どこかふわふわした仕草で瞬きをするソキを振り返り、妖精は舌打ちをしたい気持ちで眉を寄せた。ソキに対する叱責ではない。ソキに十分な休憩をさせる間も与えず、次々挨拶だのなんだのひっぱりまわした者たちに対しての苛立ちである。一応、今の今までソファに座ってはいたのだが、純粋な休憩ではなく、難しい話を一生懸命考えながら聞いていた上、ソキの体に僅かであっても負担がかかることがあったばかりだ。ソキ、と呼びかけた妖精を見つめるヴェールごしの瞳は、眠たげな疲労に負けかけていた。
「……ソキだいじょうぶです、リボンちゃんと踊れるですよ」
直後、ふあぁ、とあくびをしておいてなにを言うのか。呆れと苛立ちに目を細めながら、妖精は挨拶を終えたのち、砂漠の王をはじめにソキの元を訪れた各国の王と王宮魔術師たちを、こころゆくまで胸の中で罵倒した。挨拶を終えてから、一時間も経過していない。その一時間の間で、出会った者たちと起きた事柄の密度が高すぎた。まず砂漠の王とロゼアが似ている似てないという会話からはじまり、花舞の王が訪れ、白魔法使いが爆笑し、彼らが去ったのちにエノーラが現れた。白雪の王の護衛たる女性はロゼアの担当教官、チェチェリアの夫キムルに恐らく本人たち以外は極めてどうでもいいというか別次元でやっていて欲しいような言い争いを開始し、それを止めに現れたのがエノーラの主君たる白雪の女王と、楽音の国の王である。
楽音の王はキムルに、同じ属性なのだから話をしてやりなさい、とロゼアに王宮魔術師たちを押しつけて何処かへと消え。錬金術師であるキムルは、ロゼアの属性についてひと通りの講義を行った。それが終わったのが、つい先程のことだった。講義は錬金術師について、太陽という属性についてを詳細にロゼアに伝えたが、専門ではないソキにはいまひとつ理解しきれなかったのだろう。一生懸命聞いてはいたが追いつかず、それだけでも疲れてしまっていたのに、錬金術師であるキムルはなぜかソキの指輪に、旅の間に手に入れた『お守り』に興味を持ったらしく、それを見せてくれないか、と尋ねてきた。ソキがそれを了承し、指輪を引きぬいた瞬間のことを、妖精は思い起こして唇を噛む。
それは虹色の波紋だった。水面に木の葉が落ち、その衝撃で淡く歪む、その様を一番思い起こさせた。指輪を引きぬいた瞬間、ソキの魔力は淡く揺らぎ溢れだし、世界へ還るように消えて行った。キムルも、チェチェリアも、シディも、そしてロゼアも魔力を視認しただろう。七色に満ち揺らいだ魔力のかたちは儚くうつくしかった。けれど。たったあれだけ、指輪を外しただけで、あんな風に漏れ出て良いものでは決してない。それは未熟な魔術師であるソキの、ただでさえない体力をさらに削って行った。妖精は眠たげに瞬きをするソキの顔をじっと見つめた。ごく僅かに眉を寄せてくちびるを尖らせるソキの表情は、旅の間幾度となくみた、疲れから来る頭の奥の違和感。未だ痛みにはなっていない頭痛の前兆を感じ取っている時のものだった。
やはり、ダンスの前にどこか座らせて休ませるべきだろう。来なさい、と妖精が手を引くよりはやく、きゅぅと唇に力を込めたソキがてのひらに視線を落とす。手袋に覆われた左手。そのひとさしゆび。妖精が止める間もなかった。
す、と息を吸い込んで予知魔術師は言葉を告げる。
「光の波紋」
魔力が。予知魔術の魔力が世界に解き放たれるさまを、妖精は誰より近くで見せつけられた。
「風の息吹、水の流れ、清らかなるその賛歌に……くゆり、眠りゆく意思あらば応えよ。濁りは清く、澄みわたり、曇ることがない。痛みは遠ざかり、この身から消え去るだろう」
