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 ふわふわした気分で息を繰り返す。すこし前までの気持ち悪さは、今は月が欠けていくように沈みこんでいた。体の隅々まで広がるびりびりとした鈍い痛みも、夜のしじまに眠る砂粒のようだった。はふ、とほんの僅か落ち着いた風に笑ったソキの頬に、ロゼアの手がぺとりとくっつく。やわやわと頬を撫で、首筋に滑らされる指先に、ソキはやぁうーっ、とはしゃいだ声で笑った。
「ろぜあちゃん、ろぜあちゃん。くすぐったいですぅー!」
「くすぐったい? ……ん、ちょっと落ち着いたな。いいこだな、ソキ。偉いな。ソキ、ソキ。……ソキ」
 指先がそのまま滑り肩を抱き、ぎゅぅ、と柔らかく抱きしめてくる。うっとりとした気持ちで身を預けながら、ソキはふああぁ、と眠たげにあくびをした。ロゼアの膝の上、腕の中はとてもあたたかくて気持ちがよくて安心して、なんだかとっても眠たいのである。うとうと、眠たげに瞬きをするソキの頭に、ロゼアが頬をくっつけて息を吐く。安堵したような、穏やかな気持ちでいるような。幸福に揺れるような。そんな吐息が空気を揺らす。
「ソキ」
「ふゅ……はぁい。なんですか? ロゼアちゃん」
「ソキ、ソキ。……なんでもないよ、ソキ。なんでもない」
 揺りかごのように、そっと体をゆらゆらとゆすられて。背を撫でられて、ソキは気持ちよさそうにロゼアの胸にすりすりすり、と頬を擦りつけた。体はずっと膝の上に抱きあげられたままで、冷えたシーツの上に降ろされることはない。寝台の上に置いた大きなクッションを背もたれに、ロゼアはそこへ体を預けて、ソキを抱いたままでいた。ソキはハレムに行った帰り、倒れて動けなくなった日から、ずっと。ロゼアはそうしてソキを抱き上げ、一度も降ろさないままだった。すくなくともソキの意識がある間は、ずっとずっとそうしてくれていた。ふわふわと息を吸い込み、ソキは久しぶりに楽になった体で、うぅんと伸びをする。
 ずぅっと熱がでてずぅっとだるくてずぅっと体が痛くて動かせなかったので、手と脚に力が入る感覚すらひさしぶりである。ふぁ、と先程よりは目が覚めたようなあくびに、ロゼアがくすくす、としあわせそうに笑った。
「喉乾いただろ、ソキ。お水飲もうな。それともお茶がいい? 温かいのにする? つめたいのも、すこしならいいよ。あんまりたくさんは体を冷やすから、つめたいのならすこしにしような。……ソキ、ソキ。ソキ」
 ぎゅぅう、と腕に柔らかく力が込められて、ぺたりとくっついたソキの体が、さらにロゼアに密着する。それがあんまり気持ちよくて目を閉じてしまったソキを、ロゼアの手はゆったりと撫でていく。肩のまるみをてのひらで包みこみ、指先が背を何度も撫で下ろす。くすぐったさに身をよじれば、指先が髪にさしいれられ、頭がきゅぅと抱き寄せられる。ソキ、ソキ。何度も、何度も呼ぶ声はやさしく、ほんのわずか、涙の気配を漂わせていた。びっくりして、ソキは勢いよくぱちっと瞼を持ち上げる。
「ロゼアちゃん……! や、やぁっ、どこか痛いですっ? どうかしたですっ……?」
「うん? ……痛くないよ。なんともないよ。ありがとうな、ソキ。俺は大丈夫。なぁんともないよ……」
 だから慌てるのはやめような。ゆっくりしていような。いいこだな、ソキ。いいこだからちゃんと俺のいうこと聞けるよな、と囁かれて。ソキは不思議な気持ちになりながらも、こくん、と素直に頷いた。ロゼアがそういうのなら、きっとそれが本当なのだけれど。でもなんだか、ロゼアが泣きそうな気がしたので。腕を持ち上げて、ソキはロゼアの頭に触れた。なでなで、髪と、頭を撫でる。ロゼアにそうしたのは、はじめてのことのような気がした。ロゼアも、きっとそう思ったのだろう。一瞬驚きに見開いた目が、あまく、照れくさそうにくしゃりと笑う。
「ソキ。……さ、なにか飲もうな。お水と、お茶のどっちにする?」
「んん。んぅー……? ロゼアちゃんのすきなほう……」
「分かった。じゃあ、あたたかいお茶にしような。メグミカ、湯呑みとって」
