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 空間には淡いひかりが満ちていた。寝台の四方を囲む紗幕に触れてしか訪れない、やわらかなひかり。そもそも部屋の窓や扉にも光を遮断しきらないように計算されて布が下げられているので、苛烈な砂漠の光は室内のどこにも届いていないのだった。それは『花嫁』の部屋に導かれるひかりだ。体調を悪くしてしまった『花嫁』の肌に、目に触れても、それを悪化させない甘くやわやわとした輝き。年末からずっと、不安定にぐずぐずと崩れてしまうソキの体調にも影響しないよう計算しつくされた、世話役たちとロゼアの作りあげた世界の中心。寝台に座りこむロゼアの膝に抱きあげられ、ソキはぽかぽかとした熱に包まれながら、きもちよく全身をくたんとさせあくびをした。
 せかいに、ロゼアとふたりきりでいる。そんな気分だった。部屋にはロゼアの他にもメグミカや、世話役たちがいるのは知っていたが、彼女たちは皆寝台を囲む紗幕の向こう側である。足音は響かず、気配はひっそりとしていて、話し声も遠くで吹く風が花の葉を揺らす程度にも響かない。髪に香油を塗り、丁寧に丁寧に櫛梳るロゼアの胸にぽて、と頭を押し付けて、ソキはそこへすりすりすり、と額を擦りつけた。
「ねえねえロゼアちゃん。ねえねえ」
「うん? ソキ、なに。どうしたの」
 ぽん、と櫛を寝台に置き、ロゼアの手がソキに触れてくる。あたたかな手は頬を包み込み、首筋に流れ、首の後ろの毛を指先で払ってほんのわずか、ソキを上向かせる。そき、とあまやかに囁かれながら額がこつりと重ねられ、ソキは胸一杯に広がるこそばゆさにきゃあきゃあ笑った。
「ソキの髪の毛、さらさらです? いいにおいです?」
「うん。さらさらだな。……ソキ、いいにおい」
 ゆるくソキを抱きなおした腕が、ぎゅぅ、と力をこめてくる。ソキの頭にロゼアの頬が寄せられてくっつき、はぁ、と満たされた息が吐き出された。ゆらゆら全身が揺らされて、ソキはロゼアにぴとっと体をくっつけなおした。おちちゃうです、やんやぁっ、とむくれた声に、ロゼアがくすくすと響かない笑い声で囁く。落とさないよ。絶対落とさない。ソキ、ソキ。俺の膝の上にいような。心配ならもうちょっとこっち来ればいいだろ。よいしょ、とばかりロゼアに座り直させられて、ソキはふすんっ、と満足げに鼻を鳴らした。
「ロゼアちゃんはぁ、このお花の香油のにおい、すきですー?」
「うん」
「じゃあ、ソキはロゼアちゃんのすきすきになるんでぇ、いっぱいしていいですよぉ?」
 寝台の、ソキにはちょっと手が届かない位置に、数種類の香油が置かれていた。ソキの体調や好みに合わせて細かな調整がされているそれは、『花嫁』用の最高級品である。それを惜しげもなく使いながら、ロゼアはうん、とこころもちほわほわした声で頷いた。
「髪が終わったら、手もしような、ソキ。手と、指と、爪。爪はちょっと長いのを削って、磨いて、ぴかぴかにしような」
「はぁーい。ソキ、ロゼアちゃんにおていれしてもらうぅー、ですぅー!」
「うん。腕と、脚のマッサージもしような、ソキ。服もあるから、マッサージが終わったら着替えような」