「ソキ……!」
妖精が身を震わせるほどの怒りを、ソキはきゅぅとくちびるに力を込めて受け止めた。見つめ返す瞳は怯えてなどいない。ただ、なすべきことをしなければいけないと、頑なに譲ろうとしない強い意志がそこにあり。まっすぐに、まっすぐに、妖精を見つめていた。疲労の影はない。本来なら白魔術師しか使えぬ筈の癒しの詠唱。省略も改変もされぬ正式な魔術詠唱が、予知魔術師の身からそれを消し去っていた。
「……やめなさいと言ったでしょう。アタシは、何度も、やめなさいと……っ!」
どうして聞けないの、と悲鳴のような声で叫ぶ妖精に、なにごとかと視線がいくつも集中し、そらされて行く。なによ見るんじゃないわよ言っておきますけど視線があったが最後お前のことを呪う、というおどろおどろしい意志を込めて妖精が周囲を睥睨した為だった。ソキは、ちょっとくちびるを尖らせて、首を傾げる。
「大丈夫です。ソキ、ちゃんとお勉強してるです。それに、これくらいじゃ魔力も枯渇したりしないですよ」
「アタシが言ってんのはそういうことじゃないっ! 予知魔は適性のない魔術すら発動が可能だけど、負担が大きいのっ……それも、習った筈でしょう! ああ、もう……別に、今すぐ踊らなくてもよかったのよ? 今夜中に必ず一曲。それが義務であるだけで」
新入生はパーティーの間に、必ず一曲ダンスを披露しなければならない。相手は案内妖精であろうが、女子であろうが男子であろうがかまわないのだが、とにかく定められた義務である。義務である以上は果たさなければならないが、それでも、回復魔術を使う程ではなかった筈だ。止めきれなかったことが悔しい。無理をしようとする時、必ず、ソキはそれを可能にする為に魔術を発動させると知っていた筈なのに。次にやったら今度こそ覚えていなさいと苛烈な怒りを瞳に宿して睨みつける妖精に、ソキは淡く微笑み、うん、と頷いた。
「ごめんなさい、リボンちゃん。……でもね、でもね、あのね、ソキね」
「あぁん?」
「……どうしても、リボンちゃんと踊りたかったです。ソキね、いっぱい練習したの。みてくれる……?」
妖精はソキの手を離して胸元を押さえて呻き、天井を仰いで睨みつけ、首を左右にふったのち、一番近くにあった椅子を蹴り飛ばした。リボンちゃん蹴っちゃだめですっ、と叱ってくるソキをコイツどうしてやろうかという目で睨み、妖精は再び少女の手を握る。強く。
「一曲よ」
「うん! ……うん! わぁ、リボンちゃんだぁいすきっ」
とろけるような笑みと声でふわふわと告げるソキに溜息をつきながら、妖精は手を伸ばし、少女のヴェールを指先で払った。そっと忍びこませた手で、甘い香りのする肌に触れる。叩かれた白粉のさらりとした感触と、しっとりと、吸いつくような肌が手指に心地良い。熱は出ていないようだった。そのことに心から安堵しながら、ちょうど一曲が終わり、音楽が途切れたその場所へ、妖精はソキの手を引き足を踏み入れた。踊り終えて休憩する者、新しくパートナーの手を引いて向かう者が行きかう中を進み、妖精は誰かを探して視線を動かして。ひとりの青年の後ろ姿に、見つけた、とばかり目をきらめかせた。甘い光ではない。獲物を見つけ出した獰猛な輝きである。
ちょっとここで待っていなさいとばかりソキの手を離し、妖精が楽団の指揮をしていた青年に走り寄っていく。
「ユーニャ! ……ユーニャ! ちょっとアタシが声かけてるんだから振り向くか返事くらいしなさいよっ!」
