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 どうしても辛かったら我慢などしなくていい。ロゼアを呼びなさい、とソキに告げてくれたのはラーヴェだった。それはソキが『花嫁』と呼ばれて幾許も経たない頃。胸に咲く淡い想いをソキが恋だと自覚せず、それでも周囲が『花嫁』だと認めてしまうほど、うつくしく儚く育ち始めた頃のことだった。まだソキが、十にもならぬ頃。ロゼアがまだ、『傍付き』ではなく、その候補として学んでいる最中のことだった。人の気配を遠くに退けた部屋の中でうとうとと眠るソキに、ラーヴェはやさしく告げたのだ。
 ソキの『傍付き』候補はロゼアの他にも何人か存在していた。どの『花嫁』も、『花婿』もそうであるように。数人の候補の中から選ばれてはじめて、彼らは『傍付き』と呼ばれるようになる。選ぶのは『花嫁』当人だ。誰の意志もそこには介在しない。けれども、ラーヴェには、ソキが誰を選ぶのかもう分かっているようだった。時間をつくっては『花嫁』の元を訪れる候補たちに、ソキは同じように接していたつもりだし、誰のこともとても好きだったのだけれど。それでもその中から、ロゼアを、とラーヴェは言った。あなたがこれから選ぶであろう『傍付き』を、とは言わず。ロゼアを、とはきと、男は囁き告げたのだ。
 ソキすらまだ自覚しない恋の向かう先を、知っていたかのように。呼ぶ、というのは嫁ぎ先に、ではない。連れて行く、呼びよせる、という意味ではなかった。それは、連れて行って、という懇願だ。連れて逃げて、という願いだ。『花嫁』として嫁いだ先がどうしてもあなたを苦しませるのなら、辛くて耐えきれないというのなら。枯れてしまう前に。ロゼアを呼びなさい。あなたの『傍付き』、あなたの最愛を。そしてしあわせになってもいいのだと、告げた、たったひとりの存在だった。『花嫁』には決して許されないその恋の成就を。ひっそりと許してくれた、たったひとりの、ひとだった。
 あなたは、そうしてもいい。告げられた言葉に、ソキはどうしても問うことができなかった。喉にひっかかった言葉は、いまも響くことがない。あなたは、というのなら。それをできなかったのはだれなのかと。
「ソキさま」
 跪き、微笑む男がうるむ瞳のソキを呼ぶ。与えた手でそっとソキのてのひらを撫でながら、本当にしあわせそうに、囁く。
「ロゼアは、必ずや、あなたのことを守るでしょう。……彼はほんとうに、優秀に、育ちました」
「ラヴェ……そんなことを、いわないで……」
『そんなことをいわないで、ラヴェ。……ラーヴェ。わたしの『傍付き』、わたしの……XXの』
 思い出の中で、『花嫁』の声が男に囁く。熱を出し、寝台に伏してもなおうつくしく、あいらしくあった彼の『花嫁』が。ソキによく似た女性が、弱々しい力で男の手を両手で包みこんでいた。どこへもいかないで。ここにいて。そばにいて。そう告げる仕草で、うっとりと瞳をまどろませて。
『XXの『傍付き』はラヴェだけよ。誰がなんといっても、そう。……ラヴェが悪いのではないのだもの。XXがいけなかったの。XXが、まちがえて、しまったの……』
 嫁ぎ先がもう決まり、出立を明日に控えた夜のことだった。しあわせを願われながら、いやだと泣きじゃくり、『傍付き』と離れたくない、一緒にいたいと『花嫁』は訴え続けて、眠りにつき。その傍を離れた、ほんの僅かな間のことだった。ラヴェだと思ったの、ごめんなさい、と言って『花嫁』は泣いた。あなただと思ったの。あなたと。しあわせになれると、ゆめをみて、しまったの。
『ラヴェがいるから、XXは枯れないで、いきていられるの……。すきよ、すきよ。ラーヴェ、すき……』
 包み込むてのひら、指先に頬を擦りつけて、ラーヴェの『花嫁』は微笑んだ。
「ソキさま」
