よち、よち、てち。よち、よち、よち、と歩いて、ソキは額をこしごしと手で拭い、自慢げに胸を張ってみせた。
「ね、ね? ソキ、歩くのが昨日より上手になったです!」
「え、ええぇ、えええええぇええええ……」
それに対して呻き声をあげたのは、砂漠の国の白魔法使い。日中は主にラティとの交代制で、砂漠の王の最傍に控える近従魔術師の一人である。常ならばその役は王宮魔術師のまとめ役、筆頭、と呼ばれる者が担うのだが。その筆頭が一年に数日、帰ってくるか帰って来ないか分からない任務の最中であり、もしかして非実在なのではと囁かれる砂漠の王宮では、物理と魔術を極めた二人に託されることが多かった。ソキも、長期休暇が終わって二週間に一度呼び出される砂漠の王との面談の場で、顔を合わせるのはその二人と、王たる男に限られていた。
白魔法使いは頭を抱え、よちよち、とまた歩き出して、今度はなにもない所でつんのめり、びたんっ、と思い切り転んだソキをしばらく眺めたあと、傍らの主君に灰色の視線を流してみた。
「上手になってるんだ……。ど……どうされますか陛下」
「ロゼアを呼び出して事情聴取」
「陛下はすぐにそうやってロゼアちゃんを呼び出すです! いけないと思うです!」
なんでですかっ、ソキは昨日よりこんなにこんなに上手に歩けてるです、ほらぁほらぁちゃぁんと見ていなくちゃだめなんですよおぉっ、と癇癪を起こす寸前の声で叫んだソキが、二人分の視線の先でもちゃもちゃと立ち上がる。ん、しょ、と慎重に足が踏み出された。よち、よち、てちっ、ふららっ、やん、てち、てち、よち、と部屋の右から左へ歩いて行くのを眺め、砂漠の王はなまぬるい笑みで頷いてやった。
「長期休暇中の方がまだ歩けてたし、休暇明けの面談のがちゃんと歩いてたし、俺の目から見るとじりじり悪化してるんだけどな?」
「陛下はなにか思い違いをしているです。そうに決まっています。たいへんなことです!」
言うなり、またびたんっ、と転んだソキにフィオーレが駆け寄って行く。赤くなった額や鼻、顎、腕や足を癒して行くのを眠たげな眼差しで見守り、砂漠の王はふぁ、とあくびをした。
「俺は前回の面談でも、いいからソキを歩かせろ、ってロゼアに言ってあるんだよ。アイツ、王命無視してんじゃねぇだろうな……」
「……ぴゃ! ソキがだっこ、ってお願いしてもロゼアちゃんがあるこな? って時々いうのは陛下のせいでした……! 陛下が、陛下がソキからロゼアちゃんをとったぁ……陛下じゃだめです……。ソキが頑張っても陛下の方が偉いですからロゼアちゃんを取られちゃう……」
「いや、俺のハレムに男はいないから。そういう勘違いはやめような?」
俺がロゼアをすごい気に入ってるように思われるだろうが、と本気で嫌そうな砂漠の王に、ソキはちらりと拗ねた視線を向け、すんすんと鼻をすすってくちびるを尖らせる。
「ソキはちゃぁんと知ってるです。好きな人をいじめるすきすきも世の中にはあるです。陛下がそれだったら……!」
「だっ、だいじょうぶだよ、ソキ? 陛下は、俺の陛下は基本的に異性愛の人だから……!」
「お前とりあえず笑いの発作を引っ込めてから主君の擁護をしろ? な? その方が説得力あると思うだろ?」
ひいいいだめごめんなさい俺の腹筋が限界を超えてる、とふるふる体を震わせて、時々へぶっ、と耐えきれない笑いを零して。白魔法使いは青ざめるソキを、ぽん、と撫でて囁きかける。
「大丈夫。陛下いま、わりと一人に御執心だから」
「……ロゼアちゃんじゃない?」
「うん。大丈夫。ハレムにいる美人さんだよ。ソキも会ったことあるよ」
こそこそ耳元に囁かれる言葉に、ソキはきゃぁっと頬を染めて目を輝かせた。口元に指先をあて、そわそわと視線を彷徨わせながら記憶を辿り、こしょりとフィオーレに囁き返す。
