いずれ『花嫁』と呼ばれる少女が恋をする相手は、傍付き候補の中の異性であると限られている訳ではない。同性を『傍付き』として求める者もいる。どうすることもなく、己の意志など関係なく落ちてしまう恋の相手に。ソキが選んだのはロゼアだった。淡い想いが、胸をときめかせるそれが、どうすることもできない恋なのだと。自覚し、くちびるで触れた相手が、ロゼアだった。どうしてロゼアにそう思ったのかは分からない。ただ、息を吸い込むことが、震えるほど苦しいと。想うだけでひたひたと胸を満たすあまい感情を。恋だと思わせたのは、ロゼアだった。他の、誰でも、なかったのだ。
メグミカはソキの傍付き候補だった。傍にいるだけで幸福になれる、きらきらした喜びを、教えてくれる相手だった。そして、それは今も変わってはいない。繋いだ手からじわじわと染み込んでくるようなしあわせに、ソキはふにゃん、とあまい笑みを浮かべて視線を持ち上げる。
「めぐみかちゃん、めぐみかちゃん!」
「はい、ソキさま」
「めぐみかちゃんだいすき。すきすきだいすき、だぁいすきです」
ソキねえメグミカちゃんに会いたかったです、とってもですよ、ほんとうになんですよ、とふあふあした笑顔で告げるソキに、メグミカはとび色の目をうるませながら、穏やかな仕草で頷いた。
「ソキさま……メグミカも、ソキさまのことが、とてもとても好きです」
「ほんとっ? めぐちゃん、ほんとう……?」
「はい、もちろん。本当です」
きゃぁ、とはしゃいだ声をあげて繋いだ手にきゅぅと力を込め、ソキはてち、てちっとゆっくり廊下を歩いて行く。足取りは不安定で危なっかしく、すぐにも転んでしまいそうだったが、メグミカとしっかり繋いだ手がなんとかソキを歩かせていた。んと、んと、と考えながら、ソキはてちっと足を踏み出し、んんぅ、と眉を寄せて首を傾げる。歩く、ということがあんまり久しぶりで、ラーヴェを追いかけた時はあんまり急いでいたので気にもならなかったのだが、ちゃんとできているかどうかが分からなくなってしまったのだ。んとぉ、とまた危なっかしくてちてちと歩き出すソキに、メグミカはやわらかな笑みを崩さないままつき従って行く。いまは傍にいないロゼアの代わりに。ソキはロゼアの不在を思い出してしまい、ぐずっと拗ねた風に鼻を鳴らすと、ろぜあちゃんいつかえってくるですかぁ、としょんぼりした声で問いかけた。
「お屋敷ついちゃったですから、ロゼアちゃんもうしばらくかえってこなぁ……です……?」
「いいえ、ソキさま。そのようなことは決して。ロゼアは用事を済ませたら、すぐにソキさまの元に戻りますわ」
ちょっと離れるけど、すぐに戻ってくる。ロゼアもそう言っていたでしょう、と穏やかな声で囁くメグミカに、ソキは目をうるうるさせながらくちびるを尖らせた。
「……そきがまんできるぅ、です、よ」
「はい、ソキさま」
「うー、うぅー……! もおぉ……! ソキ、おにいちゃんきらいきらいですぅ! おにいちゃ、いいぃっつもロゼアちゃんいじめるぅ……!」
例え用事があったとしても、レロクが追い払ったりしなければ、もうほんのちょっとだけロゼアは傍にいてくれたかも知れないのに。もぉー、もおぉっ、とぷりぷり怒りながら、ソキはきっと眼前に広がる、見知らぬ場所を睨みつけた。レロクと再会した当主の為の部屋はすでに背に遠く、ソキは自分の部屋に帰る最中なのである。どこもかしこも、お屋敷をろくに歩いたことのないソキには見覚えのない景色ばかりであるが、不安はまったく覚えない。メグミカが一緒にいてくれるからだった。手を繋いで、隣にいてくれるからだった。メグミカは絶対に、ソキに悪いことをしない。怖いことも痛いことも。悲しいことも、辛いことも、絶対にしない。ロゼアがそうであるように。
ねえねえメグミカちゃん、と隣から囁かれる道順通りにてちてち歩きながら、ソキは不思議そうに首を傾げた。
「メグミカちゃん、お仕事、なにしてるですか……? ソキの……ソキのお世話は終わっちゃったです」
「ソキさまがお戻りの間、メグミカは常のようにお傍におりますよ」
「ほんと……っ? ソキ、うれしいです……!」
