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 知らない廊下を歩いて行く。まっすぐな道を歩いて行く。天井の高い、ひどく狭い場所を歩いて行く。後ろを振り返ることが難しいくらいの。足元を見るのすら難しいくらいの。知らない、まっすぐな、狭い場所を歩いて行く。足音の響かない、ひどく柔らかい場所を歩いて行く。布の上を踏んで行くようだった。あるいは、捩じられた大量の糸の上を。織りあげられることが叶わなかった糸の上を。白い糸の上を。運命の上を歩いて行く。ソキは手を引く者の顔を見上げた。なぜだか、そこだけ暗くてよく見えない。誰に手を引かれているのか分からず、ソキはてちてち歩いて行く。怖い相手でないことは確かだった。それはたぶん、懐かしくて、大好きで、安心できる誰かだった。手の熱をぬくもりだと感じた。
 ねえ、ねえ、と歩く速度でゆらゆらと繋いだ手を揺らしながら、ソキはじゃれるような声で誰かに囁く。
「ソキはどこへ歩いているの? ……ソキをどこへ連れて行くです?」
「どこ、かな……。なんて言えばいいんだろうね」
「あ、あー! ナリアンくん、です! ソキ、ちゃんとわかったぁ! ナリアンくんですぅ!」
 幾度か聞いた覚えのあるナリアンの肉声とはすこし違う気がしたけれど、それは確かにソキと同じ年に入学した、風の魔法使いのものだった。低く柔らかく丁寧な囁きに、五月の新緑の葉先、光を弾くきらめきがそっと宿る。頭上から降ってくる声にご機嫌になりながら、ソキはナリアンくんナリアンくん、と笑って、てちてちと歩いた。
「ソキはナリアンくんとお散歩をしているです。きっと、きっと、ロゼアちゃんのところへ行くです!」
「うん。うん、そうだね。ロゼアのところ。……ロゼアのところへ、行こうね」
「きゃぁんきゃぁあああん! ソキはロゼアちゃんのところへ! 行くですううう!」
 なぜだか随分と長い間、会えていない気がした。楽音に留められたのは数日であるのに。それよりずっと長い時間、ソキはロゼアに会うことができないでいるような、そんな気がした。それは数ヶ月や、数年といった時の連なりのようで。それをもう何回も、何重にも繰り返して、永遠のような長さで会うことが叶わないでいるような気がした。どうしてだろう。どうしていつも、会えなくなってしまうのだろう。ソキはいつも、いつだって、どんな時だって、ロゼアの傍にいたくて、一緒にいたくて、それだけが望みなのに。どんな時も、どんなに迷っても、どんなに惑っても、それだけがソキに残されるたったひとつの望みで、希望なのに。どうしてたったそれだけのことが、いつだってうまく行かないのだろう。
 ソキはナリアンの指先を、ぎゅっと握って鼻をすすりあげた。
「ナリアンくん」
「うん。なに、ソキちゃん」
 返事をして、微笑む声で名前を呼んでくれる。その言葉のやり方は、ロゼアのものにとてもよく似ている。ゆらゆらと腕を揺らし、ぎゅ、ぎゅぅ、と手に力をこめて握りこみながら、ナリアンの声が囁いてくる。なに、ソキちゃん。ソキは息を吸い込んだ。道の先はまだ見えない。
「ソキは、また、まちがえてしまったです……?」
 みんなが、とても、一生懸命に頑張ってくれているのに。くれたのに。ソキがそれを理解できるのは、いつもいつも、最後の最後のことだった。最後の一呼吸。息が途絶える寸前に。また駄目だった。まだ駄目だった。たくさん間違えてしまった。そしてまた、ソキはロゼアと一緒にいることすら叶わなかったのだと。ソキがきっと我慢のきかないわがままだからいけないです、と鼻をすすると、ナリアンの声が違うよと囁く。狭い道で手を離すことも、撫でることも、立ち止まって抱きしめることもできないから。その声ひとつで抱きしめるような、暖かな響き。
