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 てち、て、てっ。てっ、ち。て。て。てちっ、と。どう考えても歩き慣れない上に危なっかしくて仕方がない足取りで、ソキは『お屋敷』の当主の部屋まで歩いて辿りついた。右の手をロゼアとしっかり繋ぎ、左にはずっとメグミカが控えた状態で歩いたソキは、ぜいぜいぜい、と荒い息を繰り返して部屋の前ですでにくたくただ。城からの馬車を降り、『お屋敷』の入り口から当主の部屋の扉の前まで、最短距離で百数十メートル。ふらふらと視線すら定まらない様子で最後の一歩を、てっ、とばかり室内に踏み入れた瞬間、ソキ、と囁いたロゼアがふわりと体を抱き上げた。ソキが、自身に体重があるということを忘れてしまうくらい、分からなくなるくらい、あっけなく。抱きあげられ、抱きしめられて、大股でソファへと歩み寄られる。くたくたの体はソファに降ろされることはなく。そこへ腰かけたロゼアの腕の中、くんにゃりとおさまっていた。
「ふにゃ、うゆぅ……そきぃ、がんばってぇ、あるいた、ですよ。ロゼアちゃん、なでなでぇ……して? してぇ……!」
「うん。がんばったな、ソキ。偉いな。頑張ったな……! ソキ、ソキ」
 柔らかく抱き寄せてくれる腕が、ソキの体をロゼアにくっつける。ぽんぽん、と背を撫でられ、指先が髪を梳いた。頬から首筋に滑り落とされたてのひらが、じっと押し当てられ、ほっとゆるむ息と共に額に触れ、前髪を耳にかけていった。
「頭、痛くないか? 気持ち悪くない? 咳出てないな、よかった……。ああ、飴食べような。ソキの好きな、りんごはちみつの飴。おみずも飲めるか? ひとくち」
「んー、んん……のむです……」
 すかさずメグミカが差し出した、澄んだ青いグラスに注がれた水はなまぬるい室温で、ソキの喉をするすると滑り落ちていく。こく、こくん。こく、とすこし多めに飲めば、ロゼアもメグミカも満面の笑みで偉いな、と褒めてくれたので、ソキはすこしだけ元気を取り戻し、えへん、とばかり胸を張った。でしょぉー、ソキ、えらいでしょうー、と得意げなくちびるに、ロゼアの指先がまあるい飴を食ませてくる。あむ、とロゼアの指ごとくわえて、あむあむして、なめて、ソキはようやく落ち着いた風に息を吐き出した。
「ねえねえ、ロゼアちゃんー? みぃんな、新年の、お祝いだったです」
 新年を迎えた砂漠の都市は、華やかだ。飾り灯篭がそこかしこで淡く風に揺れ、火の揺らめきの代わりに強い日差しが波紋のような輝きを地に投げ落とす。蒼穹の空へとまっすぐ、突き抜けるように凛とした空気が漂い、木々の葉鳴りと砂が踊る音がどこか耳の遠くで奏でられていた。常ならば行きかう人々で動くのが困難であるほどであるのだが、今日は奇妙にその数がすくなかった。ざわめきをそっと衣の端から払い落すように。高揚感は建物の中に満ちながら、石畳を弾まずにひっそりと奏でられている。奇妙な胸騒ぎに首を傾げるソキの頬を撫で、ロゼアがそうだな、と微笑みながら同意の言葉を囁く。赤褐色の瞳に僅かばかり考え込む色がちらつき、まばたきの間に消えていった。
 ぺたり、ロゼアに体をくっつけながら、ソキはねえねえ、とほわほわ響くあまえた声で囁いた。
「ねえねえ、ロゼアちゃん? ねえねえ、ねえねぇ」
「んー? うん。なに、ソキ。どうしたんだ?」
「ぎゅーって、して? ぎゅー、ですよ? ぎゅぅー、です。ねえねえ、ロゼアちゃん。ぎゅぅ、して?」
