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 チェチェリア、と呼びかける声と同時に、肩を掴んだ指先がその体をぐいと後ろへ引く。待ちなさいと告げるよりもはやく己の魔術師を引きとめた王は、訝しげに振り返るチェチェリアに声をかけることもせず、指先を離し、くるりとばかりその身を反転させた。等間隔に火の揺れる灯篭が照らし出す城の外れの廊下、つきあたりに半開きにされた学園へ向かう『扉』があるだけの空間に、王と二人の魔術師だけが立っていた。黒紫のロングドレスに身を包み、同色の長手袋で覆われた指先にまで緊張を一瞬だけ走らせ、チェチェリアは王にどうか、と問いかけようとした。けれども女の囁きが空気を震わせるよりはやく、傍らに立っていたキムルがやや呆れたように、微笑ましそうに目を細めてああ、と呟く。その呟きが空気に溶け消えるのを待てぬよう、彼方から駆けてくる、足音が響いて来た。
「陛下……! チェチェリア、キムルさん……! ま、って……まって、くださいっ……!」
「リトリア」
 おやおや、と悪戯をした幼子をゆるく叱りつけるのと同じ眼差しをして、キムルが後ろ手に、半開きだった『扉』を閉めてしまう。空間を繋ぐ魔術がぷつりと途切れたのを感じ取り、チェチェリアは息を吐きだした。リトリアは、ここから先へ行くことができない。ひどく静かな廊下に、揺れる火の灯りと熱と、影が落ちている。服が汚れるのも厭わずしゃがみこんだ楽音の王の前で立ち止まり、リトリアはぜい、と肩で大きく息をした。
「よか、った……まにあっ……んっ、けふっ」
 ひやりとした夜の空気に、喉が耐えきれなかったのだろう。くちびるに手を押し当てて何度も咳き込むリトリアに、楽音の王は手を伸ばしかけ、途中でゆるく指先を折り曲げてしまった。普段ならば受け入れるであろうひとの熱を、今のリトリアは拒絶するだろう。直感的にそう思わせるほど、どこか、様子が危うかった。くるしげに何度も咳き込み、ようやく息を整えて。リトリアはその藤花色の瞳に涙を浮かべたまま、同じ視線の高さにある主君の目を、どこか泣きだしそうに覗き込んだ。
「ごめんなさい……お引き留めしてしまって。お時間は大丈夫ですか?」
「すこしならば。……どうしたんですか? 夜会の部屋で大人しくお留守番していなさい、と言った筈ですが」
 今宵、楽音の王宮ではごく小規模な宴が開かれている。リトリアはそこへ出席することを命じられ、さらに言えば場が終わるまでその部屋から出るな、と言い渡されていた筈だった。間違っても『学園』に行かないようにする為に。リトリアは震える手を胸に押し当て、ごめんなさい、と囁いて目を伏せた。恐れるように一歩足が引き、暗闇の中から、灯篭の揺れるあかりの中へ、その姿が照らし出される。その姿を、王は叱りつけるのではなく、穏やかに観賞する眼差しで眺めやった。城の夜会に出席する者や学園のパーティーへ行くものが正装しているのと同じく、リトリアが身に纏っていたのも、イブニングドレスである。胸元に一輪、ふわりとした布で作られた白い花が咲いている。
 腰から足元までを覆うのは、薄く軽やかに広がる青白い布地だった。天空から誰かが花を振りまいているように、裾へ行くにつれ薄青、紺、藤色の小花が広がっていく。花は絵ではなく、ひとつひとつ精緻に編まれたレースで作られ、縫い付けられていた。品がよく、それでいてひたすら可愛らしい印象のドレスは、その為にあつらえたもののようにリトリアに馴染んでいた。数日前に無記名のカードが添えられて、部屋の前に届けられていたドレスだ。送り主の名前がなくとも、誰からのものか察したのだろう。今もリトリアの目尻はうっすらと赤く、泣いた名残を残していた。
「すぐに……戻ります、陛下。でも、私、どうしても……チェチェリアに、お願い、が」
「私?」
「……これを」