「アイシェさん、です? アイシェさんはとっても美人で、きれいで、やさしいお姉さんでした……!」
「そう、そう。アイシェさま。今日もねー、陛下ったらハレムから朝帰りで寝不足なんだよ……!」
「きゃぁああん!」
頬に両手をあててやんやん身をよじり、ソキはきらきらした目で王を見る。砂漠の民の敬愛を一身に受ける男は、鳥の巣のようなクッションの溜まり場の中心で、頭を抱えて動かなくなっていた。その近くまで、よち、よち、よち、と歩み寄り、ソキはクッションに両手の指をそえて、王の顔をきらきら覗き込んだ。
「陛下……! 好きな人が出来たです……! ソキは心からお喜び申し上げます……!」
「……待て。まあ、待て。俺がアイシェを好きかどうかについては諸説別れる所ではあるんだがおいフィオーレ笑うな吹き出すな……! ……その、だな、ソキ? 俺はなにも、あれが気に入りだと言ってはいないし、好きだとかそういうのも、だな」
「陛下いけないです。朝までお泊まりできもちいことしたのに、好きでお気に入りじゃないなんてだめです」
真面目な顔でめっ、と叱りつけたソキに砂漠の王が明後日の方向へ視線を流し、フィオーレが口元を手で押さえながらも笑いに吹き出してその場にうずくまった。ひいいいいうけるマジうけるげふげふごほっ、ひいいいい、と奇声を発しながら笑い転げる白魔法使いに、お前あとで覚えとけよ本当、と苛々した微笑みを向けた後。砂漠の王はぎこちない動きで、ソキと目を合わせてくれた。
「お前……一応聞くけどな……。俺が朝までハレムでなにしたと思ってんだ……?」
「陛下はアイシェさんに触ってきもちいことしたんじゃないです? ……え? 朝まで一緒に眠っただけです……? そんなのかわいそうです……アイシェさんはきっと陛下にとっても触ってもらいたかったに違いないです……! 陛下はとってもひどいことをしたです……?」
「ろっ……ろぜあああああ……!」
時折、寮長などがするように。頭を抱えてロゼアの名を叫んで砂漠の王が呻くので。ソキはもー、とぷくぷく頬を膨らませ、ちょこん、と首を傾げてみせた。
「陛下はもしかしてソキがなぁんにも知らないと思ってるです? ソキはちゃんと、なにをされるのかぜぇんぶ知ってるですし、どうしてもらうのがきもちいのかとか、どうしてもらえばいいのかとか、ちゃぁんと教わったんですよ? ソキは一人前の『花嫁』です。……んと。だった、です」
「そうだった……コイツ性教育ちゃんとしてた……」
「それで、陛下? お泊まりしたのに、ぎゅってして寝るだけだったです? そんなのしょんぼりしちゃうです……」
他の者であるなら、お前王の私生活をあれこれ詮索するな放っておけ、と叱っておくことではあるのだが。砂漠の王はやや苦笑いをしながらもソキに手を伸ばし、綺麗に編み込まれた髪を乱さない程度、その頭を手で撫でてやった。
「した。から、落ち込むことないだろ……?」
「それならよかったです。……陛下? 陛下、ねえねえ。ソキはちょっとお願いがあります」
撫でる手にじゃれつくように触れ、きゅぅと握り締めながら。ソキはちょっぴり甘えた『花嫁』の顔で、この国の王たる男に囁きかける。
「ソキはアイシェさんにお会いしたいです。ソキをハレムに連れてって下さいです」
「……あぁ?」
「えっと、手土産は……ソキはいま、ナリアンくんにもらったおやつクッキーがあるですから……それでもいいかなぁ……。今日の髪はロゼアちゃんが編んでくれたですし、お服もちゃぁんと可愛い外出着、です! おていれもいっぱいしてもらったですから、きれいですし、いいにおいもするですし。陛下、クッキーのどくみは誰に頼めばいいです……?」
