ねむたくてねむたくて仕方がないのに、どうしても眠ることができず、ソキは何度目とも知れない寝返りをうった。ロゼアちゃんだぁいすき、ソキは今日どうしてもどうしてもしょうがないのでお泊まりをしなきゃいけなくなりました、ロゼアちゃんは帰ったらソキをいっぱい褒めてぎゅぅってしてくれないといけないです、ソキはロゼアちゃんのところへ帰りたいですけど我慢をしなきゃいけなくなったですからこれはたくさん褒められることですロゼアちゃんだいすきだいすき、と書いた手紙に、返事はなかった。たぶん届いてるとは思うけど時間がかかってるみたいだし、向こうからもそうかも知れないから返事を待たずにお眠り、と楽音の王宮魔術師に説得されたせいだった。
長い夜は、もう半分くらいで朝になるかも知れない。もしかしたら、手紙が届いているかも知れない。もしかしたら。ソキは暗闇にうすく見える扉にちらりと視線を向け、何度も何度も瞬きをした。ねむたくて、あんまりねむたくて体もうまく動かせないくらいなのに、ちっとも眠ることができないでいる。いっしょうけんめい頑張って、起きて、『扉』の前まで行ったら、もしかしてロゼアからの返事が届いているのではないだろうか。もしかしたら、もう『扉』は使えるようになっていて、その先でロゼアが待っていてくれるのかも知れない。そう考えると、じっとしていられなくて、ソキは鼻をすすりながらころん、と寝返りをした。手足をちたぱた、もぞもぞさせて、起き上がろうとする。
「……ねむれない?」
声は優しく、柔らかく、すぐ傍から語りかけてきた。ソキは目をぱちぱちさせながら視線を持ち上げて、見つめてくる花藤色の瞳に、こくんと頷いた。ねむれない、です。それにね、ロゼアちゃんがね、ソキを、待ってるかも、知れないです。たどたどしく、ゆっくり、そう訴えると、リトリアは薄闇の向こうで困ったように微笑した。寝台が軋んで、リトリアの影が動く。火の明りが室内を照らしだし、ソキは眩しさにぎゅっと瞼に力をこめた。ねむたくて、だるくて、横になったまま動けないソキのことを、リトリアが考えながら見つめている気配がする。それに、ロゼアちゃんが待ってるです、と訴えたいのに。ソキは動けなくて、代わりに、こふんと乾いた咳をした。
伸びてきた手が、怖々と、ものなれない様子でソキの髪を撫でて行く。何度かそうされて、ほんのすこし、ソキは震えるほど力をこめていた体から、緊張を緩ませた。いつの間にか、汗でじっとりと額が濡れている。冷たい布で拭われて、ソキはくちびるから息を吐きだした。
「おてがみ……お手紙が、ロゼアちゃん……来てるかも、しれない、です。もしかして、もう、ソキのことを待ってるかも、しれない、です……ソキは……ソキは、こんな風に、ロゼアちゃんの所に帰れなかったこと、なかったです。りょこ、んと、『旅行』でね、うまくね、帰れなくてね、予定より、何日も、かかって、でも、でも、それは、こんな風とは、違うです。ねえ、ねえ……朝になれば、ソキは帰れますです……?」
リトリアの手が髪を撫でて、布をソキの体にかけ直す。待てどくらせど、帰れる、とリトリアは言ってはくれなかった。ソキがどんなにお願いしても、駄々をこねても、明日になったら必ず、と魔術師たちが言ってはくれなかったように。努力する、最善を尽くす、そのことを約束する、と楽音の王宮魔術師は口々に告げた。『学園』にある魔術師たちも、どの王宮に属する者も、必ずそうすると約束する。だからもう眠りにお行き、と囁く声と視線は、リトリアにソキの手を引いて部屋へ連れ戻すことを求めていた。たどたどしく、ねばついた言葉で訴えて。ソキはけふ、けふ、こふん、と息をうまく吐き出せず、咳で空気を震わせる。
