ぽて、ぽて、ぽて、と力ない足取りで『扉』から出て、ソキはすんすん鼻を鳴らしながら両腕をぴょっと上に持ち上げた。
「ろぜあちゃんろぜあちゃん……。ソキ、とぉっても怖い想いを……あれ? あれ?」
すぐに抱きあげてくれる腕がないので、ソキは悲しい気持ちで辺りを見回した。空間に人影はなく、しんと静まり返っている。ロゼアの姿はどこにもなく、歩み寄って来てくれる気配もしなかった。ソキは不安な気持ちできょろきょろと視線を彷徨わせ、あれ、あれ、と腕を下ろし、手をぎゅぅと握り締めた。
「お迎えないです……。きっと、ソキが、遅くなっちゃったからです……。ロゼアちゃんは、寒いのがとっても、とっても嫌いですから、きっと暖かくて賑やかな所にいるです。談話室です。ソキはちゃぁんとひとりで、談話室まで、歩けますよ。ひとりで歩けますです……」
くすん、すんっ、と鼻をすすりあげ、ふらつきながら一歩を踏み出して。あれっ、とものすごくびっくりした声をあげて、ソキはもう一度辺りを見回した。ぱちぱち、忙しなく瞬きを繰り返す。
「……た、大変です! 寮じゃないです……! あ、あれ、あれっ、ソキは間違えちゃったです……!」
なんとなく見覚えのある廊下で、ソキはけんめいに目に力をこめた。『扉』を振り返ってみるも、いまどこにいるのか、が分からなければ移動するのも心許ない。迷子になったら本当は、動かないでロゼアが来てくれるのを待っていなければいけないのだし。砂漠で付けられた迷子札をぎゅぅと握り締めながら、ソキはなにか記憶を掠めるものがないか考えてみた。そこは、なんとなくいずれかの国の王宮である、ような気がした。華美ではないもののうつくしく整えられた廊下は、どちらかと言えば堅牢な印象が強い国境の砦にはないものだからだ。
五ヶ国を区切る、あるいは無理に癒着させ接続させる『国境』は、大戦争時代の戦場の名残を留めている。淡い魔力の灯を、積み重なった大理石から感じ取ることはできなかった。代わりに触れるのは、城を包み込み、血液のように循環する防衛の魔力。生きた息吹。様々な色に揺らめく細い糸が、織物のように編みあげられ、広がっている。その色彩を感じ取ることはできても、それが誰の魔力であるのか、ソキにはまだ分からなかった。ソキはとっても未熟さんです、と肩を落としながら溜息をつく。
「どうしよう。どうすればいいです……? ソキは、ここでじっとして、ロゼアちゃんを待ってるのが一番だと思うです。ソキが、あんまり戻ってこなかったら、ロゼアちゃんはきっと、きっとです。きっと、砂漠の王宮に連絡して、ソキはどこ? って言ってくれるです。それで、探しに来てくれるに違いないです。でも、でも、でもぉ……陛下はソキに、お迎え待ちしてないで、ひとりでお家まで帰ろうな? って言ったです……。ソキはひとりでロゼアちゃんの所まで帰らなくちゃいけないです……。ん。ソキはガッツと根性で頑張れますよ……!」
「……被害拡大、という文字しか頭をよぎらないのはどうしてだろうね?」
「びゃっ! ……えっと、えっと。んとぉ……あ、キムルさん、です!」
いつのまにかソキの傍にしゃがみ込んで苦笑いをしていた男に、ソキはばくばくする心臓を宥めながら目をやった。ロゼアの教員、チェチェリアの夫たる魔術師、キムルとは、新入生歓迎パーティーで顔を合わせたきりだった。おひさしぶりです、とうるわしい仕草で頭を下げ、ソキはぱちぱちぱち、と瞬きをする。
「キムルさんがいるですから、ここは楽音の国です。……ソキ、『学園』に戻ろうとして間違えちゃったです。無断侵入、です? 怒られる……? ソキ、陛下にごめんなさいをするですから、ロゼアちゃんを怒ったりしちゃいやですよ」
「……うん? 間違えた?」
「そうです。ソキはね、砂漠の国で面談が終わったですから、おうちにかえる所だったです」
ソキの言葉にいくつか突っ込んで聞きたい所がありそうな顔をしながら、ふむ、と眉を寄せたキムルが視線を動かして『扉』を見る。閉じられた『扉』に魔力の揺らめきを認め、錬金術師は吐息しながらソキをその場に待たせ、数歩の距離を早足に歩み寄った。指先を伸ばし、撫でるように『扉』に触れる。ぺた、とばかりてのひらを押し当て、キムルは眉間の皺を深くした。