「どれが、誰が、間違えたなんて……そういうのじゃないんだよ、きっと」
「でも、でも、でもぉ……!」
「それに、もしも……もし、間違えてしまってても、ちょっとくらいなら大丈夫だよ。俺がどうにかしてあげられるし、メーシャだって、ロゼアだって……力になれる。間違わないことが大事なんじゃないんだよ、きっと。それを、俺はもう、間違いとか、そうじゃないとか、そういう風にも呼びたくはないんだけど……なにか、あって。なにかあった時に。それで、そこから、どうするか。ずっと一緒に考えていけたらって、思うよ」
 なんの間違いもないことが正解じゃなかった。たぶん、これはそういうこと。それだけのこと。だから、もう大丈夫なんだよ。ぐずるソキを宥めるように、ナリアンの声が囁いて行く。道の先が見えない。どこまで続いているか分からない場所を、二人は手を繋いで歩いて行く。
「ソキちゃんは、我慢なんてしなくていい。ソキちゃんがしたいように、好きにしてよかったんだ。いつも、ロゼアはそう言っていたよ。我慢しなくていい、して欲しいことを言って、教えてって。……ねえ、俺にはよく分からないけど、いまでも、それをたぶん、ちゃんとは、分からないままだけど。ねえ、ソキちゃん。それは、それが、ロゼアのせいいっぱいだったんじゃないかな」
「ロゼアちゃんの……?」
「そう。傍にいたい、ってどうしても言えないようにされたロゼアの。傍にいるよ、って。そういうのがせいいっぱいの、ロゼアの」
 求めて。自分から求めて、欲しいって言って、願って渇望して手を伸ばして欲しい。何回も何回もそれを願った。何度でもそれを期待した。たった一度だけでもよかった。求めてくれたら。求めてさえくれたら。
「言葉は、難しいね。ほんのすこし、違うだけで、伝えたいことが伝わらなかったり……伝えている筈のことが、分からなかったりする。俺にはね、ソキちゃん。ずっと、ロゼアの言いたいことが分かってたよ。傍にいるよって、いうのは」
 立ち止まって、繋いだ手に力をこめて。ナリアンが微笑む。
「ソキちゃんが傍にいてって言ってくれる限りに、ずーっと離れない。そういうことだよ」
「……それは、ロゼアちゃんが、ロゼアちゃんの気持ちで、ソキのお傍にいたいっていうことです?」
「そうだよ。きっと、ずっと、そういうことだったんだよ」
 くすくす、と笑って。よく分からない、と眉を寄せるソキに、言葉が告げる。
「ロゼアの望みは、ソキちゃんの望みを叶えること。望みというか……なんて言ってたっけ。生きがい? 趣味? ……うん、ロゼアは呼吸するのと同じくらいの感じで、ソキちゃんの好きなようにするのが、好きというか趣味というか……ソキちゃんが全てなんだな、って思う。ロゼアの中は、ソキちゃんへの気持ちでいっぱいに満ちていて、だからそれを失うと生きていけないくらいなんだけど。それなのに、もしソキちゃんがロゼアを嫌うようなことがあったら、傍から離れるよって思ってる」
「ソキそんなことないないです! ソキ、ロゼアちゃん好きだもん!」
 なにがあっても。なにをされたとしても。どんなことがあっても。繰り返した世界の中、幾重にもからまった運命、その中で生きてきた命をぜんぶかけてもいい。誓える。
「ソキはロゼアちゃんが大好き。ずっと、ずっと、大好きです。きらいになることなんてないです」
「うん、うん。そうだよね。そうだったよね……ソキちゃん。俺は思うんだけど、ロゼアもそれ、無意識に分かってるんじゃないかな……」
 つまり。
