とん、とん、とん、とん。背を抱き寄せる手の指先が、鼓動と同じ速度で柔らかく触れてくる。そうしながらもう片方の手は頬を包み、撫で、髪を梳き、たまに耳を掠めてはきゃぁとくすぐったい笑い声を呼び起こした。寝かしつけてはいるのだが、うとうとしながらも胸元にすり寄るソキが、もうすこし起きてるです、と頬を膨らませた為だろう。うんいいよ、と告げながらもまどろむソキをやわらかに見下ろす赤褐色の瞳は、幾分か悪戯っぽく、それでいて冷静にその体力の限界を見極めようとしていた。ねむたげにとろとろと意識を揺らめかせながら、ソキはんん、とむずがってロゼアの肩口へ頬を擦りつける。とん、とん、とん。指で背に触れながら、ロゼアがくす、と笑みを深めた。
「そろそろ寝ようか、ソキ」
「ろぜあちゃ……いっしょ、ねぅ、です……?」
「うん。俺ももう寝るよ。……ソキ、喉痛くないか?」
ねむくてねむくて、もう半分くらいは意識が夢の中にあるのだろう。普段よりさらにしたったらずな甘い声で問いかけられて、ロゼアは微笑みながらソキの髪を撫でてやった。ふと問いを向けたのは、日中、屋敷で兄を相手に泣き叫んだソキの喉が持たず、夕方を過ぎると時折、乾いた咳をもらすようになった為だった。念のために薬を飲ませ、水分を多めに取らせておいたので、湯から戻ってくる頃にはもう落ち着いていたのだが。うっとりと幸福そうに目を細めて、ソキはやわやわと息を吐きだした。
「いたく、ない、です……ろぜあちゃん、ありがとう。そき、もっと、きをつけ、る……」
もっと。ひとりで。がんばらなくちゃ、と。どうしてか告げられたように聞こえて、ロゼアはごく僅かに眉を寄せた。ソキ、と呼ぶと、眠りかけていた瞼がゆるゆるともちあがる。なぁに、と声なく動かされるくちびるに、指先で触れて。話さなくていいよ、と告げて、ロゼアは言った。
「ソキは、ちゃんと気をつけてるよ。……言っただろ」
困ることなんてなにもない。だから、そんなに、離れて行くような。がんばる、は、しなくてもいいのだと。おぼろげに浮かんだ言葉を口唇に乗せて吐きだす術を知らず、ロゼアはソキの頬をてのひらで包んだ。そっと身を屈めて、額を重ねる。ソキ、ソキ。囁きに、ん、と喉を鳴らすように淡く返事をするソキに、ロゼアは微笑み、おやすみ、と告げた。
長期休暇の間、砂漠の国に帰省したロゼアとソキが身を置くのは『お屋敷』の内部ではない。砂漠の国の王宮。その一角に整えられた客室である。それはなにも『お屋敷』から追い出されただとか、首都の中で宿を確保できなかったから、ということではなかった。ソキが事前に砂漠の王に手紙を書き、お願いしてあった結果である。忙しいロゼアちゃんの代わりに、ソキがお部屋用意するですよ、と意気込んだのだ。最初から『お屋敷』に頼むつもりはなかったらしい。
そもそもソキは世話役であったメグミカにも、ロゼアの父母であるパドゥルとライラにも再会することは諦めていた。嫁いだことにされていたと、知っていたからではなく。『花嫁』ではない、その権利を放棄したソキが、会える相手ではないと思っていたからだ。物理的に恐らく不可能であろうと。『お屋敷』はそこから外へ出た人間に、基本的には閉じられる。夜に眠りにつく花の蕾がごとく。かたく閉じて開かない。『お屋敷』を辞したラーヴェに、ソキがもう二度と会えない、と思ったように。それは今生の別れすら意味する。嫁いだ『花嫁』がもう永遠に世話役たちの顔をみることが許されないのと同じことだ。ソキは『花嫁』の権利を放棄した。ロゼアがいなければ本当に、屋敷に戻る、帰る、という発想すらなく、あるいは寮に留まり時間を過ごすだけの日々だっただろう。
会いたいです、と兄レロクに手紙で頼みすらしなかったのは、ソキが次期当主の性格を知りぬいていたからだ。レロクは多少の不可能、くらいなら実現させてしまう相手である。そしてその際、のちのち起こる問題であるとか、各方面にかける迷惑であるとか、引き起こされる被害であるとか、そういうものは一切考慮されない。気がつかない、とか、無視して実行される、という訳でもない。レロクはそれはそれは麗しい笑みを、同じ『花嫁』、『花婿』ですら一瞬見惚れてしまうほどの微笑みを浮かべ、ただ告げるだけだ。お前は俺の望みが叶えられたことを喜ぶべきだ、と。結果はそれだけ。あとはいい。知らぬ、と高慢に笑い、それを許されてしまうのが『お屋敷』の次期当主たる由縁である。