「……これでは使えないな。危ないところだった」
「ソキ、いま通ってきたばっかりですよ。ソキはなにもしなかったです……壊してないです……」
「うん。『扉』は元々、自然物に取りつけた人工的なものだからね。時々こういうことが起こるんだ。天気だって晴れる日ばかりじゃないだろう? 雨が降る日、風が強い日、雲が多い日。鳥がたくさん渡って行く空もあれば、夕焼けに赤く染まる時だってある。気にすることではないよ」
言われた通り、そわそわしながらも従順にその場から動かないでいたソキに歩み寄り、キムルはその前にひょいとしゃがみ込んだ。くちびるを尖らせ、うるんだ目で訴えてくるソキに、穏やかな笑みを浮かべながら語りかける。
「すぐには使えない。だから、それまで陛下の所でお話でもしているといい」
「……いつになったらソキ、おうちかえれますか?」
「そんなに不安そうな顔をするものではないよ? 笑っていた方が可愛いからね」
いつ、とは言ってくれなかったことに気がつかず、ソキは首をひっこめてくすくす、と笑った。
「キムルさん。チェチェリア先生と、おんなじこと言う……!」
「おや。そうか」
「あ、あ。キムルさん。チェチェリア先生は? 今日はね、夕方くらいにロゼアちゃんの授業です。もう行っちゃった?」
もちろん一人で歩けるんですけれど、転んじゃったりはぐれちゃうと大変ですので、お服の端っこをもたせてください、とお願いしながら、ソキはちょこりと首を傾げてみせた。カルガモのひなを見守るほのぼのとした表情でローブの裾を握らせてやり、キムルはもう行っちゃったよ、とソキの言葉を真似して語りかける。そっかぁ、とがっかりするソキを先導して、キムルはゆっくりと歩き出した。よち、よち、てち、ててち、と歩き出し、ソキは一度だけ、不思議そうな顔をして振り返った。誰かに、呼ばれた気がしたのだが。そこにあるのは『扉』ばかり。気のせいです、としてけんめいに歩くソキは。やがてそのことを忘れてしまった。
まだ『学園』で生活をする魔術師のたまごが、五ヶ国の王に接する機会というのは、極端にすくない。半年に一回の視察で話をできれば僥倖であり、卒業してその国の王宮魔術師となるまで、王とまともに言葉を交わしたことのない者もあるくらいだ。だいたいは長期休暇で家へ戻る時に、呼び出しを受けて数分の会談をさせられたりするので、近頃はまったく触れあわないまま卒業を迎える者は少ないらしいのだが。それでも、ソキのように毎月、出身国の王と面談させられているのは特例である。面談の帰りとのことです、と報告したキムルに、楽音の王が笑みに目を細めたのはそのせいだろう。
楽音の王はうるわしい姿をしている。ソキでもすこし緊張してしまうくらいの、うつくしい施政者だった。響く声は旋律めいていて。ソキはほんのすこし、ウィッシュのことを思い出した。
「まったく、彼は面倒見が良いというか、あれで女性には弱いというか……。ソキ、とりあえず座りなさい。キムル、各国に連絡を取って早急に事に当たるように。『学園』との連絡が取れるかどうかを最優先で確認、報告してください。エノーラとも仲良く、仲良くするんですよ?」
「……わかりました。我が王の仰る通りに」
慣れないかも知れないけど、我が君は怖い方ではないからそう緊張しないでも大丈夫だからね、と囁き残して。キムルはソファにちょこりと腰かけたソキの肩を撫で、王の執務室からいなくなってしまった。かすかな音を立ててしまる『扉』に、取り残されたような気持ちになる。きゅぅ、と眉を寄せて落ち着かないソキに、室内にいる文官や護衛の兵士たちから、忍び笑いが向けられた。
「……んん」
こういうときは。どうすればいいんだっけ。考えながら、ソキはソファに背筋を伸ばして座りなおし、見つめるどの視線にもやんわりと微笑み返した。そうすると自然に、染み付けられた教育が顔を出して囁きかけてくる。表情は、仕草は、手の動かし方、置く位置、指先で乱れた服をそっと整えて、くちびるを閉ざして、ソキは己をいったん整え終えた。魔術師のたまごのソキは、王の前でどうすればいいのか、まだすこし分からない。砂漠の王は、ソキの出身国で主君だけれど、丁寧に接するよりはいつもの通りにしていた方が要求が通りやすいことが分かったので、最近はそうしているだけで。あとあんまりロゼアによく似ているので、ついうっかり普段の通りに接しているだけで。
