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 すこしだけ、リトリアと二人にしてください、とフィオーレは言った。その願いが聞き届けられるとレディは思わなかったのだが、意外なほどあっさりと楽音の王は頷き、その場から立ち上がる。けれどもレディを呼びつけ、楽音の王が足を向けたのは部屋の扉ではなかった。座っていた長椅子からはほんの数歩、距離の離れた窓辺に移動し、壁に背を預けて腕を組む。そのまま、視線を外へ流した楽音の王の、それが許可できる『二人きり』の限界範囲であるらしかった。告げたフィオーレも、分かっていたのだろう。苦笑するでもなく、ありがとうございます、と告げられるのに、レディは慌てて壁際へ寄った。迷いながら楽音の王と窓を挟むような位置に立ち、同じように背を預けて、視線は室内に戻してしまう。どうしても気になったからだ。喜びと希望に輝いたリトリアの瞳が、色を無くし、涙も零さず崩れてしまった。
 リトリアとレディの在学は、ひどくあいまいにかぶっている。同じ時期に学園にはいたのだが、親しく同じ時を過ごしたかと言われれば決して頷くことはできないだろう。それはただ単にレディの体質、数ヶ月眠って数ヶ月覚醒し続ける、というそれが学園の生徒との親しい交流を難しくしたからであり。変則的な起き方しかできなかったレディに、ひとみしりのリトリアが上手く話しかけ、仲良くなる、ということができなかったからだ。それでも、二人は同じ、寮の四階の住人だった。通常、黒魔術師に割り当てられる寮の部屋は三階だ。しかしレディは、入学した時から四階、特異な魔術の性質を持つ者であり、言ってしまえば大戦時に人、軍、という枠すら超えて、対国兵器として使われた者たちに割り当てられる区画に入れられていた。寮の二階は、人の脅威となるもの。三階は、軍の脅威となるもの。四階は、国家に対しての脅威。兵器になるもの。
 そういう割り当てだ。知る者は少ないけれど。レディは息を吐き、眉を寄せながらリトリアを見た。だから、そういう暗黙の了解で同じ区画に身を置いていたからこそ、レディとリトリアの間には一定の共感があった。それはごく薄く、不思議な仲間意識だったが、確かに今もレディとリトリアを繋ぐ絆のひとつだ。それなのに、とレディは眉間に刻む皺を深くした。レディよりよほどリトリアと多くの時間を過ごし、懐かれていた筈の四階の住人。ツフィアはなぜ、リトリアの傍にいてやらないと言うのだろう。考えながらゆるり、ゆるり、レディは思い出す。それは暗闇から出た瞬間の強い光のように、目の奥に焼きついてしまったものだった。フィオーレは言わなかった。レディも、言わず、理解した。
 リトリアは、誰かにこう聞いたのだろう。男がひとり、女がひとり、リトリアを訪ねて来ていると。王宮魔術師だ、とでも告げたのかも知れない。それだけ。たったそれだけで、リトリアはそれを、ストルとツフィアだと思いこんだ。冷静に考えれば、そうでないことはすぐに分かっただろう。ストルはともかくとして、ツフィアはどこの国家にも属していない魔術師だ。中間区の何処かに居住を構えることを条件に、各国の王はかりそめの自由を女に許した。どこへ行くにも自由だが、王宮を訪ねることに関しては、ツフィアにはいささか複雑な手続きが必要となってくる。城下を歩くくらいならば問題はないが、城に足を踏み入れ、そこにいる王宮魔術師に面会を申し込むとなると。うんざりするくらいの誓約書に名を書きこまなければならないだろう。予知魔術師が城の外を出歩く時に必要なそれと、同じか、もしくはそれ以上に。
 それでも、それだけだ。禁止されているわけではない。複雑で、めんどうくさいだけ。会おうと思えば会える。それなのに。
「……つふぃあが、わたしに……会ってくれることなんて、ない、のに……」
