宝石。至宝とも囁かれる『砂漠の花嫁』たちは、成人となる十五を境に嫁ぐ決まりとなっている。もちろん『花婿』であってもそれは同じことで、十五を過ぎても『お屋敷』に残っている者があるとすれば、嫁ぎ先になんらかの特殊な事情がある為か、次期当主の候補として留め置かれたか、そのどちらかに他ならない。現在、『お屋敷』の次期当主はもう確定していて、候補として残されている者もひとりとしていなかった。ソキがごく幼い頃には、次期当主候補とされていた『花嫁』がひとり、レロクの他にも『花婿』がふたりほどいた筈なのだが、彼らがどうなったのかは分からないままだった。分からない、ことにしている。当主の執務室から見下ろせる中庭の隅に、木漏れ日がやわらかく降り注ぎ四季を通して花が咲き零れていくその場所に、いつしか墓標が増えていたことを、ソキは知っていたけれど。分からない、ということに、している。
墓標の数はある時から増えていない。枯れてしまった『花嫁』や『花婿』の為のそれは別のところにあって、ある、ということだけをソキは知っていた。嫁いだ先で眠りについた花たちの為のそれも、知らせが『お屋敷』まで戻れば、増やされるのだと聞く。それもやはり、『お屋敷』のどこかにあって、ソキはそれが本当にあるのかも、知らないままだ。けれども、レロクは知っている。レロクがこの屋敷を継ぐ『花婿』で、嫁いで行く宝石たちには知らされない知識を得てなお、枯れずに咲いて残ったからだ。それを知ればソキの気が狂い、枯れてしまうような情報も中にはある、とレロクは言った。お前は脆い。お前は弱い。だから特に知らないことが多いが、これからも、お前はそれを知ることはないだろう。
長期休暇で、魔術師のたまごとして戻ってきた妹に『お屋敷』の次期当主はそう囁き、『花嫁』としてのソキの知識は、やはり増えないままだった。休みの間にいくらか知ることが出来たことといえば、傍付きの、たとえ基礎訓練であろうとも『花嫁』にはどこでやっているのかすら教えてもらえないことと、それが未だソキに対しても適応されている、ということくらいである。だから。ソキは半分諦めながらも、それでもかすかな希望にすがるように、レロクにそっと問いかけた。ロゼアが基礎訓練に出かけた後のことで、部屋にはレロクと、次期当主の傍から離れようとしないラギの姿しかない時のことだった。
ねえねえ、おにいちゃん。ふあふあと響く甘えた声が、あまく空気をふるわせていく。
「おねえちゃんは……まだ、お屋敷にいる、です? ミルゼおねえちゃん、いるです……?」
「ミルゼ?」
それは、ソキよりふたつ年上の異母姉の名だった。『花嫁』のひとり。今年で十五になり、数日後の年明けで十六となる『花嫁』である。ソキが夏至の前に『旅行』に出された時ですら、嫁ぎ先の最終選定が長引いている、と囁かれていた『花嫁』だった。それはうつくしく愛らしい少女に問題があるのではなく。当時、屋敷の権限を半分ほど掌握していたレロクが、彼女が嫁ぐのをがんとしてはねのけ、許していないからだ、とされていた。それが『運営』に問題視されていたこともソキは知っている。前当主と同じ愚を犯すつもりなのかと、レロクに対して風当たりが強くなっていたことも。はやく何処へと嫁がせてしまえ、と焦らされていたことも。『花嫁』に隠し通せないほどに噂話がそこかしこでされていたから、ソキですら、それを知っているのだ。