 花のようにうつくしく、あいらしく。落ちる雫のように瑞々しく、砕ける水滴のように儚く。よく笑う『花嫁』だった。涙を滲ませることや、泣いてしまうことは、ほとんどなかった。そこだけ、ソキは、似ていない。震えるソキの目尻を指先でなぞって、囁くように男は告げる。
「あなたさまに、お渡しするものがあります……若君は預かってくださいませんでしたので」
 レロクは、それを断固として拒否した。腕を組み苦虫を噛んだような顔をして。会えるからお前が渡せ、と言ってラーヴェが屋敷を辞すことを許したのだ。数日前にようやくその許しはくだされた。泣くのを我慢してなぁに、と首を傾げるソキに笑みを深めながら、ラーヴェはやられたな、と思う。ぎりぎりまで引き留め、長期休暇で首都まで戻ってくるだろうソキと、会えるように調整していたのだろう。レロクは会えたら、とは言わなかった。会えるから、と言った。そういうことだ。ふすん、と不満げに鼻を鳴らし、ソキはもぅー、と怒ったような、拗ねたような声でくちびるを尖らせた。
「おにいちゃん、いじわるですぅ……」
「いえ。お優しいのですよ」
 魔術師として家を出た妹が、それを逃せばもう永遠に会えぬであろう男に、確実に再会できるように仕組んでから手放すくらいには。そんなことは絶対にないのでラーヴェは騙されてると思うですと言わんばかりの白い目に笑いながら、男は懐に納めていたごく小さな木箱を取り出し、ソキの見る前でその蓋をずらした。中におさめられていたのは、細身の金鎖で繋がれた、宝石飾りだった。さんざめく光を封じたトルマリンが、開いたばかりの花の形に切りだされ、金鎖の先端で揺れている。ラーヴェの手がそれを摘みあげ、ソキのてのひらに滑り落とす。きゅぅ、と握り締めて、ソキはすぐに気がついた。繋いでいるのは金鎖ではない。ぞっとするほど滑らかによじり合わされた、絹糸だった。金に艶めく絹糸が、ひとつぶだけ揺れる宝石飾りを繋いでいる。それは、『花嫁』を飾る、装飾品ではない。
「ソキさまのものです。……レロクさまのものも、用意されていました。お母上から、あなたがたに」
「……これ」
「ええ。……『花嫁』の剣帯です」
 それは、『傍付き』へ贈る、祈りだ。 永久に、我が愛する者を守りたまえ、と。嫁いで行く『花嫁』が、『花婿』が。傍付きに残すもの。数代前に絶えた筈の祈り。どうしてかそれはしてはならぬとされて、だからなにひとつ残せないまま『花嫁』は嫁いで行く。それがあったことだけを、ひそやかに『花嫁』は知るのだ。家に残った当主の言葉で。星に捧ぐ歌と共に。
「どうか、ロゼアに。……若君は、さっそくラギに渡していましたが」
 ラギ、というのがソキの兄、レロクの『傍付き』の名である。聞けば、喜べ授けてやる受け取れ、と言い渡して顔に向かってぶん投げたのだという。いいか避けるなよ、と事前に告げてもいたらしい。おにいさまなんでそういうことするですかなんでなんですかと遠い目になり、息を吐き、ソキはふるふると首を振った。
「ソキは、もう誰とも結婚しませんですよ。……ロゼアちゃんに渡せない、です」
「ご存知の通り、剣帯飾りを男性に贈る、というのは恋の告白でもあります」
 そちらの意味でも、どうぞお好きに、と笑うラーヴェに、ソキはぶわりと頬を朱に染めた。やあぁん、と花飾りを握った手で腕や肩をやわやわと叩く。くすぐったそうに笑うラーヴェに、ソキはやんっ、と声をあげた。
「ソキ、しない! しないですよ!」
「そうですか」
「んもおおおぉ……! ラーヴェは、どうして、もぉ……! ……んー、んぅー!」
 やんやんやぁん、とむずかって恥ずかしがって声をあげたのち、ソキはぷ、とふくれながら首を傾げた。
「ラヴェ? ……ねえ、ねえ。ラヴェは知ってたです?」
「……なにをでしょうか」
「ソキのお母様は……ラーヴェを、好きだったんですよ。あいしてました」