 なにを勘違いしてしまったんだろう、と零すリトリアの声がしんとした部屋に響いた。フィオーレは言葉をひとつひとつ受け止めるように、長椅子に座らせたリトリアの前にしゃがみこみ、その顔を覗き込んで頷いている。色を失った少女の手が震えながらもちあげられ、顔に押しつけられる。きゅぅと丸くなった背中が、さびしい、と訴えていた。
「ストルさん、も……きらい、って、わたしのこと、きらいって、いったの。……会いに来てくれること、なんて」
「……リトリア」
「だってふたりとも、わたしのこと……きらいって、うんざりする、って!」
 血を吐くような言葉だった。泣きながら、しゃくりあげながら告げるリトリアの背を、うん、と落ち着かせるようにフィオーレが撫でている。それを見つめながら、レディは思わず眉を寄せた。なんだろう。なにか違和感がある。ツフィアと、ストルが、そんなことを言うだろうか。彼らが学園にいた時のことを知っている者であるなら、誰もがなにかの間違いだろうと告げるだろう。それに、レディは先日ストルに問い正していた。リトリアのことをどう思うのか。レディの個人的な好き嫌いはともかくとして、ストルは感情に嘘はつかない男だ。その男がまっすぐにレディを、睨み、可愛い、と告げた。リトリアのことを、世界で一番可愛い、と。それは執着だ。恋慕の絡む独占欲に他ならない。レディはそう思った。それなのに。そんな風に言う男が、たとえ過去のことであろうと、そんな言葉を告げるのだろうか。
 たどたどしく、幼く言葉を繰り返しながら、リトリアの泣き声が空気を震わせた。
「……なら、どうして、会いにきてくれないの……? ……って、言ったのに。君の、ものだって、ストルさん……いったの、に……うそつき……やっぱり、嘘、だったんだ……!」
「リトリア、リトリア。……落ち着いて、な?」
「私が、そう、言わせちゃったの……! 私が、予知魔術師だから! 好きって! ……私が好きっていえば、好きになって、くれるもの。ツフィアも、ストルさん、も……好きって、わたしが……ふ、う……うえぇ……」
 ごめなさい、と花のような少女は言った。その瞳からぼろぼろと涙を零すさまは、風に花びらを散らされる藤を思わせた。藤の花、そのものを髪と、瞳の色彩として宿しているような存在だからだろう。その様はあまりに儚く、可憐に、レディの胸を打った。この少女に、心から好きだと、告げられて。こころ震わせない存在など、いるのだろうか。だからこそ、そこに、もし。本当に人を魅了する魔術が発動してしまっていたのであれば、あまりに哀れなことだった。レディはごく冷静に考えながら、息を吐いて目を閉じた。もし、あの二人が魅了されていたとして。もし、それに二人が気が付いたとして。それで傷つける言葉を吐いたのだと、したら。ストルがレディに告げた言葉、表情、声、なにもかもと。つじつまが合わない。
 だとすれば、なぜ。そんな言葉を告げられたのだろう。瞼を持ち上げたレディの目に、フィオーレに慰められるリトリアの姿が映った。泣きながら、ごめんなさいと告げながら、それでもリトリアは二人を好きでいることを諦めていない。好き、だと。無垢なまでに歌い上げる瞳のきらめき。名を告げる声の響き。かすれた声の震え。全身で。好きだと告げていた。今でも、ただ、好きなのだと。
「ストルさん……ツフィア……会いたいの。会いたいよ、ごめんなさい。……あいたい、あいたいの」
「……うん。うん、そうだな、会いたいな」
「さびしいよ……!」
 うわあぁあ、と声をあげて泣くリトリアを抱き寄せ、フィオーレは息を吐きながらぽんぽん、と背を撫でている。その視線が、ふとレディを見て微笑み。ぞく、とレディは背を震わせた。猛烈な違和感があった。ちがう。なにかがちがう、と叫んでいる。けれども、なにが違うのか分からない。なにかが食い違っている。なにかが、すれ違っている。なにかが、間違えさせられ、続けている。そういう違和感。そういう、得体の知れない気持ちの悪さ。ぐっと手を握るレディから視線を反らし、フィオーレはその手から、あたたかな魔力をリトリアへ流し込んだ。だいじょうぶだよ、とフィオーレは囁く。
