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 おはなしがあるです、とソキがくちびるを開いたのは、星降城下から馬車が滑り出すように道をかけ出してすぐのことだった。それがまだソキやロゼアに声をかけてくる顔見知りや、先輩たちのいる『学園』や、星降の城下町に立っている時には、どうしても、どうしても告げることのできない言葉だった。はなしをしよう、と思うだけでも泣きだしそうに気持ちが震える。ひどくいけないことをしているような、そんな気持ちになった。それはきっと、ふつうのおんなのこ、ならしないことで。求めないことで。がまんしきってしまえることで。でもソキにはもう、どうしても、どうしても我慢ができないことだったのだ。
 窓を開け振り返れば、まだ乗り合い所が遠目に見えるだろう場所で、まだ市街地を出てもいない距離で、そう切り出さずにはいられないほど。ソキはもう限界だったのだ。自分ではじめたことなのだけれど。最高級の、恐ろしい程にふわりと体を支える座面に腰を落ち着けるよりはやく囁かれた言葉に、ロゼアはうん、と頷きを返してくれた。そのまま、ロゼアは正面に腰を下ろしたソキに微笑みかけ、頷いて言葉を待ってくれる。常にある通りの、記憶にある通りの、決して変わらないやわらかな眼差し、仕草、態度、声の色に、ソキはじわじわと泣きそうになり、緊張で指先の体温を失っていく。こんなにいっしょなのに。こんなに変わらないのに。皆も、ロゼアも、もう『傍付き』ではないというのだ。ソキのロゼアではないのだと。だからふつうにならなければいけないよ、と言葉で、あるいは声にされずとも、まわりがソキに求めていることをもう知っている。
 ふつうに。ふつうの、おんなのこに。あるいは、ふつうの、ひとみたいに。ロゼアに頼り切りではなく、ひとりで立って歩いて考えて。自立、しなければいけないよ、と誰もがソキに求めている。元『花婿』たる兄、ソキの担当教員たるウィッシュだけは、そんな周囲にごく僅か眉を寄せ、反発するようにそっと囁いたことがある。どうしてもって言うなら、俺たちはそれをした方がいいんだけど。ソキ、ソキ、俺のいもうと、『砂漠の花嫁』。その中でも最優のと囁かれ呼び謳われた『花嫁』。そう整えられつくり終えられてしまった俺たちは、もうどうしたってそういう風にはなれない。だから。でも。真似することはできるよ。まわりをよく見て。皆がしてるように。皆がしてることを。真似することなら俺たちにもできる。
 考えや言葉や仕草や、日常の、ほんの些細なこと。ひとつひとつ。見て、覚えて、あてはめて、真似をする。ソキ、俺にはもうフィアがいなかったから、誰も俺の『傍付き』を咎めなかったけど。ソキがもし、じぶんのことで、ロゼアになにか言われるのがもうほんとのほんとにヤなんだったら。ロゼアの為にそう育てばいいよ。俺たちはそれならできるよ。だってずっとずっとそうしてきただろ。『傍付き』の求めるまま、導かれるままに成長してきた結果がいまだよ。だから、そうするだけ。ほんのすこし、違うだけ。ロゼアの為だ、と思って。ふつうのまねをして。ふつうのふりをして。そうする為の努力をすごく、すごくして。がんばろうな。だいじょうぶ。俺にはできたよ。ソキにもできるよ。だいじょうぶ。
 それができるからこそ。ウィッシュは『花婿』と呼ばれ、ソキは『最優の花嫁』とされたのだ。だから、ソキにだって、ふつう、はできるのだ。そうする為にすごくすごく努力しなければいけなくて、今もまだ、なにもかもがたどたどしく、拙いのはどうしようもないことなのだけれど。ソキにだってふつうはできる。だからソキがもう、ひとりだちできないことについて。ロゼアが誰かからなにか言われたり、怒られたりする必要なんて、ないのだ。ぎゅう、と手を握って、もじもじとそれをしきりに組み換え、ソキは胸の中の言葉を拾い上げることができないでいた。だって、それはきっと、ふつうじゃない。『学園』で見知ったふつうは、ふつうのおんなのこは、きっとたぶん、ロゼアに、そういうことをお願いしたりしないのだ。
