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 目の前のかたく閉ざされた扉を恨めしげに睨み、ソキはそれをつんつんと人差し指で突っついた。あけてあけてよねえ開けて、とにゃあにゃあ鳴きながら扉をひっかく猫を見つめる眼差しで、栗色の髪をした少女がソキの傍らにしゃがみ込む。少女は唇を尖らせて頬をぷーっと膨らませ、ソキ拗ねてるんですよっ、と主張する後輩に、こころゆくまで癒されほのぼのとしながら、言った。
「ソキちゃん? ソキちゃんもダンスの練習に行こうね?」
「……ルルク先輩に、ソキはちゃぁんと言ったと思うです」
 ぷぷぷーっとさらに頬を膨らませながら、ソキは訝しげに眉を寄せ、こてんと首を傾げてみせた。
「ソキねえちゃんと踊れるんですよ? だからねえ練習はいいです。ロゼアちゃんが練習するの見たいです」
「駄目なんだなー、それが!」
 唇に指を一本押し当てながらウインクし、ルルクは弾む声で説明してあげるっ、と言い放った。いいですいいですソキ聞かない、とぷるぷるぷるぷる首を振るソキと、その前にしゃがみ込んでにこにこ笑うルルクを眺め、生徒たちは足早に授業へ向かって行く。授業棟、と呼ばれる学園の一角。その廊下でのことである。ひろい作りになっているので扉の前で少女二人がしゃがみこんでいようと、通行の邪魔にはならないのだが、座学室や実技授業の為の訓練室へ続いて行く廊下だから、人通りが多く、視線がいくつもよこされた。けれどもソキは見られる、ということに慣れきっているし、ルルクも特に気にならないらしい。二人ともそちらへはちらりとも視線をよこさないまま、扉の前で視線を交わし合っていた。鍵のかけられた大きな扉には『女子立ち入り禁止』と書かれた紙が張られていた。
 さらに扉の前には、立て札。『新入生男子の為のめくるめくダンス特訓室』と書かれていた。立て札を恨めしげに睨むソキに、ルルクが説明できる喜びに溢れ切った笑顔で囁きかける。この学園には、基本的に人の話を聞いているようで聞いていない者が多い。女の子に見つめられるとどきどきしちゃう年頃の男の子たちの繊細な心を守る為にうんたらかんたら、と言ってるであろうルルクの説明を七割方聞き流し、へー、そうなんですか、わー、そうなんですか、と頷きながら、ソキははみゅ、と溜息をついた。
「踊ってるロゼアちゃん格好いいのに……ソキだってあんまり良く見たことないのに……」
「へ? ロゼアくん、踊れるの?」
「ロゼアちゃん上手なんですよっ!」
 ちからいっぱい自慢げにふんぞりかえって言うソキに、ルルクはへぇ、と感心したように頷いた。学園には各国から様々な者が魔術師として集まってくるが、その中で、踊りというものに触れたことがあるのはごく少数である。さらに、夜会で求められるようなダンスとなると、育ちや身分がものをいう。ルルクが知る中でも、たいした練習もせず、パーティーで見事に踊ることが出来たのはほんの数名だけだった。入学の時期がずれたので、初年度のそれを目にしたことはないが、彼らが踊る姿はとにかく人目を惹きつけた。華があったのでよく覚えている。特にきれいに踊っていたのはフィオーレとリトリアで、新入生だった少女の相手を務めたのが白魔法使いであったのだという。学園で新入生歓迎パーティが開かれるたび、白魔法使いが先に卒業してしまうまで、二人はよくダンスホールの中心で微笑みあっていた。
 その姿は、夜に咲く白い花のようだった。
「ソキねえロゼアちゃんに教えてもらったです」
 懐かしい記憶を呼び起こしていたルルクの意識を、ソキの声が引き戻した。ソキは変わらず自慢げにえへんと胸を張って、ロゼアちゃんすごいでしょうさすがはソキのロゼアちゃんですっ、となぜか満足げだ。うん、と曖昧に首を傾げてルルクは息を吸い込む。懐かしい、綺麗な記憶と共に、なんだかすごくこわいものを思い出しかけた気がするが気のせいだということで処理したい、断固としてしたい。
「ロゼアくんは……踊りの先生、だったの?」
 ふるふるふる、とソキは首を振った。
「ロゼアちゃんはねえ、傍付きなんですよ。ソキの傍付きなんですよ!」