「たとえ、あの二人が……キミのことを嫌いでも……いいこにしていれば、それ以上、嫌われることはないよ」
 泣き濡れたリトリアの瞳が持ちあがり、夢うつつに、フィオーレを眺めた。囁かれる声に震えながら、リトリアは頷く。
「はい」
 いいこにしています。大丈夫。そう告げ、涙を拭って、リトリアは長椅子から立ち上がった。フィオーレも、よし元気になったかな、と安心した笑顔で立ち上がり、お待たせ、とレディに声をかけてくる。レディは眉を寄せたまま、曖昧に頷いた。なんだろう、と思う。なにかを見落としている気が、するのだが。分からなかった。はぁ、と息を吐き出し、レディはえっと、と今更ひとみしりを発動してもじもじするリトリアの前まで歩み寄り、ひょい、としゃがみこんでその顔を覗き込む。おずおず、見つめ返す瞳に、思わず笑顔になった。
「……なきむしさん、終わり?」
「終わり、です……。レディさん、いじわる、しないで……?」
 上目づかいで、そんな可憐に響く声でそういうことを言うのはやめた方がいいと思うのよ特に男にというかストルとかにっ、と全力で胸中で叫び、レディはぎこちなく頷いた。いじわる、しないわ、と告げてやれば、リトリアはあからさまにほっとした表情で笑い、はにかむように視線を伏せる。ああ、守ってあげたいな、とレディは思った。できるだけ傍にいて、この子を守ってあげたい。このままだと、きっと、なにかあった時にこの子を殺すのは私の役目になるだろうけれど、それでも。その時まで。守ってあげたい、と思い、レディはリトリアに手を伸ばした。睫毛を濡らしていた涙の名残を、指先で拭う。リトリアは驚いたように目を見開き、それからふわっと頬を赤くして。やぁ、と恥ずかしがる声をあげて、頬に手を押し当てた。



 レディがフィオーレと連れだって楽音の国を訪れ、リトリアに面会を申し込んだのは仮決定されている予知魔術師の守り手と、殺害役の一件があったからである。各国の王たちの話では時間に猶予はあるとのことだったが、リトリアが来る前の楽音の王の口ぶりで、すでにほぼ決定済みであることが察せられた。それを覆すにはリトリア本人の強い否定と、元からの候補者であるストル、ツフィア両名のはきとした意志が必要不可欠だが、すくなくともその二名にレディはなにも期待していなかった。そもそも二人がリトリアの傍を離れなければ、こんなことにはなっていないのだ。あの二人とリトリアの間には、物理的にも精神的な意味でも距離がある。
 そしてレディが知る限り、ツフィアは望んでリトリアと距離を置いた筈だ。ストルに関しては興味がないので知らないが、王宮魔術師は申請さえすれば比較的自由に各国を行き来できる身の上だ。もちろん、多少なりとも理由は必要であるが、そんなもの、国から国へ届けられる書類を運ぶ役を引き受ければ十分事足りる。つまりは己の意思で会わないままでいるのだ。ストルも、ツフィアも。会いたい、と望まれ告げられていることなど、誰より知っているだろうに。結局、リトリアになんの為に顔を見に来たのかを告げぬまま帰る楽音の王宮、廊下に苛立った靴音を響かせながら、レディは唐突に立ち止まり、くるりと背後を振り返った。
「フィオーレ」
「なに?」
「あの子は知らないのね」
 私たちがストルとツフィアの代理としてあの子の盾となり剣となることも、そのことを、すでに各国の王が決めてしまっていることも。白魔法使いの、花緑青と鉛の色がゆらゆらと濃淡を変える瞳が、ふと影を帯びて笑った。ごく静かな、凪いだ草原を震わせるような怒りが、漂っている。
「そうだね。……知らせていい、とは言われなかったから。俺も、言うつもりはないよ」
 リトリアには。限定的に告げるフィオーレが、逆に、誰になら言う気があるのかを、レディはごく正確に理解していた。レディとて、当人たちに怒りを叩きつける気満々だったからである。胸の奥でごうと燃える激しい炎のような感情を堪え、息を吸い、レディは強く手を握り締めた。