 けれども。『学園』はおやすみで。そこで出会ったひとたちも、今は傍にいなくて。ソキは、これからロゼアと『お屋敷』に帰るのだ。その休みが、その不在が。その、二人では決して戻ることのできなかった楽園、花園への帰りみちが。ソキから言葉を、響かせていく。
「あのね……」
 すきなの。すきです。ロゼアちゃんがすき。すきすき。すき。だいすき、だいすき。あなただけ。ひとりだけ。ロゼアちゃんが、ソキはずっと、ずっと、好き。大好き。恋をしている。恋しい。
「あの、ね……」
 けれども。それを。言うことは。できない。好き、なら言える。言っている。何度でも何回でも繰り返し告げている。でもそのすきは、『花嫁』のすきで。『花嫁』には、ソキには、それを言ってしまうことがどうしてもできないのだ。恋告げるのは裏切りだ。『傍付き』に対する、『花嫁』の裏切り。しあわせになってと遠くへ、とおくへおくりだしてくれる、その為に育ててくれる彼らに対する。なによりの、どんなことよりひどい、決してしてはならない、裏切り。『花嫁』として完成された心に、授けられた教育が囁く。それは裏切り、それは罪悪。その言葉を決して告げてはならない。すきも、だいすきも、だいじょうぶ。でもそれが恋だと言ってはいけない。決して、決して、絶対に。
 でも。もし。そう告げたとして。
「……あのね」
 ロゼアは、『傍付き』は、『花嫁』に恋をしないので。ロゼアをしあわせにできるおんなのこに、ソキはなれないのだけれど。この恋が、どこへいけないことも。報われないことも、ソキはちゃんと知っている。分かっている。その恋をした瞬間から。ふつうになりたかった。ふつうになればロゼアはもう怒られない。ふつうの、おんなのこに、なりたかった。そうすれば。そうなれれば。きっと。
「んと……」
 この恋が受け止めて微笑んでもらえる日が来るのかもしれない、と思って。そのたびに否定して。ソキは、また、その言葉を飲み込んだ。息を吸う。ふるえるほどの恋を胸の奥に沈めて。ふつうにならなければいけない、という焦りと。ふつうになればもしかしたら、という期待を。深く深く、心の奥に沈めてしまって。何度も、何度も迷いながら、またくちびるをひらいた。どれもこれも、本当に、真剣に、思っていることなのだけれど。それでも『花嫁』として、ソキは、もうほんとうのほんとうに、限界だったのだ。ろぜあちゃん、と呼びかけるソキに、ロゼアはうん、と頷いて言葉を待ってくれている。常にそうであったように。ロゼアはずっとソキを待ってくれている。なにも変わらない。『お屋敷』にいたあの日々と、同じ。
 なにも変わらないようであったから。ソキはようやく、震える意思をなだめすかし、ようやく、吐き出す息に、言葉を乗せた。
「ろぜあちゃん、あのね……。あのね、あのね。おねがいが、あるですよ……」
「うん、いいよ。なに?」
 体温を失った指先に、ロゼアはそっと息を吹きかけ、暖めようとしてくれた。緊張ですぐにつめたくなってしまうソキの指を、ロゼアは大事に繋いで、触れてくれている。馬車の中はどうしているものか、暖炉の前の空気を巡らせているような、やや熱い空気がやわやわと巡り循環していたが、十二月の底冷えのする寒さだ。熱が指先に戻るには、もうすこし時間がかかるだろう。ロゼアの手指は暖かい。じわじわとした熱を指先に感じながら、ソキはうるむ瞳でロゼアのことを見つめた。いつもいつも、こうして、たくさんのものを、ソキはロゼアから奪ってしまうのに。それはきっと、ふつうなら、ないことなのに。ロゼアはソキから離れようとはしない。
 そのことが、ふるえるほど、しあわせだとおもう。ソキの為にたくさんのものを奪われて、それでも、傍にいてくれようとした。それでも、傍にいてくれたロゼアという存在そのものを。しあわせだと思う。ロゼアは、ソキの、しあわせだ。しあわせをそこへ残して。『花嫁』は嫁いで行く。ソキはあわく微笑み、くちびるをひらいた。
