『ソキちゃんは、今日もお休みだね。はやく元気になるといいね』
「えっ……えっ?」
『お昼にお見舞いを持って行くから、ゆっくり眠っているんだよ? ね、お見舞い、なににしようね、メーシャくん』
お花かな、それとも薬草の方がいいかな、と笑顔を崩さないままで問うナリアンに、メーシャは考えておこうな、と楽しげに頷いた。えっ、えっ、ときょときょと視線を彷徨わせたのち、ソキはえええっ、と半泣きの表情でロゼアをみあげた。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん! ソキね、ソキねえ、もう元気なんですよ!」
「うん。……うん、ソキ」
訴えられる間にソキの額にしっとりと手を押し当て、熱をはかり、ロゼアは起き上がらせたことを後悔する表情で頷いた。
「寝よう」
「ええええええっ! やあぁん、やあぁああんっ!」
「そういえばソキ、頭が痛くないとは言ってなかったよな」
幸せそうにオレンジジュースを飲みながら、メーシャがさらりと追い打ちをかけていく。ばらしちゃいやですうううっ、と涙声で叫ぶソキに、ナリアンはひらひらと手を振って。朝食をかきこんで平らげ、一刻も早くソキを部屋に戻そうとするロゼアに、喉に詰まらせないようにね、とその意志を揺らめかせた。
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