「ろぜあちゃんの、お手紙……もう、届いてるです。ロゼアちゃんは、ソキのを見て、きっと、すぐに、お返事をくれたにちがいないです。そうに決まっているです。おてがみ……ソキの、ソキのロゼアちゃんのおてがみ……もしかして、すぐ、お返事が、ソキのが、必要な、おてがみ、かもしれません。そうしたら、ロゼアちゃんは、起きて、待ってるかもです。たいへんなこと、です。ソキ、すぐにお返事を書かなくちゃ……ねえ、ねえ。ねえねえ、リトリアさん。ロゼアちゃんのお手紙が届いていないか、ソキは見に行かなくっちゃいけないです」
ん、んっ、とぐずる声でもそもそ身を起こしたソキに、リトリアはすぐに持ってきてくれるようにお願いしたでしょう、と水濡れた花のような声で囁いた。しっとりと柔らかに、かぐわしく、夜の静寂と暗闇を宥めて行く声。
「どんなに夜の遅くでも、私もソキちゃんも寝てしまっていても、起こして構わないから。お返事が来たらすぐ、持ってきてくださいって、ソキちゃんはお願いしていたでしょう?」
「でも、でも、でもぉ……! もしかして、やっぱり、起こさないようにって、朝まで待ってるかもしれないです」
だってロゼアちゃんはお返事をくれたです。きっと、すぐにです。ソキにはちゃぁんとわかるです、とくちびるを尖らせてくずり、ソキはふらふらと頭を不安定に動かした。うー、と瞼に手をあててねむたさと戦いながら、それでもやはり、ちっとも眠れる気はせずに。ソキは困り切った顔で沈黙するリトリアに、『扉』の前まで見に行きたい、と訴えた。部屋の外は、未だひとのざわめきと気配に満ちている。華やかな夜会が催されているようだった。誰か、ひとりではない誰かが起きて、さわさわと気配を押さえながら同じ建物の中で動きまわっている。『お屋敷』の雰囲気に似ていた。だからこそソキはわがままを引っ込めることができず、ロゼアちゃんのお手紙を取りに行かないといけないです、と鼻をすすった。
「ソキ、ちゃぁんと、ひとりで行って、戻ってこられるです。ねえ、ねえ、いいでしょう……?」
「ソキちゃんが、どうしてもって言うなら……私も一緒に行くわ」
「どうしても、です。だって、だってね、ロゼアちゃんのお手紙はもう届いているに違いないです。ソキにはわかるです。おみとおしです」
わがままを怒りきれない表情で淡く笑って、リトリアの手がソキの髪をそっと撫で下ろす。ソキはもぞもぞ寝台から降りようとしながら、眠たさにぼんやりと瞬きをする。のた、のた、瞬きを繰り返し、ソキは届けてくださいってお願いしたのにいじわるをされたです、と頬をぷっと膨らませた。けふん、と咳き込んで、頬のふくらみが消えて無くなる。白魔術師かお医者さまを呼ぶべきかしら、と思い悩み、さっと寝台から立ち上がったリトリアの耳に、こん、と扉を叩く音が触れた。リトリアは、なにを考えるより早く、ぱっと身をひるがえして戸口へ駆けよる。鍵を開けてひと息に開けば、そこで苦笑したキムルと顔を合わせた。
「やあ、おはよう……ではないかな。ソキちゃんも、起きているだろう? お待ちかねのものだよ」
「ソキ、おうちにかえれるぅ? おうち、帰れるようになりましたです?」
「ロゼアくんからお返事だ」
