お昼でも星がみえる、とソキが告げた意味を、ロゼアは天文台に足を踏み入れすぐに理解したことだろう。建物の内部は、一面の黒で統一されていたからである。柱に等間隔に灯される火の明りがなければ、漆黒の闇の中へ突き落された、とも感じるに違いない。そこへ宿されていたのは夜だった。穏やかに塗りつぶされ、それでいてそこかしこでひそひそと声をひそめた楽しげな囁きが聞こえてきそうな、わくわくと心弾ませる祝祭の夜。その夜の、漆黒だった。一瞬、脚をとめて立ち止まったロゼアの腕の中で、ソキはうっとりと目を細めながら息を吐き出す。
「だいじょうぶですよ、ロゼアちゃん」
「うん。……ソキ、ソキ」
本当に、と眼差しで問うてくるロゼアに、ソキは肩に頬を擦りつけるようにして頷いた。ソキは夜が怖い。ごく正確にするのなら、明りの灯されていないくらやみ、というものをとても怖く思っている。そのことをロゼアがちゃんと忘れていなかったことが嬉しくて、ソキはゆったりと瞬きを繰り返した。それだけで、どうして、泣きそうなくらい胸が満ちてしまうのだろう。しあわせなのに。うれしいのに。気持ちを落ち着かせる為に、胸一杯に息を吸い込みながら、ソキはここは怖くないんですよ、と囁いた。この天文台に満ちているのは、夜であって闇ではない。ソキを連れ去り、閉じ込め、壊して粉々にしたあの日々の、七日間の、闇ではないのだ。
ロゼアはソキをじっと見つめたのち、駄目そうだったらすぐに帰ろうな、と言い添えて、トン、と靴音を響かせた。ロゼアがソキを抱きながら、足音を立てるのはひどく珍しい。建物に入るよ、という合図も兼ねたのだろう。周囲にいる観光客と、それを入口から第一の間まで連れて行く案内係の、心地いいざわめきを聞きながら、ソキはゆるゆると視線を持ち上げ、天文台のつくりを瞳にうつす。棟と棟を繋ぐ廊下は、硝子作りで光を取りこみ眩いくらいであるが、建物それ自体はなめらかな黒が床から壁、天井までをも覆い尽くしていた。時折、ふわり、黒の中に光が灯る。星明り。眠りに落ちた星の瞬き。囁くように輝き揺れる光点は、まさしく、夜空に広がる星そのもののようだった。
いくつもの棟が群れなすつくりの、その入口から各棟への分かれ道となるのは、廊下を渡った先にあるひとつめの部屋だ。受付で飴玉ひとつ分程度の、ほんのささやかな料金を支払い、ある程度の人数がまとまった所で案内役の女性がこの部屋へと導くのだ。女性は十数人の観光客の中で、ロゼアとソキに目を止めると、あら、と言わんばかり好意的に笑った。以前なら分からなかっただろう。けれどもソキには、なぜ女性がそうしたのか分かった。案内役の女性は、魔術師である。受付に座っていた少女も、物珍しげに目を瞬かせて微笑んだだけで、なにも言わなかったけれども。同朋の訪れを喜ぶ占星術師の、あたたかな歓迎の魔力が、ふわりと空気に滲みでて、輝く。星のひかりのようだった。とてもとても、綺麗な、導きの灯のようだった。
ロゼアとソキと共に、分岐点となる部屋へ立ち入った者たちに向け、案内役の女性が説明を語り出す。
「この天文台はどの建物、どの部屋も夜空を模した黒で統一されており、埋め込まれた石が星のように光ります。この入口の棟と合わせて、皆さまに解放された棟は五つ。流星の夜の王都の空、春、夏、秋、そして冬の星空を見ることができる作りになっております。どうぞ、星のまたたきに耳を傾け、きよらかな時をお過ごしくださいますように」
