王は死した女をその腕にかき抱き、立ち上がろうとも動こうともしなかった。王の周囲には息絶えた兵士や魔術師たちが倒れている。一室は死と血の匂いにまみれて淀んでいた。ソキは死した女と王に両腕を伸ばし、弱々しく泣いた。けふこふと咳き込み、血のにおいがする喉を軋ませながら、ふたりを呼ぶ。
「アイシェちゃん……! 陛下……!」
女は、砂漠の王が唯一愛した花だった。ソキはそれを知っていた。唯一、たったひとり、王がどんなにかその存在を愛していたか。想いがすれ違い、食い違い、形を失い傷だけが残っても。ソキは知っていた。『花嫁』を抱くたびに王が辛そうに、苦しそうに、ハレムを辞したその女の名を呼んだから。ソキはそれを許して受け入れていた。アイシェがハレムを去ったのはソキのせいだったからだ。アイシェは、『学園』を出て失踪したことになり、ハレムへ迎えられたソキにとてもやさしくしてくれたけれど。王を愛していたから。ソキがやがて王に重用されるようになると、そっと微笑み、ハレムからいなくなってしまった。
それで、砂漠の王はおかしくなってしまった。ソキが本当に安らげるのがロゼアの元であるのと、同じように。彼の王が唯一、安堵できるのは。アイシェの元だけであったと、失って、取り返しがつかなくなって、はじめて。アイシェがいつ連れ戻されたのか、どんな想いで王の傍に繋ぎとめられていたのか、ソキには分からない。ただ、かつてあったような穏やかな笑みは失われ。取り戻されることはなく。アイシェは、ロゼアが投げ放った短剣から王を庇い、その命は失われてしまった。憎しみにまみれた声で、砂漠の王がロゼアの名を呼ぶ。泣きじゃくるソキをそっと宥めながら、ロゼアはひややかに言葉を紡ぐ。
「あなただって、俺からソキを奪った。……俺から、奪ったくせに。俺の宝石を。奪ったくせに、閉じ込めたくせに、隠したくせに。……ああ、泣かなくて良いよ、ソキ。ソキ、ソキ。大丈夫。もう大丈夫だからな。俺がいるよ。俺がいるだろ。かなしいことも、怖いことも、もうなぁんにも、ないよ……。……みんな、みぃんな、ころしてしまおう。俺とソキを引き剥がすもの、ぜんぶ。俺から、ソキを……奪うものは、ぜんぶ。ぜんぶ」
「ちがうのちがうのロゼアちゃん! ソキはじぶんで! ソキがじぶんで! きめたの! とじこめられてたんじゃないの! きいてきいてろぜあちゃんろぜあちゃんろぜあちゃんっ! ろぜあちゃん……! おねが、おねがい……もうころさないで、もうころすのしちゃだめぇ……!」
「ソキ、ソキ。だめだろ、そんなに叫んだら。喉が痛くなる。……ソキ、ソキ。いいよ、分かってる。わかってるよ」
泣きじゃくり涙をこぼすその瞼に、目尻に、唇を押し当てて。喉もそっと指先で撫で、啄むように唇で触れて。ロゼアはあまく、心から幸福そうにソキを抱きしめ直し、ゆるゆると息を吐き出した。
「アイツが言ったんだろ。ソキにそうしろ、って。……もういいよ、ソキ。そんなことしなくていい」
「ロゼアちゃん、ろぜあちゃん……! ちがぁ、ちがうですぅ……! ソキ、そきは、ロゼアちゃんに……!」
しあわせになってほしかったです。それだけなの。だからなの。だから。ああぁああん、と泣くソキを抱いて、ロゼアは頬をこすりつけて笑う。
「しあわせだよ。俺は、いま、しあわせ。……ソキ、ソキ」
血溜りと死と呪いと憎しみの中心で、ロゼアは笑っている。
「――あいしてる」
仕えた楽音の国に死をふりまき、砂漠の国を血で染めて。王と兵士と魔術師たちを手にかけ。ようやっと己の宝石を腕に抱きあげ、それを幸福だと、あまくあまく囁いて。ロゼアは笑っている。やがて各国から駆け付けた魔術師たちに取り囲まれ、その半数以上を道連れにして倒れる時まで、ソキをその腕に抱いたまま。傷ひとつ付けないで、守り抜いた。