よちよち、よち、と歩んで来たソキの言葉を微笑んで流し、キムルは膝を折って目の高さを同じにしながら、持っていた封筒を差し出した。灯りの熱とひかりに揺れる暗闇の中、火の粉が爆ぜて溶け込んだような色をした封筒だった。夕陽がねぶる砂漠の、煉瓦の色にも似ている。触れればぬくもりを宿している、と思わせる色。ソキはそっと手を伸ばして受け取り、ありがとうございますです、とキムルにぺこんと頭を下げた。それから大急ぎで、立ったまま封筒を開く。すぐに会えるよ、とロゼアは囁く。砂漠の砂の色をした便箋に、宝石を砕いたような碧のインクで言葉が綴られていた。すぐに会えるよ、ソキ。大丈夫。すぐに会えるよ、だから。今夜はお眠り。おやすみ、ソキ。いい夢を。
急いでそれだけを綴ったらしい。便箋は一枚きりで、書かれていたのはそれが全てだった。ソキは何度も、何度もそれを頭から読みなおし、のた、のた、のた、と瞬きをしてあくびをする。
「んん……。ソキは、ねる、ことに、するです」
「……そうなの?」
「ロゼアちゃんが、おやすみなさい、をしてくれたです。ソキは、だから、ちゃぁんといいこでねれるです……ふぁ」
よちよち、てちて、と心持ち早足に寝台に戻り、よじよじよじ、とぬくもりを宿した布の上にあがって。ソキはもう一度手紙を頭から読み、まるでそこにロゼアがいるかのように、こくん、と甘えた仕草で頷いた。
「ろぜあちゃん、おやすみなさい。……キムルさん、ありがとうございましたです。リトリアさんも、ソキと一緒におやすみなさいをするです。遅くまで起こしてしまってたです……ソキはごめんなさいをします。リトリアさん、ごめんなさいでした。ソキはもう、ちゃんと眠れるですよ」
「うん。……ううん、どういたしまして」
「朝になったらまた、返事を書くといい。届けられるようにしておくよ」
小走りに寝台へ戻るリトリアと違って、キムルはまだ眠らない予定のようだった。眠る寸前の表情で、キムルさんはねむらないですか、と問うソキに、もうすこしばかりね、と笑い交じりの返事が返る。それではふたりとも、よく眠るんだよ、と囁くキムルの声が耳から消え、扉がぱたんと閉じるより早く。ソキはロゼアの手紙を胸に抱いたまま、くぅ、と穏やかな寝息を響かせた。
朝食をお出かけ仕様にしてもらい、ソキは『扉』の前にちょこんとばかり座りこんだ。目の前ではない。忙しく動きまわり、あるいは集中してなにかを探る魔術師たちの邪魔にならない、一定距離を挟んだ前である。香草茶を注いでもらった保温筒をんしょんしょと広げた布の上に置き、ほわほわの焼き立て白パンの入った編み籠を置き、そわそわと『扉』に視線を投げかける。まだ、まだ、ねえねえまぁだ、と言わんばかりの催促の視線に、数人の魔術師が苦笑いで振りかえり、もう数人が額に手を押し当てて天を仰いだ。リトリア、と救いを求めて呻く声に応えるように、廊下の向こうから足早に、藤色の少女がやってくる。
もう、と笑う声はソキを咎めているようでもあり、暖かくそのわがままを受け入れているような響きだった。リトリアの声は、常に柔らかく響く。それが誰に対してもそうであるのか、ソキに対してだけ、周囲が言うようにお姉さんらしく頑張っている結果であるのかは、未だに分からないことだった。ソキは、あさごはんはー、ここでー、た、べ、る、で、す、ぅー、と歌うように告げてえへんとばかり胸を張る同朋の前に、楽音の予知魔術師は苦笑しながらしゃがみこんだ。
「駄目でしょう? ちょっと目を離した隙に、いなくなったら」
「ソキはちゃーんと、リトリアさんに、朝ごはんをおべんとにしてもらっていいです? って聞いたですー。リトリアさんは、ソキに、いいですよ、って言ったですー。食堂のお姉さんたちも、おでかけするの? いいねぇ、って、言ってた、で・す・うー!」
「……言った……? かしら……」
