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 二人掛けのソファが机を挟んで向かい合わせに置かれていた。メーシャと向かい合わせになるように座ったリトリアの隣に、食堂からお茶を運んで来たストルが腰かける。慣れた手つきであたたかい紅茶をカップへ注ぎ、ストルはそれをリトリアの前へ置いた。ふっと持ちあがった漆黒の瞳が、リトリアを覗き込むようにして笑う。
「熱いから、気をつけて」
 震える手を胸元に押しつけるようにして、リトリアはこくん、と頷いた。ストルは微笑みを深め、メーシャと己の分をカップへ注いで行く。柔らかな花の香りが空気を染め上げていた。す、と心地よく喉の奥まで吸い込んで、リトリアは淡く笑う。たぶん、偶然だろうが、嬉しかった。香りで分かる。リトリアの好きな紅茶だった。そっとカップを持ち上げ、ふう、と息を吹きかけてくちびるを付ける。喉を滑っていく液体はやや熱い。カップを戻し、くちびるに指先をあてて、リトリアはけふん、とちいさくむせた。ふう、と傍らから溜息が響く。びくりと身を震わせて顔をあげたリトリアのカップを、ストルが手元に引き寄せる。ころころと投げいれられた角砂糖の数は、二つ。それをティースプーンでよく混ぜたのち、ストルはカップをすこしだけ傾けた。あまい液体をほんのすこし、己のカップの中へ注ぎ入れ、減った分だけミルクを足してリトリアの手へ戻す。
「……気をつけて飲みなさい」
 また、声も出せずにこくん、と頷いたリトリアの頬に、カップから離されたストルの指先が触れる。導かれるように視線を重ねて、リトリアはきゅぅ、と胸を痛ませた。
「ストルさん……」
「うん? なんだ?」
 昔みたい、とリトリアは思った。まだ学園にいた頃。まだ、ストルがなにかとリトリアの世話をやいてくれた頃。その膝の上、その腕の中でまどろむのが日常であった頃と、同じ目で、ストルはリトリアを見ていた。やさしく慈しみ、この世のなにもかもから、リトリアを守ってくれる。そう、思わせてくれる、目だ。ふるえながらカップを受け皿に戻し、リトリアはソファに手をついてストルに身を乗り出した。その腕の中に抱き締めて欲しい。膝の上で甘やかして欲しい。いつものようにここへおいで、と呼んで欲しい、と。うるむ瞳で訴えるリトリアの頬を、ストルの指先が撫で下ろす。
「……リトリア」
 あまく、やわく、咎めるように。呼びかけ、ストルはリトリアの頭をそっと撫でた。それだけだ。腕は伸ばされない。おいで、と呼んでくれることもなかった。びくり、と思わず体を震わせ、リトリアは顔を赤らめて頷いた。だから、どうして勘違いしてしまうんだろう、と恥ずかしく思う。なんでちょっとやさしくされたくらいで、期待してしまうんだろう。じわ、と浮かんだ涙をまばたきで散らして、リトリアはそろそろとソファへ座り直した。カップを両手でもちあげ、ふぅ、と息を吹きかけて冷ます。こくん、と飲み込むミルクティーは甘く。もうむせはしなかった。
「あ、よかった。やっぱり熱かったんだね」
 真正面からかけられた声に、リトリアはふっと顔をあげる。そこには座った膝の上に肘をつき、にこにことリトリアを見つめてくるメーシャの姿があった。えっと、えっと、とやや混乱した思考を一生懸命動かして、リトリアはやっ、とちいさく声をあげる。ちょっとばかり、メーシャがいることを忘れていただなんて、そんなことは。傍らでストルが、額に指先を押し当てて深く、息を吐いたのには気がつかなかった。や、ち、ちがうの、ちがうの、と首をふり、赤くなりながら、リトリアはカップを机に置いた。
「ごめん、なさい……。あんまり、ストルさんがひさしぶり……だったから、あの、あの……ちがうの……。いっぱい見ちゃっただけなの……。ご、ごめんなさい、メーシャさんのこと、忘れていたわけでは……なくて、えっと」
 すぅ、と自分を落ち着かせる為に息を吸い込み、リトリアはぺこり、とメーシャに向かって頭をさげた。
「こんにちは。改めまして、はじめまして。楽音の国で王宮魔術師をしております、リトリア、と申します。大変失礼を致しました。あの、忘れて、くださいね……」
 メーシャさん、とどこか不思議そうにリトリアは名を紡いだ。それが本当に、名前があっているのか確かめたがっているのだと分かり、メーシャは明るい笑みでちいさく頷く。
