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 閉ざされた部屋があった。扉の鍵は内側からしかかからず、外から開ける術のない密室。窓にも鍵がかけられ、見る者が見れば魔術的な封鎖がされていることも知れるだろう。光を完全に締め出す密な作りの布は窓を覆うように引かれていて、さながら部屋は夜のようだった。光のない夜。星の瞬きも、月の優しい一瞥も、この部屋には全く届かない。太陽の光も、風の囁きも。なにもかもが失われた、ひたすらに内側から閉ざされた部屋だった。部屋に置かれているのは寝台がひとつ。それ以外はなにもなかった。寝台の傍には、室内履きが置かれている。それだけが部屋に持ちこまれた全てだった。眠る者が目覚めた時に必要とする、火を灯す灯篭も置かれていない。眠りの為だけの部屋だった。
 寝台には、一人の女が眠っていた。よく磨かれた金貨を思わせる、うっとりするような艶やかな髪は寝乱れた様子もなく、白いシーツの上に散らばっている。年齢の分からない女だった。十代の半ばのように幼くも見えるし、二十をとうに超えているようにも感じられる。降ろされた瞼が開いたとて、恐らくその印象は変わらないことだろう。不思議な、歪な印象を帯びた女だった。規則正しい澄んだ呼吸が、女がただ生きていることを知らしめる全てだった。寝がえりすらせずに眠り続ける女があるばかりの部屋に、ふと変化が現れる。暖炉で木が爆ぜたのと同じ音がして、寝台の上、女の顔のすぐ傍に火の粉が現れる。銅に輝く高温の光点は、夜空を巡る星たちを見守る、北極星のきらめきを思わせた。
 黒く塗りつぶされた部屋に星が現れて行くように、火の粉は数を増やし続けた。それはやがて本物の火の揺らめきとなり、女の胸元で不死鳥の形を成した。不死鳥は恭しい仕草で羽根を折り畳み、女の目覚めを待ち焦がれる。火の熱は女の肌を焼くことなく、それはただ、触れて行く恋人の手のようにやさしくあった。女は枕に頬を擦りつけるように頭を動かし、ん、とちいさな呻き声をあげて瞼を持ち上げる。はぁ、とひと仕事終えたばかりのように疲弊した息が唇から零れ落ち、女は胸の上で静止する不死鳥を気に止める様子もなく、寝台に手をついてその身を起こした。目覚めたばかり、近距離で目にするには強すぎる火の光は、女の目を焼くことはない。その熱が肌を痛めないのと同様に。
 火と、それによって引き起こされる全ての事象が、女を害すことは決してなかった。光も、熱も、ただ暖かく寄り添うだけで、痛みを与えはしない。暗い部屋、唯一の灯りとなる不死鳥の形をした火に照らされて、女は目を細めてあくびをした。
「おはよう……」
 女は不死鳥に手を伸ばし、指先でその羽根を一撫でした。火による赤みを帯びた金の髪と、全く同じ色をした瞳はどこか納得の行かないように室内を眺め、首が傾げられる。素足を室内履きに突っ込んで早足に戸口へ向かい、女は慣れた仕草でその鍵をあけた。扉から顔だけを出して廊下を見る。そこに広がっていたのは早朝の空気だった。真夏の盛りを過ぎたらしき、なまぬるい朝の空気。新鮮な太陽の光にようやく眩しげに目を細め、女は部屋の扉、そこに付けられた暦表を凝視する。一日ごとに紙をちぎって行く形式の暦表に、大きく、月と日付けが書かれている。八月十九日。
 女は無言で己の指を折り、数え、ぎこちなく首を傾げて口元を引きつらせた。八月である。六月ではない。硬直する女の背から鳥がひょこりと顔を出し、羽根をぱたつかせた。女は現実を拒絶したがるように頭を振り、朝の空気を思い切り吸い込む。そして。
「……寝坊しちゃったああああぁあっ!」
 悲痛な叫びをあげ、眠りの為の部屋から飛び出した。星降の王宮魔術師。火の魔法使いが、四カ月ぶりに眠りから醒めたと知らせが駆け巡ったのは、それからすぐのことだった。



