右の前髪を巻き込みながら頭の後ろまで編み込まれた細い三つ編みに、学園の保健医のひとりたる男レグルスは、手が込んでいるな、としみじみ感心した。相手が女性であったのならそうは思わなかっただろうが、たった今、不機嫌な顔をしてレグルスが椅子に座り向き合う机の上に、ばさりとばかり書類を投げ渡した相手は男性である。レグルスより年齢は一回り以上下ではあるが、白魔術師ならば誰もが一定の敬意を持って向きあわずにはいられない男。白魔法使い、フィオーレそのひとだった。学園に来る前に、正装でなければいけない用事で動いていたのだというフィオーレは、連れだって現れたレディと共に、やけにきらびやかな印象の魔術師の正装、それも儀礼用のものに身を包みこんでいた。
正装は基本的に、その魔術師の髪色に合わせた布地で作られる。レディが着るそれは薄い薄い砂の色にも見える黄色に、金糸で細かい星空を模した刺繍のなされた星降の魔術師の礼装。フィオーレがまとうものはたっぷりの白を混ぜ込んだ桃色の布地に、火のような赤で植物模様の縫い付けがされた砂漠の魔術師の礼装だった。魔術師たちの最高位、ある意味ではその適性を持つ魔術師たちの長である二人がこうした礼装に袖を通す機会は意外なほど、多い。ひどい時は月の半分ほどを礼装で出歩かなければいけない為か、フィオーレもレディも非常に着なれて堂々としていたのだが、それでも二人がその服のまま、学園を訪れるなど今までなかったことだった。着替えなければ学園を訪れてはいけない、という規則がある訳ではないのだが。殊更己の魔力量に上限がないのだ、と示すその服を、二人はあまり好んではいない。
なにか、まだ、着ていなければいけない用事があるのだろう。礼服の時には必ず髪を編んでひえた花の香りを漂わせる男の、強張った面差しから不機嫌と苛立ちを感じ取りながら、レグルスは投げてよこされた書類を整え、どうした、と問いかけた。灰緑色の、二色が混ざり合わず溶け合わず、ただ不思議にゆらゆらと濃淡だけを変える特殊な瞳が、怒りと、悲しみ、後悔と、苦しさをよぎらせ、レグルスを見た。ともに入室してきたレディは、疲れきっているのだろう。部屋の隅にある一人用のソファに身を沈めたまま、目を閉じて動こうとしていない。眠っている訳ではないとレグルスは知っている。罪のあがないのように。周期的にしか、レディはそれをすることができない。怒り震える声で、白魔法使いが告げる。
「……俺たちはなんで気がつかなかったんだろう、と思って。いや、気がつかないようにされてたから、気がつかなかっただけなんだけど。さすがは、リィだよ。もうさすがとしか言いようがないね。発想とやり口が俺とまるで一緒だもんな……!」
「フィオーレ。なんの話だ」
「リィの話だよ。リィの体調、その悪化が著しくて回復も遅い、その理由の話!」
嘲笑う声の響きで吐き捨て、フィオーレは口唇に力を込めた。ふるふる、首が横に振られる。己を落ち着かせる為にだろう。肺のあたりに手を押し当てて深呼吸を繰り返すフィオーレに、レグルスは念のためだが、とそれを問うた。
「リトリアのこと、でいいのか? お前は在学時代から時々……本当に稀に、彼女のことをそう呼ぶが」
「……ああなに、気がついてたの。俺も気をつけてあんまり呼ばないようにしてた筈なんだけど」
感情が荒れるとどうしてもだめだね、と相手の息の根を止めたがる物騒な光の宿る眼差しで、やわらかな微笑みを浮かべ、フィオーレがレグルスの目を見つめる。ごく慎重に、なにかを探り出そうとする視線。好きにさせてやりながら、レグルスは静かに、首を横に振った。
「なにか理由があったとしても、俺はそれを知らん。……落ち着いてくれ、白魔法使い。我らが最高位。リトリアの体調について、なにか分かったんだろう?」
「うん。……うん、そう。わかった。わかったよ……分かるように、なったからね」
ごめんなさい八つ当たりした、落ち着く、と苦しげに告げながら、フィオーレは眼差しでレグルスへ渡した書類を読むように告げた。それはここ数年の、リトリアの健康管理書類をひとまとめにしたものだった。レグルスも何度も目にしたことのある、それ。ぱらぱらとめくりながらこれがどうした、と眉を寄せるレグルスに、フィオーレの指先が伸ばされる。とん、と指先が置かれたのは折れ線でグラフが描かれたひとつの図だった。体重の推移、と書かれている。学園にいた二年前、十三から、卒業したのちの十五歳までと、王宮魔術師になってからのここ数ヶ月のものが、細かい管理記録として残されていた。大きな変化はないが、ここ最近は不安定に、上下に揺れているのが分かる。これがなんだ、と問うレグルスに、フィオーレは苛立って舌打ちをした。