 ふるえる少女の指先が、一歩進み出たチェチェリアに向かって差し出される。てのひらの上に置かれていたのは、ふたつの花飾りだった。きよらかな、瑞々しい香りが漂ってくるような錯覚すら与える、うつくしい花飾りだった。厚みのある大ぶりの花弁を中心に、ひとつには青い小花が添えられ、もうひとつには薄紅の小花が一緒にされている。火の灯す光の中で、花が半透明に染まる影を少女の肌にうつしていた。ああ、とチェチェリアは目を細め、くちびるに力を込めた。
「もし……もし、ツフィアに会えたら、渡してほしいの。……それだけで、いいの」
 今日はたぶん、くると思うから。目を細め囁き笑う、その表情が、会いたいと告げていた。さびしい、あいたい、くるしい、かなしい、さびしい、さびしい。つふぃあ、会いたい。けれども、その意志を一言すらくちびるから零すことなく。微笑む少女を、主君たる男が覗き込む。
「リトリアが作ったんですか?」
「はい、陛下。……花舞の陛下が、先日お城に来られた時に、ちょうどお花をくださったので……それで」
「ああ、そういえば聞いていましたね。なんの花が欲しいか、と。……まったく、私たちはいけませんね。誰も彼も、つい、甘くなってしまう」
 その誰も彼も、が具体的に誰を指し示すのか、今宵王に同行する魔術師たちは分からないのだが。リトリアには心当たりがあったらしい。肩をふるわせて口元に浮かべた笑みは、やわらかく、花開かせる陽光のきよらかさを宿していた。ゆるりと笑みに細められた瞳が、安心しきった表情で王を見つめ返す。
「やさしく、してくれて……ありがとう」
 夢現を彷徨うような表情と、囁きだった。ふ、と瞬きをした一瞬で、それは淡くかき消えてしまう。幻のようだった。いくら可愛がられているとはいえ、主君に対する言葉ではない。咎めようとしたチェチェリアとキムルを振り返り、楽音の王は笑む口元と、それと裏腹な冷たい光のある眼差しで、はきとそれを咎めた。聞かなかったことにしなさい。できるね、と問い、二人がそれを受け入れたことだけを確認して、楽音の王はリトリアに手を伸ばす。指先が頬に触れず、けれども熱を伝えるぎりぎりでとまり、そっと、輪郭を撫で下ろす。
「……罪滅ぼしのようなものですよ、私はね」
 一瞬の、夢から醒めて。わからない、と首を傾げるリトリアに、楽音の王は目を伏せて笑う。
「いえ。……チェチェリア、受け取ってあげなさい」
「ありがとうございます……チェチェ、あの、おねがいします……」
 おずおず、差し出した花飾りを受け取ると、冷たい金属の感触がした。ひっくりかえして見てみると、髪や、フラワーホールに飾れるようにだろう。指を傷つけないように加工された、細いピンが付けられていた。リトリアはチェチェリアの手に渡った花飾りを、一度視線で撫でるように見つめて。ふと視線を外し、楽音の王へ頭を下げた。
「お時間を頂き、ありがとうございました。いってらっしゃいませ」
「行ってきます。……ああ、リトリア」
 ぱたぱた、急いで走って帰ろうとするリトリアを、楽音の王は悪戯っぽい笑みで呼びとめた。
「おみやげ、いりますか? お留守番のご褒美に」
「……おみやげ、ですか?」
「そう。一晩くらいなら、一人でも二人でも」
 王に付き従う王宮魔術師二人の頭に、拉致、という言葉が浮かんで消えた。もしもリトリアが、欲しい、と言えば王はそれを実行するだろう。手段を問わない。いっそえげつないまでに、手段など問われたためしがない。それが楽音の王のやりくちだ。はらはら見守る二人の視線を受け、リトリアは苦笑して、首を左右に動かした。
「お気持ちだけで……それに、ふたりとも、私には会いたくないと思います」
「……そうかな」
「はい。……だから、私はこの国から出ません。夜会が終わるまでは、その部屋に……あとは、自分の部屋でじっとしています」
 すとるさんにも、つふぃあにも。あわない。さびしいさびしい、あいたい、と全身で叫びながらもそう言い切って、リトリアは今度こそ一礼し、暗い廊下の先へと走って行ってしまった。その背をながく見送り、楽音の王はふぅ、と息を吐き出した。
「キムル」
「はい、陛下」
「エノーラと、じゃれて遊んでいいですよ?」