 さわり。室内の空気が揺れ動いて、ソキは初めて寝台の外側へと意識を動かした。砂漠の城の一室。ソキとロゼアの滞在用に貸し出された居室は、『お屋敷』の者たちの手によって大改装に近い整えられ方をされているので、一見するとそこは、慣れ親しんだ『花嫁』の区画のようだった。布に越されてふりそそぐ、あまやかな光だけがとろりと室内に満ちている。ソキが見えるのは寝台の中と、それを覆う紗幕の向こうに広がるとろとろとした光、そこで動き回る人影だけで、あとはなにも見えないし、どんな音が聞こえることもなかった。室内には足音すら響かない。しばらくすると失礼致します、と声がかかり、紗幕がほんのわずか、腕によって引きあげられる。
 けれどもすぐにそれは閉じられてしまって、するりと入りこんで来たメグミカだけが、寝台に上がり込むこともなく歩み寄ってくる。大きな寝台をぐるりと回りこんで、メグミカはロゼアにソキ用の湯飲みと香草茶が入った水筒を手渡した。じっと見つめてくるソキに、メグミカのとび色の瞳が向けられ、涙にうるみながらも微笑みが浮かべられる。
「ソキさま、おはようございます。お茶をお飲みになられるのですね……?」
「そうなんですよぉ。ソキ、おちゃ、のむです」
「そうなんですね! さすがはロゼアのソキさまです。ソキさまは偉いですわ……!」
 でっしょおおおお、とロゼアの腕の中でふんぞりかえるソキの背を、ぽんぽんぽん、と手が撫でていく。ソキの興奮を宥めながら、ロゼアはていねいな言葉のメグミカしょうじき気持ち悪い、という顔をしていた。メグミカはソキからは完全に死角になる場所で、てきぱきと手を動かしてロゼアに指示をした。ロゼア、ソキさまが眠ったらちょっと来い。やだぜったいにやだ。来い。やだ。こいっつってんのよ来なさい。いやだ。微妙にメグミカを視界から外しつつ、湯呑みに香草茶を注いでくれたロゼアに気が付かず、ソキは差し出されたそれをしっかりと両手で受け取った。落っことさないようにロゼアに一緒に持ってもらいながら、くちびるをくっつけ、喉を反らしてこくん、とひとくち、のみこむ。
 けふ。と咳がでて。ぐっと息をつめて見守るロゼアとメグミカに、ソキはやぁう、とむずがった。
「おちゃ、もういいです……」
「ソキ、ソキ。もうすこしだけ」
「やぁ。やーでーすぅ。ソキはいやっていってますぅー」
 メグミカちゃんにあげるです、と湯呑みを差し出し、ソキは眉を寄せてふるふると首を横にふった。まだ喉が渇いているのも本当なのだが。咳が出るとまた熱が出てしまう気がして、嫌なのである。ソキお熱きらいですからぁ、お咳ですしぃ、おちゃ、もういいです、と頬をぷーっと膨らませながら言うソキを、ロゼアが無言で腕の中に閉じ込める。ぎゅっと抱きしめられたのち、ふくれた頬をするすると指の背が撫でていった。
「ソキ、じゃあ……じゃあ、なにか食べような。なにがいい? ヨーグルト? こんぺいとう? りんごもあるよ。生のも、砂糖につけて干したのも。はちみつの白いパンにしようか。ああ、デーツもあるよ。ソキ、好きだろ? 刻んで、ヨーグルトにいれて、たべような?」
「……や。や! おなかきもちわるいです。やぁんっ」
「おなか? きもちわるいの? 痛いのか……? ソキ、ソキ。そき……」
 おいで、と引き寄せた腕が、ソキの体をくるりと反転させる。背をぴったりとくっつけて座らせられ、ロゼアの手がソキのおなかの上に押し当てられた。布の上から、そっと腹部が撫でられる。やあぁんやあぁっ、ともぞもぞ暴れるソキの頭上で、鋭い響きの言葉が、早口で交わされて行く。
「メグミカ。ソキの月の障りは……次の時期はまだだったよな」
「ええ、その筈よ。学園では?」
「特にずれてなかった。報告書の通り。じゃあ、それじゃないのか……? 熱のせい?」
 わからないわ、とメグミカが低く吐き捨てるように言う。速く低く響かない声で交わされる言葉は、ソキにはうまく聞き取れない。やあぁああふたりともないしょのおはなしやあぁあああっ、と怒ってロゼアの腕をぺっちぺっち叩けば、うん、と呟いて抱き直される。