そういう問題じゃない上にしまったコイツ話通じねぇ、と天を仰ぐ王の傍らに、げふけほ咳き込みながらも復活した白魔法使いが歩み寄り、ううんと眉を寄せて悩むソキに尋ねかける。
「会いたいの? なんで? ……陛下の寵愛を争うとか勘違いされると困るから、ソキはあんまりハレム行かない方がいいんじゃないかなぁと俺は思うんだけど。会いたいならお呼び出しをお願いした方がいいと思うよ。それで、アイシェさまが来られるまでそわそわする陛下を見て、俺と一緒にニヤニヤしよう?」
「あ。陛下の寵愛とかそゆのはソキいらないです」
服に落ちてきた枯れ葉を摘んで捨てるかのごとく。ぺいっ、となんの未練も感情も覚えていない声で切り捨てたソキに、砂漠の王はやさしい微笑みでクッションの山へ体を埋めてみせた。
「お前ら……俺が目の前にいるという事実認識をしっかりしてから発言しろよ……?」
「あ。大丈夫です。陛下も、ロゼアちゃんにそっくりで、ソキはとっても格好いいと思っているです。ロゼアちゃんみたいで、ソキはとってもどきどきしますです。ね、ね? 陛下も素敵ですううやんうゃん! 陛下がソキのほっぺをむにむにするぅ……!」
「男の褒め方とかも教わってる筈だろうが『砂漠の花嫁』……それを思い直してもっかいやってみ? な?」
いやぁいやあ陛下がソキをものすごくいじめるですうううこれは重大な問題ですうううっ、とソキがじたばた暴れるのを気にした風もなく。砂漠の王はソキの頬を両手で包み、ふにふにむにむに押しつぶして遊んでいる。ぎゅうぅっと力いっぱい目を閉じて本当に嫌そうに身をよじりながら、ソキは指先でぺっちぺっち王の手首辺りをけんめいに叩き、んー、んーっと半泣きの声でなんでですかぁっ、と訴えた。
「確かに教わったのとはちょっぴり、ちょっぴりですよ? 違うですけど、ソキは陛下を一番に褒めたです。嘘じゃなくて本当に一番に褒めたです……! 陛下はロゼアちゃんに似ててとってもとっても格好いいですびゃああああああああソキの頬摘んだですううう引っ張ったですううううびゃあああああ!」
「ねー、ねー、へいかー。俺もしかしなくてもソキの褒め言葉最上級が、ロゼアに似てる、だと思うからさー。そゆふにちっちゃいこをいじめるのはさー、どうかとおもうんだよねー」
「ちっちゃくねぇよソキがちっちゃいのは身長と体の作りと精神面であってコイツはいま確か十四だろうがよ……!」
お前ほんと十歳前後から精神的な成長がミリ単位で感じられねぇななんでだ、と呻く砂漠の王の傍らで、白魔法使いが違和感を覚えて眉を寄せた。それは、あの誘拐事件からソキを知っているからこその王の言葉だ。フィオーレもそうであるので、特に反論をしようと思った訳ではない。けれども言葉が。妙に引っかかって離れて行かない。ぞわぞわと背骨を這いあがる予感が口元まで達するより早く、響いたソキの声が白魔法使いの耳を塞いで行く。
「そうです、ソキはもう十四です! もうあと一年で大人になる淑女の頬を引っ張るのは王としていけないと思いますぅ……うやぁあああ! 陛下が頬を潰して遊ぶううううう! ソキはなんだかいじめられてるうううう!」
「お前の頬さわり心地が良いんだよ。……はいはい、淑女淑女。淑女ならアレだ、王に触れられる栄誉に喜んで大人しく身を任せろよ」
「ソキはほっぺも浮気に含まれることにしようと思うので陛下ったらいけないですううう触っちゃだめですううう!」
目的の為に手段を選んで来ないという点について、フィオーレから見た二人は、性格がとてもよく似ている。砂漠の王はソキの抵抗にはいはいと適当に頷き、頬をむにむに弄びながら白魔法使いに視線を向けた。
