前へ / 戻る / 次へ

 新入生が入学式で世界からの祝福を授かる教会は、通常の授業で使用されることはない。どの属性、どの適性を持つ魔術師の、実技授業に使われることもない。特に制限もなく解放され、立ち入りが自由とされている場所だから時折足を運び、時間を過ごす者もあるそうだが、ソキは入学式以来、そこへ立ち入ることがなかった。避けていた訳ではない。単純にその時間と暇がなかっただけなのだが、それでも、そうしていたとしても、あまりの雰囲気の違いに足を止めたことだろう。生徒用に開放された入口のひとつから身廊を通り、中心へと足を進めて行くにつれ、光が空気の中に溢れて行く。精緻な作りの飾り灯篭に揺れる火のみならず、夜のしっとりとした静寂の空気にひかりが滲み、溶けだしていた。眩暈を起こすようなひかりの欠片たち。色はひとつとして同じではなく、窓辺に置かれ砕かれた宝石のように乱反射を繰り返す。
 目が痛い訳ではない。息が苦しくなるでもない。ただ、ちかちかと瞬いていくばかりの光に、ソキはぎゅぅと瞼に力を込めて立ち止まった。身廊や、その上部に設けられた側廊にて歓談していた在校生や王宮魔術師たちの視線が、ふとソキに送られ、花嫁姿のうつくしさに息を飲んで行く。どうしたのかしら。さわりと空気を揺らす女子生徒の声がして、誰かがソキへ声をかけようと歩み寄って来そうなのを、来るな触るなアタシが許可してるのは見ることだけだと理解しろとばかり睨みつけて、妖精はソキの手を強く握り、うつむく眼差しを下から覗き込んだ。
「ソキ、どうしたの? ……気持ち悪い? 疲れた? 挨拶まで頑張りなさい。そうしたら休ませてあげられるから。……言えるでしょう、ソキ。ちゃんと、アタシに教えて。どうしたの?」
 大丈夫、だいじょうぶよ。今はまた、アタシがアンタの傍にいて守ってあげられるのだから。アンタは安心して弱音でもなんでも吐くといい。立ち止まってもしゃがみこんでもいい。アタシはもうそれを怒らない。知ってるから。分かってるから。アンタは何度でも立ち上がって、歩き出して、前を向くことができる。時間はかかるけど、絶対にそれを諦めない。時間が、ただそれだけが必要なのだとしたら、アタシはちゃんとアンタにそれを渡してあげる。だから、と問いかけのあとは言葉を重ねることなく待ってくれる妖精に、ソキは弱く視線を持ち上げ、そっと息を吐きだした。
「リボンちゃん……」
「ええ。アタシはここにいるわ、ソキ。……なに?」
「いろが……ひかり、じゃない、いろが。たくさん……ちかちかする、です。まぶしくないけど、くらくら、する」
 目が疲れちゃうです、とどことなく拗ねた響きで吐き出された声に頷きながら、妖精は一度、教会の出入り口付近を振り返ってみた。未だ、その付近で案内妖精との再会を喜んでいるであろう新入生の男どもは、幸いなことに、姿を見せていない。よし、と心から満足げに頷き、妖精はソキにそっと両腕を伸ばし、やわやわとした仕草で背を撫でてやった。
「大丈夫よ、ソキ。それは、魔力だから。今宵ここへ集まった『学園』の生徒たちと、王宮魔術師の、淡くたちのぼり消えゆく魔力の、ただの名残。完全制御してるのも中にはいるけど、祝いの場ですもの。どうしてもふわんふわん漏れるというか、嬉しくて、その感情に乗って揺らめいて、消えて行くだけの害のない魔力よ。……他人の魔力をちゃんと視認したことないんでしょう、アンタ。びっくりしちゃったのね。怖いものじゃないわ」
 というかアンタ実技授業でなにやってんの担当教員の怠慢じゃないの呪うわよ、と低く毒づく妖精に、ソキはそろそろと視線を持ち上げ、まどろむ夢から目覚めたように、ゆったりと瞬きを繰り返した。胸の奥まで吸い込んだ息を、くちびるから吐き出して行く。
「ソキ、まだ、あんまり実技授業してないですよ……。魔力? これ、魔力です?」
