すこしだけ、空気がひやりと動いた気がしたので目を開けようとしたソキに、大丈夫だよ、と囁くようにロゼアの手が触れて行く。頬から首筋に滑り落とされ触れたてのひらが、指先を絡めて髪を梳いて行く。心地よさに甘えてうっとりと目を閉じたまま、ソキは夢うつつに、ロゼアの首筋に回した腕にぎううう、と力を込め直した。くす、と穏やかに笑う声はすぐ近くで響く。どうもありがとうございました、本当にお世話に、と響くロゼアの声をうとうとうとと聞き流しかけ、ソキはふにゃぁっ、と驚いた声をあげ、ぱちっと目を開いた。
開いたのだが。ねむたくてねむたくて、すぐふにゃふにゃと閉じてしまおうとするまぶたを、大慌てでくしくしくしっ、と擦って。ソキはロゼアの腕の中でやんやん、とむずがりながら、楽音の国境まで世話になった御者に、くんにゃりと力ない一礼をした。
「あり、あぅ……んぅ、あ、がと、ござ……ました、です。ばしゃ、ソキ、やなの、なかったです」
「光栄です」
はなよめ、と囁きかけ、口を閉ざした御者の動きを、ソキは知らないままだった。やぁんやぁんねむぅいですぅー、とロゼアの腕の中でぐずぐずむずがり、撫でて宥められていたからだ。殊更丁寧にソキの頬に、額に、瞼に、鼻筋やくちびる、あごの下、首まわりにぺたぺたと手を押し当てて体調を確認しながら、ロゼアがやや考え込むように視線をよこしてくる。それに、大丈夫なんですぅ、ソキたいちょ、くぅしてないですぅ、としたったらずな声で言い聞かせ、ソキはようやく辿りついた花舞と楽音の国境、そこへ広がる城壁に視線をやった。離れて行く馬車の輪立ちの音を聞きながら、ソキはううぅん、とむずがって、何度もまばたきをした。
本当に体調は崩れていないし、その前兆を感じてもいないのだ。ちょっとばかりうまく眠れなくて、それであんまり眠たいだけで。くしくし、くしくしまぶたをこするソキに、だめだろ、とやんわり言い聞かせてロゼアは歩き出す。その腕の中で拗ねた気持ちで脚をぱたぱた動かして、ソキはねえねえ、とロゼアをみあげた。
「ねえね、ねえねえ、ロゼアちゃん?」
「うん? こーら、ソキ。もぞもぞするのだめだろ? ……脚、痛い? 宿についたら診ような」
ぱたぱたする脚に服の上からそっと手を押し当てられて、ソキはやぁん、と甲高い声でロゼアにすがりついた。
「いたくないですないです! あし、だいじょうぶです! ロゼアちゃん、やんやん!」
「うん。痛くなくて、大丈夫なの、確認しような。ソキ」
「やあぁん、やー! ソキはやだって言ってますぅー!」
ぺっちぺっち背中を叩きながら訴えても、ロゼアは穏やかな声でそうだな嫌だな、でも確認はする。と言うばかりで、ソキの言うことを聞いてくれなそうになかった。脚ぱたぱたするの大変ですいけないですっ、と涙ぐみながら、ソキはうーうーむずがってロゼアの肩口にすりよった。脚に触られるのが、ソキはちょっと、だいぶ、すごく、じつはとっても、苦手なのである。誰でも同じなのだが、特にロゼアが触るのが、いっとうだめなのだ。お屋敷にいたころは女性の世話役に託していた脚のケアを、そういえばロゼアは、『学園』に来てからというものの頑なに誰にも譲ろうとしなかった。もしかしてロゼアちゃんはソキの脚のお世話したかったんですかいやそんなことは、と首を傾げつつ、ソキはまた脚をぱたぱたぱたと動かして、特に痛くも変な感じがしないことも確かめた。
ソキ、もぞもぞしない、とたしなめる声にもぞってしてないですぅー、ソキしてなぁいー、とぷうぷう頬をふくらませて拗ねて、ロゼアにぴとおおぉっと体をくっつけなおす。怒ったからとか、拗ねたくらいの理由で、ソキはロゼアから離れない。離れなきゃだめだろ、とロゼアに言われない限り、そんなことはしようとも思わないのだ。一回もそんなこと言われた覚えはないのだが。
「ぷぷぷぅ。ソキいまちょっと、おこってるんですよぉ……!」