 朝の五時くらいに起きようと思ってたのに目が覚めたらもうお昼の一時くらいだった気持ちなの。それってちょっとあり得ないよね、と心底落ち込みながら久しぶりの朝食を口にした魔法使いは、食堂の片隅を陣取って四か月分の報告書に目を通していた。二ヶ月寝坊していた間に執務机が片付けられてしまっていたので、そこくらいしか空いている場所がなかったのだ。部屋は、明日にでも整えてくれるという。いいわよ好きなだけ私の部屋を物置きにでもしちゃえばいいじゃない、と拗ねながら、魔法使いは文字列を真剣に目で追って行く。
 一カ月の出来事を一枚にまとめた用紙は、当然のことながら四枚ある。どれも寝起きの頭にすっきりと入ってくるように文章が練り込まれていて、魔法使いはそれを苦に思うことなく読み進めることが出来た。時間にして三十分。魔法使いは報告書を手に椅子を立ち、足早に食堂を出て行った。その後を、鳥が追う。羽根を動かすたびにうつくしく火の粉を散らす鳥を振り返ることなく、魔法使いは廊下をつき進んで行った。すれ違う顔見知りに挨拶をしていると、不意に手首を掴まれ、引っ張られる。
「レディ」
「……ストル。おはよう」
「おはよう。どこへ?」
 それ以上歩くな、とばかり魔法使いを引きとめたのは、同僚の王宮魔術師だった。しばらく見ない間に、なにやら不機嫌な顔つきになっている。なにか嫌なことでもあったの、と問うと目を細めて息を吐かれたので、魔法使いは数年の付き合いでその原因を正確に理解した。
「リトリアちゃん?」
「……レディ。どこへ行くつもりだったんだ?」
 聞くな、とばかり質問を無視されて、魔法使いは掴まれたままの手首を見つめ、腕をふらふらと動かしてみた。
「どこへって、陛下の執務室に決まっているでしょう。報告書を読み終わったから」
 できれば離して欲しかったのだが、そうか、と頷くストルにその気はないらしい。それならばこっちだ、と魔法使いが来た道を手首を掴んだまま戻り始めるので、案内してくれるつもりらしかった。引っ張られて歩く魔法使いに、つかず離れず、鳥がくっついてくる。まだ空気は酷暑の名残を残す中である。ややうんざりと鳥を見やるストルに、魔法使いはごめんね、と首を傾げてみせた。
「はやく涼しくなればいいんだけれど……ところで、陛下の執務室はいつの間に引っ越ししたの?」
「してない」
 いい加減にレディは方向感覚がないということを自覚し理解してくれ、と言われて、魔法使いは唇を尖らせた。そんなことを言われても。自分では完璧に道順を覚えている、と思っているし、間違った方角へ進んでいた気も、辿ってきた道を逆に歩む今ですらしていないのだから難しい問題だった。それでも私はいつかは辿りつくでしょう、と告げる魔法使いを振り返り、ストルはふるふる、静かに首を左右に振った。
「いいから。帰りは誰か別の相手を捕まえて、部屋まで連れて行ってもらえ」
「ストルは?」
「授業だ。学園に行く」
 用事が済んだとばかり魔法使いの手首をぱっと解放し、ストルが身を翻したのは執務室の扉の前だった。すでに数歩立ち去っているその背に、魔法使いはねえ、と呼びかける。
「連れてきてくれてありがとう。手を繋いでくれないのは、なにかのおまじない?」
「そうするのは一人と決めている」
 ひらりと片手を挨拶代わりに空で振り、ストルは早足に立ち去ってしまった。その方角に学園へ向かう『扉』がある気がしないのだが、ストルが向かったので、たぶん、そこにあるのだろう。魔法使いは不思議そうにその背が見えなくなるまで見送って、口元に手をあてて忍び笑いをする。ストルは、案外簡単にひっかかる。全く、そんなに好きならばはやく捕まえに行ってしまえばいいものを。なにを難しく考えているのだか、ストルはわざとリトリアに会わないようにしているようだった。魔法使いが眠っていた四ヶ月で、なにか進展がなければ、の話ではあるのだが。業務報告書には当然書かれていなかったので、こればかりは本人に確かめるか、あるいは魔法使いを愛する陛下に聞くしかあるまい。