「そうよ……ああ、仕方ないか。アンタどんくさいものね……体力とか」
 ぷぷぷー、と頬をふくらませて怒るソキをはいはいと手慣れた風に宥めながら、妖精はヴェールの上から少女の目元にそっと指先を伸ばして来た。まるで、直に肌に触れることを避けているような慎重な仕草に、ソキはきょとんとしながら妖精の指先を見つめる。赤く、妖精の目の色に塗られた艶やかな爪が魔力の名残、空気中に溶け込み寄り添いまたたく星のようなそれを払うように動き、ソキの瞼に指先が押し当てられた。ふわ、と花の香りが立ち上る。春先の、きらめく陽光に一斉に蕾綻ばせる喜びに溢れた花園の、風が運んでくる甘くあわい香りだった。指先が離れて行くのにあわせてぱちぱちと瞬きしながら、ソキがちょっと不満げに首を傾げる。
 アンタなんでそこでそんな顔になるのと言わんばかり目を細めた妖精に、ソキはつんとくちびるを尖らせて、拗ねた。
「リボンちゃん。ソキが寝てる時に会いにきたです。ソキねえちゃぁんと知ってるんですよ」
「アンタそれ自分で気が付いたんじゃなくてどうせ寮長かなんかに教えてもらったんでしょう。自分の手柄のように言うのはやめなさい。……だってアンタ寝てたもの。体調が悪くて寝てるのに起こされたかったの? 言っとくけど頼まれてもそんなことはしないわ」
「ソキねえ、リボンちゃんに会いたかったんですよ……。ふふ、いい匂いするです……」
 病を癒す薬草園の清涼な香りではなく、それはもっとふわふわと甘い花のにおいだった。妖精からの祝福を心から喜ぶソキに、まあいいかと息を吐き出しながら、妖精は花嫁の手袋に包まれた手を取り繋ぎ直し、前へゆるく引っ張った。
「ほら、もう行くわよ。……すこしはマシになったでしょう?」
 妖精の言葉通り、ソキの目に映るひかりは消えた訳ではないが、うすぼんやりとしたものに変化していた。何度まばたきしても、よく目を凝らしても、乱反射するきらめきが意識を揺らしてしまうことはない。てて、てっ、とはしゃいだ足取りになるソキをゆっくり歩けと叱りつけながら、妖精は近づいてくる複数の足音に、一度だけ背後を振り返った。ようやく、ロゼアやメーシャ、ナリアン、そしてシディとルノン、ニーアが教会の奥へと進んでくる。そのうち一人、ロゼアにだけ忌々しそうな睨みを向け、妖精はふいと前を向いてソキと共に歩き出した。リボンちゃん、と不思議そうに問われるのに、なんでもないわと妖精は告げた。ただ、心から本当に気に食わなくて自制していないとうっかり本気で呪ったり呪ったり呪ったりしてしまいそうなだけで。あれは新入生、そして今夜の主役の一人だ耐えろ、と己に言い聞かせながら、妖精はソキの様子を伺った。
 妖精の祝福を授けられた『花嫁』は、今はもう機嫌もいいのだろう。記憶にあるよりは慣れた、それでもふわふわした危なっかしい足取りで歩みながら、歌でも歌いそうな雰囲気で口元を淡く綻ばせている。その姿は、ほんとうに綺麗だった。満足げにソキの全身を眺めやり、妖精は少女の名を、口付けるような甘やかさで呼ぶ。
「ソキ」
「なぁに? リボンちゃん」
「綺麗よ。可愛い。……アンタの屋敷の世話役どもを呼んで、この一月、頑張らせたかいがあったわ」
 ソキさまの服に対して予算の上限があるとか意味が分からないので、とお前らがなに言ってんのか分からないという砂漠の王の視線を真正面から受け止めながら、屋敷の者たちは国王にそっと、ソキの兄から預かった花嫁費用を手渡したのだという。ソキが本当に、『花嫁』として国を出る時の為に用意されていた衣装用の費用。それを使って、王宮の衣装師や刺繍師、細工師などをばったばったと疲労その他で倒しながら作りあげたソキの衣装は、妖精が心から満足するものであり、屋敷の者たちが泣きながら頷き、よしロゼアが長期休暇で帰ってきたら当日の様子を事細かに聞き出そう、と決意させるものだった。ソキはなんの感情にか頬をふわりと赤らめると、指先をあまく震わせ、はにかんで頷く。
