けふけふこふん、と咳をして、ソキはうゆうぅう、とむずがりながら白くてふわふわなうさぎのぬいぐるみに顔を埋め、額をこしこしと擦りつけた。幾重にも敷かれた柔らかな布の上、もぞもぞと身動きをして訴える。
「ソキ、もう『学園』に帰らなきゃいけないですよぉ……お熱でちゃうです」
「フィオーレ」
「はぁい……。んー、ごめんなー、ソキ。もちょっと頑張ろうなー」
つめたく響く声に呼び促され、溜息をつきながら白魔法使いが王の傍らを立ち上がる。やーですやぁですこっちこないでくださいですよ、とうさぎから顔をあげたソキの睨みに苦笑するばかりで、白魔法使いは数歩の距離を瞬く間に縮め、ソキの肩にぽんとばかりに手を置いた。いやいやいやぁ、ともぞもぞされるのに苦笑いしながら必要な分だけ魔力を注ぎこみ、回復させ、フィオーレは己の主君を振り返った。
「陛下、まだやんの? 面談」
「言葉遣い」
「……まだ続けられるのですか? 陛下」
どうも砂漠の陛下、フィオーレの主君たる男は、今日の朝方から機嫌が悪い。珍しく、本当に極めて稀なことにハレムで寝泊まりしてそのまま朝を迎えたので、そちらでなにかあったに違いなかった。困ったなぁ、と思いながら手を離すと、背後でソキがまたけふん、と咳をした。体調がちっとも回復していないのだ。もうあと一時間もこの場が続けられるようなら本式の回復を行うか、さもなくば白雪に連絡を取って担当教員との相談を行い、ソキの恒常魔術を発動させるかどうか考えなければいけないだろう。あとどれくらいかかりますか、と改めて問いを重ねた白魔法使い、癒しの使い手に、砂漠の王は眉を寄せて息を吐いた。
「十分か十五分。もう終わる」
「だって。……もちょっと頑張れる? ソキ。ごめんなー。飴舐めてな。お茶飲んでもいいよ」
言いながら、フィオーレがそっとてのひらで押し寄せた飴の小瓶や茶器をちらりと見たものの、ソキは涙目でむずがるだけで、それらを口にしようとはしなかった。いらないです、とぐずるソキにそれ以上強くは出られず、フィオーレは溜息をつきながらもう一度、繊細に調整した癒しの術を触れた指先から脆い体に流し入れてやった。
「……つーか」
紙面に書き入れることが一段落したのだろう。紙束を万年筆でぱしりと叩きながら、砂漠の王はうんざりと眉を寄せ、己の元へ戻ってくるフィオーレと、その場に半分うずくまっているソキを見比べた。
「ロゼアの告白現場をちょっと見たくらいでそこまで体調崩すんじゃねぇよ……」
「え? あっ、やっぱりそうなの?」
口元に手をあてて笑いを堪えるフィオーレに、男は心底うんざりした様子で頷いた。その顔には、これだから恋なんていうものをしてる女はめんどくさい、と書かれている。砂漠の王の病気めいた恋愛倦厭症は、今日もさほど改善されていない。
「他に原因、理由らしきものが見当たらないだろ……。授業は座学も受けてない、実技授業は停止中。自習として本は読んでるが専門書の閲覧は魔力を安定させる様子見が続いてるから、授業と同じく禁止されてるし、毎日昼過ぎに定期的な保健医の診療も受けてる。歩行の安定と体力づくり目的で『学園』の中を一日二時間以上は歩くこと、があるが……つーかお前……この遭難したですってなんだよ……校舎内で行き倒れて保護されたとかどんだけだよ……」
「けふ! けふふんっ! ちがうですぅ! ソキ、気が付いたら寝ちゃってただけ、ですぅ!」