「はい、メーシャです。リトリアさん。……なんだか、すごく優しい名前ですね。あ、っと、ひとみしり、ってストル先生から伺いましたが、俺のこと怖くないですか? 大丈夫ですか?」
 ストルさん、いったい教え子さんになにを話しているの、と瞬間的に涙ぐみながらも、リトリアはこくん、と頷いた。怖くは、ない。どう返事をすればいいのかよく分からなくなってしまうだけで。よかった、としあわせそうに笑ったメーシャが、クッキーの乗った皿をリトリアに押しやる。
「このクッキー、俺と同じ新入生のナリアンが作ったんですよ! とってもとってもおいしいので、食べてみてください。クッキー好きですか?」
「メーシャ、話の順番がおかしいぞ」
 好きなのか聞くのが最初だろう、とソファの背もたれにゆったりと体を預けて笑うストルに、メーシャが冗談めかした表情で怒ってみせる。
「俺だって緊張することぐらいあります」
「そうか。それは失敬」
 己の生徒をからかって遊んだストルの、やわらかな視線がリトリアに向けられた。どこか戸惑い、手を伸ばさないままでいるリトリアに、ストルはあまく笑みを深めて囁きかけた。
「……リトリア、ナリアンのクッキーは俺も食べたことがある。とてもおいしいから食べてごらん」
 リトリアはおずおずと手を伸ばしかけ、未だ焼けたような痛みを発する喉に指を折り曲げた。えっと戸惑うメーシャに、リトリアは咳をしないよう慎重に、喉に息を通して微笑んだ。
「あとで、食べても、いいですか……? いまは、お茶が飲みたいの」
「もちろんです。あ、じゃあ包みますね。持って帰ってください」
 おなかがくぅ、となった事実は、メーシャもストルも上手く忘れてくれたらしい。不思議がられなかったことにほっと胸を撫で下ろしながら、リトリアは己の体調をすこしだけ不安に思った。リトリアが学園で目を覚ましたのは昼前だ。そこで一度レグルスに回復してもらってから眠り、起きてからも時間が経過している。予知魔術を使った影響があるのかも知れないが、それにしても喉の痛みが引かない。胸の痛みが気持ちをざわめかせるのと同じように。じくじくと毒に蝕まれている。むせないようにゆっくり、ミルクティーを喉に通して行くリトリアの見つめる先、メーシャが無造作にクッキーの乗った皿を取りあげ、紙袋にざらりと流しこんでいく。半分ほど。メーシャ、とストルが教え子を呼んだ。
「俺の分はあるのか……?」
「俺と先生は、ナリアンに頼めばいつでも食べられるじゃないですか。……あ、リトリアさん。ストル先生は、学園に在学していた時から、甘いものが好きだったんですか?」
「……メーシャ、なにを聞いてるんだ」
 恥ずかしげにうっすらと顔を赤らめ、視線を彷徨わせるストルに、メーシャは紙袋の口を折り曲げながらにこっと笑った。
「なにって、俺の先生のことを」
 はいどうぞ、とメーシャは身を乗り出して、紙袋をリトリアの膝の上においた。ほっそりとした幼いゆびさきが紙袋を掴んだのを見て、メーシャはほっとしたように胸を撫で下ろした。ソファに座り直し、リトリアに向きなおる。
「リトリアさんなら、知っているかな、と思って。先生は恥ずかしがって、あんまり話してくれないですし……」
「話しているだろう」
「でも、甘いものが好きかとか、朝はちゃんと起きれてたのかとか、不得意だった授業のこととか、教えてくれないじゃないですか?」
 どの担当教員でも自分の生徒にそんなことは話さないだろう、と言わんばかりのストルの視線に、だからリトリアさんに聞いてるんじゃないですか、とメーシャはにこにこ笑っている。リトリアはそっと丁寧に記憶をさぐり、ゆったりと瞬きをしながら口を開く。
「……すとるさんは、ね」
 響く声はやわらかく、花の香のように空気を染め上げた。思わず、メーシャが意味の分からない恥ずかしさで息を詰める中、リトリアは瞳に至福をまどろませながら、歌うように囁いた。祝福のように。言葉が告げられる。
「あまいものが好きなの。朝は、時々ちゃんと起きられないの。ねむたそうにしていてね、でも、おはようございますっていうと、笑ってくれるのよ。ストルさんが……不得意な授業は……あったかな……?」