 執務室の扉を叩き入室の許可を得て、魔法使いは、実に四カ月ぶりに己の主へ対面した。星降の国王は椅子を倒す勢いで立ち上がり、うわああぁっ、とはしゃいだ声をあげて魔法使いへ抱きついた。その背後で、触んな、とばかり威嚇をする不死鳥にも目を細めてこっちも久しぶりだー、と暢気に笑い、星降の国王は魔法使いの顔を覗き込む。
「あんまり寝てるから、もう起きないんじゃないかと思った。……気分はどう? レィティシア」
「すみません。寝すぎてしまったくらいで、元気です」
 レィティシア、というのが魔法使いの名だった。今となっては星降の国王くらいしか、その名を呼ぶことはない。大体の相手は魔法使いを『レディ』と呼び、その中のごく親しい数人だけが、時折『ティア』と愛称で呼ぶ。正式な名を呼びかけてくれるのは、今となっては星降の国王くらいのものだった。世界に残された者たちの中、一人だけに、魔法使いはそれを許した。
「報告書は読みました。今年は新入生が四人もいるんですね……ウィッシュが先生なんて、びっくりしましたが。大丈夫なんですか? 彼、体調を崩しやすいのはとうとう治らなかった筈ですけれど」
「ウィッシュの守護についてくれてる彼が、加護をめいっぱい強めてくれてる。今のところはなんとかなってるよ」
 実技授業自体もかなり不定期だからな、と言いながらようやく魔法使いから体を離し、星降の国王は嬉しげに目を細めた。読んだ報告書を執務机の隅に置き、振り返った魔法使いが問いかける。
「なにか?」
「うん。起きてくれて嬉しいなって。……本当に、もう起きないかと思ってたよ」
 それならばもう仕方がないかとも思っていた。静かな声で告げる星降の国王の前まで、魔法使いは静かに歩み寄る。ためらうことなく跪く魔法使いの肩に、舞いおりてきた不死鳥が止まった。鳥の火は、魔法使いを焼くことがない。その身に纏う衣すら。熱はただじわりと優しく広がるばかりで、魔法使いの肩に触れていた。陛下、と魔法使いは目を伏せたまま己の主を呼ぶ。
「ごめんなさい……ただ、寝すぎてしまっただけなんです」
「疲れてた?」
「そう、かも、知れません……」
 四か月前。眠りにつく前、魔法使いはとある仕事で砂漠の国へ赴いていた。魔法使いの故国。そこへ足を踏み入れることが、どういう感情を呼び起こすのかは、魔法使い自身にすら分からない。それはもう失われてしまったものだからだ。なにも感じないのではない。なにを感じているのか、それを正確に理解できないでいる。星降の国王は慰めるように魔法使いの肩に、鳥の乗らぬ方に指先を押し当てた。
「立って。……怒ってる訳じゃない。レィティシアに、頼みごとがいくつか来ていたから、どうしようかなって悩んでただけだからさ。起きてすぐで悪いんだけど、仕事をひとつ受けてもらう。それと……頼みごと、かな。こっちは考える余地はあるよ」
 それは、厳密に言うとどちらにも拒否権がない、という意味である。王宮魔術師は誰もがそうであるのだが。ふ、と遠い目になりつつ立ち上がり、魔法使いは分かりました、と王の要求を受諾した。元より、他の返事など許されていない。それでも、嫌々な返事ではなかったからだろう。ほっと表情を和ませる王に、魔法使いは心を和ませた。仕える主君の、そういう冷たくなりきらない所が、とても可愛いと思う。もっと押し付けてくれた方が楽なことも多いが、それを望むのは酷であることも、もう分かっていた。星降の国王は、魔術師という存在を心から愛している。たとえ、どんな過ちを犯したものであろうと。
「仕事は、学園に行くこと。新入生の、ソキ。昨日から、彼女が魔力漏れを起こしてしまっているらしい。その対処と調査を」
