ようやく完全に己の魔力が鎮まったのを確信し、ロリエスは静かに立ち上がった。その眼前に、女王は笑顔で一枚の紙を差し出してくる。恭しく受け取り、そこへ視線を落として。ロリエスは不思議そうに、これは、と呟いた。
「砂漠の……男性の、正装のように見えますが」
ナリアンのものを選んでいたのでは、とロリエスは目を瞬かせた。ロゼアのものでも紛れ込んでいたのだろうかと思うが、そもそも、各国の新入生の正装の候補はそれぞれの王宮が抱えた衣装係が女王へ提出してくるものだ。訝しむロリエスに、背幅のある本に腰かけて角砂糖をかじっていたニーアが、光輝くような笑顔で顔をあげた。
「ナリちゃんのです!」
「……だが、これは」
五ヶ国の中で最も衣装に特徴のあるのが砂漠の国である。星降、花舞、楽音、白雪のそれに特徴がない訳ではないのだが、それは比べた時に強いて言えば出てくる特色的なものであって、砂漠のように、すぐに見て分かるそれではない。最も寒い冬の王国、白雪のものであれば生地や肌の露出などに特徴が出てくるのでまだ分かりやすいのだが、強い日差しと吹きつける砂を避ける為の砂漠のそれは、どこの国とも共通しない。ニーアが選んだそれは、その砂漠の正装そのものであった。ゆったりとした丈の長いシャツに、同じくゆったりとしたズボン。シャツの襟と肩のあたりには精緻な刺繍の指定がされていた。共布で作るスカーフと、ターバンの指定もある。色や生地については未だ迷いがあるらしく、決められてはいなかったが、形は間違えようもなく砂漠のものだった。
頭の中でナリアンに着せ、まあ服に着られはしないだろうがと思うロリエスに、ニーアはぴょんっと本の上で飛びあがった。さっと広げられた妖精の羽根が、机の上に淡い影を落とす。
「ナリちゃんのね! お父さまのね! 出身国が砂漠の国なんです! だから、絶対、ぜったい、ナリちゃんに似合うとおもうの! ぜったい……! ……ああ、ちいさいナリちゃん、ほんとうに可愛かった……! 今のナリちゃんが着たら、とっても、とっても格好いいと思うの! きゃぁっ!」
どうしようナリちゃんの顔が見られなかったらどうしようだってだってナリちゃんは絶対格好いいの絶対なの決まってるのだってだってナリちゃんは今だってとてもとても格好いいんですものきゃああぁあっ、と顔を真っ赤にしてはしゃぎたおすニーアをひとしきり微笑ましい瞳で見つめ、うん、と頷いて花舞の女王は背後へ視線をやった。
「と、いうことだそうだよ、ロリエス?」
「……我が女王。あなたがそれで良いのであれば」
どんな服を着ていたとしても、父親の、母親の出身国がどこであろうとも。産まれて、長く住み、根ざした土地が魔術師の出身国となる。ナリアンの出身国は、この花舞だ。どこの国の衣装をまとおうとも、それが変わることは決してない。うん、と微笑み、女王はロリエスの頬に指先を触れさせた。ほんのりと暖かい、女王の手。薄く透明な桜色に塗り飾られた爪先を見つめるロリエスに、女王は喉を震わせて笑った。
「ありがとう、ロリエス。私は構わないよ、本当に。……だが、そうとなると、ニーアにも砂漠風の正装を用意してやらなければいけないだろうね? 砂漠の彼に、頼んでおかないと……そうだ、頼むといえば」
忘れてしまう所だったよ、と言いながら机の引き出しをあけ、女王が紙束を取り出した。黒い紐で綴られたそれは、十枚以上あるように見える。表紙にはうつくしい飾りがデザインされた紙がつかわれており、すっきりとした読みやすい文字で『さらに麗しく輝け俺の女神 -正直、ロリエスの肌に触れる生地が羨ましいがそれはそれ、これはこれ-』と書かれていた。署名はない。署名はないが、そんなものはなくても事足りた。完全に死んだ魚の濁った目をしながら、へいかこれはなんでしょうか、と問うロリエスに、女王はにこっ、と愛らしくも微笑んで。
「ロリエスが当日着る正装は、この中から選んでおくように。私も確認したけれど、今年の流行からスタンダードなものまで、ひと通り揃っていたよ。もちろん、君の好みはきちんと押さえてある。どれにするか決まったら教えておくれ、手配をしよう」