 たったひとり。ひとりだけを。
「『花嫁』が……『傍付き』に恋することを。お母様が、ラヴェを、好きなの。……知っていたですか?」
 あなたと、しあわせになれると、ゆめをみてしまったの。すきよ。だいすき。あなただけをあいしていたの。囁く声は今も鮮やかで。ラーヴェは目を伏せ、はい、と頷いた。
「彼女は私の『花嫁』でした。どうして分からぬ筈がありましょうか」
「……ラヴェ」
 すがるような、声が、ほんとうによく似ている。はい、と返事をする男に、ソキは目をうるませながら問う。
「ラヴェは、ソキの……おとうさまじゃ、ないんですか……?」
 ふたりは、とてもよく、似ていた。きめの細かい白い肌、ラーヴェの金とも違う色合いの髪は光に透けると砂の色になる。砂漠の砂の色。それは、ソキの髪色と同一だった。うつくしい宝石のような輝きを灯す瞳は、まるで生き写しだと囁かれた。前当主の子は誰もが、緑系統の色を瞳に宿したが故に、それを確定させることは誰にもできなかったのだが。宝石のように透き通り艶めく碧の瞳を持つのは、レロクと、ソキの、ふたりきりだった。何度も、何度も、囁いた記憶のある問いに。返された答えは、変わらなかった。
「彼女は、私の『花嫁』でした。私は、彼女の『傍付き』でした。……そのことを、あなたはご存知である筈だ」
 頬を撫でる手はやさしく。ソキは目を伏せて、息を吸い込んだ。
「じゃあ……ラヴェは、お母様のこと、どう思ってたの……?」
 男は繰り返して告げる。彼女は私の『花嫁』でした。
「誰よりうつくしい私の『花嫁』。……彼女こそ最愛の……私の宝石」
 なにか告げようとして、ソキは背後を振り返る。姿は見えない。声も聞こえなかったが、ソキ、とロゼアに呼ばれた気がした。もう行かなくちゃ、とラーヴェの手を一度だけ強く握り、ソキはそこから指先を離した。男は跪いたまま、ソキに向かって頭を垂れる。
「ソキさま。どうぞ……どうぞ、お健やかに」
「……うん」
 その肩に指先を乗せて身を屈め、ソキは男の額にそっとくちびるを触れさせた。身を離し、なにも告げず、ゆっくりゆっくりとソキは立ち去っていく。立ち上がり、ラーヴェはその背を目を細めて眺めていた。人ごみにまぎれ、その姿がちいさくなり、見えにくくなっても。ソキがロゼアの元に帰りつき、その腕の中に抱きあげられてしまうまで、ずっと、見守り。やがて、身を翻して、雑踏の中へと消えて行った。



 あれロゼアちゃんがずっとだっこしててくれてるです、とソキが気がついたのは、夕刻の陽が射す茜色を背景に、駱駝に水を飲ませている最中のことだった。都市とも呼べぬちいさなちいさなオアシスには、あともう一時間程で到着する、小休憩の最中のことである。ロゼアはソキを抱く腕を右、左、と時折入れ替えるだけで、その体をどこかへ預けてしまうことを決してしなかった。ラーヴェの元から戻って来てからずっと。ロゼアはソキをその腕の中に抱きあげたままである。ソキとしても嬉しいので、別にそれはかまわないのだが。
「……ロゼアちゃん」
「うん?」
「もしかして、ちょっぴり、不機嫌さんなんです?」
 ロゼアの赤褐色の瞳がソキを映し、やんわりと笑みを深める。そんなことないよ、と言わんばかり背を撫でてくる手にうっとり甘えながら、ソキはふあふあとあくびをし、どうして、と囁き問われるのに、だってぇ、と言った。
「だっこはしてくれてるですけどぉ……なでなで、してくれない、です」
「うん? してるだろ?」
「そうなんですけどぉ……!」