 マッサージはいらないですやです、とでかでかと顔に書きながらにこぉ、と笑って、ソキはちょこりと首を傾げてみせた。新年に入ってから、というか砂漠に到着してからというものの、服がある、と言われるのはこれで七回目くらいである。当然、新しい服だ。ソキが『お屋敷』に置いて行ったものではなく、『学園』から持ってきたお気に入りではなく、新品の。なんでも、世話役とメグミカとロゼアで選んでいるらしい。さすが王宮はハレムがあるだけあって通ってくる商人も流通している品もソキさまにふさわしいものばかりですわ、と満面の笑みでメグミカが楽しげに話してくれたので、嬉しそうなのはいいことです、と思っているのだが。
 でも昨日も新しい服、あった気がするです、とロゼアの腕の中で脚をぱたぱたしてマッサージないないですソキ大丈夫です、と主張しながら、ソキは不思議そうに目を瞬かせた。
「ロゼアちゃん。ソキ、このお服、似合わない?」
「なんで。そんなことないよ、ソキによく似合ってる。かわいいよ。かわいい。ソキかわいい」
「でっしょおおお……! ……あれ? あれぇ……? ……ふにゃん?」
 そうでしょソキかわいいでしょぉロゼアちゃんがてまひまかけて育ててくれた『花嫁』ですからぁソキかわいいんですよぉロゼアちゃんすごおいんですよおおおぉ、とちからいっぱいふんぞり返って主張したのち、ソキはぎゅうぅ、と抱き締めてくれるロゼアの腕の中、くてんと力なく首を傾げた。いつもより、なんだかちょっと、かわいい、の回数が多かった気がするのだけれど。ううぅん気のせいです、と訝しみつつ頷いて、ソキはちょいちょい、と服の裾を指先でひっぱって、露出した脚を隠してしまった。ソキの服はいつも長い丈のワンピースで、普通にしている分には脚がでないつくりなのだけれど、ぱたぱたするとちょっぴりみえてしまうのである。
 恥ずかしいです見えるのだめですやんやんですっ、と整え直して、ソキははふ、とまた満足げに息を吐いて頬を頭にくっつけているロゼアの、腕をぺっちぺっちと指先で叩いた。
「ろーぜーあーちゃーん。ろー、ぜー、あー、ちゃーん? ソキ、もうお洋服、たくさんあるですよ?」
「うん。……うん? 大丈夫。室内着じゃなくて外出着だから、『学園』で授業に着ていける服だよ」
「……んん?」
 叩いてしまった腕のあたりを撫でながら、ソキは不思議そうに瞬きをする。ソキの持つ服は肌触りのいい柔らかな布で仕立てられたものが大半だ。今着ている白いワンピースも、一枚では肌が透けてしまうほど薄く透明な布地を、幾重にも重ねて作られたものである。絹のように滑らかな手触りは、淡いひかりの中で真珠のような光沢を放つ。ソキはその布をちょい、と指先で摘んでひっぱった。
「これは室内着、です」
「うん。室内着だな」
 ついでにいうなら寝間着でもある。体調を崩してから、ソキは丸一日をおきて過ごす、ということが殆ど出来なかった為だ。寝て、起きて、ロゼアの腕の中でまた眠って、起きて、また寝て、の繰り返しである。年が明けてすぐに『お屋敷』に出向いた以外は、ほぼ王に貸し与えられた居室の中、というよりもこの寝台の中でロゼアの腕の中である為に、外出着に袖を通したのですらその用事の時だけだった。帰って来てすぐにお湯で体をさっぱりさせ、やわらかな室内着、兼寝間着に着換えさせられて寝台の上をころんころんとしていたら一日が終わってしまった。以来、ソキの体調は特にすごく元気、というほどでもないので、やはり外出着には縁遠かったのだが。