鋏が一枚の布を丁寧に切るように。針と糸がそれをうつくしく縫い合わせるように。ふたたび寸断され、世界が暗転する。泣きじゃくる『花嫁』に声が囁いた。これが結末。これが終焉。魔術師と王を失った国は緩やかに滅びを抱き、世界が形を失ってしまう。しあわせを願うのならば、どうか、今度は、今度こそ。その手を離さないであげていて。
それは、まばたきひとつの間に訪れた白昼夢だった。とびきりの悪夢だった。視界が未だくらくらと揺れ動く中で、ソキは混乱して息を吸い込む。ここはどこ。いまはいつ。考えるたび、息を吸い込み、吐き出すたび、瞬きのたび、焼きついた記憶と感情と夢の欠片がぼろぼろと零れて消えていく。頭が痛くなるほどの情報が落ち着いた時、残ったのはほんのわずかな悲しみだけだった。きゅぅと眉を寄せながら視線をあげた先、不思議そうに首を傾げてソキを伺う女の姿が見えた。ええと、とソキはぱちぱち瞬きをして、ここがどこであるか、いまなにをしていたのか、ということを思い出した。ろぜあちゃんって、と。問われていたのだった。
アイシェに。ソキにハレムを案内してくれた、うつくしい女に。
「ロゼアちゃんです!」
ふふん、と自慢げに、ソキは胸を張って言い放った。頭の片隅で、お前はなんでそこで自慢げにするんだまじ意味分からんと寮長が呻いたが、ソキは丁寧にそれにご退場願った。呼んでないです。あとそこにロゼアちゃんがいるのに自慢しないとかソキにはちょっと意味が分からないです。ロゼアちゃんすぅごいんですよぉ、とちからいっぱい誇りながら、ソキはあのですね、とアイシェに言った。ソキが、ロゼアちゃん、と言って通じない相手には、特に砂漠では久しぶりに会うので、これは念いりに自慢しておかなければ、と思った。
「ロゼアちゃんはねぇー、傍付きさんなんですけどねー、すぅごいんですよ! かっこよくってー、すてきでー、やさしくってー、つおくてー、ソキねえロゼアちゃんのなでなでがいちばんすきなんですよー。それでろぜあちゃんねー、すごいんですよー。すごぉいんですー!」
きゃあっとはしゃぎながらきらきら語るソキに、アイシェはそのひとのことが、とやわらかな表情で囁いた。
「とても、好きなのですね」
すこしもためらわず。ソキは頷いて、笑った。
「だぁいすきです! ……んっ」
けほ、とソキは乾いた咳を吐き出し、眉を寄せてくちびるを指先で押さえた。どうしよう、ちょっとはしゃぎすぎちゃったです。帰るまで大丈夫かなぁ大丈夫ですよねきっとだいじょうぶです、よしソキのガッツと根性はここからですよっ、と気合いをいれててちてち歩き出したソキを、アイシェの声がそっと呼びとめた。
「……ソキさま、唐突に申し訳ございませんが、ひとつだけ、お願いがあるのです」
「はい?」
きょとん、として、ソキはお屋敷の見える部屋の半ばで立ち止まり、アイシェを振り返った。ソキができることならいいですよ、と首を傾げて問うソキに、アイシェはふわり、穏やかに咲く花のように微笑む。
「ありがとうございます。実は恥ずかしながら、わたくし、とてもとても、喉が乾いてしまいました。空気が乾燥しているので、花梨湯で、少しだけ、喉を潤したいのです。わずかばかり、こちらでお待ちいただくことは、できますでしょうか? すぐに侍女が持ってまいります」
すっと視線を動かしてアイシェが見た部屋の出入り口には、すでに侍女が控えていた。侍女はアイシェとソキの視線を受けると、無表情のままで一礼する。それに、ソキは思わずびくり、と身を震わせた。お屋敷の世話役たちは、ソキをみるとすぐに笑ってくれる。嬉しそうに、しあわせそうに、明るくふわりと微笑みかけてくれる。表情なく対応されたことなど、お屋敷では一度もなく、出先でもほとんどないことだった。えっと、とソキはためらいながら、アイシェに向かって頷いた。飲むの、ソキ、待ってるです。ほっと笑んだアイシェが侍女に目配せをする。すぐに心得た様子で立ち去った侍女を見送り、アイシェはソキをソファに招きながら告げた。