「ちょっ、蹴らないで妖精ちゃん。え、え? な、なに? なんだよ、どうしたの。ひさしぶり」
「ええそうね久しぶりね元気そうでなによりだわ。ところでアタシ、今から踊るの。曲のリクエストをしても?」
妖精に後ろから脚を蹴られて振り返ったのは、ソキを『お姫ちゃん』と呼ぶ黒魔術師、ユーニャだった。儀式準備部に所属しているユーニャは、新入生が挨拶を終えたあとも忙しく動きまわっていた筈なのだが。それが終わったあとは休む間もなく、楽団の指揮者を務めていたらしい。心地良い疲労を感じながらも満足げに笑うユーニャは、指揮棒を手の中で弄びながら、好奇心旺盛な猫のように目を細めた。
「いいよ。なに踊んの? フォックストロット? クイックステップ? パソドブレとがジャイブも行けるよ」
「ワルツ」
「……ウィンナ・ワルツ?」
珍しいねそんなゆっくりしたのにすんの、と言いながら指揮棒を構えなおすユーニャの足を遠慮なく踏みにじり、妖精はハラハラと見守っているソキに視線を向けながら、アンタよく考えなさいよ、と吐き捨てた。
「スロー・ワルツよ、スロー・ワルツ! いいこと? ゆっくり弾きなさい」
「……あぁあ、お姫ちゃん踊るのか。分かった……けど、え、誰と踊るの?」
「アンタなんなの馬鹿なのしらばく会わない間に頭の回転鈍くなったの? アタシが一緒に踊るに決まってるじゃない。アタシが! ソキの! 案内妖精だったんですからね!」
どうだアタシのソキはすごいだろう綺麗だろうよく見なさいよ、とばかり胸を張って告げる妖精に、ユーニャはうわぁ、と遠い目をして首を振った。
「……挨拶すんの見とけばよかった。忙しくて注意向ける暇なかったんだよね」
「なにそれアンタどういう意味」
「いや、ただ普通に。妖精ちゃんがどんな紹介したのかと思って」
俺の時となにか違ったりすれば知りたいからさ、と笑うユーニャに、妖精は腕を組んで告げた。
「一緒よ、一緒。おおまかにはね」
「その、微妙な違いが知りたいんだって」
「誰か捕まえて聞きだせばいいじゃないの。……とにかく、スロー・ワルツ! 頼んだわよ!」
手抜きで指揮してみなさい呪ってやるからね、と言い残して立ち去る妖精を、ユーニャはやれやれとばかり見送り、ソキに目を留めて微笑みながら手を振ってきた。それに、なんとなく手を振り返していると戻ってきた妖精がそれを掴み、あんなのに手を振るんじゃないの、と溜息をつく。
「さ、ワルツよ、ソキ。……踊れるわね?」
「うん。……リボンちゃん、よろしくお願い致します」
がんばりますね、と微笑むソキの片手を取り、その場に跪いて。手袋の上から妖精が口付けると同時、音楽が奏でられた。
傍付きが『花嫁』に教えこむダンスは、正確にするならば踊る技術ではない。いかに体に、弱く脆い脚に負担をかけることなく、踊るか。あるいは、踊っているように見せかけるか。その方法であり、ソキの練習相手となったエノーラはすぐにそれに気が付いた。ウィッシュも同じ風であったから、やっぱり、とは思ったらしい。パーティーへの日数は長くあるわけではなく、それまでの期間にソキの体のつくりが強くなる訳でもない。考えた結果、エノーラがソキに教えこんだのは、『花嫁』が踊れるそれのさらなる成長だった。新しく教えこむことは殆ど不可能だとして、できることを出来る限り、研ぎ澄ませていく。その方法を選びとったのだ。