「……陛下、我がうつくしい女王陛下……! これは、これ……これを、どこの、誰から……?」
そこにどんな理由があろうとも、王が差し出したものを受け取らない選択肢は、魔術師に存在していない。ふるふる手を震わせながら受け取ったロリエスに、質問の意味を完全に理解しきった笑顔で、花舞の女王は首を傾げてみせた。
「さあ、忘れてしまったよ。……ところでロリエス? 当日の、私の護衛の件だけれど」
「陛下……! 陛下、あれほど、なにとぞ、無断で学園に足を運ばないでくださいと……!」
「ロリエス? 君が袖を通すのに相応しい衣装を相談するのに、彼以上の適人はいないのだよ?」
私は君を相応しく飾る衣装にひとつの妥協もしたくなかった。それだけのことだよ理解してくれるね、とそっと両手を取って囁かれ、ロリエスは己の意思意見感情その他諸々を全て星の彼方に捨て去って、もちろんです私の愛しき女王陛下と即答してみせた。ロリエスは花舞の国の王宮魔術師である。花舞、まじ花舞、と各国にあたたかく囁かれる、そのひとりである。例外ではない。女王は素直な返事をしてみせた魔術師にふふふふふ、と幸せそうに笑いかけ、それならば問題ないね、と目を和ませた。
「楽しみにしているよ、ロリエス。……さて、私の護衛はどうしたものかな。最後まで、誰が残っていたか教えてくれるかい?」
「白魔術師キアラと、空間魔術師タルサが」
「そう。……では、タルサを連れて行こう。キアラをひとり、連れて行くのは忍びない」
どうせならばシンシアとジュノーと一緒に連れて行ってあげたいからね、と囁く女王に、それではそのように、とロリエスは一礼した。
星降の王は、それはそれは張り切っていた。なんといってもメーシャの正装である。ねえ待って陛下さぁ自分の夜会服決める時よりもさぁ気合い入ってるっていうかはしゃいでる気がするんだけども気のせいかな気のせいであって欲しいよねあははうふふ気のせいである気がしない、と涙ぐんだ真顔で王宮の服飾担当たちの頭を抱え込ませた星降の王は、その日も、数点しあがってきたデザイン画を手に、うわぁああ格好いいちょうかっこういい、と恋する乙女のように目を輝かせている。しかしながら決めているのはメーシャの夜会服である。己のものではない。そして、メーシャの服を決める権利があるのは、ルノンである。星降の国王陛下、そのひとではない。従って星降の王は、天井付近でやや疲れたような苦笑いを浮かべて漂い、場が落ち着くまでを辛抱強く待っていたルノンに、きっらきらの笑顔で語りかけた。
「なあなあ、ルノンはどれにする? どれがいいと思うっ? 俺としてはさー、これとかこれとか! あと、こういうのとかっ? やっぱり男前押しで行くといいと思うんだよなメーシャの顔整ってるし体つきもしっかりしてんじゃん? でもまだ十六だから、こっちはちょっと服に着られちゃうかなって気もするんだけど、これなんかだと多少背伸びした感じはするかもしれないけど大人の男って感じですっごいいいんじゃないかと思う訳だよ! でさー、生地なんだけど、これとこれと、これなんか俺はオススメかなー。動きやすいし肌触りもいいし、灯された火の光を受けた時の光沢がきれいなんだー。俺の服とかにも使うんだけどさ、それでさあルノンはさあ」
あの大変申し訳ないのですがどうにかなりませんでしょうか、と視線を向けられ、星降の王宮魔術師たちはこくりと頷いた。その間も、延々と星降の王は、釦の素材や生地の裁断の仕方に至るまでを徹底的にこだわってああしたいな、こうしたいな、という希望を口にし続けていた。部屋の端に控えて立つ衣装師が、うちの陛下は予算というものがあるのをご存知でいらっしゃらないのかしら、という笑みを浮かべているが、王宮魔術師たちは知っている。星降の陛下は、メーシャの服に関してこう言った。笑顔で。ものすごく楽しそうな笑顔で。
『大丈夫予算が足りなくなったら俺が出すから!』