「……傍付きっていうのは踊りを教えてくれる人なの?」
 砂漠の国出身でないルルクは、どうもそれにピンと来なかった。『花嫁』と『傍付き』。その言葉や関係に、砂漠の国出身の者であるなら、説明をされずとも理解が及ぶというのだが。今の所ルルクの目から見た二人は、ものすごく仲の良い幼馴染のような恋人のようなそうでないようななにかである。とてもではないが説明できない。ロゼアを保護者のようだとも思うことがあるが、それはそれでしっくり来るような、来ないような、いまひとつあてはめられないのである。ただ、保護者という単語を思う時、ルルクの心にはなぜか恐怖がよぎる。その単語はとても怖いものだった。なにが怖いのかが思い出せないのが怖い。そしてその恐怖は、パーティーで踊る二人の姿を思い出すたびに頭の端をちらつくのだった。
 保護者怖い。心に焼きついたその単語を振り払うように息を吸い込み、ルルクは訝しげなソキにもう一度問いかけた。傍付きとはそういう、教養の教師めいたことをする者なのかと。ソキはちょっとくちびるを尖らせて、拗ねた声で言い放つ。
「ちがうんですよ。ロゼアちゃんがソキにするのは、ほとんどぜんぶ、です」
「……へ?」
「ソキにかかわる、だいじなことの、ほとんどぜんぶをロゼアちゃんがします。踊りも、歌も、ロゼアちゃんが教えてくれたです。お作法も、お勉強も、遊びも……ロゼアちゃんじゃなかったのは、閨のことと……あと、ほんのすこしです。だから、ロゼアちゃんは、ソキができることならなんだってできるです。ね? ロゼアちゃんすごぉいんですよ!」
 かつてなく自慢げに語るソキに、ルルクは思わずロゼアの年齢を思い出していた。記憶が間違っていないのであれば、ロゼアはまだ十六歳。成人してから一年が過ぎたばかりである。砂漠の国の一部では年が変わると共に年齢を重ねて行く数え方をするので、ごく正確な所は分からないが、それにしても。ソキが十三であることを考えれば、恐ろしいほどの教育の質だった。『花嫁』は『傍付き』が育てる。文字上の情報として、ルルクはそれを知ってはいたのだが。
「……もしかして、ロゼアくんって、すごいの?」
「だから、ソキはそう言ってるです」
 ぷぅ、と頬を膨らませて言うソキに頷きながら、ルルクは膝の汚れを払って立ち上がった。まあ、それはそれとして。
「じゃあ、そのすごいロゼアくんにすごいって言ってもらえるように、ソキちゃんも踊りの練習しようねー?」
 ぴく、と身を震わせてソキの動きがとまった。パーティーの開催が寮長から宣言されて数日。ソキの世話役のひとりとして傍にいたおかげで、少女がとにかく、ロゼア、の単語に弱いのは分かり切っていた。ロゼアちゃんにすごいって言ってもらえるです、と視線を彷徨わせ、とたんにそわそわしだしたソキに頷き、ルルクは満面の笑みで言い放った。
「ロゼアくんに教えてもらってたら、なおさら! もっと、もーっと上手くなって、すごいなソキよく頑張ったなって言ってもらいたくない? もらいたいよね? そわそわしちゃうよね?」
「う、うにゅ……で、でもでも、そき、そき、ろぜあちゃんみたい……」
「また今度ね? 今日は、練習しよう?」
 それに今日から先生が来てくれるんだよ、と告げるルルクに、ソキはきょとんとした目を向けた。
「せんせいです? ……踊りの?」
「学園を卒業した王宮魔術師さんなんだけど、この時期は新入生の女の子の為に踊りを教えに来てくれるの」
 そこでソキは気が付くべきだったのだ。ルルクが、新入生の、ではなく、女の子の為に、と限定して言った意味を。先生が教えてくれるから上手くなってロゼアくんに褒めてもらおうね、という言葉にこくりと頷き、ソキはちまちま、廊下を歩いて『新入生女子の為のときめきダンス練習室』へ移動した。ちなみに、男子部屋の隣である。壁の一部が鏡張りになったその部屋の中に、動きやすそうな黒いワイシャツとズボンに身を包み、ひとりの女性が立っている。振り返る、一億の孤独と共に時を止めた宝石色の瞳。それを宿す女性の名を。
「エノーラさん……! です……っ? あれ? せんせい、エノーラさんなんです?」
「ソキちゃん、エノーラ先輩のこと知ってるの?」
