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 部屋の前に置かれていたのは、大きな白い箱だった。ソキでは両手に抱えることも難しい程の白い箱は、赤いリボンで飾られている。それが、ひとつ、ふたつ、みっつ。よっつも扉の前に置かれていたので、ソキはハリアスと手を繋いだまま、ちょこりと首を傾げて目を瞬かせた。
「贈り物です……?」
 それは、ソキにしてみれば馴染みのある光景であった。部屋から離れていた隙に贈り物が扉の前に積まれている。それだけの話だ。けれども、それは『花嫁』として屋敷にあった時のことで、学園の寮で巡り合うのはこれが初めてのことである。それともソキの兄が、またいらぬ気を回して服やら靴やらを送ってきたのだろうか。二日後には、新入生歓迎パーティーがある。それをもし兄が知ったのだとすれば、いかにもやりそうなことだった。心の底からげっそりしていやぁな顔つきになったソキに微笑み、傍らにハリアスがしゃがみこむ。ソキちゃん、と呼びかける声は淡雪の色をした花に似て、そっとソキの心を落ち着かせた。
「なんだと思ったのかは分かりませんが……大丈夫です。嫌なものではありませんよ」
「……でも」
「あれは、新入生に必ず贈られるお祝いです」
 だから、大丈夫。訳知り顔で囁くハリアスはそれ以上の説明をくれなかったが、ソキはこくん、と頷き、久しぶりに戻る己の居室へとまた一歩足を進めた。普段、ソキが生活の拠点にしているのはロゼアの部屋である。今日も本当ならばロゼアの部屋で一日を過ごすつもりであったのだが、それを止めたのがハリアスだった。朝食を終え、パーティー二日前ということで全ての授業が休校になったが故に、まったりと四人でお茶を楽しんでいたソキの元に、ハリアスはやや慌てた様子で駆け寄ってきた。聞けば、ソキがロゼアの部屋に戻る前に捕まえる必要があったとのことである。パーティーの前々日となる本日から、新入生らは原則的に、互いの交流を禁じられるのだという。基本的にはそんな時間の暇がないことが一番の理由であるのだが、様々な規約がそうであるように、それを破ることは魔術師には許されないのだと。
 当然、ソキは抵抗した。ロゼアちゃんと一緒にいるですよ、ロゼアちゃんのとこで寝るですよ、と必死にお願いしたのだが、ハリアスがそれを聞きいれてくれることはなく。代わりに、今日は女の子たちで集まって眠りましょうね、と微笑まれたので、ソキはちょっとどきどきしながら別行動を受け入れたのだった。お泊りである。そう考えれば別に悪いことでもないのだった。ロゼアちゃんソキは頑張ってくるですよ、と告げるソキに、食事くらいは一緒にしても大丈夫だった筈ですからと言い残し、ハリアスは少女の手を引いて寮の部屋へ戻ってきた。そして、箱に遭遇したのである。ソキは眉を寄せながら箱へ近づき、ぺたぺたと手で触れてから、あれとばかりに目を瞬かせた。
 積み重ねられた箱の、上からふたつめ。ちょうどソキの目の高さに結ばれたリボンの下に、一枚のカードが挟み込まれている。真白い紙の縁には、きれいな花模様が虹色の箔で押されていた。それにそっと指先を伸ばし、つまみあげて、薄青色のインクを注視する。読みやすい、整った文字で、言葉が綴られていた。一言ではなく、二行に渡って。
『誰に所有されることなく』
『あなたは、あなたでありなさい』
 ほとんど無意識に、ソキは箱の赤いリボンに手をかけて、蓋を廊下へ落としていた。中身を覗き込み、おおきく、息を吸う。
「……わぁ」
 傍らのハリアスが、感動的な息を吐きだし、目を瞬かせた。寮の通りすがる少女らや、それより年上の女たち。ハリアスだけでは手が足りぬだろうと集まってきた少女たちの誰もが、目を見開き、うっとりと息を吐きだす。
「きれい……」
「素敵なドレス……。花嫁衣装みたい」
