意識の向こうで、ごくちいさな金属音が空気を揺らす。それがソキにとっての、朝の始まりの合図だった。運動に行ってきたロゼアが、戻ってきた音だったからだ。常に人の目と気配のする中心で育てられたソキは、そもそも圧倒的な静寂というものに慣れないし、それをとても苦手としているが、中でも鍵を開ける金属音というのは異質なものだった。『お屋敷』のソキの部屋に、閉められる扉、というものはついていても、殆ど役目を果たしたことがない。そこは開け放たれているか、必要があって閉じられているかのどちらかで、単純に空間を区切る板として存在していた。閉じられた密室、というのが『お屋敷』にはない。ごく正確にするなら、『花嫁』が移動できる範囲、知覚できる世界のすべて、として存在している『お屋敷』という空間において、鍵をかけていい部屋、というのはひとつとしてないのだった。
閉じられた部屋で、『傍付き』とふたりになってはいけないからだ。誰の目も手も届かない空間で、手を伸ばす誘惑を『花嫁』は振りきることが出来ない。だから部屋に鍵をかけてはいけないし、ふたりきりになど、なることは許されなかったのだ。昔、ロゼアがソキの『傍付き』を辞めさせられかかって、それから戻ってきた時に。ロゼアが部屋に鍵をかけて、ソキとずっと二人きりで傍にいてくれた気がするのだけれど。その時のことをソキは上手に思い出せないし、覚えていることができなかったので、総合的になかったこと、にされている。枯れかけ、正気を失いかけた間のことを、覚えていられる『花嫁』はいない。
ん、とすこし考え込むようなロゼアの声が遠くで聞こえる。そんなに離れていないで、早く傍に戻ってきてほしいのに。あんまり眠くて、暖かな布にくるまれきっているソキは、ぽかぽかでうっとりしていて、目を開けることも声を出すことも出来なかった。ソキの全身を包み込むぬくもりは、今日はなんだか特別にしあわせな、いいにおいがする。うと、うと、と再び眠りに落ちかけながら、ソキはいっしょうけんめい考えて、頷いた。ロゼアにぎゅっとしてもらった時の、いいにおいと同じである。ふにゃふにゃ笑いながらその布にくしくし頬をすり付けるソキの、髪にそっと指先が触れた。ソキ。一度、名前が零れて肌に触れる。星灯りのように暗闇に瞬く。くらやみを明るくするひかりの声。夜明けを告げるロゼアの声。
寝乱れた前髪を、額に触れながら指先が丁寧に整えていく。頬をくすぐったいくらい何度も、何度も柔らかく撫でた手の先が、耳をすっぽり包み込んで首の後ろにも触れてくる。くしくし、爪の先でくすぐられて、ソキはきゃぁっと笑って瞼を持ち上げた。ねむくてねむくてとろとろの眼差しで、傍らに腰かけ、微笑んでいるロゼアをぼんやりと見上げる。
「ろぜ、あ、ちゃー、ん……こしょって、しちゃ、だぁ、めぇー……。くすぐたい、で、す、うー……」
「おはよう、ソキ。……くすぐるのは、嫌?」
「ん、んー……くすぐったく、て、ソキは、きゃぁてする、ですけどぉ……ロゼアちゃんに、触ってもらえるのは、とっても、とっても、うれしです……。ろぜあちゃ、ソキを、だっこして、ぎゅってして、おはよ、て、して? ソキ、ねむたいですけど、がんばっておきる……」
微笑むロゼアに両腕を伸ばして、ソキはふわふわした声で目覚めの挨拶をねだった。寝る時に、ロゼアのおやすみ、があるとすぐに気持ちよく眠れるように。起きる時にもだっこと、ぎゅぅで、おはよう、と言ってもらえると、ソキはすぐにぱちっと起きることができるのである。ん、と笑いながら、ロゼアがソキをひょいと抱き上げ、膝の上に降ろして抱き寄せる。ぽん、ぽん、と背に触れる手の熱は、なんだかお昼寝の前のそれと似ていた。すぐにまた、うと、うと、としてロゼアの肩に頬をぺとっとくっつけるソキの耳元で、満ち足りた、柔らかな声が囁く。
「今日はよく眠れた?」