 言う間にもロゼアのてのひらが、ソキの髪をかるく梳いて行く。すねた気持ちで頷きながら、ソキはでもでもぉ、とくちびるを尖らせた。いつもと、なんだかちょっぴり、違うのである。なでなでも、軽く、なで、くらいで、いつもみたいにたくさんはしてくれないのだった。ロゼアが駱駝の手配をしている間、ラーヴェに会いに行っていたソキを抱き上げてくれてから、ずっとずっとそうなのである。人波に押し流されてふらふら、よろよろ歩いて、息切れを起してくったりしていたソキが飴屋の前で休憩していたせいで、ロゼアは甘味に興味をひかれて出歩いたと思っているらしい。
「ソキ。……ソキ、ソキ、ソーキ」
 こつ、と額が重ねられて、目が覗き込まれる。ソキはぷぅっとふくれたい気持ちになりながら、はい、と何度か返事をした。はい、なぁに、ロゼアちゃん。ロゼアはソキを抱く腕にやわらかく力を込めて、目を細めながら囁いた。
「ソキ」
「ロゼアちゃん? ……なぁに? なんですか? ロゼアちゃん」
 なで、とごく軽く、ロゼアの手がソキの髪を撫でて行く。んもおおぉ、ともぞもぞしながら、ソキはロゼアにぴとっとくっつきなおした。
「ロゼアちゃん、なでなでして? ソキ、ロゼアちゃんになでなでもしてもらいたいです。ねえねえ、なでなでして?」
「うん。いいよ」
 ようやく、ロゼアの手がソキの望むように、触れてくる。指先に髪を絡めてするすると梳き、背を抱き寄せるようにしてぽんぽんと触れ、頬を包み込んでぬくもりを与えてくる。それに心から安心しながら、ソキはロゼアの腕の中で目を閉じた。あれそういえばロゼアちゃんがずっとだっこしてくれてる気がしてるんですけれどもあれ、ということにソキがもう一度気がついたのは、その日の夜の眠る直前のことで。ねむくて。すぐに眠ってしまった為に。ソキがそれをロゼアに問うことは、ないままだった。



 王宮魔術師にも年末年始の休暇、というものは存在している。その年によって微妙な差があるものの、だいたいは十日前後。『学園』の休暇がはじまる十二月から二月半ばにまでかけて数人ずつ、交代で取っていく休みを、王宮魔術師たちはことのほか楽しみにしているのだが。なににでも例外はある。おねがいへいかねえねえおねがい、ととびきり甘い笑みを浮かべて長椅子に腰を下ろした己の主君の手をそっと握り、その前にしゃがみこんでねだるウィッシュも、その特例の一人である。えええとえっとあのね、とそわそわ視線を彷徨わせる白雪の女王に、ウィッシュはあいらしく、かつ艶やかな笑みを浮かべて、包みこんだ主君の手先に口付けた。
「おれのおやすみ、なかったことにして……?」
「な、なんで毎年、毎年……! そんなに休みたくないのっ?」
 目がしあわせな毒にやられる、とふるふる涙ぐむ白雪の女王に、ウィッシュは心からの笑みでうん、と頷いた。だって俺別に帰省とかしないし。そうするとほんとにやることないし。仕事してたいお仕事好きだよ、とのほほんと告げるうウィッシュから、なんとか、手を奪い返し、白雪の女王は傍らに座っていた青年に、ふるえながら縋りついた。よしよしよし、と妻たる主君の髪を撫でつつ、護衛騎士姿の青年が笑いながら息を吐く。
「困ったねぇ……。なにもしないなら、しないでもいいんだよ? 部屋で寝てるとか」
「さむいからやぁだ」
「『学園』の寮の部屋を貸してもらうとか」
 にっこりと笑みを深め、女王の夫は王宮魔術師の要求を却下した。いま僕の妻妊娠中で不安定なんだからこれ以上は困らせないでくれるかな、さもないと刺してはねて裏庭に埋めるけどいいよね、と言わんばかりの微笑みに、ウィッシュはううぅ、と涙ぐみながら首を振る。
「だって、おやすみだからってさぁ……りょうちょも、お前いいから帰れよとか言うんだもん……ソキとロゼアは帰っただろ? ついでにお前もいい加減帰れって。……やだ、やぁだ……おれ、ふぃあに嫌われたら、いきていけない……しぬ……しぬ、ぜったいしぬ、枯れちゃう……」
「……ふぃあ、というのは?」
「シフィア。俺の傍付き。ソキに対しての、ロゼアだよ。王陛下」
 白雪の女王の夫は、呼称に対して涼しげな笑みを深めて首を振った。
