歌い終わったソキを長椅子に残し、妖精はシディとルノン、ニーアに挨拶だけしてくるからすこしだけ待っていなさい、と小走りに立ち去って行った。ソキが食事を終えたら、もうすぐに帰れるようにだろう。妖精が戻ってくるまでの間に眠ってしまいそうな気がしつつ、ふぁ、とあくびをして、ソキはふらふらと視線を彷徨わせた。もう一度、ロゼアの姿を見ておきたかったのだが、残念なことに見渡せる範囲のどこにも見つけることができなかった。つんとくちびるを尖らせて拗ねながら、ソキは砂漠の王に告げた言葉を胸の中にしまい込み、幸福な夢を見たがる仕草で瞼を下ろした。今日はもう自分の部屋でなくてもいいとのことだったから、寮に帰ってお風呂に入ったら、ロゼアの部屋で眠ってもいいのだ。あたたかな腕に抱き寄せられる幸福と安堵を胸いっぱいに蘇らせ、ソキはそっと、ロゼアの名でくちびるを震わせた。
歩んでくる足音がする。眠りに落ちる寸前の瞼を持ち上げて視線を向けた先、ひとりの女と視線が重なった。濃褐色の肌に夜色の髪を持つ、すらりとした体躯の女だった。果実のように赤い瞳がソキの姿を認め、どこか訝しげに細められる。カツ、と足音を立てて女がソキへ一歩を踏み出した、その時だった。ソキは女が手に持つ花飾りに気が付く。白い大ぶりの花は、ガーデニアだろうか。瑞々しさを保つよう加工されたその花を中心に、ほの甘い色合いの薄紅の小花が添えられている。その花から、魔力のきらめきが零れ落ちた。とうめいな蜜のような、甘い、あまい、ひかり。砕け散る寸前に薄藤色の芳香を漂わせるその魔力に、ソキは覚えがあった。
「……リトリアさん」
女の足が止まる。くらやみの中から見つめるソキには、逆光になってしまっていて女の顔がよく見えない。はじめて会う相手だった。それなのに、ふと、耳元で囁くように声がして。
『ツフィアはね』
ソキに、その女の名を教えた。
『ツフィアは、夜とか、夜明けとか。そういう印象の、とてもきれいな女のひとよ……』
「……あなたが、ツフィアさん、です?」
『言葉魔術師なの』
問いを、響かせ終わるより、はやく。囁く声が蘇らせる記憶に、ソキの全身を恐怖が貫いた。言葉魔術師。鎖の音がする。手首を戒める鎖。脚になにもされなかった理由を知っている。ソキはひとりで歩けないからだ。助けを求める喉に手が触れ、締められた理由を知っている。ロゼアの名を呼んだからだ。太陽の光が届かない風の吹き込むことのない冷たい全ての音が人の気配が遠ざけられ閉ざされ鎖された部屋に閉じ込められて、そして。
『――これはいらないね、お人形さん』
やめて。もがく腕は鎖に繋がれすこしも動かすことができなかった。ソキは知っていた。それがどんなに大事なものか。誰に習った訳ではなかったけれど、物心ついた時にはすでに分かっていた。それはいつかロゼアに必要になるものだ。大事に大事に、ソキが持っていなければいけなかったものだ。だから。だからさわらないでやめてやめておねがいなんでもいうことをきくからいいこにするからやめておめがいやめてやめてやめて。
『壊してしまおう。キミは『 』でなくとも』
それがこわれたら。ろぜあちゃんは。
『ボクの道具であれば……それだけでいい』
砕かれた衝撃と痛みと絶望が、記憶を粉々の欠片にして降り積もらせる。ソキは、はじめてその欠片に触れた。痛い。痛くて、痛くて、息ができない。くるしい。胸に両手を押し当てて首を振りながら、ソキは怯えた眼差しで凍りつくツフィアに視線を向けた。信じられない、と言いたげに目を見張り、ツフィアが掠れた声を震わせた。
「……あなた」
「こないで……ソキを、つかわないで……っ!」
怖い。怖い、怖い、こわいこわいこわいこわい。知っている。その瞬間から、ソキは知っている。使われてしまう。抵抗なんてできない。魔力を抱いておく為のそれごと、盗られて壊され砕かれてしまって元に戻せない。痛い、怖い。涙を零して嫌がるソキに、ツフィアは眉を寄せた。