「ありがとうございます。……あの子が怖がらせてしまいましたか? あの子は、いつも表情に乏しいのです。あまり気になさらないでくださると助かります」
特別に、ソキを歓迎していないとか、そういうことではないらしい。白雪で滞在させられた家の者たちとは、違うのだ。ほっと胸を撫で下ろしながら頷くと、続く会話を探すよりはやく、侍女が部屋に戻ってくる。どうぞ、と給仕されたのは陶器のカップがひとつだけ。中身はぬるまっているのか、湯気を立ててはいなかった。あまい、花梨のかおりが、ほのかに漂う。アイシェは侍女にありがとうと告げたのち、上品な仕草でカップをもちあげ、くちびるを潤すようにしてひとくち、飲み込んだ。こくん、と喉が鳴ったのち、アイシェはカップからくちびるを離し、ソキに微笑みかける。
「もしよろしければ、ひとくち、いかがですか? 飲みさしで、もうしわけないのですけれども」
すこしだけ迷ったのち、ソキはありがたく申し出を受けることにした。頂きます、と言ってカップに両手を伸ばし、包み込むようにして持ち上げ、くちびるまで引き寄せる。一応、ふぅ、と吹き冷ましてからくちびるをつけ、こくん、と飲み込む。ひとくち飲んで、ほ、とソキは体の力を抜いた。ぬるくぬるく、つくられたのだろう。熱すぎず、それでいて冷えてしまうこともなく、ちょうどいい温度にぬるまった花梨湯は、ソキの喉をすこしも痛めることなく、するすると潤し落ちて行った。こく、ともうひとくちだけ頂いて、ソキは思わずほわん、と笑う。
「あまいです……ソキ、これ、好きです」
「わたくしもとても好きなのです。喉が楽になりますでしょう?」
はい、とほっとしながらソキは頷いた。乾いて、ひきつった喉が、だいぶ楽になっている。帰って、ロゼアかメグミカにお茶を入れてもらって、あとは静かに過ごしていれば熱もでないだろう。
「ありがとうございますです。おいしかったです……んと」
すこしだけ考えたのち、ソキは花梨湯を運んできてくれた侍女にも、ぺこりと頭を下げて囁いた。ありがとうございますです、おいしかったです。まだ年若い侍女は、アイシェから空になったカップを受け取りながら、ソキに微笑み返してくれた。ソキも嬉しくて、はにかんだ笑みで肩を震わせる。よかった。大丈夫。本当に、あの屋敷の者とは、違ったのだ。一礼して侍女が立ち去ると、アイシェもソファからすっと立ち上がる。ソキがソファから立ち上がろうとするよりはやく、伸びてきたアイシェの手が、そっとソキのてのひらを包みこんだ。
「ゆっくり参りましょう」
普通に話してくれた方が好きです、とすこし残念に思いながら、ソキははぁいと頷いて立ち上がった。あれもこれもきっとぜんぶ、砂漠の王陛下が丁重にとか言ったからに違いないのである。じぶんはソキのことぽいってしたくせに、ぽいってしたくせにぃ、と内心ものすごく拗ねながら、ソキはアイシェと手を繋ぎ、指先にきゅぅと力を込めてから歩き出した。アイシェはやわらかな力でソキの手を包み込み、ゆるり、ゆるり、先導してハレムを歩き出す。いくつもの視線がふたりを見送った。ハレムの出口で手を離し、ソキは微笑むアイシェの顔をじっと見つめてから、ゆったり、うつくしく、一礼した。
「案内して頂き、ありがとうございました。……あのですね」
「はい」
「花梨湯、おいしかったです。ソキ、喉がちょっと楽になったですよ。ありがとうございました。……手もね」