「この国に王はひとり。彼女だけだよ、ウィッシュ。僕はその護衛騎士で、夫でもあるだけ」
「そうです。この国を治める王は我が君おひとり! つまり! これを殺しても! 反逆罪には問われないんですううううええええええんお願いですお願いです私の姫君! お願いですからどうぞ私にこれの殺害許可を……! 私が蝶よ花よとお育てした我が姫君のじゅ……じゅんけつをうば……った、のみならず、に、にん、しん……まで、させたこの! 不届きものの首をはねておしまいと私にお命じください陛下あああああ!」
「そうです陛下ああああ! 首吊りたいくらい不本意ですが陛下の教育官と同意見です陛下あああああ!」
 この男ぶち殺させてくださいへいかへいかああああっ、と涙ながらに頼んでいるのは、ウィッシュの同僚たる王宮魔術師エノーラと、女王の教育官たる女性だった。女王はやや死んだ目でだめ絶対にだめと首を振り、疲れたように夫にしなだれかかって息を吐き、目を閉じる。青年が苦笑しながら女王の髪や背を撫でさすると、女性二人からは、ひいいいいいいっ、だの、いやあああああっ、だの声があがる。騒がしいというかけたたましい。ぐったりしきった様子で、女王はすりすりすり、と夫に甘え、うすく目を開いてウィッシュに告げる。
「この二人を静かにさせてくれたら、お休みなし、考えてあげても良いよ……?」
「え、えぇえ……。俺、手加減とか、あんまり上手くないんだよね……?」
「ちょっとウィッシュ! アンタなんで殺しちゃったらごめんね? みたいな顔してこっち見てるのよ!」
 てへっ、と恥じらった笑みを浮かべながらウィッシュは立ち上がり、ふたりの女性をまっすぐに指差した。その足元を風が駆け抜け、魔術師のローブがばたりとはためく。ここで戦ってもいいとも言ってないんだけど、なー、と遠い目をした女王の呻きは誰の耳にも届かない。風よ、と微笑みながら告げ、ウィッシュは壁に張りつけられた暦表にふと、目を向けた。十二月がはじまって、二週間と半分。馬車で屋敷へ向かうロゼアを呼びとめ、フィアにしーってしておいて、とお願いしてから、もうそれだけの日が流れていた。『扉』を使えば一瞬の隣国。そこにウィッシュの、戻れない楽園がある。そろそろふたりは、帰りついた頃だろう。楽しい休暇であればいいな、と思い、ウィッシュは魔術を解放した。
 結果、二名昏倒。その他の被害、窓硝子三枚粉砕。よって休暇取り消しは保留、と告げられ、ウィッシュはくすんと鼻を鳴らして落ち込んだ。



 ソキの生まれ育った場所は『お屋敷』と呼ばれている。大きな屋敷だからそう呼ばれているのではない。それは『花嫁』たちを育成する機関の総称であり、広大な敷地に密に咲く花弁のような形につくられた無数の建物の総称であり、その場所そのものの呼び名であった。他国には中々理解しがたいものなのだというそれを、手っ取り早く理解させる為に、だいたいはこう説明される。王の住まう城や庭、敷地の総称として『王城』と呼ぶのと同じ感覚で、砂漠の民はその場所を『お屋敷』と呼ぶ。『花嫁』と『花婿』が育まれ、彼らに献身を尽くす『傍付き』を育成する為の場所があり、生活させる為の棟があり、当然、その他の使用人たちが暮らす住居もそこへ含まれる。『お屋敷』とは砂漠が有す小規模な国である。そう受け止めるのが他国には一番分かりやすいのだ、となにかでソキは耳にしたことがあった。
 ソキはその中の最深部で生まれ、ごく限られた区画の中で育った。普段の生活は『花嫁』に与えられたその区画の中、上空から見れば密に咲く花弁のひとひらに相当するであろう建物の中で過ごし、そこから外へ出ることはない。だからこそソキは、己が生まれ育った『お屋敷』が具体的にどれくらいの広さで、どこになにがあって、誰がどこにいて、というのをまったくもって知らなかったし、いまも分からないままである。ソキが分かるのは、正面玄関から入った時の当主の部屋までの道順と、そこからソキの区画へと帰る道筋。ソキの区画から、一番近くの出入り口へ向かい、外へ、市外へ向かう行き方。その三つである。