「ねむ、た、です……。おふとん、あったかくて、いいにおい……きもちかたです……」
「そっか。よかった。……ソキ、ソキ。ソキはまだ眠たいな」
頭にロゼアの頬がくっつけられて、ちいさく笑いが零れて行く。
「眠っていいよ、ソキ。大丈夫。今日はずっと傍にいるよ」
「ん、ん……でも、朝です。朝は起きないといけない、です……ロゼアちゃん、おはよう、して……?」
「起きたい? ……今日はおやすみの日だよ、ソキ。昨日は土曜日だったろ。今日は、日曜日。だから、頑張って起きなくても良い日だよ。眠たくなくなるまで、ゆっくり寝てていいんだよ」
ぽん、ぽん、とロゼアの手に撫でられて、ソキはうと、うと、と意識を淡くくずして行く。ロゼアの腕は暖かくて、気持ちよくて、体のどこにも力が入らなくなる。服に染み込む熱で、ひとつになる。ん、ん、と寝心地の良い場所を探して無意識に身じろいで、ソキはロゼアにぎゅっと抱きつきなおした。すー、と息を吸い込んで、ソキはぱち、と目を開いた。すぐにまたゆるゆる閉じてしまいそうになるまぶたを、ぱち、ぱち、とさせて。ソキは眠たくて仕方のない眼差しで、ロゼアを見つめて首を傾げる。
「ろぜあちゃん。お汗のにおいが、するぅー……?」
「ん? ……うん。嫌?」
嫌ならすぐ拭ってくるよ。ちょっとだけ待ってて、と囁くロゼアに、ぎゅむっ、と体をくっつけて。ソキは鼻先をロゼアの肩辺りに寄せて、すんすん、においをかいでみた。ぱちん、と閉じてしまう目を頑張ってあけて、ソキは右、左、となんとか頭を振ってみせる。
「ややないです。ろぜあちゃん、うんどう、おわて、そのままきたです……? めずらしです……」
「そっか。……ソキ、俺のが大丈夫なら、ソキのも俺は大丈夫だろ?」
「う? ……ん、んー……? ……ん」
ねむたいので。とりあえず頷いておくです、という感いっぱいにこくり、と頷くソキにロゼアの笑みが深くなる。ぽん、ぽん、と背を撫でられながら、ソキは耳元でしっとりと響くあまい声に体を震わせた。
「じゃあ……もう、俺に会いに来る前に、誰かとお風呂行かないでいいだろ、ソキ。俺に会って、聞いてからでも大丈夫だろ。ソキの髪も、肌も、夜寝る前とお休みの日に俺がすればいいだろ……? ……服は俺が選んだのにしような。ソキ、ソキ。そーき」
「……もしかしてなんですけどぉ?」
「うん?」
もう目も開けないくらい眠くて、半分寝ぼけながら、ソキはすこしだけくちびるを尖らせた。
「ろぜあちゃんは、ソキのおていれを、できなかた、です。ふきげんさん、だったです……?」
「……ソキ。もう他の人に頼むのやめような。俺がすればいいだろ」
髪も。肌も。服も靴も。ぜんぶ、ぜんぶ。して、って言ったろ。抱く腕にやんわり力をこめて告げるロゼアに、ソキは言ったです、とこくりと頷いて。そのまま、ころん、と眠りに転んで落っこちてしまった。
たっぷり眠ったソキが、ロゼアにおはよう、をしてもらえたのは、太陽がすっかり登り切ってしまった頃だった。休日とはいえ、食堂もがらんとしている時間帯のことである。いーっぱい寝たです、と満足げにだっこされて現れたソキに、そろそろ様子を見に行こうかと思っていたんだけど、とメーシャが首を傾げて笑った。
「その様子だと心配ないみたいだね。……俺も、ハリアスの所へ行こうかな」
「メーシャくんは、今日はハリアスちゃんと、でーと、です? ……ハリアスちゃんに、ソキを忘れないでください、って言っておいてくださいですよ……。いいなぁ、ソキもハリアスちゃんに構ってもらいたいです」
「え? じゃあ、ソキは俺がロゼアを独占してもいいの? 交換ならいいよ」
デートコースにロゼアを引っ張って回る、とかそれはそれで楽しそうだと思うし、すごく、と目をきらりとさせながら提案するメーシャに、ソキは慌てて首を振った。