「……これは浮気に含まれないだろ?」
「へぶっふ。お、おれ、陛下のそういう真面目なとこすごく好きだな……! 大丈夫、です。うん。ならないと思うよ。ちっちゃい可愛い女の子の頬をむにむにして半泣きにさせたっていうのは浮気にはならないと思う。思うけど、それはそれでアイシェさまに呆れられるというか叱られるというか……ハーディラさまに怒られるんじゃないかな、っていうか」
「げっ」
鼻をすんすんすすりながら嫌そうにしていたソキから、ぱっとばかり手を離して。王は嫌で仕方がない顔をして、白魔法使いに目を細めた。
「言うなよ。いいか。ハーディラにはぜっ……たいに! 言うなよ。どんな手を用いてでも許すから決して耳に挟ませるなよ……! アイツ最近特にうるさいんだよ……俺の女の扱いがなってないとか、女心が分かってないだとか、なんとか……! 俺に女の扱い教えたのお前だろうが」
「ソキはよく分からないんですけどぉ」
ようやっと王から解放された頬に両手をあて、すん、すん、くすんっと鼻をすすりながら。ソキは青ざめる王と白魔法使いを見比べ、ちょこりと首を傾げてみせた。
「その、ハーディラさん。に、ソキは頬を陛下にとってもいじめられたです、って言いつけちゃうことにするです。ねえねえ、ハーディラさん、は、どこにいるです? どんなひと? ソキに教えてください、フィオーレさん」
「え? ハレムの総括してる美人さんだよ。だからいつもハレムにいるよ。ね、陛下」
「おおおおおまえ王の許可なくハーディラの居場所をバラすんじゃねぇよ……!」
砂漠の王は、ソキが見たなかで一番、かつてなく平常心を失って動揺しているように見えた。ソキはぱちくり瞬きをしたあと、恐る恐る王に囁きかける。
「こわいひと、です……? それとも、怒るひと、です……?」
「……おれ、ハーディラきらい。寒いのとおんなじくらいハーディラきらい……アイツやだ……」
「あ、まぁた陛下そんなこと言って……! あのね、ソキ。ハーディラさまと陛下は、すごく屈折した幼馴染っていうかね……ん、ソキと、ソキのお兄さんみたいな感じかな。ウィッシュじゃなくて、『お屋敷』の御当主さまの方ね」
ソキは握りこぶしで説明を聞いた。のち、おおまじめな顔で、こくり、と頷く。
「ソキもお兄さまはだぁいきらい、で、す、うー。でもお兄さまのわるくちを言っていいのはソキだけなんですよ? 知ってた?」
あとねえお兄さまは『花嫁』でも『花婿』でもうっとりしちゃうほど、正装するとそれはそれは綺麗な美人さんなんですよすごおおおいでしょう、でも性格はとってもとってもわがままさんでいじわるさんです、わるくち、ですえへへん、と胸を張るソキに、砂漠の主従は微笑みを浮かべて頷いてやった。ふ、と笑み零した後、砂漠の王は視線を向けもせず、とりあえず、と言った風に白魔法使いの頭をひっぱたく。
「おいフィオーレ、お前、自分の主君を幼児と同レベルだとか言っていいと思ってんのか」
「あのね陛下。本人を目の前に幼児とかいうのはいかがなものかと思うんだよね? さっき自分で十四歳とか言ってたじゃん?」
「んん。ソキはもう帰りたくなって来ちゃったです……陛下、まだ面談するですか? ソキ、ハレムに行くのもまた今度にします……。陛下、ソキはお手紙を書きますから、ハーディラさん、がお好きなものを教えてくださいね。美人さんの所へ行くですから、お土産がなくっちゃ駄目です」
眠たいしお二人の話にも飽きました、と書いた顔でしぱしぱと瞬きをし、ソキはくちびるを尖らせて訴えた。お前誰が連れて行ってやるって許可出したよと呻きつつ、いまひとつこの『花嫁』に厳しくなりきれない王は、また次回の面談の時までに考えといてやる、と言ってソキの頭をぽんぽんと撫でてくれた。