 いつの間にかソキの髪をふたつに分け、その片方を三つ編みにしているロゼアは、先端をきゅぅと赤いリボンで結んで満足げだ。はいこっちも、ともう片方の髪もあみあみされるのを眺めながら、ソキは外出着です、ともう一度呟いた。それはつまり。
「きゃあ、ロゼアちゃん! ソキ、元気になったんですよー!」
「うん。そうだな、ソキは元気になったな。でもまだ動くと咳が出るから、お散歩に行くのはやめような」
「……あれ?」
 きゅ、とロゼアがふわふわした笑顔で、ソキの髪にリボンを結ぶ。ソキが普段使っているものとはほんのすこし色合いの違う、沈む夕日の色濃さを溶け込ませたような、細身の赤いリボンだった。ソキは三つ編みのひとつを摘んでぴこぴこ振りながら、きゅぅと眉を寄せて首を傾げた。
「ロゼアちゃん? 外出着ですから、ソキはお外出ていいです?」
「うん、いいよ。動いても咳が出なくなったら、行こうな」
 とりあえず髪はこんなもんかな、と頷き、ロゼアが脚をぱたぱたするソキを抱き上げなおす。こーら、と困った声で服の上からふとももを撫でられて、ソキはぷぷぷ、と頬を膨らませた。
「ソキ、もうお熱下がったです。お咳もでないです」
「うん? ……うー……ん」
 ぎゅー、と抱きしめられてあっけなく不機嫌を崩壊させながら、ソキはふあぁ、とあくびをした。寝台の中は心地いい熱で満ちていて、喉を痛くすることもなければ、悪戯に熱をあげたり、体を冷やしてしまうことがない。ロゼアちゃんのお傍あったかいですきもちいいです、とねむたい気持ちでふあふあとあくびをするソキの頬を、てのひらがゆっくりと撫でて行く。
「ねむい? ……ねていいよ、ソキ。眠るなら髪の毛ほどこうな」
「……ロゼアちゃん。おててと、爪の、お手入れ、するです」
「今じゃなくてもいいよ。あとでにしような、ソキ。眠たいなら、眠らないとだめだろ」
 ソキを胸元に抱き寄せたまま、ロゼアが寝台に体を倒す。ぱふ、と音を立てる仕草は珍しく、ソキはきゃあきゃあ声をあげて笑った。ふ、と笑ってソキの背を撫でながら、ロゼアが幾度も名を呼んで来る。ソキ、そき、そーき。ソキ。ソキ。そこにいるのを確かめるように。そこにある幸福を確かめるように。雨上がりの灯篭に揺れる火のような色で、ロゼアの瞳が滲んでいる。花に降る雨のような。満天の幸福に満ちている。
「ソキ……ソキ」
 おやすみ。いい夢を。『花嫁』を眠りへ導く囁きで、ソキをことん、と眠りに落っことしながら。ロゼアはそっと響かぬ声で囁いた。何度も、何度も。その幸福を噛み締めるように。傍にいるよ、と。



 ソキの長期休暇日記 陛下に宿題出されてから十八日目です
 今日はロゼアちゃんがソキの髪をあみあみにしてくれました。
 ソキはもうお熱が下がったです。でもロゼアちゃんはお咳がでるっていうです。
 ソキはお咳あんまりでないです。

 ソキの長期休暇日記 陛下に宿題出されてから十九日目です
 ロゼアちゃんがソキの爪をぴかぴかにしてくれたです! メグミカちゃんが爪にきれいな色をつけてくれたです。
 薄桃色です。かわいいです!
 今日もロゼアちゃんが髪をあみあみしてくれました。
 リボンは爪とおんなじいろなんですよ。

 ソキの長期休暇日記 陛下に宿題出されてから二十日目です
 えへん。ソキ熱下がったです。お咳もでないです。
 あたらしい外出着を着てお部屋を歩いたんですよ。
 今日の髪はあみあみで、ロゼアちゃんがお花つけてくれたです。お花かわいいです……!