お前は嫁いだことになっている、とレロクは告げた。ロゼアは『花嫁』を嫁がせたあと、外勤に異動したことになっている。その上でロゼアは魔術師として『学園』に招かれ、学んでいるとされているが、ソキも同じなのだと知るのはごく少数である。ソキの身の回りの世話をしていたほんの数人と、ロゼアと同年代以上の『傍付き』たち。そして屋敷の上層部にしか、それを知らせていないのだとレロクは、『お屋敷』の跡継ぎは言った。ロゼアはともかく、ソキはそうするしかなかったのだと。最優の『花嫁』であったソキは無事に嫁ぎ、しあわせになった。その事実が『お屋敷』にはどうしても必要だったのだと、レロクは舌打ちしながら告げ、ラギにはしたないとたしなめられていた。それをうるさがりながら、ただし、ともレロクは言った。ある程度なんとかすればお前が屋敷にいてもバレはしないと思うがな、と。
その理由が、ソキが歩けることにある。例えてちてちちまちました動きであろうとも、『花嫁』は基本的に、歩けるようにはつくられない。屋敷内であればほぼ常に傍にある『傍付き』がまずそれを許さないし、『花嫁』も自ら動こうなどということは、考えるものでもないのだった。ソキは歩ける。その脚で、どこへも行けると、もう知っている。だから顔さえ隠してしまえば、あるいは出歩くことも可能だろう、とレロクは言った。ただしロゼアかメグミカのどちらかは供につれて行けお前はすぐ転ぶのだろうからな、と言い放たれて、ソキはおにいさまなんて嫌いですソキもうお部屋にもどります、と頬を膨らませた。ソキの住んでいた区画。『花嫁』の部屋に、である。
複雑な屋敷を、恐らくは人の目を避けて進んでいたであろうメグミカの気配が、ふと柔らかくなったのは長い廊下を抜けた後のことだった。そこでようやく、ソキはわぁ、と顔を輝かせる。どこにいるのか、ソキにも分かった。等間隔に取りつけられた灯篭の金具は、金と碧。ゆるく循環する空気に、さわやかな花の匂いが染み込んでいる。廊下には一面、毛足の長いじゅうたんが敷き詰められ、万一の事態に備えられていた。磨き上げられた壁や天井は一面の白。真珠の光沢をもつやわらかな白色が続いて行く廊下に、ひかりが満ちている。『花嫁』の区画。ソキの区画だった。すこしだけだるかった脚が、回復魔術も使っていないのに、痛みを忘れて前に踏み出す。
ソキさま、と淡く呼ぶ声にメグミカを見上げ、ソキは満面の笑みでくちびるをひらいた。
「メグミカちゃん。……ただいまです」
この場所はいつか、他の『花嫁』のものになる。それでも今はまだ、ここが、ソキの、帰ってくる場所だった。何度も何度も旅行に出され、そのたび、ここへ戻ってきたように。メグミカは言葉なく目をうるませ、一度、しっかりと頷いて。
「おかえりなさいませ、ソキさま」
囁いてくれた言葉に、ソキは繋いだ手を頬にくっつけて。すりすり甘えながら、うん、としあわせに頷いた。この場所が永く、帰ってくる場所だった。この先、必ず失われてしまうものだとしても。その光景をずっと、忘れはしないだろう。しあわせにみちた空気と、ひかりと。そこで、待っていてくれたひとのことを。
メグミカに連れられて戻った懐かしい部屋で、ふかふかの椅子に腰を落としながら、ソキはながい旅の話を、した。傍らに跪くメグミカの両手を包み込んで持ち、その目を覗き込むように見つめながら、あまえた響きの声でおはなしきいて、と囁いた。ソキね、白雪の国にいたです。メグミカちゃんと、ロゼアちゃんがくれたアスルを馬車にぽいって、されて、皆、帰されちゃって、ソキ、ひとりで、おへやにいて。はい、とメグミカは囁き、ソキの言葉をしっかりと聞いてくれた。時折泣きそうな色を、怒りに鋭く研がれた獰猛な意志を瞳によぎらせながら、決してソキにそれを悟らせず。穏やかに、やさしく、ソキの言葉を促してくれた。だからこそはじめて、ソキは胸につかえていたくるしさを、言葉にしてくちびるに乗せることができた。それはロゼアには、しなかったことだ。ロゼアだからこそ、できなかったことだ。