「ソキね。ソキね……流星の、夜からね。ずっと、がんばってたです」
 ひとりでなんでも、たくさん、できるようになったですよ。告げた言葉に、ロゼアは苦笑しながらも、そうだな、と頷いてくれた。それに、んと、と呟いて。ソキはいっぱいに満ちた気持ちをどうすることもできず、声に詰まって言葉を彷徨わせた。もしも。ひとりでできること、がふつうで。それをロゼアがとても喜んでいたとしたなら。ソキの望みは叶えられない。せつなく胸が痛んだ。その望みが叶えられないことがあるとしたら、ソキはいきていけない。いきてなんていけない。いまはまだ。どうしても。そうすることができない。
「……えっとね」
 ロゼアは、ソキの言葉を待ってくれていた。やさしい眼差しで、微笑みで、手を繋いだままで。ソキの冷えた指先では、てのひらがつめたくなってしまうのに。
「ロゼアちゃん……」
 そのねつが、どうしても。
「ロゼアちゃん、あのね……あのね、あのね」
 ほしい。
「あのね……」
 そのなかへかえりたい。どうしてもどうしても。
「……ロゼアちゃん。おやすみなんですよ」
「うん。そうだな」
「だからね、ソキね、ソキね……ソキもね、ちょっとだけね、おやすみなんですよ。だから……だから、えっと、あのね……あのね」
 かえらせて。
「だっこして……?」
 その腕の中にかえりたい。
「ぎゅってして、ロゼアちゃん。だっこして? ソキ、ひとりでがんばるの、おやすみするですよ……」
 いいよ、という声が聞こえた気はしなかった。それより早く伸びてきた腕がソキを座面からさらい、あたたかな熱の中へ抱き寄せてくれる。はぁ、と深く、満ちた吐息が耳元に触れた。
「……ろぜあちゃん?」
 それはきっと、ふつうなら。ふつうの、おんなのこ、なら、のぞまないことなのだけれど。それでも叶えてくれるのは、どうしてなんだろう。ぱちぱち、目を瞬かせて考えかけて、けれども胸一杯に満ちる幸福に、なにもかも分からなくなる。しあわせだった。うれしかった。ロゼアがソキを抱き上げてくれた、『花嫁』と呼んでくれた日から、その瞬間から、ずっと。ソキのしあわせはロゼアの腕の中にある。体の力をぜんぶ抜いて、ソキはすりすりすり、とロゼアに甘えて、くっついた。
「――……ソキ」
 ロゼアのてのひらが、ソキの頬をそっと撫でてくる。眩暈がしそうなくらい、しあわせなのに。泣きそうになって、ソキはすん、と鼻をすすりあげた。声を震えさせながら、ちいさく首を傾げて問いかける。
「あまえてもいい、です?」
「いいよ」
 きゃあ、と思わず歓声をあげて、ソキはロゼアの首筋にしがみつくように、ぎゅぅ、と腕に力を込めて抱きついた。すりすりすり、肩口に頬を擦りつけてあまえて、ろぜあちゃんろぜあちゃん、と呼ぶ。
「あのね、あのね。ソキがんばったんですよ。でもね、あのね、ちょっとだけね……」
「うん」
「……ちょっとだけ、さびしかったの……ろぜあちゃん、ろぜあちゃんっ。ソキうれしい、うれしいです……!」
 だっこしていっぱいだっこして、ぎゅぅってしてなでて、いっぱいなでてねえねえろぜあちゃんろぜあちゃんっ、すきすきだいすきだぁいすき。ふあふあふあふあ響く上機嫌な声で囁くソキに、ロゼアの手がそっと、背を撫で下ろしていく。はぁ、と息を吐き出して、ソキはロゼアの腕の中で目を閉じた。この腕の中へ、このねつのなかへ。『花嫁』は、ソキは、どうしても、どうしても。かえりたかった。
 ずっとずっと、かえりたかったのだ。



 とろとろと、体中を包み込み暖めていた熱に、ふ、と冷気が触れた。あわい息を吸い込んで、まぶたを持ち上げる。
「ろぜあちゃ……?」
「ソキ」
「ろぜあちゃん、ここ、どこ……? ばしゃ、ない、です……?」