それでも、それは、永遠の別れだ。震えるような気持ちで問いかけたソキに、レロクはしばらく迷うように口を閉ざし、視線を伏せて考え込んでいた。ラギはレロクの決定に従うつもりなのか、特に言葉を発さずに傍に控えている。ソキはレロクの言葉を待ちながら、兄の『傍付き』の姿を見つめた。『傍付き』は皆、己の仕える宝石をしあわせにする為に育て上げ、この場所から他国へ送り出す。しあわせになれるよ、と囁かれ、送り出されることこそが『花嫁』の、『傍付き』に対する最大のむくいだ。その献身に対する、その優しさに対する。うつくしく磨きあげ、あいらしく研磨した、その努力への報酬。功績。レロクは、嫁がなかった『花婿』だ。彼は次期当主として『お屋敷』に残ることになったから。しあわせになっておいで、と己の幸いに見送られることはなかったのだけれど。
裏切りではなく。悲しみはなく。失望されることもなく。ラギはレロクを、大切にしているように、ソキには見えた。そのことが、ソキにはじつは、よく分からない。だってラギは『傍付き』なのに。レロクは『花婿』、だったのに。どこかでしあわせになるために育てられたのに。どこにもいかないでずっと傍にいて。それをどうして、ラギは。許してくれたのだろう。ロゼアのあの献身を裏切るだなんて、そんなひどいことを。ここで。そばで。しあわせになりたい、なんて。その裏切りを失望されたら、ソキはいきていけないのに。
「……年が明ければ、ミルゼは嫁ぐ。嫁ぎ先が、決まった。いまは……最終調整だ」
「おねちゃん、まだ、いる……?」
「お前が帰ってきた日に、『旅行』から戻ってきた」
それを聞いた瞬間。ソキは悲鳴じみた声をあげて、座っていたソファから立ち上がろうとした。けれども、すこしばかり体調を崩しぎみの体は、立ち上がることができずに。ソキはころり、とソファに転がってしまいながら、ぱたぱたぱた、と腕を動かしてその場に座り直す。
「おねえちゃ、おねえちゃん……! ミルゼおねえちゃんに、ソキ、会いたいです!」
「ソキ」
息を吐き出して。レロクは静かな表情で、ソキの傍まで歩いて来てくれた。ゆっくりと。ひとりで、歩むことのできる『花婿』に、ラギが付き従う。ソキの傍に腰を下ろしたレロクの背後、控える男を振り返ることなく。レロクは興奮して泣き出しそうなソキに、首を横にふった。
「だめだ。お前は嫁いだことになっている、と言っただろう」
「でも、でも、ソキ、おねえちゃんに……! おねえちゃんと、おはなし、したいです!」
「聞き分けろ、ソキ。それはできない。……というか」
ちらり。レロクはラギの存在を気にするように視線を向け、まあいいか、とばかりソキに向き直って、問いかけた。
「お前、ミルゼと仲悪い設定になっていただろうが。どうするつもりなのだ」
「……はい?」
「やあぁああんソキそれもうおしまい! おしまいにするですぅー! ソキ、ミルゼおねえちゃんすきすきですうぅ!」
甲高い声でちがうもんちがうですちあぁうーっ、と騒ぐソキにロゼアに聞こえるぞと息を吐きながら、レロクは珍しくも虚を突いてしまったような声をあげた、己の側近たる男を振り返った。ふふん、と自慢げに笑われる。それは『傍付き』を騙しぬいてみせた『花婿』の、心から誇らしげな表情だった。お前が気が付いていなかったのであればロゼアになど分かるわけなかろうな、とごく自然にこきおろし、レロクは柔らかく微笑する。
「リゼリアとアスタ。……俺の異母兄と異母姉が、ほとんど同時に枯れたことがあったろう」