 ソキは馬車からお部屋までいっしょけんめ、あるいたです。だからね、ぎゅぅって、して。くてん、と首を傾げてあまくねだるソキに、ロゼアはうんいいよ、と笑って。ぺたりとくっついているソキの体にそっと腕を回し、ぎゅうぅ、とあまく抱きしめてくれた。そーき、とロゼアの声が耳元で囁く。きゃあぁっ、と声をあげてはしゃぐソキの頭に頬を寄せ、ロゼアはごく穏やかに息を吸い込み、吐き出した。
「今日は元気だな。よかった……」
「ろぜあちゃん? ソキはぁ、きょう、も、ぉ! げ、ん、き、で、すー、うー!」
「うん。そうだな。ソキは元気だから、いいこで、あんまり動かないでいられるよな?」
 日中はソファの上にいること。お散歩はしない。あるくのもしない。ひとりで歩くとかだめ。ぜったい、だめ。メグミカと手を繋いでてもだめ。ソキはいいこだから、この部屋の中でじっとしてる。ソファの上とか、椅子の上とか。ふわふわ絨毯の上に布をひいたお昼寝場とか。そこに、いること。あるくのだめ。ぜったい。だめ。ぎゅっと抱き寄せられたまま耳元で囁かれるロゼアの声に、ソキはきゃっきゃとはしゃぎながらはぁいはぁい、と返事をした。
「ソキ、ロゼアちゃんのー、いう、とぉりー、でーきーる、でぇー、すぅー……う? うぅ? あれ? ロゼアちゃん? あれ?」
「うん?」
「あるくのぉ、だめ? です? だめ? おさんぽは?」
 機嫌の良い時のソキの返事は八割が勢いで、内容はほぼ聞き流しているので、理解するのにちょっと時間がかかるのである。あれ、と眉を寄せてくちびるを尖らせるソキの頬を、ロゼアは笑いながら両手で包みこんだ。
「ソキ。いま、しない、って言っただろ? 自分で、ちゃんと、俺と約束したよな?」
「んー。んんぅー……やぁう」
「や、じゃないだろ、ソキ。だーめ。歩くのは、お城に戻る時に馬車乗りに行く時だけにしような」
 やああああロゼアちゃんだめっていったああぁああっ、と涙目で騒ぐソキの背を撫で、ゆらゆらと体を揺らして宥めながら、ロゼアは落ち着いた声で囁いた。
「ソキ、ソキ。大きな声出したらだめだ。喉痛くなるだろ。熱でて、だるくなるだろ。そーき、ソキ、ソキ。いいこだな、ソキ。……ソキ、そんなにあるきたいの? あるくのがいいのか? ……だっこは、もういい?」
「ソキ、ロゼアちゃんのだっこがいいです。だっこが一番好きなんですよ。でもぉ」
「ん。……もうちょっと元気になったら、俺と一緒に、おさんぽ行こうな」
 くてん、とロゼアにもたれてうとうとしながら、ソキはすこしだけむくれた気持ちで頷いた。ちょっと歩いても咳が出たり、すぐに熱があがったりしないので、ソキとしては数日前よりはもうちょっと元気になったつもりなのだが。うと、うとぉ、と眠たい気持ちでとろとろしていると、ロゼアの手がやわらかく髪を撫でていく。何度も、何度も。
「……おやすみ、ソキ。良い夢を」
「おやぁ、う、なさ……です」
 ふああぁあ、とおおきくあくびをして。すりすりすり、とロゼアに頬をこすりつけて甘えるソキの耳に、寝たのか、と不機嫌そうに響くレロクの声が聞こえた。そこではじめて、ソキは、そういえばこの部屋の主とその側近にちゃんと挨拶をしていないことに気が付いたのだが。ふわふわと揺れる意識はすぐに夢の中に落っこちてしまう。ざわりと落ち着きなく揺れる祝いの空気だけが、ほんのわずか、肌に触れて残っていた。



 ふあ、とソキはあくびをした。ふああぁ、と大きくのびをしながらもう一度あくびをして、閉じた瞼を開かないまま、のそのそと伏せていた体を持ち上げる。座りこんでしまえたことに、意識が違和感を覚えた。あれ、と首を傾げ、無意識に体をロゼアにくっつけようと体重を移動させて、ソキはそのままころんっ、とソファの上に背から転がった。ぱちっと目を開き、ソキはぱたぱたと手脚を動かしてやああぁああっ、と声をあげる。