「ソキ」
「ソキはぁ、ちょっとかんがえごと、してて、ちょっとねむたい、だけですしぃ……もぞもぞって、したんじゃなぁいですぅー。だいじょぶですって、ソキ、じぶんでかくにんした、だけです。やうぅー!」
もぉ、もおぉっ、とおこったソキに背をぺっちぺっち叩かれながら、ロゼアは二人が花舞の国境を超えて楽音に入国する手続きを済ませてしまった。どの国境でもそうなのだが、『学園』と担当教員に連絡を取り、書面で本人確認をする都合上、二時間程度は国境の砦から都市内へ立ち入ることはできない。その間は申し訳ないがこの付近にいて欲しい、と告げられるのに流しぎみに頷きながら、ソキは人々が行きかうその場所に、ぐるりと視線を巡らせた『学園』に向かう旅の間、一度通過した筈の場所だが、不思議なくらいに見覚えがない。
アンタどんだけ周囲に興味なかったのよこの世界の中心ロゼアちゃんがっ、と罵倒する案内妖精の声が聞こえたような気がしつつ、ソキはむむむ、とロゼアの肩に頬をすりすりと擦りつけた。ロゼアはソキの髪をゆったりとしたリズムで撫でながら、内部をすいすいと泳ぐように進んで行く。ねえね、ねえねえ、とぺちぺち背を叩いて、ソキはロゼアの耳元で、こしょこしょした声で問いかけた。
「ロゼアちゃん、どこいくです? どこいくですか?」
「広場。出店とか休憩所があるんだって」
「ふぅん? ……ロゼアちゃん、ぎゅーってして? ぎゅぅー」
ふ、と笑みを深められながら抱く腕にぎゅっと力を込め直してもらって、ソキはきゃっきゃとはしゃいだ声をあげてロゼアに体をすりつけなおした。『花嫁』は『傍付き』の腕に抱きあげられた状態で、怒りや、拗ねた気持ちを長引かせることはない。そういう風に教育されて、そういう風に整えられているからだ。すっかり機嫌をなおしてふあふあした声で歌をうたうソキを連れて、ロゼアは国境を越えて行く者たちが待つ広場へ足を踏み入れた。そこは小規模ながら、街中にたつ市場のようなつくりになっていた。テントでつくられた店が並び、食欲を誘う飲食物のにおいもする。四方を城壁の壁に囲まれた、ぽっかりと空いた空間でありながら解放感があるのは、天井がなく青空が見えているからだろう。
きゃぁ、とはしゃぎ声をあげて、ソキはロゼアにぎゅっと抱きつきなおした。
「お外みたいです!」
「うん。そうだな。……なにか食べようか、ソキ」
おなかすいただろ、と囁くロゼアに、ソキはううぅん、と眉を寄せた。馬車の中でうまく眠れなかったせいなのか、じつのところ、あまりおなかがすいていないのである。んとぉ、とソキが悩んで考えていると、立ち並ぶ屋台の一番端、ふわりと甘い砂糖の香りを漂わせていた場所から、あれ、と意外そうな声が向けられる。
「後輩だー」
「ふにゃん? ……ソキ? ソキのことです?」
「そうそう。それと、抱っこしてくれてるヤツもな。長期休暇で帰省中? 確認待ちで暇してるってトコ?」
おいでおいで、と指先を動かして二人を呼びよせたのは、足元までを覆う長いローブに身を包んだ青年だった。見るからに魔術師、である。首を傾げてそっと歩み寄るロゼアの腕の中から、ソキは青年が店番をする屋台の、札をじぃーっとみつめた。楽音王宮魔術師出張中、と書いてある。しゅっちょ、です、と呟いて、ソキはくてんと首を傾げた。
「しゅっちょ、で、なにしてるです……?」
「え? わたあめ屋さんだけど」
若干、先輩たる卒業生の手招きに素直に応じたことを後悔する顔つきになるロゼアの腕の中から、ソキは屋台をしげしげと見つめた。そこにあったのは、機械仕掛けの魔術具だった。どういう仕組みになっているのか、入口からざらりとザラメ糖を流しこむと、吹き出し口からは絹糸のようになめらかな、白い糸が吹きだしてくる。それをくるくると円状に巻きつけていくのは、楽器の制作途中で出た木片であると青年は言った。あとは捨てるか燃やすだけの単なる枝なので、有効活用できていいよね、ということらしい。白く、ふわふわとしたあまい香りのする砂糖菓子をソキに手渡し、王宮魔術師たる青年はにこ、と笑みを深める。