悲しいこと、苦しいこと。辛いこと、痛いこと。体調を崩すほどの感情の揺れ動き。『花嫁』の意志ある歩み。それによる怪我。それは、全て、ロゼアに向けられる叱責となる。ソキはそれを知っていた。ソキのせいでどれほどロゼアが怒られ、なじられ、ひどい言葉を投げつけられていたか。『学園』でそうする者はいないだろう。ソキにも、それは分かっていた。けれども、できなかった。ロゼアには楽しいことだけを選んで話した。旅の間にあった、心弾むことだけを。それ以外の全てを、ソキはゆっくり、メグミカに囁き告げた。物語は白雪の一室からはじまる。部屋に閉じ込められたこと。こわくてきもちわるいことをされて、それに、たえたこと。メグミカと、ロゼアを、待っていたこと。
ふるえる指先に力を込めて、ソキは待ってたんですよ、と囁き告げた。
「メグミカちゃんも、ロゼアちゃんも、ソキをしあわせにする為に、『花嫁』に、してくれたです……ソキは、その為に『花嫁』になったんですよ。だからね……」
きっと嫁ぐとしてもあの場所じゃなかったです。耐えて、待っていれば、必ず誰か迎えに来てくれたです。だからソキね、ちゃんと、怪我しないように、お熱とお咳がでないように、お部屋でじっとしてたんですよ。ふわりと笑ってソキは告げた。けれども。『花嫁』を迎えに来たのは、『お屋敷』からの人員ではなく。手を差し伸べ部屋から連れ出したのは、案内妖精。魔術師の導きだった。
「ソキ、はじめてひとりで、お外にでました。はじめて、ひとりで、たくさん、歩いたです……でもね、すぐね、あしが……痛くなっちゃったです……あるけなくなっちゃうです。ころんでね、いたくてね、でも、ロゼアちゃんがいないの……」
ロゼアちゃんに会いたくて、たくさん、たくさん探したです。馬車はいやだったです。きもちわるくなるです。もしロゼアちゃんが歩いてたらソキわからなくなっちゃうから、だから。あるいたの。リボンちゃん。案内妖精さんね、リボンちゃんっていってね、リボンちゃんいっぱい怒ってね、でもね、ソキね、あるいたの。はい、とメグミカは囁いた。泣きそうなソキの頬に手を押し当て、ゆるゆると撫でさする。
「頑張りましたね、ソキさま。ほんとうに、よく……さすがは、ロゼアのソキさまです」
「……ほんとう?」
「はい。メグミカはソキさまに嘘を申し上げませんよ。……たくさん、たくさん、歩いたのですね」
ソキさまがほんとうに頑張られて歩けるようになったと、メグミカは先程見せて頂きました。目を細めてうっとりと告げる少女に、ソキはうん、としあわせな気持ちで頷いた。続きを聞かせて頂けますか、と促され、ソキはそっとくちびるをひらく。
「……ロゼアちゃんは、どこにも、いなかったです。お屋敷にかえってきて、おにいさまが……ロゼアちゃん、やめたって、いって。もう、いないって、いって、ソキ……ソキ、ロゼアちゃんに会いたかったです。やめたって、うそだって、おもって、でもロゼアちゃん、呼んだのに。ソキ、いっぱいいっぱい呼んだのに、ロゼアちゃん、きてくれなくて……! ソキ、だから、ロゼアちゃんを追いかけることに、したんですよ。ロゼアちゃん、楽音の国境を越えたって、聞いて、方向は一緒だったから、どうしても、どうしても会いたくて……」
一目でもいい。話せなくてもいい。ただ、会いたい。それだけで、その気持ちだけで旅を続けたのだと告げるソキに、メグミカはちいさく頷いた。そうしながら、思わず、声を低めて吐き捨てる。
「もう、ラギさんはどうしてソキさまに、そこのところ説明してくださらなかったのよ……ロゼアが学園に向かう為に屋敷を離れたって、そこで説明してくれていればソキさまの悲しみがだいたい解消したでしょうに……! どうにか……どうにかラギさんを殴る方法はないのかしら……二回……いや三回くらいで我慢するから、ラギさんを殴って、かつ若君にバレずそしてラギさんからかえりうちにされない方法が……! 思い浮かばない……! あああああでも殴りたいの一回じゃなくて三回くらいはこう」
「ふにゃ? めぐちゃん、なぁに? なんて言ったです?」
「いいえ、ソキさま。それで……? 最後は、ロゼアに、会えたのでしょう?」