「いやぁいやぁあああっ! ろぜあちゃあぁああん!」
 瞬間、音を立てて扉が開かれる。涙がいっぱいの目でそちらを向いて反射的に両手を伸ばし、ソキは心底がっかりした顔で、そのままソファに倒れ伏した。
「おにいさまですぅ……」
 どこかへ行くか、あるいは帰ってきた所なのだろう。レロクは白いやわらかな布で作られた上下に、淡い金となめらかな碧の糸で花と植物模様の縫いつけがされた服を着ていた。当主の祝い着だ。上着を脱いでそのままぽいと執務机の上に放っているので、用事が終わって戻ってきたようだった。レロクは呆れた顔で伏せたまま顔をあげもしないソキを眺め、ラギが差し出した普段着に袖を通しながら息を吐く。
「どうしてお前は、ほんの数秒で起きるのだ……」
「ろぜあちゃぁん……! おにいさま、またソキからロゼアちゃんとったぁ……メグちゃんもいないです。ソキ、おにいさまにいじわるされてるです。ラギさん、ラギさん。おにいさま、ソキに、いじわるするです。おこって? しかって? めってしてぇ……!」
 レロクを椅子に座らせ、てきぱきとした動きで釦をしめていくラギに、ソキは涙でうるうるの目を向け、鼻をすすりながら訴えた。ラギはレロクの頬に手をあて、首筋に指先を滑らせながら困ったように微笑する。待てどくらせどラギがレロクを叱ってくれないので、ソキはやあぁん、と悲しげな声をあげてソファにへしょりと突っ伏した。
「ラギさんもソキにいじわるするぅ……!」
 ソキはぺちぺち、ソファを手で叩きながら訴えた。
「ソキ、ひとりで眠るの、きらぁいでーすぅー……! 起きた時に、ひとりなの、もぉ、きらい、で、すぅーっ! んもおおおおぉ、んもおおぉおぉー……ロゼアちゃんはぁ、どして、ソキをおいてちゃったです……? ソキ、連れてって欲しかったです。ろぜあちゃん、おこしてくれなかったです……。……えいえいえい」
「ソキさま、ソファを蹴らない……!」
「ぷぷ。ちがぁう、ですぅー。ソキ、蹴ったりしてないですー。ソキは、あしのちょーし、どうかなって、してるだけ、で、すぅー。ソキねぇ、最近あんまり、歩けてないですから、ぱたぱたってしないとー、いけないんですよー?」
 爪先でソファの端をふにふにしながらそう言い張って、ソキはぷーっと頬をふくらませた。歩く時間や期間がすくない時、脚を動かさなければいけないのは本当のことなのだ。なにかにつけてソキの髪をひっぱる案内妖精に半切れ口調で言い聞かせられているし、ロゼアも朝食前と就寝前に丁寧にマッサージをしてくれる。ロゼアに手間暇をかけてもらうのは、ソキはとってもとっても好きなのだが。そのあたたかでやさしいてのひらがじっくりと触れて行く、脚のケアだけは。マッサージだけは、ちょっぴり、にがてで、やなのである。ソキがぁ、じぶんでぱたぱたちゃんとした、っていえば、きっと今日はしないですぅ、とソファの端を拗ねてけりけりしながら言う『花嫁』に、ラギはゆるりと微笑んだ。今日もソキさまはいっしょうけんめいソファを蹴っておられました、という報告は絶対にしなければなるまい。
 お前のせいでまた俺が怒られるだろうやめぬか、と呻くレロクに頬をぷううううっと膨らませ、ソキはべちっとソファを手で叩いた。
「おにいさまそきからろぜあちゃんとったからそきゆーこときかないです! ……おてていたいです」
「それみたことか……! ラギ!」
「はい、レロク。……失礼致します、ソキさま。御身に触れる御許可を頂いても?」