歩く時ね、繋いでくれてね、嬉しかったです。ソキまだちょっとひとりだと歩くの大変なので、助かりましたです。ありがとうございました、と告げるソキに、アイシェはやさしく、ふわりと微笑んで。じゃあソキ、ロゼアちゃんとこ帰るです、とてちてち歩き去っていく姿を、見送ってくれた。
執務室で書類に署名を書きいれていた砂漠の王に、陛下ソキ戻ってきたです陛下にはぽいってされたですけどぉアイシェさんも侍女さんもとってもやさしかったですきれいだったです陛下にはぽいってされたですがアイシェさんねえ手を繋いでくれたんですよふわふわでした陛下はソキをぽいってしたですけどアイシェさんのねぇ侍女さんねぇかりんゆくれたですあまくっておいしかったです笑ってくれたですよソキねえうれしかったです陛下はソキのことぽいってしたですのにふたりともねえとってもねえソキに親切にしてくれたですよへいかはそきをぽいってしたですのにぃっ、とこころゆくまで文句を言って、ソキは執務室の前でふくれっつらをした。
一応、王の前である。本当ならぷぷぷぷ、くらいに膨らませたかった頬は、ぷぅ、くらいでソキは頑張った。ソキはがんばったのである。むくれたらぜんぶ一緒だとかいう常識的な判断は砂漠の彼方に捨ててきた。だって陛下ソキのことぽいってしたです。ロゼアちゃんだってメグミカちゃんだってそんなことしないですのにぃもおおお、とこころゆくまで拗ね怒ってむくれるソキに、国王はさらさらと書類に名を書き入れ、呼び鈴を鳴らして文官に一式を手渡したのち、ようやく伏せていた眼差しを持ち上げてくれた。その瞳が、苦笑しきっている。はいはい悪かった、と砂漠の王は苦笑し、いくつか確認めいた質問をソキにしていたが、言葉を疑う様子は見られなかった。
ハレムの他の部屋を勝手に見に行ったりはしなかったか。アイシェとその侍女以外に声をかけられたり言葉を交わしたりはしなかったか。帰りはどの道を通ってどこの出口から戻ってきたのか。帰路についてソキは分からないので、それはアイシェさんに確認してくださいですよ、ということをふんぞりかえって言いはなち、ソキはお部屋みたりお話したりはしていないです、と言った。そんなことよりアイシェさんきれいでした。アイシェさんねえふわんって笑ってくれたですよふわんって、それでいいにおいしたですふわふわであたたかかったです。手つないでくれたですよぉソキねえアイシェさん好きですソキがあるくの時間かかっちゃってもアイシェさんねえちゃぁんと一緒あるいてくれたですアイシェさんきれいなおねえさんですきゃあぁっ、とはしゃぐソキは、基本的に面食いである。きれいなひとやかわいいひとや格好いいひとというものが大好きだ。
その上で、やさしく接してもらったことと微笑んでいてくれたことと、帰り道に手を繋いでくれたことがソキには殊更嬉しかったらしい。きれいなおねえさんにやさしくしてもらっちゃったですぅやぁんやぁん、と照れて恥じらうソキはきらんきらんでうるうるの輝きを放っていて、砂漠の王は思わず苦笑した。そうかそうかよかったなー、お前ホント顔かたちの整ったの好きだよなと呆れられて、ソキは満面の笑みでちからいっぱい頷いた。
「そうなんですよー! ソキねえロゼアちゃんがいちばんすきですぅー!」
「おまえ、ほんとう、ロゼア、すきだな……」
「すきすきです。えへん。……んと、それでは陛下、失礼致します。御用がありましたら、なんなりと、お申し付けください」
するりと木の葉を撫でる風のごとく自然に一礼し、ソキはじゃあもうソキロゼアちゃんのところに帰るですので、と告げんばかりの笑顔で王の前を辞そうとした。分かった、と苦笑してソキを見送りかけ、王はああ、と吐息に乗せる囁きですこしばかり呼びとめてくる。