陛下もそれでいいかなってあんまり注意したりしないですから、ソキはこういう時に魔術師のたまごさんがどうすればいいのか分からないです。失敗です、とくちびるを尖らせて文句を言いたい気分を堪えながら、ソキは室内を淡く満たす感嘆の吐息に微笑みを深め、ゆるく視線を手元に伏せた。この間からロゼアがこまめに指先のおていれをしてくれるので、今日も爪先は淡く真珠色に艶めいていた。指先に色を乗せられる時間。そこがロゼアの好みに整えられていくひとときは、かけがえのないものだ。『お屋敷』にいた時、ロゼアがそうしてくれることは、多いようですくなかった。そこにはだいたい『運営』の意見が挟まったし、次に『旅行』に行く相手の服や色の好みに合わせ、整えられていくことが圧倒的に多かったからだ。ロゼアだけの好き、でソキが整えられたのは、その目をかいくぐって苦心した末の、ほんの数度に数えられるだろう。
は、と幸せな息をもらして、胸元に手を押し当てる。ソキを自分の好みで思うさま整えることに、ロゼアは最近とても楽しそうで、時間をたくさん持ってくれていた。それに、最近、ロゼアはソキをぎゅぅ、と抱き締めてくれる。ような気がするのである。体が覚えているより、ほんのわずか。ほんのすこしだけ。力をこめて、ぎゅぅ、と抱き締めてくれているような。そんな気がして。ソキは目をうるませて頬を赤く染め、瞬きをしながら考えた。もしかして。ほんとうのほんとうに、もしかして、なのだけれど。ロゼアはソキのことを好きになってくれたのではないだろうか。
「だって、だってぎゅぅが……そんなの、『お屋敷』にいた時はしてくれなかったですし……。いっぱい、いっぱい、お手入れも……前からしてくれてるですけど、最近、とくに、いっぱいしてくれるようになった、ですし……。はぅ……ロゼアちゃんはもしかしてソキのこと、ソキのこと……!」
「うん、うん。ロゼアがソキのこと?」
「ちょっぴり好きになってきてくれたのかもです、はうぅ……。……う? ……びゃあああ!」
いつの間にか。顔を覗き込んで悪戯っぽく問いかけていた楽音の王に、ソキは思い切り驚いた声をあげて、ソファの上でぷるぷると震えた。ついうっかり考えごとをしていたせいで、ここがどこなのか、をすっかり忘れてしまっていた。ふるふると小動物的な身の震わせ方をしながら、ソキはおずおず、楽音の王に向かって頭を下げた。
「失礼をいたしました……」
「はい。次からはしないようにね。……それで?」
「そ、それ、で……?」
緊張するソキに、あまり若い子いじめるのはどうかと思いますよ、と助けの声が飛ぶが、楽音の王はそれを柔らかな笑みで無視してみせた。王はソキに手を伸ばし、さらさらの髪を指先で弄びながら、目を覗き込んで囁いてくる。
「ロゼアとは、いまどのような関係なのかな?」
「え、えっと、えっと……えっとぉ……?」
「私の魔術師、チェチェリアの大事な生徒のことですからね。王としてそこは知っておかないと」
我が王はじつに滑らかにものすごい嘘をつく、というか目的の為にさほど手段を選んでくださらないのがほんとまじ珠に傷というか傷というか致命傷、と部屋で呻く文官たちと王を見比べながら、ソキは戸惑った風に何度も目を瞬かせた。えっと、えっと、と両手の指先をもじもじ擦り合せながら、頬を赤くして俯いてしまう。
「ソキはロゼアちゃんにとっても手間暇をかけてもらったです……。今日のお服ですとか、靴ですとか、髪とか、んと……今日は全部ロゼアちゃんのすきすきにしてもらったですから、今日のソキはかんぺきにぜぇんぶ! ロゼアちゃんのすきすきなんですよ」
「うん。……うん? ……ああ、そういえば彼はストルと同じ砂漠系男子でしたね。……はい、それで?」
「そ、それで、です……? えっと、えっと……!」