 それは遠回しな、白雪の女王の困った顔を見てこの落ち込んだ気持ちを癒し慰めたいのでよろしくお願いしますねやれ、という楽音の王の命令である。キムルは苦笑いをしながら頷き、やや死んだ目になった妻の手を引いて、『学園』へ続く扉を開いた。



 なんとなく微妙に嫌な予感がするようなしないような、と涙の滲む声で呟いて、白雪の女王は廊下の中ほどでその歩みを止めた。当然、手を繋いで歩いていたソキも隣で立ち止まり、白雪の女王を見つめる。女王は首を右に傾げ、左に傾げ、訝しげに眉を寄せてうぅん、と考え込んでいた。紫の、水晶色の瞳が、そろりとあたりを見回していた。月明かりに抱かれ雪原に落ちる鉱石の影を、そっと拾いあげ瞳に封じればこの色になるだろう。畏敬すら感じさせるそれに、今は不安げな影が揺れていた。どうかしたですか、と問うソキに視線を向け、白雪の女王はきゅぅ、と眉を寄せながらもふるふると首を振った。
「気のせいだということにしておくから、いいわ……。……ああ、でもどうしよう。エノーラが私の元に帰ってくるまでの間、可愛い女の子を誑かしたりとかしていたら……! だ、だめよって一応言ったんだけど。お相手の同意がなければだめよって」
 でも学園の女子の八割くらいはエノーラ大好きだし、とひたすら胃が痛そうな呟きを涙声で発し、白雪の女王はふるふるふると、どこか小動物的な動きで頭を振った。
「ううぅ、考えないことにしよう。ごめんね、ソキちゃん。それで、えっと……新入生の控室は、こっちでいいの?」
「はい。こっちなんですよ。……エノーラさん女の子にもてるです?」
「……なんでか、ものすごく。はぁ……男装するの、許可するんじゃなかった」
 なんでも、女王陛下の護衛ということはつまり陛下のエスコート役という訳ですので私がドレスを着るとかありえないと思うんです男装させてください、と真顔で詰め寄られたらしい。近年稀に見る真剣具合だったから、つい許可してしまったの、とそのことを淡く悔いるような眼差しを揺らめかせながら、白雪の女王はそっと、そっと歩みを進めて行く。歩きが得意でない人を連れて行くのに慣れているようだ、と思い、ソキは唐突に気が付く。このひとは、ウィッシュの主君であるのだ。『花婿』の主。妙に納得した頷きをみせるソキに、女王はくすくす、楽しげに笑う。
「なぁに? ああ、大丈夫よ。エノーラは十五歳以下には……許可がなければなにもしないから」
 つまりまあお相手の許可があればするってことなんだけどうふふふふ泣きそう、と灰色の声と眼差しで呟いたのち、白雪の女王は本当に、心底困り切った息を吐きだした。
「まったく、もう……私の魔術師なのだから、私にだけ関心を払っていればいいのに。シアのトコもちょっとそんな感じだけれど、私の魔術師にも浮気ものさんが多いのは、困ったなぁ……」
「うわき? です?」
「私の魔術師だもの。私以外に一切の感心興味を払わず、私にだけ傾倒していればいいと思うの」
 優しい微笑みで淀みなく告げられた言葉に、ソキは、なぜエノーラがあんなに女王陛下踏んでください症候群に陥っているのかを理解した。仕方がない気がするです、と思うソキの手を引きながら、白雪の女王は憂鬱そうに息を吐く。躾が、折檻が、と怖い単語を透明な響きの声で呟き、女王の瞳が改めてソキを見る。
「そういえば、ソキちゃん。ロゼアくんには、もう会った?」
「ろぜあちゃん? ソキねえ、今日は朝からロゼアちゃんに会えてないですよ……」
「そっか。なら、会えるの楽しみね」
 微笑みながら問われ、ソキはこくんと頷いた。女王はソキにかける言葉、話題をたやすことなく、やわやわと空気を震わせて時折笑いを忍ばせた。その笑みに、ようやく、ソキが案内部屋での一件を忘れ、気分を持ち上げてきた頃だった。新入生控室の扉が見えてくる。それは初めて学園に来た時、入学式までここで待つようにと、案内された部屋だった。迷わず案内できたことに女王は胸を撫で下ろし、もうすこしだけ頑張って歩こうね、とソキに告げた。頷くソキからそこではじめて手を離し、女王は小走りに部屋へ向かう。扉を叩き、中をひょいと覗き込んだ女王は、新入生の控室はここでいいの、とよく通る綺麗な声でそう問いかけ。直後、口元に指先を押し当て、ぶはっ、と唐突に笑った。