 ふあぁ、とあくびをしながら視線を巡らせる肩ごしの景色は、眠ってしまう前に見ていたものとは異なっていた。ソキから見えたのは琥珀色に艶めく木で組まれた天蓋と、そこから垂れ下がる真白い何枚もの紗幕である。ふわふわの寝台に身を半分だけ沈めながら、ソキはやぁん、とむずがってロゼアの腕の中へ体をすり寄せた。ぽんぽん、と背を撫で抱き寄せて、ロゼアは宿だよ、とソキに告げた。星降の、国境のひとつ手前の都市。その、宿屋の中だよ。眠たげに瞼を落としかけるソキの髪を撫でながら、ロゼアはゆったりとした声で囁き、笑った。ぎ、と体重を乗せられた寝台が軋む。
「ねむいな、ソキ。いいよ、寝てて……おやすみ」
「ろぜあちゃんは……ろぜあちゃん、おやすみ、するです……? ろぜあちゃん、おやすみしないでしたら、そき、おきてる……」
 だからはなしちゃやです、やぁですよソキはやだっていってます、と頬をぷぅっと膨らませてねだると、ロゼアはうん、と頷いてくれた。するする、指先で髪が撫でられる。首筋に手が押し当てられ、頬を撫で、額に触れ、髪がまた梳かれて行く。はぅ、と心地よく息を吐き出して、ソキはロゼアの腕にくたりと体を預けてしまった。すりすりすり、と頬を擦りつけて甘える。
「ろぜあちゃ……だっこ、して」
「うん。してるよ。……ああ、それで起きたのか」
 馬車から降りる時も、街を歩く時も、宿に到着して手続きなどを済ませる時も、ソキはロゼアの腕に抱きあげられたまま、しあわせにくうくうと眠っていた。体中の力がふにゃりと抜けきった、無警戒の眠り。それが途切れたのは、ロゼアが抱く腕から寝台にソキを移そうとしたからだ。ごめんな、と笑いながら、ロゼアはソキを抱いたまま寝台に寝転ぶ。ソキはひどく眠たげな様子でロゼアの服をつかみ、ふあふあした声でささやいた。
「ろぜあちゃん、ぎゅぅってして、おやすみって、して……?」
「うん」
 いつも学園でもしてるだろ、とは、ロゼアは言わなかった。だっこ、も別にしていなかった訳ではないからだ。抱き上げて移動はしていた。特に最近は、ソキの体調不良が多かったので。それでも移動と、純粋に甘えるのでは、違うのだろう。ねむいですねむいです、とうとうと不満げに目を細めるソキの体をやわらかく抱き寄せ、ロゼアはその背を撫でおろした。ぽんぽん、と触れながら、告げる。
「おやすみ、ソキ。……良い夢を」
「……うん」
 しあわせで、しあわせでたまらない微笑みを浮かべて。ソキはすぅ、と息を吸い込んで瞼を下ろした。すぐにあどけない寝息が響き始める。ロゼアもあくびをしながら、紗幕を結ぶ紐に手を伸ばし、ぐっとひっぱって結び目をほどく。衣擦れの音を響かせながら寝台を覆う幕の内側で、ロゼアは眠るソキの体が冷えてしまわないよう、抱き寄せ、毛布を肩までしっかりとかけて。ほどなく、瞼を閉じて、息を吸い込んだ。



 あたたかくて、きもちよくて、しあわせで、ずっとずっと離れたくない。ふぁ、とあくびをしながらすりすり頬を擦りつけるソキの髪を、ロゼアの手が慣れた仕草で撫でて行く。くてん、と頭を肩口に乗っけて、ソキはふにゃふにゃと息を吸い込んだ。
「ロゼアちゃぁん……」
「うん?」
「んっとぉ……えっとね、あのね。あのね」
 ねむいねむいですけど、でも朝なのでソキ起きるんですよ、おきるですぅ、とぐずった声で何度か囁き、ソキはふあぁ、とあくびをした。朝である。星降の国境を目指して移動中に立ち寄る、いくつめかの都市。もう一つ移動すれば、そこは隣国との国境となるが、最短距離で移動するとなれば、ひとつ前の都市から国境までは別の街道がしかれている。ここへ立ち寄るのはソキのようにゆったりとした旅路をしなければならないものか、この都市そのものに用事がある者に限られているから、街全体の雰囲気はどこか穏やかで、落ち着いていた。
 ソキはロゼアの腕のなかでまだうとうととしながら、わざわざこの都市に立ち寄った理由を思いだそうとした。別に、ソキの体調が最短の移動に耐えきれないだけ、ではなかったような気がするのである。んっとおぉ、と思いだそうとするソキの背をゆるゆると撫でながら、ロゼアは宿の者になにかを告げて荷物の大部分を預け、受付前から離れていく。ラウンジの隅、ふかふかのソファにすとんと腰をおろしても、ロゼアの腕のなかにいるソキにはなんの振動も伝わらなかった。思考を乱す足音すら、ひっそりと封じられて、響かない。傍付き特有の身のこなしに、ソキはふあ、と幾度目かの、安心しきったあくびをした。
