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 鼓動を刻む音が聞こえる。ゆっくりした、力強い、穏やかな。耳をぺとっとくっつけてそれを聞きながら、ソキはぱちぱちぱち、と瞬きをした。昼間に眠れなかったせいなのか、夜になっても中々眠気がやってこない。んん、と困ってくちびるを尖らせ、ソキは片手で本を読むロゼアのことを見上げた。もう片方の腕はいつもの通りにソキを抱き寄せたあと、ずっと髪を撫でてくれている。んー、としょんぼりした呟きで頭をぐりぐり擦りつければ、笑みを散らした吐息がすぐ傍から降ってきた。
「なに、ソキ。……眠れない? あったかい? さむい? 気持ち悪い? 痛いとこあるか……?」
「ねえねえ、ロゼアちゃんはなにを読んでるです? ……ソキ重たくない? お邪魔じゃない……?」
「重たくないよ。邪魔なんて絶対ないよ。……眠たくないな、ソキ」
 黒魔術の教科書だよと囁きながら、ロゼアはソキの体を薄い布でくるみ直す。持っていた教科書はしおりを挟んで閉じられ、寝台の上に置き去りにされた。ソキは拗ねた気持ちで、ふすんと鼻を鳴らした。
「ソキはロゼアちゃんのお邪魔しないです。ロゼアちゃんは教科書を読むです。……ソキはちゃんと我慢できるもん。ソキ、そきはロゼアちゃんの一番じゃなくなちゃたですけど、ちゃぁんとがまんできる……」
「ソキ? ソキが俺の一番だよ。我慢なんてしなくていいって、言ってるだろ? ……ソキが俺の一番だよ」
 どうしたんだよ、と不安がるように、ロゼアの眉が下がっている。ソキはじゃれつくように手を伸ばし、指先でちょいちょいとロゼアの眉や、目のあたりに触れた。
「ロゼアちゃんは授業とか、お勉強に行っちゃうです。課題がいっぱいでお忙しいです。……先輩たちが、ロゼアちゃんにご用事、あって、呼びに来るです。ロゼアちゃんはソキに待ってて、て言って行っちゃうです。……ちっともソキを連れて行ってくれないです。でも、でも……それが普通だから、ソキは、はやく、それに、慣れなく、ちゃ、だめだって、みんな、いう、です……。ロゼアちゃんが、ぜんぶ、全部ですよ? ぜぇんぶ、ソキを、一番に優先しないのが、普通なんです。ロゼアちゃんは、できてる、てみんながいうです。ソキもできるもん……さびしいだけだもん……」
 だってもうずっと一緒で。本当はもうずぅっと一緒で。傍にいて離れないつもりだったのだ。長い旅の果てに再会した時に、ソキはそう思っていたのだ。『花嫁』に施された教育が顔を出して、ソキにそれを思い出させてしまうまで。
「ソキはずっとロゼアちゃんの『花嫁』さんでいたかったのに……」
 送り出させなければいけないよ、と呪いのように声が囁く。送り出し、嫁がせ、手を離す為に『傍付き』は『花嫁』を一人前に育て上げる。なにもかも全て、その瞬間の為。離しても平気な顔をして『旅行』へと送り出し、出迎える。傍にいたいのはずっと、ソキばかりだった。
「……さびしいです」
 離したくないのも。
「さびしいです、ロゼアちゃん。……つらい、です……くるしいです……」
 訴えるのも、求めるのも。全部ぜんぶ、ソキばかりだ。震える手でロゼアの服を掴み、きゅぅと目を閉じて頬を寄せる。痛いくらい強く抱きしめて欲しかったのに。抱き寄せる手は穏やかなばかりだった。昔と、なにも、変わらなかった。



 ソキちゃんが来てますよ、と妖精に告げに来たのはニーアだった。蜜蜂を蹴り倒してはちみつを奪って飲む、という暴挙に出ていた妖精は、アタシ今ちょっと忙しいんだけど、という顔をした。両手いっぱいにすくった黄金の蜜に、唇をくっつけてこくんと飲み込む。ホワイトクローバーか、褒めてあげようじゃないの、と地に落ちてぴくりとも動かない蜜蜂を見下ろしながら呟いていると、辺りを伺ってびくびくおどおどしたニーアが、リボン先輩、と泣きそうな声で服を引っ張ってくる。