 お部屋歩いたあとはお風呂に入って、ぴかぴかでふわふわでいいにおいにしてもらったです。



 おまえ毎日エステしかしてねーんじゃねぇのと半眼で呻く砂漠の王に、ソキはそんなことないですよ、と不思議そうに首を傾げてみせた。体調を崩してしまって部屋の外に出られなかった為、数日分の宿題絵日記を提出しに来たおりのことである。時刻はすでに夕暮れ。斜めに差し込む茜色の光が眩しくて、ソキは何度も何度も瞬きをした。
「ソキはちゃぁんと毎日、じゅうな、してますし、陛下の宿題もしてますです」
「……じゅう……。……ぁ? ソキ、もう一回言ってみ。いまなんつった?」
「陛下ーへいかー、言葉遣いが乱れてると思うからもちょっとがんばろ? ほらもう夕方だからさぁ、これとこれとこれとあれと、これ終わればもう今日終わりじゃん?」
 じゅー、うー、なー、んー、ですっ、と言い直したソキに数秒考え、ああ柔軟か、と納得の頷きをみせたのち、砂漠の王は書類を運び込み、それをばさばさと机の端に置いた白魔法使いを手招いた。なになに、と寄ってくる白魔法使いのすねを、砂漠の王は笑顔で蹴り飛ばす。いったああぁあああっ、と涙目でうずくまるフィオーレを、砂漠の王はやたらとスッキリした顔をして見下している。
「柔軟な。それよりもうすこし動いた方がいいと思うが、体調崩してたなら仕方がないか。もう元気なんだな?」
「ソキはずぅーっと、元気だったんですよ?」
「……ソキはもう元気なんだな? フィオーレ」
 陛下さー、俺のことぽんぽん叩いたり蹴ったりする癖さー、どうにかしないとそれをみたちいさいコが真似したりするんじゃないかなって俺思うんだよねー、と涙目ですねを手でさすりつつ、立ち上がったフィオーレが首肯する。
「うん。世間一般的な基準に照らし合わせて、元気だよ。ただし病み上がりだから、注意してあげないと」
「わかった。……ソキ、この絵なんだ」
「絵です? んと、こっちがロゼアちゃんのお洋服についてた釦で、こっちがロゼアちゃんが髪にぬってくれた香油の瓶で、こっちがロゼアちゃんが髪につけてくれたお花です!」
 砂漠の王と白魔法使いがソキの絵日記をじっと覗き込み、ああああぁ、と深々と納得した声を出して頷いた。
「いや、釦なのも瓶なのも花なのも分かったんだけどな……なんで釦、なんで瓶、と思って……お前ほんとミリ単位でゆるぎなくロゼアから離れないな……」
「うん。うまい、うまい。ソキは絵、描けるんだな。『お屋敷』で習ったの?」
「そうなんですよ。ソキねえ、ちゃんとおえかきできるんですよ」
 ただし、ロゼアに関係ないものはほとんど描かない偏りっぷりではあるのだが。えへん、と自慢げにするソキに、砂漠の王はやさしい微笑みで告げる。
「お前あきらめてロゼアにしろよ」
「ソキはー、いやってー、いってますー」
 なんの話、と訝しむ白魔法使いに個人的な、と言い切って、砂漠の王はむくれるソキに手を伸ばし、ぽんぽん、と頭を撫でてやった。その手が離れていくよりはやく捕まえて、ソキはそういえば陛下におねがいがあったですっ、とにっこり笑った。



 ソキは砂漠の王に、もう一度ハレムの部屋を見たい、と申し出た。ただし、ひとりで。王は思い切り渋い顔をして押し黙ったが、ソキがあまりに引き下がらなかった為だろう。いくつかの約束をさせ、その翌日、ハレムの前までソキを連れていき、中にぽいと放りこんでこう言った。ロゼアに見つかるなよ。じゃあな、と手を振って歩き去っていく王にぽいってされたですっ、とびっくり驚き怒りながら、ソキはゆっくり、ゆっくり、ハレムの中を歩んでいく。案内をしてくれたのは、ハレムに住まう女の一人だった。つややかな黒髪の、うつくしい女である。真珠色の肌は陽光にとろりと艶めき、しなやかで華奢な作りの体は女性らしい、まろやかな曲線を描いていた。王からソキを受け渡され、一瞬だけ伏せられた瞳の色は、菫。長い睫毛が影を落とす、やさしくも気高い花の色だった。