説明が終わるとひとりにひとつ、火の代わりにほの甘い輝きだけが封じられた灯篭が手渡されて行く。足元に気をつけて、と囁きながら差し出されたそれを、ソキはロゼアにぎゅっと抱きついたまま、ふるふるふると首を横に振って断った。ソキ、ロゼアちゃんが持ってくれてるので、いいです。それともひとりで立って、歩いた方がいいのだろうか。ロゼアをちらりと見上げると、なに、とばかり微笑みが返される。なんでもないです、とぴと、とくっつきなおし、ソキはロゼアが受け取った灯篭を見つめた。魔術師であるなら、誰もがすぐに気がつくだろう。それは魔術具だった。火の代わりに封じられているのは、光属性で編まれた灯りだろう。
火のようにゆらゆらと揺れているから、注視しようと、魔力を持たない者にはきっと分からないのだが。ソキも以前、訪れた時には、分からなかった。ような気がする。んー、と興味深そうに灯篭を注視するロゼアの腕に、絡みつくように両腕を伸ばして。くいくい、とあまえるように引っ張りながら、ソキはおぼろげな記憶に触れ、それを囁いた。
「建物もね、ロゼアちゃん。一緒なんですよ……ぜんぶ、ぜんぶ、魔術具なんです」
「……全部?」
「柱も、壁も、床も、天井も……全部魔術具で作られてるです。床で、星が光るのも、ぜんぶ。光ってるのは、いま生きてる、魔術師の守護星です。魔術師として目覚めると、一緒に、ここのどこかで星が目を覚ますんですよ。それまでね、ずぅっと、眠ってるです……」
だからソキのも、ロゼアちゃんのも、ナリアンくんのも、メーシャくんのも。みんな、どこかで、もう光っているんですよ。やや驚いた視線を向けてくるロゼアに告げながら、ソキは静かに息を吸い込んだ。かつてこの場所を訪れた記憶はおぼろげで、どう感じたかまでは覚えていない。けれども魔力を感じなどはしなかった筈だ。いまは、違う。群成して建つ各棟から、おびただしい程の魔力を感じていた。数十人、もしかすれば三桁にすら及ぶであろう魔術師たちの魔力が織り込まれ、そら恐ろしいほど精密に整えられ、ゆったりと建物を巡っている。魔力は、ぜんぶ、占星術師さんのものですよ、とソキはロゼアに向かって囁いた。
かつて案内役が、なぜかソキにだけ、そっと告げて教えてくれた言葉を。あわい思い出の中からひとつひとつ、丹念にひろいあげて、くちびるに乗せた。
「この、けがされぬ星の館に、魔力を灯して占星術師は一人前だって聞いたです。……ロゼアちゃん?」
どうかしたですか、とちょこんと首を傾げるソキとロゼアの周囲に、いつの間にか誰も居なくなっていた。それぞれ、目当てとする棟を見に行ったのだろう。ロゼアはソキになんでもないよ、と告げたあと、珍しく言葉に迷うようすでいや、と口ごもった。
「それは……『学園』で教わったこと?」
「ちがうです。まえに……来た時に、んと、ソキだけ、そぉっと、教えてもらったんですよ」
『学園』で教わるのは、この館がけがされぬ星の館と呼ばれ、占星術師はいつか必ずそこへ招かれる、ということだけだった。もしかすれば占星術師たちにはもうすこし詳細な説明がなされるのかも知れないが、適性のない魔術師に与えられる知識は、基本的にはそれだけである。ソキも、『学園』で教わった知識はロゼアが持つものといっしょで、もしかすればそれよりすくないくらいだった。体調不調で座学の欠席が続いたソキは、同年入学の三人と比べて、魔術師の基礎的な知識にすら遅れが出ている。だからこそ、ロゼアはそれが不思議だったのだろうか。じっと見つめてくる赤褐色の瞳に、ちょっぴりドキドキしながら、ソキはあのね、とやや早口で言った。
「りょこのときにですね、んと、『同行』のひとと、候補のひともいたですけど、ソキだけなんでかね、ちょっとおいでってね、案内のおんなのひとがね、ちょっとだけ離れてね、それでですね、んと、おじいちゃん、みたいなひとがですね、ソキにね、教えてくれたんですよ」
「この館のこと?」