『先輩、ソキちゃん。ソキちゃんですってばぁ……! あと先日もシディくんに怒られたばかりでしょう? ひとりで蜜蜂を襲撃したりしないでください、って。ルノンくんだって泣きそうな顔で心配していましたし、もし刺されたら本当に危ないんですよ……!』
『蜜蜂を狩れたら一人前の妖精。昔からそう言うじゃない』
『それは鉱石妖精とか樹木妖精の、しかも男性型の場合です……! 私たち花妖精のしきたりじゃありません……!』
 あと確か三人一組の集団での狩りであって、鉱石妖精さんだって一人で挑んだりはしない筈です、と顔を両手で覆ってさめざめと泣くニーアに、妖精はものすごく適当な態度ではいはいそうねそういうこともあるって聞いたことがあるようなないような、と頷いてやった。
『先輩、そんなだから花妖精の突然変異とか言われるんですよ……』
『アタシに大変失礼な物言いだと思うから、言ったヤツラは特定してみっ……ちり! 折檻して以来、誰も言わなくなったじゃないの』
『……花妖精の女性型は、落ち着きがあって、穏やかで、温厚な性格、なんですよ?』
 近くの小川まで飛んで、蜂蜜でべたべたになった手を洗いながら、妖精はふんと鼻を鳴らしてみせた。
『ニーア? アンタ自分に落ち着きがあると思ったことがあるっていうの?』
『……ニーアはお腹が空くと落ち着いちゃうね? って、この間、ナリちゃんが』
『元気がなくなるのと落ち着くのを一緒くたにするんじゃないわよ馬鹿なの?』
 ぴっぴっ、と手を振って水を切り、妖精はあくびをしながら空へ舞い上がった。
『で? ソキが来てるんですって? また花摘みに?』
『いいえ。先輩にお話があるとか』
『アンタそれを先に! まっさきに! 一番先にアタシに言いなさいよっ!』
 ソキがそんなことを言いだすのは、はじめてのことである。先日会いに行った時は怒るのが先行してしまって、中々話が出来なかった。なにかあったのかも知れない。次からはそうしますっ、と告げるニーアに頷いて、妖精は普段過ごしてる小高い丘を目指して飛んだ。あっちへこっちへ妖精を探して彷徨っていた所を、ルノンとシディが見つけて保護してくれているらしい。でも見つけた時にはソキちゃんはもうちょっと、何回か、その、転んでしまった後みたいで、とそっと視線を反らすニーアに、妖精は眉を寄せて溜息をついた。
 ソキが転びやすいのなんて旅の間にうんざりするほど見ているが、それにしても『学園』からここまでは、そう距離があるという訳ではない。いつだったか花を摘みに来たソキは、一度も転んだ様子がなかったのだし。つまりは、歩くのがどへたくそになったまま、改善していないというだけである。様子を見に行った限りでは、体力もどうも落ちているようだった。ソキが一番元気だったのは恐らく、新入生歓迎と五王に対する紹介を兼ねたパーティの夜あたりではないだろうか。しっかり歩けて、体力もついてきた頃だったのに。そのあと一度、ひどく体調を崩してからというものの、ソキはじりじりと状態を逆戻りさせていた。今現在は、妖精が迎えに行った時よりもへなちょこになっている。
 ロゼアあのヤロウどういうつもりだと呻きながら、妖精はニーアの案内に従って小高い丘へと戻り。飛び込んで来た光景に、上空で腕を組んで半眼になった。ああぁああっ、とニーアが傍らで心配そうな悲鳴をあげているが、妖精の口からは溜息しか漏れない。ソキはニーアの言った通り、小丘の中ほどに座りこんでいた。シディの姿がないのは、ニーアが戻るのが遅いとみてロゼアでも呼びに『学園』へ急行しているに違いない。ロゼアが授業を抜け出して来るとは思えないので、到着まで今しばらくの時間があるだろう。あああ、ああぁあ、と心配そうなニーアをよそに、ふあんふあん響く楽しそうな声が、妖精の丘の空気にじゃれていた。
「ふにゃんふにゃんふにゃん。ふにゃ、にゃ、にゃー……きゃぁー!」