その時期は特に多かった、と微笑んで告げるレロクに、ラギは目を伏せてはい、と頷いた。それは枯れてしまった『花嫁』と『花婿』の名だ。ふたりになにがあった訳ではない。病気ではなかった。怪我をしていた訳でもなかった。事件でもなければ、事故ですらなかった。『花嫁』と、『花婿』と呼ばれる者たちは生まれながらにして脆い。脆く、弱く、ひどく壊れやすい。生まれながらにしてそうある者たちだからこそ、生き残って育ち、無事に嫁いで行く者の数はごく僅かであるのだ。ソキは。その中でもいっとう弱く、脆く、産まれてしまった『花嫁』だった。仲良しの姉の、兄の訃報に耐えきれず。泣いて、熱を出して、動けなくなってしまって。何度も、何度も、それが原因で枯れかけた。
もうすこし成長して『傍付き』になる候補が付くようになれば、そのまま、『傍付き』を得ることができれば、もうすこしだけ強く生きることも叶っただろう。けれどもそれはあまりに幼い頃のこと。ロゼアがソキの『傍付き』候補として巡り合わされるより、前のことだったのだ。だからお前たちは知らない、とレロクは歌い、囁くように微笑した。
「たとえ俺たちの誰に、なにがあっても、ソキはもう二度と体調を崩さない。そう言い聞かせたのだ、俺たちは皆……嫌いになれと。嫌いな者が怪我をしようと、病に伏せようと……枯れようとも、お前が心揺らすことはない。厭う者が消えた。ただ、それだけなのだと。そう思えと……決めたのはミルゼだ。ソキがもっとも懐き、もっとも親しかったのが、ミルゼだ。以来、一度も……俺たち以外の目がある場所では、顔を合わせることも、会話すらしなかったようだが」
週に一度、一時間だけ。『花嫁』と『花婿』は、傍付きすらを遠ざけて一室に集められる。それは当主の血を継ぐ者たちの義務のひとつで。そこでしか伝えられない歌や、言葉や、たくさんの想いがある。そこでしか。姉妹は微笑み合うことはなく。そこですら、いつ迎えが来ても大丈夫なようにと、隣り合って座ることはついぞないままだったけれど。やですもうやぁです、とソキはレロクに訴えた。
「ソキ、おねえちゃんのいうこと、ちゃぁんときいたですよ! なかわるいごっこ、ちゃんとした、ですぅ! ソキ、もう丈夫だもん。ソキ、もうげんき、なったです。ソキ、ミルゼおねえちゃんに会いたい……!」
「だーめーだー、と言うておろうが、ソキ。だめ。だーめー」
「だいじょぶですぅ。ソキ、ロゼアちゃんにないしょないしょ、できるです。こっそりです、こっそりあるくです!」
ソキだってひとりで歩けるですしぃ、ばれないとおもうです、とふんぞり返ってなぜか自慢げに言うソキに、レロクはものすごく適当な態度ではいはいそうだな、と頷いてやった。そうしながらふふん、とこちらもなぜか勝ち誇った態度で笑みを浮かべ、レロクは首を傾げる。
「でもお前、ロゼアに、今日はそこから動くなと言われていたであろう。……ちっ」
「レロク。舌打ちなさらない」
「やぁんや! ろぜあちゃんいじわるさん! ソキにいじわるさんしたぁ……!」
えいえいえい、とふにふに爪先でソファの端を蹴飛ばして怒るソキに、ラギは柔和な微笑みで頷いた。ソキさまは今日もソファを蹴っておいででした、と報告するのは決定事項である。誰のなにをみて真似しようと思ってしまったのだか不明だが、ソキは時々、こうしてなにかを蹴るような仕草をみせるようになったのだ。当然『花嫁』の教育外である。もってのほかである。舌打ちをソキさまが覚えてまねしたらどうするおつもりですか、というかレロクの前でそんなことをしやがったヤツを本当にぶちころしてやりたいと思いつつ、ラギは溜息をついて繰り返した。レロク、舌打ちはしない。ソキさま、ソファを蹴るのをおやめなさい。二人はそっくりの仕草でぷーっと頬をふくらませ、ぷいっとばかりに顔をそむけて、聞かなかったふりをした。