「もっかい来る時までだぁれにもないしょって言われてたです。だからソキ、ないしょないしょで、あんまりちゃんと覚えてないようにしてたです……んん? もっかい、来たですから、ロゼアちゃんにないしょにしてなくて、もうだいじょぶです……?」
ふあんふあんとしたったらずにあまく響くソキの声は聞きとりにくいだろうに、耳元でささやかれながら、ロゼアはすこしくすぐったそうに笑うだけで、聞きかえすことも意味が通じないことも、ないようだった。ソキは遠い記憶を手繰り寄せ、ようやく長い旅をひとつ終えたような、穏やかに落ち着いた気持ちで、ふぅと息を吐き出した。
「ねえねえ、ロゼアちゃん」
「うん? なに、ソキ」
こてり、と肩に頭を預けて甘えながら、ソキは幸福そうな声で囁いた。
「ソキ、夏の棟に行きたいです」
「うん、いいよ。行こうな」
「ソキね、そこのお星さまがいちばん……いちばん、好きなんですよ。ロゼアちゃんに見てもらいたいお星様がね、あるです」
ふわり、空気が揺れ動く。足音も振動も響くことのない守られきった移動に、ソキはうっとりと目を閉じながら身を任せていた。どんなにか、この幸福を望んだことだろう。ロゼアの腕の中は、ソキのしあわせそのもので満ちている。二人は灯篭のあかりを頼りにしながら、ゆっくりと、またたく星の、夜の海を渡っていく。それは流星の夜のようだった。歌声で星を下ろしたあの日を、どうしても思い出させた。ソキは頬をロゼアの肩にすりつけ、ゆっくりと瞬きをした。ひとりで歩かない魔術師を、星はもしかしたら怒るかもしれないけれど。あの日からずっと、ずっと、ソキは頑張っていたのだ。もうすこしだけ。もうちょっとだけ。せめて、砂漠の『お屋敷』につくまでの、この旅の間は。もうしこしだけ、しあわせを、許してほしい。
やがて、ふたりは夏の夜空が封じ込まれた一室に辿りつく。真冬の風が通り過ぎる外とは、季節が間逆であるからだろう。広々とした空間に、人影はごくわずかだった。部屋には不規則に一人掛け、あるいは二人掛けの椅子やソファが置かれており、手元を明るく照らす出す器具も用意されていた。ここで本を読んだりすることもできるつくりだ。ロゼアはそのひとつ、ふかふかのソファを選び、そこへ腰を落ち着けた。ソキはロゼアの腕の中から離れないままで膝立ちになり、んと、んと、と記憶を探りながら夏の夜空に視線を彷徨わせる。あの星はどこで輝いていただろう。あの星。おぼろげな記憶の中でたった一つ、鮮明に輝く、あの。
砂漠に沈む夕日のように、赤く光っていた星は。
「あっ……! あれ! あれです! あのお星さま……!」
「うん? どれ」
「きらきらしてるの、赤いの……!」
星の名も、星座の名前も、分からない。『学園』でいくつか教わった気がするが、流星の夜前後に体調を崩してしまっていたせいで、結局はうまく覚えることができなかったからだ。それを、覚えていいことだと、まだソキが思えなかったからだ。星は砂漠の民の方角の導き。だからこそ『花嫁』は星を教わることができないし、それを許されないのだ。輝きを頼りに帰って来られないように。くらやみに脚がすくんで立ち止まってしまうように。ただ星に捧げる歌だけを、ソキは知っている。うつくしい歌と、そして。星座にまつわる、ロゼアが語り聞かせてくれた物語、だけを。ロゼアちゃん、ねえねえ、あのお星さまですよ、と部屋の高くをまっすぐに指差して。ソキはみて、とロゼアに告げた。あれがね、ソキね。あれをね。
「ソキね、あれね、ろぜあちゃんだと思ったです! いちばんさいしょにみたときにね、ろぜあちゃんだって、おもったんですよ! ソキ、あのおほしさまがいちばんすきです。それでね、ろぜあちゃんがね、一緒だったらいいなって思ったんですよ。ロゼアちゃんはお星さまに詳しいでしょう? だから、わからないソキより、ずっと、ずぅっと、楽しいと思ったです。ねえ、ねえ、ロゼアちゃん。あのお星さまをね、ソキ、ロゼアちゃんに見てもらいたかったです。ソキの、いちばんだいすきなおほしさまなんですよ……!」