「だ・め! だめ……! ロゼアちゃんはソキの! ソキのなんですうううメーシャくんはだめ……! だめですよ、だめです。ソキは、駄目、って言ってます。わか、わ、わかったぁ……っ? 分かりましたですか……?」
「分かった、分かった。ごめんね、ソキ。冗談だよ?」
笑いながら宥めてくるメーシャに、ソキは不安げな表情で幾度も瞬きをした。
「……メーシャくんが一緒にあそぼ、て言ったら、ロゼアちゃんは行っちゃうかもです。だって、だって、この間、ソキも一緒? ソキも行くです。ソキはいいこにしてるです、って言ったのに、メーシャくんとナリアンくんと一緒に、ロゼアちゃんは、だんしかい? というのに、行っちゃったです……。ソキはひとりで残されたです。それで、とんでもないめにあったです……ルルク先輩にお酒を飲ませちゃったのは誰だったんですか……」
「え? あれ、寮で女子会してたんじゃなかったんだ?」
長期休暇終了の夜のことである。なないろ小道の居酒屋さんでちょっと飲もうよ、と提案したナリアンに連れられて、メーシャとロゼアは男子会、というものに行ってしまったのだ。その間、ソキはひとりでおるすばんである。ふてくされてロゼアの部屋でころころしていたら、謎の襲撃にあった一幕を、ソキはうんざりした顔で思い出し、溜息をついた。世の中にはお酒を飲んではいけない、という人種も確かに存在するのだ。強いとか弱いとか、もうそういう話ではなく。酔うと果てしなくめんどくさく、かつうっとおしい、という観点で。メーシャは不思議そうに瞬きをして、どこかあどけなく首を傾げた。
「楽しそうだったけどな……?」
「ソキは、ソキはもう思い出したくないですので、それについてはよく分からないということにします……。ねえねえ、メーシャくん? ナリアンくんは? ソキ、ナリアンくんに、おはようござ……います、です? ちょっぴり早い、こんにちは、です? それとも、まだ、ソキは起きたばっかりですから、おはようございますなんです?」
とにかく。挨拶をしていないのである。目をぱちくりさせながら考えるソキに、どっちでも良いと思うよと微笑みながら、メーシャはナリアンが座っていた椅子の背を指先でトンと叩いた。お迎えが来たからね、と幸せな声で告げる。
「ニーアちゃんがね。ナリちゃん、森の中にきれいなお花が咲いたので、散歩をご一緒しませんか、って。おめかしして。可愛かったな。ルノンにも久しぶりに会えたし……なないろ小道で角砂糖を買って、ハリアスと一緒に妖精の丘に行こうかな」
「ナリアンくんも、じゃあ、ニーアちゃんとでえと、なんです?」
「でも、ソキだって今日はロゼアとデートだよね?」
朝、運動終わったロゼアとすれ違った時に、今日はソキと一緒だから夕食には会えると思う、って言ってたし。笑顔で嬉しげに囁くメーシャに、ソキは頬をぱっと赤らめ、そこへ両手を押し当てた。やぁあん、ともじもじっとしながら、ちいさな声でぽそぽそと呟く。
「ロゼアちゃん……今日は、ソキのお手入れを、めいっぱいしてくれるです……。おていれは、でーと、です?」
「うん。ソキがそう思えばね」
「きゃあぁあんっ! きゃぁああんやぁあんやああぁああんっ! ソキ! ロゼアちゃんと! でえとですうううっ!」
ちょっと頑張ってはいるけど、そもそもソキはなんでかカタカナの発音が苦手だよねぇ、とほのぼのと見守り、メーシャは戻ってきたロゼアに、おかえり、と笑顔で手を振った。二人分の遅めの朝食を自炊室まで行って作ってくる間、代わりにソキを見ていてくれたメーシャに、ロゼアはほっとした顔でありがとうな、と告げる。
「ただいま、ソキ。メーシャ、助かったよ。ありがとう……ソキ? なにかいいことあった?」
きゃぁあんロゼアちゃんろぜあちゃんっ、と席に座るのも待たず、腕に両手を伸ばしてきゃあきゃあじゃれついてくるソキに、ロゼアはくすぐったそうな顔をして問いかける。笑いをこぼしながら入れ違いに席を立ち、ちょっとね、と訳知り顔でメーシャは囁いた。