迷子になっちゃうと困るですから『扉』まで送ってください、とソキはお願いしたのに。忙しい王と近従は、お前そろそろ一本道で迷う才能を克服しておけよ、まっすぐだから大丈夫だよお部屋出たら右だからね左じゃないからね、右手をはーいってしてみてうんできたできたそっち、と言って見送りさえしてくれなかった。なにやら、気が付いたら三十分後に砂漠の王宮魔術師総会議の開始時間が迫っていたとのことだが、それは二人がソキの頬をうりうりしていじめたり、いじめたり、もてあそんだりしていたからである。自業自得というものであるので、ソキはふにおちない、です、とむくれながら、面会室の扉をぱたりと閉じた。扉を睨みながら、右、と右手を見つめ、ソキはうんと頷いてよちよち歩きだして。数歩行った所で不安げにくちびるを尖らせ、ててちっ、と早足に面会室へ戻った。
「たいへん、です……! 扉を見て右、です? それとも、扉にお背中を向けて右です……?」
「ぎゃあああああ! ごめんごめん! 扉に背を向けて、右! ああぁああああ陛下やっぱり俺送って来ても……!」
「迷子になったら迷子になったで、対処の仕方を学ばせる趣旨だから駄目だって俺はさっきも言ったな? いいか、ソキ。分からなくなったら名前身分その他、自分が必要だということを相手に伝えて、どこへ行きたいって聞くんだぞ? できるできる、はい頑張ってひとりで帰れ」
ひらひら手を振ってすこしばかり意地悪く笑う王に、ソキは溜息をついて頭を下げた。ぱたん、ともう一度扉を閉めて、背を向けて、ぴしっ、と右手をあげてこっちが右ですからソキはこっちへ帰るです、と宣言する。よち、よち、よち、と歩くと、せっかく先日反省札が取れたばかりだというのに、しろうさぎちゃんリュックに付けられた紙札がひらひらと揺れた。ううぅ、と札をぐいぐい引っ張って、ソキはもおおおっ、とじだんだを踏む。取れないように祝福かけといたから、と告げたフィオーレの言葉通り、紙も紐も、いくら引っ張ってもちぎれたり緩んだりしてくれることはなかった。ソキの名前と年齢、『学園』の生徒であること、『扉』まで行きたい旨が書かれたその紙を、なんと呼ぶかソキだって知っている。迷子札である。
すんすん、くすんっ、と鼻をすすり、くちびるを尖らせ、ソキは目をうるませた。
「ソキはちゃんと、迷子になっちゃったらなにをするのか知ってるです……。じっとして、動かないで、ロゼアちゃんを待っていなくちゃいけないです。どうして陛下は、迷子になっちゃたソキを動かそうとするです? こんなのはだめです……。えいえい、うーん……うーん、とれないです……」
いいもん帰ったらソキはロゼアちゃんに言いつけ、あっ間違えたです、迷子の時にどうすればいいのかもう一回ちゃぁんときくです。もしかしてなんですけど『花嫁』の迷子と、『魔術師』のたまごのソキの迷子はちょっぴり違うかも知れないですしでもでも札やぁんやぁん、とぐいぐい迷子札をひっぱって、取れなくて、ソキはぷううっと頬をふくらませた。反省札にかけられていたのは呪い、対してこちらに付与されているのは祝福であるのだが、意思に反してちっとも取れてはくれないので、ソキにしてみればどちらも同じようなものである。もお、もおおぉっ、と怒りながらよちよちてち、よち、よち、とけんめいに廊下を歩き、ソキはふう、と息を吐き出して立ち止まった。
ふにゃ、と笑み崩れて、ソキは編まれた髪にぺとりと両手をくっつける。綺麗な細い三つ編みを耳の上でくるりと巻き、お花の形に仕上げたそれは、朝のロゼアの力作だ。ぺた、ぺた、崩れないように気をつけながらそっと手で触って、ソキはやんやん、と頬を赤く染めて身をよじる。