いかに体に負担をかけないか。どの動きであれば、どれくらいの負荷がかかってしまうのか。それを避ける為にはどう体を動かせばいいのか。どういう動きをすれば踊っているように見えるのか。最初からエノーラは、ソキにワルツだけを教えこんだ。エノーラは優秀な教師だった。時々、ソキの世話役の少女を連れてどこかへ消え、二時間くらいして戻ってくることを除けば。妖精のリードは、ソキがワルツを、それだけを教えこまれていたのを知っていたかのように巧みで、見事なものだった。身長や体格にそこまでの差があるふたりではないのに、妖精はソキの体をしっかりと支えながら、足を動かした。『花嫁』の独特のステップに戸惑うことなく、眉を寄せるようなこともせず。
微笑んで、パートナーを見せびらかすように、見事、一曲ソキを踊らせきった。
「は……はぅ……」
曲が最後の旋律を奏で切り、空気を震わせながら消えて行く。その音を耳の奥に響かせながら、ソキは疲れ切った息を繰り返し、抱き寄せてくれた妖精の腕の中でくたりとしていた。妖精は一度強くソキの体を抱きしめ、肩に指先を置いて微笑みかけてくる。
「よし、よく頑張ったわね、ソキ。……休憩しましょう」
ソキは妖精から体を離し、立ちなおして頷き、差し出された手に指先を与えようとした。その瞬間、横から伸びてきた褐色の手が、ひょいとばかりにソキを攫う。驚きに視線を向けたソキと、忌々しそうな妖精の眼差しを受け止め、砂漠の王は悪戯っぽく笑った。
「ちょっと貸して?」
「はあぁああっ? ちょっと、知っているでしょうソキは」
「分かってるよ、俺の国の『花嫁』だ」
ごく自然にソキの腕を引き腰をあまく抱きながら、砂漠の王は睨みつけてくる妖精に苦笑いをした。
「話がある。聞きたいことも。……一曲分、それっぽくさせるだけだから」
「……終わったらすぐに離しなさいよ。ソキは疲れてるの。すごくね!」
「無理そうだったら途中で離す。……おいで、ソキ。もう一曲だけ」
男の腕の中に閉じ込められるようにして囁き、ソキは顔を真っ赤にしてこくん、と頷いた。かすれる、甘く響く声が胸の鼓動を跳ね上げる。陛下はなんでロゼアちゃんにそんなに似てるですか、と弱々しく涙ぐんだ声でちいさく問われ、砂漠の王は肩を震わせて笑った。
「お前ほんっ……と! ロゼア好きだな。なんかロゼアっぽく言ってやろうか?」
「いいですだめですソキもうむりです。ど、どうしよう。ロゼアちゃんが陛下みたいな男前さんになったらソキもう正面からロゼアちゃんみられない……あっ、陛下も格好いいです! すてきです! 陛下男前です!」
「あ、じゃねぇよ……褒められてるのにまったく俺が褒められた気がしない。すごいな、ソキ」
ああもうなんていうか心配する必要性がなかったわ色々と、体調だけ分からないけど、と視線を二人に向けたのち、妖精がくるりと背を向けて歩き去っていく。その姿が人ごみに消えてしまうまで見送り、ソキはきょとん、と砂漠の王を見上げた。
「陛下。ソキにご用事あるんです?」
「ある。……ちょっと移動しような」
こっち、とソキの腰を抱いてゆったりと歩かせる砂漠の王は、『花嫁』の体力がつきかけているのを理解しているのだろう。悪いな、と苦笑して踊りの輪から外れ、片隅でひっそりとソキの手を取る。音楽に合わせ体を揺らしながら、時折、ソキをくるりと回して花嫁衣装の麗しさに優しい眼差しを投げかけて微笑み。砂漠の王は見つめてくるソキに、静かな声でそれを問うた。
「ソキ」
「はい」
「四年で、お前はロゼアから離れられるのか?」
びくん、と王に握られた少女の手が跳ねる。視線は逸らされないまま、重ね合わされていた。ソキのくちびるが声なく息を吸い込み、瞼が震えながら一度、とざされる。音楽が奏でられていた。やわらかな旋律。心躍るそれを耳にしながら、ソキはそっと瞼を持ち上げて。淡く、きよらかに、微笑んだ。