「一昨年くらいだったかな。白雪のエノーラが、確か『陛下私思いついたんですけれど! この目の前にわっさわっさ降り積もっていく雪がなんていうか砂糖菓子とかそういうものだったら! 寒い憎い消し飛べふざけんな寒い! というこの煮えたぎる怒りも! ちょっとは解消されるんじゃないかなって思うんですよおおおおおお!』とかなんとか叫びながら研究費を貰って雪っぽい砂糖菓子を作ろうとした、結果がこれ。年末年始とか、お祭りの時期に動かすんだけど、結構好評だよ」
「へー。そうなんですか、へー……ろぜあちゃ、ねえね! たべていいです?」
「うわぁこんな説明聞き流されたのはじめてだよ俺ー」
ちなみになぜ白雪ではなく楽音にあるのかといえば、五ヶ国の王が集ったその年の新年会でなにやら賭けごとが行われた結果であるらしい。白雪の陛下はせっかく作ってもらったのに、と涙ぐみ、楽音の王はそれを眺めこころゆくまで幸福に酔いしれていたのだという。うちの陛下まじいじめっこ、としみじみ頷く青年に、ソキはそうなんですか、へえぇそうなんですか、と頷いて、ふわふわのわたあめをうっとりと見つめた。めげずに説明をしてくれる王宮魔術師の青年曰く、その時のエノーラは王宮魔術師対抗雪合戦でラティに負け、雪まみれで寒かったらしい。火の魔法使いであるレディは、その時眠っていたので不参加だったが、起きていても雪が溶けるので呼ばれなかったとのことだ。
説明のしつこさにんもおおぉ、と眉を寄せ、ソキはぷぷ、と頬をふくらませて青年をみた。
「もしかして、説明部さん、だったですぅ……?」
「もちろん! あ、ルルク元気にしてる?」
「ルルク先輩はぁ、お休みになった日の朝もぉ、夢と浪漫でいそがしそだったですぅ」
へんしんまほーしょーじょのリボンは細いのがいいのか太いのがいいのかについてすごくかんがえてたですよぉ、とげっそりした声で言うソキに、青年はほんとまじ元気そうでなによりだな、としみじみと頷いてくれた。ソキがそんなことをしている間に、ロゼアはソキからさしだされたわたあめを指でほんのすこし摘み、舐めるように口に含んでいた。こく、と飲み込み、ロゼアはソキにわたあめをかえしてくれる。
「うん。食べていいよ、ソキ。……どこかに座って食べようか」
「はい。ソキ、ちゃんと座って食べるですよ」
「先輩、すみません。すぐに代金を支払いに戻ります」
あっちに椅子があった筈だから、とひらけた場所へ向かうロゼアの腕の中で、ソキはふあぁ、とあくびをした。ねむい、わけでは、ないのだが。なんとなくごくかすかに頭が痛いような脚が痛いような気がするが、気のせい、ということにしておきたい。広場の端におかれた籐の編み椅子にソキを座らせ、動かないでいるんだぞ、とロゼアが代金を支払いに戻っていく。その背を見つめて、ソキはのたのたと瞬きをした。すこしばかり首を傾げて考え、よし、と拳をにぎる。頭が痛かったり脚が痛かったりするのは気のせいで、そうあくまで気のせいであるが、体調が悪くなりかけているなんてことは決してないのだが。だからつまりこれは保険とか予備とかいうものなのである。転ばぬ先の杖とかそういう感じでもいいです、とソキは頷いた。
ん、とくちびるに力を込め、己の魔力を意識する。その時だった。がっ、と音を立て、椅子の背もたれが握られる。
「ソキ」
「やああぁあっ! やっ、ろぜあちゃんどうしたですかどうしたですかぁっ!」
「ソキ? いま」
なにしようとしてた、とソキの背から顔を覗き込むようにして問うロゼアの目がなんだか笑っていないようにみえた。ソキは大慌てでしてないですしてないですぅっと首を振り、膝の上で手をきゅぅと握り締める。
