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 脚と、足のおていれそのものは『お屋敷』にいた時から、もちろんやっていることである。ほぼ歩くことをしない『花嫁』であるから、念入りに行われるのが常のことだった。おていれは基本的に『花嫁』の肌に直接触れて行うから、その役を『傍付き』が担うことがほとんどである。同性の『傍付き』であれ、異性の『傍付き』であれ、それはまったく同じことだった。それは愛情をこめて触ってもらえる、と実感できる時間のひとつで。丁寧に、ゆっくり触れて行く手が、自分の体を好みに作り替え整えていく至福に酔える、大切な時間ではあるのだが。ある時を境に、ソキはこと脚のおていれについては、ロゼアではなくメグミカにそれをお願いしていた。ぎゃんぎゃん泣いて暴れてめうちゃんじゃないとやぁあああっ、と希望した結果、ソキがどうしてもそうしたいのならいいよ、とロゼアから役目が移動になった為である。
 もちろん、長期休暇の間のおていれも、メグミカの手によるものである。『学園』に来てから長期休暇になるまでの期間は、ソキの恒常魔術が効いていた為に簡単な触診くらいで済んでいたことと、ロゼアがまだ学生生活に慣れていなかった為にそうきちんとおていれの時間が取れていなかったこと、他いくつかの要因が重なり、ソキがほぼ唯一、これはロゼアちゃんはいや、と言いだす機会は巡って来なかったのだが。ううううぅ、とぷるぷる震えながら、ソキはアスルをぎゅっと抱きつぶし、寝台の上でもそもそと座りなおした。入学してからあしのおていれ、をロゼアがするといいだしたことはなかったのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 ちなみに。ソキはあんまりにも嫌がるので、ぱっとできる触診と簡単な手入れだけを、これまでもロゼアはしていたのである。朝や夜の、ソキがふにゃふにゃに寝ぼけている時に。その時の会話や行動を、起きたあとはだいたい覚えていないことを熟知しているロゼアが、都度約束を取りつけて。おていれしようなすこしだけだよソキはいいこではいってお返事できるよな、はぁい、うんいいこいいこ、という具合に言質を取りつけ、なんとかこなしていたのだが。とん、とん、とん、と寝台の傍に引き寄せた小卓の上に並べられた、あし専用のお手入れ用品を見る分に、ロゼアはそれはもう徹底的に正式な手順と時間をかけて行う気のようだった。
 なぜか、心持ちふわふわにこにこ上機嫌な笑みになっているロゼアを、ソキはうらめしげにじぃ、と見上げた。
「ロゼアちゃん……ソキ、ソキは、くすぐったくてぱたぱたしちゃうですから、きっとロゼアちゃんは大変です。辞めるのがいいと思うです。アスルもきっとそう思ってるです。ねー、アスルー」
「うん。ぱたぱたしても大丈夫だよ。あんまりくすぐったくないようにそっとするから」
「あ、あれ。あれ……! えっと、えっとぉ……じゃあ、ソキはね。おあしを見せるの恥ずかしいです。だめです」
 よいしょ、よいしょ、と寝台の上に座りなおし、スカートの裾をくいっと引っ張って脚をぜんぶ隠してしまうソキに、ロゼアは微笑んで手を伸ばした。いっとううつくしく柔らかなものを愛でる仕草で、指先が頬をすぅっと撫でて行く。
「俺しかいないよ。ソキ、最近また歩いてるんだから、あしのお手入れはちゃんとしないと駄目だろ?」
「でも、でも、でもぉ……! ソキ、まだ大丈夫だと思うです。あし、いたくないです……」
「うん。本当に痛くないか確認しような。爪も短くしような。手とおんなじに、色も塗ればかわいいよ」
 塗ってもどのみち、そこが人目に触れる機会など夜の湯を使う時の他にありはしないのだが。かわいい、の言葉にソキはちょっとためらった。くちびるを尖らせて、頬を撫で続けるロゼアの、手首辺りを指先でつっつく。
