正午を告げる鐘の音が、ゆるく、ゆるく、空気を震わせた。澄んだ音色を肌に触れさせながら、ソキはどこかぼぅっとした眼差しで、その一室を見回していた。広い部屋だった。居室に限れば、ハレムの中で唯一城の外が、街の風景を眺めることのできるつくりなのだと告げられた通り、開け放たれた窓から見えるのは広がる砂漠ではなく、整えられた庭園ではなく、とある広大な敷地を有す建物群の一部だった。密に咲くはなびらのような外観のそれを、なんと呼ぶかソキは知っている。『お屋敷』だ。窓辺に歩み寄り、それに手を伸ばしかけ、ソキはふと微笑んで指先を折り曲げた。なにをしようというのだろう。触れられる訳でもあるまいに。そこに宿るやさしい記憶にすがって、どうしようというのだろうか。そこへかえれもしないのに。ゆるゆると息を吸い、吐き出し、ソキは『お屋敷』を背に振り返った。
戸口に立ち腕を組み、ひどく冷静な眼差しでソキを見つめてくる男に、この砂漠の国の王たるひとに。誰もが見惚れるようなうつくしい、うるわしい、やわらかな花のような微笑みを浮かべたまま、一礼する。
「すてきなおへやを、ありがとうございます。陛下……」
「……気に入ったか? 仮押さえだから、不満があれば変更できる。一応、あと二つほど候補はあるが」
「いいえ。こちらで十分です。……ソキの、すんでいた、区画に……お部屋に、すこしだけ、似てるですよ」
王に連れられて歩いたハレムを、詳しく見回した訳ではないが、そこには様々な建物があった。恐らく、住まう女たちの好みや、出身国にも合わせてあるのだろう。ソキが連れてこられた楼閣は、ハレムの最深部にほど近い、ひっそりと静まり返った雰囲気の中にあった。壁や柱は乳白色に染め抜かれ、ごく一部が艶のない金と、黒に近い緑で装飾されている。広々とした庭園は花に溢れ、緑が多く、触れる空気は冬に冷やされてなお、どこか温かくも瑞々しい。そうか、とだけ呟き、王は腕組みをして部屋を見回すソキを、睨むように見つめていた。機嫌が良くない、ということだけはソキにも理解することができた。それ以上のことは分からない。だから声をかけず、ソキはゆっくり、部屋をみてまわった。
しばらく使われていなかった部屋なのだろう。直前になって清潔に整えた独特の香りがするも、端々までがきっちりと整えられている。天井は高く、空間はどこかがらんとした印象だ。ものが多く置かれていない為だろう。部屋には壁際に空の本棚が置かれ、その前にソファが置かれ、机が置かれ、それだけだ。机の上には白い鈴蘭の形をした呼び鈴が置かれていた。ひやりとするそれを指先でつまみ上げ、ソキはそっとそれを降り鳴らす。陶器の澄んだ音色が響き、王がはじめて、気が緩んだ微苦笑になる。遊ぶんじゃない、とたしなめるような表情に、そっと呼び鈴を机に戻し、ソキは視線を部屋の奥へと向けた。二部屋続きになっている空間の、開け放たれた扉の向こうに、広々とした寝台が見えた。
王の愛妾の為の部屋である。そこでなにをされるのか、ソキは知っていた。
「ソキ」
指先の震えを押し隠し、ソキは微笑んだまま、砂漠の王に視線を向け、はいと返事をした。
「俺は個人的には、お前がハレムに入ることは歓迎してる……正直嬉しいとも思ってるが、それは俺の個人的な理由だ。……確認しておくが」
はじめて、男が、背を預けていた扉から体を離し、室内に足を踏み込んだ。歩み寄り、伸ばされた手でおとがいを捕らえて上向かされる。凍りついた森色の瞳で微笑み、ソキは砂漠の王の言葉を待った。どこか苛立たしげな息を吐き、王が口唇を開く。