「うん。ごめんな、ソキ。もうしない。……しないから、なにか、すこしでもいいから、食べようか」
「……たべないと、ろぜあちゃん、おこる?」
「怒らないよ。怒らない。……怒られたりも、しないよ。おなか、きもちわるいか? おなかすいてない?」
 メグミカが、ねえロゼアもしかしておなかすきすぎてソキさまはきもち悪くなられているのではないかしら、という顔で口元を引きつらせた。ううぅん、と思い悩むソキを撫でながら、ロゼアがうわああぁ、と無言の呻きで天井を仰いだ。それだ。それよね。それだよ。むうむう呻きながら、あれもしかして痛くはないですしぃ、ちょみっときもちわるいかもですしぃ、でもおなかすいてる気がしますしぃ、と考えるソキにも聞きとれるように、ロゼアがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「メグミカ。ヨーグルトと、りんごをすりおろして持ってきてくれるか?」
「分かったわ。他には?」
「他は……頼んでたあれが、出来あがってたら。一緒に」
 微笑んで頷き、メグミカはすこしだけ失礼致しますね、とソキに囁き、湯呑みをロゼアに受け渡してから立ち去った。また一瞬だけ紗幕が持ちあがり、すぐに寝台は薄布に覆われてしまう。さわさわさわ、と向こう側の空気が淡く揺れている。誰かが部屋の扉を開けたその瞬間だけ、どっと外側のざわめきが部屋になだれ込み、しかしすぐに遮断されてしまった。ぽん、ぽん、とソキの肩を撫でながら、ロゼアが顔を覗き込んでくる。
「おなかいたい?」
「んん……。んんん……?」
 よく分からないです、と言いたげに、ソキはくてんと首を傾げる。おながすいているような、ちょっとだけ痛いような、ぐるぐるした感じがして、どうも落ち着かない。やーぁ、うー、とむずがってしきりに身動きするソキを膝の上に座り直させ、ロゼアはよしよし、とおなかの上を撫でてやった。
「今日と、明日は、ゆっくりしていような。……明後日は、『お屋敷』に行かないといけないから」
「はい。ソキ、ゆっくりするですけど。おやしき、いかないといけないです? おにいさまにお呼ばれです?」
 行く、ではなく。行かないといけない、とロゼアが言う以上、それは義務や命令に近いなにかである。ソキはてっきりレロクが呼びだしたもの、と思ったのだが。ロゼアは苦笑いをして首をふり、違うよ、と言った。
「王陛下が。城が慌ただしくなるから、ふたりとも『お屋敷』にさがってろ、って……だから、メグミカも、アザも、ユーラも、ウェスカも、シーラも。みぃんなソキと一緒だよ」
「……ロゼアちゃん。ソキといっしょ?」
「もちろん」
 でも、歩くのはやめような。だっこしていこうな。まだ体だるいだろ。歩くのはだめだ、と言い聞かせられて、ソキはううぅん、と眉を寄せたのだけれど。咳が出てしまったし、気持ちが悪いのも、体がどこもかしこも痛いのも、無くなった訳ではないので。はい、ソキ、ロゼアちゃんの言う通りできるです、と頷いた。ロゼアはそれに、あまやかに笑う。柔らかくソキを抱き寄せ、耳元で笑みゆるむ声が囁いた。
「偉いな、ソキ。言うこときけて。……ソキ、ソキ」
「ロゼアちゃん。きゃぁ! なんですか? なーあーにー?」
「んー……? なんでもないよ」
 なんでもないよ。だから、俺の腕の中から出ないでいような。歩かないでいいよ。ずっとだっこしてればいいだろ、ソキ。ゆっくりするってさっき言ったろ。だから、今日はソキはずっとここにいればいいよ。ぽんぽん、と背を撫でられながら囁き落とされて。ソキはきゃっきゃとはしゃいだ声で、そきろぜあちゃんのいうとおりできるぅーっ、と笑った。ほ、と肩の力を抜いてロゼアが笑う。ゆるゆるソキの体を揺らしながら、いいこだな、とロゼアが笑う。穏やかに、やんわりと目を細めて。なんだかとても、しあわせそうに。んん、と首を傾げ、ソキはロゼアにぴとっとくっついた。
「ロゼアちゃん。なにか嬉しいことあったぁー? ですー? ねえねえ、うれしいこと、あったんです?」