「二年で、ソキはちゃんとロゼアちゃんを離しますよ」
十五になったら。本当なら、『花嫁』としてもう永遠に、『傍付き』に会えない年齢になってしまったら。その時にちゃんと離します、と告げるソキに、砂漠の王は眉を寄せた。歓迎していない風だった。そのことこそをどうしてだろう、と不思議がるまなざしで、ソキは告げて行く。
「今日……分かりましたです。ソキは、やっぱり……ロゼアちゃんが好きで、でもソキは……ロゼアちゃんの、恋には、なれないんです。知ってました。分かってました。ソキは『花嫁』です。ロゼアちゃんは『傍付き』です。『傍付き』は決して『花嫁』に恋心を抱かない。それはずっと、ずっと分かっていたことです。ロゼアちゃんはそういう教育を受けて、ソキの『傍付き』になってくれた。わかってる、わかってた、です……」
は、と短く息を吐き出し、瞼を、くちびるを、震わせて。浮かび上がる涙を頬へ伝わせることを耐えるソキに、砂漠の王はそうか、と言った。息をつめて頷くソキから一度手を離し、砂漠の王はその場にしゃがみ込みんで『花嫁』の顔を見上げる。『傍付き』が『花嫁』に対してそうするような。やさしい仕草だった。ゆっくり、確認する口調で、王が問う。
「予知魔術師の殺害役と、守護役の話は覚えているな?」
「……はい」
「もしも、その守護役に俺たちが……五ヶ国の王の総意としてくれてもかまわないが、ひとつの意見として。お前の守護役候補として、ロゼアを考えている、と言ったらどうする」
真冬の、巡る水さえ凍りついた深く眠りに落ちた森の。雪化粧をされた常緑樹の瞳で、ソキはうつくしく微笑んだ。
「そんな、ひどいことを、しないで……」
「……ひどい、と、思うのか」
「『傍付き』が『花嫁』を慈しんでくれるのは義務です。仕事、です。それを……一生させてはいけないです」
あいしているの。花が光に蕾をひらくように、甘く響くやさしい声で。そっとそっと、ソキは王に囁いた。
「しあわせになって欲しい……ロゼアちゃんは大丈夫です。あんなに、すてきで、格好いいもの。女の子が放っておかないです。そんな筈ないです。だから、二年で、ソキがちゃんと傍から離れれば……ロゼアちゃんは、大丈夫です。ちゃんと、ロゼアちゃんを幸せにできる女の子に、めぐりあいますよ」
「お前はそれでいいのか」
「……わたしは」
泣きださないのが不思議なくらい、くしゃりと顔をゆがめて。ソキは何度も、何度も言葉に迷いながら、やがて頷いた。
「いつか……どこか、知らないところで、しあわせになるはずのひとでした」
「……いいのか? それで」
「ソキが……ソキがロゼアちゃんを、好きでいるのは、いいでしょう? もう、どこへもソキは嫁ぎません。だから……!」
二年後も、四年後も。そのあとも、ずっとずっと。好きでいることを許して、と懺悔のように囁くソキに、静かな溜息と共に頷いて。砂漠の王は『花嫁』に両腕を伸ばし、やわらかな体を腕の中に抱きこんだ。
「わかった」
「……ありがとうございます、陛下」
「ん。よしよし、泣かないで言えたな。偉いぞ、ソキ」
ぽんぽん、と慰めに背を撫でながら笑って、砂漠の王はところでさぁ、と勤めて明るく、『花嫁』の顔を覗き込んだ。
「学園生活どんな感じだ? ナリアンとメーシャとも仲良くしてるか? 友達でき……お前ひとりくらいは友達いる?」