「お前が生涯ロゼアを愛すことを許せば、お前は……俺に、恋をしない。いとしく思うことはあれど、愛すことはない。そうだな?」
「はい、陛下」
「……俺は女は好きだから、お前のことも、わりと容赦なく甘やかすし、やさしい言葉もかけるだろうし、やさしくするが。それでも?」
煮詰めた飴色の肌に包まれた指先が、くすぐるようにソキの喉を、頬を、撫でて行く。恥じらう乙女のように震えながら、ソキはそっと目を伏せ、男の手を包み込むようにもって微笑んでみせた。
「はい。陛下。……それを、お許し頂けるのであれば、わたしは……ソキは、この場で誓いましょう」
決してあなたさまに恋をしないと。ロゼアによく似た面差しの、端正で精悍な顔つきの男に、ソキは愛を誓うようなうっとりとしたまなざしで、声で、囁きかけた。花のようにあいらしく、うつくしく、微笑みながら。その手に触れ、言葉を捧げ、誓った。
「ソキの、この恋だけを、お許し頂けるのならば……」
「……俺が、この国の跡継ぎを孕めと命じても?」
「砂漠の幸福の為にこの身を捧げます、陛下。ソキは……ソキはこの国のしあわせのために、つくられた、『花嫁』です」
瞳に、涙すら滲ませず。ひかりあふれる、しあわせそうな、うっとりとした笑顔で、『花嫁』は言い切った。
「この国と、あなたさまの治世の平和の為。砂漠の民の幸福の為に。どうぞ、ソキを、おつかいください」
「……ソキ」
「はい」
あいらしく笑って返事をするソキの前にしゃがみこみ。王は溜息をつきながら、ソキの頬を指先で摘んだ。
「さっきも言ったが、これは最終手段の為の準備だ。必ずこうしろよ、こうなるぞってことじゃない」
「……やぁん。陛下、ほっぺ、むにってしちゃ、やです」
「守護役と殺害役を決めれば、お前はどこかの王宮魔術師にだってなれる。さすがに、楽音に行くのは無理だと思うが……なにもなく卒業すれば、お前は、ハレムに来ることしかできなくなる。あの時とは事情が違う。お前は、砂漠の王宮魔術師にすら、なれない……許されないだろう」
リトリアの事情がもうすこし改善してればなんとかなるかも知れないが、とそれを期待できないとみなしている風に告げ、砂漠の王はソキの瞳を睨みつけるようにして見た。無防備な予知魔術師を『学園』においておくことは、できない。『学園』は未熟な魔術師たちを守る為の場所でもある。そこに予知魔術師の保護をもさせるのは、荷が重すぎることだった。かといって、リトリアのように王宮魔術師として動かすことも難しい。リトリアにそれが許されたのは、少女が体の完成しきらないうちに『中間区』に足を踏み入れたからであり、そしてこちらの空気が毒であるからだ。弱ることの分かり切っている籠の鳥であるからこその、慈悲として、リトリアは王宮魔術師であることを許された。
そうでなければ何処とも知らぬ場所で、幽閉のような生活を強要しなければならなかったかも知れないと、砂漠の王は知っていた。それは恐らく『中間区』のどこか。あるいは星降の王の目が届くどこかだ。楽音に戻ることは難しかったに違いない。ソキは、二人目の予知魔術師だ。砂漠に戻ることを許されるのは、そこに王のハレムがあるからである。やさしい王の花園に囚われるなら、魔術師としてすら、生きないので、あれば。ソキは守護役と殺害役を得ていなくとも、監視のない生活を許される。状況は刻一刻と変わっていく。半年前は悪戯な可能性にしかすぎなかったソキのハレムいりが、卒業後の選択肢のひとつとして確定しかかっているように。