 ぴこっ、ぴこっ、ぴこっ、と座ったまま右に左にちょっと揺れたあと、ソキは両手をあげて楽しそうにきゃっきゃとはしゃいでいる。その頭上にはなぜかルノンが乗っかっていて、酔ったのか動けないのか、ひどくぐったりして動く様子は見られなかった。ふにゃふにゃひっきりなしに左右に動かれているので、そこに乗っていたらそれは酔うだろう。間違いなく絶対に酔うだろう。ほんのわずかも動かないルノンを頭に乗っけたまま、ソキはまたふにゃんふにゃんとほわほわした声で鳴き、右に左にぴこっ、ぴこっと体を揺らしている。腕を組んで羽根をぱたつかせ、妖精はごく自然に浮かんで来た疑問を口にした。
『……なにあれ』
『私にもよく分かりません……あああ、ああぁあ……! ルノンくんが……!』
『ルノンはなんで乗ったのよ……』
 天を仰いで額に手をあて、深々と息を吐いた後、妖精は気がつかれていないことを良いことに、そっとソキの動きを観察してみることにした。ルノンの救出は、あそこまで動けなくなっていればもうあとはどれくらい放置しておいても一緒だろう、ということにして後回しである。しばらく見つめて、妖精はあることに気がついた。ぴこ、ぴこ、と左右に動くのがぴったり二十回で、ソキはきゃっきゃとはしゃいでいるのだが。それで、ほぼ正確な一分である。法則に気がついてからさらにまじまじ三分見つめて、妖精はソキを見下ろした。
 ソキは、飽きちゃったですぅー、と呟き、細い草を引っ張って溜息をついている。そのまま、また観察していると、気を取り直したのかまたふにゃふにゃ揺れ始めたので、今までも幾度か飽きていることが察せられた。時間を数えていると仮定しても途中で飽きてたらなんの意味もないわと呻きながら、妖精はぴこぴこ揺れるその視界に引っかかるよう、ゆっくりと舞い降りてやった。あああぁっ、と嬉しくて仕方がないとろとろの声で、ソキは満面の笑みを浮かべる。
「リボンちゃん! ソキ、いーっぱい待ってたんですよ?」
『そうみたいね。……ルノン、生きてる?』
「ルノンくん、です? ……あ」
 ぺちん、とばかり頭に両手をあてたソキは、すっかり忘れていたらしい。ニーアが懸命にルノンを回収して世話をしているのを眺め、妖精はあとでちゃんと謝りなさいね、とソキに言い聞かせた。さすがにしょんぼり肩を落としながら、ソキは素直にはぁい、と返事をする。
「ソキはたくさん待っちゃったです……。もちょっとしたら帰らないといけないです。こっそりです」
『……こっそり?』
「ロゼアちゃんにないしょないしょでソキ来たです。今日はお部屋からあんまり出ないでいような、て朝にロゼアちゃんが言ってたです。でも、でも、昨日も、一昨日もお部屋で、ソキはリボンちゃんにお話があるんですよ? って言ったのに、ロゼアちゃんはソキが元気になったらな、一緒に行こうな、って言うです。ロゼアちゃんが一緒じゃ駄目です……ないしょなの……」
 目をうるませて訴えるソキに溜息をつきながら、妖精は手を伸ばしてその額に触れる。嫌な熱さは感じなかったし、特に魔力が動いている風にも感じない。ソキの体を回復させる恒常魔術は、ある時から切られたままだった。アンタあれ使って来たんじゃないでしょうね、と訝しんで問う妖精に、ソキは目をぱちくり瞬かせて首を傾げる。その、いかにも、ソキはなにを言われているのか分かりません、という仕草に。妖精はふっ、と笑みを深め、やけにさらさらのソキの髪を一筋、勢いよく掴んだ。ぴゃっ、と身を震わせるソキに、妖精は優しく微笑んで問い直す。
『魔術使って回復したわね?』
「ん、んと、んと、んと……だって、だって、ソキはリボンちゃんにお話があったです……! もう、すぐじゃないと駄目だったんですよ。ソキはとってもとっても急いでたです」
『まったく、うまく行ったから良いものの……もう駄目よ? 分かった? 分かったら返事! 返事しないとアンタの話なんか一言だって聞いてあげないんだからね! まったく、ちょっとなんなのよこの薄着は! 三月の終わりはまだ寒いでしょうにああもう……! 上着は? なにか持ってる? 良いからそれを着るかはおるかしなさいよ風邪をひくでしょうが……!』