いつか、嫁ぐ日が来たら。あの星に歌を捧げようと決めていた。ひとめ見た瞬間、ロゼアの星だ、と思ったその輝きに。
「ソキ」
不意に。腰を抱く腕にぐ、と力が込められた気がして、ソキは天井高くにあげていた視線を、ロゼアの元へと戻した。なんですか、と首を傾げるよりはやく、ロゼアの腕が持ちあがって、星空の一カ所を指し示す。
「あれが、分かるか? ……一番強く、輝いてる星。あれが、北極星」
「……ロゼアちゃん?」
「ソキ。北極星がある方が、北、だよ。背中が南。右手が、東。左手が、西」
こっちが西で、こっちが東な、と言いながら、ロゼアはソキの手を握って微笑んだ。なにを告げられているのかうまく飲み込めず、白く震えるソキの指を暖めるように。包み込むように握って、ロゼアは柔らかく微笑みがらソキの目を覗き込んでくれた。ソキ、ソキ、ソーキ。大丈夫だよ、大丈夫。もう、俺が、教えてあげられるよ。大丈夫、ソキ。怖いことはなにもないし、怖かったらぜんぶ俺が守ってあげるから。囁かれて、ソキは、こくんと頷いた。星の名前と、方角を、ほとんどはじめて、ちゃんと覚える。繋いだ手にきゅぅと力を込めて、ソキはゆっくりと息を吸い込んだ。
「ろぜあちゃん……ロゼアちゃん、もう、ソキに、お星さまを教えてくれるですね……」
「うん」
「誰にも、怒られない……?」
星の名前、星座の形。方角を知る術。そのきっかけとなる些細なことですら、ソキにもたらされればそれは、ロゼアに対する叱責となった。だからソキは決してそれを覚えようとしなかった。理解しかけても、かたくなにそれを無視して、それ以上は考えなかった。いつもいつも、ソキのせいで、ソキのために、ロゼアが怒られたからだ。すん、と鼻をすすって尋ねるソキに、ロゼアは笑いながら頷いた。大丈夫。怒られないよ。
「ロゼアちゃん……!」
「うん?」
「ソキ、うれしいです……! とっても、とっても、うれしいです……!」
ソキはもう『花嫁』ではない。ロゼアも、もう『傍付き』ではない。一緒に星を数えられる。どこへでも行ける。すくなくとも、自由が許されたこの旅の間には。どこへだっていっしょに行ける。どんなことだって、知ることはもう、許されているのだ。ぎゅうぅ、と抱きついて喜ぶソキの背を、ロゼアの手が優しく撫でて行く。ぽん、ぽん、と落ち着かせるように触れながら、ロゼアはソキに囁きかける。
「ソキの星も、教えてくれるか……? 魔術師の守護星」
「ソキの……? ソキのね、あれです」
うっとりと目を細めながら顔をあげ、ソキは迷わず、ひとつの星を指差した。暗闇で眠る星の中、あまく白く輝くひかりがある。
「スピカ、です。ハリアスちゃんが教えてくれたですよ」
「そっか。……真珠星」
「うん。あれね、ソキのお星さまなんです……ねえ、ロゼアちゃん。あれは?」
満天の星空のように。流星の夜のように。よろこびに満ちて輝く瞳で、ソキはロゼアに問いかける。
「あれは? あれは? ねえねえ、あれは……?」
それに、ロゼアはひとつひとつ、丁寧に言葉を告げていった。飽きることなく。部屋に輝く星の全てを、語り終えてしまうまで。