「これはきっと、ロゼアちゃんがすきすきな髪形です……! だってぇ、ソキは、今日はかわい? て聞かなかったですのに、ロゼアちゃんはソキをぎゅぅして、きゃぁんきゃぁんぎゅぅってして、ソキはおはなさんだな。て言ったです。きゃぁあんソキはロゼアちゃんのかわいいおはなさんです? って言ったらいっぱい、いっぱい、いーっぱい! かわいいかわいいおはなさん。かわいいそき、ていてくれたですうきゃぁんやぁん!」
はうぅはううぅ、ソキはロゼアちゃんのかわいいおはなさん、です、えへへへ、と照れた顔でもじもじしたのち、ソキは気を取り直しててし、と脚を踏み出した。はやく『学園』に帰って、いっぱいロゼアにくっつかないといけないのである。ロゼアは最近、なんだか、もしかして、ソキの気のせいでなければ、なんだかちょっと強めに、ぎゅぅ、をしてくれるようになったので。『花嫁』の時にはなかった、ちょっと強いぎゅう、なので。これはもうめいっぱい堪能しなければならないのである。
ふにゃんふにゃん、もしかしてもしかしてなんですけどぉ、ロゼアちゃんはもしかしてっ、きゃあぁああんもしかしてソキのことがちょっとすきすきなんですかきゃあぁああんきゃあぁあんっ、とめいっぱいはしゃいで、ソキはただまっすぐに歩けばいいだけの廊下、の終着点へ辿りついた。『扉』は砂漠の王宮の果てにある。一番端っこ、くらいのことしかソキには分からない。東西南北、という方角があることは知っていても、いまひとつ、どれを当てはめればいいのかよく分からないからだ。とにかく一番端の、しんと静まり返った廊下の終着点。どの王宮でも、だいたいそういう位置にあるように。そこに『扉』があった。壁に直に、埋め込まれるように、目の錯覚を利用した絵画じみて、そこに『扉』はあった。
ちかちか明滅する淡いひかりが、ひえた音のない空気に満ちている。ソキだけしかいない静まり返った廊下で立ち止まり、ソキは言い知れない不安にきゅぅと眉を寄せた。静かすぎる場所は、どうしても慣れない。はやく、はやく、ロゼアの元に帰らなくちゃ。冷たい指先を『扉』に伸ばす。乾いた空気を吸い込んで、教えられた魔術式をくちびるに乗せようとする。その時だった。くすくすくす、と笑い声が染み込んで響く。
『ど、コ、へ、い、く、ノ?』
ちかちか。ソキの視界を覆い尽くすように降り注ぐ、明滅する魔力の残滓が。ソキの目を耳を意識を塞いで内側から声を響かせる。廊下に落ちた影を縫いとめるように。ソキの息を苦しくしていく。かたかたと指先が震えた。その声と痛みをどうしても忘れることができない。
『……こっちへオイデよ。ボクのかわいいお人形サン?』
意思とは関係なく振り返った先。ひっそりとしたくらやみの広がる廊下の隅に。いびつな『扉』が見えた。古木を切りだして作られた、正規の『扉』とは違う。それは焼け焦げた木材を切り張りして、どうにか形だけ整えたような、『門』に見えた。白い壁にざらざらとした黒炭の、いびつな線が引かれている。ぽっかりと開いた空間には、下へ降りて行く階段が見えた。その先に。なにがあるのか、ソキは知っている。そこでソキは壊された。四年前、十の時に。一度だけの悪夢。けれども何度も、何度も繰り返したかのように。痛みと恐怖が魂にこびりついている。
目の前に差し出された手が、見えるような気がした。それにどうしても逆らえない。手足に糸を穿たれた操り人形じみた動きで、ソキはよろよろと脚を踏み出した。ゆっくり、ゆっくり、ひどく時間をかけてほんの数歩の距離を歩み、ソキは『門』へ手を伸ばした。焼け焦げた木材に指先が触れる、寸前。音を立てて逆巻いた風が、足元からソキを包み込むように立ち上る。と、とと、とよろけて『門』から離れ、ソキは音を立てる心臓の上に、つよく手を押し当てた。ちかちか、乱反射する魔力に眩暈がする。誰かの魔力が、確かに、ソキを形なき意思から守ったのだ。けふ、とひりつく喉で咳をして、ソキはぱちぱち瞬きをする。