「その前に、もうひとつ」
「はい」
「お前にとって……恋とはなんだ。なにを、お前は、恋だと思って……それを、している」
問う、王の瞳は冷えていた。興味がなさそうであり、それでいて、ごく真剣なまなざしだった。ソキは立ち止まり、不思議がって首を傾げながらもくちびるをひらく。言葉に迷うことはなかった。
「そのひとの腕の中で、なんの不安もなく、目をとじて。安心して、きもちよくって、どきどきして……うれしくて、しあわせで、しあわせで……こんな、しあわせは、ほかにどこにもないと、おもう、たったひとりのひとが、いたら。それが、恋、です。ソキの恋です。恋しい、ただひとりの、ひと」
その腕の中でなら、目を閉じられる。そのぬくもりに心から、安らぐことができる。そのいとおしさが。ソキの抱く、たったひとつの、恋だ。まっすぐ、迷わず、うっとりとして告げたソキに、砂漠の王はなまぬるい笑みを浮かべて頷いた。お前それどう考えてもロゼアだろロゼアのだっこだろ、と言わんばかりの表情で、王はわかったもういい、とソキの退室を許し、ひらひらと手を振る。はいそれでは行きますと一礼し、ソキはちょこんと首を傾げた。好奇心だった。他意はなかった。
「陛下は、いるです? 好きな人」
「……は?」
「ぎゅぅってされると、安心して、きもちくって、うっとりして、どきどきして、やぁんてなるひとですよ」
いねぇよ、といわんばかり砂漠の王の笑みが深まりかけ。なぜか、視線が天井へ逸らされた。あれ、と思い見守るソキの視線の先、国王はよろよろとした仕草で執務机に伏せ、うわあぁ、となぜかうんざりしたような声をあげて首を振る。いやまさかそんなねぇよ、ねぇよ、アイシェ、ああくっそ、と呻き、顔をあげて、王はふるふると首を振った。頬がやや赤い。
「……ソキ」
「はい」
「最後の、俺の質問は忘れろ。いいな」
ソキは、はぁい、と返事をして一礼した。執務室を出る。ソキは振り返らず、ロゼアとメグミカの待つ部屋へ歩いて行った。執務室に残された王がソキの質問に、心当たりが、ものすごくあり。それをなぜか認めたくなくて抵抗していることなど、知る由もなかった。ふにゃふにゃ上機嫌にほわんほわんした歌を響かせながら、ソキはてちてち、けふっ、てちて、こふっ、やぁあっ、ててちべちんっ、むくっ、てって、と部屋の前まで辿りついた。しっかりとした作りの扉を、ぺっちぺっちてのひらで叩く。
「ろーぜーあーちゃーん。めぐちゃーん。あー、けー……けふ」
室内から押し殺した悲鳴がいくつもあがり、即座に扉が開かれる。ソキ、と苦しげな声で呼ぶロゼアに抱きあげられて、ようやく、ソキはふしゅ、と体の力を抜くことができた。足早に寝台に運ばれながら、ソキはくったりとロゼアの腕に身を預ける。
「ロゼアちゃぁん……けふ、ん、んぅー……」
「ソキ、ソキ。どこへ行ってたんだよ……! ああ、ごめん。なに? なに、ソキ」
頬をてのひらで包むように撫でられながら、ソキはなんでしたっけ、とのたのた瞬きをした。ロゼアに抱きあげられたまま寝台に横になって、背をぽんぽん、と撫でられながら、ソキはゆるゆると意識を溶かして行く。なにかを囁いた気がするのだけれど。なにを言ってしまったのか、分からないまま。ソキはロゼアがぎゅぅと抱き締めて、うん、と泣きそうな、幸福に揺れる声で囁いてくれたことだけを、覚えて。ころん、と眠りに落ちてしまった。