「ありがとうございますです……リボンちゃんと、みんなが、用意してくれたですね」
「アンタの今日の正装を用意して、エスコート役を務めるのがアタシに与えられた正式な報酬で権利」
 案内妖精は皆、その権利を得ているのだと告げ、妖精は満足そうに頷いた。



 教会の奥。円天井の広がる聖域。色硝子で描かれた空の下に、五ヶ国の王たちが佇んでいた。それぞれ背後に二名ずつ、王宮魔術師を控えさせている。王たちはやってきた新入生の姿を認めると、一様に笑みを浮かべてちいさく頷き、まなざしで妖精たちにあることを求めた。ソキの隣で静かに、妖精が息を吸い込む。緊張したような仕草。ソキがそれを問うよりはやく、妖精たちは己の導いてきた新入生を横一列に整列させ、そして。その時を知り、しんと静まり返る空気に、祈りの声を響かせた。
『白は清廉。砂は叡智。楽は芳醇。花は潤滑。そして星はあまねく道標。空白を漂う五の国に、幸いなる五の王に』
 四色の妖精の声は、ひとつに重なり切っていた。妖精たちはそれぞれ、ドレスの裾を指先でつまみ、あるいは胸元に手を押し当てて、一度、ゆっくりとした仕草で王に向かって一礼する。
『妖精の丘より遣わされ、世界の命を承りしわたくしたちが、祝福された四名の、新たなる朋をご覧に入れます』
 王たちが言葉を受け止め、首肯する。それを合図に、真っ先に歩み出たのはルノンだった。メーシャの案内妖精。一直線に並んだ場所から一歩歩み出て、ルノンは王たちにメーシャの出身地や属性、年齢をごく簡単な言葉で告げて行く。五ヶ国の王がやわらかな眼差しで見守る中、ぴんと背を伸ばしたメーシャが同じく一歩前に出て、誠実な仕草で礼をした。その時はじめて、ソキはメーシャの着ている正装に目を瞬かせる。ソキの隣で妖精が、視線を何処へ流しながらアンタほんとうにロゼアしか目に入っていなかったのねと呻くが、その通りだった。緊張し、高揚しているであろうメーシャの体を包むのは最上の仕立てを施された黒の正装だった。メーシャの白い肌、あるいは白銀の髪を引き立たせるような絶妙な色合いの黒は、天空に星がきらめく夜、大樹の根元に落ちるまどろみの影だった。
 やわらかく寄り添い、落ち着きを抱かせ、内包するきらめきをさらに輝かせる。火の明りを受けて艶めく布の光沢がうつくしく、メーシャの甘く優しい顔立ちをほんの僅か大人びて見せていた。挨拶をするメーシャを見た少女たちが、頬を染めてきゃぁと騒ぎ、はしゃぐ声がふんわりと空気を揺らす。メーシャのすらりとした体を包む衣服の線は群を抜いた美しさを成長していく青年に与え、落ち着いた雰囲気をふりまいていた。少女なら誰もが胸をときめかせずにはいられないような、落ち着いて見つめることができないような姿をじぃっと見つめ、ソキはほわほわと微笑んだ。
「わー、メーシャくん、すっごく綺麗です……!」
「……頬染めたりしていいのよ、ソキ。あの男呪うけど」
 小声でもしょもしょ囁き合いながら、ソキは不思議そうに妖精を見上げた。ちょこん、と首を傾げる。
「メーシャくんはすごいと思います。ソキ、ちょっぴり目が幸せです」
 美形というものに関して見飽きるくらい見ている『花嫁』の目においても、今宵のメーシャは感動的にきれいかつ格好いい。メーシャくんはすごいですねぇ、としみじみするソキに、妖精はほとほと呆れた眼差しで首を振った。
「アンタ本当に……ロゼアが好きなのね……」
「……あのねえリボンちゃんソキねえ、今日のロゼアちゃん格好良すぎてちゃんと見られないですどうしよう」
「見るな」