というかお兄さまは常に常に上から目線すぎてだからきっと嫁ぎ先なくてお屋敷に残ったですよソキそう思うです、とぷぷぷと頬をふくらませてソキは兄のわるくちを言った。部屋の中央。毛足の長い絨毯の上にさらにやわらかな毛布を何枚か重ねた、平坦な寝床のような場所にソキは座っている。ソキの手の届く範囲には保温筒に入れられた飲みものや干菓子、果物、こんぺいとうの小瓶が並べられて、動かずとも快適に過ごせるように整えられていた。その物品に手の届く位置、ソキの傍らに跪くメグミカが、肩を震わせて笑った。
「ソキさまったら……若君、今頃くしゃみをされておりますよ」
「ぷぅ。くちってしてるといいです! ……でも、お風邪だったら、こまるですね……?」
あっでもラギさんがいるです大丈夫ですっ、と胸を撫で下ろすソキに、メグミカは微笑みを深め、目を細める。
「ソキさま。ソキさまは、頭が痛かったり、喉が渇いていたりは、しませんか?」
「うん。ソキね、元気なんですよ。ロゼアちゃん、安心しておでかけてきるくらいなんですよー!」
「ええ、もちろん! ……ふふふ大丈夫ですソキさま。もしロゼアが午後の鐘鳴っても戻って来ないその時は、この、メグミカに、お任せください……!」
もちろんその時はソキさまも一緒ですからね、メグミカと一緒にロゼアをこらしめに参りましょう、と笑うメグミカに、ソキはぱちぱち瞬きをして、こてんと首を傾げみせた。
「ロゼアちゃん、戻ってくるですよ。約束したです」
「ええ。そうですね。……失礼致しました、ソキさま」
さすがはロゼアのソキさまです、と胸に手を押し当て、メグミカはほぅ、と息を吐きだした。広々とした客室のそこかしこから、同質の吐息がうっとりと零れて行く。風が木を揺らしすぎて行くように、さすがはロゼアのソキさま、と告げる者たちは、『お屋敷』から呼ばれたソキの世話役たちだった。世話役たちはロゼアの不在を埋めるべくソキの傍につきっきりなメグミカに代わり、客室を整えている最中だった。幾重にも紗幕が取りつけられ、香炉が置かれ、さわやかな花の匂いが空気を染め上げて循環する。差し込む光が遮られ、ほのあまい、淡い光だけが部屋に満ちて行く。『花嫁』に体調を最も崩さず、保つための部屋が、作られて行く。慣れ親しんだ空気に、ソキはほわりと息を吐きだした。整えられた空気は、きもちよくて、とてもすごしやすい。寒さに、どうしてもひきつりがちな喉も、もうすこしすれば楽になるだろう。
世話役たちが太陽の光や火の熱の巡りを計算し、ああでもない、こうでもないと相談しているのを眺めながら、ソキは保温筒に手を伸ばした。ロゼアが入れて行ってくれた香草茶が入っている。熱を指先まで伝えないぶあつい陶杯にそれを注いでもらいながら、ソキはそういえば、とメグミカに問いかけた。
「こらしめって、なぁに?」
「ソキさま。ロゼアのソキさま。どうか、そのお言葉は、忘れてください……メグミカからのお願いです……」
「なにかすることです? なぁに? なーに? めぐみかちゃん、めぐちゃん。ねえねえなぁに……?」
ふぅ、と湯気のたつ香草茶に息を吹きかけながら問うソキに、メグミカはふわりと、淡雪のような微笑みで告げた。
「ソキさま」
「うん!」
こくん、とお茶を飲みこんで。やんちょっと熱かったです、と眉を寄せるソキに、メグミカはこんぺいとうの瓶のふたを開けながら言った。
「ロゼアがお茶を飲む時には、お菓子をひとつ食べてもいい、と言っていましたよ」
「そきこんぺいとうたべるですぅー!」
「はい、どうぞ」
いちごの絵柄が瓶に彫り込まれたそれは、ふたを開けただけでも芳しく、あまい香りをふりまいた。ソキはこんぺいとうをひとつぶ、指先でつまむと、はくんと口に入れてきらきらきら、と目を輝かせる。