 その三つですら、かろうじて、なんとなく、分からないこともないというか思い出せないこともないというか迷わないで行けない気がしなくもない、というとてつもなくあやふやなくらいである。『花嫁』は己の足で出歩かないし、道は覚えなくて良いものだ。白雪から戻る旅の最中、ソキがまっすぐに『お屋敷』を目指し辿りつけたのは、真正面からオアシスに入り、馬車道をそのまま辿ったからである。屋敷から迷わず外へ飛び出して行けたのは、部屋から出た廊下に、等間隔に飾り灯篭が火を揺らしていたからだ。それを辿るだけで、外に出ることができたのである。案内妖精がいたことも大きいだろう。行く道は、ただ導かれてそこにあった。ソキが選んで考えたのとは、すこし違うのだ。
 王都の城門前で駱駝から乗り換えた、ゆっくりと揺られる馬車から眺められる道にも、すぐに興味を失ってしまった。城から『お屋敷』まではすぐ近く、ということくらいソキも知っていたし、分かっているのだが、どうもいまひとつどの辺りにいるのか分からないせいでつまらない気持ちになってくる。馬車より駱駝の方が楽しかったです、とソキはロゼアの腕の中でうとうとしながら考えた。もうちょっと。もうほんのすこしで、お屋敷なので。そうしたらきっとだっこも終わりだし、そうしたら、もう、ロゼアは。本当の、ほんとうに。傍付き、を。ソキの、ソキだけの、それを。やめて、おわりにしてしまうかも、しれない。
 だってロゼアは、ソキの傍付きじゃないよ、と言ったので。



 言う訳なかろうが考え直せ真剣にだ、と呆れ果てた顔でこそりと吐き捨てたのは、屋敷の一室で再会した、兄レロクだった。『お屋敷』の次期当主でもある兄はすでに全権を掌握していながらも、なお次期と呼ばれ若君と呼び慕われているが、その細かい理由はソキには分からないままだ。なにやら複雑な手順と、もうすこしばかりやりこなさなければいけないことが残っているとのことだが、ソキは知っている。『学園』に呼ばれ、この『お屋敷』に立ち寄った時にはまだこの建物のどこかに住み、存命していた前当主を、ソキとレロクの血の繋がっているであろう父親を、追い出し弑逆してのけたのは、他ならぬこのうつくしい青年であることを。
 ソキの兄は、その中でも唯一血の繋がっているレロクは、最優の花嫁の目から見てもひどくうつくしい。その、なにをしてもなにを言っても許されてしまうような磨き整えられきったうつくしさ故に、常に常に上から目線でものを言ってくるレロクに対して、ソキは説明しきれない複雑な思いが、それはもうたくさんあるのだが。それでも実のところ、大好きな兄のひとりである。久しぶりの再会で、すこしばかり甘えた気持ちで、ぷぷぷ、と頬をふくらませ、ソキは腕組みをしてちょこり、首を傾げてみせた。ソキの傍にいるのはレロクだけで、二人は次期当主の為の執務室に運び込まれた、特別上質なソファに腰をおろして向き合っていた。
 開け放たれた窓からはさわりと風が吹きこんでくる。『お屋敷』特有の、花と水と、緑の香りがする、瑞々しく懐かしい香りに染められた風が。それをするりと喉に吸い込みながら、ソキは咳き込むことなく言葉を紡いだ。
「言ったですよぉ、ロゼアちゃん。……ソキに……いったです。いったもん。いったぁ!」
「言う、わけ、ない、と、言っておろう、が……!」
「やぁんや! やぁんやぁん! おにいちゃん、いじわるぅ、やぁんやぁ……! ラギさんー! ラギさぁん! おにいちゃ……おにいさまがぁ、ソキのこと、いじめるんですよぉ! 指でほっぺぷにぷにってぇ、してくる、ですよぉ!」