 みたい、ではなく。花嫁衣装、そのものだった。ソキはそれを知っていた。震える手を胸元に押し当てる。大きく、息を吸い込んだ。けれど、言葉にならない。胸にあふれる言葉は、たくさんあるのに。声がでなかった。頬を、涙が伝って行く。
「ソキちゃん……!」
 気が付いたハリアスが、はっとした表情でソキのことを振り返る。大丈夫ですと伝える言葉は声にならず、ソキは目を閉じて口に指先を押し当てた。水の中から掬いあげた真珠に木漏れ日が触れたような、やわらかな、やわらかな白い色がソキの目に焼き付いている。ひとめ見ただけで恐ろしいほど上質だと分かる布地で作られたそれは、ソキの『花嫁衣装』だった。間違えようもなく。『砂漠の花嫁』の婚礼衣装だった。国を離れ、なにひとつ、己のものを残すことを許されず。その身ひとつで嫁いで行く『花嫁』に、屋敷の者が、傍付きが最後の最後に贈る、仕事と忠誠と献身のかたち。『花嫁』がもっともうつくしくあるように。その瞬間の為だけに、つくられる、たったひとつの。
 手元に残すことを許される、想いの結晶。
「……っ!」
 ぼたぼた、涙が落ちて行く。震えながらしゃがみこんで、ソキは誰が止めるのも聞かないで、箱ごと花嫁衣装を抱きしめた。はく、と声を失った唇が誰かの名を呼ぶ。ロゼアのものではなかった。何人も、何人も、ソキは少女らが知らぬ名を紡ぎ上げ。最後の最後に、ようやく、震えながら吐きだされた声で。
「……ロゼアちゃん……!」
 悲鳴じみた、助けを求めるような、切実な苦しいまでの響きで。ロゼアを、呼んだ。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃんっ……ろぜあ、ちゃ……ふ、うっ……うえぇ……」
「ソキちゃん……」
「……っ、っ!」
 それきり、あとはもう言葉にならない。ただ、ただ感情を揺らすソキに、ハリアスはずっと寄り添っていた。かける言葉を持たないことを苦しげに、その肩を抱き寄せて良いのか、判断がつけられないことこそを申し訳がるように。目を伏せ、考えを巡らせながらも、それでも傍から離れず。ハリアスはずっと、ソキの傍にいてくれた。
「……もう大丈夫かな?」
 十分以上が経過した所で、ソキの顔を覗き込みながら問いかけたのはルルクだった。廊下にしゃがみ込んで泣きじゃくるソキをどこかへ移動させることもできず、ただ落ち着くことを待つしかできないのが、申し訳なかったのだろう。その手にほんのりと温かい香草茶を持ち、陶杯を差し出してくるルルクに、ソキはこくりと頷いた。息を吸い込みながら香草茶を受け取り、はぁ、と吐きだして目を瞬かせる。
「ごめんなさいです……ソキ、すごく、びっくりしてしまって」
「ううん。落ち着いたならいいわ。気にしないで? ……あなたもよ、ハリアス。気にすることじゃないわ?」
 くすくすと笑いながら、ルルクはハリアスにも香草茶を差し出した。飲みなさい、と囁く先輩の言葉を拒否しきれない、という態度で頷き、ハリアスはあたたかな香草茶をひとくち、喉に通した。ふ、と肩の力が抜けて行く。ひとくち、ふたくち飲んでもういいです、とルルクに陶杯を預けて立ち上がったソキは、改めて箱の中身を覗き込んだ。四つある箱の、一番大きなものに入れられているのが、ドレス。二つ目のものに、ヴェール。三つ目に細々とした装飾品がいれられ、四つ目には靴が入っていた。どれひとつとして既製品はない。完全なるオーダーメイドのものだった。ルルクが、それらをじっくりと眺めたのち、頷いて息を吐く。
「高そう……というか、高い。間違いない」
 賭けても良いけど間違いなく予算足りてない、と呻くルルクに、ソキはちょこりと首を傾げた。
「予算? です?」
「うん。砂漠の国の……ええと、まあそれは置いておくとして。ソキちゃんあのね?」
 はい、とばかりソキは頷いた。その普段通りの仕草に心を和ませたように微笑し、ルルクは説明してあげるっ、ととびきり弾んだ声で、唇にひとさし指を押し当てた。ウインクがひとつ。
「これが、ソキちゃんに贈られるパーティーの正装よ」