「おいしいです……!」
「それで、ソキさま。ロゼアが帰ってくるまでなにを致しましょう?」
「えっと、えっとね。ソキね、おべんきょうするのにね、本を探しに行きたいと思ってですね」
陛下にお城の図書室見せてくださいってお願いしたですよ、と告げるソキの長期休暇におけるやりたいことと予定というものは、砂漠の国に付くまででほぼ全て終了していた。諦めていた再会も叶ったので、ソキには基本的に、やること、というものが存在しない。砂漠に戻って二日目の朝。午前中は屋敷に顔を出して、午後はソキの所へ戻って一緒に過ごす、という予定で動くロゼアに、ソキはひとりでも大丈夫ですよ行ってらっしゃいです、と告げてからいまさっきまで考えた結果、導きだされたのがそれだった。お勉強。今は、その許可が下されるのを待っている状態である。陛下が早く許可をくださるといいですね、と告げるメグミカに頷き、ソキは香草茶にふぅ、と息をふきかけた。
こらしめ、のことを思い出すことはなかった。
休暇中に勉強しようとすんなよいいから休め、そして遊べ、と呆れかえった顔で王に言い渡されてしまったソキは、いよいよやることが無くなってしまった。魔術師関連の本は学園から持ち出すことを許されないが、それはそれ、王宮には魔術師たちが住まうのである。彼らが普段使いしている研究書や学術書、担当教員も何名かいる為に彼らの持つ教本は居室に普通においてあるものだ。置き場所が足りないからという理由で、厳重な魔術保護と隠蔽がかけられたのち、図書室の一角にも棚がある。ソキはそれを見せてください、と言ったのに。王は王宮魔術師たちを呼び集め、いいかソキに教本を与えるなよ講義もするな俺の目を盗んでやってみろ厳罰に処す、とまで言い放った。
どうも砂漠の王は自分で言っておいて、ソキが四年で学園を卒業してくることに協力的ではないのである。体調不良や授業の進み具合が芳しくなく、期間が延長されてしまうようであればそれはそれ、くらいの感覚を受けた。なにか理由あって思い直したのか、それとも最初からそういうつもりであったのかまでは、ソキには分からない。けれどもその王の寛容によって、ソキはいよいよ、やることが、なくなってしまった。帰省中の大まかな行動予定、とするよりもソキが日中どこにいるかだけについては、朝食の席でロゼアが判断する。体調が良ければ城にあがってきている世話役を引き連れロゼアと共に屋敷に向かい、あまり思わしくなければ城の部屋でのんびりと過ごす。
屋敷ではソキは兄レロクの元に預けられるか、あるいは己の区画に引きこもる。世話役たちとおしゃべりをしたり、着せ替えてもらって遊んだり、学園でのロゼアの様子をこれでもかと詳細に語りつくして、お茶と飲んで砂糖菓子を口にして時間を過ごす。時々、ほんとうにたまぁに、ソキは己の区画の中を歩いた。ゆっくりと、メグミカに手を引かれ、時には傍らでただ見守られながら。はじめて、己の住んでいた場所に、靴音を響かせた。おしゃべりにも、きがえ遊びにも、お散歩にもつかれてとろとろとまどろんでいると、傍付きの鍛錬に混ぜてもらっていたロゼアが、湯を浴びて着替えてさっぱりした様子でソキの元へ戻ってくる。
そこからは共に時間を過ごすことが多かった。ソキが、ロゼアちゃん、訓練したりおしゃべりしてきてもいいですよ、と送り出すこともままあった。メグミカが傍にいれば、また『花嫁』の区画から出ず、レロクの監督の元にいる限り、ソキの身に危険は及ばない。ロゼアはソキがそう言うならとまた汗を流しに行ったり、友と交流することもあれば、今日はもうソキの傍にいるよ、と微笑んで手を繋いでくれることもあった。やわらかな熱でゆびさきをあたためて。ありがとうな、ソキ。今日はなにしてたんだ、楽しかったか、と囁いて。首筋に、頬に触れ、撫でて、髪を梳いて、額を重ねて穏やかに笑った。吐息が肌をくすぐるその幸福に、ソキは何度も、何度も頷き、微笑んでは返事の代わりにロゼアを呼んだ。