恐らく、今日の身の振り方について、王からの伝言を賜っていた最中であったと思うのだが。うっすらと服の端を引かれたような、それに対してなにか返事をしたような、気がしなくもなく。リトリアはううぅん、と眉を寄せながら、己の朝の適当さをひとしきり悔いた。リトリアさんは言ったですソキは嘘ついてないですえへへん、とふんぞり返って主張したのち、いただきます、と告げてほわほわの白パンをほおばった。あむ、あむ、あむ、と食べながら、視線を向けるのは『扉』である。腹の虫がせわしなく主張するおなかに手をあてながら、リトリアは頬を染めて同じ場所を見た。
「まだ……えっと、その、だいぶ、すごく、もうすこし、終わらないと思います。だから、ね? ソキちゃん、ここじゃなくて、食堂で食べましょう?」
「リトリアさんは、食堂でご飯を食べるです。いってらっしゃいですー!」
ひとのはなし、きかない。ぺかーっとばかり輝く笑顔で背後にそう文字を浮かばせ、ソキは額に手をあてて沈黙するリトリアに、ぴこぴこと手を振った。いってらっしゃいをー、した、ですからぁー、ソキはここにいるですー、いってらっしゃいしたですぅー、とふにゃふにゃ歌うようにご機嫌で呟き、ソキはあむ、あむ、と白パンをひとつ平らげ、一緒に用意してもらった濡れ布巾でちまちまと指先を拭った。籠の中にいれてもらった白パンは、もうひとつある。それと見つめあうようにソキはむむむっと眉を寄せ、ちょこ、と首を傾げて考えてから深々と頷いた。
「これは、お昼のソキとはんぶんこです。ですので、ソキはこっちを食べます。うさぎさんりんごー!」
なんと二切れもあるんですよ、と誰にともなくすごいでしょうと自慢して、ソキはまたちまちまと指先を拭ってから、それを持ち上げた。うさぎの頭からちまちま、ちまりとかじりながら、ソキはしゃがみこんで半眼になっているリトリアを、不思議そうに眺めやった。
「リトリアさん、どうしました? あっ、うさぎさんりんごはねぇ、食堂のお姉さんがねぇ、うさぎさんなら食べられるかなー? って言って、ソキに特別にむいてくれたんですよ。でもリトリアさんも、お願いすればうさぎさんりんごにしてくれると思うです。甘くって瑞々しくっておいしいです!」
「ソキちゃんの、朝ごはんは……もしかして、もしかしなくても、そのパンひとつとりんご二切れ……?」
「ソキはおなかいぃっぱい、食べたです」
しゃくしゃく、ごくん、とりんごを飲み込んで、ソキはちまちまと指先を拭った。場にロゼアがいたのなら、完璧に飽きている、と判断してあの手この手で食事を続けさせただろう。しかしソキの食事事情に精通した『傍付き』はこの場におらず、王宮魔術師たちはその事実を知らない。リトリアも、『学園』に向かう最中に傍で見ていたこともあり、逆に、あの時よりは少ないけれどソキの食事量はこれくらい、と思ってしまった。おなかいっぱいならしょうがないね、と心配しきった目で溜息をつき、『扉』から視線を外さないソキに囁きかける。
「それじゃあ、すぐに戻るから……どこか移動したくなったら、必ず王宮魔術師の誰かに声をかけてね」
「ソキ、ロゼアちゃんの所へ帰りたいです」
「うん。……うん、そうね。そうだよね……」
それ以外のどこかへなど、行きたくはならないのだと。拗ねた声で主張するソキに、リトリアは手を伸ばした。ソキがどうしても、と言って聞かなかった為に昨日と変わらない髪型は、寝乱れてくしゃくしゃになってしまっている。形の崩れた、髪で編まれた花のかたちを、もうすこしどうにか見栄え良く整えて。リトリアは、大丈夫ですから、と囁いた。ソキは視線を向けずにちいさく頷く。なにがですか、と尋ねることはできなかった。その日も、ソキは昼寝をすることができず。日が沈み、夜が訪れた。