「そきまだなにもしてないですよ!」
「うん。ソキ、回復魔術は駄目だからな」
「……えっと。ロゼアちゃん。だっこして……?」
ね、とあまえてねだるソキに腕を伸ばして抱きあげかけ、ロゼアは深々と溜息をついた。まったく、と言わんばかりの仕草だった。にこにこ笑うソキの頬が、伸ばされたロゼアの両手に包みこまれる。指先がそっと、肌を撫でた。
「ソキ。……俺のいうこと聞けないなら、俺も、ソキのいうこと聞かないからな」
「やぁんっ……!」
親指と人差し指が、ソキの頬をもにっと摘んで反省をうながす。ソキは悲鳴じみた声でやんやん首を振りながら、ロゼアちゃんいじわるいじわるですっ、となみだぐんだ。
「ロゼアちゃんだっこして……?」
「うん、いいよ。代金払ってくるから、その間、わたあめ食べてじっとしていような? 回復魔術はだめ。だめだからな、ソキ」
「んー、んー……! ロゼアちゃん、だっこぉ……!」
そーき、と名前を呼んでくるロゼアを、ソキはくすんとしゃくりあげながら上目づかいにみた。
「ぎゅってしておやすみってして……? なでなでして? ぎゅってして? ……やぁん。やぁんろぜあちゃんだっこぉ……!」
うんいいよ。ぜんぶしてあげる、とロゼアはやさしい微笑みでソキに問いかけた。
「じゃあ、俺のいうこと聞けるな? 回復魔術は、なし。しない。絶対にやらない。……ソキ?」
「ソキ、ロゼアちゃんの言う通りにするですよ……! しない、です」
「うん。ちゃんと言えるか?」
回復魔術使わない、って。声をひそめて囁くロゼアに、ソキはこくこく、必死に、何度も頷いた。
「ソキ、回復魔術使わないです。ロゼアちゃんごめんなさい」
「うん。ずっと? ずっと、使わないで、俺の言う通りにできるか?」
「できるですよ。ずっと使わないです。ソキ、ロゼアちゃんのいうとおり、できるですよ」
にこ、とロゼアの笑みが機嫌良く深まる。嬉しくて思わず笑い返したソキに、ロゼアはよく言えましたと囁いて、頬からてのひらを離した。すこしだけ寂しい気持ちになるソキの手をぽんぽんと撫で、もうしこしだけ待ってて、とロゼアが足早に、屋台へ代金を支払いにいく。はぁい、と返事をしながら、ソキはあれ、とちょっと首を傾げて考えた。ずっと、は、いつまでの、ずっとだろう。
「……帰省中です?」
ううん、と考えるもよく分からない。とりあえず帰省中ということにして、ソキはひとりで頷いた。学園に帰ったら、ウィッシュに、もっとバレないような回復の仕方を教えてもらおう、と決意する。そんなもんないから諦めてロゼアのいう通りにしような、と兄が微笑む未来をソキはまだ知らない。ふぁ、とのたのたまばたきをしながら広場を眺め、ソキはふと、四方を囲む城壁の一角、ちいさな扉のある場所に目をとめた。どこかひっそりとした扉だと思うが、よくよく見れば建物へ繋がる出入り口ではなく、ちいさな倉庫になっているらしい。時折、出入りする者たちは果物や野菜を腕に抱え、立ち並ぶ屋台へ運び込んでいる。
ソキはじーっとその扉をみつめ、そこへ出入りするひとりの女性を呼びとめた。扉の近くの籠にざっくりと何本か横にされている小瓶を指差して、問いかける。
「あれも、売り物です……?」
「はい。主に夏場に出すもので、いまの時期はあまり店頭には並べていませんが……ご希望ですか?」
問われて、ソキは服をごそごそとさぐり、持ちあわせがあることを確認してこくりと頷いた。旅の間ほぼ使うことがなかった、というか一回も使っていないソキの懐には、かなりの余裕がある。休み前、なないろ小路の銀行で、必要だと思う旅費を下ろしておいたからだ。おひとつくださいですよ、と告げたソキに、女性は気持ちの良い笑顔でかしこまりました、と告げ、小走りにそれを持ってきてくれた。手渡されたのは、透明な液体に満ちた細身の瓶だった。表面には細かな気泡がついている。瓶のラベルにはこう書かれていた。XX都市限定サイダー。それをごそごそと鞄の中にしまいこみながら、ソキはロゼアの帰りを待つ。なんだかとても楽しい気分だった。