「まだ分かんないか……それと、見えてない? レグルス」
「見えていない……?」
「いい、わかった。説明するより、俺が解いた方が早い」
いうなりフィオーレは、レグルスの眉間に指先を押し当てた。色をつけるなら、白。際立って白い魔力が、レグルスの目元を中心に流しこまれて行く。驚くレグルスに動かないで、と告げ、フィオーレは肺の奥まで息を吸い込んだ。ひややかな声が、世界へと告げる。
「『痛みと共に紡がれたいつわりの夢よ。花開く悲鳴の揺りかごよ。俺はその痛みと悲鳴を消し去る者。遠く、遠くへいつわりは運ばれる。響き続ける悲鳴はやがて消え、まどろみを見つめ続ける瞳はまことの世界を取り戻す。痛みも、悲鳴も、悲しみも、消えていく。消えろ、もうそれは必要ない……!』……レグルス、目をあけて。それでもっかい、図、見て」
これがリィが、リトリアが、俺たちに隠し続けていたものだよ、と告げる声に、レグルスはいつの間にか閉じていた瞼を持ち上げた。淡く藤色に揺らめく透明なきらめきが、空気に溶け消えていくさまが見えた。リトリアの、魔力だ。まばたきをしながら息を吸い込んで、レグルスはフィオーレが指先をとん、と下ろす紙に目を向ける。体重だけが書かれていた筈のグラフに、身長の推移を表す表示が増えていた。まるで、たったいま、新しく書き加えられたかのように。予知魔術を使った隠蔽にぞっとする思いを感じながら、レグルスはそのグラフを見つめ、なんだこれは、と低く呻いた。記録されているのは二年間の変化。そうである筈なのに。
リトリアの身長も、体重も、ほぼ水平な直線が引かれているのみだった。揺れ動くのは体重だけで、身長は一ミリたりとも変化がない。二年間。十三から、十五になる少女であるのに。なにも変わっていない。フィオーレ、と名を呼び説明を求めるレグルスに、白魔法使いは痛みを堪える顔つきで、淡々と言葉を告げた。
「俺が二年前からの記録を引っ張ってきたのは、ここからが一番分かりやすかったからだけど……その前も合わせて見ると、明らかな異常だって誰でもわかると思うよ。二年前まではちゃんと、身長も伸びてたし、体重も増えてた。成長期の女の子らしくね。……身体的な成長が完全に止まったのは、今から約二年前……ストルと、ツフィアが、卒業していなくなって、すこしした、四月くらいから」
「リトリアちゃんが、ストルさんとツフィアに嫌われちゃったの、なんて……信じられないことを言いだした頃よ」
掠れた声で囁かれた言葉にレグルスが振り返ると、ソファの上でレディが目を開いた所だった。眠れないまま、荒れる意識を宥めていたのだろう。つくりたての金貨めいた艶やかな瞳に、ざらざらとした感情が浮かび上がっている。
「たぶん、きっかけはそれで、時期はそこから。……そうでしょう? フィオーレ」
「間違いないと思うよ。やってるリトリアは無意識かも知れないけど……無意識、かつ、意識的に、リトリアは自分の成長を完全に停止させてる。それに加えて、誰もそれを不審に思わないように、不思議がらないように……意識操作、認識阻害、かな。それを、たぶん、ずっとやってる。体調の悪化が早い筈だよ。そんな状態で、しかも精神不安定で、耐えられる訳なんてないだろ……!」
「私たちがいま、それをおかしい、と気がつけたのは、それだけリトリアちゃんの体調が悪い証拠。元々、魔力総量のすくない、とされている予知魔ですもの。無意識発動にまで手が回らなくなって……いわば、鎖が緩んでいるのね。だから正常に、認識できる。問題はこの認識がいつまで保てるか、だけど……おかしいと思った記憶を含め。そのあたり専門家としてはどうなのフィオーレ?」
意識操作と認識阻害、記憶消去ならあなたおてのものでしょうと嘲笑うように告げたレディに、フィオーレは苛立った舌打ちを響かせた。
「さあ、どうだろうな。俺はここまで体調悪くなったことなんてないし。誰かさんと違って」
「なにそれどういう意味なの燃やすわよ」
「……落ち着いてくれないか、魔法使い」
ややうんざりしたように天井を仰ぎ見たレグルスを間に挟み、フィオーレとレディはうふふあははと笑いあっている。礼装を着なければいけない用事は、よほど二人の機嫌を損ねるものであったらしい。おまえ、いつかぜったい、こがす。やってみろよ、できるもんならな。微笑みの間に意志を投げつけ叩きつけ合った二人は、やがて唐突に脱力した。立ち向かわなければいけない現実というものの存在を思い出してしまったらしい。あああああ、と呻きながら前髪を乱すフィオーレの右手の小指には、見慣れぬ指輪が輝いていた。くたりとソファに顔を伏せるレディの耳にも、レグルスの知らない耳飾りが揺れている。ふたつとも、なにか魔力を帯びているようだった。魔術具かなにかなのだろう。