普段なら眠っている筈の時間に起きていたせいで、ソキの機嫌も体調もゆるゆると悪くなっていた。元々、朝になったら帰れるという思いが機嫌を良くさせていただけなので、他に上向いて行く理由などある筈もない。昼を回り、日が沈み出し、あたりが暗くなると、ソキはぶすうううっとして誰とも口を利かなくなった。借りたクッションをぎゅむぎゅむと抱きつぶしながら、そこに頬をくっつけて『扉』を見つめ続けている。そこに、日中慌ただしく動きまわっていた魔術師たちの姿はない。僅かに二名が『扉』の前で書きものをし、考え込み、時折言葉を交わしているだけで、解決に繋がるような行動をなにもしていない、というようにソキには見えた。
陽が落ちる頃、もうしばらくかかるようだから今日もリトリアと一緒にお泊まりしてお行き、というようなことを、誰かがソキに告げたのだが。それをソキは聞かないふりしたので、知らない、ということにしていた。『扉』の接続は停止状態であるのだという。それがどういう風な、どういう状態で、どういうことをすればそうなって、どうすれば直るのか、というのを、誰かがソキにちゃんと丁寧に教えてくれたのだが。とりあえず今日も帰れないし、明日も駄目だと思うし、明後日もまだ難しい、まで聞いた所でソキはふぎゃあぁあああっと荒れた威嚇の叫びでばたばた暴れて、なかったことにしたので、つまり明後日までまだ帰れないかもしれないなんていうことは、ソキはちっとも知らないのである。
手紙を送るのも、調整の一環で行われていることだった。その調整も様子見となってしまったせいで、ソキの手元には昨夜と比べてもう一通、ロゼアからの手紙があるばかりである。それは昼前に届けられた。淡い光を放つ封筒が『扉』の前に突然に現れ、今まさに誰かがそこで持つ手を離したかのように、廊下に落ちて行ったのである。恐らくは朝に書かれた、ロゼアからの手紙だった。眠れたかを心配し、起きられたことを褒め、朝食を食べられる分だけは食べるように、と綴られた手紙を読んで、それをぎゅぅと胸にかき抱き、ソキはうるんだ目でくちびるを尖らせた。ソキはちゃぁんと朝ごはんを食べられたんですよ、と主張はしょんぼりとしていて、傍らでリトリアが遠い目をしていた。
ちゃんとの意味と基準が違いすぎて、私どうしたらいいか分からないんだけどソキちゃんにはあれがちゃんとなのかしら、と呻いていた、ような気がする。それから、ソキはリトリアに頼んで綺麗な、それでいて落ち着いた風合いの紅葉色の便箋と黒いインクを借りて、ロゼアに向かって返事を書いた。そこへソキはもうちょっとでおうちに帰るです、ロゼアちゃん待っててねぎゅっとしてねだいすき、といっぱい書いたのに。日がすっかり落ちて、夜になってしまった。王宮魔術師たちは夕食を取りに行ったので、このままでは一日が終わってしまいそうだった。もうちょっと、と書いたのに。ソキは今日の、お昼になる前にも帰ってロゼアの腕の中でおひるねをするつもりだったのに。もう夜になってしまった。
クッションに顔を埋めて、ソキはすん、すんっと鼻を鳴らす。ロゼアが部屋に用意してくれているクッションは、どれもふわふわのもふもふで柔らかくって気持ちよくって、ソキの大好きなお花の匂いがやんわりと香るのに、借りたそれからはちっとも匂いがしなくて、悲しい気持ちになる。どこかから、あたたかい食べ物の匂いがした。ソキはきゅぅとくちびるに力をこめ、クッションに頬を擦りつける。おなかがぐるぐるして、だるくって、気持ち悪いので、ソキは夕食はいらないことにした。ロゼアからの手紙には、朝ごはんのことだけが書かれていたので、お昼と夜をソキは食べていなかったが、きっとそんなには怒られたりしない筈だった。どうしても食べ物を口にいれる気がしないのだった。