「なり、あ、く……?」
『未熟な守りなど一度きりダヨ。……オイデ』
「や、や! う、うぅ……!」
背中を突き飛ばされたように。とと、と脚を踏み出すソキの体を、駆け寄ってきた誰かの腕がやんわりと抱きとめる。耳の奥で響く深淵の言葉をかき消すように。淡く息切れを起こした囁きが、ソキの耳に吹き込まれた。
「だめだよ。そっちはだめ。……だめだよ、君をひとりで行かせる訳にはいかないよ」
「……え、と?」
ぱしぱし瞬きをして。ソキは抱きとめる腕にぐったりと体を預けてしまいながら、視線だけを動かしてそのひとを見た。見覚えのない、男だった。肌にちりちりと触れて行く魔力が、男を魔術師だとソキに告げている。砂漠の国の王宮魔術師。けれど、ソキには見覚えがなかった。十年前の事件や、『学園』に行く途中で、その時王宮にいた魔術師とはほぼ顔を合わせているのに。不思議そうにじっと見つめてくるソキの背を、男は慣れた仕草でぽんぽん、と叩く。どこかロゼアに似た仕草だった。
「……どなた、です?」
男は砂漠の民特有の煮詰めた飴色の肌ではなく、よく日焼けした小麦色の肌をしていた。藍玉を砕いて染めたような髪と、眠りにつく砂漠の夜のような、落ち着いた黒色の瞳をしている男だった。肌に触れる魔力からは、水の気配がした。水属性の、黒魔術師。属性は違うのに。ロゼアと。ナリアンに。とてもよく似ている、とソキは思った。
「俺は、ジェイド。……きみはソキ?」
「ジェイド、さん。です。……あ!」
「ん?」
いつの間にか、手足を縛る糸は断ち切られていた。首を絞められているような息苦しさも、だるさも、消えている。見えていた筈の焼け焦げた『門』すら消えていることに気がつかず、ソキは頬、首筋、額、と手を滑らせて触れてくるジェイドに、きらきらした目で拳を握る。
「砂漠の、筆頭魔術師さん、です! 本当にいたです……! フィオーレさんが、この間、あれ? うちの筆頭ってほんとうにいたっけじつは非実在じゃなかったっけ? とか言ってたですからソキはちょっぴり不安だったですけど、ほんとにいたです……! ジェイドさん、です……!」
「いるよ、いるよー。あははは、とりあえずフィオーレお前はあとでみぞおちを殴る」
体調は崩していないね、と髪を指先でそっと撫で、ジェイドは微笑みながらこつ、とソキと額を重ね合わせた。
「間に合ってよかった。怖い想いをしたね、ごめんね。……さ、はやくロゼアの元へお帰り、お嬢さん」
「……ロゼアちゃんと、お知り合い、です?」
「うん? ……うん、一方的に知ってるよ」
また今度時間を見つけて新入生に挨拶に行くから、その時にでもね、と微笑んで促すジェイドに見送られ、ソキは今度こそ『扉』を開く。ありがとうございました、と早口に言って姿を消したソキにひらひらと手を振ってから、ジェイドは『門』のあった場所に歩み寄り、がつっ、と音を立てて壁を蹴る。消えたそれを踏みにじるようにしながら、ジェイドは目を細め、口元だけで笑った。
「大人しくしてろよ、シーク。俺が許可取って殺してやるって言ってんだろ?」
「……ひっ、ひいいいいい我らが筆頭がなんか超お怒りなんだけどなんでなんかヤなことあったのっ?」
「あ。フィオーレだ。フィオーレおまえちょっと来い殴る」
会議に遅刻して城内を彷徨っている、らしい筆頭を探しに来た白魔法使いを、男は微笑んで手招き。なんでなんでっ、と騒ぐのを、誰が非実在だ、と言って宣言通りに殴り倒した。