「す、すごい……! これ、これはすごい……! にて、ちょう、にてる……!」
 よし今年はこれで行こう、という謎の決意をかためる女王に、ソキはなんだか落ち着かない気持ちで、こころもち小走りに歩み寄った。無言でくい、と服の裾を引かれるのにうん、と頷き、女王はやさしく目を細める。
「じゃあね、ソキちゃん。また後で……きれいな服だから、転ばないよう気をつけて」
「はい。ありがとうございましたです。……なにが、似てるです?」
 口元に指を押し当ててふるふると笑いに方を揺らし、白雪の女王はたぶんすぐに分かると思うわ、と言ってソキの隣をすり抜けた。まっすぐに歩いて行く先、女王に向かって走り寄るエノーラの姿が見える。二人に、そっと頭を下げてから、ソキは中途半端に開いていた扉に手をかけ、部屋に体をすべりこませた。わぁ、と歓声のような、喜びに満ちたナリアンの意志が響く。
『すごくきれいだ……!』
「うん。花嫁さんだね、ソキ。きれいだ、きれいだよ……」
 きれい、という褒め言葉はソキには聞き飽きたものである。『花嫁』はきれいで、かわいくて、それが当たり前だからだ。そうでなければいけないものだからだ。だから普段であればソキは、それに対してちょっと笑ってありがとうございます、くらいの反応しかしないのだが。ソキは、しあわせそうに目を潤ませ、はにかんだ笑みでちいさく、ちいさく頷いた。ほめて、と思う。誇らしく思う。この瞬間、この時の為にロゼアちゃんが育ててくれたの。きれいなのはロゼアちゃんが手をかけてくれたからで、他の理由など、ない。だからこそそれは、ロゼアに対する称賛であったのだ。ロゼアちゃんが褒められてるですうれしいうれしい、とはにかみながら喜んで、そういえば、とその当人を探して視線が彷徨った時だった。
 部屋の奥から声がかかる。
「ソキ」
「ろぜあちゃ――……」
 名前を呼びかけた喉が、それ以上言葉を紡げずに息だけを吸い込んだ。部屋の奥、窓の近くに置いてあるソファから、ロゼアはちょうど立ち上がったばかりのようだった。しなやかな体がゆったりと、背筋を正して窓辺に立つ。ちょうど入学式の夜、部屋にやってきたソキを出迎えた、まさしくその位置で。ロゼアはソキのことを見ていた。ロゼアは、砂漠の正装を身に纏っていた。恐らくは絹の仕立てであろう目の覚めるような鮮烈な白い布地の上着に、真珠色の糸でびっしりと刺繍が施されている。裾が長めのズボンは脚のかたちをきれいに見せながらも、動きやすそうな軽やかさだ。頭に巻く布も、ズボンと同じく上着と同じ布地で作られている。腰帯だけが、艶やかな夜の色をしていた。星々のさんざめく真夏の砂漠。その夜のもっとも暗く、もっとも艶やかな、夜の色。金と漆黒の糸で刺繍のなされた腰布に、恐らくは本当に隠して縫い付けられたであろう一粒きりのトルマリンを見つけ、ソキはなぜかひどく、狼狽した。
 無意識に胸元の、布に隠れて見えない位置に書かれた『花』を指先で押さえ、視線を持ち上げて、ロゼアの顔をみて。その、やわらかな眼差しに。反応もできないでいるソキを心配そうに見つめながらも、完成されきった己の『花嫁』を見守る慈しみ溢れた表情に、なぜか泣きだしたい気持ちになった。胸の奥がひどくざわつく。吸い込む息にすら指が、全身が震えてどうすることもできない。それなのに一時も、ロゼアから目を離すことができなかった。煮詰めた飴色の手が、どんなに優しいか、その腕の中がどんなに安らぎ、温かいのか、ソキは知っている。知っているのに。ふるえるほど、それを、恋しいと思った。
 窓辺に立ち、砂漠の正装に身を包み、ソキを見つめるロゼアのことを。殆どはじめて、男性だと意識する。
「ソキ?」
『ソキちゃん?』