四年間。王が一番はじめにソキに許したその時の長さが、状況をやさしくほどくかも、知れなかった。
「……へいか」
「なんだ」
「もし……もし、ソキの希望を、ひとつだけ、きいていただけるのであれば……」
はじめて、感情の滲むふるえた声に、王は許そう、と発言を促した。ソキはゆったりと何度か瞬きをし、ふるえる意志を抑えつけ、悲鳴染みた響きで息を吸い込んだ。
「ソキがもし、もしも……ハレムに入る日が来たら」
「ああ」
「ロゼアちゃんを、砂漠の魔術師さんには、しないで……。ロゼアちゃんには言わないで。内緒にして、ください……」
ちゃんとそれまでに、離してくるです。だから、でも、だから。迷う声で首を振りながら、ソキは弱々しく懇願した。
「ろぜあちゃんが……だれかと、ろぜあちゃんを、すきな、おんなのこと……しあわせになるところ、だけは」
みせないで。みたくないの。どこか知らない所で、しあわせになってくれるのであれば、それならばちゃんと耐えられるの。でも目の前で、誰かの手を取って。微笑んで愛を囁いて口付けて幸福に酔いしれるそのさまには、絶対に、耐えられない。自ら手を離したのだとしても。身勝手だとののしられ怒られたとしても。花のように微笑み、おめでとうございます、ロゼアちゃんがしあわせならソキもうれしいです、くらいなら告げることはできるだろう。それでもそれが最後だ。耐えられない。
「……ハドゥルと、ライラには」
「ふえ?」
「言ったのか? それ。ロゼアの両親に、お前が……ハレムに入る云々は知らなかっただろうからおいといて、お前がロゼアを離そうとしてることは。伝えてあるのか?」
これを誰なら説得できるんだと言わんばかりの表情で、砂漠の王が溜息混じりに告げた名に、ソキはぱちぱちと瞬きをした。ロゼアの両親、とまで言われているので、同名の別人、という訳ではないのだろう。陛下なんでロゼアちゃんのお父さんとお母さんの御名前知ってるですか、お知り合いですか、と尋ねるソキにいいから質問に答えろよ、とややうんざりした声が向けられる。ぷぅ、と頬を膨らませたいのを相手が王だという理由のみで我慢して、ソキはゆっくり息を吸い込み、気持ちを落ち着かせてから頷いた。
「言ったですよ」
「あの、ソキのこと超絶お気に入りってるあの二人にか……? ……で、なんて言ってた? 覚えてる限り正確に繰り返せ」
陛下なんでそんなこときくですか、と首をかしげつつ、ソキは求めに従って告げられた言葉をそのまま復唱してみせた。
「んと。『ロゼアは、ロゼアを好きな宝石のようなおんなのこと、かならず、しあわせになります』です。それで、『砂漠のきれいな砂のような髪をした、ひかりあふれるパライバの、トルマリンのような、瞳の、とびきりうつくしく、かわいらしく、あいらしい……そんな、おんなのこと。しあわせに、しあわせに、なります』です」
なんだその特定個人感溢れるおんなのこ指定、といわんばかりなまぬるい笑みで、砂漠の王が溜息をつく。
「守護役と殺害役、決めような……? むしろ砂漠の平和と安寧を願うならお前はそうすべきだマジで。守護役はロゼアだから、あとなんか適当に決めてこい。な?」
「もー、陛下。ソキはそれだめだって言ってるですー」
ロゼアちゃんはしあわせになるんですよ、とくちびるを尖らせながら部屋の出口へよちよちと歩んでいくソキの背を見つめ、砂漠の王はなまぬるい微笑みのままで立ち上がり、頷いた。うんそうだなそのロゼアの両親曰くあきらかにお前としあわせになる感じだな、と思いつつ、口には出さない。ロゼアは『傍付き』だ。『傍付き』が『花嫁』に恋慕を抱かないことくらいは、王も知識として、知っていた。こらひとりでハレム歩こうとすんな、とソキの手を捕まえて握り、砂漠の王はゆったりとした速度で歩き出す。