「ロゼアちゃん。あの……あの、あのね、ソキね。ソキね、おあしね……」
「うん」
 ソキは何度もくちびるを開き、息を吸い込み、意味ある言葉を乗せてそれを吐きだそうとした。指先が冷えて強張って行く。うん、と微笑んで言葉を待つロゼアに、ソキは目をうるませて瞬きをする。
「……やっぱりロゼアちゃんには内緒です。ロゼアちゃんソキのこと嫌いになっちゃう」
「ならないよ。ならない。……おいで、ソキ」
 ひょい、と体が抱きあげられる。ぎゅ、とこころもち強く抱きしめられて、ソキはぴっとりロゼアに体をくっつけた。すん、すん、と鼻をすすって泣くのを我慢する。ロゼアは宥めるようにソキの背を撫でてくれていた。それにも、ソキはぞわりと体を震わせて、すん、と鼻をすすってしまう。触れられることが。どんなに気持ちいいのかソキは知っている。それを肌に刻み込む為に行われるのが閨教育だからだ。嫁いだ先で、なにをされるのか知っておくように。理解して行けるように。必要とあらば、それを自ら望むように。拒否する悲鳴ごと快楽に飲み込ませ、それを望むようになるまで、『花嫁』は『傍付き』の元にかえることを許されなかった。何度も何度もそれは繰り返された。
 ソキが。閨教育でなにをされていたのか、ロゼアは知らない。知らない筈だった。知っていて送り出したとはどうしても思えなかった。思いたくなかった。だからロゼアは知らない筈だ。背を撫でてくれる手は宥める為のもので。それだけで。決してこれからソキに触れてくれる、という訳では、ないのに。熱っぽい息を吐きだし、ソキはロゼアを見つめる。
「ロゼアちゃん……」
「うん?」
「ソキに、触るの……? ねえ、ねえ……さわる?」
 額に、頬に、首筋に押し当てられるてのひらに、体の奥まで甘くしびれる。くちびるをきゅぅっと噛んで、ソキはそれをやり過ごそうとした。覗き込むロゼアの瞳に、宿る熱はない。一瞬に冷えた刃のような意思は丁寧に隠され、ソキに分かるものではなかった。ロゼアの両手がソキの頬を包み込む。どこかぎこちなく。教えられた通りに、そうせざるを得ないような。そうしなければならない、と思い込んでいるような、頑なな、ぎこちない動きで。ロゼアはソキにそっと身を寄せ、額を重ねて肌をすり合わせた。
「触ってる、だろ」
「……そうなんですけどぉ」
「ソキ、ソキ。……ソキ。大丈夫だからな、ソキ」
 ぱちりと瞬きをして、ソキは首を傾げてみせた。なぁに、とふわふわ響く問いかけに、ロゼアはくすぐったそうに笑う。そのあまやかな『花嫁』のささやきが、肌に触れるほど、近くにあることを。心からの幸福として満たされているような、ほっとした笑みだった。ぎゅう、と。ソキが一瞬、びっくりして目を見開く程の、それでいて決して痛みを与えない力加減で抱き寄せ直して。ロゼアはぽんぽん、とソキの背をてのひらで撫でた。
「ゆっくり、そーっとするからな、ソキ」
「あれ。……あれ、あれ。ロゼアちゃんが諦めていなかったです……あれ、あれ……!」
「うん。はい、アスル」
 上機嫌なロゼアにアスルを差し出され、ソキはくちびるを尖らせながらぎゅむりと抱きつぶした。ふわふわした笑みでそっとソキを寝台に座り直させる、ロゼアの離れていく指先をじぃ、と見つめて。ソキはぷーぷぷぷ、と改めて頬をふくらませた。
「げせぬ、です……。ソキのゆうわくがロゼアちゃにはきかないです……これはゆゆしきじたいです……でも昔からろぜあちゃはゆーわくできなかったきがするですのでもしかしてもしかしてなんですけどそきのみりょくが、みりょくが、たりないのかもしれません……!」
「ん? ソキ、なあに?」
「たいへんです、ろぜあちゃん。ソキねえ、もしかしてもしかしてなんですけど、もしかして、なんですけどぉ……! 魅力が、足りない、のかも知れません……! たいへんなことです。ロゼアちゃんはもっと! もっとですよ? もっと、もっと、いっぱい、たくさん、ソキをロゼアちゃんのすきすきにして、ソキをロゼアちゃんのみりょくてき! にしないといけないです。いけないんですよ? ソキはしないと、だめ、っていってます。わかったぁ? 分かったら、ロゼアちゃんはソキにいっぱい手間暇をかけるです。でもあしはやんやんです。わかった?」