晴れ渡った空は半透明に青くみえた。くるくると遊ぶように吹きぬけていく風は、砂と緑と水の匂いを王宮に循環させている。瑞々しく生きた風だった。死と血の匂いは、どこにも感じ取れない。そのことに、なぜか、心から安心できた。ほっと息を吐きながら、ソキはだめですよだめですよロゼアちゃん、いいですかだめですよーぉ、とロゼアに言い聞かせ、ちらりと廊下の先へと視線をやった。砂漠の王宮にある魔術師たちの居室がある区画。その一番奥の、廊下の果てに、『学園』へと繋がる『扉』があった。『扉』は、最近どうも調子が悪いらしい。一応もう一回点検するから待ってて、と言われてから、もう結構な時間が経過していたのだが、終わる様子は見られなかった。
ソキはロゼアの腕に抱きあげられたまま、まだですか、とはふんと息を吐き出しかけて。繋いだ手の内側をこしょりとくすぐられ、きゃぁ、とはしゃいだ声をあげて笑った。
「ろぜあちゃん、こしょってしたぁー! したですぅー! ソキちゃんとわかったですよー?」
「ん? そう?」
「きゃあ! またこしょってしたぁ! やぁんやぁー!」
そきさっきだめだっていったですよぉーっ、と砂糖菓子のような声で笑いながら、ソキはロゼアと手を繋いだまま、離そうとはしていなかった。もぉー、と笑いながらロゼアの指を数本、きゅぅと握っていると、『扉』の点検をしていた白魔法使いがげっそりとした顔で振り返り、お待たせしました、と囁いた。
「もういいよ通れるよ……。うううぅ吸い込む空気が物理的に甘い」
それでソキは体調ほんとにどうなの、と義務感漂う溜息たっぷりの問いかけに、ソキはロゼアの腕の中から、上機嫌に胸を張って言った。
「ソキはー、きょうー、げーんーきーでーすー!」
「うん。そうだな。学園に戻ったら寝ような、ソキ」
ソキの体調はすぐれないままだった。寝台から起き上がって動くことはできるのだが、すぐに乾いた咳を繰り返し、そのまま熱を出してしまうことも多かった。一晩、ゆっくり眠れば熱は引くのだが、咳は残り、歩いたりすればすぐに悪化する。今日もソキは普通に起き上がれたのだが、ロゼアの腕の中から降ろされないままだった。主張するソキの頬を指先で撫でながら、ロゼアはすぐ寝ような、と言い聞かせている。ソキはそれを完全に聞き流している態度で、はぁーいわかったですー、と頷き、ふらふらと足を動かした。ひとりで歩けないにしても、メグミカにもらった布のやわらかな靴をはいて帰れることが、とにかく嬉しくてならなかった。
「……ろぜあちゃん」
「うん?」
開かれた『扉』へ足を踏み出す寸前、ソキはロゼアをみあげ、囁くように名を呼んだ。
「ソキね、ソキね……」
不意に。長期休暇のはじまりから、砂漠へ戻る旅のことや。『お屋敷』で交わした兄との会話。たくさんの、重ねた決意が胸をかけ巡って行く。泣きそうになりながら息を吸い込み、ソキはちいさく囁いた。
「ロゼアちゃんと、一緒に、いたいです……」
ロゼアは繋いだ手に力を込め、うん、と目を細めて微笑んでくれた。本当は。その微笑みと、言葉の響きと。指先の熱と、胸いっぱいのしあわせと。やさしい、眼差しを。ずっと、覚えていて。そして。あと、一年で。ソキはこのあたたかな手を離そうと思ったのだけれど。ひたすらに、一心に、ただ、ロゼアの幸福だけを願って。しあわせになって、と祈りながら。繋ぐ、手を、離そうと。今も思っているのだけれど。それも本当なのだけれど。離れたくない、とはじめて。ソキは己の願いを優先させて、それをなんとか、口に出した。『花嫁』だった、と告げたロゼアに。もう『花嫁』ではない、ソキが。愛するからこそ、離れるのが『花嫁』の習い。永遠の愛の代わりに。永遠の恋の誓いに。けれど。
もう『花嫁』ではないソキが、もう『傍付き』でないロゼアになら、それを望んでも許されるような気がして。ソキは震えるほどの罪悪感に息をつめながら、ロゼアの肩にそっと額をくっつけた。目を閉じる。それでもまだ、怖くて。好き、と。恋を告げることは、できなかった。