 だいたいお前、今日は静かにそこにいろとロゼアに言われていたのではなかったのかとねちねち言ってくるレロクから顔を背け、ソキは足早に歩み寄り、眼前に跪いたラギにこくりと頷いた。促されるままに片腕を差し出すと、ごく慎重に、ラギが指先だけでソキの腕と手首、てのひら、手の甲、指先に触れてくる。
「……ひねってはいませんね。よかった。……ソキさま?」
「ごめんなさいです……ソキもう静かにしているです……。ラギさん、ロゼアちゃん怒らない……?」
 ええ、と微笑み、ラギは頷いた。ソキはほっとしたように笑い、胸元に手を引き寄せてちょこん、と首を傾げる。
「ロゼアちゃんに、ないしょにしてくれるです?」
「いいえ?」
 にこ、とソキは笑って、反対側にちょこ、と首を傾げる。
「ラギさん? ラギさんー。おねがい、おねがいです」
「はい。私にできることであれば、なんなりと」
「ロゼアちゃんに、ソキがおてて、ぺちぃってしたの。ないしょ、です。なぁいしょ」
 言ったらだめですよってソキはおねがいしています。ね、ね、とにこにこ笑うソキの前から立ち上がって、ラギはしっとりと響くやわらかな声でないしょですね、と囁いた。
「分かりました。それでは、そのように致しましょう。ソキさまが、ないしょ、と仰っていたと」
「……んん?」
 えっとぉ、あれ、と考え込むソキが正解に辿りつくよりはやく、室内にあくびの音が響きわたる。ラギがさっと身をひるがえして歩んで行く先では、レロクが眠たそうに目をこすりながら、本棚に背を預けて瞬きをしていた。レロク、とやや笑みに崩れた声が静かにソキの兄を呼ぶ。お眠りになりますか、と囁かれ、レロクは不機嫌な顔でふるふると首を横に振った。思い切り嫌そうに相手を睨みつけるその面差しも、ソキが思わずじーっと見つめてしまうくらい、うつくしい兄。すいと持ち上げられたてのひらが重みのないものを払うような仕草で、ラギの頬を打った。
「終わったら眠る、と何度言わせるつもりなのだ、お前は……。ラギ」
「はい、レロク」
 ひどく疲れた風に息を吐き出し、レロクはやわらかに身を屈めた。一度だけ、ラギの肩に額をすり寄せた頭が離れるよりはやく、ぽんぽん、と撫でられる。ラギは、とてもしあわせそうに見えた。かつての己の『花婿』に触れられることも、触れることも。ぱちりと瞬きをして、ソキは唐突にそれに気が付いた。ソキが、ロゼアのソキさま、と呼ばれているのと同じで。レロクも昔は、ラギのレロクさま、と呼ばれていた筈なのだ。ソキがそう呼ばれるようになった時には、すでにレロクは『若君』であり、『若様』であり、この『お屋敷』の跡継ぎであったからそれを耳にした記憶などないのだけれど。ラギこそがレロクの『傍付き』。『花婿』の永遠の恋の相手だった。あっけなく身を離し、レロクはぴしりと部屋の扉を指差した。
「俺はソキと話がある。二人で、だ。扉の外にいることは許す」
「はい、レロク。おはなしのお時間は?」
「……一時間」
 わずかばかり悩んだ末に呟いたレロクの手を引いてゆっくりと導き、ソキの転がるソファの端に座らせた。
「それではお迎えに上がるまでこちらから立ち上がらず、みだりに動かず、暴れず、もちろんなにかを蹴ったり、投げたり、決してなさいませんよう。三十分後にお迎えにあがります。扉の外におりますので、なにかあれば、すぐに」
 薄手の上着を脱ぎ捨て、それをレロクに着せかけながら微笑むラギに、ソキはくてんと首を傾げ、レロクは目を細めて鼻を鳴らしてみせた。
「ラギ。俺は一時間と言った筈だが?」
「そうですね。私は、一時間は許可できません、と申し上げています……もう数分で鐘が鳴りますよ、レロク」