 アスルに頬をぺたっとくっつけながら首を傾げるソキに、ロゼアは満ちた笑みでゆっくりと頷いてくれた。
「わかったよ、ソキ。じゃあ、はい。あしのおていれしよな」
「……びゃああああっ! やんやんちっとも分かってないですうううう」
「ソキ、ソキ。そーき。そんなにぱたぱたしたら脚が見えちゃうだろ? いいの? ソキがいいなら、俺はいいよ。誰も来ないし」
 やぁあんやぁんっと脚をぱたぱたしてむずがって、ソキはスカートの裾をいっしょうけんめい元通りにした。室内着の柔らかな薄布は、幾重にも重なり、体の線に沿って流れている。その布の上から、ロゼアの手がソキのふとももに触れた。じわ、と布から体温が染み込んできて、ソキの肌に触れて行く。なぜかたまらなく恥ずかしくて。こそばゆくて。じわ、と涙ぐんでアスルに顔を擦りつけ、ソキはふるふると体を震わせた。
「くす、ぐったい、です……。ソキ、おあしがくすぐたいです……」
「ゆっくりするよ。くすぐらないようにする。……ソキ、ソキ。大丈夫だよ。怖くないよ」
「ロゼアちゃんはどうしてもソキのおあしの、おていれ、がしたいです……。しょうがないですので、ソキがまんするです……。ソキえらい? かわいい? ロゼアちゃんは、ソキをたくさん褒めないといけないです……」
 ぽん、ぽん、と背を撫でる時のように、ロゼアのてのひらが脚に触れている。視線はまだ涙ぐんでくちびるを尖らせるソキのことを、柔らかに見つめていた。えらいな、とソキがなにより好きな、ロゼアの優しい声が告げる。
「俺の言うことをちゃんと聞けて、ソキは本当に偉いな。かわいい。かわいい、かわいい……かわいいソキ。ソキ、そーき、ほら。くすぐったくないだろ? 大丈夫、大丈夫」
「んー。んー……やー、ぁー、うー……。うゆ……。ロゼアちゃん、もうおしまい? おわり?」
「まーだ。んー……ソキは全部かわいいけど、あしもかわいいよ。太股も、膝も、脛も、かかとも、足の甲も、ゆびも。爪もかわいい。全部かわいい。ちっちゃい足かわいい……。……ん、痛くはしてないな。よかった。ソキ? ……ソキ、ソキ。かわいい、かわいいソキ。かわいいから、あしは見せるのやめような。長いスカートちゃんとはいて、座ってる時は脚をぱたぱたしないでいような」
 短いスカートとかズボンなどもってのほかだソキの脚が見えるだろ、というような笑顔でロゼアが囁くのに、ソキはうーうー呻きながらこくりと頷いた。話の内容は殆ど聞いていない。ロゼアの手が、指が、ソキの脚をあんまり大事そうにそぅっとそぅっと触れて撫でているので、ぞわぞわするのをやりすごすのでせいいっぱいだからである。はう、はうぅ、と震えて息を吸い込みながら、ソキは足元に跪き、左足を両手で包みこんでなでこなでこしているロゼアに、幾分拗ねた気持ちで問いかけた。
「ろぜあちゃ……もうおわり? おしまいです……?」
「ん? これからマッサージだろ? まだしてないよ」
「うゆううぅううう……! ふにゃぁああんっ、やあぁあああんソキ気がついちゃったですけどおおお……まっさじ、は、ロゼアちゃんもしかしてソキのおあしにじかにさわるぅ……! これはたいへんなことです……! た、たいへんですたいへ、きゅ……きゅぅ……」
 にこにこ笑ったロゼアが、ソキを見つめながら足首周りの肌を指先でするりと撫でる。かかとを手で包まれたまま、指でゆっくりと肌をなぞられて、ソキはふるふるふるふる体を震わせた。アスルをぎゅむぎゅむ抱きつぶすソキに、ロゼアがやんわりとした声で問いかける。
「くすぐったくないだろ? ソキ。……怖くない、怖くない。な?」