 やんやん髪の毛引っ張っちゃやですぅ、と頭をふるふるして嫌がって、ソキは膝に置いていたしろうさぎちゃんリュックをぎゅむりと抱きつぶした。背中のファスナーを開け、詰め込んで来た上着にもぞもぞと袖を通す。
「これは、ロゼアちゃんがたたんで入れてくれたお服です。うぅ……大変です。頑張らないとお外に出たのがバレちゃうです」
 すでにシディが、ソキが妖精の丘にいることをロゼアに告げている頃である。妖精はそう思いつつも、ソキが大変ですと立ち上がって走り出しかけて転んで頭をごちんとぶつけて腫らして熱を出す未来まで想像がついたので、なにも言わずにただ頷いてやった。そもそも、ここへ来るまでに何度も転んでいるソキは、服には土汚れがつき、てのひらも打ったのか赤くなっていて、服の下の腕にちいさな切り傷があるのが見えた。どう頑張っても部屋から出たのは明白である。数日したらまた見舞いに行こうコイツ絶対熱だして寝こんでるし、と思いつつ、妖精はさてそれで、と首を傾げて問いかけてやった。
『アタシになんの話? ……相談事かなにか?』
「……うん」
 しょんぼりした返事の声が甘えている。妖精はまったくと息を吐き、ニーアにルノンを連れてもうすこし離れていなさいと手を振って追い払った後、ソキの差し出す両手の上に舞い降りた。妖精を一心に見つめる瞳が、恐怖を乱反射しながら潤んでいる。言いたいことを、本当に口に出していいのか迷い、怯えながら、くちびるが息を吸い込み、何度も閉ざされた。
『言っていいわよ、ソキ』
「……うん」
『アタシはここにいるわ。アンタから聞いたことを誰にも話したりしない。でも、誰かに、アンタが伝えて欲しいって言うなら、その通りにしてあげる。アンタはしたいようにしていい』
 うん、と震えながら頷く、ソキの手が冷えている。氷の上に立っているようだ、と妖精は思う。巡る春の兆しを宿し始めたそよ風にも、安らぎ溶けてしまうことはない冷たさが宿っている。妖精はソキを見つめ返したまま、てのひらの上に座りこんだ。魔術師には触れられる妖精の熱が、その氷をほんのわずかでも、温めることができればいいと思う。溶けた水が。強張る喉を潤すものになればいいと思う。
「あの……ね。あのね、あ……あ、の、ね……」
 きゅっとくちびるが閉じて、涙をこぼしたがらない瞼が何度も、何度も瞬きをする。うん、と頷いて妖精は待ってやった。言葉を重ねることはしなかった。聞く、と言ったのだから。ソキもそれをちゃんと分かっているのだから。待てばそれは告げられるのだ。差し出した手が必ず、裏切らず繋がれるように。
「だ、れ、にも……いわない、で、ください……」
『ええ。分かったわ。言わない』
「ソキね……ソキは、ね……。えっと……えっと、あのね、あのね」
 妖精は、そっと指先を撫でてやった。ソキすこしだけ、くすぐったそうに笑って。
「あのね……」
 ようやく、言葉をくちびるに乗せる。
「ロゼアちゃんの傍を離れたくないの……」
『……ええ』
「でも、でも、ソキがね、行かないと……ロゼアちゃんは、しあわせになれない、って言うの。だからね、ソキは頑張っ……頑張った、ですよ。もうちょっとだけお傍にいたくて、でも、あとちょっとだけで、でも、でも……ほんとは、ずっと、ずっと一緒がよくて、でも、でも……ソキ、ばっかりが、こんな風にロゼアちゃんを好きなの……。ロゼアちゃんは、違うの。ソキじゃないんです。ソキじゃない、誰かを、ソキが行ったあとに、好きになって、でも、ソキはもうそれが、我慢できなく、て。ソキがいいの……ロゼアちゃんに、ソキは、好きに、なって、欲しいです。でも、でも、ロゼアちゃんの好き、は……ソキが遠くに行かないと……ソキが、お傍から、離れないと、ロゼアちゃんはだめなの……だからソキじゃないの……」