「……これが?」
「そう、これが! ……ふふ、ね、ソキちゃん。着てみよう? それで、色々調整させてね。ソキちゃんに、もっとぴったり合うように」
 その最終調整の為の二日間なのよ、と笑うルルクに、ソキは大きく息を吸い込んだ。一番小さな、靴の入った箱を手に取り、歩き出す。そして、部屋の扉を開けた。



 よく磨き上げた真珠の、なめらかな目に優しい淡い純白。光の加減で虹色にすらゆらめく白の布地は、砂漠の国の、まさしく最高級のものだった。形としては奇抜さのない、胸から上、肩を出す形のスタンダードなドレスだ。だからこそその作りの精巧さと、恐ろしいまでの上質さが際立っている。腰から足元にかけて広がるスカートは、ふわりとしたごく軽い布地で作られていた。どう歩いても決して脚に絡みつかない、徹底的な設計のもとで縫いあげられたであろうそのスカートの裾には、胸元を覆う布地と共通の、白と金で編まれたレースの花模様が飾られている。ほんの僅かな力がかかっただけでもふつりと切れてしまいそうな細い糸で編まれたレースが、裾と胸元におしみなく使われていた。
 さらに、裾部分にはごくちいさくカットされたトルマリンが直に縫い付けられており、かすかな動きに麗しく、光を乱反射した。ほっそりとした腰をぐるりと巻く、スカートと同じ布地を使った飾りが、腰の後ろでふわりと結ばれ、足元まで垂れ下がる。その布の先端にも、トルマリンが輝いていた。布をちょっと摘んで落とす、意味のない動きをする指先は白い手袋に覆われている。手袋に覆われた指先が人目に触れることはないが、砂漠の国からの徹底的な指定で指先は磨きあげられ、透明な光沢を乗せられ爪化粧までされていた。
 胸元から上を隠す布はなく、肩や首はなめらかな肌を露出させていた。首元と耳を飾る装飾具はなく、代わりのように透明な色で絵が書かれていた。それはごく近く、肌に口付ける程に顔を近づけて注視しなければ分からないものだろう。両耳には花模様に似た祝福が描かれ、首にも植物の蔦と咲く花に紛れさせ、祈りの言葉が肌に直に描かれていた。一時間程前、わざわざ特殊な術式で保護された上で出向いた、砂漠の国の王宮絵師の手によるものである。耳元と首のみならず、絵師の女性はソキの屋敷から言付かったと告げて、胸元にも絵を残して行った。それはドレスに隠され、殆ど見えない位置に描かれる。心臓の、ちょうど上あたり。透明な色ではなく、赤褐色で描かれたのは大輪の花。血の色に咲くようにも見えるであろうその花の意味を、ソキは間違わず、知っていた。手袋に覆われたてのひらで、見えぬそれに、触れる。
 心臓の上に抱くのは、傍付きのいろだ。見えない位置に隠す色。肌の一番近くに、触れさせる祈り。それを『花嫁』は生涯の秘密として抱えて嫁ぐ。ソキも、ロゼアにそれを告げる気はない。ひと呼吸で気持ちを落ち着かせて、ソキは伏せていた視線をようやく持ち上げ、室内を見回した。けれどもその瞳が直に、視線を重ねることはない。露出した肌を覆いかくすよう、半透明のヴェールが下ろされていた。髪は複雑な形に編まれ、左側に挿しこまれたティアラで留められている。アクアマリンとトルマリンがふんだんに使われたそのティアラに目を留め、世話役の少女が、ほぅ、と息を吐きだした。
「すごく……きれい……」
 もう、それ以外の言葉が出ない様子だった。室内にいた少女らが、声もなく、拳を握って何度も何度も頷く。そのうちの一人、砂漠の出身だとソキに告げた年上の少女は、口に震える手を押し当て涙ぐんでいた。声なく、言葉なく、少女の眼差しがソキへ告げる。『砂漠の花嫁』。ソキは、あわく、あわく、微笑んだ。喜びよりなにより、誇らしい気持ちでいっぱいになる。きれいだと言われることも、涙ぐまれることでさえ、ただただ誇らしくて仕方がなかった。椅子の上で背を正し、胸を張って告げる。
「ロゼアちゃんの……だって、ソキは、ロゼアちゃんの育ててくれた『花嫁』です」