ソキは知っていた。ロゼアはサイダーが好きである。
「……ロゼアちゃん、喜んでくれるといいです……」
ロゼアがソキに、ではなく。ソキがロゼアに、なにかを贈る、というのはひどく珍しいことだった。ほとんどはじめてだと、ソキが思うくらいには。しあわせで、なんだか楽しくて、ソキはあむ、とふわふわのわたあめを口にした。ぱたぱたぱた、と脚を動かす。帰ってきたらロゼアちゃんといっしょに食べられるといいです、と思いながら、ソキはまた、ちまちまとわたあめを口にした。ざぁ、と音を立てて風が吹く。髪を撫でて行くようなそれに目を細めながら、ソキは胸にそっと手を押し当てた。この場所で。ロゼアのしあわせを祈って、旅立ったことを、すこしだけ思い出した。あの日。呼ぶ声すら記憶の遠くに、もう二度と会えないことを覚悟した。
戻ってきたロゼアに抱きあげられ、城壁の上でしばし過ごして。ソキはその日はじめて、夜に、すこしだけ体調をくずした。
くすくすくす、笑う声がする。肌に染み込む甘い香りのように。笑い声がする。笑い声が。
『――が、いいの?』
なにを言っているのか聞き取れない。どこか遠くで砂が落ちている。きれいな、きれいな、砂漠の砂が。きらきらと輝きながら時を留め砕け散り形を失った砂が。砂が。悲鳴のような音を立てて笑い声と言葉をかき消している。きいちゃだめきいちゃだめです、それをきいちゃだめだめだめだめなの。泣き声のように。声が響いている。
『――クンが、いいの? お人形さん』
音が聞こえる。ぱらぱらぱら、白いしろいページがめくられていく音。ことばがどこにもかかれていないほんのぺーじが。めくられていく音。
『ロゼアクンが』
それでも。声が。
『ロゼアクンがいいの? お人形さん?』
耳元で囁くようにソキに問う。何度も、何度も。何度も何度も何度も何度も。繰り返し繰り返し。問い続ける。たったひとこと、言葉を、響かせるまでそれは終わらない。たすけて、と手を伸ばした。指先が空を切る。きいちゃだめきいちゃだめへんじをしないでしないでなにもいっちゃだめだめなのおねがいおねがいいわないでいわないでなにもいわないでおねがい。泣き叫ぶ声がどこかで響いている。泣き叫ぶ声。声に、聞こえる。砕かれた砂の音。さらさらさらと流れ続ける。砂の音が聞こえる。ぱらぱらぱら、ページがめくられて。
「ソキ」
呼ぶ声に、ふっとソキは瞼を持ち上げた。のろのろと瞬きをする。どこだろう、と思って視線を彷徨わせ、すぐ、赤褐色の瞳を見つけ出す。ろぜあちゃん。淡く呼んで手を伸ばせば、すぐ、あたたかなぬくもりに包まれた。全身から力が抜ける。大丈夫。ロゼアちゃんがいる。火のような、陽のひかりのような熱が全身を包んで安らがせる。ソキはゆっくりと息を吸い込んで、吐きだした。おやすみ、と告げる言葉になんと返事をしたのか意識しないまま。ソキは夢のない眠りに沈んでいく。悪夢のことなど。思い出すことはなく。
馬車の発着所は人とざわめきに満ちていた。押し流されてしまわないよう、安全な場所を選んで座らされた椅子の上で、ソキは行きかう人々の中、その姿を見つけ出す。息を飲んだ。まさか、と思った。こんな場所にいる筈のない人だった。砂漠の首都、大オアシスへ続くひとつ手前の都市。冬の冷たい空気が肌に触れる、砂漠であろうとたちまち花が弱ってしまいそうなその空気の中に、いる筈のないような人だった。けれども声をかけるよりはやく、その姿は人波の中に溶け込んでしまう。立ち去ってしまう。ソキは両腕を伸ばしてやぁっとむずがった声をあげ、ロゼアを求めてきょろきょろと視線を彷徨わせた。