「……同じことなんてしたくないのに」
 ツフィアも、ストルも、リトリアになにも話さなかったのだと言う。傍から離れるその訳も、会いたいと告げる意志を受け取らぬその理由も。ひとつも告げず、学園から卒業し、そして連絡を立ち切った。望めば会える距離にいるのに。手を伸ばせば触れられるのに。魔術師には、他人に知らせることのできない制約と、枷が存在していることが多い。能力、生まれ、適正、あるいはその魔力故に。レディも、フィオーレも、それを持っている。ストルにもツフィアにもあるのだろう。それ故、語る言葉を持たないのかも知れない。それを許されていないのかも知れない。望んでも、望んでも、どうしてもできないことなのかも知れない。けれど。レディは、震えながら、言葉を吐きだした。
 それは大地に落ち、炎に消えゆく、血の赤を思わせた。
「生きているのに……!」
「……レディ」
「ふざけないで。ふざけないでよ、本当に……! アンタたちには、名前を呼べば呼び返してくれる声がまだあるのに! 手を伸ばして触れることだって、抱きしめてもらうことだって……触れる、ことだって、できるのに……っ! 話せないなら、話せないで、ただ、傍に……好きも、愛してるも、告げられなくても、ただ……ただ、傍で……手を繋いでくれるだけだって、私は……あのこ、だって、きっと」
 悲鳴だ、とフィオーレは思った。レディの言葉はそのまま、彼女の魂があげる叫び声だった。魔法使いは未だ、夜に囚われている。砂漠の都市をひとつ、炎の中へ消し、愛しいもの全てを失った夜に。愛しているの、愛してる。私が壊してしまったものを返して、私が失ってしまったものを。かえして、かえして、かえして。壊れないで、失われていかないで、消えてしまわないで。なにもかも、すべて。あいしているの。
「……レディ」
「ごめん。落ち着く……落ち着くから」
 それなのに、慰めや労わりの一切を拒否しきった態度で。レディはフィオーレを睨みつけるように視線を持ち上げ、息を吸い込んで額に手を押し当てた。震えながら閉ざされた瞼の裏で、魔法使いが見る夢のことをフィオーレは知っている。しあわせな、ゆめ。しあわせな、未来と引き換えに。膨大な魔力が、彼らを魔法使い、と人に呼ばせた。怒りを深く沈みこめた理性的な瞳が、やがてフィオーレをまっすぐに射抜く。
「悪かったわ。……フィオーレだって、傍に居られないの、知ってるのに。言うべきじゃなかった」
「うん、レディ? 俺としてはその発言自体も言わないでいて欲しかったかな」
「あら失礼。忘れて?」
 ううん、と疲れた体を伸ばしながら、レディは再び歩き始めた。
「ともあれ、帰るわ。リトリアちゃんが次に学園に行かないといけないのって、いつになりそう? 白魔法使い」
「今月は乗り切れると思うけど、来月末までは無理かなってトコ。来月の半ばくらいかな、火の魔法使いさん」
「一月半か……。体調が悪くなるんだっけ?」
 その国の王宮に鎖されるべき予知魔術師が、その暗黙の了解を破ってまで学園に戻らなければならないのは、深刻な不調が報告されているからだった。ごく幼い時分より中間区の空気を吸って育った弊害か、他になにか理由があるのかまでは特定されていない。けれども純粋な事実として、リトリアは、こちら側の空気だけでは体調を崩してしまうのだという。じわじわと体を蝕む毒のように。鳥籠の空気が、弱らせて行く。
「……精神的に安定すれば、もうすこしは保つと思うよ。戻るのも半年とか一年とか、二年に一回とかで」
「ねえフィオーレ私すっごく! いやな事実に気がついちゃったんだけど聞いていい?」
「えっなにそれ怖いでもいいよどうぞ?」
 眉を寄せながら呟く白魔法使いに、火の魔法使いは胸の前に手を押し当てた。不安を押しこめる動作だった。