朝から昼の前まで、あるいは昼をすこし過ぎた頃までを観光についやし、馬車に乗って次の都市へ移動する。都市に到着する夜更けに宿に到着し、眠り、また翌朝は観光に出かける。ソキの体調をじっくりと見定め、平気そうであるならまた移動を、崩れてしまいそうであれば、その日はまた宿に泊って翌朝出発する、というのがロゼアの組んだ移動予定だった。いまのところ、ソキの体調はずっと安定している。ロゼアの予測をはるかにしのぐ安定だった。時折乾いた咳をするが、それは冬の冷え乾いた空気が喉を引きつらせてしまうからだ。それだけはどうしても、体調がよくても防げることではなかった。けれどもそれも、のど飴とぬるくいれた香草茶をゆっくり飲めば落ち着いて行く程度のものだ。ロゼアが、ソキを動かしたくない、寝かせておかなければならない、と思わせるほどに崩れてしまうことは、一度としてなかった。
馬車で移動する大半を、ソキが眠って過ごしている、ということもあるだろう。学園で普通に過ごしている時も、その時間だけ授業を取らずに、ソキはお昼寝をするくらいなのだ。体力回復の為、なにより習慣になっている眠りであるから、移動中でもそれが消えてしまうことはなかった。朝から観光ではしゃいで、馬車で昼食をとり、ちょうど眠たくて仕方がなくなる、ということもある。だいたい、二時間から三時間。ソキはロゼアにだっこをせがみ、そしてそのまま、しあわせでしあわせで仕方がない眠りにくうくうと落ちていく。ソキが眠る間、ロゼアは車窓から外を眺めたり、片手で本を読みながらゆったりと過ごす。すり寄ってくるソキの髪を撫でたり、頬に触れ、撫で、あまくこもる体温に口元を和ませ。片時もソキを離そうとせず、腕の中でやわらかに眠らせ続けた。眠りが満ちて目覚めるまで。名を呼び囁き起こすことは、一度もなく。
いまも、眠りからさめてほにゃほにゃと瞬きをするソキを、ロゼアは離そうとはしていなかった。しっかりと抱かれていた安心感が、全身を包む温かさが、気持ち良さがその証拠だった。ねぼけまなこで瞬きをしながら、ソキはろぜあちゃんですぅ、と頬をすりすり肩にこすりつけて甘え、ふあぁ、とあくびをした。膝の上でぞもぞと身動きして体勢を整え直し、座り心地のいいように腰を下ろしなおして、ソキはやぁん、とあまくとけた声でロゼアに抱きつきなおした。
「ロゼアちゃん、おはようございますですよ。ロゼアちゃん、なにしてたです?」
「うん。おはよう、ソキ。読書をすこし」
首筋に触れた手が離れ、ソキの頬をやわやわと撫でていく。くすぐったくてちいさく笑うソキの額に、ロゼアは身を屈めて額を重ねてきた。慣れた仕草でソキの髪を梳き背を撫で下ろし、ロゼアはほぅと息を吐きだした。ソキの体調が崩れていないので、安心してくれたのだろう。ソキ自身も、頭が痛くなったりする前兆を感じることがない。そもそも『学園』をでてからというものの、ソキはロゼアの腕の中からほぼ離れていないのだ。体調を崩す余地がないのが本当のところだった。馬車移動そのものの苦手感も、ロゼアがずっと一緒でずっとだっこしてくれている気持ちよさと安心感で、すっかり忘れてしまえている。
起きたからお水飲まないといけないです、と水筒に手を伸ばし、ソキはそれをロゼアにはいとばかり手渡した。ソキが学園へ向かう旅の途中、白雪の魔術師たちから受け取った水筒は、なないろ小路で売っているそれよりはるかに性能が良い。出立前に、ロゼアが宿でいれてくれたソキお気に入りの香草茶は、まだほんのりと湯気を立ち上らせていた。ソキはカップを両手で包みこみながら、ふぅ、と息を吹きかけた。こく、こくん、ゆっくりと飲み下して行くソキの髪をさらさらと梳きながら、ロゼアは穏やかに目を細めて微笑んでくれている。
「ちゃんと飲んで偉いな、ソキ。喉は? 乾くくらいで、痛くはない?」
「でしょおぉ……!」