旅物語は学園で幕を閉じる。幾度となく繰り返される体調不調と、会えない悲しみ、苦しさの果てに。それでも歩いて、ようやっと辿りついた学園で、ソキはロゼアの腕に帰ったのだ。うん、と瞳に涙をうるませ、幸福に微笑み、ソキはながい物語を締めくくった。
「ソキ、ロゼアちゃんに、会えました。……あのね、いちばん最初のね、夜にね」
「はい。学園での?」
「うん。入学式が終わって、夜にね、眠る時にね、ソキね。……うれしくて、うれしくて、しあわせだったです」
いまも。ロゼアの腕に抱きあげられ、その中で瞼を閉じてまどろむ瞬間が、ソキの幸福だ。その腕の中で眠りたかった。世界で一番安心できる場所。幸福の全て。その腕の中で眠ることができなかった長いながい、旅の果て。抱き寄せられたぬくもりが、すべての悲しみ、苦しみ、痛みも、辛さも、溶かして消してなくしてしまった。そこにあるのは穏やかな恋だった。ひたすらに満たされる幸福と、あまいときめきをもたらす、そんな恋だった。それが最近、すこし変わってしまったことを思い出して、ソキはきゅぅと眉を寄せた。しあわせは変わりなく、そこにある。安心も、あまいどきどきも、ロゼアの腕の中で眠る幸福に寄り添っている。それなのに。それだけではなくなってしまった。
胸の奥が、いたい。
「しあわせ、なのに……」
すきで、すきで。だいすきで。それだけで満ちていた恋が、痛みを発するようになった理由は、ソキがきっとワガママだからだ。求めてしまった。それが叶わないと知っているのに。そうなれないと、分かっているのに。好きになって欲しい。ロゼアに。『花嫁』としてではなく。『傍付き』としてではなく。ソキが、ロゼアに。恋を、して欲しい。そんなことができるわけがないのに。ソキはロゼアの『花嫁』だ。そうして一度完成してしまった。メーシャはソキを、もう『花嫁』ではないと、言ってくれたけれど。完成してしまったものは変わらない。ソキも。ロゼアも。ソキは分かっている、知っている。ソキはロゼアの『花嫁』だった。だからこそ。ロゼアをしあわせにできる、おんなのこには、決してなれない。
ふ、と。部屋を目指してくる足音を聞きとめて、ソキは顔をあげた。視線を、扉のない部屋の入口に向ける。ソキの区画は使われていない筈の場所だ。そこを目指してくる者があるとすれば、事情を知る誰か、である。足音は、ふたつ。首を傾げるソキが待つ間に、足音がゆるりと部屋の前で止まった。入室許可を求める声よりはやく、ソキは顔を輝かせ、人影に向かって両手を伸ばす。
「ロゼアちゃんの……!」
とん、と椅子から滑り降りた足が、床の上でちいさな音を奏でる。ソキさま、と驚いた声をあげるメグミカの隣でふらりと立って、ソキはよろこびにきらめく声を震わせた。
「ロゼアちゃんの、お父さんと、お母さんですっ……!」
「ソキさま。おかえりなさいませ」
ソキが入室を許可する言葉を与えなかった為だろう。戸口で跪き、挨拶をしてくれる男女に、ソキはててて、と走り寄ろうとした。したのだが。ぐらっ、と体が揺れる。やんっ、と声をあげてソキが転びかけた。瞬間だった。
「っ……!」
息をつめ、伸びてきたいくつもの腕が、てのひらが、毛足の長い絨毯にソキの体が倒れ込むよりはやく、それを支え切った。ソキの背後で抱き支えるようにしたメグミカの安堵の息が漏れる。ソキの肩から指先を離し、男が柔らかく微笑んだ。頭を庇うように腕を回しかけていた女が、にこにこ、笑いながら跪きなおす。えっと、と目を瞬かせ、ソキはやぁんっ、と瞬間的に頬を赤く染めた。
「ソキ、そういえば、あんまりうまく走れないでした……! メグミカちゃん、ハドゥルさん、ライラさん。ありがとうございましたです。ごめんなさいでした。ソキ、ちょっとうっかりしてました……。嬉しかったです……」