「ロゼアの傍にいるよって、その起こり得ない可能性ひとつを除いて、なにがあっても離れないよってことだよソキちゃん……。それってアレだよねロゼア。最初から全然離れる気なかったよねロゼア……俺はいまでも不思議なんだけど、ソキちゃんを嫁がせるのが『傍付き』の役目だったとしても、ほんとにそれできたのかなっていうか全然そうは思えないっていうか、ソキちゃんが直前でやだやだって言って連れて逃げるよね毎回絶対そうだよね……! ああ、でもなんかいくつか、そうでないのもあったっけ……ソキちゃんのお呼ばれが遅いとか、ソキちゃんの歳がいまよりもっとちっちゃいとか、あの、今の俺たちとは違う差の世界は……それでも、それなりに幸せに閉じてるから、ここへ来ることはないけれど」
 途中から完全にひとりごとになったそれを聞きながら、ソキは分からないですと頬をふくらませた。てちてちてち、と歩いて行く。
「もう、ソキはどうすればいいですか……!」
「ロゼアの傍から離れなければいいんじゃないかな。なにをしてもいいから」
 でも、とソキは目を瞬かせた。ソキはロゼアの傍にずっとずっと居たいけれど、でも、それ以上にもしかしたら。その望みを手放したとしても、ロゼアに。幸せになって欲しいと思う。ソキちゃん、と笑いを含んだ声が囁く。
「例えばの話をしようか。例えば、もしも、もしかしたら。俺はもう絶対なにがあってもほんとのほんとになにがあろうともそんなもしもはないと思ってるんだけど、それでも、もしも。ロゼアの傍にソキちゃんがずーっといて、そのことでロゼアが……例えば、ソキちゃん以外の、ロゼアを幸せにできる、ロゼアが幸せになれる女の子に、巡り会えないとして。そうするとたぶん、ロゼアは世界で二番目の、幸せになってるってことなんだけど。それじゃだめなの? ……もしもだからね、ロゼア。俺は可能性の話をしてるんであって、そもそも順位とか存在しないで、ロゼアの幸せがソキちゃんだってことを分かってるからね……!」
 彼方に向かって祈るように弁解したナリアンに、ちらりと視線を向けて問われて。ソキは困惑に俯いてしまいながら、ソキはロゼアちゃんの二番目になったことがないから分からないです、とがっかりしながらしょんぼりとした。
「ソキは、いつもロゼアちゃんの一番だったです……。ソキがずーっとお傍にいると、二番目になっちゃうです……? そんなのはやです」
「あああぁああ、違う! 違うよ、そういうことじゃなくてね……? そうじゃなくて。ソキちゃんは、どこかに、ロゼアを幸せにできる女の子がいるって、なんでかそういう実現不可能なことを思って色々しちゃうことが、これまでにもよくあったけど」
「……ぷぷぷ」
 拗ねた声で頬をふくらませるソキに、ナリアンはだってそうでしょう、と遠い目をした。
「とりあえず、もしもの話だけど……。そのまま、ソキちゃんが傍にいる幸せを、ロゼアにあげ続けるんじゃどうして駄目なの? ってこと。本当にもしも、ソキちゃん以上にロゼアを幸せにできるひとが、俺はいないと思うけどいると仮定して、どうしてそのひとの為にソキちゃんがロゼアの傍を離れなきゃいけないの。……ロゼアが、いつ。ソキちゃん以上の幸せを欲しいって、ソキちゃんに言ったの? ロゼアはそんなこと、一言も言ってないのに。どうしてソキちゃんは、ロゼア以外の誰かが言ったことを、そんなにロゼアにしようとしたがるの。……ね、いいよ。もう良いんだよ」
 そういう風にしなきゃいけないんだとしても、ソキちゃんはもう十分にそうしたし。俺たちは十分にその結果を与えられたよ。だからもう、いいよ。もうやめにしようよ。ね、と告げられて、ソキは涙を堪えて瞬きをした。
「ロゼアちゃんは……ソキの、あげられる、のでも、幸せ、かなぁ……」
「うん。それはいつか、ソキちゃんがロゼアに聞くことだね」
「うぅ……ソキ、ソキ、でも……ソキはロゼアちゃんを幸せにできる女の子にも、なりたいです」