「うやぁああああ、ソキ、ろぜあちゃに触ってほしくなっちゃうですううう……! ろぜあちゃ、ソキにさわる? さわる? ねえねえさわるうううっ?」
 さわってさわってねえねえさわってええええ、と脚をちたぱたさせてむずがるソキに、ロゼアはゆっくり深呼吸をして。ふ、と笑みを深め、体を伸びあがらせて額をこつんと重ね合わせた。すり、と擦り合わせてから、目を閉じてロゼアは囁く。ぎゅぅと目を閉じて、くちびるを震わせるソキの耳元で。あまく、あまく、優しい声で。
「さわってるだろ、ソキ。……さわるだろ?」
「やんやんロゼアちゃんはちっとも分かってないですううううう!」
 きっとソキのみりょくがたりないですそうなんですうううう、とばたばた暴れるソキに、ロゼアは両腕を伸ばして。ぎゅぅ、とソキのやわい体を抱きしめた。分かってるよ、とも。分からないよ、とも言わず。その言葉を、欲を。求めることを。許されず、全て、奪われ、立ち尽くすように。



 それでねでもねろぜあちゃはソキにぜぇんぜんさわってくれなかったですけどいっぱいなでなでしてぎゅってしてなでなでしてだっこしてぎゅぅをいいいっぱいしてくれたですからソキは満足だったですはうー、とほわんほわんした声でめいっぱい主張し終わる間に、食堂のそこかしこからむせて咳き込む音がたくさん響いてきたが、特に意に介すものではなかったので、『花嫁』の視線がそちらへ向けられることはなかった。ソキは一心に、昨夜ぶりのナリアンを見つめておしゃべりするので忙しかったのである。ロゼアやっぱり性欲ないんじゃねーの、と呆れかえった寮長の呻きなどさらに聞こえなかったのである。
 一日、ニーアと戯れていたのだというナリアンからは、きよらかに甘い花の香りがした。ソキの妖精が与えた祝福の香とは、また違うものである。違うけど、でもナリアンくんにはぴったりです、と思いながら、ソキは頭を抱え込んで食堂の机に突っ伏し、ちっとも動かなくなったナリアンの服の裾を引っ張った。
「ねえ、ねえ? ナリアンくん。どうしたんです? 頭が痛いです? ソキ、保健室に行くのを応援する?」
『俺のかわいいかわいい妹がかわいいかわいい妹があああソキちゃんは穢れを知らない天使だから俺がいま聞いたのは全部ゆめぜんぶゆめ全部夢幻諸行無常! ……え? えー、あー、俺は大丈夫頭痛くなんてないよ。ソキちゃん、じつは保健室嫌いだよね』
 死んだ目をしぱしぱ瞬きさせながら体を起こしたナリアンに、ソキはそうなんですよ、となぜか胸を張った。
「ソキはおくすり飲むの嫌いですから、お医者様のお部屋とか、保健室とかやんやんなんですよ。保健室はお昼寝しに行くのは気持ちいいんですけど、ロゼアちゃんが保健室でお昼寝はめ、て言ったからソキはちゃあぁんとロゼアちゃんとソキのお部屋に戻ってお昼寝のできるいいこです。えへへん。時々談話室の隅っことかで寝ちゃうですけど、あれは、あれはぁ……んと……あんまり眠たいせいでソキのせいじゃないです」
『談話室でも、ロゼアが一緒なら大丈夫なんじゃなかったっけ?』
「ソキ、ロゼアちゃんのだっことぎゅぅで眠るのが一番いちばん! だぁいすきですうううきゃあぁああんやんやん!」
 ソキは今日めいっぱいロゼアちゃんのすきすきにしてもらったのでこれで今夜はロゼアちゃんはソキをかわいいかわいいしてだっこしてぎゅぅして眠ってくれるに違いないですうううう、と頬を両手で挟み、身をよじって照れながらはしゃぐソキに、ナリアンはほのぼのと笑みを深めてみせた。
『ソキちゃんは昨日はどうやって眠ったの?』
「昨日です? 昨日はー、ロゼアちゃんに、だっこしてぎゅってしておやすみ。してもらったです」
『……今日となにか違うの?』
 素朴な疑問に、ソキは目をぱちくりさせてくんにゃりと首を傾げてみせた。
「あれ? ……あれ、あれ? んと、んと、あれ……? あれ、あれ、もしかして、昨日もソキはロゼアちゃんのすきすきだったです……? でも、でも、昨日より今日の方がソキはロゼアちゃんのすきすきの筈です……! 昨日と同じじゃないです昨日よりもいっぱい、いっぱい、ソキはロゼアちゃんのすきすきです……! おんなじだったら、これは、これはたいへんなこと、です……!」