「誤認しているの? ……いえ、違う、これは……」
「……あの」
静かな声がツフィアの足を止め、振り返らせる。その姿を女ごしに認め、ソキが泣きながらハリアスちゃん、と呼んだ。ハリアスはハッとしたようにソキの姿を認めると、ツフィアと見比べ、隣をすり抜けて少女の元へ行くべきかどうか迷う眼差しで、短い問いを口に乗せる。
「お知り合いですか? ソキちゃんと」
「いいえ。……もう行くわ」
泣かせるつもりなど、なかったのだと。怖がらせてしまったことを悔いるように唇に力を込め、ツフィアはソキを見ずに身を翻し、立ち去っていた。その視線を向けるだけの動作であっても、怖がらせてしまうだけだと、知っているようだった。その背に声をかけるべきだったのか迷いながらハリアスが立ちすくんでいると、小走りに、訝しげな顔をした妖精が戻ってくる。
「なに? どうかしたの? ……ソキ? ソキ、ちょっと、どうしたのっ?」
「ソキちゃん……?」
ちょっとアンタも来なさいとばかり妖精に腕を掴まれ、ハリアスは不安げに顔を曇らせながらソキの元へ向かった。屈みこんだ妖精の手が頬に触れ、そのぬくもりに、全身に散らばった痛みがすこしだけ落ち着いた。いたい、と言葉に出せず泣くばかりのソキを見て、ハリアスが口元に手を押し当てる。
「魔力が……」
「溢れかけてるわね。……ソキ、ソキ、いいこね。大丈夫、落ち着いて……落ち着きなさい、ね」
恐れ呻くように告げたハリアスの言葉を、妖精が冷静に引き継いで眉を寄せる。七色の水の波紋が空気を染め上げるさまを、魔力を持つ者であるなら誰もが視認したことだろう。それは暴走の前兆に他ならない。荒れ狂う意志が、感情が、魔術師の体という枷を食い破って外側に溢れだそうとしている。どうしたら、と焦るハリアスを視線で呼び寄せ、妖精はソキの傍らに少女を座らせた。痛いくらい力を込めて手を握られているであろうに、その痛みを一切表情に出すことはなく。ソキ、ソキ、と優しく名を呼びかけながら、妖精はその合間に、ハリアスに言った。
「アンタ、ソキの知り合いね? ……親しい方?」
「はい。ハリアスと申します、妖精さん。ソキちゃんとは……よく、話をします。一緒に勉強したり……」
「そう。……なによ、アンタ友達いるんじゃない」
安心した、と目を和ませて笑いながら、妖精はそっと身を屈め、ぼろぼろと涙を流すソキの目尻に口付ける。
「話しかけてやって。安心させてあげて。……こんな時に居ないとかなに考えてるのかしら」
「どなたが……?」
「ロゼアよ、ロゼア。アイツがいたらソキはすぐに落ち着くわ。……ソキ、ソキ。どうしたの? 言えるわね? ほら、ちゃんと教えて。そうしたら守ってあげられる。教えて、ソキ。……どうしたの? 怖いの? もう、大丈夫。大丈夫よ……」
震えて、すがるように妖精の手を握り締めたソキが、色を失ったくちびるを無音で動かした。ゆっくり、ゆっくり。その形を読みとり、妖精は悔しそうに頷いた。怖い、と。痛い、としか、ソキは言わなかった。妖精はその意味を知っている。呪いだ。形は消し去られたという。仕組みはなくなったのだという。けれども恐怖の記憶は消えることなくこびりつき、ソキの心を苛んで行くのだ。そう、と静かに呟き、妖精はソキの手に頬を寄せた。
「……なにが痛いの? なにが、怖いの……?」
ソキは辛そうに目を閉じ、くちびるを噛んで首を振った。いやいや、むずがる仕草がまた魔力を溢れさせていく。聞きだすことは難しいだろう。落ち着きなさい、と叱咤しながら、妖精はハリアスに視線を走らせた。ちょっとアンタもなにか言ったらどうなの落ち着かせてやってと言ったでしょう呪われたいの、と脅されて、口元を引きつらせたハリアスはちいさく首を振る。ハリアスは息を吸い込んで、ソキを見て。言葉なく、ただ、その肩を抱き寄せた。なにを告げるのが正解なのか、分からず。それでも、なにか、伝えたくて。