カップから口を離し、ソキは自慢げにロゼアの腕の中でふんぞりかえった。お昼寝から起きたら、お茶かお水を飲むこと、というのは『花嫁』時代からの決まりごとだ。寝ている間に喉が渇いて、咳をして喉を痛めてしまう可能性があるからである。お茶はもういいです、とカップを返すソキに頷きながら、ロゼアの指先がいつのまにか用意していたのど飴をくちびるに食ませてくる。あむ、と口にしてのど飴を舐めながら、ソキはロゼアにぴとっと体をくっつけなおした。
「ねえねえロゼアちゃん。次の都市につくのは夕方です? 夜です? 夜おそーく、です?」
「夕方、か、夜かな。眠たくなったらまたねむろうな、ソキ」
特に事故がなければ、陽が落ちた頃には到着する予定だった。はぁい、と返事をしながら、ソキは髪を撫で続けているロゼアの腕に、じゃれつくように手を伸ばした。んしょんしょ、と胸元に引き寄せる。無抵抗で手を預けてくれたロゼアが不思議そうに見守る中、ソキは上機嫌な顔で、てのひらにぺたぺたと触った。
「ろぜあちゃんのー。おててー。あったかいですぅー」
「……うん?」
「ソキ、ロゼアちゃんのおてて、だぁいすきですー!」
特別意味がある訳ではなく。そこのロゼアの手があったから、ソキはちょっと触りたくなっただけなのである。きゃっきゃとはしゃぎながら、ソキはしあわせな気持ちで、ロゼアの手指を撫でていく。手の甲を撫でたり、てのひらにぺちぺち触れてみたり。指を絡めて、きゅっと繋いで、きゃあきゃあはしゃいだ声をあげて喜んだり。両手できゅぅ、と包みんだ時に、てのひらの中でロゼアの指先が動く。きゃぁっ、ととろけた声で笑い、ソキはぷぷぷっと頬をふくらませ、ロゼアを見た。
「ろぜあちゃん! くすぐっちゃだめですぅー!」
「うん? くすぐったい?」
「こしょってするです。……きゃあ! ろぜあちゃん、こしょってしたぁー!」
ぺちんぺちんロゼアの腕を叩いてきゃっきゃと笑い、ソキはいたずらいけないんですよぉー、と言って手をきゅぅと繋いでしまった。繋いだ手をそのまま引き寄せ、頬にくっつけて、ソキは満ち足りた息を吐き出して笑う。
「……ロゼアちゃん」
「うん? なに、ソキ」
「だいすき。……だいすき、だいすき。だぁいすき、です……」
とろとろ、しあわせに、碧の瞳が熱を宿して揺れていた。恋の幸福に。酔いながら、囁く。火の熱に、陽の温かさに、ずっとずっと抱かれている感覚を、途切れさせないまま。ソキは、しあわせに、しあわせに、微笑んだ。
ゆっくりと、けれども確実に、砂漠へとふたりは戻っていく。花舞の首都で待っていたナリアンとつかの間の再会を果たし、その場でオススメされたのは次の都市にある図書館だった。ふたりにぜひ見て欲しいんだ、とても素敵な場所だから、と目を細めて囁くナリアンに連れられて首都を観光し、買い物を楽しんで昼前に別れ、また次の都市へと。ナリアンがその場で書いてロゼアに託した地図は、ごく簡単なものだったが分かりやすく、ふたりは迷わず図書館へと辿りつくことができた。外観はごく普通の、ただし、規模は確かに大きいと感じさせる建物だったが、中に足を踏み入れるとその印象は一変した。ソキは思わず目を輝かせ、わぁっと歓声をあげながら中の様子をうっとりと見つめた。
飴色の木の手すりがぐるりと円を描きながら一階、二階、三階までをも繋ぐ吹きぬけの空間の壁に、ぎっしりと本が納められている。床から天井まで。床と天井を幾重にも梯子が繋ぎ、人々はそこへ座り込んだり、本をひとつひとつ手にとって眺めたりしていた。広大な空間を支える柱は、床と同じ大理石で出来ているのだろう。ひんやりとした印象の白さは悠久の時を経た独特の落ち着きを保ち、静寂とざわめきが同居する空気を支えている。天井の近くにある明かりとりの為の窓は、全てステンドグラスで作られていた。精緻な模様は色に染まった光を投げ落とし、床に、壁面に、本棚に、人々に降り注いでいる。王家の旧別邸を都市が譲り受け、そのまま図書館に改造したのだという。賓客を出迎える為の広大なホール、そこから繋がる各部屋の全てに本が納められている。