ろぜあちゃん、ろぜあちゃん。ねえ、ねえ。あのね。だぁいすき。区画に満ちるあわいひかりより、空気をあわく漂う花の香より、あまくきよらかなふわふわとした声で。囁くソキに、ロゼアはうん、と頷いて、その腕にやわらかな体を抱き上げた。ただいま、おかえりなさい。いってらっしゃい、いってきます。戻るから、待っていますですよ。そんな言葉を、何度も、何度も、繰り返して。腕の中に、かえり。ソキは日々を過ごして行く。しあわせだった。しあわせの形があるとすれば、ソキのそれは、ロゼアだった。その腕の中。抱きしめられ、体温を感じながらまどろむ幸福。『花嫁』は誰もがそれを知っている。しあわせはそこにある。
あまり体調が思わしくなく、ロゼアに、今日はお城にいような、と言われても、ソキの過ごす一日にさほどの変化はみられない。ソキが城で過ごす日はロゼアはだいたい傍にいたが、それでも時折、お屋敷へと出かけて行く。ロゼアは渋ることが多かったが、ソキが大丈夫ですよ、と送り出したからだ。ソキ、メグミカちゃんとずっと一緒いるです。だからね、ロゼアちゃん、運動してきていいです。お話もしてきて、いいんですよ。いってらっしゃい、と寝台に伏せながらうとうととまどろみ、あるいは幾重にも重ねられた紗幕の中で地に咲く花のように座り込みあまく微笑みながら送り出すソキの手を包むように握り、ロゼアはそれを頬に触れさせ、目を細めてうん、と頷いた。うん、じゃあ、行ってくるよ、ソキ。午後には戻るから、と告げる約束を一度として違えることはなく。半日で必ず、ロゼアはソキの元まで戻ってきた。
ゆびさきに宿る熱の記憶を、さびしさで、ソキがひやしてしまう、その前に。
当主の為に作られたいっとう上質なソファの上で、ソキはころり、と寝がえりを打った。うー、と不安げな、不満そうな声をもらして、もう一度ころり、と逆方向に寝がえりを打つ。来客用ではなく、時に当主が身を休める寝台代わりとしてつかわれる為に、ソファは通常よりもかなりゆったり、広く、大きく作られているから、ソキはわりと自由にころころと転がることができるのだが。やあぁう、とぐずりながらまたころん、と転がったソキに、部屋の片隅から呆れた視線が向けられる。
「なにをしているのだ、お前は。……眠いのならばアスルでも抱いていろ」
「ちーぁーうーえーすぅ……! ぷぅ。そき、ねむぅい、ん、じゃ、なぁ、で、すぅー……!」
「……ほぅ」
お前がそう言い張るならまあそれでもいいのだが、と呆れいっぱいに首を傾げるレロクの視線の先、ソキはほわんほわんした発音でなにかむずがって訴えながら、なにかが気に入らない様子でソファの表面をぺっちぺっちと手で叩いている。そきはいまものすっごく、ふきげんです、とその背後に文字が浮いて見えるようだった。なんだというのだ、と瞬きをし、持っていた羽根ペンを紙の上に転がして、レロクは窓辺から中庭を見下ろしていた側近を、指先の動きで傍まで呼んだ。
「ラギ。……らぎらぎらーぎ、らーぎー!」
「聞こえておりますよ、若君。……はい、なにか?」
「ロゼアの今日の予定は」
直後、聞いておいてちっと舌打ちを響かせた『お屋敷』の次期当主は、心からまっすぐにこの上もなく妹の『傍付き』がだいきらいである。はしたないから舌打ちをなさらない、とたしなめながら、ラギの視線がすぅと移動し、ころんころんとソファを転がるソキをみた。今日のソキの体調は、悪くはないが良くはない、というところであるらしい。城で体を休めているのが一番良かったのだが、他ならぬソキが今日はおやしきいくです、と言い張ったので連れてこられたのだった。とはいえ、ひとりで歩いたりすることは許可できなかったらしく、ロゼアはソキの体をソファに降ろし、この場所から動いたりしたら駄目だからな、と言い残して訓練へ行ってしまった。以来、ソキはソファをころんころんと転がりながら、時折やうううぅっ、と機嫌を損ねた声をあげ、ぺっちぺっちと背もたれなどを叩いている。
「ソキさまと若君のご存知の通り、午後の基礎訓練まで参加する、とのことでしたが……呼びもどしますか?」