「その、リトリアちゃんの不調って、こっちに来てから判明したのよね? つまりはその、卒業後に」
「うん? うん、そうだね。いっぱい食べてちゃんと寝てるのに、リトリアの体重がじりじり落ちてって、体調も崩れ始めて。おかしいってなって。文献とか口伝とか、色々調べてもしやってなって、こないだ流星の夜にちょっと学園に戻ってもらったら、安定したから。……それがどうかした?」
「どうしたもこうしたも。ねえそれ、つまり、あの、ストルとツフィアは知らないんじゃないのかしらっていう……」
 魔法使いたちは無言でしばし視線を交わし合い、同時にこくりと頷いた。よし、新しい事実には気が付かなかったことにしよう、という意志を交わし合う仕草だった。
「ふ、ふふふふ大丈夫よ私、大丈夫大丈夫超余裕! だってほら確かそれって各国の陛下とフィオーレと、あと今回の件で私くらいにしか説明行ってないことだし? 一種のえーっとなんだっけホームシック? ホームシック的なあれこれがこじれて中間区に戻さないといけないのよ納得しなさい的な感じで? 押し通せば? いける?」
「いける、いける。その方向でストルには言っといて、ってゆーか、聞かれるまで言わないで。ほら、ストルはリトリアが学園に戻ったのとか知らない筈……だし……? ……うん? それとも流星の夜に? 会っちゃったんだっけ? なんか誰かそんなこと言ってたような気が」
「だ、大丈夫、大丈夫! 万一戦闘になったとしても、ほらっ! 占星術師ごときがというかただの魔術師風情が魔法使いたる私に勝てると思ってんのかしらうふふあははは片腹痛いわ! っていう! 感じだし! そうよねそうに決まってるわ。持久戦に持ち込んで相手の魔力切れを待てばいいだけだもの……! ふ、ふふふふ大丈夫よ私大丈夫! そ、そんな、そんなマジ切れしたストルとツフィアなんてこわ、こわく……怖いこわいこわい絶対怖い敵に回したくない」
 ねえレディその前半の台詞完全に悪役だよねええええっ、と叫ぶフィオーレに、レディはやだやだ怖いと涙ぐんで首を振りつつ、己を落ち着かせる息を吸い込んだ。
「フィオーレ」
「なに」
「リトリアちゃんの体調のことは、バレる時まで隠しましょう」
 あと楽音の陛下を通して、楽音の王宮魔術師にも口止めをしておきましょう、と真顔で提案するレディに、フィオーレは真剣に頷いた。幸い、一度きよらかな空気に触れたことで、最近はリトリアの体調も安定していることだし。月末のパーティー終わるくらいまでは普通に過ごしていられると思うんだよね、と呟くフィオーレに、どこかほっとした様子でレディは肩の力を緩め。今頃はその準備に追われているであろう各国と、そろそろ寮長から告知されているであろう、新入生たちのことを想像して。恐らく奇抜な格好をして世界が俺にだのなんだの言っているに違いない寮長に、心の底からイラっとした。



 火の魔法使いの想像はごく正確なものだった。就寝前のひととき、談話室でくつろぐソキたちの前に現れた寮長は、見慣れたくもないのに見慣れてしまった、よく分からない彫刻のようなポーズを決めてこう言い放ったからだ。
「世界が告げている……お前らを全力で、祝ってやると……!」
 寮長に常に付き従う副寮長が、その言葉を丁寧に翻訳し、再度新入生に告げたところによれば、月末に新入生を歓迎するパーティーが開かれる、とのことだった。その他にも寮長は色々と詳しく説明していたようなのだが、正直、最初のひとことですらまともに聞いていなかったソキが、それを覚えている筈もない。その為ソキは、頭を抱えながらソファに突っ伏し、ああ早くあのひとの小指の角が常に机の角とかにぶつかり続ける呪いをかけられるようになりたいな、明日ロリエス先生に頼みこもうかな、と呻くナリアンから、要点だけを教えてもらった。ひとつ、パーティーは月末に開かれること。ひとつ、立食形式のダンスパーティであること。ひとつ、エスコートする相手を決めてはいけないこと。ひとつ、新入生は正装の用意をしてはならないこと。ひとつ、二つの禁止事項を厳守すること。