「『花嫁』なら、『傍付き』がずっと傍にいてくれるのは望むことじゃないのか?」
どこにも立ち寄らず、ハレムの出口へ向かう王とソキを、遠くからいくつもの女の視線が見送った。それを振り仰ぐことすらせず。ソキはひえた指先に力を込めて、ふる、と一度だけ首を振る。
『ソキは、俺の自慢の『花嫁』だった』
囁く声がいまも、胸をひどく痛ませた。目を伏せて息を吸い込み、ソキは言葉を思い出す。
『俺は、ソキの傍にいたいから、今、ソキの傍にいるよ』
はなよめ、ではない、ソキの傍に。
『俺が、そうしたいから、そうしてる』
ロゼアがいたいと、言ってくれるのなら。手を離さなければいけないと、思った。ソキは知っている。『花嫁』として一度、完成していたからこそ。『花嫁』は『傍付き』の、おんなのこにはなれない。どうしても、どうしても。なれないのだ。
「……ソキは、ロゼアちゃんの、傍に。……ずっと、ずっと、いたかったです」
彼をしあわせにできるおんなのこにさえ、なれるのならば。己を『花嫁』と言わず、ロゼアを『傍付き』とは告げなかったソキに、王は一言、そうか、と溜息混じりに告げて。やわらかな手を引き、ハレムからソキを連れだした。
ハレムを出てすこし歩いた曲がり角で、ソキは王と別れた。なにかと忙しい男である。ソキが見送って数秒も経たぬうちに王宮魔術師や護衛たち、文官が王に走り寄り、口ぐちに不在の間に起きたことを報告し出した。男はソキと共にいた時とは打って変わった大股の早足で廊下を進み、一々丁寧に返事をし、指示を出しながら、執務室へ続く廊下の角をまがって行った。ざわめきが、遠くなり、消えて行く。さわりと最後の一音が消え去ったのを確認し、ソキはゆっくり、ゆっくり、姿の見えなくなった王に対して深く頭を垂れ、一礼した。なぜか、急に、そうしたくなった。息を吐いて立ちなおし、ソキは王が消えた方角とは間逆に足を踏み出す。
お前の部屋こっち。この廊下まっすぐな、とあらかじめ教えてもらっていた為だった。まっすぐ進むだけなら間違えないで帰りつけるだろう、という王からの気づかいである。見覚えのない廊下をてちてち歩いて息切れしながら、ソキはどれくらいまっすぐかを聞いておくのを忘れたことに気がつき、軽く眉を寄せてくちびるを尖らせた。頭の奥が、にぶく、いたい。はやく部屋に辿りついて休まないと、夕方には熱が出てしまう気がした。んん、とのたのたまばたきを繰り返して、ソキはあたりを見回した。そういえば、もう午後になってから結構な時間が経過している。ロゼアは、屋敷から、戻って来ている筈だった。てち、と足を踏み出す。その時だった。
ぱき、と音がした。心臓のすぐ近く。胸の中で。ぱきん。なにかが壊れる、音が、した。
「……え?」
痛みは、一瞬の空白を経て、ソキの全身を貫いた。ぱきん。ぱきん。ぱきん。かろうじて形を保っていたそれが壊される。ぱきん、ぱきん、と音を立てて。壊れて行く。壊されて行く。悲鳴が、喉を貫くようにほとばしった。
「きゃああぁああっ! やああぁああっいたいっ! いたいのいたいのやだやだやだやあああぁああああっ!」