てちてちてち、と校舎内を歩いていたら急にきもち悪くなって、しゃがもうとした所まではソキだってちゃんと覚えていたのだ。気が付いたら保健室で、ロゼアが傍にいてくれて。涙ぐんで走ってきたナリアンがちょうど扉をぱぁんと開け、ソキちゃんが遭難して保護されたって聞いたんだけどうわあああぁああっ、と叫んだので、そういう風に日記に書いて、それをそのまま陛下に提出しただけで。授業が再開されて三日目のことだった。保健医の診断によると、貧血と魔力揺れが重なって意識喪失にまで陥ったらしい。咳き込みながら主張するソキに、まあそう言うならもうそれで納得してやってもいいんだが、と。ぱたりと日記を閉じ、砂漠の王が深々と息をはく。
「お前、もうほんといい加減に諦めて……ロゼアにしとけよ……。いいよ……ハレムの部屋閉鎖しとくから、ロゼアを選んでロゼアの傍にいろよ……な? いいこだから。ロゼアを諦めるのを諦めような?」
「あれ? 陛下? なんか俺いますごい発言聞いてるような? 気が? するね? えっ? ちょおおおおおおおお陛下なにそれ俺知らないんですけどおおおおおお!」
「説明が複雑かつめんどくさいから聞かなかったことにしろ白魔法使いうるさい」
一息に言い放ち、砂漠の王は眉を寄せて白魔法使いに足払いをかけた。ふぎゃあぁっ、と叫び声をあげて転倒する白魔法使いを見もせず、砂漠の王はぐずぐずと涙ぐむソキを見た。
「ロゼアが好きなんだろ?」
「すき。……好きです。ロゼアちゃんだいすき。すき、すきぃ……」
でもろぜあちゃんは。そきを。そきがろぜあちゃんをすきみたいには。すきじゃないの。そのことを、まるでこの世の終わりのように。悲痛な声で訴えるソキに、砂漠の王はやさしい微笑みを浮かべてみせた。あまく、やわらかく。なまぬるい笑みだった。
「……ソキ?」
「は、ぁい……。けふ。なん、です、か? ……こふん」
「お前の今日のその髪型整えて、お前のその服選んで着せて、靴もはかせてくれたのは誰だっつってたか、もっかい俺に教えてみ?」
へいかー、へいかー。言葉遣いがアレだとおもうよへいかー、と訴えるフィオーレをうるさいと黙らせ、王は涙ぐんで不思議そうに首を傾げるソキに、いいから、とそれを促した。えっとぉ、と言いながら、ソキはぎうううう、としろうさぎのぬいぐるみを抱きつぶした。
「ロゼアちゃん、がー。ソキの髪に香油を塗って、くしくしして梳かしてくれたです。それで、陛下のトコおでかけなんですよ? って言ったらなんだよそれだめ。ってゆったですけどぉ、陛下のお呼び出し、なので、ロゼアちゃんのだめがだめだろってりょうちょがロゼアちゃんのこといじめたです! ソキりょうちょきらい!」
「……あー」
説明長そうでめんどくさい、という顔で王が天井を仰いで呻くが、ソキはぷぷ、と頬をふくらませて続けて行く。
「それで、ソキお部屋に戻ってお着替えして、外出着にしてもらったです。えへん。ロゼアちゃん、ソキのお服、かわい、て言ってくれたんですよきゃあああぁ! ……けふふん。うぅ? うー……んと、んと、それで。髪の毛編んで行こうなっていって、ロゼアちゃんがソキの髪の毛ふたつ三つ編みにしてくれたです。それで、お靴もロゼアちゃんがはかせてくれたですよ。それで、終わったらすぐ帰ってくるんだぞ、ってソキのことぎぅーって! ぎぅーってしてくれたんですううきゃぁあっ……! ……けふ。けふふふ。こふ。うぅ……」
「……え? お前ほんとにロゼア諦める気あんの……? なんだその無駄な努力……」
額に手を押し当てて深々と息を吐きながら、砂漠の王はそれで、とどこか気だるそうに言葉を重ねて行く。
「お前のその……うさぎさんリュック? と、うさぎさんぬいぐるみ? だっけ? それはどうしたっつってたかもっかい俺に説明してみろよ……」
「ねーねー陛下ー、へいかー。言葉遣い戻さないとさー、ジェイドさんが戻ってきた時に怒られるのは陛下じゃね?」
「説明できるよな? ソキ」