「ソキちゃん……」
数日前、花嫁衣装を見て泣きじゃくるソキに、ハリアスはなにも告げることができなかった。本当に辛そうに、そしてまた、溢れる喜びをどうすることもできないように。泣いて、泣いて、それだけしかできない年下の少女に、かける言葉など本には載っていない。いくら勉強しても、人と触れ合う正しさを教わることはできない。間違ってしまうのは、ハリアスにとってちょっとした恐怖だった。けれど。ハリアスちゃん、と不思議そうに呼びかけてくる、無垢なまでの瞳で見つめてくるこの存在を。助けて、あげたかった。ぎゅっと手に力を込め、ハリアスは息を吸う。
「痛いのなら、私は白魔術師です。癒してあげられます」
「……ハリアスちゃん?」
「怖いことは、私もどうすればいいのか、分かりません。……でも、怖くなくなるまで、こうして、傍にいることはできます。怖くないです、と言ってあげることもできますが……ソキちゃんがなにを怖いと思っているのか、私には分からないから。だから……もし、それを教えてくれるなら」
一緒に考えることができます、とハリアスは言った。まっすぐな意志で。図書館で、予知魔術師の本を取ってあげた時、一緒にがんばろうね、と囁いた時と同じ気持ちで。それ以上に、強く。
「どうすれば怖くなくなるか、考えて、平気にしてあげられることが、できるかも知れません」
ぼんやりと、ソキの目がハリアスに向けられる。
「……ハリアスちゃんは、なにが……怖いの……?」
「わ、私はその、メーシャさんの真剣な目と……か……い、いえ! 私のことは今関係ありませんのでっ!」
妖精から向けられる、へぇアンタそうなのそういう、と白い目を大慌てで手をふって否定して、赤らんだ顔でハリアスは叫ぶ。それを見て楽しそうにくすくすと笑い、ソキはようやく落ち着いたように、緊張しきった体から力を抜いた。ふわり、瞼を閉じる。あ、とハリアスが声をあげ、妖精が安堵の息を吐きだした。溢れていた魔力が、きらめきながら収縮していくのを感じる。それでもまだ恐怖の名残を残し、震える手を妖精の手の中から引き抜いて、ソキは殆ど無意識に己の左手、人差し指の根元に口付けた。祈るように、声が漏れて行く。泣くように、すがるように呼ばれた名が誰のものであるか、妖精もハリアスも分かっていた。
ソキの傍らに膝をつきながら、妖精の瞳がハリアスを見る。
「呼んできてくれるかしら。アタシはここで、ソキを見てる。シディが傍にいるから、すぐに分かる筈よ」
妖精の気配は、そうと思って追えば魔術師にはすぐ判別できるものだ。その方法を教わっていない新入生には難しいだろうが、ハリアスはその術を知っている。はい、と頷き立ち上がり、ハリアスは僅かばかり、ソキを案じる眼差しで眠りゆくような姿を見つめ。ぱっと身を翻して、まばゆいパーティーの光の中へ飛び込んで行った。急いで、と呟きだけで見送り、妖精は目を閉じたままむずがるソキに指先を伸ばした。一度は落ち着いたものの、また恐怖がぶり返して来たのだろう。魔力をあふれさせるようなことこそしなかったが、閉じた瞼からは次々と、涙があふれ出していた。丁寧に拭ってやりながら、妖精はソキと手を繋いで囁く。
「……怖いの?」
こくん、とソキは頷いた。いやいや、幼く首が振られる。なにが、と問うても分からないくらい、恐怖に塗りつぶされた感情がそこにある。手を握って寄り添うことなら妖精にもできる。肩を抱き落ち着かせることなら、ハリアスにも可能だった。それでも。その腕に抱き締めて背を撫でて、安心させてやることは。きっと、ロゼアにしかできない。はやく、と苛立ち祈るように思いながら、妖精はソキの手を撫でる。手袋ごしで肌に触れられず、直に熱を伝えられないことがもどかしかった。
「痛いの?」
また、こくん、とソキが頷く。泣き濡れた瞳が、よわよわしく瞼を持ち上げて妖精を覗き込んだ。
「りぼんちゃん……」
「なに?」