「かしこまりました、我がきみ」
「それと、頼みごと……なんだけど」
 星降の国王は心から気まずげに視線を反らし、その内容を魔法使いに告げた。心から全力で拒否したい気持ちになりながら、魔法使いは分かりましたと声を絞り出し、ふらりと足元をもつれさせながら執務室の扉へ向かう。すぐにでも学園に向かってやった方がいいだろうと思いつつ、魔法使いは胃の痛い表情で振り返った。
「ちなみに、私がそれになるとして、もう片方はどうするんですか……?」
「……候補者として出てるのは何人かいるけど、このままだとフィオーレかな」
「うわぁい魔法使い祭りじゃないですかなにそれちっともたのしくない……」
 ちなみにフィオーレにも話は行ってるんですか、と問う魔法使いに、星降の国王は無言で頷いた。それはつまり、遠からず、現実になってくる可能性が高い『お願い』であるということだ。できれば全力でお断りしたい、できないけど、と思いつつ、魔法使いはもう一度分かりましたと頷き、王の執務室を後にした。ストルに、誰かに部屋に連れ帰ってもらえ、と言われていたことをすっかり忘れて。魔法使いが四カ月ぶりに己の私室に辿りついたのは、その日の昼過ぎのことだった。



 メーシャが声をかけられたのは課題の為に借りた本を図書館へ返したのち、散歩を兼ねて遠回りをしながら寮へ帰るその時のことだった。森の中に建物が分散する作りになっている『学園』は、それらを繋ぐ最短距離にて敷かれた大きな道を外れると、さほど手入れが成されていない。もちろん、最低限度の管理はされているので歩きにくかったり、危険に遭遇するようなことはないが、わざわざ細道を選んで行く者はそう多くなかった。気分転換や散歩には最適なので、今のメーシャのように時々選んで歩く者はあれど、寮に辿りつくまでに誰ともすれ違わないのが常だった。だから、メーシャはひどく驚いたのだ。その道の先に、突然人が現れたことに。そして、かけられた言葉の、その内容に。
「ちょ、ちょっとそこのイケメンくん! 具体的な特徴をいくつかあげると、えーっと、星降出身の月属性の占星術師の君! そう、君っ!」
 へ、と声をあげる間もなかった。そもそも場にはメーシャしかいないので、他の誰かに話しかけているということもないだろうが、それはあまりに予想外の言葉だったからだ。呆けて動くことのできないメーシャに勢いよく走り寄り、女はがっとばかりにその服を掴み、引っ張った。
「道案内は好きかなっ?」
「好き嫌いを感じたことは、ありません……」
「そう、それならよかった! イケメンくん。君、私を談話室まで案内してくれないかしら。寮の」
 あのね本当はねお昼の三時くらいまでに辿りつかなければいけない予定だったんだけどなんていうか日が暮れて来ちゃってねっ、と慌てた様子で告げる女に、メーシャはぎこちなく頷いた。未知との遭遇、という言葉がなぜか頭の端をよぎって消えて行く。寮の、とたどたどしく繰り返したメーシャに、女は金無垢の瞳をあざやかに輝かせて笑う。
「そう。寮の、談話室! あっ、ちなみに私卒業生なのね。卒業生っていうか、今は星降の王宮で陛下の魔術師をしています!」
「王宮、魔術師……」
「そうなの、そうなの。お仕事で来たんだけど、びっくりすることに、なんでか寮に辿りつけなくてね……!」
 よかった、ひとがいて本当によかったっ、とメーシャの服をぎゅうっと握って離そうとしない女は、未だ混乱するメーシャに人懐っこく笑いかけ、それで案内をしてもらっていいかな、と首を傾げてみせた。はっと己を取り戻したメーシャはもちろんです、と頷き、女の手を取るべきか、そのまま服を掴んでもらっているべきか迷いながら、そろそろと足を踏み出した。進行方向は、女の来た道の先である。あれなんで戻っているのかな、という顔をしながらメーシャの服をひっぱりつつ歩き、女はふぅ、と疲れた息を吐きだした。