ロゼアちゃんのお父さんとお母さんにね、ソキお手紙書いたですけどね、会いたかったんですよ、と微笑まれて、跪く男女が笑みを深める。ハドゥル、というのがロゼアの父の。ライラ、というのが母親の名だ。ともにゆったりとした白の上下に身を包み、花の意匠のこらされた鮮やかな色の帯を締めている。ロゼアの髪と瞳の赤褐色は母から、煮詰めた飴色の肌は父から受け継いだものであるが、全体的な雰囲気はライラに似ている、とソキは思っていた。赤褐色の髪と瞳をしたやや小柄な女性は、やさしい、うっとりとした表情でソキのことを見つめていた。メグミカに大丈夫、ソキもう走らないですと告げて手を離してもらって立ちなおし、ソキはそのライラに、まず、両腕を伸ばした。
ソキさま、と驚いた声をあげられるのに微笑んで、ソキは跪くライラの首筋に、そっと腕を回して体を寄せる。
「……の、ね……」
感情が、喉に詰まって、上手く言葉を話せない。きゅぅ、と眉を寄せ、しゃくりあげるように、ソキは息を吸い込んだ。
「ただいま、です。……ただいまですよ」
ぎゅぅってして、おかえりって、言って、と。あまくねだるソキの背に、ライラの腕が回される。女の腕は柔らかくソキを抱き、そっと背を撫で、祝福のようにぬくもりを与えた。
「おかえりなさいませ、ソキさま」
「はい。……ハドゥルさんも」
ぎゅぅってするです、とねだるソキに腕を広げてくれた男の元へ体を寄せて、ソキはふにゃん、と心地よく息を吐きだした。
「ただいまですよ。……ハドゥルさん、ロゼアちゃんに会ったです?」
男の体温は、ロゼアのものにとてもよく似ていた。とろとろと気持ちを和ませながら、ソキはハドゥルの灰色に青緑が宿った、鋼色の瞳を覗き込んだ。その面差しは、ロゼアによく似ている。歳を重ねればロゼアはこうなるだろうと思わせる、あまく、精悍な顔立ち。見つめて、不思議で、ソキはすこしだけ微笑んだ。とてもよく似ている、のに。やはり、胸はいたく、ならなかった。ふふふ、と笑ったまま、ソキは内緒話のように声をひそめ、こしょこしょ、ハドゥルの耳元に囁く。
「あのね、びっくりするですよ。ロゼアちゃんね、とっても、とーっても、格好よくなったです……!」
「……え?」
背後から思い切り困惑したメグミカの声が響いたが、幸いなことに、ソキはそれを聞き逃した。きゃぁとはしゃぎ、それを思い出して頬を染めながら、ソキはハドゥルの腕の中でやんやん、とひとしきり照れて身をよじった。
「ロゼアちゃんね、すごいんですよ。ソキ、どきどきしちゃったです。学園のね、パーティーでね、正装したんですけどね。ロゼアちゃんとっても、とっても、とっても……格好良くてですね……! いろっぽくて、ですね……! ソキ、なんだか、ちゃんと、見られないくらい、どきどきしてですね」
「どきどき……! されたんですか? ソキさま……!」
はしゃいだ声をあげたのは、ライラだった。ソキは頬を染めたままでこくんと頷き、とろりと熱っぽくうるむ瞳を伏せ、それを思い出す。
「ソキ、うまくいき、できなかったです……」
その姿に、仕草に、眼差しに。体中がひどくざわめいて恋を告げた。
「きゅぅってして、いたくて、でも……目が、離せなくて……すごく、すごく、素敵な――だったんですよ」
あまりにかすかに紡がれすぎて、間近にいたハドゥルでさえ、その声を聞くことは叶わなかった。くちびるを見つめていたライラだけがそれを読みとり、あわく、息を、吸い込む。ソキは、ロゼアを。すてきな、おとこのひと、と。告げた。ハドゥルの腕の中から身を離し、ソキはにこにこ、上機嫌な笑みでライラのことを見つめてくる。
「だから、はやくロゼアちゃんに会ってあげてくださいね。とっても、とっても、格好よくなってるです」
「……そう……かな……?」
己の記憶を疑っているようなメグミカの呻きを、さらにソキは聞き逃した。だいたい、ソキは普段から、ロゼアのいうことですら、あんまり自分に都合が悪いと聞き流すのである。聞こえる筈などなかった。てれちゃうかもですー、としあわせそうに告げてくるソキに、ライラは胸に指先を添えるようにして息を吸い込み、ソキさま、と息子の『花嫁』の名を呼んだ。
「ソキさまはロゼアに……どきどきしてくださっているのですね……。あ! ソキさま。ソキさまも正装をなされたでしょう? 皆の反応はいかがでした?」
「ロゼアちゃんを! すっごく! 褒めてもらえたですよ!」