 あらかじめ王に告げられているのか、女の歩みはひどくゆったりとしていた。時折振り返って、ソキが離れずついてくるのを確認しては、ふわ、と安心したように笑みを浮かべてくれる。女に連れられ、ソキが歩いたのは僅かな距離だった。先日、王に連れられてきた時とは入口が違う為だろう。恐らく最も短い距離を選んでくれたのだろうが、それでも、ソキは部屋の前に辿りついた時、けふけふと何度か乾いた咳を繰り返した。魔力も、体調も、まだ安定しきっていない為だった。起き上がることだけはなんとか、ロゼアも、メグミカも、許してくれたのだが。朝から王陛下に用事があるです、と出かけたソキが、まさかひとりで出歩いているとは二人とも思うまい。歩くのは本当にひさしぶりのことだった。誰とも手を繋がずに歩いたのはいつのことだったか、もう思い出せないくらい。
 心配してくれる二人を騙すようで、悪いことをしている、という自覚はあった。けれどもソキはもう一度、どうしても、ハレムの部屋を見ておきたかったのだ。息を整えながら顔をあげ、ソキは真白く整えられた室内を見回す。とん、と前へ踏み出す足を包み込むのは、お屋敷へ帰省した初日にメグミカがソキにくれた布製の、やわらかな靴である。それで、メグミカを裏切るように、知らぬ場所へ足を踏み入れることに。ひどく、胸が、いたんだ。窓は先日と同じく開け放たれ、そこから遠目にお屋敷が見える。一瞬だけそちらへ視線を向け、ソキはゆっくり、部屋の奥へと歩んでいく。ひっそりと整えられた寝室へ、足を踏み入れ。ソキはそっとそこへ、腰かけ、身を伏せて目を閉じた。
 室内には心地よい風が循環している。ひかりをそっと抱くように巡る風は、窓のない寝室にもほの甘い輝きを運んでくれるようだった。肌をやわやわと撫でて行くような流れを感じながら、ソキはやわらかに身を包む寝台に身を沈め、息を吸いこんだ。使用されていない部屋だとしても、定期的に整えられているのだろう。よく干された布からは陽だまりのにおいがした。それは腕に抱かれた時、ロゼアからふわりと漂うにおいに、よく似ている。光に満ち、熱を宿して、あたたかい。きもちいい。よく、にている。けれども。そこでやすらいで眠れる気は、しなかった。ぼんやりと瞼を持ち上げ、のたのたとまばたきをして、ソキはしばらく寝台に身を伏せていた。
 眠れる気はしなかった。この場所で。しあわせに、まぶたを閉じることは、きっと叶わないだろう。きゅ、とくちびるに力を込めて体を起こし、ソキはゆっくりとした仕草で寝室の出入り口を見つめた。
「……安心してくださいね」
 そこへ佇む女に、微笑んで、ソキはちいさく首を傾げた。
「陛下はソキを好きになりません。ソキも、陛下を好きにはなりません。……ソキは、たぶん、このお部屋できれいに飾られるだけです」
 女がどこまで事情を知っているか、定かではない。ただ案内を、と言われただけなのかも知れなかった。やさしい微笑を浮かべて佇むばかりの女に、それでも声をかけたのは、その声が聞いてみたかったからだ。言葉を。なぜだか、どうしても。ソキはふらりと床へ降り立ち、すこしだけ息を乱しながら、一歩、二歩、女のもとへ歩いて行った。立ち止まり、花のように微笑む。
「お庭に咲いているお花のひとつ。そう思ってくれれば、いいんですよ」
 えっと、と僅かばかり思い出すためらいを挟み、ソキはその女の名を呼んだ。
「アイシェさん」
「ソキさま」
 ふわり。花びらが風に守られながら水面に触れるがごとく、穏やかで、優美な仕草でアイシェはその場にしゃがみこんだ。視線の高さをソキと同じにしながら、女はやさしく響く声で囁きかけてくる。
「ハレムの者は、誰もが王の為の花でございます。ひとりとして例外はございません」
「……はい。あの、ソキ、さまなくてもいいですよ……?」
 お屋敷の者であれば常にその呼び方であるので、違和感はないのだが。魔術師たちや、学園の生徒は、だいたいがソキを呼び捨てか、ちゃん、くらいで呼ぶ。さん、と呼ぶ者すらごく限られる。特殊な呼び方をするのはユーニャくらいだった。普通でいいです、と求めるソキに、アイシェはゆるく首を振り、笑う。
「ソキさまはまだハレムの者ではございません。お客様として、丁重にご案内するよう、王から仰せつかっております」