 極上の笑顔で妖精が告げる間に、メーシャの挨拶は終わり、シディに紹介を受けたロゼアが前へ歩み出る。ざわっ、とばかり教会の空気が震えた。そこで、そうでしょうそうでしょうロゼアちゃんはものすごく格好いいでしょうすっごいでしょうえへへんっ、とばかり自慢げにふんぞりかえりかけ、妖精に動かないでまっすぐ立っていなさいと叱責されたソキは、その時初めて、呻くように目元に手を押し当て円天井を仰いで遠い目をしている砂漠の王の姿を視界の端にとらえ、あれあれとばかり首を傾げた。ざわめく空気と共に、いくつもの視線がロゼアと、砂漠の王を行き来しているのを感じ取る。なんですか、と目を瞬かせ首を傾げて。そこではじめてソキは、笑いと共に告げられた白雪の女王の言葉を耳奥でよみがえらせた。すごい似てる。砂漠の王が、笑いに吹き出しかける白魔法使いの後頭部をひっぱたき、ロゼアにきちんと向き直る。その、姿が。
「陛下、ロゼアちゃんにそっくりです……!」
「なんでアンタどこまでもロゼア基準なの? 逆でしょう逆」
「そき、ソキ知ってたですけど、陛下がすっごくロゼアちゃんに似てるの知ってたですけど……!」
 そもそも砂漠の王は、数年後のロゼアはこう成長しているだろうな、とソキに思わせて赤面させるような相手だ。顔の作り、体つき、些細な仕草、肌の色、雰囲気などにごく共通したものを感じさせるのだが、それ以上に、正装した二人の印象はごく、近かった。似ている。挨拶を終えたロゼアは引っ込んでいいのか迷う微妙そうな表情で、というかもう嫌そうな顔つきで出身国の王を眺めていた。そんなロゼアの姿をちらっと見つめ、きゃあと頬を染めてやぁんやぁんと首を振り、またちらちらっと眺めてはやぁんロゼアちゃん格好いい素敵、と顔を赤らめるソキに、妖精は心底呆れ切った眼差しを床上に伏せた。
「アンタなに……ロゼアにしか反応しないの……? そうなの……?」
「だ、だってだってリボンちゃん、ロゼアちゃん格好いい……。ソキ、どきどきしちゃうです……」
 よしロゼア呪おう、とばかり真顔で頷く妖精にうっかりして気が付かず、ソキは胸元に指先を押し当てて息を吸い込む。そして改めて、砂漠の王と、ようやく一歩下がって息を吐いているロゼアのことを見比べた。ふたりの一番大きな、分かりやすい違いはその髪と瞳の色彩だろう。ロゼアは赤褐色の髪と瞳の色をしているが、砂漠の王の髪は黒い。そしてその瞳は、なめらかな金の色をしていた。砂漠の曙光。暗闇を切り裂く鮮烈な輝き。その眼差しのもと、砂漠の民は集うのだ。王よ、あなたの御為ならば。あなたが治めるこの国の幸福、その為ならば。最後の最後、『花嫁』は、『花婿』はそうして心を決めて嫁いで行く。その決意をさせる、王の瞳。
 ソキは砂漠の王とロゼアをもう一度だけ見比べて、ほんとうによく似ているです、と思った。けれど別だ。砂漠の王はソキの胸をどきどきさせる。ロゼアちゃんがもうすこし歳を重ねたらきっと、こんな風に艶やかな、落ち着いた、穏やかな雰囲気を纏って微笑むのだろうと思わせる。そんな幸せで落ち着いたどきどきだ。けれど。ロゼアを見た時のようなくるしさと、切なさ。甘い幸福の痛みを呼び起こすことは、決してなかった。
「……さあ、ソキ。あれが終わったら、次はアンタよ」
 踊るような足取りで前に出たニーアの隣に並び、ナリアンが声なき意志を響かせていた。その後ろ姿を眺め、ソキはあれ、と瞬きをする。ニーアの紹介の通り、ナリアンの出身国は花舞である筈だ。それなのにナリアンが着ていた正装は、砂漠の国のそれだったからである。形こそロゼアのものによく似ているが、色合いは間逆の黒だった。なにもかも静まり返る砂漠の月夜、岩影が砂に触れたがるよう落とす影の、やさしい漆黒。青みを帯びた麗しい黒。一瞬だけ見えた胸元には月光のような銀の飾りがふんだんに縫い付けられ、ナリアンの瞳と同じ色をした紫の飾りも見つけられる。上着やズボン、腰布には同じく光を乱反射させる銀の飾りが縫い付けられ、軽やかに踊る花のような薄桃色の輝きがあった。