ぱきんぱきんぱきん。壊れて形を失ったそれが、ざらり、音を立てて砂になる。砂になって、崩れて。もとのかたちがおもいだせない。いそがなきゃいけないのに、いますぐおもいださなければいけないのに。泣き叫びながらソキは空に向かって手を伸ばした。はやく、はやくはやくはやくはやくおもいださなきゃおもいださなきゃもとにもどさなきゃ。どこかで魔力が動いている。強く強く。その身を食い破って解き放たれようとしている。ソキにはそれが分かった。これで、もう三回目だ。そしてその、三回とも。ソキは。間に合わない。それは奪われ盗まれ壊されてしまった。
「……あ、ちゃん……!」
廊下に倒れ伏しながら、ソキは涙を零す瞳を何処へと向けた。ふるふる、両腕を伸ばして、その存在を求める。
「ろぜあちゃん……ロゼアちゃん! ろぜあちゃんろぜあちゃんっ、ろぜあちゃん……!」
悲鳴に。揺れ動く魔力に。いくつもの足音がソキを目指してかけてくる。ソキ、ソキちゃん。ソキさま。ざらざらと砂が揺れ動く音を聞きながら、ソキは激痛と胸をつらぬく切なさに耐えきれず、ぶつりと意識を途切れさせた。くらいくらい夢に沈んでいく寸前、遠くで、辿りつけなかった場所で、暴走しかけていた魔力が収まるのを感じ取り、ソキはふわりと微笑んだ。届かないと分かっていて、強く、思う。ろぜあちゃん、ろぜあちゃん。ごめんね、ごめんねろぜあちゃんごめんね。ロゼアちゃんの『 』を、ソキ、守りきれなかったです。
「……ごめんなさい……!」
ぱきん。胸の中で砕ける音が。その悲しみをも消し去って、意識を押し流した。
さわさわさわ。空気を揺らす言葉たちが意識にそっと触れて行く。悲鳴泣き声怒鳴り声怒号。慌ただしい足音は部屋の前に来るとしんと音を消す。音のない仕草で何人かが歩きまわっている。部屋の中。守るように。さわさわさわ。言葉が揺れている。怒り焦り狼狽疲労困惑。強く弱く凛とした掠れて苦しげにはきと響く。声、声、いくつもの声。さわさわさわ。空気が揺れる。そのうちひとつもかたちにはならない。うまくきこえない。うまくわからない。だれがなにをいっているのか。だれがなにをはなしているのか。だれ、だれ。そこにいるのはだれ。ひえていくゆびさきをあたためるぬくもりは、なく。だれかが手をつないでくれていても。それは火の熱のような陽のひかりのようなそれではないから。つなぎとめられない。かたちがわからない。なんだっけこれはなんだっけ。これは。わたしは。だれ。わたし。の。なまえ。は。
けふ、けひゅっ、のどが力なく咳を繰り返す。痛い。全身が痛いどこもかしこも痛い、痛い、いたい。指先も喉も瞼も動かせない。砕け散ったそれがざらざらと砂のような音をたてて揺れ動いている。ざらざらざら、砂の音。ひゅ、げほっ、限界を超えた喉が血を滲ませて吐きだす。ソキさまソキさま。泣く寸前の、冷静さをなんとか形だけ残したやわらかなやさしい声が幾度も幾度も呼びかける。呼びかけられているのは分かるのに、その響きがなんなのか分からない。そのひとが誰なのかわからない。ソキさま。繋ぐ手に力が込められた。ソキさま。頬に押し当てられる。そのひとは泣いていた。ソキさま、ソキさま。何度も何度も呼びながら、泣いて、苛立ちに舌打ちをする。
王宮魔術師。白魔法使い。どこへ。はやく。なんで。なにをしに。城下で魔術師が。暴走しかけて。そちらへ向かっていた。もうすぐ戻ってきます。ごめんなさい。わたしたちでは。こんなにも荒れ狂う魔力を抑えきれない。なにが。どうして。ああ。ごめんね。そうだよね。いたいよねいたいよねごめんねごめんね。その痛みをどうかわたしに。おいでおいでこちらへおいで。眠りについて和らいで。消えて溶けて淡雪のように。水に流され。風が運ぶ。大地が抱くように。火が燃やして。痛みが。痛み。ああだめ気休めにしか。気休めでも、ほんのすこしでもっ。怪我なの病気なのそれとも。違いますこれは。まりょく。うつわがくだけてしまっている。くだけて、いえ。砕かれてしまっている。誰かに。誰がそんなこと。そんなひどいことをどうして。できるはずがないそんなこと。