蹴るのはいけないよね、とのんびりとした声に、ロゼアがそうだよな、と頷く。それをソキは頬をぷぷぷと膨らませたまま、ロゼアの腕の中から聞いていた。やーうー、やーぁーうー、とややのんびりした声でむずがってもぞもぞとするも、腕の中からちっともでることができない。んんん、と不満げにくちびるを尖らせ、ソキはロゼアの顔をじっと見つめた。
「ろぜあちゃん? ソキ、おさんぽ行きたいです」
「うん。後でな。一緒に行こうな。……それで? メーシャもやっぱりそう思うだろ?」
「でも、学園だとそんな風にはしていなかったよね。いつから?」
俺の分かってる限りだと砂漠に帰省してから、と天を仰いで呻くロゼアに、そうだよね、と苦笑して頷いたのはメーシャだった。ソキとロゼアが砂漠に帰りつくすこし前から、ストルの用事について来ていたというメーシャは、己の担当教員が自国へ戻ったあとも休暇を利用して砂漠に留まっている。いつまで、とは決めていないらしい。砂漠の王はラティが喜んでるから別にいつまでいても良いぞ、とメーシャに部屋をくれたので、今の城には新入生四人のうち三人までの仮の居室があるという、ちょっと珍しいことになっていた。城の女官たちをときめかせる整った顔立ちをやや不思議そうに曇らせ、メーシャはもおおおぉ、とロゼアの腕の中でちたぱたするソキを見つめた。
不機嫌で拗ねて怒っている為にロゼアの話すらたまに聞き流している状態であるから、あえて声をかけずに、ロゼアに問いかける。
「どうしてそんな風になっちゃったんだろうね……? 心当たり、ある?」
「……誰かの真似をしてるんだと思うけど。ほら、不機嫌になってものに当たっちゃうヤツとか、いるだろ? それ」
やああああソキはおさんぽにいきたいってゆってますううう、と怒りながら、ロゼアの膝の上でソキがぱたぱた脚を動かす。だめ、と宥めながらソキの太ももに手を押し当て、撫でながら、ロゼアは困った顔つきでソキとこつん、と額を重ね合わせた。
「ソキ。だめだって言ったろ? けるのは、だめ。……けりけりして、脚が痛くなってるんだから、歩くのは駄目だ」
「うやあぁああろぜあちゃいじああぁああやあああめなですうううやぁあああめええええっ!」
「……ソキ、なんて言ってるの?」
ぷんぷんに怒って怒ってそれはもう怒っているらしいソキが、ぱたぱたぱたぱた暴れながらなにかを訴えているのだが、メーシャにはいまひとつ聞き取れなかった。ロゼアは不思議そうに瞬きをしながら、ソキをぎゅっと抱き寄せ、背をぽんぽんぽん、と撫で下ろす。
「ロゼアちゃん、いじわるしちゃだめなんですよ。やなんですよ。め、です。ソキ歩けるです。だめじゃないです、だめなのがめ、です。って言ってるだろ? なんで?」
「ソキは……ロゼアが好きだけど。ロゼアも、ソキのことが好きだよね」
口元に手を押し当て、堪え切れない笑いに肩をふるわせてしみじみとするメーシャにロゼアは訝しげな眼差しを向けたが、言葉にしてなにかを告げることはなかった。乾いた果物を摘みあげ、何度か噛んで温かな茶を口に含む。じわりとした甘さがいっぱいに広がって、メーシャはほぅ、と穏やかな息を吐き出した。見つめている間に、あばれて怒って疲れてきたのだろう。ロゼアに背を撫でられながら、ソキはうとうと、眠たげにまばたきを繰り返している。それをめずらしく素直に眠りに導くことなく、ロゼアはソキの耳元で囁いた。
「ソキ、ソキ。……ねむたい?」
「うー……。はい。ソキ、ねる……ロゼアちゃん、ぎゅってして? おやすみ、って、してぇ……?」
「うん。いいよ、おやすみしような」