「お前それをはやく言わぬか……! ああ……いいか、ソキ。落ち着いて聞け」
 ラギが開いた扉が閉じるのを待たないで、慌てて告げられた言葉だった。
「ミルゼは今日嫁ぐ」
「……ふえ?」
 ソキが間の抜けた声をあげ、それについて問いただそうとした時だった。カラーン、と鐘が鳴る。『お屋敷』の大鐘楼にとりつけられた鐘の音だった。それは『花嫁』か、『花婿』が嫁いで行くその時にしか打ち鳴らされることはない。ソキは何度もその音をきいた。大好きな兄が、姉が、ひとりづつ、この『お屋敷』から姿を消していく。その日にその鐘の音をきいた。残された『傍付き』は数年後にしあわせになる。その傍らに『花嫁』はもう、いないのに。いないから。カラーン、カラーン、カラーン。鐘の音が鳴る。国中に鳴り響くほど大きく、それでいて澄みきった耳を痛くしない音で。鐘が鳴る。大鐘楼から、『お屋敷』の隅々、広大なオアシスの端、砂漠の国のその果てまで。『花嫁』を送り出す鐘の音が響く。ソキはなにも考えられず虚空に手を伸ばした。レロクがその指先を握り締め、首をふる。
 どうして、とソキは悲鳴をあげた。だって、もう、あえないのに。
「おねえちゃん……ミルゼおねえちゃん! おねえちゃんに会いに行くです! ソキ、ミルゼおねえちゃんにあいにいくぅ……! おねえちゃんにちゃんと、いうです! ソキ、ミルゼおねえちゃんのことだいすきなんですよ! だいすきなんですぅ……」
「……知ってる」
「ソキね、ソキね。まじゅつしになったです。だからもうね、嫁がなくていいですからね、おねえちゃん好きっていってもだいじょうぶなんですよ……! だいじょぶなんですぅ! やぁんやぁ!」
 いつかどこかへ嫁いで行く為に、しあわせになる為に。この場所から離れて遠くへ行く為に。兄姉たちが、ソキをどうにか生かすために。嫌いになりなさい、と告げた日のことを、ソキはまだ覚えている。『花嫁』と『花婿』しかいない部屋の中で。うつくしい兄がそれを囁き、うるわしい姉がそれを懇願した。生きて、生きて、死なないで。いつかここを出て行くその日の為に。その日がやがて巡ってくるまで。あなたが選ぶ『傍付き』の傍にいる為に。それはロゼアを選ぶ前であったから、そう告げられ。ロゼアがソキの、と呼ばれるようになってからは、そこへ彼の名が入って囁かれた。ロゼアの傍にいる為に。わたしたちが理由でこれ以上体調を崩さないで。あいらしく、いっとう脆い、弱い、わたくしたちのいもうと。わたくしの。ミルゼの。囁いて頬を撫でてくれた手を、いまもちゃんと。
 覚えている。
「ソキはロゼアちゃんのおそばいる! お傍いるもん! だからもう、だいじょぶ……!」
「ソキ、ソキ……。落ち着け、騒ぐな。ミルゼにはもう会えぬ。……俺も、お前も、会えぬのだ。リグも」
「……リグさんは」
 ミルゼお姉ちゃんの、傍にいたいって。言わなかったんだ。もしも『傍付き』にそう告げられたら、『花嫁』が嫁ぐわけがない。たったひとり、はじめて恋をして、心から愛したひとに、求められて。国の為にそうしなければいけないと分かっていたとしても。ミルゼの『傍付き』は今、どうしているのだろう。『花嫁』はそれを知ることがない。ソキも知らない。いつもいつも、この鐘が鳴る時には部屋にいて。そこから出されることはなかったから。『お屋敷』の祝祭の空気がすっかり落ち着いてしまうまで。カラーン、カラーン、と鐘が鳴っている。徐々にその響きを弱くしながら。やがてその鐘の音も消えてしまう。
「ミルゼおねえちゃんは、言わなかったです……?」