 旅をはじめてから数日。ロゼアの腕の中は本当にきもちよくであたたかくてしあわせで、あんしんして、意識がとろとろと溶けてしまう。昨夜も別に夜更かしだったという訳ではなく、ロゼアにぴっとりくっついてぎゅっとしてもらってたくさん撫でてもらって、それですぐに寝た筈なのだが。うゆー、とむずがりながら目をこするソキに、ロゼアがこーら、とやわらかな響きで囁いてく。
「こすったら駄目だろ、ソキ。……ねむい?」
「ちがうですぅ……ソキ、ロゼアちゃんと、かんこう、する。するです……やぁんや!」
 ぺちぺちぺちっ、と寝かしつけようとするロゼアの背を叩きながら、ソキはぱちんと目を開いてそれを思い出した。そうなのである。ソキはロゼアと一緒に、この都市に、かんこう、をしにきたのだ。きゃああそきろぜあちゃんとかんこうするぅーっ、とはしゃぎきった声でほわほわふわふわ宣言し、ソキは苦笑しているロゼアの額に、己のそれをぴとっとくっつけた。
「ロゼアちゃん?」
「うん。なに、ソキ」
「……やん。ロゼアちゃんロゼアちゃんー!」
 きゃあきゃあろぜあちゃんっ、きゃっきゃっ、と額をくしくしすりつけて、頬をぴとっとくっつけてあまえ、首筋に腕を回して体をくっつけて、ソキはふすんっと鼻を鳴らした。その二秒後、はっとした顔でソキはふるふるふる、と首を振る。ちがうですちがうですロゼアちゃんにあまえるので忙しいですけどでもでもそうじゃなくてご用事あったんでしたっ。やんやんと慌てながら視線を持ち上げて、ソキはぎゅっと手を握り締め、気合いいっぱいにロゼアの名を呼んだ。
「ロゼアちゃん! ソキね、んっとね、メーシャくんの教えてくれたね、星のかたちの飴のおみせ、いくです!」
 こういうのでね、こういうのでね、こんぺいとうっていう名前なんですよ、と身ぶり手ぶりで一生懸命説明するソキに、ロゼアはうん、と頷いてくれた。店の位置だけは、ロゼアもメーシャに聞いて知っている。ソキも一緒に教わっていたのだが、未だ地図が読めないソキひとりでは、そこへ辿りつくこともできないのである。なにせソキは地図が未だに読めないのだ。長期休暇前になないろ小路に行った時も、ソキは地図をじーっと見つめ、同行してくれていたハリアスとメーシャにあげてしまった。分かる人が持っているのがいちばんなのである。学園までの旅路で、ソキの手には地図があった。それを見て確認しながら、ソキは旅を進めていた、のも本当のことなのだが。ソキは地図の上に現れる、光輝く矢の示す方向へ進んでいた、だけで。別に地図を読めた訳ではなかったのだ。
 当然、どこそこの、なにが目印で、という説明を下されても、ソキには上手く理解できない。理解しないように言い聞かせられ、教育される。その証拠に、メーシャの言葉を笑顔で聞くソキの返事は、そうなんですかー、だった。明らかに聞き流していた。メーシャも初めから、主にロゼアに対して説明していたので、なんの問題もなかったといえばなかったのだが。今も、んと、んと、どこでしたっけ、メーシャくんどこにお店あるって言ってたでしたっけ、とうにゅうにゅ考えるソキに、ロゼアが微笑みながら教えてくれる。
「『天文通り』にある?」
「あ、そうです! てんもん、どおり、です!」
 でもその通りが、どこにあるのか、とか。この宿からどう行けば辿りつけるのか、とかいう大事なことを、ソキはちっとも分からないので。ソキはにこにこ笑いながら、ロゼアにぎゅぅっと抱きつきなおした。
「ねえねえ、ロゼアちゃん? ソキ、その、こんぺいと、のお店に、行きたいです」
「うん。いいよ、行こうな」
「……んと、んと。あとね、えっとね」
 もし駄目じゃなかったらでいいんですけど、とちいさな声で、ソキはロゼアの耳元で囁いた。
「ソキをね」
「うん」
「ぎゅってして。だっこして、連れてって……?」