「それじゃあ、ロゼア。また夕食で。夜は一緒に食べようね。……ソキも。夜に起きてたら、ご飯を一緒に食べようね」
「はーい!」
はうぅはうううろぜあちゃんろぜあちゃっ、と体をくしくしすりつけて甘えるのに忙しいソキの、とりあえず勢いで返事しました感たっぷりの声に、メーシャはぷるぷると肩を震わせて笑った。あんまり人の言葉を聞かないで返事しちゃだめだよ、と注意し、ぽん、とソキを撫でてから、メーシャはそれじゃあね、と席を離れていく。その背にもう一度、ありがとうな、と声をかけているロゼアを見上げ、ソキはきらきらした目で頬を赤らめた。
「ロゼアちゃん、あの、あの……あのね。今日は、ほんとの、ほんとに、ソキとずぅっと一緒です? ロゼアちゃん、どこにも行かない? 誰かにお呼ばれして、ソキに、待っててね、しない……?」
「うん。しないし、行かないよ。傍にいるよ。朝ごはん食べたら、お部屋に戻ろうな、ソキ。それで、服を着替えて、お手入れしような。どこからしてほしい? ソキのして欲しいとこからしような」
「……んん?」
ふわふわのフレンチトーストにぱくっと食いつきながら、ソキは自分の服を見下ろした。食堂に来ているので、当然ながら寝間着ではない。起きてから、ちゃんと着替えた服である。はい、もうひとくち、とちょうどいい大きさに切られたフレンチトーストを、またはくりと口にいれて。もぐもぐ口を動かしながら、ソキはんんん、と首を傾げ、目をぱちぱちさせた。
「んく。ロゼアちゃん? ソキは服を着替えたですよ……?」
ロゼアが選んで着せてくれた服であるから、それが分からない筈もないのに。聞き間違えです、と不思議そうにするソキの口元に、今度はヨーグルトの木匙を差し出して。あむ、と食いつかれるのに満ち足りた笑みを浮かべ、ロゼアはそうだな、と頷いた。
「でもそれは外出着だろ、ソキ。お部屋に戻ったら、お外でないから、室内着になろうな?」
「またお着替えです?」
はい、次はこれ。差し出されたりんごをひとかけ、あむあむあむ、と食べるソキに、ロゼアはまたフレンチトーストを差し出した。一晩じっくり漬け込んだものだから、ふわふわで、あまくって、しあわせな味がする。あむあむ懸命に食べるソキの頬を指で撫でて、ロゼアはゆるく目を細めた。
「着替えるの嫌か?」
「ソキ、ロゼアちゃんに手間暇かけてもらうのだぁいすき! です! ……ロゼアちゃん、ソキ、よーぐるとが食べたい。あーんして? あーん、てしてくれたらぁ、ソキはいーっぱい、ごはん食べられる気がするです。いっぱい食べるの偉いです」
「ん。いいよ。偉いな、ソキ。……はい、あーん」
きゃぁあんロゼアちゃんがソキにあーんをしてくれたですううううあむっ、ともじもじきゃあきゃあしながらひたすら幸せそうに食べさせてもらって。ソキは普段よりずっとゆっくり、いつもよりほんのすこし多く、遅めの朝食を満喫した。
丁寧にやすりがかけられて磨かれた爪に、真珠の光沢が塗られて行く。ほんのすこし爪先を動かしただけで虹色のきらめきが光を乱反射するその色は、ソキがはじめてみたものだった。とっても綺麗です、とじぃっと塗られるのを見つめるソキに、柔らかな声が囁き落として行く。
「気に入った? まだ乾かないから、あんまり動かしちゃだめだぞ」
「はい。ソキ、ロゼアちゃんのいうこときける……とっても綺麗です。えへへ、ロゼアちゃん、このお色が好き?」
すっかりくつろいで体重をぜんぶロゼアに預けながら、ソキは視線を持ち上げてどきどきしながら問いかけた。うん、とどこか幼い仕草と笑みで頷いたロゼアは、爪化粧の小瓶の蓋を締め、膝上に乗るソキをやんわりと抱き寄せ直す。
「好きだよ。ソキの爪によく似合ってる」
「ふにゃぁあん……! ソキの手がぜぇんぶ、ロゼアちゃんのすきすきになったです……!」