 この瞬間の為に、育てられた。『花嫁』。嫁いで行くその瞬間に、もっともうつくしくあるように。傍付きの忠誠と献身はひたすらにその瞬間、花開く為だけに捧げられる。うれしい、とヴェールの影に触れる瞳を輝かせて、ソキはうっとり、幸せそうに微笑む。
「ロゼアちゃんの……ロゼアちゃんが、世界でいちばんきれいな『花嫁』に、ソキをしてくれたです。きれいなのは、ロゼアちゃんが頑張ってくれたからなんですよ。ロゼアちゃんねえ、すごいんです」
 ああ、でも、とひとすじの不安を乗せて、溜息がこぼれる。
「……ロゼアちゃん、思ってくれるかな……。ソキを、ちゃんと、自慢に……ロゼアちゃんが、思うとおりに……育てたかった『花嫁』に、なれてるって、思ってくれるです……?」
「ソキちゃんは……」
 涙ぐんで言葉もない砂漠出身の少女を慰めていた女性が、ほんのりと頬を染め、憧れるように問いかけた。
「ロゼアくんの……花嫁さんになるために、育てられたの?」
「そうですよ。ソキ、ロゼアちゃんの『花嫁』です」
「……っ、きゃぁ!」
 そう、やっぱりそうだったのね、と黄色い声をあげた女性に、ソキはなんとなく、なにか間違っているような気がしたのだが。それを問うよりはやく、トン、と扉がノックされる。夢見心地の空気が静かに落ち着きを取り戻し、ソキは不思議そうにはい、と返事をした。
「どなたですか……?」
「ソキちゃんの、準備はもう終わった?」
 聞き覚えのない、女性の声だった。顔を見合わせる世話役の少女たちに視線だけでそれを確認したあと、ソキは座った椅子から立ち上がることなく、扉の向こうへ声をかける。
「はい、終わっていますです。……どうぞ?」
「ありがとう」
 お邪魔します、と笑い声が囁いて、扉が開かれる。カツ、と硬質な靴音は響いた。現れたのは青銀の髪を背に流した、紫色の瞳の女性だった。髪色に似た淡く青白いロングドレスを纏い、黒の軍服に似た装いで身をかためた男装の王宮魔術師、エノーラに先導されて部屋へ足を踏み入れる。室内にいた少女らが、一斉に女性に対して礼をした。エノーラもまた、女性の手を引いて室内へと誘ったのち、扉を閉めてから片膝をつく。錬金術師の胸元に飾られた石は、女性の瞳と同じ色をした水晶だった。女性は、戸惑うソキに目を向け、あたたかい笑みを浮かべて囁く。
「わぁ……きれい。うん、とてもよく似合ってる」
「あ……ありがとうございますです」
 女性は、うん、と満足げに頷いた。そうしてから手の仕草だけでエノーラを立ち上がらせ、持たせていたバインダーと筆記具を受け取った。
「……さて、悪いけれど、あなたたちちょっと外に出ていてくれるかしら。エノーラ、扉の前で警護を。私が良いというその時まで、何人たりとも部屋に立ち入らせず……交わされる言葉を聞かず、聞こえてしまっても覚えていないで忘れなさい」
「我が女王陛下の仰る通りに致します。……大丈夫よ、ソキちゃん」
 陛下は別に怖くないからね、と笑いながら囁き、エノーラは不安げに顔を曇らせてソキを振り返る少女たちの肩を抱き、部屋の外へ連れ出した。それでは、と一礼したのち、エノーラが外から扉を閉める。やや呆れた顔つきで王宮魔術師を見送っていた女王が、扉の閉じる音にはぁと溜息をつき、くるりとソキを振り返った。不安に揺れる顔を覗き込み、笑う女王の顔つきは、優しい。
「はじめまして、ソキちゃん。……白雪の国で、女王をしています。アリス、と呼んでね。魔術師さんには、私の名前は……本当の名前は呼んではいけないから。それはもう、授業で習った?」
「……はい」
「そう。……うん、だから、もし名前を呼ぶのなら私のことはアリス、と呼んで?」
 にこにこ、人懐っこく笑いかけてくる白雪の女王に、ソキは戸惑いながらも頷いた。それにまた、ふふふ、と笑いかけ、女王は世話役の少女らが座っていた椅子のひとつをソキの傍によせると、そこにすとんと腰を下ろしてしまう。