まずなにも大丈夫じゃねぇよ、というかなにもかもが大丈夫じゃねぇよ落ち着け我が君、という言葉をぐっと堪え、王の側近たる王宮魔術師は即座に主君の頭をぶん殴ったと言う。それを行った筆頭魔術師に、同僚たちからは惜しみない拍手が送られた。その年、学園へ入学した新入生の正装に対しては、各国できちんと予算が組まれている。裕福な家の出身であれば、そこへさらに援助を、という申し出があって増額する場合もあるが、極めて稀なことである。ましてや、一国の王がひとりの新入生に対して個人的なそれを申し出ることなど、前代未聞に過ぎた。星降の王が新入生かわいいな超かわいいな、とはしゃぐのは毎年のことである。恒例行事のひとつに数えてもいいくらいだ。彼の王は魔術師をこよなく愛している。星降出身の者であろうと、他国出身の者であろうと、その愛は変わることがない。
その筈であるので、星降の魔術師たちは訝しみ、ルノンが口を挟めない勢いで語り倒す主君を胸倉を掴んで頬をひっぱたいて黙らせ反省させがてら、そのことを問うことにした。つまり、なんかメーシャだけひいきしているような気がするのですが、気のせいでしょうか、と。というか気のせいである気がしないので理由があるならばちゃんとお話しような、できるよな、と笑顔で胸倉を締めあげぎりぎりぎりと力を込めてくる己の愛すべき魔術師に、星降の王はなんで怒ってんだよなんでなんでと涙ぐんで手足をばたつかせながら、さらに後頭部から平手でひっぱたかれて涙ぐんだ顔つきで、しょんぼりと息を吸い込んだ。
「だってな?」
うん、と三歳くらいを相手にしている眼差しと笑顔で先を促す魔術師たちに、星降の王はあどけなく告げた。
「俺の息子の晴れぶっ、なんで殴るんだよ!」
「なんでだと問われることがなんでだよ。なんでだよ……!」
わたくしどもの記憶に間違いがなければいまこの国には王の妻と呼ばれるお方や恋人と呼ばれる方はおろか、そもそも跡継ぎというものが存在していない状況で間違いありませんよねっ、と確認してくる筆頭魔術師の男に、星降の王はこくん、と素直に頷いた。その、罪悪感と焦りが一切見られない仕草にうちの国跡継ぎ大丈夫かなそろそろヤバいと思うんだけど大丈夫かな、と近年城勤めの者の胃を痛ませる原因のひとつになっていることを思い出し、魔術師の男は告げる言葉も見つけられずにひくく呻いた。それにどうしたんだろう大丈夫かな、と純粋に心配する眼差しを向けつつ、星降の王はなんでって、と臣下から向けられた問いに真摯に悩み。しばらくして、俺が、と星降の王はあどけなく首を傾げ、言い切った。
「俺が、高貴だから」
お前はなにを言ってるんだ、と経緯やら忠誠をかなぐり捨てた眼差しで王をしばし睨み、男は嘆かわしく首を振った。男の手が、ぽん、と国王の両肩に置かれる。す、と静かに、男は息を吸い込んだ。
「陛下。陛下曰く高貴ではない我らにも分かりやすく、理由を、ご説明頂けませんでしょうか……というか陛下のせいで『星降語で高貴っていうのはちょっとアレなことを言うの?』とか『星降の高貴って、なんていうか高貴(笑) だと思う』とか『星降における高貴の意味が別次元に進化している件について』とか! 言われているのですがそのあたりどう思われますか陛下! と! いうか! つい先日『花舞まじ花舞だけど、星降もなんていうか、今日もいつもの星降ですっていうか、なんだただの星降か、みたいな気がする』とか言われた俺の! 俺の気持ちがお分かり頂けますかあああああああうわあああああああああああ花舞と一緒にすんなあああああああああっ! かっこわらいとかつけんなああああ!」
「ぎゃあああああああああっ!」
室内に、なにをするでもなく待機していた王宮魔術師たちが、一斉に頭を抱え込んで叫び声をあげた。
「だっ、だだだだだだれだれだれどの国そんなこと言ったの! ひいいいいいいやああああああ花舞と一緒にしないで! しないでええええええ! うちの国でアレなのは! 陛下! 陛下だけだから私たちと一緒にしないでええええっ!」
「えっ、あれっ? なんか俺、馬鹿にされてる……?」
「勘違いするな! 馬鹿にされてるのは! 俺たちだーっ!」
涙ぐみ魂の底から全力で叫ぶ筆頭の男に、その通りだ馬鹿ああぁっ、と王宮魔術師たちは声を揃えて主張した。えっ、そうなんだ、それは困ったな、とばかり首を傾げ眉を寄せ、星降の王は静かに息を吐き出す。