「学園に来る旅の途中会ったです。それと……」
 入学式前に指輪をみてもらうので会ったのだ、と告げかけたソキの唇が、歩み寄ったエノーラの指先で塞がれる。びっくりして目を向けたソキに、エノーラはしー、と微笑みながら告げた。
「それは、秘密にしておいてくれる? ……ひさしぶり、ルルク。元気だった? 今日のパンツ何色?」
「エノーラ先輩……! 今日は、あ……あか、です」
「そう、ルルクの肌には赤が似合うものね。かわいい」
 頬を染めながら告げるルルクに、エノーラがしっとりとした笑みで微笑みかける。そんな、と恥じらいに視線を伏せたルルクの頬を、エノーラが愛でる手つきで撫でていた。その間に挟まれるかたちで、ソキはうん、と頷く。
「ソキ帰りたいです」
「あっ、ごめんねソキちゃん。今日のパンツ何色?」
「そこじゃないですよ……!」
 ごめんね無視していたわけじゃないの、という申し訳なさそうな表情で、なんでそんなことを聞かれなければならないのか。頭を抱えてふるふるとうずくまるソキを可愛がる目つきでしばし眺めたのち、エノーラはひょい、としゃがみこんできた。
「じゃあ、気を取り直して。踊りの練習、しよっか?」
「とりなおせないです……エノーラさん、なんで、せんせい……?」
 ルルクが未だほんのり赤らむ頬に手を押し当てながら、夢を見るような口調でエノーラ先輩はとても踊りが上手なの、と教えてくれた。今日の寮長の機嫌の良し悪しと同じくらいにどうでもいい情報です、とソキは思った。そんなソキの髪をひとすじ、指にくるくる巻いて遊びながら、エノーラはきらめく笑顔でそんなもの、と笑う。
「合法的になんの問題もなく女子の腰を抱き寄せる機会を、私が逃すとでも……?」
「エノーラさんはそろそろ捕まったりしないです? なんで?」
「一応まだ訴えられたこと、ないもの?」
 一応、で、まだ、なのがとても怪しい。髪の毛触っちゃやです、と眉を寄せてくちびるを尖らせるソキに、エノーラはうん、と頷いて。それじゃあ練習しようね、と囁きかけた。



 風呂からあがり、濡れた髪をタオルで拭いながら部屋まで戻ってくると、すでに寝台にはソキがいた。あまり機嫌がよくない様子で枕に顔をうずめ、もおおおおおっ、だの、やぁんやぁんっ、やぁんっ、と声をあげてはじたばたもぞもぞしている。洗われ、乾かされたであろう髪からはふわりと嗅ぎ慣れた香油のにおいがした。この様子では今日も、ひとりで風呂には入れなかったらしい。
「……ソキ?」
 ぺちぺち、ぺちぺち叩いていた枕から顔をあげ、ソキは半泣き声でロゼアちゃんっ、と言った。
「そきねえひとりでおふろはいれるんですよ! ほんとですよ、ほんとですよっ……! ひとりでできるもんっ、できるもん……!」
「うん、知ってるよ。手を痛くするから、枕叩くのはやめような?」
 ソキの腕の中から枕を取りあげて遠ざけ、ロゼアは寝台へ腰かけた。ぷーっと頬を膨らませながらなお手を伸ばす、その腕の中にアスルを抱きこませて、ロゼアはソキの顔を覗き込む。
「ソキ、今日はなにしてたんだ? ……疲れた顔してるけど」
 熱は出てないな、頭痛くないか、と額に頬に触れてくるロゼアの手に、ソキはようやく落ち着いたように息を吐き出した。頬にロゼアの手を押しつけるように触れながら、ソキはあのね、とたどたどしく言葉を紡ぐ。
「れんしゅう、してたです……ソキねえ、がんばるんですよ」
「うん。……うん、ソキ。なんの練習してたんだ? 魔術?」
「……なぁいしょです」
 でもねえソキじょうずになってロゼアちゃんに褒めてもらうんですよー、とすでに半分寝ているような口調でほやんほやん話すソキに、ロゼアはそっと苦笑を浮かべた。よし、寝かそう。ソキの体をそっと寝台に横にさせ、その隣に転がりながら灯篭を枕元まで引き寄せる。中の火を吹き消せば、灯りはその熱の名残だけを肌に残して薄暗闇を呼びこんだ。毛布を胸元まで引き寄せると、眠たげな仕草で、ソキがもぞもぞとすり寄ってくる。その柔らかな体を腕の中に抱きよせ、髪を撫でてやりながら、ロゼアはやわり、響く声で囁いた。
「おやすみ、ソキ……良い夢を」