 怒って怒って、ねえねえっ、と視線で訴えるも、次期当主の側近であり、花婿であったレロクの傍付きである男は、やわらかな響きの声で青年の名を一度、呼ぶだけでその場に留まった。部屋にいるのはそのラギと、男の前に立つ青年と少女、そしてソキとレロクの五人だけだった。ロゼアの姿はない。ほんのすこし前、ロゼアはソキのことを少女に託し、部屋を出て行ってしまったからだ。その原因も、おおまかに、ソキの目の前にいるこの兄である。んもおおおおおにいさまはほんとうにもおおおお、とむくれるソキに、ラギの傍らにいる少女が微笑みかけてくれる。もうすこしですからお待ちくださいね、と告げる、温かで親しげな笑みだった。
 きゃああメグミカちゃんっ、と数秒前の怒りをぽいっと捨てたごきげんな声で少女に向かって手をふるソキに、レロクはすこしばかりもの言いたげな目を向けてきた。お前はなんで俺にはちゃんと懐かぬのだ、と言わんばかりの視線だった。そんなのは決まっている。ロゼアを数ヶ月解雇、未遂、したのが、他ならぬこのレロクだからである。視線をぷいっとばかり無視すれば、傍らからは深々と息が吐き出された。
「ロゼアは、言わぬ。……それは本当にロゼアが、お前に、そう告げたのか? 己を、お前の、傍付きではないのだと」
「言ったぁ……です……?」
 なんだか、そんなに否定されると、ソキにも自信がなくなってくる。確かにロゼアはそう言った気がするのだが。すごくすごくするのだが。ソキに明確にそう告げたのはメーシャであって、ロゼアは、ソキの傍付きではない、とは言わなかった気がする。『花嫁』じゃないよ、と言っただけで。涙目でそう訴えるソキに、だーかーらー、とレロクは額に指先をそえて息を吐き出した。
「それも、本当にそう言ったのか、と聞いているのだ」
「ほんとに? そう? です?」
「あれが? ……あんなに、傍付きの領域を踏み越えてお前を手折りそうだったロゼアが? お前を花嫁ではないと? ……言う訳なかろうが……! どうせまたお前がひとのはなしをちゃんと聞かないで、勘違いしているか思いこんでいるだけだろうよ。言ったとしても、まあ……『花嫁』だった、あたりが限度だろう。それにしても職業的な区分であって、厳密には『花嫁』『花婿』は職業ではないにせよ……お前は魔術師のたまごだ、ソキ。世界においてはそちらが優先されるし、お前はもう『砂漠の花嫁』として何処へ嫁ぐ必要がないし、ロゼアはそれを送り出すことがない。おおかた、そういう意味での『だった』であろう。そういう意味でロゼアが、お前を、離す理由が……離れられる訳がない」
 あれは『傍付き』だ、と。『学園』なら誰も言わないであろう決定的な、静かな断定の口調で、レロクは言い切った。
「己の『花嫁』の、『花婿』の傍に……なにを捨てても、なにを壊しても、どんなことをしても、別れがくるその瞬間までは、誰よりも傍にい続けたいと、願って、努力して……そして完成するのが『傍付き』だ。俺たちと同じように、あれらもつくられる。教育され、整えられる」
「じゃあ、なんでいま、ロゼアちゃんどこかへ行っちゃったですかぁ……!」
 いまですよ、いま。ソキは今のおはなしをしてるです、とすねすねにすねきった声で呟かれ、レロクはソファに座ったまま、ふんぞりかえって言った。
「俺がロゼアを嫌いだからしっしってしたに決まっているだろうが。お前も見ていたくせに、なにをいまさら」
 なにせソキとロゼアが部屋に辿りついた瞬間に、もういいぞお前は帰れ、と告げたくらいなのである。んもおおおおっ、とソキが同じくソファに座ったまま、じたばたじたばたと暴れ出す。ロゼアちゃんどっか行っちゃったですううううっ、と半泣き声が、ふあふあと響かず、空気を震わせた。

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