『え、えええぇえ……。ちが……違うよ、ソキちゃん? そうじゃないよ。ロゼアは、毎日、ソキちゃんが好きだっていうことだよ。昨日も、今日も。これからも。これまでも、ずーっと。ロゼアはソキちゃんが大好きなんだよ』
「……一昨日のソキは、ロゼアちゃんのかわいい。だったですけど。ロゼアちゃんのすきじゃなかったです。たいへんなことだったです……もし、もしかしたら、ロゼアちゃんのかわいい、でも、なかったのかも、しれない、です……。ソキはまちがえちゃったです……」
 しょんぼりしきって呟くソキに、ナリアンがそっと笑みを深める。言葉で否定することなくナリアンはソキに手を伸ばして髪を撫で、さらさらだね、と褒めてから、戻ってきたメーシャとロゼアにおかえり、と言った。ただいま、と返しながらソキの分の夕食を木盆の上に並べているロゼアに向かって、ナリアンはゆっくり、息を吸い込んで囁いた。
「ロゼア。夕食終わったら話がある。十分くらい」
「今日?」
『うん』
 嫌なら、とナリアンは目を細めて笑った。すこしばかり怒っているようだった。
『なにが嫌、って。ちゃんと言えばよかったんだよ。たとえば、俺は、ニーアがリボンさんにちやほやされてたとしても、ニーアよかったねリボンさんのこと好きだもんね、くらいにしか思わないけど。ロゼアがそうじゃないなら、それは、話してあげなきゃ。ソキちゃんには分からないよ』
「……ナリアン」
『じゃないと、ソキちゃんは、ロゼアが自分のことを好きな時と好きじゃない時がある、っていうよく分からない勘違いを……もう、しちゃってるみたいだから、なんとか訂正してあげないと。それをこれからずーっと怖がって、悲しくて、落ち込んで、どうしよう、って焦っちゃうよ。……まあ、エノーラさんは、うん。エノーラさんは。うん。あの。その。俺から見ても特殊事情に該当する先輩だったとは思うから、あれはあれでいいと俺も思うんだけどね……? でも、ソキちゃんがロゼアの為にめいっぱい可愛くしたかったっていう気持ちは、嫌だったんじゃないでしょう?』
 ねえロゼア、とソキが会話に興味を持たないように頬を撫でてきゃっきゃはしゃがせている友人に、ナリアンは仕方がないなぁと苦笑しながら語りかける。
『ロゼア。そんなに怖がらなくても、ソキちゃんはロゼアの所へ戻ってくるよ』
「……どこにも行けないで、行かないで、ロゼアの傍にいるより。どこにでも行けるけど、どこにだって行くけど、絶対にロゼアの傍にいるし、ロゼアの所へ戻る方が、俺は嬉しいし、安心できると思うな。……まあ、言葉だけだと不安だよね」
 だからさ、とメーシャはにっこり笑い、ナリアンの肩をぽんと叩いて気持ちを宥めながら、その想いを引き継いだ。
「夕食が終わったら、俺がロゼアにちょっとだけ魔法をかけてあげる」
「え。メーシャくん、あれ? あれやるの?」
「うん。あれやってみよう」
 あれかぁ、うまく行くといいよね、と分かち合っているナリアンとメーシャを、ロゼアは微妙に嫌そう、かつやや反省しているような眼差しで眺めやり。無言でソキを膝上に乗っけると、ぎゅぅ、と抱いて溜息をついた。



 もおおおおソキはどうしてこんなことしなきゃいけないですかあぁああもおおおお、あっ本棚の整理がやって言ってる訳じゃないんですよソキはちゃぁんとお手伝いだってできるですよソキねえ御本を並べるの得意なんです、んしょ、んしょ、と言いながらけんめいに談話室の壁際、雑多に積みあげられた本を持ち、決められた棚に戻すことを繰り返すソキをほのぼのと眺める視線があった。一応、ソキの保護監督役と命ぜられたルルクと、本棚の管理担当ハリアスである。ハリアスは時々、これはどの棚の本なのかわからなくなちゃたです、だからこれはここでいいです、えいえい、と適当に戻そうとするソキに声をかけては、それはそこ、そっちはここ、と指示を出して正しい収納を助ける役だった。