 うん、とちいさく頷いて、ソキの体からあっけなく力が抜け落ちる。体のどこにも力が入らないくたくたの眠りをやわらかく見守り、ロゼアもまた、夜の中へ瞼を下ろした。



 雨上がりの石畳に光と、笑い声が弾けていた。調弦も兼ねた淡い音楽が、気まぐれな旋律を風に流している。楽師たちは音を整える手を止めないまま、室内からそっと、中庭へ視線を投げかけた。中庭へ直に出て行ける一階の、開け放たれた硝子戸の向こう。眩いばかりの光に照らされて、この楽音の国の王と、その王宮魔術師の少女が踊っていた。王の髪と眼差しは青く、対する少女のそれは薄い花の紫を宿しているからだろうか。ふたりは青く晴れ渡る空と、それに見守られ咲き誇る藤の花のようだった。午後三時から一時間ほど設けられた、王宮魔術師たちの休憩時間のことである。リトリアが楽音の王宮に魔術師として身を寄せるようになってから作られたその時間は、他国からは『楽音のおやつ休憩』と呼ばれていた。純粋な事実である。三時に休憩を取るならおやつが必要ですよね、と王が麗しい笑顔で申し下した為だった。
 毎日リトリアにおやつを食べさせる為に休憩時間をねじ込んだんですか、と王に問う者は楽音にはあまりいない。結果が分かりきっているからである。それが例え呆れた問いであろうと、憤慨に満ちた糾弾であろうと、王はただ微笑みを深めて告げるだろう。うつくしく紡がれる旋律の外枠、それをなぞるきよらかな白い指先の、空恐ろしいまでに惹きつけるなにかを笑みの中へ落とし。それになにか悪いことがありますか、と。王の側近、臣下たち、そして王宮魔術師は決して国王の命令全てに唯々諾々と従っている訳ではないのだが、一度下された決定がさほど覆されないのは、その王の性質故である。幼馴染である砂漠の王は、彼の王の性質をさしてこう言った。限りなく恐怖政治に近い魅了っていうか支配っていうかなんかそんな感じのアレ。具体的になにも分からない、つまりどんなだ、と突っ込みは入ったが、誰も否定はしなかった。
 楽音の王はそういう性質の人である。男性だが、五ヶ国の王の中でもっともうつくしく、麗しく、そしてどこか冷たい、と囁かれる王。孤独ではなく、孤高でもないのだが、どこか寄り添う者の数は少ない。そう、思わせる王が。やたらと甘く楽しそうな笑みを浮かべて、お気に入りの少女魔術師の手をひき、調弦に合わせてでたらめなワルツを踊らせているさまは、ひたすら、城にある者たちの心を和ませた。ぐん、と王が繋いだ腕を上にひき、リトリアの体を導いて、回らせる。きゃぁ、と悲鳴めいた声をあげながらリトリアの足はごく正確に石畳に靴音を奏で、花びらがやさしく風に抱かれるように、まさしくふわり、とそう表すに相応しい動作で舞った。
 うつくしく、やわらかく。繊細で慣れ切った動きだった。もう、と怒るリトリアに、楽音の王は満足げに目を細め、肩を震わせて笑っている。こころゆくまでまっすぐに黒い、腹黒いじゃなくて黒い、と諸国の王に真顔で告げられる楽音の王は、ダンスパートナーに決して優しくない。相当の技量を当然のように求めるし、それのない相手には手を伸ばそうともしないのが常だった。その王が、本当に楽しそうに手を引き、わざわざ踊らせている相手がリトリアだった。恐らくはこの城に存在する者の中で唯一、王が自らそうする相手が、お気に入りの少女魔術師である。ひとみしりかつ運動神経が優しく表せば良い訳ではないリトリアは、けれど、なぜか社交に必要とされるダンスなら誰よりも麗しく舞うことができた。
 その理由はリトリアにも分からないという。魔術師には時折あることだが、少女は入学時に行われた適性検査において魔力暴走を起こし、その結果『学園』に辿りつくまでの全ての記憶を、失っていた。楽音は、リトリアの出身国だ。だからこそ王は、両親のことすら忘れた少女を慈しみ愛すのだろう。父親のように、あるいは、歳の離れた兄のように。その事実を知る王宮魔術師たちは、だからこそ、妙な邪推もせずに二階や三階の窓辺から、あるいは楽団の傍に椅子をおいて、王と年下の魔術師の戯れを眺めている。あれは兄が妹を可愛がるようなもので、恋愛感情といったものは一切存在していない。しみじみとそう思いながら、二階の王宮魔術師休憩室で、ひとりの女が溜息をついた。