きれい、かわいい、すてき、さばくのはなよめ。褒め言葉の全て、うっとりとした眼差し、感嘆の溜息。見惚れた表情。それは全て、ソキにしてみればロゼアへの褒め言葉で、ロゼアへの評価である。こころゆくまで自慢げにふんそりかえって告げ、ソキはそのまま、パーティーの様子を詳しく語りだした。ロゼアが素敵だったこと、挨拶の時に砂漠の陛下がロゼアに似ていたこと。ロゼアの立ち居振る舞い、身のこなし。ダンスの時にすこしだけみることが叶った踊り姿。その他のロゼアにまつわる、ソキが覚えている限りのことを、語り。唐突に、ソキはあっと声をあげ、恥ずかしそうに、指先をもじもじと擦り合せた。
「あとね……ロゼアちゃんに……ソキ、きれいって、言ってもらえたんですよ……」
それが『傍付き』として『花嫁』を褒めた言葉であろうとも。とても、とても、うれしかった。は、と満ちた息を吐き出し、ソキはしあわせな微笑みをくちびるに浮かべる。
「ロゼアちゃんは本当に、ほんとうに……すてきでした。だからね、だいじょうぶですよ」
安心していてくださいね、と花のように微笑み、ソキはライラの手を取って告げる。
「……おねがいです。おねがい。もうすこしだけ、あと、にねん、だけ……ロゼアちゃんを、ソキに」
「ソキさま……?」
「ソキに……ください。ソキの、傍付きで、いさせて、ください……そうしたら、ソキ、ちゃんとロゼアちゃんを自由に……だいじょうぶですよ。ロゼアちゃん、きっと、だれか……ろぜあちゃんを好きな女の子と、しあわせになれますからね。だってあんなに素敵で、あんなに格好いいです。ロゼアちゃんは、大丈夫。ちゃんと、ロゼアちゃんをしあわせにできる、おんなのこに……めぐりあえますよ……」
その傍らに、ソキはもう、いなくとも。
「ソキさま」
やさしい声が、ソキの名を呼んだ。一瞬、ソキが息を飲むほど、その声はロゼアのものに似ていた。視線を向けるとハドゥルが笑いながら跪き、ソキのことを見つめてきている。ハドゥルの手が伸ばされ、冷え切ったソキの指先を、暖めるように包みこんだ。
「わたしたちの息子はとても自由なんですよ」
「ええ。そして、わたしたちの息子は必ず、しあわせになります。ソキさまはこんなに素敵な『花嫁』なのですもの。わたくしたちのロゼアの、はなよめ。ソキさま、なのですもの」
ソキは、こくん、と一度だけ頷いた。ハドゥルの手に頬を寄せるようにして、伝えられた、そのことに、安堵の息をもらす。ソキは静かな声で、ないしょにしていてくださいね、と言った。ロゼアちゃんには、いわないでいてくださいね、と。何度も、何度もねだられて、ハドゥルとライラは微笑みながら頷く。分かりました、と。ほっと笑うソキに、ふたりは大丈夫ですよ、と囁く。
「ロゼアは、ロゼアを好きな宝石のようなおんなのこと、かならず、しあわせになります……!」
「……そう。きっと、砂漠の……洗われた、きれいな砂のような髪をした」
くすくす、笑いながら、ライラの手がソキの髪を撫でて行く。
「新緑のような、まどろむ森のような……ひかりあふれるパライバの、トルマリンのような、瞳の、とびきりうつくしく、かわいらしく、あいらしい……そんな、おんなのこと。しあわせに、しあわせに、なりますわ……」
「……うん」
髪を撫でるライラの手つきは、不思議なくらいロゼアによく似ていた。きもちよくまどろみながら半分反射で返事をして、ソキはふぁ、とあくびをする。すこしお眠りになりますか、と問うふたりに首を振り、ソキはメグミカちゃんとお話するです、と眠い目を幾度もぱちぱち、瞬きさせた。
「ソキ、ここで待ってるです。だから……ロゼアちゃんに会ったら、ソキ、お部屋にいるって言ってくださいね……?」
「はい。必ず」
「それでは、また」
失礼致します、と一礼し、ハドゥルとライラが立ち去っていく。その後ろ姿が、なんだかやけにやたら楽しそうな気がしたのは、ソキの見間違えだったのだろうか。なにかいいことあったですか、と首を傾げながらとことこと部屋の中ほどまで戻り、ソキはあくびをしながら、なにか思い切り首を傾げて考えているメグミカの手を、きゅぅ、と握り直した。