フィオーレの方を見もせずに頭をてのひらでひっぱたき、お前はまず俺に対する敬意その他を買い戻してこいよ、と王は言った。えええなにそれなんで俺の知らない間に売りに出されてんのっ、と悲鳴じみた声で叫ぶ白魔法使いと、暇だったから売っといた、とじゃれあう王の会話を気にすることなく、ソキはくにゃん、と首を傾げてしろうさぎのぬいぐるみをだっこしなおした。
「しろうさちゃおでかけかばんとぉ、しろうさちゃんじゅぎょりゅっくはぁ、ろぜあちゃつくってくれたです……けふ。やぁうー……!」
「……ハッキリ発音してもう一回」
咳が出るならお茶を飲め、と眉を寄せる王にけふこふ咳き込み、ソキはむーっとくちびるを尖らせた。
「しろうさちゃん、おでかけ、かばん、と! 授業の、リュック、は、ロゼアちゃん、作って、くれた、です!」
「おい無視すんな。お茶飲め……」
「なんで飲むのやなんだよー。いい子だからお茶のも? ……っていうかロゼア裁縫……手芸? できるんだ。へー」
いやいやぁっ、と首をふって茶器を手で押して遠ざけながら、ソキはフィオーレの言葉にこくりと頷いた。白くてふわふわのだきごこちが気持ちいい、しろうさぎのぬいぐるみは、ソキが腕に抱くのにちょうどいい大きさで、背中にはチャックが付いている。中にはソキが歩きつかれてしまった時用に座りこめる場所をつくる為の布と、ちいさな小瓶にこんぺいとうと飴がひと粒づつ。ソキが両手で包んで持てるちいさな保温瓶の中には、香草茶の用意がしてあるのだった。じゃあそれでいいから飲め、と頭が痛そうに呻く砂漠の王に、ソキはよいしょ、とその場で体を半回転させ、背負ったままのリュックを見せびらかした。こちらも、しろいうさぎの、長い耳の大変愛らしい、ぬいぐるみめいたリュックサックである。
「こっちは授業用のリュックで、ソキの武器の『本』とー、ノートと、筆記用具が入ってるんですよ? あとね、あとね、アスルも一緒に持って歩けるようにロゼアちゃんが紐つけてくれたです! 今日はおでかけうさちゃんがいっしょなのでアスルはおるすばんで、うさちゃんがおやすみの時はアスルを持って歩くことになってるです。えへへん」
「……おい、いま俺無視すんなって言ったよな……?」
「陛下? ソキはちゃぁんと、陛下のいうこと聞いてるですよ?」
ただし、返事をしないだけである。言い聞かせ口調でそう告げられて、砂漠の王の笑みがふっと深まる。よし決めた、とやや早口で呟く男の声は、いささか投げやりなそれだった。
「明日ロゼアの面談する」
「俺には、明日ロゼア呼び出していじめよ、としか聞こえません陛下……」
「だめえええぇええっ!」
陛下はどうしてそういうことするですかぁっ、と涙目で訴えるソキに、だいたい全部お前のせい、と砂漠の王は白い目で告げた。手首から先だけを動かす仕草でソキを招き、警戒されながらじりじり近寄られるのに、あきれ顔で日記を返す。
「とりあえず、ソキは今日はこれで終わり。帰っていい。……次回の面談は一カ月後。近くなったらまた知らせを出す。授業が再開してたら、そっちには俺から連絡して休みにしてもらうから欠席の心配などはしなくてもいい。……日記は毎日付けるように」
「はぁい。分かりましたです……。ロゼアちゃんいじめたらソキは怒るです」
「いじめないから安心しろ」
お前は早く帰っていいからお茶飲んでさっさと寝ろ、と告げられて。ソキはやや熱っぽい顔つきではぁい、と頷き、けふけふん、と乾いた咳をした。
てっ、てっ、ちっ。てちっ。てち、て、けふけふこふ、こふふっ。
「……やぁぅー……」
ぱたん、と砂漠からの『扉』を閉めて、ソキは口に両手をあてて咳き込んだ。乾いた喉がひりひりして痛い。けふふ、けふ。こふん。こふ、げふ。ごほっ。ひぅ、と軋んだ喉で息を吸い込んで、ソキはほとんど無意識に、両腕を上にあげていた。
「ろぜあちゃん……」