 あ、でもでもロゼアちゃんが、ソキひとりで歩けるの頑張ってほしいですとかそういうのならソキちゃんと歩けるですだいじょうぶなんですよっ、と慌てていうソキに、ロゼアは微笑みながらうん、と頷いて。ソキの腰を抱きなおし、ひょい、とばかりに立ち上がった。ぎゅぅ、と一度その場で抱きしめ、ぽん、と背を撫でた後に歩きだされる。頬に触れ、首筋に押し当てられた手が、額を撫でるようにしてから髪を梳いて行く。足音のない歩みと、体調を確かめる仕草。懐かしさに心から息を吐き出しながら、ソキはあれ、とぱちぱち目を瞬かせた。
「ロゼアちゃん?」
「うん? どうしたんだ? ソキ」
「……だっこして、連れてってくれるです?」
 ひとりであるけって、いわないの。ふつう、を、がんばろうな、って。ソキに、ふつうになろうなって、いわないの。不思議がる気持ちが胸に生まれて、唐突に、ソキはそれに気がついた。あれ、と目を瞬かせる。そういえばロゼアは、ソキに、ひとりで歩こうな、とか。普通みたいに頑張ろうな、とか。言ったことがない、ような気が、したのである。あれ、と首を傾げて考えるソキの髪が、指先でそっと撫でられていく。流れて行く景色を腕の中から見つめながら、ソキはこっそりと、ねえねえロゼアちゃん、と囁いた。
「ロゼアちゃんは……ソキ、だっこ、するの……や、じゃない? です?」
「うん」
「……んん?」
 くてん、と首を傾げて。ソキはもうちょっと考えようとしたのだが。撫でる手が心地よく、さわり、頬に触れて行く風があんまり気持ち良かったので。つい、うとうとと目を閉じて、淡い眠りに意識をまどろませた。ソキ、とロゼアが囁き呼んで。天文通りについたよ、とその人通りの多い、活気に満ちた場所で微笑んでくれるまで。



 白く塗られた外壁に、黒一色で作られた棚が天井まで続いている。棚にはソキの手にも収まってしまうちいさな小瓶がいくつもいくつも並べられており、淡い色合いで作られた、星屑の形をした砂糖菓子がいれられていた。瓶にはその味を示す為に、だろう。いちごや、りんご。ぶどうや、薄荷の葉などの彫り込みがなされ、愛らしくもうつくしい。細い路地ほどの幅しかないちいさなちいさな店内に、ソキのきゃあきゃあはしゃぐ声がやわやわと響いて行く。黒塗りの棚には、どの段にも、ぎっしりと愛らしい小瓶と菓子が並べられている。いちばん上の棚はソキの手の届かない高さで、けれどもそこまで視線を向けるには、まだまだ時間がかかりそうだった。店内にはほの甘い香りが漂っている。
 ひとつの棚の前にちょこっとしゃがみ込み、ソキはんっと、えっとぉ、と首を傾げ、悩みながら、どの味にするかを考えていた。おひとつどうぞ、と試食でりんごの味がするこんぺいとうを貰って、それがとってもとってもおいしかったのだ。特別なものではない。あまい砂糖と、それに付与されたりんごの味がするこんぺいとうだった。純粋で、まじりけがなく、ほのかに温かみを感じさせた。ソキはちいさな編み籠を両手でもちながら、りんごと、ももと、ヨーグルトと、ぶどう、と瓶に書かれたこんぺいとうを見比べた。淡い色合いの可愛らしい砂糖菓子は、薄く細く差し込んでくる陽光にきらきらと艶めき、本当の星の欠片を閉じ込めたかのようにも思える。
 どれも、きっと、とてもおいしい。んん、とソキは心底困りきって首を傾げた。ソキには『学園』に入学する時に、兄レロクが砂漠の国からふんだくった専用の預金口座があるので、特にお金に困っている、ということではなく。このお店にある品物をまるごとぜんぶ買ってしまうことだって出来るのだが。問題はそういうことではなく。瓶は小ぶりでちいさくて、とてもとても可愛らしいのだけれど。ソキにはきっと、ひとつか、ふたつくらいしか、持ち歩くことが出来ないのである。ソキにはきっとちょっと重いので。ソキは、鞄にアスルを詰め込んでからのびたんばたんと転びまくった旅路を思い出し、むううう、と眉を寄せて考えた。アスルがいなくても転んだとかそういうつごうのわるいことはおもいださないことにした。