「……でも、陛下があんな楽しそうに笑っているとなぜだかとても不安になってくるのは私だけなの……? あっ、陛下今度はなにをたくらんでらっしゃるんですか、いえ説明してくださらなくてもいいですけれど。でも今度は、今度こそは、被害が……被害があんまり……でないものに……していただけると……私どもも大変助かりますというかやっぱりリトリアに一日くっついてもらっているのが一番だと思うのよ間違ってなくない?」
「リトリアが来てから、陛下の……陛下が仰る所の、ささやかな御茶目は、ものすごく減ったからな……」
「ありがとう! リトリアちゃん本当にありがとう! 陛下がなんであんなにきゃっきゃうふふリトリアちゃんを猫可愛がりしているのか分からないけど、でもでもありがとう……!」
 感動のあまり涙ぐむ同僚たちを一定の理解がある視線で振り返り、チェチェリアは静かに息を吐き出した。
「……いやなことを思い出した」
「え?」
 なにが、と首を傾げる同僚たちに、チェチェリアは書類を机に打ちつけ、整えながら眉を寄せる。
「その、ありがとう、リトリアちゃん本当にありがとう、が……」
 言われている途中で、じわじわ思い出して来たのだろう。ひとりが頭を抱えて声もなくうずくまり、ひとりが胸に手を押し当ててカタカタと震えだし、ひとりは遠く彼方を眺める眼差しでぎこちなく首を振った。先に卒業していたが故にそれを知らぬ、幸福な数人だけが、きょとんとした顔でチェチェリアを見つめ返している。窓の外から、明るく、はしゃいだリトリアの声が響いて来た。室内の、一部惨状から意識を反らしたがるような顔つきで、チェチェリアはそっと呟き落とす。
「何度、ストルと、ツフィアを、マジ切れさせたことか……。二回? ……ああ、四回はあったか」
「だから、変身魔法少女だけはやめておけ、と言ったのに……! あれだろっ? 一回目にスタンがやらかして、二回目にルルクがやらかしたあれだろっ……? え、三回目と四回目って、な、に……」
「スタンもルルクもあれでしょ? あまりにアレすぎて、ツフィア怖い、は覚えてるんだけどストルに関してはなにもかも記憶ふっとばしてなんか逆らっちゃいけないというか怒らせるといけない怖いというか死ぬ、みたいなアレだけが残ったアレでしょっ? 三回目と四回目なにっ!」
 若い子の話についていけない、というか変身魔法少女ってなに、という学園の諸先輩方の視線を慎ましく無視して、チェチェリアは窓辺に歩み寄った。中庭に視線を落とす。王と少女はまだ手に手を取り合って、笑いあいながら、飽きもせず踊っていた。時折、顔を寄せ合い、内緒話のように囁き合ってはくすくすと肩を震わせている。ひたすらに仲睦まじい様子に目を細めながら、チェチェリアはなんだったかな、と記憶を探る。
「……三回目が確か、新入生歓迎パーティーで、フィオーレがリトリアと踊っていて……抱きあげてくるくるして頬に口付けたあたりで、ストルからなにか物理的に切れたような音がしたことまでは私も覚えているんだが」
「あ、私、フィオーレが『あっやべおとうさんがマジおこぶっふうっ』って笑いに吹きだしたトコまでは覚えてる」
「俺、そのフィオーレに、お前なんなの火に油注いで爆発させんのが趣味なの今日こそお前は恐らく死ぬ、と思ったトコまでなら覚えてる」
 確か、リトリアが十一になった辺りのパーティであった筈である。それを目撃していた筈の者たちは無言で視線を見交わし、言葉を交わさぬまま、しっかりと頷いた。よし、考えて思い出すのを止めよう怖いから。はぁ、と誰かが深く溜息をついた。笑い声が暢気に、空気を震わせている。調弦が終わったのだろう。楽団の音楽が一瞬途切れ、流麗な音楽が奏でられ始める。チェチェリアの視線の先、楽音の王はリトリアにそっと手を差し出してなにかを囁き、告げ。リトリアはどこか泣き笑うような表情で言葉に頷き、主君の手の中へ、己のそれを滑り込ませた。囁かれた言葉は、どこへも届かず。ただ、うつくしい音楽の中に消えて行った。

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