嬉しいです、と頬を染めてぺとっと体をくっつけてくるソキは、じわじわと乾いて行く爪化粧を誇らしげに見つめた。色を乗せるにはちょっぴり短く整えられた爪だが、ソキがあっちへこっちへ歩いて移動する為に、それはもう仕方がないことである。転んだ時に万にひとつ、指先をひどく怪我することがあったら大変だからだ。『花嫁』の時は、だから、もうすこし爪も長いことが多かった。それでも、その時も。今も。爪をやすりで削って整えてくれたのは、ロゼアである。大丈夫だよ、ソキ。短くても変じゃないよ、大丈夫。微笑んで、囁かれて、ソキはじわじわ暖かい水が胸に染みてくるようで、それをこぼしてしまわないようにゆっくりと息をした。
爪化粧の前にてのひらと腕は丹念に触れられ、揉まれ、痛めたりこったりしている所がないか確認された後、肌をしっとりと滑らかにするクリームが塗られていた。それもソキには覚えのない新しいもので、塗られるとひんやりとした印象の、青葉を思わせる香りがたちのぼり、肌に染み込んで行った。『お屋敷』でも覚えのないにおいである。ロゼアが好き、と言ったそれを確かめたくて手首のにおいをすんすん、とかいでから、ソキはくんにゃりと首を傾げて瞬きをする。
「分からなくなっちゃったです……。ロゼアちゃん? ねえねえ?」
「ん? ヒヤシンスだよ。白いヒヤシンスのボディクリーム。ソキはお花の匂いがするな」
「お花のにおいがするです。ソキかわいい?」
あっ、また聞いちゃったですうううソキは聞くのが我慢できないです、とくちびるを尖らせてしょんぼりするソキを、ロゼアは膝の上でゆらゆらと揺らす。揺り籠じみた動きにきゅぅ、とご機嫌な笑い声が零れるのにほっとした様子で、ロゼアは顔をあげたソキの額に、己のそれをこつ、と重ね合わせた。しっかりと目を覗き込んで、囁きかける。
「かわいいよ。可愛い。……可愛い、可愛いソキ。お花さんだ」
「おはなさん? です? んと……ソキは、いま、ロゼアちゃんのすきすきな、おはなさん?」
「うん。俺の好きな可愛いお花さん」
そきー、とこころもちほわりとした声でやんわり抱き寄せられるのに、きゃあぁんいまソキはロゼアちゃんのこのみばっちりですきすきってことですうううぅ、と身をよじって喜んだ。にこにこしながら体をすり寄せ、ロゼアの腕の中へすっぽり収まってしまう。うっとり身を任せている間に、ロゼアの手が櫛を持ち、ゆっくりと丁寧にソキの髪を梳いて行く。すでにさらさらに梳かされていた髪はなにも引っかかることがなく、指の間をすり抜けていく砂のようだった。見ていると三つの束に分けられ、ロゼアは手早くそれを編んで行く。一本の三つ編みにされた先を、大ぶりの、白い花飾りのついた紐で結ばれる。八重咲きの芳しい花を模した飾りを、ソキは指先でちょいちょい、と突っついて目を瞬かせた。
「これも見たことない飾りです……。ん、んー……茉莉花? です?」
「そう。八重咲きの茉莉花、だよ。ソキはよく知ってるな。ちゃんと思い出せて偉いな」
「んん? ……今日のソキはもしかして、ぜぇんぶ新しいのです?」
くてん、と首を傾げて不思議がるソキに、ロゼアはゆるく笑みを深めるだけだった。ソキがいま着ているのは、朝食後に着替えた室内着である。一枚であれば透けるほど薄い、淡い碧の布を三重に重ねて作られたワンピース。袖と裾は長く、どちらにも白い極細の糸で編まれた花のレースが縫い付けられている。腰元から上に向かって編みあげられる紐は、ロゼアの手によって綺麗なちょうちょ結びにされていた。ソキ一人ではちゃんと着ることのできない、手間暇のかかる服である。ふわふわで滑らかな布を手で一撫でして、ソキは目をぱちぱちさせながらロゼアを見上げた。なにも言わずに微笑むロゼアに向かって、もう一度くてん、と首を傾げてみせる。
「ロゼアちゃ……ふきゃぁんやんやん、くすぐっちゃやぁあんっ」