「ごめんね、どうもありがとう。本当に助かりました。今回は行けると思ったんだけどなぁ……」
「あの、もしかしてよく道に迷われるんですか?」
「ううん。そういうことじゃないのよ。辿りつくのにすごく時間がかかるだけなの」
 道は分かってるし場所は分かってるし、と告げる女に、メーシャはそれを迷っているというのではないだろうか、と考えた。しかし、初対面の相手に口に出すのは、憚られた。そうなんですか、とあいまいな返事をしたメーシャに、女はうん、と嬉しげに笑う。
「ところで、聞いてもいいかな」
「はい?」
「君がメーシャくん?」
 思わず、ぎょっとして立ち止まり、息を飲んで振り返ったメーシャに、女は優しげな眼差しを注いでいた。
「あたり?」
「そう、です、けど……どうして、俺の名前」
「星降出身の、月属性の、占星術師」
 歌うようにそれを告げ、女はまっすぐに伸ばされ、背に散らす金の髪を風になびかせながら告げた。
「それに、ストルの魔力の名残がある。だから、君がメーシャくん。……授業はもう終わったのかな? ストル、帰っちゃった?」
「……いえ、今日はすこし、講師室でやることがあるから、それが終わったら帰ると」
「そう。じゃ、帰られる前に捕まえないと。もー、ストルのせいで私いまちょっと大変なんだから……!」
 ストルにバラしちゃいけないとは言われてないし、いいよねっ、と開き直った声で宣言し、女はきょとん、と目を瞬かせ、不思議そうにメーシャをみやった。
「どうかした? なんか、ちょっと怖いみたいな顔してるけど……えっ、あ、大丈夫よ? ストルはちょっと殴ったり、その、焦がしたりするかも知れないけれど、私は君にはなにもしないわ……?」
「……焦がす?」
「焦がすとか、燃やすとか。どきっ、引火祭りのはじまりだよ! くらいのことはするかもしれないけど」
 でも君は私になにも悪いことしていない訳だから、と言いながら首を傾げ、女は難しそうに眉を寄せた。
「あら? それともなにか違うことでお悩みだったり……? あ、そっか! メーシャくんイケメンだものね! 彼女の一人や二人いるだろうし、好きな子とかいるかもだよね! 大丈夫安心して、私結婚してるから。そう言えば相手の女の子もちゃんと納得してくれる筈……!」
「会話に落ち着きがないとか言われたことありませんか……」
「あります!」
 胃がしくしく痛んで来た表情で、ほぼ無意識に零したメーシャの言葉に、女は胸を張って元気よく言い放った。そうですよね、と頷き、メーシャはふるふると首を振った。
「でも、俺は別に彼女とかいませんから……」
「でも気になる女の子になにか言われたら、ちゃんと説明してあげてね? それと、私が君の出身と属性となんの魔術師であるのかを言えたのは、それが私のちょっとした特技だからなのね? 見ればだいたい分かるの」
 なんとなくちょっと怖かったのはそれかな、と問いかけられて、メーシャは気まずそうにこくん、と頷いた。すみません、と告げるより早く伸びてきた手が、メーシャの頭をぽんぽん、と撫でて離れて行く。
「君はなにも悪いことないわ。気にしないで。……寮へはもうすこし? 悪いけど、談話室の前まで案内してくれると嬉しいな」
「分かり、ました」
「ありがとう」
 とりあえず夜になる前に辿りつけそうでよかった、と心底安堵した声で言う女に、メーシャはふと空を見上げた。暮れゆく空は茜色に染まり、けれどもまだ星が輝き始めるには時間がかかりそうな様子である。歩み出すメーシャについて行きながら、女はどこか頑なな様子で視線を地に伏せ、決して顔をあげようとはしなかった。夕焼けのその色を。目に映すのを、恐れるような仕草だった。

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