 すとるさんはね、あたまがいいの。とってもよ。勉強をおしえてくれたの、とあまい声で囁くリトリアに、メーシャはうん、と頷いた。
「それから? ……それから、ストル先生はどんな生徒だったんですか? 俺、先生のことを知りたくても、誰に聞いたらいいのかわからなくて、もしリトリアさんさえ嫌じゃなければ、もっとストル先生のことを教えてもらいたいんです」
 どんなことでもいいから、とはにかむメーシャは、純粋に師としてストルを慕っているのだろう。ストルは苦笑いを浮かべながらもメーシャの好きにさせていて、リトリアの言葉を止めるそぶりは見せていなかった。リトリアはええと、と戸惑いながら空になったカップを受け皿に置いた。指先がかすかに震える。
「どんな、生徒……か、は」
 やさしい、ひとだった。最初からストルは、リトリアに優しかった。入学前の適性検査で魔力を暴走させ、学園に来るまでの記憶を失ったリトリアを、あたたかく包みこんでくれたひとだった。ひどくされたことや、怒られたこと。冷たくされた記憶は、ほとんどない。あの時までは、一度として。悲しい時、寂しい時、辛い時、必ず傍にいてくれるひとだった。隣で笑っていてくれるひとだった。リトリアの服を選んで、靴をはかせて、髪を梳かしてくれたのはストルだった。季節ごとの花飾りをリトリアの髪につけては、かわいい、と囁いてくれたのはストルだった。初恋の衝動を。好きだと、その意志を、制御できない感情を、リトリアに教えたのは、ストルだった。切なさも、苦しさも。ぜんぶ、ぜんぶ、ストルだった。
「リトリア」
 なにもかも変わってしまった。なにもかも、やさしいものは、あたたかいものは、失ってしまったのに。その筈なのに。記憶と変わらないあまやかな響きで、ストルはリトリアの名を呼びかける。
「聞かせてくれないか」
 どう思っていたのか。どう感じていたのかを。求める視線を見つめ返して、リトリアはじわりと涙を滲ませた。痛みに軋む喉で息を吸い込む。
「ストルさんは……」
 けふ、と乾いた咳が零れていく。
「どうして、そんなこと、いうの……? うんざりする、っていった、のに……!」
 まばたきで、涙が頬を零れ落ちていく。リトリア、と呼びかけてくる声を拒絶して、ソファから勢いよく立ち上がった。膝の上に乗せていた紙袋が床に落ちる。それに視線を向ける気にもならない。
「わたしのことがきらいなくせに! どうしてそんなこというのっ!」
「――そんなこと、言いませんよ」
 静かな、声だった。
「俺の知っているストル先生は、そんなことを言うような人じゃないですよ、リトリアさん」
「いったもん……いった、もん……! わたしのこときらい、って。うんざりするって、あいたくない、って!」
 泣き叫ぶように告げるリトリアに、メーシャは静かな微笑みを浮かべて囁きかける。暗闇に惑う幼子に、家路を辿れぬ迷い子に。ただ見守ることしかできずとも、決して消えぬ、星のきらめきのように。
「リトリアさんが、嘘をついている、とも思っているわけじゃないんです。……ただ」
 ほら、顔をあげて、と囁くように。メーシャが視線を導いた先に、言葉なくリトリアを見つめる、ストルの姿があった。ただね、と涙を零すリトリアに、メーシャは困ったように告げる。
「リトリアさんの知ってるストル先生は、そういうことを、言うひと、だったんですか?」
 ちがう。反射的にリトリアは否定した。このひとはぜったいに、わたしに、そんなことをいわない。魔力がざわりと身の内で揺れ動くのを感じながら、リトリアは記憶がよみがえるよりはやく、感情だけでそれを否定した。ストルさんは絶対にそんなことを言わない。でも。言葉、が。
『うんざりする、と言っただろう。……嫌いだ、と』
 頭の中で、わん、と反響した。げほっ、と一度強く咳き込み、リトリアはストルがなにを言うよりはやく、その身をひるがえす。リトリア、と呼びとめるストルの声に縫いとめられるように足が止まり、怯えながら振り返る。
「なに……?」
「話をしよう。……怯えないでくれ、どうか。逃げないでくれないか、リトリア。教えて欲しい。なにが、そんなに不安なのか。なにをそんなに怯えているのか。どうして……俺が、そんなことを、言ったと思っているのか」
「リトリアさん」