「リボンちゃん、リボンちゃん……いたい、です」
痛みを、訴える言葉であった筈だ。蒼白な顔色と、なにかに怯えて泣き続ける瞳の恐怖が、それを物語る。彼方からようやく、いくつかの足音が聞こえてくる。それに遅いと舌打ちしながら、妖精は震えながら瞼を下ろしてしまったソキを、じっと見つめた。怖い、痛い。そう訴え続ける言葉の隙間に。会いたい、と泣き叫ぶ願いが、聞こえた気がした。
ひとときも離れたくないと言わんばかり、ソキはロゼアの腰に腕を回してひしっとくっつき、あまり健やかではない寝息を響かせていた。花嫁衣装はすでに取り払われ、まろやかな肢体を包むのは絹で作られた夜着だった。屋敷時代から愛用しているこの夜着はソキの兄が多数の荷物と一緒に送りつけてきた中にあり、ロゼアが選んで残したものだった。赤く腫れぼったいソキの目尻を指先で撫でながら、ロゼアは半乾きの髪にタオルをあてて行く。片手でやるのに慣れた作業ではないが、ロゼアの手が触れていないと、ソキが目を覚ましてしまうので忍びなかった。パーティーの終わりは慌ただしいものだった。ソキを抱き上げて退出しようとしたはいいものの、五ヶ国の王たちの姿が会場になく、王宮魔術師たちも何名か姿を見つけることができなかった。
不安げな少女たちの手を引き、数小節ごとにパートナーを入れ替えながら踊っていた寮長が、ちょっと騒ぎがあっただけだと教えてくれたが、詳細は知らないらしかった。楽団を率いるユーニャも同様に、軽やかで明るい曲ばかりを指示しながらさぁ、と首を傾げるばかりで、場は不穏な空気に揺れていた。程なくして王たちは戻ったが、そこに白雪の女王の姿を見つけることは出来ず。どうかされたんですか、と問うロゼアに砂漠の王はなぜか疲れ切った表情で気にすんな良いことだ明日くらいに知らせが走る、とだけ述べ、その腕に抱かれたソキに訝しげな表情をした。王は理由を問うことなくロゼアとソキの退出を許し、シディと妖精が、また明日の朝様子を見に行くから、とそれを見送った。
なんでも、人間と同じ大きさになれるのは一夜だけではなく、平均して三日か四日くらいはあるらしい。そこは個人差があるらしいが、明日くらいまでなら大丈夫よと告げた妖精は、慈しみ溢れた仕草でソキの頬を撫で、おやすみなさい、と囁き落とした。パーティーの雰囲気は、その後すぐに持ち直したらしい。はしゃいだ雰囲気を纏って寮に戻ってくるいくつもの気配が、ロゼアにそれを教えてくれた。ソキはロゼアの腕の中ですぐ眠りに落ちた。そもそも体力が限界だったのだろう。泣いて、怯えて、疲れ切った表情でやってきたロゼアに両腕を伸ばし、すがりついて。泣き濡れた声でろぜあちゃん、と呼んだのを最後に、意識が失われていた。一時的に起きたのは、ロゼアが正装を脱ぎ湯を使う為に傍から離れていた間である。一応、普段着ているローブでソキの全身を包むように寝台に寝かせて行ったのだが、駄目であったらしい。
普段よりずっと短い時間で部屋まで戻ってきたロゼアが見たのは、寝台の上で体をぎゅうぎゅうに丸めながら、警戒しきった様子で声もなく涙を零すソキの姿だった。慌てて駆け寄ったロゼアが手を伸ばし、触れるとそれだけで体から力が抜け落ち、そのまま今に至っている。ふるふる、ソキの瞼が震えた。くちびるが息を吸い込み、ぼんやりとした瞳が彷徨う。
「……ろぜあちゃん」
「なに、ソキ。俺はここにいるよ」
服をきゅぅと握り締めていた手が離れたので、ロゼアはそこへ己の指先を滑り込ませた。汗ばんだ肌を撫でながら、指先を絡めて繋ぎ合せる。心地よさそうにソキが微笑み、また瞼が下ろされた。ぽんぽん、と肩を撫でながら、ロゼアはかけ布をひっぱり、ソキの体にかけてやった。
「ずっと、いる。傍にいるよ、ソキ」
うっすらと瞼をひらき、ロゼアを眩しげに見上げて、ソキは笑った。切なく、愛おしく、申し訳なさそうに。溢れる幸福にこそ罪悪感を抱くように、かなしげに笑って。ロゼアちゃん、と呼んで、目を閉じた。そのまま、朝まで目覚めることはなかった。