「楽しいです。いっぱいお勉強してるです。ナリアンくんねぇ、おにいちゃんみたいなんですよ。メーシャくんは格好いいです優しいです、目が幸せになるです。……陛下、おともだち、いる?」
「いる。必要。……あのなぁ、ソキ? いいこだから友達つくれ? な? できるよな?」
なんかそんなことだろうとは思ってたけどさぁ、とヴェールの上からソキの頬をもにもに両手で潰して遊びながら息を吐く砂漠の王に、ソキはやぁあんっ、と声をあげて抵抗した。やがて、楽団の音楽が途切れる。こちらへ向かって歩んでくる妖精に苦笑いをしながら立ち上がって、砂漠の王はソキの手を取った。視線が重なる。王は微笑んで、予知魔術師に告げた。
「ソキ」
「はい」
「……幸福で、あれ」
何度でも、そう願うよ、と。告げる王に恭しく一礼して、ソキはありがとうございますですよ、と笑った。幸せです、とは、言わなかった。
なぜか踊りの輪の中から現れた妖精は、敬意というものをかなぐり捨てた態度で砂漠の王からソキの手をひったくり、なにも言わずに休憩できる場所まで導いた。なにかにひどく苛立っている妖精はソキにちらりと視線を向けてきたが言葉はなく、そのことが少女にはとてもありがたく感じられる。うまく、言葉を、紡げる気持ちではなかった。曲の合間に入れ替わる人々のざわめきと笑い声が、天井高くに反響して、遠い。
「ソキ」
妖精がソキを呼び、ほら、と繋いだ手で導いてふかふかの長椅子に腰かけさせる。踊り、あるいは食事、会話を楽しむ魔術師たちの姿が見え、それでいて煩すぎず、ざわめきからは遠すぎない絶妙の場所に、いつの間にか導かれていた。たくさんの椅子が置かれたこの身廊は、ちょうど飾りや食事、飲み物を置いた机にまぎれて死角になっているのだろう。ソキ以外の人影はなく、淡い静寂がやんわりと降りて来ていた。ぼぅっとまばたきを繰り返すソキの傍をいつの間に離れていたのか、戻ってきた妖精が冷えた水の入ったグラスを差し出してくる。繊細な銅細工と硝子を組み合わせた華奢なグラスをそっとてのひらで包みこみ、くちびるへ運ぶ。ヴェールは気が付かない間に、妖精の手によって払われていた。疲れたわね、と囁いてくる妖精の声に、ソキはぼんやりしながら頷く。
「おみず、ありがとうございますです」
「……飲める? おなかは空いた? アンタ、なにも食べてないでしょう」
ソキはグラスの水をこくこくと飲みほしたのち、眉を寄せながら首を振った。すこし前までは空腹も感じていた気がするのだが、白魔術で回復した直後から、それらの感覚も遠のいている。それをソキは口に出しはしなかったのだが、妖精にはお見通しであったらしい。ソキに上級の白魔術の、正式な詠唱を教えこんでしまった誰かを天井を睨みながら呪い倒すと、空になったグラスを受け取って手の中で弄ぶ。
「ほんのすこしでも食べられない? ……それか、なにか、果物のジュースだけでも」
「……もうちょっと、休んだら、食べるもの探しにいくです」
「ホントね? 言ったわね?」
言ったからには守りなさいよ、と笑って妖精がソキに手を伸ばしてくる。髪飾りに手を触れ、つけ直してくれる仕草はやさしい。ふわふわした気持ちで笑いながら、ソキはようやく、長椅子に半分伏せていた体をもちあげた。ふらつきながらも座り直し、踊り続ける魔術師たちを眺める。たくさんの魔術師が笑っていた。ソキが見知った顔も多いが、まったく分からない者もいる。ソキと同じ方向を眺めながら解説してくれた妖精の話によれば、少女らの仲間も結構な数で混じっているのだという。正装で羽根も隠しているから分かりにくいだろうけど、と笑いながら、妖精が例えばあれとか、あれとか、と指差し教えてくれた少年少女を眺めやり、ソキはわぁ、と淡く目を輝かせた。