 いつまでもロゼアから視線を外さず、動けないままでいるソキに、メーシャとナリアンが不思議そうな声をかけてくる。それに、どうにか返事をしようとして、まばたきをして、息を吸い込んで。それでも、囚われたように視線を向けたままでいるソキに、ロゼアがやや困ったような笑みを浮かべてゆるく、首を傾げた。その、甘くほどけるような微笑みに。うっすらとターバンの影を落とす首筋。眼差し、細められた目の奥の赤褐色の瞳に。すべてに。胸の奥がきゅぅと音をたてて痛み、同時にソキは、その頬を瞬間的に朱で染めた。
「ソキ!」
「きゃぁっ!」
 急にソキが赤くなったので、驚いたのだろう。声をあげて駆け寄ってこようとするロゼアに、ソキはぴょん、と思わずその場で飛び跳ねた。足を止めたロゼアがいぶかしく首を傾げるのが見える。そうしながらもゆっくりと、大股に歩んでくるロゼアに、ソキはふるふるとちいさく首を振った。
「ろ、ろぜあちゃん……あの、そき、あの」
「熱が出たのか?」
「ち、ちがう……違うんですよ、ロゼアちゃ、ソキ、だいじょう」
 最後まで言わせず、ソキの前に片膝をついたロゼアが指先で花嫁のヴェールを払う。するりと撫でるように頬に触れたてのひらに、ソキはちいさく上ずった声をあげながら、かすかに震えて視線を伏せた。本当なら、いつもなら、ロゼアの手はソキに安心をくれるのに。落ち着かせてくれるのに。じわりと肌を温め探っていく指に、どんどん鼓動があがっていく。それなのに。
「ソキ、すこし休んでから行こうか」
 囁き問うロゼアの声は、常のもの。常のままの、ものだった。
「……だい、じょうぶ、です」
 ソキだけが、震えるほど、恋しいのだと。裏付ける、ただ純粋に身を案じる声に、ソキは大きく息を吸い込み、一度かたく、目を閉じた。意識をすこしだけ遠くに置く作業は慣れていて、まばたき一つで十分事足りる。再び開かれた瞳の色は、凍りつく森の碧。うつくしい『花嫁』の瞳だった。
「もう行きましょう、ロゼアちゃん。ソキ、歩きます」
 ちょうどロゼアがソキの肌から手を引くのに合わせて、ヴェールを元の通りに戻す。半透明の薄い布がさらに世界を隔て、ようやくソキは、くるしくなく息を吸い込んだ。ふるえるほど、こいしいと、『傍付き』に恋に落ち、愛おしむ心が叫んでいる。くるしいばかりだ。落ち着いて、なんでもないように振る舞えるまで、もうしばらく時間がかかる。感情を心の奥に遠ざけながら、ソキはロゼアと手を繋ぎ、甘えるように引っ張った。『花嫁』が『傍付き』にじゃれつくように。何度も何度も、そうしたように。同じ仕草で。
「行きましょう、ロゼアちゃん。……ナリアンくん、メーシャくん」
「……疲れたら言うんだぞ」
「はい。あの……ロゼアちゃん」
 手をひかれ歩き出しながら、ソキはちいさく、息を吸い込んで囁く。奥に置いて、遠ざけて、視線を反らして、見ないふりをして。それでも。どうしようもなく、ひとすじ溢れた、その言葉こそが恋だった。
「……ロゼアちゃん、かっこいいです」
「ありがとう。ソキもよく似合ってる。……すごくきれいだ」
 微笑みながら告げるロゼアの声に、ふるえるような、恋の欠片はなく。それを十分に理解しながらも、それでも、しあわせで。ソキは微笑み、頷いた。



 寮と教会を繋ぐ森の小路は赤々と火の揺れる灯篭でまばゆいばかり照らし出され、そこを歩む者を光の中に歓迎した。高揚した様子のメーシャとロゼア、ナリアンの会話をうわの空で流しながら、ソキはひたすら、転ばないようにだけ気をつけて道を歩いて行く。『花嫁』の衣装は不思議なほど、ソキの歩みの邪魔にはならなかったが、歩く助けとなる訳ではない。ゆっくり、ゆっくり歩き切り、森を抜け、輝きを背負う教会の入口へようやく辿りつこう、とした時だった。教会の階段の途中、こちらに背を向けて佇んでいた四つの人影のうち、ひとつ。直刃の印象をふりまく長い金の髪をした少女が、ぱっと振り返り、ソキを呼ぶ。
「ソキ!」
 熱が伝わるように、空気中に喜びが広がった。少女と殆ど差なく振り返った三人の少年少女が、それぞれ満面の笑みでナリアンを、メーシャを、ロゼアを、呼ぶ。その三人を置いて階段を駆け下りてきた少女は、ロゼアと繋いでいたソキの手をひったくるようにして握ると、紅の瞳をきらめかせて顔を覗き込んでくる。その名をソキが呼ぶより、はやく。少女の手がヴェールごし、そっと、ソキの頬を撫でた。