 信じて。ストル先生は言ってない。そう、告げるようなメーシャの声に、リトリアは視線を彷徨わせて、そして。引き寄せられるように。メーシャの腰にあるホルスターに納められた、魔術師の武器。銃を、みつけた。
「……ストルさんの、銃」
 無意識に零れ落ちた言葉に、ストルが息を飲み、メーシャが目を瞬かせる。これのこと、と言わんばかり銃に触れるメーシャの手は、それを己のものと思っている慣れた雰囲気を持っていた。リトリアは返事をすることができず、ストルのことを見る。リトリアの記憶のままであれば、あるべき場所に、ストルの武器はなく。リトリアは一歩、その場から足を引いた。ソキはきっと知らないだろう。けれど、リトリアは知っていた。あの本は、あのとき、あのてがみといっしょにやかれてしまったけれど。なんどもなんどもよんだからちゃんとおぼえている。それは予知魔術師を殺す武器。その運命を背負う者の手の中にだけ選ばれる武器。メーシャの手の中にあるそれは、かつて、ストルのものだった。ストルがリトリアの運命だった。それを信じていた。それだけは、信じていた。
 最後の瞬間に目を閉じるのはこの人の腕の中なのだと。
「……うそつき」
 言葉が落ちる。感じているのが怒りなのか悲しみなのか、もう分からない。言葉がめぐる。頭の中を塗りつぶして行くように。たくさんのたくさんの言葉が、記憶が、かけ巡って。
『リトリア』
 あまく囁く声が告げたのが、偽りなのか、真実なのか。
『好きだ』
 もう、分からない。
「うそつき……うそつき、うそつき! ストルさんのうそつきっ……!」
 呼びとめる声を無視して、リトリアは走り去る。どこか遠くで、嘲笑う声が聞こえた気がした。



 茫然と見送ってしまったメーシャの傍らで、ストルが力を失ったようにソファに座りこむ。息を吐き出して目を閉じてしまったストルに、メーシャは反射的に問いかけていた。
「追いかけないんですか……っ!?」
 ゆるゆると開かれたストルの瞳は、仄暗い感情の色を帯びていた。そこから感じるのは、怒りにすら似たなんらかの衝動。声に詰まりながらも、メーシャは信じられない気持ちで息を吸い込んだ。
「どうしてですか……! 先生は……リトリアさんのこと、好き、なんでしょう? 特別なんでしょうっ?」
「だったら、どうする」
 ストルは、立ち上がろうとしなかった。ひどく苛立ったように指先を組み、目を伏せ、全身に力を込めて感情を抑え込んでいる。
「好きだったら? 特別だったら? ……どうしろと言うんだ、メーシャ」
「追いかけるべきです」
 切り捨てるような皮肉げな声に、ひるまず、メーシャはまっすぐな眼差しで言い切った。ふ、とストルが微笑みを浮かべる。幾分か普段通りのものに近い、教師として、生徒に向ける、理性的な顔。
「立場がある。……あの子を、慰めるのも、守るのも……もう、俺には許されないことだ」
「……それが?」
 許されない、とはなんだろう。誰にそれを許されないというのだろう。どうして、そんなものに、許し、が必要だと言うのだろう。悲しさと、怒りで、メーシャの感情が揺れ動く。熱くて、苦しくて、痛かった。それなのにひどく冷静な声が出た。
「そんなことが、なんだって言うんですか……! いま、まだ、手を伸ばせば届くのに、先生はどうして諦めてしまえるんですかっ……! 失ってからじゃ遅いんです。後悔すらできない。先生はまだなにも失っていないのに……!」
 あきらめないで、と心が叫んだ。どうかお願いだから諦めないで。走って行って手を伸ばして。いまならまだ間に合う。いましかもう、間に合わない。気を狂わせるような焦りが、メーシャの中で渦を巻く。魔力とは違う。星の意志とも違う。それでいてよく似たなんらかの意志、経験、言葉、記憶、が。遠くとおく、響いて、メーシャにそれを告げさせる。
「大事なのは……立場なんかじゃない。許されるとか、許されないとか、そんなの関係ないんだ……!」
 強い意志を宿した瑠璃の瞳に、藍白の星のような輝きが灯る。決して光を失わぬその意志を、こころを。
「ストル先生の気持ちが、どうしたいかでしょう……? どうするべきか、じゃなくて。どうしたいのか」
 魔術師たちは。
「このままでいい筈なんて、ないんだ。……ストル先生、お願いします。教えてください、言ってください」
 希望、と呼んだ。
「先生」