「妖精さんは、みんな、きれいです……! 目が幸せになるです、うっとりしちゃうです」
うふふ、と飴を口にした時のような仕草で指先をくちびるに添え、その幸福にしばらく酔いしれて。あれ、とばかりにぱちぱち瞬きを繰り返し、ソキは不思議そうに首を傾げた。
「メーシャくんは……もしかして」
「しないわ絶対にしないわよアンタなに考えてるの言わないで良いけどそれ以上は考えるんじゃない!」
「だ、だってリボンちゃん。メーシャくんも見てて目が幸せになるです。ということは……!」
メーシャくん妖精さんだったりしないんですか、ときらんきらんした目で言い放つソキの髪に手を伸ばしかけ、複雑に編み込まれ綺麗に整えられたもたれているそれを乱すことをためらったのだろう。行き先を変えた妖精の指先が、ソキの頬をむにむにと摘んだ。
「し・な・い・わ・よ! あんなのとアタシたちを一緒にするんじゃない!」
「やぁんやぁんっ。リボンちゃんほっぺつねっちゃやですやですぅっ」
「つねってないわよそこまで力入れてないでしょうが。……アンタほんとに恐ろしいくらいに肌綺麗ね……」
触れた指先をぞくぞく震わせるほど、しっとりとなめらかな、吸いつくような質感である。頬も、首筋も、その下の肌もなにもかも。きめ細やかに整えられ磨かれた、『砂漠の花嫁』。妙な気分になってくる前に手を離し、やっぱりソキを折檻するのは髪を引っ張るのに限るわと思いながら、妖精は長椅子を立ち上がった。まだ歩きたい程に体力が回復していないのだろう。もうちょっと、と視線を向けてくるソキにどこへも行かないわと苦笑して、妖精はふ、と視線を向けた。ロゼアが、シディと話しながらも、ソキのことを時々見つめているのが分かる。ソキはそれに、気が付いていないようだった。舌打ちしたい気分になる妖精の背に、やわやわと響く甘い声で、ソキが話しかけてくる。
「……ソキねえ、夜会にロゼアちゃんと出る日が来るとは思わなかったです」
出る、と言っても寄り添い立つでもなく、手を取って踊ることもないのだが。同じ時、同じ空間にいる、ということだけで十分らしい。感慨深く告げるソキを振り返って、妖精はやさしく頷いてやった。
「ソキがそうなら、あっちもきっとそう思ってるでしょうね」
「うん」
返事の声が甘えている。まったく、と苦笑しながら妖精はソキを眺め、食事をしたら帰りましょうね、と言った。食べさせて眠らせてしまうのが一番だろう。うん、とまた頷いて、ソキはふふふ、と楽しげに笑う。
「……今日は、お歌歌わないでいいですね」
「歌?」
「ソキ、夜会にお呼ばれすると一曲なにか歌わなければいけなかったです」
告げるほんのわずかな響きから察するに、それは呼ばれた『花嫁』に対する義務であったのだろう。気乗りしない様子ではなく、楽しげであるので、ソキは歌うことが好きなのかも知れない。すこしでも、好きなことをさせて、あたたかな気持ちであって欲しい。そう思いながら、妖精はソキの座る長椅子の前にしゃがみこんだ。顔を覗き込み、問う。
「じゃあ、今聞かせてくれる?」
「……いまです?」
「ちいさな声でね。大丈夫よ、騒がしいし、誰も気にしたりしないわ」
人々を踊らせる楽団の音楽に紛れ、ざわめきがかき消し、その歌声は誰にも届かないだろう。だからこそ自由に、と願う妖精の囁きに応え、ソキはうっとりと微笑んで頷いた。胸元に両手を添えるようにして置き、細い喉が息を吸い込む。祝福を与えるように、歌声が紡がれた。