「というか、リトリアちゃんはなんで戻って来ないの? 食堂にココア飲みに行っただけって言わなかった?」
終わらせちゃわないと何時まで経ってもこの礼装脱げないじゃないと溜息をつくレディに、フィオーレは全く同意見だとばかり頷き、レグルスが眉を寄せる。確かに、行って帰ってくるにしては時間が経ちすぎていた。もちろん、学園にはリトリアがひとみしりせず話せる相手もいるだろうが、彼らには授業というものがある。それをサボらせてまで引き留めるような性格ではないので、戻って来ないのにはなんらかの理由がある筈だった。まさかどこかで気分悪くなって動けなくなってたりしないわよね、とソファから立ち上がったレディに歩み寄り、フィオーレがぽん、と肩を叩く。なによ、とまだ不機嫌そうに眉を寄せるレディに、フィオーレはおれいやなよかんしちゃったんだけどきいて、と灰色の声で囁いた。
「……もしかしてストルにみつかっちゃったんじゃないかなって」
「かえっていい? わたしもう星降にかえっていい? それでもうなにも考えずに引きこもっていい? 五ヶ国の陛下方にはあとでごめんなさいってちゃんと言うから! 言うからああぁああっ!」
「俺だってそうしたいけど! よく考えてレディ! リィ……リトリアが! ストルが傍にいて万一なんていうか二人きりで! 学園にいた時みたいにおひざ抱っことかしてもらってたとして……!」
それはかつて、学園の風物詩のようなものだった。リトリアの定位置はストルの傍、というか膝の上で腕の中、というのが在学のかぶるありとあらゆる魔術師に通じるくらいはそんな感じだった。甘やかさないでと言っているでしょう、とストルを怒るツフィアの姿も同じく。あれで本当にになんで嫌われちゃったとか言ってるのかほんと理解できない、いやストルとツフィアが卒業してからというものの一度も手紙やら祝いのカードやら服やら靴やら髪飾りやらを贈って来なくなってリトリアちゃんが出した手紙にいっさい返事をしなかったせいだと思うけどっ、と混乱しつつ、レディはこくりと頷き、もらっていたとして、とフィオーレの言葉の続きを促した。フィオーレは達観したまなざしと、抑揚の乏しい灰色の声で告げる。
「ストルが無事にリトリア帰してくれると思う? おれぜったいむりだとおもう」
「……いいことを教えてあげるわ、フィオーレ」
うふふ、と笑いながらレディはソファから立ち上がった。お花畑に精神を逃亡させた笑みだった。
「ストルは、私と出身国が同じなの。砂漠の国出身。……全員がそうとは言わないけど、私たちって基本的に、独占欲超強いのよね」
「う……うん……? いま知りたくはなかったかな……?」
「教えてあげるわ、フィオーレ。砂漠の男はね……?」
ふ、とレディがひどくひどく遠い目をした。
「好きな女の子を部屋に監禁するくらいなら普通にする。うん。ふつうにする。べつにおかしいことじゃない。ふつう。なんでふつうかわかるかっていうとわたしむかしやられたことがあるからだけど、それに対する詳しい状況説明やらなんやらは全力で拒否するわ」
「……レディ、誰にされたの?」
一応、それだけは聞いておかなかければと思ったのだろう。責任感すら滲ませる声で問いかけたフィオーレに、レディはなまあたたかい笑みのまま、かつて学園に在籍していた、ひとりの魔術師の名を告げた。レディの『鞘』であった魔術師。かつてのストルの親友であり、そして。レディの夫たる男の名を。うん、とフィオーレはやさしく頷いた。
「さばくのふつう、こわい……あと俺はまだ! 小数点以下くらいで存在しているかも知れない! ストルの好きが妹的なアレとか娘的なアレとかそんなかんじの可能性を信じてるからっ!」
「じゃあなんで走ってるのよ待ちなさいよ私も行くっ! というか! あなたそれなりにストルと親しいのだから、いやストルはそんなことしないよ監禁とかまさかそんなあはは、とか否定してみせなさいよおおおおっ!」
ばたばたばたばた、慌ただしい足音が廊下の彼方へと走り去っていく。あっという間にいなくなった魔法使いたちの背を眺め、レグルスは静かに、しっかりと、頷いた。嵐のようだった、というか。恐らくふたりは、冬の大嵐である。間違いない。溜息をついて、レグルスは保健室の扉をしめた。