 ちいさな鉱石の飾り石がみっちり縫い付けられたそれは、軽やかな印象のロゼアのそれと違い、どこか重たげだったが、布をさばいて歩くナリアンの立ち姿に危なげな印象はない。まっすぐに立って一礼し、ニーアに視線を向け、微笑みかけていた。おとこのこだ。瞬間的にそう思いながら、ナリアンくんなんで砂漠の正装なんですか、と呟くソキに、アンタだからほんとうにほんとうにロゼア以外なんっにも見てなかったのねああもう、と胃が痛そうに呻いた後、妖精はやや死んだ目でよく知らないけど、と溜息をついた。
「親の出身国が砂漠らしいわ。あとで本人にでも聞いたら?」
「そうするです。ナリアンくん、すてき。格好いいですおとこのこです……!」
「なにその、お兄ちゃんすごぉいでしょう、みたいな感じ」
 仲いいの、と灰色の眼差しで問う妖精に、ソキは茶会部なんですよー、とほよんほよんした声で頷いた。コイツ相変わらず質問に対しての回答が正確じゃないな、と言わんばかりの顔つきでソキをしばし睨んだ後、妖精は何度目かの溜息をつくと、唐突に一歩、前へ出た。いつの間にかナリアンもニーアも、一歩下がって元の位置へ戻っている。はっと顔をあげるソキを振り返ることなく、妖精はすぅ、と息を吸い込んで。ごく自然な足取りで、もう一歩前へ踏み出した。二歩、三歩、四歩。五歩、歩いてから立ち止まり、妖精は恭しく王たちに一礼し。
「……ご挨拶申し上げます」
 凛と響く声で、そう告げた。
「砂漠の国出身。予知魔術師の、ソキです。歳は十三。属性は風。アタシが、白雪の国から、この学園の入口まで導きました……さ、ソキ」
 五ヶ国を、共に歩いた。その妖精が、ソキを呼ぶ。
「……ご挨拶なさい」
 振り返り手を差し伸べ、ここまで歩み。そして告げなさいと。ソキはまっすぐに妖精を見つめながら頷き、その足を前に踏み出した。歩く。ゆっくりと。誰の支えもかりず。自分ひとりの、足で。震える手を差し出せば、妖精は強く、それを握り締めて笑った。隣に立ち、ソキは細くその喉に息を通した。美しく、麗しく、綺麗に、柔らかに、しなやかに。一礼する、その仕草は、ロゼアが教えてくれたもの。
「ソキです。……よろしくお願い致します」
 立ちなおし、顔をあげ、微笑む。教会の空気が震えるように動いたのを肌で感じ取り、ソキは誇らしげに口元を緩めた。その緩みが、そうでしょうそうでしょうロゼアちゃんはねえすごいんですよぉっ、という普段通りの自慢であることを認識してしまったのか、ソキを見つめる妖精の目が白い。アンタほんとうに世界の中心ロゼアちゃんよね知ってた、とうんざりしながら、妖精は挨拶を終えたソキを連れ、新入生の列に戻りかける。その背を引きとめるように。声がかかった。
「ソキ」
 立ち止まり、振り向く。眼差しの先にあったのは金の瞳。砂漠の国王。はい、と告げ向き直るソキに、砂漠の王は真剣な顔つきで口を開いた。
「四年」
 ソキの手を引いたまま、妖精すら訝しく顔をゆがめる。それはソキが旅の途中、砂漠の王と二人きりの時に告げられた言葉だ。妖精は傍から離されていた。だから、それを知る者は誰もいない。妖精が知るのは『四年で卒業して来い』という王からの命令であり、その真意はソキと、砂漠の王以外は知らぬままだ。四年で、守護役と殺害役を決めなければ、ソキは砂漠の檻に囚われる。その、四年。まばたきをして頷くソキに、王は確認を深めるよう、告げる。
「覚えてるな?」
「はい」
「それならいい。頑張れよ」