ソキは室内で粛々と王が片付けた仕事を整理している文官たちに助けを求めたが、微笑まれるかそっと視線をそらされるかのどちらかで、救いの声すらかからなかった。えっと、えっと、と目をぱちぱちさせながら、ソキはうるんだ目でくちびるを尖らせる。
「それで、です……? 陛下はソキになにを聞きたいんですか……?」
「先日、予知魔術師を二人並べて可愛がりたいんですよね、と言ったら『砂漠の』にお前なに考えてんだよ馬鹿偏るにも程があるだろうが予知魔独占禁止法案とか作られたくなかったら諦めろ、と暴言を吐かれたもので。それでは時々遊びに来る機会を狙うとして、そうするとやっぱり恋人を確保しておくのが一番だと思うんです。ね? ロゼアくんが楽音の王宮魔術師していたら、ソキはたくさん顔を見に来たくなりますものね? もちろん泊って行ってもいいですし、他の王に楽音の王宮魔術師がいいな、楽音にいきたいな、楽音で働きたいな、と言ってもいいんですよ?」
拒否権、という言葉がソキの頭をちらつき、音速でどこかへと消えて行った。告げられた内容を懸命に考えながらも、ソキはつん、つん、と指先を突き合わせてしょんぼりと肩を落とす。
「ソキ、ロゼアちゃんの恋人、じゃないです……。でもお顔は見に来たいです……。ロゼアちゃんは、『学園』を卒業したら、楽音の王宮魔術師さんになるんですか……?」
「チェチェリアもうちの魔術師ですし、同じ属性のキムルもいますからね」
「……ソキはロゼアちゃんと同じ所へ行きたいです。陛下、ソキはすっごく頑張るですから、ロゼアちゃんが楽音の、王宮魔術師さんになるでしたら……ソキ、なんにもしないで大人しくしていますから、だから」
一緒にしてください、と願う言葉は。ノックと失礼しますという悲鳴じみた声と共に開かれた扉の向こうから、現れたリトリアによって阻止された。遠くから走ってきたのだろう。ぜい、と肩で息をしながら、リトリアは早足で歩み寄り、王とソキの間に体を滑り込ませるようにして告げた。
「もう! いけません、陛下……! 諦めてください、と先日もお願いしたではありませんか……!」
「リトリア? 私はただ、予知魔術師が希望を言葉にして告げたのだから、これは予知ではないかな? その言葉を捻じ曲げようとすると、魔力消費やらなんやかんやでとても大変なことになるのではないかな? いいの? よくないよね? と次の会議で他の王たちにちょっと言ってみたりするだけですよ?」
「魔力漏れさえ起こしていなければ、いくら未熟な魔術師のたまごであるといえど、私たちの言葉がそのまま全部予知になったりすることはありませんと、私は先日もご説明申し上げたではありませんか……! 陛下分かっていて言っているでしょう……!」
楽音の王はうるわしく笑みを深め、そうだったかな、と嘯いてみせた。そうだったんです、と涙ぐんで力説するリトリアに、室内からはいくつか応援めいた視線が向けられるものの、ソキの時と同じように言葉がかけられることはなかった。この王宮で、王に意見をちゃんと言い聞かせられる者はごく限られている。その数少ない一人、リトリアは、溜息とも嗚咽ともつかない風に空気を重たく震わせ、泣き濡れたような花藤色の瞳で王を正面から見つめた。ともかく、とやや気を取り直した、まっすぐな声が囁く。
「このような形で、ソキちゃんの進路を決めてはいけません……し、決められない、と我が陛下、あなたも分かっておられるでしょう……? どうしてこういうことをなさるのですか……」
「ものは試しに?」
「試さないでください、お願いします……!」
くすくす、と肩を震わせて楽しげにする楽音の王に、確かにリトリアは言葉を届かせることのできる数少ない一人ではあるのだが。それ以上に、てのひらでころころ転がされて遊ばれることが多いのを、リトリアは誰よりも知っていた。もう、と嘆きに震える声を落とし何度も瞬きをして、とにかく、とリトリアはきゅっと手を握って顔をあげた。すぐに気を取り直せるのがリトリアの良い所、と王の傍にある文官たちからの評価は高い。
「さあ、陛下。キムルさん、エノーラさんたちから報告が届くまで、まだ時間がございます。その間、ソキちゃんの面倒を私に任せて頂けませんでしょうか……? ね、ソキちゃん? ソキちゃんも、陛下より、私の方がいいですよね……? ね、ねっ? えーっと、えーっと……ロゼアくん! そう、チェチェから聞いたロゼアくんの話をしてあげる……!」