扉を叩くとすぐ飛び出して来たちいさな体を抱きとめ、フィオーレは言葉もなく天井を仰ぎ見た。反省の為である。言葉をかけてやれば声で判別が付いただろうが、それもなく、分からなかったのだろう。ストルさん、と一度だけ呼んで出てきたリトリアは、フィオーレの腕にやんわり抱かれながら、即座に顔を赤くした。恥ずかしさに涙ぐみ、頬を両手で包みこみながら身をよじる。
「ち、ちが……ちがうの! わ、わたし、ちがうのちがうの……!」
「うん。分かってるから落ち着こうな? それと、しー。もう遅いから、あんまり大きな声は駄目だよ」
寝静まった楽音の廊下は、旋律の名残を漂わせることなく眠りに落ちていた。城で開かれた夜会もとうに終わっていたのだろう。熱っぽい興奮の空気も消え、夜の静けさだけが舞いおりている。言い聞かせるフィオーレの言葉に頷き、リトリアは不思議そうに白魔法使いを見上げた。
「フィオーレは、どうしたの? ……私に、なにか、御用ですか?」
「んー? 楽音の陛下が、今日のリトリアは可愛いドレスなんですよって自慢してたから。どんなだったかな、と思って」
パーティーが終わるまでは砂漠の王の護衛をして、その後、許可を取って楽音へ赴いたのだった。ノックをしたのは、リトリアが起きている気がしたからだ。単なる勘に過ぎず、寝てしまっているのであれば後日でもよかったし、当然、着替えているだろうからドレスを見せてもらえればそれだけでよかったのだが。えっ、と戸惑う声をあげて頬を赤らめるリトリアは、未だ夜会に出席した時の姿のままだった。小花を散らした愛らしいドレスが、小柄で華奢な体をふんわりと包みこんでいる。指先をもじもじと擦り合わせる仕草は愛らしかったが、よく見れば表情はやや眠たげだ。うとうととしながら、着替えることができないでいたのだろう。ストルさん、とリトリアは呼んだ。嬉しくて、泣きそうな声だった。待っていたに違いない。そんなことはないと思いつつ、もしかしたら、と期待して。その期待を何度も、何度も打ち消して。それでも淡く抱いて。
ドレスに添えられたカードは無記名で、メッセージも残されていなかった。それでも、リトリアが分からない筈がない。『学園』在学時代からずっと、ストルはなにかことあるごとにリトリアに服やら靴やら装飾品その他を買い与えて愛でていたのだ。それくらいのことで、分からなくなる筈がない。溜息をつき、ストル一回くらい殴りに行こうかなと思いつつ、フィオーレはひょい、とはにかむリトリアの顔を覗き込む。
「うん、陛下の仰る通りだった。すごく似合ってるし、可愛い」
「……ありがとうございます」
「一曲くらいは踊ろうか? さ、お手をどうぞ、お嬢さん」
微笑みながら慣れた仕草で、フィオーレはリトリアの前に片膝をついた。『学園』在学時代、何度もそうしてきたように、手を差し伸べてダンスへと誘う。音楽がなくてもすこしくらいは踊れるだろう、と問うフィオーレに、リトリアはおずおずと指先を預ける。きゅっと握って立ち上がり、フィオーレはするりと少女の腰を抱き寄せた。
「俺でごめんね」
「ううん。……ううん、いいの。……なんで、期待しちゃったんだろう」
会いに来てくれることなんて、ないのに。囁き、涙を伝わせるリトリアの頬を両手で包みこみ、フィオーレはそっと身を屈めた。額に口付け、強く、その体を抱きしめる。
「俺で、ごめんね」
呼んでいいよ、と許されて、リトリアのくちびるが震えながら息を吸い込む。ストルさん。ストルさん、ツフィア。砕けた砂糖菓子のような甘さで静まり返った空気を震わせ、リトリアは落ち着いた響きで、フィオーレの名を呼んだ。なに、と視線を向けてくれるのに、少女は花のように笑う。
「会いに来てくれて、ありがとう……」
そう告げたかったのはきっと、フィオーレではないだろうに。それでも、心から和らいだように笑うリトリアに、フィオーレはごく穏やかな気持ちで頷いてやった。