 普段ならばハリアスが作業をするので、集中して三十分もあれば終わる作業であるのだが。一回に二冊、多くて三冊しか腕に抱えこめないソキがちまちまとこなしているせいで、同じ時間を過ぎても半分も消化できた気配がしなかった。寮長の決定に異を唱える訳ではありませんが、とハリアスは気真面目な顔つきで息を吐き、頬に手をそえて溜息をつく。
「もうそろそろ、ソキちゃんは眠る時間ではなかったでしょうか……。どう思われますか? ルルク先輩」
「ちょっと待って私いまハリアスが、あの真面目ちゃん頑張りっこなハリアスが私に意見を求めてきた感動に震えるので忙しいから……! わー、わぁー……! えー、嬉しい。ハリアス、成長したね……! いいこ、いいこ。うわああああお姉さんちょう嬉しいな……!」
 ちょっと、と照れと怒りの混じった表情で眉を寄せるハリアスに、ルルクは両腕を伸ばしてぎゅっと抱きしめた。ちょっとっ、とさらに声が上がるのを完璧に無視して、ルルクは満面の笑みで後輩の顔を覗き込む。
「よかったー……! ハリアス、最近はずーっと緊張してたのも和らいでたし、余暇も勉強だけじゃなくて色々でかけるようになってたじゃない? あの女たらし……じゃない間違えた。えっと、メーシャくんもいい感じに良いこともするな、とは思ってたんだけど。わー、ハリアス、えらいえらい! そうだよ。自分だけで抱え込まないで、頑張らないで、もっと私たちを頼っていいんだよ。わー、嬉しいからもっとぎゅってしちゃおう。ねー! みんなー! ちょっと聞いてー! ハリアスがねー!」
「や、やめてください先輩……! それに、メーシャは別に……!」
「うん、うん。そうだよね! たらしこんだのはハリアスだけだもんね!」
 師弟で顔が良いからと思ってまったく、と低く呪うような声で呻いたルルクに、ハリアスは逆に心配そうに、なにか嫌なことでもあったんですか、と問いかけた。ルルクは震えながら、私の夢と浪漫があの男に何回も邪魔されたような記憶がないけどそんな気がするのよあの男と意見があったのはミニスカートと絶対領域の素晴らしさについてだけなんだからっ、と拳を握る。ハリアスが心から、尋ねるのではなかった、という微笑みで沈黙するのに、本を棚に戻し終えたソキはくるんと振り返る。
「んもおおおお! ソキはいっしょけんめ御本を戻してるですのにいいい!」
「あ、ごめん。ソキちゃん、がんばれー。反省札がある間は奉仕活動がんばれー」
「はうううう……。ううぅ、ソキは悪くないです。悪いのはぜんぶりょうちょです……」
 すん、すん、すん、と鼻をすすってくちびるを尖らせ、ソキはしろうさぎさんリュックに付けられた反省札を引っ張った。しかしやっぱり取れないので、ソキはふぎゃあぁあああんっ、と不機嫌極まりない猫のような声でじたばたと暴れたのち、よち、よち、と本が積みあげられた一角へ戻っていく。時々立ち止まって目をこすっているので、ハリアスの言う通りにそろそろ眠る時間なのだろう。ううん、と考え込んで、ルルクは談話室を振り返った。夕食を済ませ、あとは眠りにつくばかりの時間帯のことである。室内はいつもの通りに穏やかだったが、それとは別に、好奇心と興味に満ちたわくわくするような気配が一角に満ちていた。
 その気配の中心。ルルクが一回くらい足をひっかけて顔から転ばせたい筆頭メーシャと、二番手のロゼアとナリアンが並んで立っている。メーシャはしきりにバインダーと談話室を見比べながら首を傾げ、しぶい顔をしているロゼアにナリアンがあれこれと話しかけているようだった。ソキが本棚整理を命じられてからだから、かれこれ三十分はああしている計算になる。なにをしているんだか、とルルクが呆れ顔で息を吐いた時だった。よし、とやや緊張した様子でバインダーから視線を持ち上げたメーシャが、にこっと綺麗な笑みでロゼアに囁きかけるのが見えた。