殆どの部屋が自由な立ち入りを許可されているが、中には写本師しか足を踏み入れることのできない作業室、修復室などもあるのだという。ナリアンは恐らく、幾度となくこの場所に足を運んだに違いない。すごく素敵な場所だよ、と響いた意志は誇らしげであり、喜びに満ち、また親しげななにかを紹介する風であったからだ。ソキもロゼアも、こころゆくまで図書館を楽しんだ。ソキは主に建物のうつくしいつくりや、ステンドグラスのきらびやかさにうっとりと目を細め、ロゼアに読んでもらった本もあることに気がつくときゃあきゃあとはしゃいで喜んだ。ロゼアはソキを抱いたまま各部屋を回りながら、見知らぬ書物、それも膨大な量に及ぶ知の宝石たちにうっとりと瞳を輝かせた。
学園の図書館もすさまじい蔵書を誇るが、この場所はそれに勝るとも劣らない。学園のそれが性質上魔術師に関するものに偏っていることを踏まえれば、恐らくそれ以外の全てにおいて上回っているだろう。ロゼアとソキが部屋を巡る間も慌ただしく写本師たちが入れ替わり立ち替わり、図書館内を歩き回っては新しい本を棚に収め、傷ついたそれを回収して修復しに行くさまをみることができた。時間さえあれば恐らく何日でも通い詰めたであろう場所から離れがたいであろうロゼアの気持ちを、ナリアンは察していたに違いない。ソキはそこまで読書や、本に対しての執着と喜びを持たない。物語は基本的にロゼアから語られるものだった。だからそこにロゼアがいれば、ソキはもう、いいのだ。
だからナリアンの気づかいは、純粋にロゼアに対してだけのものであるに違いなかった。ナリアンが書いてロゼアに渡した地図の端には、建物の別棟においしいケーキを出すカフェがあるからソキちゃんとどうぞ。ぜひどうぞ、と書かれていたのである。本を持ち込んで読むこともできるらしい。読書はロゼアに、おいしいケーキはソキに対して、味わい喜んでもらいたいものなのだろう。どうするか考えるロゼアの耳に、ソキは好きな本読んでていいですよ、と囁いた。ソキねえ本読んでるロゼアちゃんみてるです。そうすればソキはちゃぁんと待てますよ、と笑うソキに、ロゼアはさっと読みとおせてしまいそうな本を二冊ばかり選んで必要書類に記入を済ませ、ナリアンの紹介してくれたカフェに足を運んだ。
別棟、と呼ばれる書室群から渡り廊下で繋がれた先にあったのは、サンルームを改装した空間だった。ゆったりとした空間に机と椅子、ソファが並べられ、うつくしく整えられた庭園が硝子の向こうには広がっている。どこか見えない場所に噴水もあるのだろう。水が跳ねながら流れていく心地いい音と降り注ぐ陽光を音楽に、給仕の女性たちは品の良い仕草でゆったり動きまわっていた。ロゼアは座り心地のいいソファを選び、そこへ腰を落ち着けた。幸い、二人掛けのゆったりとしたソファである。ソキはロゼアの胸にぴったりと体をくっつけたまま、読んでいいですよ、ともう一度促した。
「ロゼアちゃんは本読んでるです。ソキは、本読んでるロゼアちゃんみてるですー!」
「……うん。ソキ、いいのか?」
読書中は当然のことながら、ロゼアはソキに気を配れない。確認するように問うロゼアに、ソキはこくんと頷いた。大丈夫である。ソキだって四六時中、ロゼアの注意を独占していなければ気が済まない訳でもないのだ。たぶん。ちょっとばかり寂しいこともあるくらいで。ソキはちゃんとロゼアちゃんのお邪魔しないで待ってられるんですよぉ、と言い聞かせ口調で告げながら、ソキはちょこん、と首を傾げて問いかけた。いいこにしてるですので。
「よんでるの、みてていいです……?」