 好きって。あなたを愛してるって。『傍付き』に。言わないで。その献身を裏切らないで、嫁ぐことを、選んだのだ。しあわせになれるよ、と囁かれて。あなたがそう言うのなら、と微笑んで、信じて。
「ミルゼは……」
 なにかを堪えるように一度瞼を閉ざし、レロクは揺れる碧の瞳でソキをみた。
「最後の、最後に……リグの名を、呼んだ。リグ、と一度だけ。……リグルーシュ、と」
 さよなら、とは言わず。行ってきます、とも告げることなく。ただ、この世の誰より幸福そうな『花嫁』の微笑みで。その場にいた誰もが見惚れてしまうような微笑で。『傍付き』の名を呼び、その腕の中から離れて行った。十五を超えてなお嫁ぐことなく『お屋敷』に留まっていた『花嫁』は。それでもすこし、安心したようにして。離れていく、その腕を引いて。耳に囁き落としたのは、レロクだった。ソキは嫁いだのではない。ソキは魔術師になった。ロゼアと、共に。魔術師になった。ふたりは、いまも、一緒だ。その瞬間に。『花嫁』の瞳に広がった輝きを、レロクは忘れることができない。それは満天の星空のような。喜び。希望。失ってしまった夢のひかり。
「……ソキ」
 泣きじゃくる妹の手を強く握り、その目を覗き込みながら、レロクは言い聞かせる。
「お前も、しあわせになれる……ミルゼと同じように。俺と」
 おなじように。
「お前は、しあわせに、なれる……」
 彼らはかつて『花婿』であり、『花嫁』だった。国の定めを背負って他国に嫁ぐ定めと共に生きていた。それが運命だった。けれども、その運命は覆され。レロクは『お屋敷』を継ぐ次期当主となり、ソキは魔術師となり。互いに、別れる筈だった『傍付き』がいまも、傍にいる。もう別れる必要はないのに。それでは『傍付き』はしあわせになれないのだと、『花婿』に、『花嫁』に施された教育が時折告げるけれど。レロクは、それでいい、と告げていた。『花婿』として教えられたようなしあわせをお前に与えることはできない。それはお前を不幸にするかもしれない。それでも。お前は俺の傍でしあわせにならないでいろ。俺と離れるくらいならば。そう告げた瞬間の、ラギが。泣きそうで。まるで『傍付き』に選んだ時のように。この世界の誰よりも、なによりも、しあわせそうに笑ってくれたので。
 しあわせになって、とロゼアを離そうとする『花嫁』の気持ちも。離れたくない、と思うソキの気持ちも、レロクには分かるから。ラギのように遠回しに、ロゼアから離れてはいけない、と告げることもできずに。ふたりはもう、どこへ行くこともできない迷子のように、体をかたくして。ソファの上でじっと、息をひそめていた。鐘の音が去り、祝祭の空気がすこしばかり落ち着いて。ラギが扉を開け、レロク、ソキさま、とふたりの名を囁き落とすまで。



 ことこと、ことこと。ほんのわずかな振動を与えて、馬車がとろとろと進んで行く。『お屋敷』から砂漠の城へ戻る道を進みながら、ソキはロゼアの膝に頭を預け、くたりと目を閉じていた。ロゼアの指先はずっと、ソキの髪を梳きながら背を撫でてくれている。じわじわ、泣きそうなくらいの愛おしさが胸いっぱいに広がって、どうしようもなく息が詰まった。
「ロゼアちゃん……」
「ん?」
「……馬車に乗っていて、楽しかったの、ソキ、初めてでした」
 だって傍にロゼアがいてくれるなんて。そんなしあわせを思い描くたび、何度胸の中で押しつぶしてきただろうか。『花嫁』が馬車で移動するのは嫁ぎ先相手の選定を兼ねた諸国への顔見せと、閨教育などに限られている。そのどれも、ロゼアと共に行くことはできないのだ。馬車で、ずっとずっとソキはひとりだった。同行の者もいたけれど。途中からは、ロゼアとメグミカが与えてくれたアスルも、ずっとずっと一緒だったのだけれど。楽しいと思ったことは一度もなかった。ロゼアの膝に頬をこすりつけて、ソキは甘えるように呟く。いまも、くるしく、ないですよ。だから。ミルゼお姉さまも、くるしく、ないといいです。