「俺の魔術師が馬鹿にされんのは、嫌だな……」
「……陛下、お願い、お願いします……ご自分のせいだと気が付いてくださいむしろその高貴さ故っていうかなんていうか」
「うん? うん、よく分かんないけど、俺が高貴なのは生まれついての純然たる事実だから仕方がないな?」
そうですね。でもそうじゃないんです、そしてそこじゃないんです陛下、と言葉を失って首を振る男の頭を、星降の王はよしよし元気だせなー、と暢気にわしゃわしゃ撫でている。お前たちもよく分からないけど、俺がついてるから元気出すんだぞ、と室内の王宮魔術師たちに笑みを向ける主君に、彼らは力なく頷いた。星降の王は魔術師たちをこよなく愛してくれている。多少ずれていようと、天然だろうと、色々理解してくれなかろうと。大切にしてくれている。それは、間違えようもない事実だった。室内の空気が落ち着いた、というより星降の国王の意識がそれたのを確認し、ルノンはそーっとそーっと天井付近から降りてきた。ルノンにも、メーシャの正装に関して譲りたくない希望はあるのだ。それが、どういうこと、とはきと伝える言葉に表すのに、まだ考えが必要なだけで。メーシャ。愛し子。彼にはどんな服が似合うだろう、相応しいだろう。
思い巡らせながら、ルノンはすいと部屋の隅へと飛んで行った。そこには壁に背をつけ、ただひとり、室内の騒ぎに視線は向けたものの参加はしなかった王宮魔術師。メーシャの担当教員である、ストルが佇んでいたからだ。日頃、メーシャの傍にいる存在である。相談できれば、と思って飛んで行ったルノンは、ふとあることに気が付いて目を瞬かせた。ストルは手に数枚の紙をもち、思い悩む表情で視線を伏せていた。その横顔は真剣で、眼差しはどこか遠くを想っているもので。だからてっきり、メーシャの服をどれにするのがいいか、担当教員として考えてくれていた、と思っていたのだが。
「……ドレス?」
思わず呟いてしまったルノンの声に、ストルがふと視線を持ち上げる。ストルが眺めていたのは男性の正装ではなく、女性用のきらびやかなドレス、そのデザイン画ばかりだった。それも、ストルと同年代の女性向け、という風なデザインではなく。もっと年下の、十代半ばくらいの少女が好み、身につけるような。ふわりとした砂糖菓子のような印象ばかりがある、可愛らしいドレスばかりだった。ぱちぱち、目を瞬かせて首を傾げるルノンに、ストルはふ、と目を細めて微笑みかける。
「……どうした? ルノン」
『えっ……あ、えっと、メーシャの正装を……相談できたらと、思って』
誰の為のドレスなのか。問いかけてはいけないような気持ちになったのは、ストルの眼差しがあまりに柔らかだったからだ。デザイン画に伏す、その瞳が。背を震わせるほどの感情を抱いていた。
「……大切な存在であるからこそ、迷ってしまう気持ちは俺にも覚えがあるが」
『はい……』
「お前が、メーシャを……大切だ、と思って。飾ってやりたい、という気持ちがあるのなら、その気持ちに素直になってみればいい。幸い、時間はまだある。もちろん、俺も喜んで相談に乗ろう」
俺の可愛い教え子だからな、と微笑むストルにありがとうございます、と頭をさげ、ルノンは差し出されたてのひらにとん、と着地した。ふぅ、と安堵に息を吐くと、すまないな、とストルが苦笑する。いいえと首を振り、ルノンはそういえば、と目を瞬かせた。室内には星降の王宮魔術師のうち、特に急な用事のない者が集まっている。全員とは言わないが、それなりの数である。その中にひとり、姿を見つけることができない既知の存在がいたので、ルノンはそれをストルに問いかけた。
『レディ、さんは……魔法使いは、どこへ?』
「……ああ」
なぜそこで、苦虫を噛んだ表情になるのだろうか。戸惑うルノンに、ストルはすまないと溜息をつきながら首を振り、額に手を押し当てて。用事があって出張している、とだけ、告げた。