「うん、いいよ。……ソキがそうしたいなら。でも、つまらなくないか?」
「ないです。それに、ロゼアちゃんのおてて一緒です!」
ロゼアがソキの前で本を読むというのは、だいたいが夜に寝かしつけてくれる時だった。片手で本を支え、めくりながら、もう片方の手はソキに与えて自由にさせてくれるのだ。大体は眠りを導くために髪を撫でてくれているのだが、ソキの手がそれを捕まえて触ったり、頬にくっつけたりしていてもいいように、自由にさせてくれる。ソキは最初からロゼアの手にきゃっきゃ触り倒すつもりだったのだが、ロゼアにしてみても与える気ではあったのだろう。うん、と微笑みながらロゼアの手はソキの頬を撫で、髪を梳いて、そのままはいと両手の上に貸し出された。
「ありがとうな、ソキ」
ソキはロゼアにうっとりと見惚れ、目を潤ませながらこくん、と頷いた。ソキに笑いかけてくれるひとも、ありがとうを言うひとも、たくさんいるのだけれど。こんな風に胸がきゅぅっとなって、嬉しくてたまらなくなるのはやっぱり、ロゼアだけだった。片手で本を開き、視線を落として読みはじめるロゼアの横顔を、ソキはぼぅっとしながら見つめていた。あまく精悍な顔立ちは、もうしばらくすれば完全に幼さを消すだろう。ロゼアは、おとこのひとに、なるのだ。ソキは抱き寄せた手をすりっと頬にこすりつけながら、震えるようにあまく、とろけた息を吐き出した。おとこのひとになった時。ロゼアが好きになるのは、どんなおんなのこなのだろう。ぐずっ、と涙ぐんで鼻をすすりながら、ソキはぱちぱちと瞬きをした。
ロゼアはソキが傍からいなくなったら、きっと誰かに恋をする。『花嫁』を送り出した『傍付き』がしばらくすると、長くとも数年のうちには、誰かと結婚してしまうのと同じで。誰かとてもロゼアを好きなおんなのこが現れて、ロゼアもそのこのことをとても好きになって、ソキにするみたいに優しくしたり、撫でたり、ぎゅってしたり、だっこしたり、するように、なるのだ。ぐずっと涙目で鼻をすすってくちびるを尖らせ、ソキはロゼアの指先にくちびるを押し当てた。誰かが。誰かも、きっとこんな風に、恋しくロゼアに触れて。ロゼアはきっとそれに、どきどきしたりもするのだろう。ソキにはちっともしてくれないのに。
「……ふこうへいです……」
ぐずぐず半泣きですすりあげ、ソキはロゼアに体をくっつけなおした。
「ソキ?」
呼ばれて、ソキはぱちぱち瞬きをしながらロゼアを見上げる。読書を中断したロゼアが心配そうにソキを見つめていて、本を持っていた筈の手がやさしく、ソキの頬を撫でて行く。
「ソキ」
ぞわぞわと、肌が震えた。やさしい仕草に、甘い眼差しに、声に。胸の奥が、全身が、ふるえる。
「ソキ、どうした? どこか痛い……?」
やっぱりもう行こうか、と立ち上がりかけるロゼアに首を振って、ソキは大丈夫です、と言い張った。大丈夫だから。ソキばっかりロゼアちゃんを大好きで、それはちゃんと分かってるですから。がまん、できるですから。だから。
「ロゼアちゃん……」
「うん?」
「ぎゅって、して」
ソキだけをして。誰もぎゅってしてだっこして好きっていったりしないで、と。言いたくなるのを我慢して。ソキはロゼアの首筋に腕をからめ、体を押しつけて目を閉じた。ロゼアの腕はすぐにソキを抱きしめ、落ち着かせるようにてのひらが背を撫でてくれる。ソキ、と呼びかける声が優しい。いつものように。いつもと同じに。ただロゼアの、こぼれる吐息が幸福に満ちていたような気がしたのだけれど。きっと気のせいです、と思ってソキは目を閉じた。ソキのしあわせはロゼアの腕の中にある。ぜんぶある。ロゼアのそれがどこにあるのか。ソキはずっと、知らないままだった。