ぽんぽん、と背を撫でながら、ロゼアは柔らかく笑みを深める。
「約束できたら、おやすみしような、ソキ。蹴るのはしない。もう絶対、しない。……約束できるだろ?」
「ろぜあちゃぁん……そき、ねむいです! ねむぅぃ、ですうぅ……!」
「うん。約束できたら、ねむろうな」
こくん、とお茶を飲みこんで、メーシャはひそかに頷いた。うん、これ、ロゼア怒ってる。微笑みもやわらかな仕草もなにひとつ変わらないように見えるし、事実その通りなのだろうけれど。言いつけを何回もやぶられて、ロゼアはおそらく、すごく、怒っている。ソキはねむくてねむくてたまらないようにのたくたと瞬きをして、目をこしこしと擦って、ふにゃふにゃした声ではぁい、とこくんと頷いた。
「ソキ、しなぁ、い、です」
「うん。いいこだな、ソキ。偉いな。……ちゃんと言えるか? 蹴るのはしない。絶対しない」
「そき、けるの、しない、です。ぜったぁい、に、も、しない、です。ロゼアちゃんごめんなさい」
うん。いいこだな、よく言えたな、と満面の笑みで、ロゼアがソキをぎゅっと抱きしめる。じゃあもうねむろうな、おやすみ、と囁かれて、ソキはすぐにころんっと眠りの世界へ落ちてしまった。すうすう、落ち着いて、安心しきった寝息がメーシャの元にまで聞こえてくる。安定して眠れるようにすこしばかりソキを抱きなおし、座り直すロゼアに、メーシャは答えを分かっていながら首を傾げた。ロゼアがこういう風に怒るのをみたのは初めてではないが、珍しいことで。ソキの周りに世話役はたくさんいるであろうに、お茶するから一緒に、とわざわざメーシャを呼んで誘ったのは、もしかしなくとも。
「ロゼア。……証人欲しかった?」
長期休暇が終わって『学園』に帰った時に、万一、ソキがまた妙な怒り癖を発揮してしまわないように。それを防止する為に必要なのは、こちらへ留まるソキの世話役ではなく、そこにいる親しい魔術師の誰か、なのである。ロゼアは微笑み、メーシャがいてくれて助かったよ、ありがとうな、と告げ。大切そうに、ソキの背を撫で、髪に触れ、その体をぎゅぅと抱きしめた。一度として。腕の中からどこかへ移動させようとすることは、なかった。
だからぁ、ソキ、けりけりだめになっちゃったんですよぉ、とくちびるを尖らせたふくれっつらで報告してくる妹に、次期当主たる男はそうだろうな、と呆れかえった顔つきで頷いてやった。レロクの視線はソキには向かないままだったが、妹のそれも兄をちらりとも見ることのない言葉であったので、どちらをうまく咎めることもできない。溜息と共に吐き出された、お二人とも、おはなしをなさる時は相手をみながらにしなさい、というラギの注意は、今日も無視されるままだった。ソキはぁ、ラギさんのゆーこと、きかない、で、す、ぅー、と歌うような声で上機嫌に告げたあと、ソキは窓辺にめいっぱい寄せた椅子からさらに身を乗り出し、窓枠にかじりつくようにして中庭を見下ろした。ぱたぱたぱたっとせわしなく脚が動く。
「やぁんやぁああん! ろぜあちゃ、どこどこぉ……? ねえね、おにいちゃん。ロゼアちゃん、どこですー?」
その窓から見下ろせる小庭はすっきりとしたつくりの庭園で、四隅にささやかに花が植えられているだけの運動場めいていた。中心には短い草の生えそろう平地があり、動きやすそうな白い上下を身に纏った男女が、ひっきりなしに道を通ってそこを目指して行く。ソキとレロクが窓から覗き込んでいるのは、その小庭のごくごく一部。平地へ向かう細い路地ような、植えられた木の間をすり抜けていく作りの道が主な風景だった。少女が早足で駆け抜けていくその背や、青年が歩き去り、ぎょっとしたように振り返って、窓辺からなんとか頭一つ分だけひょっこりと顔を出しているソキたちを見ては、苦笑したラギに行きなさい、と手をふられ、一礼の後にかけ出して行く。