 りんごが好きなのである。でも、ももと、ぶどうも好きだし、よーぐるとも、すごくすごく好きで。きゅぅん、と喉を鳴らして、ソキはそーっと視線を、棚のひとつ上の段に持ちあげた。真白のこんぺいとうには、ミルク。透き通る黄色のものには、レモン、とかかれていた。これほしい。でもそきもてない。
「ソキ」
「ぴゃあぁあ!」
 耳を掠めるように囁かれた、あまく優しい笑い声に、ソキはぴょこっと飛びあがって口を両手で押さえた。ちいさな店内には幸い、ロゼアとソキ以外の客の姿はないので妙な視線を向けられることはなかったのだが。
「……驚かせたか? ごめんな、ソキ」
 どきどきする胸を両手で押さえて、ソキはふるふるふる、と首を横に振った。名前を呼んでくれる声が、なんだかあんまり優しく響いたので。驚いたのも本当なのだけれど、なんだか。しあわせで。うれしくて。胸から指先まで、じん、とした。
「ん、と……。ろぜあちゃん、なぁに?」
「うん。どれが欲しいんだ?」
 じわじわと目を潤ませるソキの頬に、ロゼアの手が触れて行く。頬を撫で下ろし首筋に触れ、額と髪にも。あたたかな手が触れて行く。その手にきゃっきゃとじゃれつきながら、ソキはえっとぉ、とほわほわに響く声で言った。
「ヨーグルトとね、ももとね、りんごとね、ぶどうね、どれにするかね、ソキ、考えてるです」
「うん」
 聞くなり、ひょいひょいひょい、とひと瓶ずつを取りあげて、ロゼアの手がソキの足元に置いてあった編み籠に、それを投げいれて行く。編み籠を持ち上げたロゼアは、そのままソキが眺めていたミルクとレモンのこんぺいとうに、サイダー、と書かれた淡雪のように白いこんぺいとう、みかん、紅茶、花梨、薄荷、と書かれたものもひと瓶ずついれて行く。どれも、ソキがほしい、と思いながらも悩んで、諦めかけていた味ばかりだった。ソキがとびきり好きな、いちごはふた瓶、籠の中に転がされる。あ、ライチもある、と呟きながらひょいとふた瓶追加したロゼアの腕を、ソキはハッとしてくいくいとひっぱった。
「ろ、ろぜあちゃ……! ソキ、持てない……!」
「うん。俺が持つから心配しないでいいよ」
 はい、ソキはこれ食べような、と試食用にもらっていたであろうミルクのこんぺいとうがくちびるに与えられる。ソキが目をぱちぱちさせながら、あれっ、と思っている間に、ロゼアは会計を済ませてしまってた。てちて、てっ、ちっ、と久しぶりに、危なっかしくひとりで歩いて、ソキはロゼアの背にぎゅぅっと抱きついた。
「ろぜあちゃん、だぁいすきですぅ……!」
「うん。俺も好きだよ、ソキ」
「ソキ、あとでメーシャくんにお手紙書くです。ふた瓶あったですから、お手紙と一緒に、ひとつ、ライチの、メーシャくんにあげていいです?」
 このこんぺいとうのお店を教えてくれたのは、メーシャである。お礼をしたいのだった。そのつもりだよ、と頷くロゼアに、ソキはきゃあぁと歓声をあげた。やんやんさすがはロゼアちゃんですぅ、とおなかに手を回して背中に好きなだけすりすりすりすり甘えてなつき、ソキはとろとろのしあわせ笑顔をふりまいた。会計を終えたロゼアはこんぺいとうをまとめて鞄にしまい込み、ソキの体をやんわりと抱き寄せた。首筋に腕を回すと、ひょい、と体が抱きあげられる。ロゼアにぴったりと体をくっつけてから、ソキは店内を振り返り、奥にいた店主にぺこんと頭を下げた。
「こんぺいと、おいしかったです。ありがとうございました。ソキ、だいじに食べるです」
「ありがとうございました。また、来ます」
 ソキが積極的に礼を告げるのは、『花嫁』時代から考えても珍しいことだった。よほど気に入ったんだろうな、とばかり礼を告げたロゼアの目が柔らかく笑う。またのおこしをお待ちしております、と店の奥から老いた男の、穏やかな声が響く。ふたりは一度だけ振り返って笑顔を浮かべ、もう一度ぺこり、と頭を下げて道の先へと歩き出した。こんぺいとう屋があるのは、『天文通り』と呼ばれる大通りに面した、細い路地の奥だった。ひっそりとした道を通り抜ければ、元のざわめきに溢れた場所へ戻っていく。ゆるやかに続く坂の両端に、様々な店が軒を連ねていた。