「ソキ、リトリアさんと一緒にいるぅー!」
ソキを釣りたかったらロゼアを出せあいつハイパーちょろいぞ、と教えてくれた寮長に、リトリアは心の底から感謝した。肩を震わせて笑っている楽音の王は、己の魔術師が必死になって離そうとしている行動を面白がっているだけで、気分を害した風には見えなかった。それにほっと安堵しながら、リトリアは差し出した手を、その指先をきゅぅ、と握って立ち上がったソキに、それじゃあ行きましょうね、と微笑みかけた。ソキはこくん、と頷き、にこにこ見守っていた楽音の王が意外な驚きに目を見張るほど、うつくしい仕草で一礼する。
「それでは、陛下。失礼致します。またお目にかかる機会を楽しみにしております」
「失礼致します、陛下。また後ほど。……さ、ソキちゃん。こっちよ」
「はーい。……ねえねえ、ロゼアちゃんのおはなし、です? どんなおはなし?」
てち、てち、よち、よち、歩きながら、ソキはこしょこしょとリトリアに囁きかける。リトリアは部屋の扉を押し開き、ソキちゃんが聞きたいおはなしを、と囁き返した。
今日はお泊まりだよ、とキムルがソキをじっと見つめながら囁いたのは、リトリアの部屋に来て二時間ばかりが経過した頃だった。本来ならとうにお昼寝の時間である。しかし慣れない場所とリトリアと会話をする興奮が、ソキから上手い具合に眠りを遠ざけ、それでいて微妙なだるさを全身に広げてしまっている頃だった。ふぁ、とちいさくあくびをして、けれども眠れるような気もせず。それでいて鈍い疲労を瞳に塗りつけて、ソキはぱちぱちぱちんっ、と瞬きをした。ゆっくり、ゆっくり、首を傾げて眉を寄せる。
「ソキは、ロゼアちゃんの所へ帰るんですよ?」
「うん。でもね、今日はお泊まりしようね」
「キムルさん? ソキはぁ、ロゼアちゃんのとこに、帰りたい、って言ってるんですよ?」
くちびるを尖らせて言い聞かせようとするソキに、キムルが困った顔でなにかを告げるより早く。ちいさな円卓の向いに腰かけていたリトリアが、やや青ざめた面差しで立ち上がった。
「キムルさん、チェチェは」
「……連絡は、なんとか。今日は『学園』に泊まりだね。……ソキちゃん、今日は、みぃんなお泊まりなんだよ。その国にいるひとは、その国に。『学園』にいる者は、『学園』に、いなければいけない。ソキちゃんだけじゃない。分かるね?」
「でも、でも……でもぉ……」
うるっと涙が滲みそうになるのを、瞼の上からてのひらでぺとりと押さえて。ソキはすんすん鼻を鳴らし、目を閉じ俯いたままで呟いた。
「ソキ、ロゼアちゃんに、お泊まりしていいです? って、聞いてない、ですし……お泊まりの、準備も、していないですし……。それに、それに、ソキは、ソキ……ソキ、いやです……。お泊まりは、いやです……。ロゼアちゃんのところへ帰してくださいです……お願いです。お願い……」
「一刻も早くの、努力はしよう。約束する。でも、今日は聞き分けてくれないかな」
「……なんでですか?」
引きつって、くしゃくしゃで、なんとか絞り出したような声だった。全身に力をこめて、泣いてしまうのだけはどうにか堪えている。瞼を押さえるソキの指先が白く、力をこめて震えるさまを見つめながら、キムルはゆっくりと言葉を紡いだ。
「『扉』が使えないんだ。今、各国の王宮魔術師たちの中でも、僕のような錬金術師、それに空間魔術師や、『扉』に関する知識技術を持った者たちが復旧にあたっている。原因の特定を含めて、ね。……でも、教えたように、『扉』は元々やや不安定なものなんだよ。時々、こうして使えなくなる。数日すれば、元通りになる。その、元通りになるまでの時間を、たくさんの努力で短くすることはできる。でも、どんなに短くても、それは今日にはならないんだ」
「あした……明日になれば、帰れますか? 明日まで、明日まで、がまんです……?」
「誰もが、そうなるように、努力するよ」