 俺はロゼアの手前絶対そんなことを口に出したりしないけど、ソキちゃんをロゼアを幸せにできる女の子じゃないなんていう風に思いこませた『お屋敷』の教育部とかそういうのを二三回は切り刻んだりしたいな、という微笑みで、ナリアンはそれも、そのうち聞けるといいね、と囁いた。そうして、ナリアンは足を止める。まっすぐな、狭い、布や捩じられた糸のような道の先、廊下の終着点。けれども、続いて行くその先を指差して。ナリアンは、さぁ、とソキの歩みを促した。
「さあ、今度こそ。今度こそ……辿りつけますように、ソキちゃん。運命の覆った、その先まで」
「……ナリアンくんは?」
「俺はここまで。この先は、細い運命の分かれ道。俺が導いて行けるのは、ここまでと……この、もうすこし先から、また次の大きな転換点まで。でも……もうそこでは、俺は、君に、会いたくない……」
 くしゃくしゃの、泣きだしそうな顔で笑って。ナリアンは繋いでいた手をそっと離した。その指先を捕まえて、ソキはナリアンをぐっと引っ張る。
「ナリアンくんも、一緒に行くです!」
「行けないよ。行けないんだ。……俺は行けない」
「行くです! 行くもん。一緒行くぅ……! ナリアンくん、言ったです。ソキの好きにしていいって言ったです……! それに、それに、いつかメーシャくんは言ったです。みんなで、目指して行こうって。みんな、です。ソキだけじゃだめです。ナリアンくんも、一緒じゃなきゃ……ロゼアちゃんも、メーシャくんも! だから、ナリアンくん、ナリアンくん……!」
 ここで。そんな風に手を離そうとしないで。
「……ソキちゃん」
 ふ、と笑って。泣き出す寸前の顔で笑って。片膝を折ってしゃがみ込み、ナリアンはその腕にソキを抱いた。ぎゅうっと一度だけ強く抱きしめ、あとは緩やかな腕の輪で、守るように包み込む。
「大丈夫。俺は、そこにいるよ。……繰り返し過ぎたせいかな。俺も、メーシャくんも、ほんのすこし覚えてる。だから、俺も……ソキちゃんと一緒に、成長していく俺も、一緒じゃないけど『俺』だよ。だから……今度こそ、ソキちゃん。俺に……俺にも、どうか……守らせて」
「ナリアンくん……?」
「俺を呼んで」
 助けて欲しい時が、くるよ、と。苦しげにナリアンは吐き出した。
「ソキちゃんが、どうしようもなくなった時。誰かに助けを求めたい時、俺のことを思い出して。俺は必ず、君を守るよ。……覚えておいて、ソキちゃん。忘れないで。ロゼアの他にも、絶対に、君を守るひとがいるってこと。俺がその一人だってこと。その時に……必ず、俺を呼んで」
「……やくそく?」
「……うん。うん、そうしようか。約束」
 小指をからませて、ゆるゆると上下に動かして。ナリアンはソキと額を重ね、瞳を覗き込んで優しく微笑んだ。
「必ず、俺を呼んで」
「うん……」
「約束」
 約束です、とソキは呟いた。にこっと笑ったナリアンが指を解いたその手で、ソキの肩を先へ押しやる。そこでソキは、長い長い夢から目を覚ました。夕陽が苺味の飴のような色を空気にふりまく時だった。ぽやぽやと寝台の上で瞬きをして、ソキは鮮明な夢をなんとか記憶に留めようと、そのことを懸命に考えたのだけれど。それはいつの間にか消えてしまい、一欠片を胸の片隅に転がしただけで、すぐに分からなくなってしまった。たくさん眠った体をぽてりと寝台に横倒しにし、ソキはふあふあとあくびをする。ひつじを数えておやすみなさいをするのは、もしかして正解なのかも知れません、と目をこしこしこすって。ソキは横になったまま、ぐぅっと手足を伸ばしてみた。
 まだだるいけれど、熱は下がったようだった。