「いきなり、ごめんね。私もこんな日にこんな仕事はしたくなかったんだけど……」
「おしごと……です?」
「うん。ちょっとね、ちょっとね……いや、色々とどうしようかなと思って考えたんだけど、もう直に聞くのが一番っていうかもうそれ以外にちょっと確かめる方法がね……ないかなって思って……。ちょうどいいから私が来たんだけど、本当に、こんな素敵な日に、ごめんね……」
 あなたにどうしても聞かなければいけないことがあるの、と白雪の女王は、ソキの瞳をまっすぐに見つめながら言った。
「学園の魔術師、ソキ。……『砂漠の花嫁』たる、あなたに、問います」
「……はい」
「案内妖精が訪れたあの屋敷で、あなたは……あなたは、なにを、されたの?」
 薄い紙をとじたバインダーにペン先を押し当てながら、白雪の女王は青ざめる少女を、強い瞳で見つめた。
「悪いけど。……本当に、申し訳ないけれど、嘘はつかないで。嘘をついても、必ず、あとで分かるわ。……だから、本当のことだけを言って、ソキちゃん。……砂漠の花嫁。あなたは……あなたが、私の国の、第三都市の前領主……花嫁として迎えられる可能性のあった男の、父親に、ちょっと……口には出しにくい、ことを、されていた可能性があると、私の魔術師から報告を受けました。時間はかかってしまったけれど、そのことについて調べて、それが……事実であると、証言を得ました。前領主本人からも、事情の説明を受け、現在、処罰については保留してあります。一方的な主張だったし、あなたに話を聞いていなかったから。あの屑……じゃなかった、えっと、あの男の話によると」
 ごめんね聞かなかったことにしてね、とにっこり微笑み、白雪の女王は脚を組んだ。
「純潔を散らすような真似はしていないとのことだったのだけれど。うっふそんなことしてたらシアに謝罪したり調査を進めるよりはやく私が処刑するわあのド屑」
「……シア?」
「ああ、砂漠の……ソキちゃんちの国王陛下の愛称。あんまり聞いたことないかな?」
 まあ自分の国の王様を愛称であんまり呼んだりはしないよねぇ私はそういう風にしてくれてもいいんだけどね、となめらかに響く声で告げ、白雪の女王はくるくると指先でペンを回した。
「触っただけ、だと主張されたの。どこをどう触ったのかも聞いたのだけれど、あなたの証言が欲しい。……教えてくれる? ほんっとうに心の底から申し訳ないのだけど、できれば、できるだけ具体的に」
「……わ、ないで……」
「……うん?」
 震える手を握り、かすれた声で呟くソキの声が聞こえなかったのだろう。ごめんね、と心の底から告げる表情で問い返す白雪の女王に、ソキは震えて、泣くこともできない幼子の表情で、懇願した。
「ろぜあちゃんには、いわないで……ぜ、ぜったい、に、いわないで……ください」
「うん。……うん、うん。本当に必要なひとにしか、言わない。約束する」
 ごめんね、せっかく世界で一番きれいな格好してるのに、そんな時に思い出したくなんかないよね。ごめんね、と囁いてゆるくソキを抱き寄せながらも、白雪の女王は告白を促す言葉を撤回することがなかった。ごめんね、と何度も呟き、苦しげにソキの目を見つめてくる。震えながら頷き、ソキは、目をかたく閉じてくちびるをひらいた。
「ふく……服の上から、手で……胸と、おなかと……脚に、触られ、て……首と、顔は……肌に、手が、触れましたです」
「あとは? 服の下に手は入れられた?」
「あとは、あしの、さき……靴を脱がされて、それで……。でも、服の下は、さわられて……ない、です」
 感情を抑え込んだ表情で紙に言葉を書き留めながら、白雪の女王はうん、と頷いた。
「何回? 数日間屋敷にいたよね。その間、何回触られた?」
「……よんかい。よんかいめに、お兄さんが……今の、領主さんが、たすけて、くれ、ました」
「うん。……うん、あなたはその四回とも抵抗しなかったと聞いたのだけれど、理由は?」