「……ああ」
 感嘆の溜息と共に、妖精の瞳がゆるく、細められる。
「やっぱりアンタ、あたしより背が低かったのね……ソキ」
「……リボンちゃん?」
「そこで疑問形なのはどういうことなのかしら。呪うわよロゼアを」
 人間の少女と同じ大きさをした妖精の目は、旅の間に何度も何度もソキが目の当たりにしてきた、極めて本気の色に艶めいていた。そこでどうしてロゼアちゃんですかぁっ、と嫌がるソキの手を引き、教会の入口へと導きながら、妖精は決まっているじゃないと不機嫌そうに首を傾げる。妖精はソキの目を覗き込み、舌打ちをする。凍りついた森のうつくしい瞳。旅の間に何度か見た、『花嫁』の。人形めいたうつくしさがあった。
「アンタがそんな目をしてる時は、なにかをすごく我慢してる時。……アタシにはアイツの他に、理由が思いつかないのだけど?」
「……ちがうの。リボンちゃん、ちがう……ちがうです。ろぜあちゃん悪くないですよ」
「アンタがなにをどう判断しようがなんだろうが」
 がつん、と蹴飛ばすように階段の最後の一段に足を乗せ、妖精は続く言葉を、むしろ自慢げに言い切った。
「アタシがロゼアが悪いと判断したら、それはもうロゼアが悪いのよ?」
「リボンちゃん……りぼんちゃん、りふじんですぅ……」
「理不尽じゃないわよ私には正当性のある……ちょっと! だれ今呼び捨てにしたのアンタなの?」
 ロゼアの傍らで、彼の案内妖精がひとりひとりを紹介していたのだろう。リボン、という呼称が繰り返されたのを耳にして、妖精が声を荒げてソキの傍からぱっと離れ、それを呼んだ者、ロゼアの方へと歩いてく。置いて行かれた、とは思わなかった。なぜなら、ソキが見た妖精の瞳は。よしちょうどいい口実を見つけた、とばかり煌いていたからである。きゃああぁあっ、と大慌てで妖精の後を追いかけ、ソキはロゼアを睨む少女の、服の袖を弱くひっぱった。
「り、りぼんちゃん顔がこわいです」
「黙っていなさいね、ソキ」
 黙れ、と常の口調で言われないのがさらに怖い。リボンちゃんなんだかすっごくっ、怒ってるですっ、とふるふるするソキを背に庇うようにして立ち、妖精はロゼアの全身を、分かりやすく上から下まで眺めたおした。ふん、と鼻を鳴らして、腕を組む。
「……三点」
 姿形に対する評価だ、とみせかけた、内面を含めた総合評価だった。そんなことないもん、と憤慨するソキにすら伝わっていない、遠回しな嫌みだった。ソキはぷぷーっと頬を膨らませ、妖精の服の袖をぐいぐい引っ張ってくる。
「ソキ知ってます! 三点満点で三点ですよ!」
「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ! 千点満点に決まってんでしょうが!」
「やぁああんちがうもん! ちがうもんロゼアちゃんかっこういいもん! ほらほらよぉく見てくださいリボンちゃん! さすがはロゼアちゃんです、もうきゃあきゃあしちゃくらい格好いいです! すっごく格好いいですほらほらほらあぁっ」
 みてみてちゃんと見てくださいですよぉっ、ときゃんきゃん抗議するソキに見た上で言ってんのよ理解しなさいああもう煩い一度でちゃんと聞き分けなさいこの低能ーっ、と絶叫し、妖精はソキの腕を引いて教会へ足を踏み入れた。ソキは妖精にくっついてあるきながら、やぁんやぁんろぜあちゃんかっこいいもん、すてきだもん格好いいもん、とぐずっている。妖精は呆れた気持ちでソキを振り返り、その目をやや上から覗き込んだ。ソキ、と名を呼ぶ。感情を鮮やかに浮かび上がらせる、新緑の瞳。五月のやわらかな葉のいろ。砕いた光をいっぱいに抱いたトルマリンの、宝石色の瞳が、まっすぐに妖精を見返した。妖精はくす、と笑い、ソキにひとこと、馬鹿、と告げる。
 そきばかじゃないもん、と拗ねた声は、先程よりずっと、感情がこもっていた。

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