先程からずっとその繰り返しだった。せめて立ち上がって身を乗り出したりすれば、運動場の端くらいは見えるのかも知れないが、今日はこの椅子の上から動かないでいような、とロゼアと約束してしまったソキには難しい話である。やわらかな毛布に身をくるみ、アスルをぎゅうぅっと不満げに抱きしめたまま、ソキがやあぁああんっ、と半泣きの声でむずがる。せっかく、せっかくラギをレロクとふたりがかりで説得して、傍付きの基礎訓練が見えそうな窓のところまで連れてきてもらったのに。ロゼアはぜんぜん見えないのである。見えそう、であって。見える、とはラギが言わなかったことを、ソキもレロクもいまひとつ気が付かないままである。
ごく慎重に、なにがあっても、木々が視界を遮り平地が決して見えない計算でつくられた窓が選ばれたことを、ソキもレロクも、知らないままである。ソキは今日こそぉ、ロゼアちゃんのきそくんれ、みるですよみるううぅっ、と半泣きで訴えるソキに、レロクがものすごく嫌そうな顔をしてラギを振り仰ぐ。嫌なのはソキがむずがっていることではない。あくまでソキの口から出るロゼアの名前である。ソキと同じように椅子に悠然と腰かけながら、レロクは脚を組んでふんぞり返った。
「……ちちぃ。ラギ!」
「若君、舌打ちをしない。脚を組まない」
穏やかな、それでいてどこかひんやりとした風な微笑みに、レロクは無言でもぞもぞと椅子に座りなした。組んでいた脚をほどき、背もたれに体を預けてくっつけ、やや怯えた風にラギを仰ぎ見る。その眼前に跪き、レロクはラギの片手に触れ、心から幸福そうな微笑で言った。
「偉いですね、若君」
「……ラギ。ラギ、らぎ」
「はい、若君。ここに」
ぽん、ぽん、ぽん、とラギの手がレロクに触れ、気持ちを宥めるように囁きが落とされる。気がすんだら執務室に戻りましょう、若君にもソキさまにも長居に適した場所ではありません。こく、と頷くレロクに偉いですねとさらに笑みを深め、ラギは伸びてきた両腕に、従順に片腕を与えて絡みつかせてやった。若君。静かな声が囁いて問う。どうされましたと首を傾げられ、レロクが悔しそうに瞳を歪めた。
「ラギ!」
「はい、若君。大きい声を出してはいけませんよ。喉を痛くする」
「ううぅ……お前、なんで機嫌が悪いのだ……不機嫌な顔をしよって……」
不機嫌に見えますか、と艶やかな笑みを向けられ、レロクはちからいっぱい頷いた。
「ものをけりけりしてたのは謝っただろうが。もうせぬ」
「当たり前です二度としないでください。……いいですか若君。今度、私に隠れてなにか蹴ったりしてみなさい」
二度と蹴ることのできないように脚を縛ってしまいましょうね、と囁かれ、レロクは反射的にこくりと頷いていた。レロクの側近、『花婿』時代の『傍付き』は、やると言ったら絶対やる男なのである。それでも普段ならここまで怒ったりはしないのだが、ソキが真似した原因がレロクだというのが殊更いけなかったらしい。レロクも別に昔から蹴っていた訳ではなく、数日前に出入りしていた商人がそうしていたのを見て、ちょっとやってみたりしていただけなのだが。
「……らぎ」
「はい」
「五分でも。こっそりでも……やっぱり駄目か?」
ちらりとソキに目を向けて問う次期当主に、その側近は深々と息を吐き出して頷いた。