 息を飲んで、顔をあげ。ソキは泣きそうな瞳で、白雪の女王を睨みつけた。女王はやんわりと微笑み、おしえて、とだけ言葉を返す。ソキの手が己の胸元に押し当てられ、くるしく、息を吸い込む。震えるくちびるが無意識に傍付きの名を呼ぶのを見て、女王はそっと目を伏せた。恐らく、呼んだに違いないのだ、その時も。声が響かなくとも。たすけて、と告げることが出来なくとも。なにより、その意志を込めて。
「……だって」
「うん」
「だって、だってだってだって! 貿易、打ち切るって……! ソキが、あばれたり、さけんだりしたら……砂漠の国と、もう、なんのとりひきも、しないって……!」
 そう言ったもんっ、と泣き叫ぶ声に、白雪の女王は静かに頷いた。その瞳がごく深く、怒りに揺れている。
「……それで? あなたはそれを信じたの」
 そんな、口先だけの戯言を。言葉にならぬ女王の怒りに、ソキは涙声で告げる。
「……っ! それに……!」
「それに?」
「女王陛下に……そうして頂くように、お願いすることも……できるって、だから」
 抵抗を、しなかったのだと。告げるソキに、白雪の女王は柔らかく目を細めて微笑み。その言葉を書き留めたのち、音もなく、椅子から立ち上がった。
「ありがとう、ソキちゃん。……あなたのその証言が欲しかった」
「……え?」
「エノーラ!」
 部屋に入りなさい、と鋭く命じる女王の声に、控えていた王宮魔術師がすぐさま現れる。膝をつこうとするよりはやく書いていた紙をめくり、三枚の複写式になっていたその二枚目を渡して、女王は冷え冷えとした瞳で言った。
「ざっと目を通して内容を確認。真偽判定の炎!」
 エノーラがそれに目を通したのは、ほんの数秒だった。即座に短い杖を取り出したエノーラは、ぱん、と音を立てて紙を叩き、夥しい魔力でもってそれを告げる。
「正しさのみであれ、偽りは燃え落ちよ! 正しくあれば祝福を、偽りあれば赤き炎で塵と化せ……火よ、青き火よ! 偽りなければ踊りたまえ!」
 ごう、と音を立て。紙は青い火の中に燃え尽きた。よし、と頷き、白雪の女王はエノーラにバインダーを押しつける。
「じゃ、これ持ってすぐ国に戻って、待機してる兄様と私の王宮魔術師たちに伝言をお願い」
「はい」
「処分を通達、『殺すことは許さない。決して。……ごく丁寧に慎重に、意識を保たせ気を狂わせず、痛覚を持ってこの世に生まれてきたことを後悔させなさい』……ソキちゃん」
 微笑みながら振り返り、白雪の女王が首を傾げる。
「それってどれくらいされてた? 時間的な意味で」
「……いっかい、にじかんくらい、です」
「ありがとう。うん……二時間が四回で、八時間で……十倍で八十時間だから……うん、三日ちょっとか……どうせならそこからさらに倍にして、きりよく一週間で行こうね。七日間、私の魔術師は私の言った通りに実行するように、と。言って来て?」
 エノーラは恭しく、女王に頭を下げた。
「我がうつくしき女王陛下。すべてあなたの仰る通りに致します……戻ってくるまでおひとりで出歩かないで! くださいね!」
「うん。ソキちゃんを送っていくだけにして、あとは帰りを待ってるわ、エノーラ」
 いってらっしゃい速やかに、と微笑みかけられ、エノーラはバインダーを持って全力で走っていく。その背をひらひらと手をふって見送ったのち、さて、と女王はソキに笑いかけた。申し訳なさそうで、それでいて、晴れやかな笑みだった。
「新入生の待合室まで、私に送らせてもらえるかな。……お詫びも込めて」
「……白雪の、陛下」
「ごめんね。そして、本当にどうもありがとう。……と、言い忘れていたんだけれど」
 入学おめでとう、魔術師のたまごさん。しゃがみこんで笑いながら告げられて、ソキはこくん、と頷いた。それから、差し出された手にこわごわ、てのひらを滑り込ませ、立ち上がる。女王は嬉しそうに、ソキと手を繋いで歩き出した。

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