 もう一度、はい、と告げるソキに笑みを浮かべ、砂漠の王はひらりと手をふって場を離れることを許した。恭しい一礼を出身国の王にだけ捧げたのち、ソキはゆっくりとした足取りで歩き、新入生の列へ戻る。それを待っていたのだろう。たん、と軽やかな足音を響かせ、新入生と五ヶ国の王の間に、寮長が踊り出る。淡いラベンダーの、やや上着の丈が長い夜会服をなびかせ、寮長は唖然とする新入生たちの視線を受けとめ堂々と一礼をした。わっと歓声があがる。在校生に、訪れた王宮魔術師たちに、そして五ヶ国の王に一礼し、勝気な笑みを浮かべた寮長が、さあ、と声を張り上げた。
「パーティーのはじまりだ!」
「儀式準備部、最終仕上げだ! テーブル並べて料理を出せ! 楽団は前へ、調弦して音楽!」
「よしユーニャ、あとは頼んだ。……ロリエス! 俺の女神! 今宵の美しさに愛の言葉を捧げさせてくれ……!」
 傍らに立つユーニャと手を打ちあわせたあと、寮長は花舞の女王の傍らに控えていたロリエスの元へ駆け寄って行った。一瞬格好よく見えた気がしたですがただの目の錯覚でしたいつもの寮長です、としみじみ頷くソキの手を引き、妖精が慌ただしく動きまわる在校生の邪魔にならないよう、壁際へ誘導していく。そのあとを、ものすごく当たり前の顔をしてロゼアがついてくるので、ソキを安全な場所まで辿りつかせた後、妖精は振り返り全力で舌打ちをした。
「なによ、くっついて来るんじゃないわようっとおしい。挨拶が終わったんだし料理でも取りにいきなさいよ喉が渇いてるなら水でもいいわ飲みに行きなさいよ酒だってあるでしょう楽しみなさいアンタ成人してるんだから。ねえシディ?」
「……まだ準備中ですね」
 連れて行け、と苛々する妖精の視線を見つめ返さないようにしながら、シディは次々運び込まれて行く料理の数々を眺めやった。妖精の手がシディの羽根を引っ張りたそうにわきわき動くが、残念ながら、その背に羽根はない。帰ったら覚えてろと毒ずく妖精の服の裾を指先で摘み、ソキはくいくい、と引っ張った。なに今忙しいのだけれどとうんざりした顔つきになりながらも振り返った妖精に、ソキはあのねあのね、と不思議な気持ちで問いかけた。
「そういえば、リボンちゃんなんで大きくなってるです? リボンちゃん羽根どうしたです? あとねえ、リボンちゃんねえ、格好いいです」
 ソキのエスコートに徹する為だろう。少女の姿形をした妖精の正装はすっきりとした印象の男物の夜会服で、きらびやかなドレスではなかった。簡素な装いだが、最高級の布地と仕立てが典雅な雰囲気を与えている。妖精は指先で己の髪を払い、ふふふふ、と目を細めて笑う。シディがロゼアの腕を引き、一歩退いた。あれ、と目を瞬かせるソキに、妖精はふるふる、身を震わせ。怒った。
「遅いのよ聞くなら会った時に言いなさいよなんだってアンタはいつもいつもそうなの! このっ! のろまーっ! いいわ教えてあげるわよ一回しか言わないからよく聞きなさい! 一回しか! 言わないからねっ!」
「やっやあぁああんリボンちゃん怒ったああぁっ!」
「泣くな騒ぐな黙って聞けっ! いい? 妖精はね、この時期にだけ人と同じ大きさになれるの。だから、その時期を選んでアンタたちのパーティーが開かれるのよアタシたちがエスコートできるようにね! あと羽根はしまえるの! わかったっ? 分かったら返事!」
 はいはいソキちゃんとわかりましたわかりましたああぁっ、と涙声で告げるソキにだからはいは一回にしなさいって言ってんでしょうがこの低能っ、と叫び、妖精はぜいぜいと息を乱しながら嘆かわしく首を振った。それから、やや唖然としているロゼアを振り返り、妖精は怒りのままに呪いをかけてしまおう、と思ったのだが。唇が開きかけ、きゅっと結ばれる。妖精が一礼を送り、ソキもまた壁から背を離してあわあわと立ちなおした。なんだろう、とロゼアが振り返る、その視線の先。最終準備を整える生徒たちのざわめきを従えるように、砂漠の王がまっすぐにソキと、ロゼアに歩み寄ってくるのが見えた。

前へ / 戻る / 次へ