 ソキが砂漠の王の面談の帰り、戻れなくなったのが一日目。楽音に来て五日目の朝を迎えたソキを見るなり、寮長は顔をしかめて盛大に溜息をついた。昨日会った後は眠れたと聞いていたので、すこしは回復しているかと思ったのだが。寮長が見たところ、じわじわと弱っているようにしか思えない。熱は引いたらしく顔色は良かったが、だるそうに結ばれたくちびるから、零れる言葉はふわんふわんしていて大変聞き取りにくい。『学園』にいる間は、ロゼアが趣味のように梳かして飾って整えている髪はつやを失い、なんとなくパサっとしていた。肌も水気を失っていた。触ればふわふわもちもちしていたのに、今はカサついて荒れてしまっている。恐ろしい程の透明感が、今はない。
 お前よく数日でこれだけ弱れるな、といっそ感心しながらしゃがみこみ、顔を覗き込みながら言ってくる寮長に。ソキはぷーぷぷぷ、へにょっ、と力ない仕草で頬を膨らませてみせた。
「ソキはロゼアちゃんがいないと元気がなくなっちゃうです……でも、ソキは昨日も、今日の朝も、とてもとってもがんばたです。ごはんをね、食べようとね、したんですよ。ね、ね、リトリアさん? ソキ、がんばった……!」
「そして戻しました……。すりリンゴは行けたけど、パンは厳しかったね……」
「お前よくその体調と食欲でパンに手を出そうとしたな……。うん、そうだな。根性だけはあるんだよな、お前。よしよし、よく頑張った。……今もまだ気持ち悪いか? 服は変えてもらったんだよな」
 わしわし、やや乱暴に撫でてくる寮長の手に、うゆうゆ、と力なく嫌そうな声を出して身をよじり。ソキは問いかけには頷いて、髪をくしゃんくしゃんにしようとする不埒な腕を、指先で一生懸命突っついた。
「りょうちょ、やぁんやぁん……! 髪の毛がくしゅくしゅになっちゃうです。梳かすの、とっても大変なんですよ」
「……そうか。お前、自分で髪を梳かせるんだよな」
 愛娘の成長を目の当たりにした父親のような仕草で、寮長が目がしらを手で押さえた。寮で見ている分にはそう思えないのだが、普段ロゼアにやってもらっていることでも、そういえばソキはひとりで出来るのだった。そうだよな、お前ロゼアがいないでも『旅』して来れたんだもんな、としみじみと頷き、寮長はそんなことはいいですからおてがみをよろしくお願い致しますです、と差し出されるのに、そういえば、と言葉を重ねた。
「もう一通書いてくれるか。案内妖精あてに」
「リボンちゃん? ……お返事のおてがみなら、ソキは書くですよ?」
 リボンちゃんからのがあるならちゃんとくれないとだめです、と両手を差し出すと、寮長は苦笑いをして手紙を預かったりはしていないんだが、と言った。なんでもここ数日、『寮』に滞在している案内妖精は、とにかくロゼアを中心に怒りをぶちまけているらしい。主たる被害者はロゼア、次いでナリアン、メーシャ、寮長と続く。視線があっただけでも、お前誰の許可を得てアタシを見た、と特級の難癖をつけてくるので、扱いにくくて大変らしい。リボンちゃんったら今日もちからいっぱい理不尽です、と息を吐き、ソキは周りの苦労が分かるよな、と言ってくる寮長にこくりと頷いた。
「ソキは、じゃあ、リボンちゃん怒ったりしたらだめですよ? ってお手紙書けばいいです……? そんなことより、ソキがおうちに帰ってリボンちゃんにもただいま、をすればいいと思うです。ソキおうちかえる」
「俺もそれが最善だとは分かってるんだがな……」
「もおぉ……ソキはいつになったらおうち帰れるです? みぃんな、まだだめ、っていうぅ……」
 帰りたいなら。くすくす、笑い声が、ソキの中で囁いて行く。
『チカラを』
 密かに。
『貸してあげるヨ……?』
 一瞬。
『ボクのかわいいお人形さん』
 羽音のように反響する。