「ヤだ」
「……レロク」
だったらどうして予定など聞いたのですか、と笑いを堪えるような視線に、元『花婿』たる青年は、そのうつくしい顔をぷいとばかり背けてみせた。ひかりの中でまどろむような碧石の瞳が、妹を眺めてぱしぱしと瞬きをする。
「嫌なら言えばよかっただろうが」
「やあああちがぁですうぅ! やっていったのソキじゃなくてろぜあちゃんですうううぅ!」
「……はぁ?」
くてん、と首を傾げてレロクが訝しむ。よく分からないからロゼアを殴るか、と呟いた主に、よく分からないのなら折檻なさるのはやめなさい手を痛くするでしょう、と叱りながら、ラギは訳知り顔でくすくすと肩を震わせた。
「ロゼアの、傍付きの基礎訓練を見学したい、と仰ったそうです」
「駄目に決まっておるだろうがなにを言っているのだお前は」
「やあぁあんやぁん! ろぜあちゃんだめっていったぁ! だめっていったですうぅ!」
こんなにひどいことされたのはじめてですっ、と訴えるように目がうるうるに涙ぐんでいる。やぁんやぁんっ、とすねすねに拗ねきった声でむずがりながら、ソキはころころとソファを転がり、背もたれをえいえいと爪先で蹴っている。
「ソキさま。蹴ったりなさらない。足首を痛くしますよ?」
「そきじょーぶ! ソキ、じょぉぶ、です! いたいのないないです! やんやぁっ!」
「……ロゼアに言うぞ? ソキがソファ蹴ってたって」
ふにゃああぁああやあああぁあああっ、と怒って泣き叫ぶ声が響きわたる。
「やああああソキもロゼアちゃんにだめするぅ! ソキもろぜあちゃんにだめするですううぅ!」
「よし、全力でやれ」
「レロク、応援なさらない……! ソキさまはソファを蹴ったらいけませんと先程も申しあげたでしょう……!」
ふにふにふに、と本人的にはいっしょうけんめい八つ当たりしている動きでソファを爪先で蹴りながら、ソキはぷぷぷぅ、と頬をふくらませ、ぷいっとばかりラギから顔を背けてみせた。レロクにそっくりで大変愛らしい、とごく冷静にラギは頷き、けれどもどうしたものかと腕組みをする。あんまり都合が悪いと傍付きのいうことさえ簡単にはきいてくれないのが『花嫁』、『花婿』という存在である。ラギの『花婿』はレロクであって、ソキはロゼアの『花嫁』だ。つまりラギのいうことなど、基本的に聞いてくれる訳はないのである。機嫌が良ければ、はぁい、と頷きはしてくれるのだが。今の状況では、まずなにを言っても聞き流されてしまうだろう。
ころころ。ぺちぺち。ころころ。ふにふに。けりっ。ころ、と音をさせているソキが、本日何度目かの半泣き声で、やあぁあうっ、とむずがった時だった。ここん、と慌てた音で扉が叩かれ、ラギは思わず微笑した。
「はい、どうぞ。……まだ訓練時間では? ロゼア」
「失礼します。小休憩をとりました。ソキ。……ソキ?」
「やぁあああああそきけってないですそきそふぁ、けってな、ですうううう! ソキちゃんといいこにしてたもん! そふぁのぉ、うえ、ちゃぁんといたですよ! いたもん! ロゼアちゃんはぁ、ソキにぃ、だめってゆったですけどおぉ。ソキはぁ、ちゃぁんと、ろぜあちゃんのいうこと、きいて、た、で、す、ぅー!」
大慌てでソファの上に座り直し、ソキは腰に手をあててふんぞりかえりながら主張した。うん、そうだな、と微笑みながら、ロゼアが足音のないしなやかな動きでその前まで歩み寄る。眼前に跪くロゼアを涙目で睨み、ソキはぷぅっと頬をふくらませた。
「ろぜあちゃん?」
「うん。なに、ソキ」
「ソキ、ロゼアちゃんのきそくんれ、みたぁ、です」
うん、と微笑み、ロゼアは手を伸ばしてソキの頬に触れた。
「だめ」
「やあぁああんやんやん! だめっていったああぁ! ろぜあちゃんがそきにだめって! だめってゆったですうぅ!」
「ソキ、ソキ。そんなに叫んだら喉を痛くするだろ?」
てのひらが頬を撫で、首筋に押し当てられると、ロゼアは難しそうな顔をした。ううん、と視線が空を泳いで考え込まれるのに、ソキは涙目でちたぱたと手脚を動かし主張する。