 妖精はゆっくり目を閉じた。これを、なんと呼ぶのか妖精は知っている。呪いだ。それも魂に刻まれた、とびきりの呪い。単に描かれたものとは質が違う。そういう風に作られ、完成してしまった、性質そのものに付与する呪い。ソキの言葉はあやふやで、訴えるそのひとつひとつの意味を掴むのは難しい。それでも、妖精は強い微笑みで瞼を押し開く。言葉は強く蘇る。
『ソキ』
 凍れる森の色をした瞳が、震えながら妖精を捉える。リボンちゃん、と声なく綴られたくちびるに、妖精は確かに応えてみせた。助けを求めることを知った、魔術師のたまごに。その微かな成長を言祝ぐように。
『ソキは、どうしたいの? ……そうしなくちゃいけない、とか。そう言われた、とか。そんなことは関係ない。ソキが、どうしたいのか。駄目、とか、そういうのも全部考えないで、アタシに教えて。……ねえ、一緒に旅して来たじゃない。アンタはずっと……ずっと、ロゼアの所に帰りたがってたじゃない。会いたいって、言っていたでしょう……? ……こういう風にする為じゃないでしょう?』
「うん……うん」
『さあ、アタシに言ってみなさい、ソキ。アタシの導いた魔術師のたまご。アタシが、アンタの案内妖精』
 立ち上がって、背を正して、妖精は告げた。
『その望みがどれほど苦しくても、それを心から望むなら。アタシが必ずそこまで導いてあげるわ!』
「……ソキはっ」
 それは掠れた悲鳴まみれの。
「ロゼアちゃんと、一緒に、いたいです……! ずっと、ずっと、これからも、ずぅっと……!」
 産声に似ていた。
「離れたくないです! 離したくないです……しあわせに、ロゼアちゃんに幸せに、なってほしいです……! ソキが……ソキが、ロゼアちゃんを、幸せに、して……ソキは、ロゼアちゃんを幸せにできる、おんなのこになりたい……!」
『分かった。……分かったわ、ソキ』
「……ソキは、普通になれないです……。普通、できない……できないよ、できないよリボンちゃん……!」
 ぼろっ、と涙が零れ落ちた。雪解けの雫に似ていた。生きてきらめく新緑を宿したその瞳が。妖精はずっと見たかった。
『普通はもう諦めなさい。しなくていいわよ』
「で、も……でも、でも……」
『アンタがそんなに苦しいなら、それは全然普通じゃない。そんなこと、もうしなくていいの』
 とてもよく頑張ったわね。偉いわよ。でも、もうここまでにしましょう。もうこれでおしまい。いいこね、アタシの言ってること分かるわね、と囁く妖精の言葉に、ソキは瞼にぎゅぅと力をこめて頷いた。
「ほんと……? ソキ、普通、もうしなくていい……?」
『したくないんでしょ? やめなさい。良いことなんてひとつもないわ』
「うん。……うん、しないです。ソキ、もう、普通がんばるのやめる……。りょうちょがロゼアちゃんを怒ったらどうしよう」
 ソキがね、普通を頑張れないとね、りょうちょはすぐにロゼアちゃんを怒るです。ぷ、と頬を膨らませて訴えるソキに、妖精はそれはそうでしょう、と微笑んで頷いた。
『言っとくけど。アタシがしなくていいって言ったのは、一人で歩かなくて良いとか、発音頑張らなくて良いとか、そういうのじゃないから』
「えっ。……え、えっ、えっ?」
『それはやりなさいよ。むしろそれは頑張りなさいよ』
 え、えっ、と左右をきょろきょろ見回して助けを求めたがった後、ソキはぷう、とさらに頬をふくらませた。
「リボンちゃんが、ソキに、むつかしいことをいう……!」