 その、丁重に案内しろと女に命じたらしき砂漠の王は、猫の子でも摘むようにソキをハレムまで連れて来て、出迎えてくれたアイシェに、それこそぽい、と投げ渡して帰って行ったのだが。砂漠の王に摘まれていた服の端を見下ろしたあと、ソキはちょっと首を傾げつつ、分かりましたとアイシェの言葉に頷いた。何回思い出しても、ぽい、だったのだが。ぽいっ。丁重ってどういうことでしたっけ、ぽいではなかった気がするですよロゼアちゃんはソキぽいってしないです寮長ならすると思いますそきりょうちょのこときらい、と思考を明後日に流しかけるソキに、アイシェは丁寧な口調で告げて行く。ただひとつ、僭越ながら申し上げるのであれば。
「ハレムの女は王の御世を支えるための花。……その志をお持ちの方であれば、どのような事情の方であれ、わたくし、アイシェは、心より歓迎いたします」
「はい」
「……ハレムは」
 言葉の響きをややあまく崩して、アイシェはソキに微笑みかける。
「とてもあかるくてたのしくて平和よ。ちょっと退屈だけれどね」
 こういう風に話してくれた方が好きです、と思いながら、ソキはこくんと頷いた。丁寧な言葉を捧げられるのが苦手な訳ではないが、普段の口調がそうでないのなら、普通に話してくれた方はソキは嬉しい。きっと陛下が丁重にとか言ったからに決まってるですぽいってしたのにぽいってしたのにっ、とかるくむくれながら、ソキはふすんと鼻を鳴らした。そうだ、ロゼアちゃんのとこ、帰ろう。ソキがハレムの部屋をもう一度見ておきたかったのは、そこで眠ることができるかどうかを確かめておきたかったからだ。結果は半ば分かり切っていた通りのものだった。この場所で、ソキは、ねむることができない。いくら太陽の光と熱に溢れようと。ふかふかの寝台がやわらかく身を抱こうと。
 安心して眠れる場所はひとつだけだ。ロゼアの、腕の中。そこでしか安堵に瞼を下ろせない。部屋を巡っていく気持ちいい風が、遠くを流れる砂の音を耳に触れさせる。しかたないな、と。不意にロゼアによく似た声が、耳元でよみがえる。
『ソキは、本当に……ロゼアが、好きだな』
 部屋に漂うあまやかな香りを思い出す。わかっていたことだ。ソキは最優の『花嫁』でありながら、あまりにロゼアに執着しすぎている。恋をしすぎている。最初から、ずっと、そうだった。それで何度困らせたことだろう。あまく、くたくたになった体をそっと抱き寄せる腕も、声も、顔も、ぬくもりも、においですら、とてもよく似ている相手のもとでさえ。ソキは心からの安堵で眠りに落ちたことがない。そうできたのは、たったひとり。ロゼアだけだった。その腕の中でだけだった。最初から。恐らく。最後まで。
「ソキさま。体調はいかがですか? 満足されましたら、お茶をご用意いたしますので、そちらで喉を潤されてから、ゆっくり戻りましょう」
 歩いて疲れ、咳き込んだことを気にしてくれたのかも知れない。アイシェがそう提案してくれるのに、ソキは申し訳なく思いつつ、首を振った。喉がやや引きつって乾いているから、その言葉はとてもうれしいし、ありがたいし、魅力的なのだが。
「ソキをいやな人もいるでしょう?」
 なにせ、いつとも知れぬほど先であるのに、今から部屋の確保をされるような相手だ。ハレムの空気が前回よりすこし張り詰めているのには気がついていたから、長居をするつもりにはならなかった。そして、なにより。
「ソキ、もう、ロゼアちゃんに会いたいです」
 その腕の中に帰りたかった。年が明けてしまったから、ソキはもう十四だ。あと一年しかない。あと一年で、そのぬくもりは、幸せは、記憶の中のものになる。だから、はやく、かえりたい。もういい。いつかくる、その別れの為に。いまはまだ、その腕の中で眠りたい。
「ろぜあちゃん?」
 アイシェがやわらかな響きで名を繰り返した、その瞬間だった。



 ばつん、と世界が切断される。それは鋏で赤いリボンをふたつに切断したかのように。目の前が一瞬で漆黒に染まり、ソキは悲鳴をあげて両手を前に伸ばした。