「うん? ……ソキがすこし元気になってよかったな、と思って。メーシャも心配してたよ」
「メーシャくん? ……メーシャくん、心配かけちゃったです……? メーシャくん、ソキ、元気になったですよ」
 不安げに視線を彷徨わせながら告げるソキの頭を撫でながら、ロゼアは元気にはなってないだろ、と言葉にはせず苦笑した。あくまでソキの状態は、とりあえず落ち着いただけ、である。このまま水分をとることを拒否され、食事もとらなければ、数時間であっけなく悪化することは目に見えて分かっていた。けれども、叱ったり、怒ったりすれば、ソキは頑なになるだけだ。『学園』に帰ったらメーシャに元気になったの見てもらおうな。あとで手紙も書けばいいよ、と告げ、ロゼアはソキと額を重ね合わせる。ソキの体を重たくしていた熱は、まだ引いてはいないものの、嫌な熱さを帯びていないように思われた。
「メーシャくんに、おてがみ……? メーシャくん、いないです?」
「うん、年末に戻ったよ。挨拶にも来てくれたけど、ソキは寝てたから会えなかったな。ごめんな、ソキ」
「んーん……? ……ねんまつ、です……? ねんまつ?」
 ねん、まつ。その言葉を何度か繰り返して呟き、ぱちぱちと目を瞬かせて。唐突にソキは、きゃあぁっ、と叫び声をあげた。
「ロゼアちゃんたいへんたいへんです! もしかして一年が終わっちゃいます!」
「うん? ……うん、昨日終わったよ、ソキ。今日から、新年」
「……あれ?」
 くてん、とソキは首を傾げて、ロゼアの腕の中でいっしょうけんめい指を追って日を数えた。んっと、んーっとぉ、と指折りながら考えて、けれどもちょっぴり計算が合わない。あれ、気が付かないうちに何日か無くなっちゃったです、と訝しむソキを抱きなおし、ロゼアはぽん、ぽん、ぽん、と腹あたりに触れ、撫でてくる。
「たくさん寝てたもんな、ソキ。……よく頑張ったな。熱も、痛いのも。がんばったな、ソキ」
「んん? ……えへへ。でしょぉ。ソキ、がんばったですよぉ?」
「はい。さすがはロゼアのソキさま! よく頑張られましたわね……! 頑張られたからお茶を飲まれましょう?」
 紗幕の隙間から体を滑り込ませつつ告げたメグミカに、ソキは勢いで機嫌良く頷いた。ソキ、おちゃ、のむです。えへん、と胸を張りながら告げれば、さすがはロゼアのソキさまですっ、とめいっぱい嬉しそうな声で繰り返される。
「メグミカは嬉しゅうございます。ソキさま? お茶を飲まれましたら、なにか召し上がられましょうね」
 ヨーグルトも、リンゴもありますよ、と告げるメグミカが、跪く己の膝上にのせた木盆の上には、それとは違う薄布のかけられた小皿がひとつ、置かれているように見えた。それなんですか、と目をぱちぱちさせながら、ソキはロゼアと一緒に湯呑みを持ち、ゆっくり、ゆっくり、ぬるまったお茶をこくん、と飲み込む。今度は咳はでなかった。こく、こくん。こくん、と飲んで湯呑みを空にしたソキに、ロゼアはあまく喜びに満ちた微笑みで、偉いな、と頬を撫でてくれた。
「偉いから、ソキはなにか食べられるな。食べながら、お茶も、もうすこし飲めるよな?」
「えへん。ソキ、ちゃぁんとご飯食べてぇ、おちゃだって、飲めるんですよ?」
「さすがはロゼアのソキさまです! さあソキさま。ソキさまのお好きなヨーグルトにされますか? すりりんごもありますわ。それに……」
 できあがっていたわよ、とメグミカの囁きに、ロゼアがちいさく頷いた。片腕でソキを抱いたまま、もう片方の手が布のかかった小皿を取りあげる。なんですか、それなぁに、と不思議がるソキの顔の前で、小皿にかかっていた布が取り払われた。そこに乗せられていたものに。ソキはあっと目を見開き、はしゃぎきった声できゃあああぁっ、とさけぶ。
「ろぜあちゃんの! おいわいの、お干菓子、です!」
「うん。約束したろ、ソキ。俺が十五の時に」