「もういいよ、ロゼア。はい、どうぞ」
「……なんで腕を掴んでるんだよ、メーシャ。ナリアンも」
『ごめんねロゼア……。でもロゼアが動くと感動が半減するんじゃないかなって』
 じゃあなんで視線を反らして笑ってるんだよ、とぶすくれたロゼアの呻きが微かに空気を揺らして届く。ルルクは首を傾げ、男子っていつまで経ってもこどもなんだから、と呟いた。はー、と諦めきったロゼアが息を吐く。
「ソキー」
「ふにゃぁ!」
 春色の。桜と桃と薄くれないの入り混じった、ふわんほわんの嬉しそうな声で、ソキがぴょこんっと背後を振りむく。そわそわそわそわ左右を見回し、本を棚に置いて、ソキがきらきらの目で離れた場所に立つロゼアを見つめた。
「呼んだです? いま、ソキのことを呼んだです……?」
「ソキー。ソキ、ソキ。こっちにおいで」
「きゃあぁあああん! ロゼアちゃんがソキのことを呼んでるううううきゃぁああん!」
 よちよちてちちっ、とソキはロゼアをまっすぐに見つめて歩き出した。ああぁああっ、と不安げな声をあげたナリアンが、ロゼアの腕をがっちり掴んだままで大きく息を吸い込む。
「風よ! ……あー、ああ。ええっと……! 『風よ。俺の言葉を聞きとどけ……、違う。っと……風よ。万物と共に世界を巡る者よ。俺の魔力を乗せ踊る者に、願いをもって囁きかける! 彼の者の歩みを助け、決して怪我などさせないでくださいお願いします……!』」
 おい途中から詠唱じゃなくて懇願になってるぞ、という寮長からの突っ込みを、ナリアンは視線すら向けずに無視した。きゃぁんきゃぁんやんやん、とはしゃいでけんめいに歩いているソキは、いまひとつ、そのやりとりにも気が付いていない。ん、と満足げに頷いたメーシャが、筆記具でバインダーに挟んだ紙になにかを書きつけていた。ソキはててち、てっち、てって、よち、よち、談話室を移動しながらロゼアに両腕を伸ばした。
「ろぜあちゃがソキを呼んだですううううきゃぁあんきゃぁん!」
「ソキ。ソキ……!」
「きゃあぁああああんロゼアちゃんろぜあちゃあぁあ! ろぜあちゃがソキを! そきを! 呼んでるうううきゃぁあんきゃぁん!」
 よちよちててて、とけんめいにロゼアに向かって歩いて行く。もうすこし。ソキ、とほっとした声で腕を広げてくれるロゼアに、ソキはきゃあぁああっと大はしゃぎしながらどんっとぶつかった。その勢いのまま、体をこすりつけてぎゅうううっと抱きつく。
「ロゼアちゃんロゼアちゃん! はうーはううぅふにゃああぁああきゃあああぁああああ!」
『……あ。ロゼアが感動して声出せなくなってる』
「ね、ロゼア。来てくれるのもいいものだよ?」
 ほ、と緊張を解いた笑顔でメーシャが問うのに、ロゼアはどこか幼い仕草でこく、と頷いて。腹に顔をこすりつけて甘えるソキを、ぎゅ、と抱き寄せて息を吐いた。『傍付き』は『花嫁』を呼ぶことがない。『花嫁』は歩かせてはいけないからだ。ほぅ、と満ちた息でロゼアは囁く。
「ソキ。……ソキ」
「きゅぅ……! はい、はい。なんですか? ロゼアちゃん」
 はうー、はうー、と頬をくしくし擦りつけながら上機嫌極まりない笑顔で首を傾げるソキに、ロゼアは言葉に迷った様子で何度か息を吸い込み。やがて、ひょい、と抱きあげ、その腕にソキを抱きなおした。
「なんでもないよ。呼んだだけ」
「呼んだだけ、です? ……ロゼアちゃんが、ソキに、呼んだだけ、を、したぁ……!」
「うん。……はー、ソキ。ソキ、ソキ。そきー」
 あ、珍しい。ロゼアが分かるくらいかわいい漏れしてる、と呟くナリアンに、メーシャは口元を手で押さえて肩を震わせて。
「ね? ロゼア、分かりやすくなっただろ?」
 さらさらと紙に文字を書き込み、ぱたん、とバインダーを二つに閉じた。

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