 ソキは服の上から、己の胸にそっと指先を押し当てた。学園で催されたパーティーの時、ソキの胸に咲いた花を思い出す。大輪の花だった。それは嫁ぐ『花嫁』と『花嫁』にだけ与えられるもので。ミルゼにも描かれた、とレロクは言った。だからミルゼもひとりじゃない。ミルゼのリグと、『花嫁』が愛した『傍付き』と。ずっとずっと、一緒だ。離れても。二度と会えなくても。永遠の恋の証がそこにあるなら。肌に沈んで花は消えてしまうけれど。それでも。描かれたことを『花嫁』はずっと覚えている。
「……ソキ」
 呼びかけにソキが視線を向けると、ロゼアはすこしばかり目をつむったのち、ソキの手にそっと触れた。その手は指をかたく握り、もう一方の手が撫でていた髪から頬にすべるように移動してくる。触れられる肌が淡いよろこびに満ちて行く。ソキはロゼアの手にそっと頬をすり寄せ、次の言葉を期待した。何度も何度も期待している。もしも、ロゼアが。一度だけでも。たったいちどだけでも、ソキを求めてくれたなら。『傍付き』の習いではなく。ロゼアが。いるよ、じゃなくて。いたいって。傍にいたいと、そう、囁いてくれたなら。じっと見上げるソキに、ロゼアは甘くやわらかに微笑んで、告げた。誓いのように。
「俺は――……ずっと傍にいるよ、ソキ」
 いつもと、おなじ、言葉で。求めては、くれなかった。ソキは泣くのを堪えて目を瞬かせ、息を吸い込んだ。ふるえるくちびるに力をこめて、感情を、心の奥底に、ことん、と置き去りにする。深い湖の底に眠る真っ白な真珠のように。感情が降り積もって眠りにつく。それをちゃんと確かめてから、ソキはロゼアに微笑みかけた。だいじょうぶ。だいじょうぶですよ、ロゼアちゃん。ソキはちゃぁんと分かっていますです。泣かないように、涙零してしまわないように。『花嫁』の微笑みを浮かべながら、ソキはそっと目を伏せ、そのまま瞼を閉じてしまった。それでもどうしても傍にいたいの。このひとをしあわせにするおんなのこにはなれないけれど。あぁんと幼く泣きじゃくりながら訴える己の声から、耳を塞いで。離してあげなきゃいけないです、と強く思う。
 求めれば求めるほど、だからこそ、求めてくれるやさしいひとだから。求める手をもう終わりにしてあげなければいけないのだと、何度も。何度も、言い聞かせる。祝福の鐘の音が、耳の奥にこびりついていた。その澄んだ鐘の音がソキの為に響く未来は、もう覆された筈なのだけれど。その日の夜。ソキは『嫁いだ』夢をみて。ロゼアの傍に、ソキのしらないおんなのこがいる夢をみて。しあわせそうにロゼアが笑っていたので。ロゼアちゃん、と呼んでも、ふりかえってくれなかったので。もうろぜあちゃんはソキじゃなくてそのこのことがすきなんだ、と思ったのだけれど。
「ソキ。……ソキ、ソキ」
 揺り起こすその声が。泣きながら、とろとろ眠たげに、ぼんやりと見つめるその先に、あまりに心配そうなロゼアが、いて。ろぜあちゃん、とソキが呼ぶとほっとしたように笑って、うん、と言ってぎゅっと抱きしめてくれたので。こわいゆめをみたです、こわかったです、と訴えているうちに、あんまりあんまり眠たくて。くてん、と眠りに落ちたソキは、すぐにその夢のことを忘れてしまった。

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