 来年も、その次も。新しい年になるたびに。しあわせそうに笑いながら囁くロゼアに、ソキは瞳を涙でうるませ、こくん、と頷いた。十五の成人を迎えた者を祝う風習は、どこの国でもあるものだ。砂漠の、特に『お屋敷』のそれは本人が祝福を贈られるのみではなく、周囲に対する感謝を捧げる日でもある。砂漠の、首都住まいの者には数え年が採用されているから、年が明けるのに合わせてそれは行われ。『お屋敷』では成人となった『傍付き』が、周囲に祝い菓子をふるまい歩くのが習わしだった。ただしそれは『傍付き』に限られ、原則的に十五までには嫁いで行く『花嫁』には関わりのないものである。だからその風習の、詳しい意味や内容までは、ソキにはよく分からないものなのだが。
 差し出されたのは、ロゼアの祝いの干菓子である。それは小ぶりな花の形をしている。八重咲きの密な花が形を成すそれは繊細な砂糖菓子。琥珀を溶かしこんだ発泡酒のような淡い色合いは、ソキの髪色にとてもよく似ていた。花に添え、飾られるようにつけられたちんまりとした緑の葉も、口に含めばとろりと溶ける砂糖細工である。ロゼアは花のひとつを摘みあげ、ソキの口元にそっと差し出してよこした。あむ、と口に含めば、すぐにとろとろざらりと砂糖細工は溶け崩れ、品のいいやわらかな、喉にひっかからない甘みが広がっていく。あむあむ。こくん。と飲み込んで、ソキはなんども目を瞬かせた。そうしなければ泣いてしまいそうだった。
「おいしいか? ソキ」
「うん……。うん、おいしい、です。あまぁいです」
「もうひとつ食べられる? それとも、りんごのほうがいい? ヨーグルトにするか?」
 小皿の上にのせられたちいさな愛らしい砂糖菓子は、全部で三つあった。いまひとつ食べてしまったので、残りはふたつ。ソキはちょっと眉を寄せてロゼアを見つめ、微笑みかけるメグミカを見て、砂糖菓子を見て、ロゼアを見て、もう一度砂糖菓子を見つめたのち、ロゼアをうるうるした目で見つめ、きゅぅん、と喉を鳴らした。
「ろぜあちゃぁん……」
「うん?」
「ロゼアちゃんと、メグミカちゃんと、ソキのです? ソキの、もうないです。ソキがまんできるです……!」
 ロゼアの祝い菓子は、特別なものであるという。『傍付き』それぞれが特別な注文をして年始にだけ作られるものであるから、数も限られるのだと聞く。つまり、恐らく、小皿に乗っているものだけで全部なのだ。めぐちゃんとロゼアちゃんのです、ソキがまんです、と頷くソキに、メグミカは微笑みながら囁いた。
「いいえ。すべてソキさまのものですわ。……そうよねロゼア」
「そうだよ。決まってるだろ? ソキのだよ。ソキのだから、食べたかったら食べていいんだ」
 拗ねたように、しょんぼりとうなだれるソキの頬を、指の背で撫でて。ロゼアは満ちた息を吐き出して、ゆるく、ソキの体を抱きしめ直した。
「ソキはこれ、好き?」
「すき。です。……ソキの? これソキのです? ほんとです?」
「うん。ソキ、ソキ……でも、そうだな。りんご、食べられる? すってあるから、あまくて、ふわふわで、食べやすいよ。りんご食べて……ヨーグルトも、すこし、食べられるといいな。それで、そうしたらもうひとつ、これを食べような。もうひとつは、ゆっくり眠って、起きて、お茶を飲んで。その時に食べようか」
 引き寄せられる腕の中が、じわじわとした熱が染み込んでくるようで、ほんとうに気持ちいい。くたん、として体を全部預けて、預け切って、目を閉じてすりすりすり、と頬を寄せて甘えるソキの髪を、ロゼアの手がそぅっと撫でていく。繊細な壊れものを扱う手つきで。やわらかなそれを、決して歪ませはしないのだと囁くように。触れて、撫でて、癒して行く。閉じたまぶたを、くすぐるように、指先が触れた。
「ねむいか? ソキ。……頭痛いか?」
 じわり、じわり。逃げていく夕陽を暗闇が染めていくように。奥底に沈んでいたけだるさが浮かび上がってくるのを、ソキも感じ取っていた。のた、のた、瞬きをして、あくびをして、ソキがゆるく首をふる。
「大丈夫なんですよ……ソキ、りんご、たべるぅ、です」
「うん。うん、いいこだな、ソキ。気持ち悪くなったら、途中でやめにしような。無理して食べないでもいいからな」