けれどもロゼアはこの都市から、砂漠の首都へ向かう駱駝の手配の為にソキの傍を離れていた。ユーニャの手配してくれた馬車は砂漠国内の首都までもちろん二人を導く準備をしていてくれたのだが、お屋敷のちょっとした決まりごとなどの為に、最終の移動の手配は、改めてロゼアがすることになったのだ。それが終わるまで、もうすこしかかえるだろう。ソキはどうしようどうしようと視線を彷徨わせ、座っていた椅子をぺち、と手で叩いた。みまちがいだったのかもしれない、けど。こんな場所にいるはずのないひと、なのだけれど。でも、もし、もしも、ほんとうに、そのひとなのだとしたら。ぞわぁっと全身を泣きそうな焦りが支配した。
ロゼアが戻るのを待っていたら、間に合わない。いなくなってしまう。
「……ん、んぅ……!」
全身に力をこめて、脚に体重を乗せて。ソキはよろよろ、ゆっくり、椅子から立ち上がった。いったいどれくらいぶりに自分一人の脚で立って、歩こうとするのか、よく分からない。て、ちっ、てて、と不安定に、ソキは人波の中へ押し流されるよう、その足を踏み出した。押され、よろけながら、その人がいた方向へ腕を伸ばす。姿は見失ってしまった。本当にたくさんのひとがいて、探すこともできない。だけど。でも。
「や……! どこ……? どこですか? ねえ、どこ? どこ……?」
ソキですよ。ねえソキですよ、と泣き声に似たそれは親とはぐれたこどものようだった。一心に、必死に、求めて、やわやわと空気を震わせていく。その声がロゼアに向けられていたのであれば、気がつかない訳がないのと同じで。その相手も、絶対に、ソキの声を聞きとめてくれる。
「ラヴェ……ラーヴェ、どこ? ラーヴェ……!」
「……ソキさま」
空を切るばかりの指先が伸びてきた手に包みこまれ、人々の流れから守るように背が引き寄せられる。乾かされた花のような、どこか温かなにおいのする男だった。壮年の男だ。砂漠の民特有の煮詰めた色ではなく、白くきめの細かい肌を持つ、長身の男だった。てのひらは大きく、指先はかたく、それでいて荒れていない。訓練を受けた者特有のしなやかで、無駄のない、音のない動きをする身のこなしは、ソキが見慣れたロゼアのものと印象がよく似ていた。ロゼアが、似ているのかも知れない。『傍付き』は皆、似たような体の動かし方をする。ラヴェ、と震える声で名を呼ぶソキの眼前に、微笑みながら男が跪く。喧騒や、人の好奇の視線から、ソキを包み守り、隠して抱いてしまうような。穏やかで、やさしい気配の、男だった。
「ラーヴェ……」
ソキは両手を伸ばして、跪く男の腕に絡みつかせた。ぐ、と引っ張る。立ち上がって、と求める仕草ではなかった。そのソキの望みを、一度として叶えてくれたことのない相手だった。てをかして、と求める『花嫁』の懇願に、男は苦笑を浮かべて片手をソキに預けてくれる。それを望む仕草を、そうされることの意味を、分からない男ではない。彼は『傍付き』だった。ふるえる手で両手を包み込まれ、瞳を覗きこまれて話される意味を。どこへもいかないでと願われる仕草を、分からない筈がないのに。ソキは何度もそうお願いしていたのに。こんなところに、首都でもないオアシスに。居る筈のないひとなのに。ラーヴェ、と震える声でソキが呼ぶ。
「どうして、ここにいるです……? 外勤になったです? ねえ、そうなんですっ……?」
ソキの育った『お屋敷』には、様々な職がある。ソキには詳しく知らされないので分からないことだが、それでも、屋敷勤めではなく諸国をめぐり、様々な報告を成す者たちがいることだけは知っていた。男は笑みを深めて、片手を持ち上げた。そっと、ソキの頬を撫で下ろす。はい、とも。いいえ、とも、言ってはくれなかった。その手にあまえて頬を擦りつけ、ソキは目を伏せて問いかける。
「おやしきを……辞めちゃったですか……?」
「はい、ソキさま」
「どうして……っ? や、やになっちゃったです? ラーヴェ、もう、いやになっちゃったですか……?」