ぽて、と音を立ててしろいうさぎのぬいぐるみが床に落ちるのと。ふわ、と。慣れ切った仕草でソキを抱き上げる腕が体を床からさらったのは、ほぼ同時のことだった。
「ソキ」
「……ろぜあちゃ」
「ソキ、ソキ。……ソキ」
けふけふ、と軋む喉で苦しげにするソキの背を、ロゼアの手が穏やかな手つきで撫でて行く。くにゃん、と腕の中で脱力しながら、ソキはぼんやりとあたりを見回した。寮の廊下の突き当たり。砂漠へ続く『扉』しかない通路は、しんと静まり返っていて薄暗い。人の気配はどこにもなく、そこにいるのはロゼアとソキのふたりきりだった。身を屈め、ひょい、とぬいぐるみを拾い上げてソキに抱かせてくれたロゼアに、くて、と首を傾げて問いかける。
「まってて、くれた、です……?」
「うん。おかえり、ソキ。よく頑張ったな。今日はもうどこにも行かないで、ゆっくり休もうな。……なにか食べたか? お水飲んだ?」
なにも口にできなかった。だるくて、喉が軋む体が、つらいばかりで。ロゼアが傍にいてくれなくて。苦しい胸が痛むばかりで。うるうるうる、と目に涙をにじませ、ごめんなさいですよ、と呟くソキの頭に、ロゼアは頬をぺたりとくっつけて囁く。
「謝らなくて良いよ。じゃあ、喉乾いてるだろ? お部屋に帰ったらお茶飲もうな」
「……うん。ソキ、おちゃ、飲むです」
「うん。ソキ、ソキ。……ソキ。どうしたんだよ。どこか痛い?」
ロゼアにぺとり、体をくっつけて。涙ぐむソキの瞼を指先で撫でて、ロゼアは訝しげに囁いた。ロゼアちゃん、と呼びかけようとして、ソキはまたけふん、と咳き込んでしまう。ん、と眉を寄せたロゼアがソキをぎゅぅと抱きなおし、部屋へ戻ろうと歩き出す。その腕の中でまどろみながら、ソキは痛む胸に指先をおしあて、ロゼアに頬をすりつけた。恋しくて、恋しくて、胸が痛い。どうしても、どうしても。
「……ろぜあちゃん」
「うん?」
そばに、いたい。
「……なに? ソキ」
問いかけに、応えることはなく。ソキはロゼアの首筋に腕を回し、ぎゅぅ、と抱きついて目を閉じた。好きな気持ちが、日ごとに降り積もって行くのが分かる。砂時計に落ちて行く砂のように。それでいて片側から落ち切ってしまうことはなく。十五が限度で『花嫁』は嫁ぐ。それ以上『お屋敷』に留まることは滅多にない。それは成人を境にしている、ということもあるのだろうけれど。
「ろぜあちゃん……」
戻ってきた部屋で。ぬるくするすると喉を通って行くお茶を飲み干し、ぱたんと扉が閉じてしまうのを待って。ふるえる声で、ソキはねだった。
「さわって? ……ねえねえ、ロゼアちゃん。さわって? ソキに、さわってくださいです……」
うん、とやや困ったような声であまく微笑み、ロゼアの腕がソキを抱き上げなおす。ぽんぽんぽん、と落ち着かせるように背を撫でる手は『傍付き』が『花嫁』に与えるもの。献身。親愛。それ以上ではない。さわってるだろ、と囁いて、ロゼアはソキを抱きしめたままで寝台に横になった。ぎゅぅ、と抱きしめる腕もぬくもりも、いつもと同じ。おやすみ、ソキ、とロゼアが囁く。いい夢を。泣きだしそうになりながら、ソキはこくりと頷き、すべての想いを飲み込んだ。強く目を閉じて、息を吸う。お茶を飲んで潤った筈の喉が、からからに乾いて、痛かった。眠りに落ちる耳元で、誰かがそっと囁く。
『――ソキ。ほら、ちゃんと教えただろ?』
のどがかわいたときに。どうすればいいか。ほら、と促す声が耳の奥で響いている。ソキはゆめうつつに、それに従った。くちびるになにかが触れて、乾いた喉がこくり、とあまい水を飲み込む。
「……ソキ」
くるしげなロゼアの声が、耳元でソキを呼んだ気がするけれど。夢なのか本当なのか分からずに。ひととき、渇きを満たされて。すぅ、と穏やかな眠りに、ソキは沈みこんだ。