「ミルゼさまにお会いさせることは許されません、レロク。……あなたがどれだけ望もうとも」
あのね、あのね、あのですね。ロゼアに椅子に座らされ、動いたらだめだぞ、と言い聞かせて行った背を扉が閉まるまで見送ってから、ソキは半泣きの声でこっそりと、二人に向かって告げていた。ロゼアちゃんにはないしょなんですけどね、ソキはやっぱりどうしても、ミルゼおねえちゃんに会いたいです。会ってね、それでね、ソキね。
「……許せる訳が……ないでしょう」
『ソキね、おねえちゃんに……『傍付き』さんを、どうやってね、離すのかね、聞くの……。ロゼアちゃんに、ソキ、しあわせになってもらいたいです。でも、ソキね、ソキね。ロゼアちゃんすきすきでね、すきでね。すきなんですよぉ……。おそば、いたい、ですよぉ……』
涙をこぼしそうになりながら、ソキなかないです、と目をこしこしこすって告げられた言葉に、ラギはよしなにがあっても会わせてはいけない、と決意したのだが。レロクは元『花婿』としてもおもうところがあったらしく、先日のようにだめ、と言い聞かせることはなかった。考えてやる、と言ったのだった。レロクはそうかと頷き、窓にかじりついてろぜあちゃぁん、としょんぼりするソキを見つめる。傍にいたいと思ってくださるのであれば、あなたにはもうそれは許される。いいのですよ、と告げたラギに、ソキはいやいやいや、と怖がるよう、首をふって囁いた。
『だって、ロゼアちゃん、ソキをすきじゃないです……』
それを聞いた瞬間のラギの、蒼白な顔色がレロクには分からない。
『傍にいたいのはソキばっかりです……! だって、だって今日もロゼアちゃんきそくんれん、行っちゃったぁ! そきが、行っていいです、て言ったら、ロゼアちゃんは行っちゃうんです……ソキが、たいちょ、わぅくしないと、ロゼアちゃんだめなんだもん……。ソキの、お傍にいたいから、今日はいかない、って、言ってくれないん、です、よぉ……』
レロクは元『花婿』で、思考も教育もなにもかも、ソキと同種に整えられた。だから。
『ろぜあちゃんはソキのとこ戻って来てくれる、ですけど。……ひとりでソキはだいじょうぶですって、いったら、きっとどこかへいっちゃうもん。いっかい、くらい、もしかしたらって、ソキが元気でも、すっごく元気でも、ロゼアちゃんがソキが行っていいですよって言っても……ロゼアちゃんが、ソキのお傍に、いたいから、いるよって。いってくれる、かもって、おもって。でも……ろぜあちゃんは……ソキを』
求めてくれないことなど、分かっていた。
『……ロゼアちゃんはソキがすきですよ。ソキ、それはちゃぁんと分かってるです』
でも、同じ想いではないから。だからもうどうしようもなく、ソキが。ロゼアではなく、ソキが、傍にいて欲しくて、どうしてもどうしても一緒にいたくて。わがまなな、命令じみた言葉で、『花嫁』の望みであるならなにもかも叶えてしまう『傍付き』に、それを求めてしまう前に。離してあげなきゃいけないです、とソキは言った。でもソキにはうまくできないから。これからそれをするおねえちゃんに、どうしても方法をきいておきたいのだ、と。告げたソキの言葉を、レロクは理解できるのに。だめです、と告げたラギのことが、レロクにはよく分からない。蒼白な顔色で、倒れそうな表情で、だめです、とくるしげにラギは繰り返した。だめです、あなたはそんなことをしてはいけない。ロゼアはせっかく、ようやく、だから。
決してロゼアにそれを告げてはいけないのだと。言ったラギに、ソキはよく分からない顔をして首を傾げ、ないしょなんですよぉ、とふくれっ面で呟いた。