そうねできるはずがないわ。わたしたちはしっているわかっている。自我の崩壊すら招くその激痛を、拷問よりひどいそんなことを、誰が同朋にできるというの。誰が。誰が。でも誰かが。いいえわたしたちはしっている。しっているはずだわ。だってこのこは。あのひこのこが。ろぜあくんといっしょに。たおれていたのをみつけたほごしたわたしたちはしっている。しっているじゃないああどうしてどうしてきがついてあげられなかったんだろうどうして。なにもされていないはずなんてなかったのに。ごめんねごめんねいたいよね。いたいよねそきちゃんごめんねいたいよね。ふぃおーれ、ふぃおーれおねがいはやくきて。らてぃ。おねがいはやくはやく。癒してあげて眠らせてあげて。はやく。はやくはやくはやく。
「ごめん! ごめんごめんただいまきゃああああああ! ソキちゃんええええなにこれぇ!」
「ラティ! はやくはやくフィオーレはっ?」
「ええええどうしようフィオーレこっちに来られないの! 城下にツフィアとロゼアくんがいて、フィオーレいまツフィアと、ロゼアくんみててそれで……! 白魔術師誰か一人フィオーレのトコに走って! 状況伝えて交代の段取り組んできて! えええぇっとメグミカさん? でしたよね? えっとえっとソキちゃんの片手貸してください眠らせるから……!」
えええええちょっとなにそれ城下でなにがあったの。わかんないツフィアに今聞いてるトコだからそっち行くのが一番はやいと思う。いいからフィオーレのトコ。はやくはやく。慌ただしく走り去っていく足音と入れ違いに、軽やかな足音が近づいてくる。魔術師のそれというよりは護衛や、騎士たちの気配に近い。祈りのように手が繋がれる。ソキさま、ソキちゃん。声が呼ぶ。ロゼアは、ロゼア。どうして。なにが。さわさわさわ。空気が揺れる。けひゅっ、と咳をして。めを、ひらいた。
「……ちゃ……ろぜ……あ、ちゃ……? どこ……?」
「ああ、ソキさま……! ソキさま、ロゼアは……ロゼアは、ああ……いえ、すぐ。すぐに参りますよ。メグミカがすぐ連れてまいります。ね? 大丈夫。大丈夫です、ソキさま……」
「……ろぜあちゃんは……いないです……?」
く、と悲鳴を殺すようにラティの喉がなる。メグミカの手から奪うようにソキの手を取り、握り、魔力が流しこまれる。痛みを堪え、己の正しさを信じた瞳が、泣きじゃくるソキの目をしっかりと見つめて、告げた。
「眠って。寝て、起きたら、ロゼアくんはいるわ」
「……いま、なんで、いないです……? ろぜあちゃ……ろぜあ、ちゃん……」
どこへいったの。どうしてそばにきてくれないの。いないの。おこってるの。あきれてしまったの。そきがまもれなかったから。そきがにげられなかったから。そきがこわされてしまったから。ろぜあちゃんの『 』を。そきが。
「うつ、くしい……『うつくしいものを紡ぎ、きよらかなもので包み、わたしは夢を織る。あなたは眠る。やさしい夢につつまれて眠る。痛みも、恐怖も、おいかけてこない。祝福の夢を、贈る。祝福で夢は満ちる』」
泣きながら、すぅ、と眠りに落ちたソキの手を、ラティが強く握り締める。てのひらが冷え切っていた。かなしいくらいに、それはつめたく。いくら包み込み、暖めようとしても、ぬくもりを宿してくれることはなかった。