「んー……ソキは新しいの好きだろ? お返事しような。好き? 新しいの嬉しい?」
「好きですすきですうぅきゃぁあんっ、きゃあぁああんっ、ロゼアちゃんがソキをこしょってするううぅうう」
耳の後ろや脇の下を指先でかしかし引っかかれて、ソキはきゃあきゃあ声をあげて身をよじる。くすぐられている間に、好きならいいだろ、と問いかけられて、ソキは懸命に頷いた。ん、と満足げに笑ったロゼアがぱっとばかりに手を離し、ぜい、ぜい、と息を整えるソキの背を、ぽんぽんと宥めて撫でて行く。
「好きならいいだろ。気にすることないよ、ソキ」
「は、はぅー……はうぅ……。分かったです……。ロゼアちゃんがソキをこしょってしたです。はうぅ……。うー、ロゼアちゃんがソキにいじわるさんをしたですので、ソキもロゼアちゃんにいじわるをするです! ソキ、ロゼアちゃんをこしょってする!」
「うん?」
きゃあきゃあ笑ってくたっとした体をロゼアに預けたまま、ソキはうぅんと腕を伸ばしてロゼアの顔に触った。耳元に手を伸ばし、指先でやわりやわりとくすぐってみる。く、と喉を震わせて、ロゼアは肩をすくめて淡く笑った。
「くすぐったいよ、ソキ。くすぐったいってば、ソキ。ソキ?」
「ふにゃうにゃう。ソキはロゼアちゃんにこしょってされたですからー、ロゼアちゃんのいうことが聞こえないことにす、る、で、すー! えいえい」
「あ、こら。……こーら、ソーキ」
ぎゅむり、と頭ごと肩に押さえ付けるように抱きしめ直されて、ソキはぷきゃんっ、と声をあげてくすぐりを中止した。ちたぱたたたっ、と腕を動かして動けないですうううと抗議しながら、ソキは動けないですのでロゼアちゃんにぎゅってしちゃうですっ、と抱きつきなおす。くすくす笑ったロゼアはそのままの体勢で後ろ向きに寝台に倒れ、ソキの体を上半身に乗っけるようにした。整えた髪を、指先がそっと撫でていく。ロゼアの呼吸に合わせて穏やかに上下する胸にぺとっと頬をつけて、ソキはゆったりと瞼を閉じた。ずっと一緒にくっついているから、どこもかしこもロゼアと同じ体温を灯している。ひとつになったみたいだった。幸せで息を吐きながら、ソキはすりすり頬を擦り付けた。
「ねえねえ、ロゼアちゃん。ソキ重たくないです? ソキねえ、じつは体重が増えたです」
「ん? 身長も伸びただろ?」
「そうなんですううう! ソキ、ひゃくよんじゅせんち! に! なったです!」
ぱっと顔をあげて満面の笑みになるソキの頬を、ロゼアの手が撫でて行く。うんまだもうすこし四捨五入しないといけないけどな、と苦笑されるのは聞かなかったことにして、ソキは機嫌良くロゼアの胸に伏せなおした。とくとく、心音がするのにうっとりと目を細める。
「ソキ、ロゼアちゃんがだぁいすきです……」
「うん。俺も好きだよ」
ほんのちょっとだけ。俺も、とかじゃなくて。ソキが好き、って言ったら、おかえしのようにそう言ってくれるんじゃなくて。なにも言わなくても、しなくても、ソキがそうしたくなって言いたくなってたまらなくなってそれを零してしまうように。そういう好きが欲しくて。そういう好きが聞きたい、と思ったのだけれど。ソキはふわふわと息を吐き出して、しょんぼりしかける気持ちを宥めてしまった。
「さて、と」
名残惜しそうな呟きで、ロゼアがころんと寝返りをした。一緒にころんと転がって、ソキとロゼアの位置が逆になる。寝台に横になったソキを撫でながら、ロゼアは起き上がってしまう。目をうるませてくちびるを尖らせ、ソキはロゼアの服をぎゅっと握りしめ、引っ張った。
「ロゼアちゃんどこへ行くの……? 今日はソキのお傍にいる、って言ってたです……だめです」
「うん? どこにも行かないよ、ソキ。もうちょっとお手入れしような」
「……だっこぉ」
服を握った手をそのままに要求すれば、ロゼアはふっと笑みを深め、ソキの腰を引き寄せて膝上へ乗せてくれた。すん、すん、と鼻を鳴らして体をすり付け、ソキはすぐ寂しくなっちゃうです、としょんぼりした声で反省する。