 だいじに、だいじに、やわらかく。ぎゅううぅ、とソキのことを抱きしめた腕が、くるんと体を反転させ、膝の上に座り直させる。先程からソキはロゼアの腕の中でくるくる向きを入れ替えるだけで、ちっともシーツの上に降ろされる気配もなく、寝台から移動する素振りもない。はいこっち、とロゼアに背をくっつけるように体重を後ろに流されて、ソキはころん、と膝の上で転がった。
「ふにゃぁ……! ろぜあちゃ? ろーぜーあー、ちゃー、んー?」
「うん?」
 よいしょ、とソキを抱き支えて座り直させながら、ロゼアが不思議そうに首を傾げる。メグミカがてきぱきとした動きでソキの膝の上に布をひき、すったりんごにふわふわに削った氷を混ぜ入れているのを眺めながら、『花嫁』はくてん、と力なく首を傾げてみせた。
「おひざのうえー、で、たべてー、いい、ですぅー……?」
「んー……うん。あーん、てしような、ソキ」
 頬を撫でた手が首筋に押し当てられ、ロゼアの眉が寄せられる。その手にすりよりながら、ソキはふあふあした気持ちで、けふん、とごく軽い咳をした。なんだか、喉がちょっとごろごろするような、かゆいような、重たいような、へんな感じだ。んー、んんぅー、とむずがって瞬きをするソキの口元に、ちいさなちいさな木の匙にすくい取られたふわふわのりんごと、溶けきっていない氷が差し出された。それを、あむ、と口に含んで。もむもむもむ、こくん、と飲み込み、ソキはふにゃりと力ない笑みを浮かべた。
「つめたくー、てー、あまぁい、で、すぅー……!」
「うん。ソキ、もうひとくち」
「あむぅ。……んく。ねえねえ、ロゼアちゃん? ねえねえー……?」
 ちたぱた脚を動かして、こぉら、とたしなめられながら、ソキは差し出される木の匙にあむっと食いついた。ゆっくり、ゆっくり飲み込んでから、りんごがですねー、とほわほわした声を響かせる。
「お風がですねぇ、ふわぁんってして、くるくるってして、きゃぁってするんですけどぉー。おひさまのね、ぽかぽかのねぇ、きもちいのもね、いっしょでねぇ? ソキね、んとねぇ、んとぉ……。んと、んと、それでね、りんごがね、ふわふわでね、あまくってね、つめたくって、おいしいんですけどぉ。おかぜが、んとぉ、ナリアンくん? みたいな、きもちい、ふあふあの、おかぜでね。おひさまがぽかぽかです!」
「……ナリアンのと、俺の魔力?」
「りんごはぁ、なりあんくん、なんですけどぉ。ロゼアちゃん、くっついてると、なでなでしてくれるですし、ぎゅぅってしてくれて、ぽかぽかで、ソキはとってもきもちいです……」
 ソキの説明というのはだいたいからして非常に分からないが、体調が悪いとその限界をやすやすと突破して行く、からお前ホントどうにかしておけよ、とロゼアは長期休暇の前も寮長に言われていたことを思い出し、不愉快げに眉を寄せた。わからない方がおかしい。きゃあきゃ、とはしゃぎながらすりリンゴを食べるソキの口から木の匙を引き抜いて、ロゼアはふ、とゆるく微笑んだ。ナリアンから、俺のかわいい妹が倒れたと聞いて、というかなんで俺は花舞から離れられないんだろう長期休暇ってなんだっけ休暇ってなんだっけ休みってなんだっけうふふあははそうだ花舞の女王陛下の御為に、とやたらと混乱した洗脳されかかった近況を報告する手紙つきで、お見舞いとして送られてきたのが、このりんごだった。それから、ナリアンの魔力を感じる、とソキはいう。やさしく包み込み、悪いものを押し流し、癒して行く祝福の魔力を。
 ロゼアのそれも、助けてくれているから。気持ちいいです、大丈夫です、と。お熱があるけど気持ち悪くならないんですよ、とご機嫌に笑ってすりりんごを食べきったソキを、その腕の中に抱いて。ロゼアは満ちた息を吐き出し、ソキ、ソキ、と囁いた。ソキは、その日、ゆっくりと。風に撫でられる花のように、まあるく満ちていく月のように、安らぎ。ちいさな鳥籠に飾られた宝石のように。揺りかごで眠る幼子のように、あたたかく、ゆらゆらと。気持ちのいい熱につつまれて、眠った。

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