投げ出されたままの砂が、おおきなてのひらに包まれるようすくわれる。さらさらさら、と砂の音。てのひらから零れ落ちて行く先は、透明な硝子でつくられた砂時計だった。さらさらさら。封じ込められて、ようやく、安心する。さらさらさら。砂が落ちて行く。片側の砂が落ち切れば、ことん、軽い音を立てて逆さまにされる。また零れて行く、滑り落ちて行く。さらさらさら、さら。さら。ことん。さらさらさら。ことん。飽きることなく、繰り返して。だいじょうぶだよ、と囁かれる。砕けていても大丈夫。砂粒になってしまっても大丈夫。だいじょうぶ。ちゃんと見つけて、包み込んで、愛して、守ってあげる。だから怖がらなくていいよ。ソキ、ソキ、大丈夫だよ。痛くない。大丈夫。愛してる。あいしているよ。
赤褐色の瞳が、揺れる火の光を照らし返しながらゆるりと細まる。飽きることなく砂時計に触れ、さらさらと砂を流している男に、写本の修復をしている者から苦笑いが向けられた。
「――は、ほんとに、お姫ちゃんが好きだね……」
「はい、もちろん」
即答である。しかも、にっこり微笑まれた。数年前なら誰だお前はと寮長あたりからぬるい笑みを向けられそうな反応に、修復師は、己の魔術師としての属性と適性を投げうってまでその力を手に入れた男は、くすくすくす、と肩を震わせて笑った。
「それで、今日はどしたの? ごめんな、まだ修復は終わりそうにないんだ……」
「いいえ、謝らないでください、先輩。今日は……接続が強くなる日だと、メーシャが」
「希望の占星術師が……?」
接続、ねぇ、と首を傾げて修復師は言った。そういえば先日、お姫ちゃんが来たよ。指輪して本持ってたから、あれがきっとそうだね。目を細めて至福を抱き、微笑み、修復師は赤褐色の瞳の男に、告げる。
「あれが、俺たちの……消えゆくことを受け入れた未来の、繰り返し、巻き戻し、やり直し、積み重ね続けた可能性と、希望の至る過去で、未来だ。あのお姫ちゃんに、なにかあるってこと……だろうな。ええと、今日何月何日だっけ……?」
「……『学園』の生徒であれば、ちょうど」
す、と赤褐色の瞳の男が伸び、卓上に置かれていた暦を指差した。砂漠の民特有の、煮詰めた飴色の肌に包まれた指先が、とある日付けをとんとんと叩く。
「長期休暇の最中ですから、恐らく、このあたり。……ソキの器がもう一度砕けた日だ」
「ああ、そうか……そっか」
それでさっきから延々砂時計いじってるの、と視線で問われ、男はうつくしく笑みを深めてみせた。思わずにっこり笑い返した修復師に、太陽の黒魔術師は微笑みのままに告げる。
「きらきらしていて、かわいいので」
「う、うん……うん、そっか……?」
「はい」
やぁん。やぁ。はずかしいこといっちゃやです。そんなふうに、あわくあまい声で抗議するように。砂時計の中の砂に、ふわり、輝きが灯る。それに目を細めてさらにうっとりと、かわいい、と呟き、男の指がことん、と砂時計をひっくりかえした。だから、と目を伏せて男は囁く。
「無理しないでいいんだ、ソキ。……待ってる。俺は、ずっと、ずっと、待てるよ。だから……」
そんなに急いで、痛くして。俺を助けようとしないでいいよ、と苦しげに、泣くように、囁いて。さらさらさら。落ちる砂粒を見つめながら。告げた。いまはもうすこしだけ、すなのまま、ねむっていような。
夢の中。誰かがそう、言ったので。ソキは形を思い出すことをやめて、さらさらさら、砂の音を。受け入れて、眠った。