 ソキは、特に正装のくだりに、眉を寄せて首を傾げた。メーシャが捕捉してくれたところによれば、授業でダンスを教えてもらえるとのことだったが、ソキが不審に思ったのはそこではない。正装だ。用意してはならない、というのは意味が分からないし、もっといえば、ソキはそういう場に着て行けるような服をすでに持っている。砂漠の国から送られてきた荷物の中から数点、ロゼアが残した為だ。お兄様ばかなんですかソキはねえお勉強しに来ているんであってこういうトコに顔を出しに行くんじゃないんですよやだやだソキ着ない、と思いつつ、ロゼアがわざわざ丁寧に洗濯をして虫干しまでしてくれたので、ソキは時々、お風呂上がりの就寝前にそれに袖を通している。ものすごく豪華なネグリジェのようなものだ。寮の女性陣には大好評である。
 ともあれ、それらの服が正式な場に活用される機会を逃す手はない。寮長ソキ持ってるのでいいです、と告げるソキに、寮を取りまとめる男は面白そうに目を細め、駄目、と言った。
「正装を用意してはならない。これは、学園の伝統だ。諦めろ」
「……寮長も、用意しなかったですか?」
「用意しなかったさ。俺はな」
 その口ぶりから察するに、誰かが用意してくれるものらしい。正装なしで出席しろ、という訳ではないと分かって、ソキはしぶしぶ頷いた。寮長は説明責任を終えたと思っているのか、おお俺の女神の麗しさを想うだけで俺は足元に平伏し愛を請いたい、というか請うので当日は邪魔をしないように、とナリアンに言っている。ナリアンは虫を見るような目で寮長を見つめ返し、同じ空気を吸いたくない、と思っているのが丸わかりのもうやだほんとうにやだなに言ってんのこの人、という顔つきで、好きにしてください、と返していた。メーシャはパーティーという場に思いをはせているのか、いつも以上にきらきらとした笑顔で目を伏せていた。だいたいいつも通りの就寝前である。
 ふあ、とあくびをして目を擦り、ソキはロゼアの服の裾をひっぱった。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん……ソキ、もう、ねむたいです」
「うん、分かった。……ナリアン、メーシャ……寮長」
 さすがに、目の前にいるのに無視をするのはどうかと思ったのだろう。非常にためらいの残る口調ながら寮長のことも呼び、ロゼアはソキと手を繋いで、座っていたソファから立ち上がった。
「おやすみなさい。また、明日」
「メーシャくん、ナリアンくん」
 ほやほや、ふんわかした眠そうな笑顔を浮かべ、ソキは直球で寮長を無視し、ぺこんと頭をさげる。
「おやすみなさいなんですよ」
『うん、おやすみ、ソキちゃん。ロゼア。また、明日ね』
「ロゼア、ソキ、おやすみ。また明日」
 ロゼアとソキは手を繋いだまま、ゆっくりと歩み、談話室を出て行った。その背が見えなくなるまで訝しげに見送り、寮長が残されたナリアンとメーシャに、信じられないものを目の当たりにした眼差しで、問う。
「……なんでロゼアは間違い起こさねぇの?」
「……まちがい?」
「性的な」
 ごふうううっ、と聞いたことのない音を立ててナリアンが咳き込んだ。メーシャはええと、と柔らかな笑みを浮かべたまま、どこか小奇麗な仕草で首を傾げてみせる。
「それは、ロゼアに聞かないと……」
 あっ、逃げた。さりげなく全力で逃げた、と寮の視線が集中する中、寮長は真面目な顔でそれもそうか、と頷いた。メーシャとナリアンは、明日の朝からロゼアに降り注ぐであろう災難を思い、そっと目を伏せた。ごめんロゼア本当にごめん。というか寮長爆発四散すればいいのに、すればいいのに、という意志をひっそりと響かせて。寮の夜は、ふけて行く。

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