 さて次はどこの店を見ようか、と考えるロゼアの腕の中で、ソキはふと、なだらかな坂の上を仰ぎ見たる。自然と、ロゼアの目もそれを追いかけていく。天文通り。その名の通り、星降が誇る天文台へ続いて行く大通りのことである。坂を登り切った場所には白亜の城壁に囲まれた別荘のような、優美なつくりの建物がそびえている。丸屋根の、どこか可愛らしい雰囲気の棟がいくつも連なったつくりの建物は、一般に開放された観光場所と、占星術師たちが泊まりがけで作業をする研究棟に分かれている、とのことだった。
 星降の王宮魔術師のみならず、他国の魔術師、『学園』に在籍する生徒も、時折そこに招かれる。ただし、占星術師だけが。『学園』で魔術師たちは、その天文台をこう教わる。世界にたったひとつ存在する、占星術師たちの聖域。けがされぬ星の館。いつかメーシャも、そこへ呼ばれる日が来るのだろう。ロゼアにぴと、と体をくっつけながら、ソキがわずかに瞳を陰らせて息を吸い込む。ソキ、と訝しくロゼアが名を呼んだのを合図にしたように、花色のくちびるが、そっと言葉を吐きだした。
「ソキ、あそこへ行ったことあるです……ここにあったですね」
 『花嫁』として、ソキは四カ国の様々な都市へ赴いた。旅行、と呼ばれるそれは花嫁の顔見せであり、嫁ぎ先の候補者たちの品定めだ。ソキは実によく旅行に行かされた。その脆いつくりの体が悲鳴をあげるまで。ソキが泣き狂い、ロゼアちゃんのそばにいるもうやだおそといかない、と訴え熱を出して寝込んでしまうまで。ソキは最優の『花嫁』だった。そしてソキの実兄であるレロクの、前の当主は、その最優を金銭を稼ぐ道具として、この上なく重宝した。怒り狂ったレロクが、当主から屋敷の運営権を半分簒奪してしまうまで、それは続けられた。案内妖精がソキの元を訪れた時、白雪の国に呼ばれていたのもその旅行でのことだ。レロクの意志ではない。その半分の権利を持つ前当主が、断らせない方法でソキを連れ出させてしまった為だった。それが、若君、と呼ばれるレロクを激怒させたらしい。
 ソキが屋敷に戻った時、レロクは半分ではなく全権を握っているようだった。時折、ソキの元に舞いこむ屋敷からの手紙でも、それはうかがい知ることができた。だからこそ、ソキはロゼアと一緒に砂漠の国へ帰省する、と決めたのだ。前当主が屋敷にいるままであったなら、ソキは頑なに行かない、と言い張っていただろう。ロゼアも連れて帰ることは、決してすまい。それほど、心穏やかではいられない、相手だった。その者に命ぜられて繰り返した旅行であるから、ソキは基本的にその間のことを口にしない。ロゼアが、そのことを聞いたのはも、ほとんどはじめてのことだっただろう。ソキ、とロゼアが名を呼びかける。いやなら、もう宿へ戻ろうか、とロゼアが告げる間際だった。
 ソキは、その天文台をまっすぐに指差した。坂の上、道の先。人々が行きかうその先を。
「ロゼアちゃん、ソキ、あそこへいきたい」
「……天文台?」
「うん。ソキ、ロゼアちゃんと天文台、行きたいです。お昼でもね、お星さまがね、たくさん、見られるんですよ。とってもとってもきれいです。すごいんですよ。ねえねえ、ソキ、あそこへいきたいです。ロゼアちゃんと行きたいです。ロゼアちゃん、ろぜあちゃん、おねがい……!」
 ソキと一緒に天文台へ行って、とねだるソキの言葉に、ロゼアはすぐ、うん、と頷いてくれた。いいよ、行こう。静かな歩みで、ロゼアがソキを抱き上げたまま、なだらかな坂道を上っていく。その腕に体を預けてしまいながら、ソキはいつか見たその建物を、ふるえるような気持ちで仰ぎ見た。魔術師たちが、けがされぬ星の館、と呼ばれるその建物は、抜けるような青空の元にその身を晒し。ただ、ただ静かに眠りについているように、見えた。

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