「……過去の事例を遡って調べたが、一ヶ月より長く使えなくなった例はなかった」
「い、いっかげ……つ、で、す……? ……ソキはもうげんきがなくなっちゃったです」
 ぶわっと涙ぐみ。目を手で押さえてしゃがみ込んだソキを、寮長は眉を寄せて見下ろした。ためらいがちに手を伸ばし、頭に触れ、拒絶される仕草がないことを確かめてから、ぽん、ぽん、と撫でる。
「安心しろ。そんなに長くはならねぇよ」
「ソキはそんなに長くロゼアちゃんと離れてたことないもん……ないです。ないんですぅ……」
「はいはい、そうだな。そうだな」
 お前の中の計算だと、学園に向かってきてた『旅』の日数とか、『花嫁』として旅行だのなんだのに行ってた期間の計算はどうなってるんだ、という微笑みで、寮長は適当に頷いた。ソキの中では、それらは別、もしくはなかったことにされているだけである。義務としてどうしようもなく放り込まれたことを除いて、一月、というのはあまりに長すぎて、途方もなくて、過ごせるとは思えなかった。廊下にしゃがみこんだまま、力なく動けなくなってしまったソキを見て息を吐き、分かったもうちょっとなんとかしてやるから、と寮長が告げる。
 日に一度、巡る途中に訪れて通り過ぎて行く筈の寮長が、もう一度楽音に姿を現したのは。その日の夜。湯を使わせてもらったソキがほかほかしながら、なんだかきもちわるくて眠れる気がしないです、と魔術師たちの茶会室でくちびるを尖らせていた時のことだった。
「ソキ」
 響いた声にのろのろ視線を向け、ソキはくにゃりと首を傾げた。今日はもう会わない筈の寮長が、ひどく疲れた顔をして茶会室の入口に立っている。魔術師たちの集まる一室は、寮の談話室に雰囲気がとてもよく似ていて、ソキはそこで寝ぼけていたような気持ちで瞬きをした。戻れない、という夢を見ていただけではないのだろうか。すすん、と鼻を鳴らしてあれ、あれ、と混乱した呟きを零すソキに、シルがゆっくりと歩み寄ってくる。男の顔色はやや青ざめていて、だるそうに見えた。寮長は体調が悪いです、ときゅぅと眉を寄せて不安がれば、男はさすがに日に何度もあっちこっち飛びまわればな、と言ってソキの前にしゃがみこむ。視線の高さをソキより下にして、寮長はゆっくりと口を開いた。
「夕食、どれくらい食べた? 薬は?」
「……ソキはお茶を飲んだです。お熱がないから、お薬は、ないんですよ」
「今日は眠れそうか?」
 問いかけてくる意図が分からず、ソキはふるふると首を横に振った。だよな、と深く息を吐き、寮長がソキに手を出せ、と告げる。分からないまま両手を揃えて差し出したソキの手の中に、ころん、と転がってきたのはちいさな布の包みだった。一枚の布を袋状にきゅっと結ぶ、リボンにつけられた紙札に、飴、と書かれている。ロゼアの字だった。
「あ……め、です? ロゼアちゃんの……? え、え……? え?」
「お前の方が詳しいだろうが、喉が痛くなった時の飴だそうだ。こっちが、気持ち悪くなった時の飴。食欲がなくて、どうしてもご飯を食べられそうにないなら、この焼き菓子を」
 もす、もす、と寮長が取り出してはソキの手に山と積んで行くそれには、ひとつひとつ紙札がくくられていた。紙札は全てロゼアの字で、丁寧に書かれている。ねむれない時の飴、ご飯を食べられない時のたまごぼうろ、寂しい時の匂い袋。それを鼻先へ持って行くと、ロゼアが普段から纏っている香水の匂いがした。ぐずっ、と涙ぐんでくちびるにきゅっと力をこめたソキに、仕上げはこれな、と寮長が背負っていたものを差し出す。
「あ……」
 ソキは布袋を膝の上にばらばらに落っことしてしまいながら、それに必死に手を伸ばした。
「あするうぅうう……! あする、あするっ、ソキのアスル……! あする、あすぅっ……」