「ソキもロゼアちゃんにだめ! するです。ロゼアちゃんだっこ!」
「うん。……うん? だめ、するの?」
すみませんラギさん、今日の訓練はこれで。城に戻ります、と告げるロゼアに抱きあげられながら、ソキはそうなんですよぉ、と頷いた。ぴとっと体をくっつけて、ぎゅってしてっ、とおねだりしながら、ソキはぺっちぺっちとロゼアの背を叩く。
「ソキは怒ったです! いいですかぁ、ロゼアちゃん。ソキはぁ、すっごぉーく、怒った、ですよぉ?」
「うん」
「だからぁ、ロゼアちゃんに、だめ、するです!」
なでなでしてしてっ、と肩に額をこすりつけてねだりながら、ソキはふすんっ、と鼻を鳴らして言い切った。
「今日はもうどこにもいっちゃだめです! だっこしてないの、だめです。ろぜあちゃんはぁ、きょは、も、ずうぅーっと、ソキと、いっしょ、で、す、ぅー。わかったぁ? わかったですぅ? ロゼアちゃん、おへんじ! はいっていわないとだめなんですよ?」
「はい。ん、分かったよ。一緒にいような」
「訓練行っちゃだめですしぃー、お昼寝もソキと一緒にしてくれないとだめですしぃー。あ、おひる! おひるもぉ、ソキといっしょにたべてくれないと、だめですしぃー。んと、あとぉ、あとねぇ……あとねぇ……?」
ぽんぽん、ぽん、と背を撫でてくるロゼアの手に、だんだん落ち着いて眠たくなってきたのだろう。うとうと瞼を重そうにするソキに、ロゼアはうん、と頷いて囁く。
「ソキ、ソキ。そき。……ねむたいな、ソキ。ねていいよ」
「やぁ……!」
「行かない。ソキの傍にいるよ。ずっといる」
それならいいんですよぉ、と寝入りばなの、ふあふあしきった声で納得したように頷いて。ソキは一度だけ、あれなにか大事なことをわすれてるきがするんですけどえっとそきちょっとおもいだせないんですけどええぇっと、というような顔をして。眠そうにぱちぱちと瞬きをし、あくびをして。くてん、とすぐ、ロゼアの腕の中で眠ってしまった。
ちがうんですううううソキはロゼアちゃんを離してあげなきゃいけないんですよおおおぉっ、と半泣きでソキがそれを思い出し、飛び起きたのはその日の真夜中のことだった。ロゼアに抱きあげられてから、日中の記憶がいっさいないので、そのまま今まで眠っていたらしい。紗幕越しにこされて揺れる砂漠のひえた風と、布越しに見える満天の星空が、薄闇が、一日が終わってしまったことを教えてくれていた。王宮の最高級の寝台はふかふかで広く、昼間寝転んでいたソファよりもしっかりとソキの体を包み込んでくれている。ソキはぐずぐず半泣きに鼻をすすりながら、眠るロゼアの腕の中で体を起こした。もそもそもそ、と寝台の上に座り、瞼を閉じるロゼアのことを見つめる。
だめ、といった通りに。ロゼアがずっとソキを抱き上げて傍にいてくれたことは分かっていた。安心しきって眠った体は疲れたところも、痛いところもなくて、今もぽかぽかと温かい。それでも、ソキはかなしい気持ちでまばたきをした。
「ろぜあちゃぁん……」
求めれば、求めただけ、傍にいてくれる。けれど。求めなければ、ロゼアは傍にはいてくれないのだ。いつもいつもソキだけがロゼアに手を伸ばす。求め続ける。ソキが。ロゼアに求められたことなど。
「……ソキ、ちゃんと。がんばる、ですよ。ほんとです。ほんとですよぉ……」
星を、みあげる。薄い布越しに、砂漠の星に手を伸ばす。ソキは眠るロゼアの傍らで、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「あかいたいよう、しずむさばくにひつじとまずしいひつじかい……なかむつまじくくらしていたよ……」
子守唄のように、歌を紡いで。ソキは、そっと目を伏せた。歌いながら、こぼれていく涙を手でこすって追い払う。この歌を教えてくれたのはソキの異母姉だった。二つばかり年上の『花嫁』。あいたい、とソキは思った。これまでそんな望みを抱いたことなど、一度としてなかったのだけれど。はじめて、ソキは同じ『花嫁』に。『傍付き』に恋焦がれる『花嫁』に。会って話をしたい、と思った。