機嫌の良い歌声が、楽音の王宮、その中庭にふわりと響きわたっていた。季節の花が植えられた花壇と樹木の間を、縫うように作られた煉瓦の小路。そこを小走りに、踊るような足取りで辿りながら、リトリアが歌を歌っていた。庭師たちは少女魔術師が傍らを通ると手を止め、親しげに微笑んでは会釈する。それに一々、にっこりと嬉しげに笑って頭を下げては、リトリアはまたひどく上機嫌な歌声を響かせ、小道をくるくる辿っていく。外仕事用にあつらえられた純白のローブに、リトリアの魔力が雨粒のように反射し、空気にすぅと溶け消えて行く。胸元まで伸ばされ、結いあげられないままの藤色の髪が、ふわりふわりと風に遊ばれ撫でられていた。別に遊んでいる訳ではない。準備が整ったら呼ぶから、それまでの間、中庭で祝福でもしておいで、と楽音の王がリトリアへ告げたのだ。
口調が例え、暇だろうから目の届く場所で遊んでおいで、というそれであっても、王が魔術師に告げた以上、それは命令である。命令であるということは、リトリアには王宮魔術師の仕事であるということなので、遊んでいるのではないのだった。楽しそうであっても、仕事中である。リトリアの祝福は、歌声の形を伴って効果を発揮する。予知魔術師としてのリトリアが胸に抱く祝福の形が、歌声、というものであったからに他ならない。ソキが行う祝福は、また違う形を持つだろう。それは単純に言葉かもしれないし、なにか道具が必要なものかも知れない。多くの魔術師は己の胸に抱く祈り、希望ひとつで祝福を成し遂げる。空気を清らかに、それに触れる人々に喜びをそっと分け与える。悪しきものを遠ざけ、消し去り、あたたかなものでそっと包みこむ。喜び。希望。それを想う時、リトリアの口からは歌が零れ出す。
決まった曲はなく、リトリアが歌えるものであるならば効果にさほどの差は出ない為に、少女が口ずさんでいるのは流行の恋歌だった。小路を舞うように通り過ぎながらそれを奏でる少女魔術師に、向けられる眼差しはひどく好意的だ。隅々にまで歌声を響かせ終わり、リトリアはぱたぱた、小走りに庭から城へ戻っていく。ちょうど、そこへ人影が見えたからだ。息を弾ませたリトリアが声をかけるよりはやく、目尻に皺を刻んだ老婆が、温かな笑みで魔術師を出迎える。
「おつかれさまです、リトリア様」
「り……リトリア、で、いいです」
落ち着かない気持ちでもじもじと指先を擦り合わせ、リトリアは先王の乳母も務めていたという女性に困り切った視線を向けた。老婆はおやおやとさらに笑みを深め、落ち着かない様子のリトリアを手招いた。まあ、いいから中へ入っておいでなさい、と告げる仕草は恭しくも、孫かなにかを呼びよせる親しげなものであったので、リトリアは肩からほんのわずか、力を抜いた。リトリアにはひとみしりの気がある。学園から、この楽音の王宮に招かれ、半年ばかり。その時からなにかとリトリアを気にかけてくれる老婆には、なんとか打ち解けてきたものの、時折、どうしていいのか分からなくなることがある。老女は、リトリアをひどく優しい眼差しで眺めるのだ。年若い王宮魔術師であるから以上に。なにか、懐かしいものが、そこにあるのだとでも告げるように。
招かれるまま、リトリアは中庭に面した小部屋の、隅に置かれた椅子に腰かけた。庭師たちが休憩を取る為の部屋はあたたかな光で満ちていて、どこか素朴な雰囲気だ。室内には大きな机と、椅子がいくつか、あとは休憩の為に必要な道具が置かれているだけで、今は老婆とリトリアの二人しかいない。お疲れでしょう、と出されたグラスに口をつけて、リトリアはうんとも言えずにその中身を喉に通した。冷やされた水に、ハーブの香りが溶け込んでいる。グラスに口をつけたまま、リトリアはきゅぅ、と眉を寄せた。
「……陛下のところに、行かなくちゃ……」
要するにあまり長居はできないのだと告げるリトリアに、老婆は分かっておりますよ、と頷いた。
「先程、私の元にも知らせが来ました。まだなにかお話合の最中とのことで、リトリア様にはもうしばらくお待ちいただくように、と」
「……リトリアでいいです」
「はい、はい。嬢さま」
だから、さま、なくていいです、と上手く言えずに、リトリアはグラスに口をつけた。幸い、老婆は無言で過ごすことをあたたかく許してくれる存在だ。陽光の眩さに目を細めながら、リトリアはふと、首を傾げた。