妖精たちとナリアン、メーシャ、ハリアスやルルク、エノーラまでもが代わる代わるお見舞いに来てくれたとのことなのだが、ソキにはその記憶が残されていなかった。朝に一回目をさましてから、翌日の朝まで延々眠っていたからである。ロゼアちゃんどうして起してくれなかったですか、とすこしばかり拗ねた顔つきになりながらも、ソキは身支度を整えるロゼアの背を見つめていた。ソキをてきぱきとした動きで夜着から日中の服に着替えさせたロゼアは、すこしばかり眠たげなあくびをしながら、後回しにしていた己の服に袖を通している。ばさ、となんのためらいもなく上着が脱ぎすてられ、用意してあった服をてのひらが取りあげる。なめらかな筋肉が付いた背と、腕の動きに、ソキは瞬間的に顔を赤らめた。自分でも驚くくらい、どきどきして、目が離せなかった。
どうしてなのかまったく分からない。正装している訳でもないのに。ロゼアの肌を見たことが、ないわけでもないのに。あれ、と混乱してくちびるに手をあて、震えるソキを着替え終わったロゼアが振り返った。驚いたように目が見開かれ、なにをいう間もなく伸びてきた腕がソキを抱き上げる。腕の中でふにゃんと脱力しながら、ソキはまだ混乱しきる頭を落ち着かせようと、ロゼアにすりすり体を擦りつけた。世界で一番安心できる、大好きな腕の中。どきどきをおさめて落ち着いた様子になったソキに、ロゼアが心配そうに問いかけてくる。
「ソキ、どうしたんだ? ……まだ、すこし顔赤いけど」
「う、うぅ……ソキにもねぇ、ちょっと分かんないんですよ。でも、お熱じゃないです大丈夫ですロゼアちゃん」
だからあんまりその、触ったりしないでいいです、と言う間もなく、ロゼアのてのひらがソキに触れてくる。頬に、額に、首筋に、熱と鼓動を確かめるように触れ、落ち着かせるように、ゆるりと撫でて行く。ソキはきゅぅ、と目を閉じてロゼアの肩に頭を預けた。今までと変わらず、その手はソキに安心をくれた。あたたかくて、きもちよくて、落ち着いて行く。それなのに。胸の奥がきゅぅと痛んで、どきどきして、泣きそうになる。触らないで、と、もっと触って、という矛盾した気持ちが溢れそうになる。どうしようソキどうなっちゃったんですか、と涙ぐみながら、ソキは何事か考え込んでいるロゼアに、ぎゅぅと抱きついた。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん」
「ん? なに」
「ソキねえロゼアちゃんだぁいすきなんですよ。昔からずーっと好きなんですよ」
昔からずっと好きで大好きで恋をしていてどきどきしていたのに。それも間違いないのに。なんだかちょっとおかしい気がする。うー、うぅーっとむずがって呻くソキの頭を撫でながら、ロゼアは肩を震わせて笑った。
「ありがとうな、ソキ。俺もソキが好きだよ」
「……うん」
胸の奥が痛い。うれしくて、うれしくて、でも、いたい。なんでですか、と思いながら考えるソキを抱き上げたまま、ロゼアはさて朝ご飯食べに行こうな、と部屋を出て行く。そのまま階段に差し掛かった所で、ソキはハッとして顔をあげた。
「ロゼアちゃん、ソキあるくです」
だから下ろして、と足元に視線をやるソキに、ロゼアはにこっと笑った。なんだか、機嫌が良さそうな表情だった。にこ、と思わず笑いかけるソキに、ロゼアはさらりと言い放つ。
「今日はだめ。……どうしてもっていうなら、保健室行って、ちゃんと治療してもらって、起きて良いって許可出たらな」
「……なんでです?」
昨日一日目を覚ましもしなかったからに決まってるだろう、と言いたげな微笑みを浮かべ、ロゼアはやぁんやぁんともぞもぞするソキを抱きなおし、食堂へ歩いて行った。
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