 やわらかな寝台が、その両手を受け止めてふかふかと沈み込む。あ、と声を出しながら収まりきらぬ混乱に瞬きをして、ソキはせわしなくあたりを見回した。うすぐらい部屋だった。部屋の入口と、枕元に飾り灯篭が置かれ、火がゆらゆらと揺れている。室内を穏やかに巡る風はあたたかくやさしく。続きの間の開け放たれた窓からは、星屑のようなきらめきをまとった『お屋敷』が見えた。あ、とソキは瞬きをして息を吸い込んだ。部屋にはあまい香が焚きしめられている。それが無性に厭わしくて、ソキは瞳に涙を浮かべた。それが落ちてしまわないよう、瞼の上から強く手を押し当てる。ひっ、と悲鳴じみた嗚咽にも、慰めの声ひとつかからない。部屋にはソキのひとりきりだった。ハレムはしんと静まり返っていた。
 体の線をうるわしく浮かび上がらせる絹の夜着は、砂漠の王がハレムの花に与えた、夜伽の為のそれだった。王を待っている間にうとうととして、夢を見ていたのだ。まだ『学園』にいたころの。ロゼアの傍にいたころの。夢をみて、いたのだ。しあわせを願ってロゼアの手を離す前の。昔の夢を。髪を梳いた手はやさしかった。リボンを結んでくれる指先をいつまでも見つめていた。ソキ、と名を呼ぶ声を、抱き寄せられた腕のぬくもりを、いまもまだおぼえている。しあわせになってくれただろうか、とソキは夢想する。ロゼアはしあわせになってくれただろうか。風のうわさで『学園』を卒業し、楽音の王宮魔術師となったという、彼は。しあわせに笑っていてくれるのだろうか。
 ナリアンのことを思い出す。卒業のすこし前、ソキよりはやく『学園』を出て行くナリアンと、最後の茶会部をした。なにかあったら、相談しますから、と。最初から嘘だと分かっていて告げたソキに、ひどく苦しげに、ナリアンは頷いてくれたけれど。結局、それからなにを話すこともなく、ロゼアと顔を合わせることもせず。メーシャとも話しをしないで、ソキは『学園』を卒業して、このハレムに召し抱えられたのだ。ソキの行方を知る者の数は限られている。卒業と同時にその身柄は完全に隠され、砂漠の王宮魔術師であっても、ソキがここにいるのを知るのはたった二人を数えるばかりだった。メーシャは知らない。ナリアンも。ロゼアも。ソキがどこでなにをしているのか、知らない。
 会いたい、と思った。うとうとと招いた夢が、あまりにしあわせに満ちていたから。
「ロゼアちゃん……」
 呼んでしまった。あの日々のように。いつか交わした約束のはてに。会いたい、会いたいの。ソキいっぱいがまんしたですけど、でも会いたいの。ロゼアちゃん。会いたい。迎えに来て。ソキを迎えに来て。連れてって。ここじゃないどこかに。ソキを。
「ろぜあちゃぁん……!」
 かたん、と物音がして。ソキはハッと身を強張らせた。今日は王の渡りの日だ。失礼があってはならない。ソキはわたわたと寝台に座り直し、戸口を眺めて微笑んだ。涙滲んだ目をもう一度こすって、深呼吸をする。戸口に人影が現れた。その瞬間だった。ごう、と音を立てて灯篭の火が燃え盛り。室内をまばゆく照らし出す。
「……ああ」
 そこに立っていたのは、砂漠の王ではなく。
「ようやっとみつけた。……こんなところにいたんだな、ソキ」
「ろぜあちゃん……」
「ソキ、ソキ……。ソキ」
 泣きだしそうな幸福に笑いながら、歩み寄ったロゼアがソキを抱き上げる。
「会いたかった、ソキ」
 その腕の中は。
「これからは、ずっと一緒だ。……ずっと、ずっと、一緒だよ。ソキ」
 夥しい血と、死のにおいがした。ロゼアのものではない、血と。死の、においが。



 どこかで。ささやく声が響いている。
『さあ、よく見て。これがあなたが選ぶ世界の結末。これがあなたが選んだ希望の回答。よく見て、分かって。目を逸らさないで、ソキちゃん。……だめよ、だめよ。それはだめ、だめなの。だめなの……』
 まっすぐになにかを指差しながら。まっすぐに、なにかを目指すように。
『だめなのよ……』
 ささめく。世界を告げている。

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