『難しくないでしょうが……! いい? アンタは、一人でどこへだって歩いて行けるようになって、誰にだってちゃんと胸を張って話せるようになるの。告げられる言葉に惑わされず、自分そのものと向き合って考えなさい。どこへ行きたいか、なにをしたいか、どうしたいのか。答えを出しなさい。それでそれを、心の中に、大事にするの。いつもは分からないかも知れない。でも、とっておきの大事な時、その答えは必ず、アンタを導く光になる。魔術師の守護星みたいに、アンタを助ける力になる。どうしても一人で歩けない時は、アタシが助けになってあげる。でも、それは、アンタが一人で歩かなくて良い、ってことじゃないのよ、ソキ。一人でだって歩いてかなきゃいけない。それがどうしてもできなくて、でも、本当のほんとうに、そうしなければいけない時。助けを求めなければいけない時。アタシは必ず、絶対に、その助けになってみせる。それをちゃんと、覚えていて』
 歩いて行くのも。助けを求めるのも。他ではない、ソキ自身なのだと。そう告げて、妖精は難しげに眉を寄せるソキに、大丈夫、と囁いた。
『アンタはもう、それが出来るわ』
「……そうですか?」
『そうよ。だってアンタ、一人で部屋を抜け出して、歩いて、ここまで来たじゃない。アタシにちゃんと、言えたじゃない。できるわよ。できてるわよ。……まあ、抜けだしたことは、ロゼアには怒られなさい。怒られ終わったら、アタシが慰めてあげるから』
 えええ、と眉を寄せるソキに、笑いながら手を伸ばして。妖精は滑らかなソキの頬を、そっと手で撫でてやった。
『頑張ったわね。……よく、言えたわね』
「リボンちゃん……」
『自分を、変えてしまおうとする力に従わなくていいのよ。……言ったでしょう? ソキ。誰に所有されることなく』
 ソキの、零れる涙を拭って。妖精は囁いた。
『あなたは、あなたで、ありなさい』
「……うん」
『あなたは、あなたになりなさい。望む自分に成長しなさい。誰が決めたものでもない、誰かがそうしなさい、って言うことを、したいだなんて思わなくていいの。したいと思ったら、していいのよ? もちろん。でも、それをしたくもないのに、無理にしなきゃいけないだなんて思って、頑張らなくていいわ。分かるわね?』
 ぱちぱち、瞬きをして。ソキはこくん、と頷いた。
「でも……でも、ソキ、どういう風になりたい、か、分からないです」
『……不本意だけど、アンタさっき自分でちゃんと言ってたわよ?』
 溜息をついてソキの手から飛び立ち、妖精は小高い丘の向こうを見た。シディに先導され、ロゼアがこちらに歩んでくるのが見える。まだちいさな黒い点ほどにしか見えないが、ほどなく辿りつくだろう。え、え、と首を傾げるソキに、妖精は言ったでしょう、と溜息をついた。
『ロゼアをしあわせにできる女の子になるんでしょ?』
「……あ!」
『まぁったく……結局! ぜんぶ! ロゼアなんだから! ロゼアあのヤロウ!』
 ぶんぶん腕を振り回して今日こそロゼア呪うその為にまずシディを黙らせよう、と決意する妖精に。ソキはくしくし涙を手で拭って、いじめちゃだめなんですよ、と言った。妖精はそれを無視して、やってくるシディとロゼアを遠目に睨みつける。ソキもほどなく気がつくだろう。うぅ、と赤く腫れぼったい瞼に触れてどうしよう、と悩むソキを見下ろし、妖精はそれにしても、と溜息をついた。
『今年は新入生いなくてよかったわね……? アンタそんなじゃ先輩できっこないもの』
「え? ……え、いないですか? リボンちゃん、案内に行かない?」
『アタシしか案内妖精いない訳じゃないのよ……? でも、まあ、たぶんいないわ。まだ入学許可証発送には時間があるけど……でも、いる年といない年はなんとなく雰囲気で分かるし、必ず毎年いるって訳でもないのよ? 毎年来る方が珍しいんだから』
 へー、と珍しそうに頷くソキは、もう泣きだしそうな雰囲気を持っていなかった。遠くから、ソキ、と呼ぶロゼアの声がする。それに息を吹きかえす新緑の瞳が。爆発的な歓喜にきらめく、宝石のようなその色が。ほんとうの、ソキの望みだ。ロゼアちゃん、とソキが呼ぶ。迷わず。まっすぐ走ってくるロゼアが、その腕にソキを取り戻すまで。もうほんのすこしだけだった。

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