「はぁあ、しんどかった……。ロゼアのヤロウ、遠慮なく押しつけやがって……」
「アスル……。りょうちょ、アスル、どうしたの……?」
 今俺ロゼアが遠慮なく押しつけたって言ったよな、とぬるい微笑みで。寮長はその場に腰を落として座りこむと、差し出された冷たい水を喉に通し、額に浮かんだ汗を指で拭った。
「こうでもしないと、戻れるまでに徹底的に体調崩すだろ、お前……。これで眠れるし、ちょっとは食えるな?」
「うゆ……。ロゼアちゃんに、ソキがげんきないです、って、言ったです……?」
「俺がわざわざ、言うまでもなく……」
 誰か帰る前に魔力くれ枯渇しそう、と呻きながら額に指先を押し当て、眩暈を払うように頭を振って。寮長はよろけながら立ち上がり、仕方がなさそうな笑みを不安がるソキに向けた。
「ロゼアが、お前の状態を分からないとでも思ってんのか?」
「……ロゼアちゃんが分かなないことないです」
「わ、か、ら、な、い、だろ? お前ほんと……すぐ発音サボりやがって」
 アスルをぎゅむぎゅむに抱きしめて頬をすりつけるソキに、そっと手が触れて行く。
「頑張れよ、ソキ。俺たちも頑張るから。もうちょっと待ってろ」
「……いっかげつ、です? やんやん……やぁん……」
「一ヶ月も連日、連絡係にされたらお前も嫌だろうけど俺はたぶん過労で死ぬ。だから大丈夫だ」
 じゃあまた明日くるから、それまでにゆっくり寝て、余裕があったら手紙でも書いてろよ、と言い残して。寮長は息を吐いて気を正し、魔力の補充を受けて『学園』へ戻って行った。空間が無理に揺れ動く。その歪を、ソキはもう受け止めて感じられるようになっていた。陸地は続いているのだという。国境から、隣国へ行くことはできるのだという。けれど、『学園』はこの世界の地続きに存在せず。歩いてそこへ辿りつくことはできない。魔力というか細い糸が、砕かれた世界の欠片を繋いでいる。特別なちからを持つほんの一握りのものだけが、己の意思で渡ることを許されて。ソキはアスルを抱きしめ、顔を埋めて目を閉じた。
『でも、もう分かっているダロウ? ボクのかわいいお人形さん』
 茶会室の喧騒が遠くなる。
『キミには』
 どこにいるのか分からなくなる。
『ソレが』
 わん、と反響する声が。言葉が。
『できるよ……』
 言葉がそれを告げる。でも、とソキはくちびるで音を綴った。
「がまん、しなきゃ、いけな……です。それは、したら、いけない……」
 なんでもできる、魔法のちからだ。予知魔術師の扱うちからは、望みをなにもかも叶えてしまう。けれどもそれがどういうことなのか。心を凍らせる過ちとして、ソキはそれを知っていた。知っていたような、気がした。そんな間違いなんて、ソキは今まで一度も、したことがないのに。繰り返し経験してしまったことのように、それはしてはいけないのだと、思って。それなのに。
『ソキちゃんは、我慢なんてしなくていい』
 柔らかな声が。
『ソキちゃんがしたいように、好きにしてよかったんだ』
 どこかで、ソキにそう囁いたことも。記憶の中にうっすら、残っているような。そんな気がした。



 さあ、と覚悟を決めた声で、風の魔法使いは虚空を睨む。
「運命の分岐点だ。……ソキちゃん」
 繋いでいた、まだぬくもりを宿す手を握って。繰り返した誓いのまま、もう一度囁く。
「今度こそ行こう、皆で。……俺たちみんなで、そこを、目指そうよ。ソキちゃん」
 持ち上げられた腕。指はひとつのところを、前を指差してぴんとしなる。前を。前だけを指し示して。瞳は強く。
「――覆す。俺たちの世界の、先へ」
 未来を、願った。

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