「ロゼアちゃんは今日はずっと、ずぅーっとソキと一緒です。お約束したです。でも、ソキはロゼアちゃんがどこかにご用事を済ませに行っちゃうのかと思ったです……。ねえねえロゼアちゃん。なにかご用事に行く時は、ソキも一緒に連れて行って欲しいです。だっこです……あ、あっ、だっこ、だっこはお邪魔になっちゃうかもですから……ソキはおててを繋ぐのでもいいです。ソキはちゃんと歩けますです。ロゼアちゃんはいつもソキをおいてっちゃうです……ソキはさびしいです。ソキ、ちゃぁんと、聞こえないふりも、できますですし、聞いてないのは得意なんですよ?」
「今日は俺はどこへも行かないよ。……いつもっていうのは、なに? なんのこと? 授業とか?」
「朝の……朝の運動ですとか。授業ですとか。授業の打ち合わせですとか、会議、ですとか……」
黒魔術師はその能力の性質上、殊更団体行動が多く組まれている。黒魔術師同士のみならず、白魔術師、占星術師と授業で行動を共にすることがあり、ナリアンやメーシャのみならず、様々な先輩と授業の打ち合わせやら、会議やら、反省やら改善やら指導やら、でよく談話室を連れ出されてしまうのだ。ソキはそれがじつはとっても不満だったのである。ううん、と微笑み、ロゼアはふくれたソキの頬を撫でる。
「ソキ。でもソキは、魔術の授業はお休みしてるだろ? 危ないよ。危ないのは、だめだろ」
「ソキはもうよくなったもん……。昨日のじゅぎょがお休みになったのはぁ、りょうちょのせいでぇ、ソキはいっこも悪くないんですよ? ソキは、もう、授業を、して、いい、ってことです。明日からは座学だって、一日、いっこ、は、やってみていい、て、言われたです。つまり、ソキはもう元気になったっていうことです」
「んー、んー……? ……じゃあ、座学が一日いくつ受けてもいいよ、って言われて。ウィッシュさまの実技授業もこなせるようになって。それで、ウィッシュさまがいいよ、って仰ったら、俺の打ち合わせとか会議に一緒に行こうな」
そんなの駄目に決まってるけどなんでそんなこと聞くの、とおっとり首を傾げるウィッシュに全否定される未来を知らず、ソキはきゃきゃあはしゃいではぁーいっ、と返事をした。これでロゼアちゃんとソキは一緒にいられるですうぅふにゃあぁああんえへへロゼアちゃんろぜあちゃん、とすりすり懐くとあまやかに抱き寄せられ、頭に頬がくっつけられる。はー、と満ちた息が吐き出されたのち、そーき、と優しい笑い声が耳元で囁いた。
「俺の可愛いお花さん。脚と、足のおていれしてもいい?」
「きゃぁああんロゼアちゃんがソキをかわいい。ていったあぁああああきゃぁんにゃんやん! はーいはぁーい! ソキはロゼアちゃんにおていれしてもらうぅー! ……う? ……あれ? あ、あれ? ああぁれ……?」
「ん。ソキはいいこだな」
あれ、たいへんです。ソキはききまちがえをしたです、とぷるぷる震えるソキを膝上から寝台へぽんと移動させて、ロゼアはにっこりと嬉しそうな笑みで頷いた。
「ソキは座ってるだけでいいからな。アスルをぎゅってしてもいいよ」
「……ロゼアちゃん? ソキ、ソキは、あし……あした! あした、の、おていれを、していい? って、お返事をしたです。明日、です! 足ないないです」
「だめ。足のおていれしような、ソキ。マッサージしてクリームぬって爪を短くするだけだよ。爪の色も塗ろうな」
お返事しただろ。だからだめ、とにこにこ笑うロゼアに、ソキはたいへんなことになったです、とぷるぷるしながら、差し出されたアスルをぎゅぅっとした。じつはロゼアにはひみつにしていることなのだが。ソキは脚に触られたりするのが、ちょっぴりではなく、ものすごくとてもとてもとても、すっごく。にがてできらいで、くすぐったいのである。