男は、はい、とも。いいえ、とも告げなかった。そっとソキの頬を撫で、優しげな相貌に笑みを深めてみせる。それだけだった。男は問われた言葉そのものが正解から外れている時、はいといいえでは答えられない時、なにも言ってはくれないのが常だった。短い黄土色の男の髪が、冬の砂漠の濃い光を受け、淡い砂色の影を落とす。ソキを見つめる瞳は、宝石のような碧だった。最優の『花嫁』と謳われたソキの、幸福に揺れるひかりを宿した新緑の、パライバのトルマリンと囁かれるその瞳の。うつくしい碧に。とてもよく、似ていた。
「ラーヴェ……!」
男は『傍付き』だった。ソキが生まれて初めて触れた、『傍付き』だった。屋敷で冷遇され、できそこないと囁かれ続けた、男だった。『花嫁』を守りきれなかった『傍付き』と。そう呼ばれていた男だった。男は、ソキの母の『傍付き』だった。『花嫁』として嫁ぐ間際、次期当主たる男に手をつけられ、そのまま屋敷へ留まることになった少女を。守れなかった、『傍付き』だった。
「ソキさま」
それでも、男は、『花嫁』たる少女の傍を離れず。その死を看取ってなお、屋敷にあり続けた。彼女が産んだふたりの子が『花婿』として、『花嫁』として、育てられ。『傍付き』に守られながら成長していく姿を、いとおしく、見守っていた。
「ロゼアは優秀な『傍付き』です。必ずや、ソキさまをお守りすることでしょう」
「うん。……うん、ラーヴェ」
「……大きくなられましたね」
あなたが産まれた日を、つい先日のことのように思い出せます、と。目を細めて微笑む男に、ソキは泣きそうになりながら、うん、と頷いた。男は、ソキの質問にいつもうまく答えてくれない。欲しい言葉を返してはくれない。望みを叶えてくれることもなかった。男は『傍付き』だった。その献身は、愛は、たったひとりに捧げられ、尽くされ。永遠に時を止めた。彼の『花嫁』の死と共に。
「お綺麗になられた」
「うん……」
「……お母上に、よく、似てらっしゃいます……」
あなたさまの母君も、また、最優と呼ばれた『花嫁』でした、と。そのことをまるで懺悔するような声で囁く男に、ソキはうん、と頷くだけで精一杯だった。体の弱い方でした。うん。とびきり脆く作られてしまった方でした。うん。よく熱を出して。うん。寝こんでは起き上がれなくて。うん。それなのに外を見たいと、花を摘みたいとわがままを言って。うん。花遊びが好きな方でした。うん。ひとりで眠るのが嫌いな方でした。うん。手を繋いでくれていなきゃいやよ、と笑って。うん。手を離すとすぐに起きてしまう方でした。うん。砂漠の木々を透かして淡く揺れる陽光のような髪と、瞳の、誰よりうつくしい『花嫁』でした。うん。すこし、したったらずに、私の名を呼ぶ。うん。何度も、何度も、呼んでは、笑う。そんなひとでした。
あなたはとてもよくにている。うつくしい、いとおしい、懐かしいものをみる眼差しで。ソキを見つめ、頬を撫でてくれる男の名を、くちびるに乗せて囁く。
「……ラーヴェ」
「はい。……はい、ソキさま」
「ラーヴェ……!」
望みを叶えてくれることはなくとも。欲しい言葉をくれなくとも。問いかけに与えられるのが微笑みだけであろうとも。男は一度も、ソキの声を聞き逃すことはしなかった。したったらずに、あまく、やわやわと響く声が。名を呼ぶたび、囁くたび、返事をくれた。傍に来てくれた。産まれてすぐ母を失ったソキに、何度も何度も話してくれた。最優の『花嫁』と呼ばれた少女の話を。ソキはもう知っている。誰より理解している。『花嫁』は、『花婿』は、恋をしてそう呼ばれるようになるのだと。胸が苦しいまでの恋慕が、うつくしく脆い少年少女をそう呼ばせるまでに磨き上げるのだと。だから、もう、分かっている。『花嫁』は『傍付き』が好きだった。恋をしていた。誰より愛おしく思っていたのだ。ソキがロゼアにそうであるように。
『花嫁』はラーヴェを、愛していた。