「お話合が終わったら……私にご用事が……?」
あるのかな、とリトリアは傾げていたのとは逆方向に首をかたむけた。心当たりがひとつもない。王宮魔術師としてのリトリアは、ほぼ雑用係である。王の身近な用事を済ませることも多いが、誰にでもできる簡単なこと、くらいしかやらせてもらっていない状態だ。それはリトリアが無防備な予知魔術師であり、さらに己の武器を取りあげられている為だった。魔術師であれば誰もが持ち、そして常に手元に置いておかねばならぬ武器。リトリアの、本の形をしたそれは、現在、少女の手元にはない。それは王の居室の本棚に保管されている。守り役と、殺し手を持たない予知魔術師は籠の鳥だ。魔力を思う様ふるうことも許されず、ただただ飼い殺しにされる。リトリアはそれを分かっている。普段から、そういう扱いもされている。それなのに。
訝しむリトリアに、老婆はそっと囁いた。
「嬢さまの、お客様なのですよ」
「……わたしの?」
こころあたりは、やはり、ない。けれど。どくん、と心臓が音を立てて弾んだ。会いたい人がいる。もしかして、と思う相手がいる。息を飲むリトリアに、老婆は記憶をさぐりながら言った。
「御名前までは、なんとも……ただ、お客様はお二人でいらっしゃいました。男性がひとり、女性がひとり。嬢さまに、お会いしたいと……」
今は陛下にその後許可を頂いている所です、までしか聞かず、リトリアは部屋を飛び出した。呼びとめる声に振り返ることすらせず、廊下をただ走っていく。心臓が痛いほど鳴っていた。胸の奥があつくて、鼻の奥がいたい。泣いてしまいそうだった。泣きそうだった。期待と、喜びで指先が震える。会いたかった。だって、ずっとずっと会いたかった。ストルさん。ツフィア。会いたかったの、あいたくてあいたくて、あいたくて。さびしかったの。ふたりがわたしのこときらいってしってる。でも、わたしは。すき。すき、すき。おねがいこれいじょうきらいにならないで。いいこにしてるから。だから。あったら、なまえをよぶから、なまえをよんで。ずっと、ずっと。
あいたかった。
「……っ!」
胸から溢れだした感情を制御することもできず、リトリアは王が客人を迎える為の部屋へ飛び込んだ。息を切らしながら顔をあげ、視線で二人の姿を探す。
「……リトリア」
それなのに。その視線を受け止めたのは、求めていたひとたちではなかった。困ったように長椅子に背を預ける王の前に、王宮魔術師のローブを纏った男と、女がひとりずつ座っている。ストルと、ツフィアではなかった。えっと、とリトリアは目を瞬かせる。二人とも知り合いだ。名前くらいは簡単に呼べた。
「フィオーレ、と……レディさん? えっと……」
なんで。ストルさんとツフィアは、と考えかけて、リトリアはそれに気が付いた。二人が会いに来てくれるなんてことが、ある訳がない。二人がリトリアより先に学園を卒業してから、ずっと。リトリアが学園を卒業して、王宮魔術師になった、今でも。会いたい、という言葉が届くことはない。何度も、何度も、願ったのに。ぐしゃり、胸の中でなにかがつぶれる音がする。目の前がぐらぐらして、上手く立っていられない。浅く息を繰り返しながら、リトリアはなんとか、己の主君へと頭を下げた。
「え……と、あ、の……陛下、あの……きゅうに、申し訳ありません」
「うん」
楽音の国王は、魔術師の混乱をなにもかも見通した静かな笑みで、その謝罪を受け入れた。ちいさく震えながらリトリアは顔をあげ、フィオーレと、レディの方へ向き直る。ふたりも、ごめんなさい。いきなり、なんの、声もかけず。そう、頭の中で言葉をつくって。口に出そうとした瞬間、リトリアの体から力が抜けた。かくん、と膝が折れ、その場に倒れこむように腰を落としてしまう。リトリア、と慌てて呼びかけ、フィオーレが駆け寄った。
「どうした? どっか痛い? ……立てる?」
羞恥で耳まで赤く染め、両手で顔を覆いながら、リトリアは何度も、何度も頷いた。ごめんなさい、大丈夫です、という言葉が弱々しく響く。フィオーレが少女に手を貸し、そっと立ち上がらせる、その姿を。レディはただ、哀れむような眼差しで見つめていた。