 星の光のように淡く、微笑んで。メーシャは己の師へ問いかけた。
「リトリアさんのこと、好きなんでしょう……?」
 ストルはメーシャの視線を見つめ返し、ふ、と自嘲するように口元を歪めた。
「――うんざりする」
「え……?」
「うんざりするほど、リトリアを、愛しているよ……!」
 だんっ、と床を踏んで立ち上がり、講師室の鍵をメーシャに投げ渡して、ストルは部屋を走り出ていく。その背が誰を追いかけたのか、言われずとも分かった。会話を打ち切りたくて部屋を出て行ったのではないことを、一瞬だけ見えたストルの顔からうかがい知る。理性的な講師の顔ではなく、穏やかな王宮魔術師の面差しでもなく。ストルはただ、男の顔を、していた。メーシャはソファに崩れるようにして腰を下ろし、赤らんだ顔に両手を押し当てた。息を吸い込んで、吐き出す。
「あ……いしてる、って、はじめて、きいた……!」
 言葉として聞いたことはある、もちろん。けれどもあんな風に、全ての意志、感情を乗せて叩きつけるように告げられた本気の言葉で、響いたのを耳にしたのは初めてのことだった。気恥ずかしさと共に、嬉しいような、わくわくするような気持ちで、メーシャは弾む胸に手を押し当てた。いつか、メーシャも、あんな風に。誰かに愛しさを告げる日が来るのだろうか。落ち着くために紅茶に手を伸ばし、ぬるまったそれで喉をうるおす。不意に、会いたいな、と思い浮かんだ年下の先輩たる少女魔術師の姿に。なぜかひどく動揺して、メーシャはけふん、と紅茶にむせた。



 走ったせいでまた咳き込み、苦しくて動けなくなっていたのだろう。涙を浮かべながら口元を手でおおい、しゃがみこむリトリアの姿は、講師室からそう離れることなく見つけることが出来た。ほっと息を吐きながら歩み寄ると、びくんっ、と全身を震わせてリトリアが視線を持ち上げる。すとるさん。声なく綴った花色の唇に、僅かに血がにじんでいた。すとるさん。震えながら囁き、リトリアがむずがるように首を振る。
「ごめんなさい……ごめんなさい、だいじょうぶです。すぐ、すぐ、よくなるから……」
「リトリア」
「ほ、ほんとうなの。だから心配しないで、ストルさん。めいわく、かけない、から」
 いう間にも乾いた咳を繰り返すリトリアの傍らに、ストルは膝をついてしゃがみ込んだ。リトリア、と呼びかける。じわじわと涙を浮かばせた瞳から、ころりと、涙が零れ落ちた。
「よば、ない、で……」
「どうしてだ」
 指先を伸ばして、涙を拭ってやる。次々と溢れてくる涙に触れるストルの指を、そのぬくもりを、リトリアは拒否しようとはしなかった。しゃくりあげながらストルのことを見つめる瞳が、怯えながらも淡く、恋に染まっていく。すきなの。あなたがすき。瞳で、触れる指先にあまく震える肌で、力を失っていく体で。全身でそう告げながら、リトリアはストルに向かって両腕を伸ばした。
「……期待しちゃうから」
「期待?」
「うん……」
 おいで、と開かれた腕の中に体を寄せて、リトリアは泣きながらストルの胸に顔を伏せる。
「やさしくしないで、抱きしめないで……撫でないで、呼ばないで……!」
「リトリア」
「わたしのこと、きらいなくせに……やさしくしないで……やだ、やだぁっ」
 こんなのやだ、やだ、と泣きじゃくるリトリアを抱き寄せて。ストルは溜息をつきながら、ぽんぽん、と背を撫でてやった。甘えながらすがりつく全身が、抱きしめて、と告げている。抱きしめて、撫でて、いつものように。名前を呼んで、やさしくして。好きって、いって。離さないで傍にいさせて寂しかった。会いたかった。リトリア、と名を呼ぶと怯えるように震える身体が、逃げようとする。目を閉じて泣きながら、掠れた声が、きらいにならないで、と囁き告げた。きらいにならないで、いいこにしてるから。いいこにしてるから、やさしくしないで。きたいしちゃうから。おねがい。もうやさしく、しないで。おねがいストルさん、おねがい。淡く甘く繰り返す声に、深く息を吐き。
「――分かった」
 そう、一言告げて。ストルは強く、リトリアを抱く腕に力を込めた。その体がどこへも逃げていかないように。優しさはなく。痛みすら与えるであろう、強い力で。

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