「ロゼアちゃん、ろぜあちゃん……。ソキの髪、くしゃくしゃになっちゃったです……」
昨日の朝、ロゼアが丹念に梳かして編んでくれた髪は、寝乱れて一日そのままだったせいで、修復不可能なくらい乱れてしまっている。それを、ソキは今日のお昼寝が終わったら、ロゼアにぺったりくっつきながら直してもらう予定だったのに。『扉』は全然動かず、手紙も、書類も、なにもかも届かなくなってしまった。『扉』は年に数回、突然動かなくなることがある。それは数時間だったり、数日だったり、長ければ一月ほどかかることもあるそうだった。その間は各国王宮にひとりは所属している空間魔術師か、あるいは世界を渡って行く力と適性のある魔術師が連絡役として動き回ることになっているらしい。明日から、楽音では風の属性を持つ魔術師が、各国と連携して動くことになるそうだった。空間を繋ぐ適性を持たぬ魔術師であっても、風の属性を持ち強い魔力を備えるものだけが、世界を渡って行くちからを抱いている。
それを聞いてソキは、まっさきにナリアンを想い浮かべた。魔力に上限のない、魔法使いであるナリアン。ソキにいつも優しくしてくれる青年が、迎えに来たよ、と笑って手を差し出してくれるのを夢想する。そうしたらソキは、ちゃんとお世話になりました、ありがとうございました、と言って『学園』に帰れるのに。ロゼアのところへ帰れるのに。こんな風に帰れなくなることなんて。傍からどうしようもなく、離されてしまうだなんて。傍にいられなくなるだなんて。ソキは一度も、考えたことがなかったのに。
くすん、すん、すん。すん、けふ。けふ、こふ、こふ。こふふん、けふん。
「やぅ……。お茶を……飲むです……。お咳がでるぅ……」
砂漠へ行くのにロゼアがしろうさぎちゃんリュックに用意して持たせてくれた一杯分の香草茶は、朝に飲んでなくなってしまった。あとは飴がひとつぶ、こんぺいとうがほんのすこしあるが、それを食べる気持ちにはどうしてもなれない。もし、もしも、それを食べても『学園』に帰れなかったら。ロゼアがくれたものがなくなってしまう気がした。おちゃをおねがいしなくちゃいけません、と呟き、ソキはうるむ目で何度もまばたきをした。『扉』の前にいる魔術師に話しかけて、リトリアの所か食堂へ連れて行ってもらって、必要な茶葉を数種類用意してもらって、それを混ぜてお湯と入れ物を借りればいい。必要なことは分かるし、必要なものだって、ソキはちゃんと分かる。教わっていたし、覚えているから、できるのだ。
ロゼアから永遠に離れなければいけなくなった日の為に。それは『花嫁』にも教えられていた。
「でも、でも、でも……今だけ、です。今だけ、だもん。もう、ずぅっと、会えないわけじゃ……」
『――ホントにそうかな?』
笑みをたっぷり含んだ声が内側から響く。低く奏でられる、男の声だった。それをソキは知っている筈なのに、上手く誰のものなのか思い出せない。恐怖で喉が引きつって、声が出なくなる。ぎゅうぅ、とクッションを抱きつぶしていやいやと首を振るソキに、言葉はくすくすと囁いた。
『このまま、キミはもう帰れないカも知れないヨ……?』
「そ、な、こと、ないもん……ないです。帰れますよ……」