おやくそくしてくれないなら、ソキは嫌です、かえるです、とぐずるのに苦笑して、キムルはリトリアに視線を流した。頼んだよ、とばかり微笑みかけられて、リトリアは力なく頷いた。できる限りのことはしますけれど、と呻くリトリアによろしくと告げ、キムルは足早に部屋を出て行った。『扉』の調整に取り掛かるのだろう。部屋の前の廊下は、行きかう魔術師たちで慌ただしい。リトリアの能力が、あるいは個人が、そこへ助力を求められることはない。火のようなざわめきはキムルが扉を開けた瞬間、ふわりと室内に触れ、閉じると再び遮断される。それを悲しいとか、苦しいとか、思ってはいけないとリトリアはくちびるに力をこめた。そうなるよう、そうあるよう、選んだのは他ならぬリトリアだ。
目を伏せて、祈るように名を呟く。瞼に浮かぶ二人は、どちらも『扉』を調整する適性があった記憶はないが。優秀な魔術師であることは確かだから。その力が正しく導かれれば、動き回る彼らの助力になるのは、間違いがないことだった。リトリアは息を吐き、目を閉じ震えるソキの前に歩み寄る。しゃがみ込み、ソキちゃん、とそっと名を呼べば、いやいやと甘えた仕草で首が振られた。
「そき、おとまりするですって、ろぜあちゃに、いてない、もん……。これは、むだん、がいはく、なんですよ。いけないことです。いけないことです……。ロゼアちゃんが、お泊まり、だめ、って、言ってる、かも、です。もしそうなら、たいへんなことです……」
「……えっと、えっとね。その、ね……その」
「いけないことです……。ロゼアちゃんが、ソキをきらいになったら、どうしよう……」
それはない、と瞬間的にリトリアは真顔になった。そんなことで嫌いになるような相手である筈がない。深く話したことや、関わったことすらなかったが、チェチェリアから伝え聞くロゼアというひとは、それはそれはもうこよなくこのうえなく心おきなくソキのことがものすごく力いっぱい大好きだからである。なにせ、授業中ずっと苛々して不機嫌で、それでいてそれをチェチェリアにぶつけようともせず内側でくすぶらせるようなことがあっても。授業が終わり、ソキがてちてちと迎えに来るだけでその不機嫌が霧散し、あっさりとほわほわの穏やかな上機嫌になること十数回、との話である。
ちなみにロゼアは、ソキの足音が聞こえなくてもその姿が見えなくても、迎えに来てくれたことがすぐに分かるらしい。チェチェリアより先に気がつかなかったことは、これまで一度もなかったらしかった。ロゼアの機嫌が傾いでいる時はソキを呼べばいい、というのが、担当教員としての報告書にも書き加えられている程だった。機嫌のみならず、魔力の不安定にも効くらしい。五王とその側近魔術師たちにおいて、ソキは対ロゼア用万能薬とみなされている。不慮の事故で『学園』に残されたチェチェリアを想って、リトリアは拳を握った。
「手紙を、書くのはどう……? お手紙で、今日はお泊まりします、って言うのは?」
「おてぁみ。……おてがみ、届く? 届くです?」
じゃあなんでソキは届かないの、と言わんばかり尖らされるくちびるに、リトリアは根気強く囁きかけた。『扉』の安定調整の過程で、実験的に物を送ることがあって。その時に『学園』に向けて届くように、お願いしようね。大丈夫、どこか別の所へ行方不明になってしまうことはなくて、駄目なら届かないで戻ってくるし、戻らないならこれまで、届いていなかったことはなかった筈だから。それでね、ものが届いて、これなら安全に行き来できるなってなったら、ソキちゃんも帰れるからね。だからその為にも、お手紙を書いて出して届けてもらおうね。きっとロゼアくん、喜ぶよ、と付け加えられて、ソキはきゅうぅ、と眉を寄せた。
「……ロゼアちゃん、喜ぶ? ……よろこぶ? ほんと?」
「ほ、ほんと、ほんと! きっと、とーっても、嬉しいと思います。ね? お手紙書いて、お泊まりします、って言おう? そうしたら、ソキちゃんは無断外泊じゃなくなるし、それに」
きっとたぶん今頃すごくご機嫌うるわしくない感じになってるロゼアくんも落ち着いてくれることを祈ってみたりするから待っててねチェチェ待っててね手紙書いてもらうからもうちょっとだけ頑張ってねっ、と祈るリトリアの内心など、知らず。ソキはすん、すん、と鼻をすすって、おてぁみかくです、とふわほわしきった声で告げた。