反論の声は弱々しかった。王宮魔術師たちはソキにとても優しかったけれど、帰りたい、と求めるソキの言葉にいいよ、と言ってくれる者はなかったからだ。誰もがもうすこしだけ待ってほしい、と告げた。もうすこし、がどれくらいの間のことなのかを。誰もソキに教えてくれなかった。囁く者の姿は傍にないのに。クッションに顔を埋めてぽそぽそとか細く呟くソキの声を、離れた場所にいる魔術師は誰も聞きとめることがない。ソキの態度を不審に思う瞳も、場にはひとつもなかった。
『ソウかな? じゃあ、キミは帰れるカモ知れなイ……でも、ソレは、いつのことかナ?』
「……もうちょっと……あとです」
『その間に、ロゼアクンにはイイヒトが出来ているかも知れなイねぇ……?』
魔力が揺れる。血の気が引く音をソキは聞いた。心のどこかで否定して否定して考えないようにしていた、それは最悪の事態だった。そんなことないです、と震えるくちびるに力をこめ、ソキはぎゅっと瞼を閉じてクッションに顔をすりつける。慣れないしっかりとした生地からは、花の匂いのしない。
『だって、ソウだろう? キミはそうは思わないノ? いつかは帰れる。でも、いつまで帰れるかは分からない。いつまでも、いつまでも、ナガク帰れなかったら……それは、キミがどこかへ嫁いでしまうのとどう違うのカナ? 約束を交わした訳でもないんだろウ?』
「やく、そく……」
頭の中で。わん、と反響するように響く声が意識を塗りつぶして行く。息苦しさと恐怖の中で思い出すのは、地平に沈む夕日のことだった。どこまでも、どこまでも続く砂原を眺めていた。あれは『お屋敷』のどこだったろう。ソキはどうしても、そのことが分からない。
『約束、ですよ』
透き通る血のように赤いひかりが、建物のすべてを染め上げていた。
『……絶対、来てくださいね』
夕闇がひたひたと、足元まで迫っていたことを思い出す。
『行く。どこでも行くよ。……ソキ、だから、必ず』
『はい』
『必ず、俺を』
夜が。
『呼んで』
夜の訪れが、もうすぐそこまで迫っている。そんな時刻のことだった。
「ろぜあちゃん……」
ひとりきりの夜が。別々の夜が。もうすぐ、そこにあるのだと。
「ろぜあちゃん、ロゼアちゃんっ、ロゼアちゃ……! ロゼアちゃん……っ、ソキ、そき、ちがうですよ。嫁いだ、じゃ、ないですよぉ……。ソキは、ソキはきっと、ちょっぴり、まいごに……迷子になっちゃっただけだもん……。ソキ、ちゃんと、おうちへかえれるもん……」
『迷子のマイゴの、ボクのかわいいお人形さん』
くすくすくす、と言葉が歌った。
『さあ、キミはイイコでお家へお帰り……? キミはひとりで、ロゼアクンの元まで辿りつける筈だヨ……』
分からないなら、と夕陽を地へ沈め闇深く閉じ込める、塗りつぶされた暗闇のような、夜の声が囁く。
『ボクがキミに力を貸してあげよう。やり方を教えてあげようネ……?』
「ソキは、ソキは……!」
「……ソキ?」
訝しむ声が頭上から振って来て、ぐい、と強引に腕を掴まれ引っ張られる。ひっ、と響かない悲鳴で喉を締めつけ、視線を持ち上げた先、あったのは珊瑚色の瞳だった。まばゆい月明かりの海に沈む、磨きあげられれば宝石にもなるその色。ソキは震えながら、その男を呼んだ。
「りょうちょ……? りょうちょ、寮長……寮長です……!」
「お、おお? おう、どうした、ソキ」
「寮長……! うやぁああぁあ……!」
持っていたクッションをぼてりとばかり床に落とし、ソキは寮長に腕を伸ばして抱きついた。腹に顔を埋めて擦りつけながら、ふにゃぁふぎゃあんふやあぁあああっ、と不機嫌な声でぐずりだす。抱きとめることもできずに中途半端に腕を浮かせたまま、寮長はなんだこれ、としろめで天井を仰ぎ見た。そうしてソキが甘えるのは初めてのことだったので。どうすればいいのか分からないらしかった。