アスルからはロゼアの匂いがした。ロゼアが好んで身に纏う、香水の匂いだった。瓶から直接香るものではなく、ロゼアの肌に乗せられて、淡く立ち上って行く匂い。ソキはアスルに顔を埋め、ふんすふんす匂いを嗅いで寂しがった。瑞々しい新緑と、柑橘系の果物と、緑茶の香りがほんのり甘く染み込んでいく。頬と額をアスルにくしくしすりつけて、ロゼアちゃぁん、と呼びかける。
「アスルがいい匂いするぅ……。ねえねえ、アスルぅ。もしかしてなんですけど、ソキがいないから、ロゼアちゃんにぎゅぅしてもらて寝てたです? ロゼアちゃんのぎゅぅ、で寝るのはソキのなんですよ? いいですか? ソキのなんですよぉ……? ……でもこれはもしかして、もしかしてなんですけどぉ! 間接、ぎゅぅ、ということです? ふにゃぁんうやんやんやんきゃぁあんはうぅううう! ソキも、ソキもアスルをぎゅぅってしてあげるぅ……! えい! ……んん。やっぱり、ロゼアちゃんのほんとのぎゅぅがいいです。ねー、アスル。ねー……」
ぎゅむりと抱きつぶしたアスルに頬をくっつけて、ソキはくちびるを尖らせた。ほにゃほにゃふわふわ響くソキの声は、寝静まった部屋にほよほよと漂うばかりで、はきとは響かない。深く眠りについたリトリアの吐息だけが、ソキの声のほかに耳に触れて行く全てだった。部屋は灯篭に封じられたちいさな火が揺れていて、起きているには心細くなく、書物を読んで時間をつぶすには頼りない。寝台に椅子を寄せ、上半身だけを伏せてすうすうと眠るリトリアをちらりと見つめ、ソキは申し訳なさに瞬きをした。もしかしてひとりの方がよく眠れるかも知れないから、とリトリアが寝台を提供してくれたのに。結局ソキは、アスルといちゃいちゃするばかりで眠りにつくことができないでいる。
リトリアが眠ってしまったのは、手を繋いでもらって横になったソキが、くうくうと眠るふりをしたせいだ。安心したのだろう。よかった、さすがロゼアくん、と嬉しそうに囁き、ほどなく伏せて眠ってしまった。繋いだ手はいつの間にか外れていて、リトリアの指はシーツをやわりと握りこんでいた。その手も、ソキと同じように誰かを求めている。寂しいと訴えている。ひとりは嫌だと、告げている。そんな風に見えた。ソキではその気持ちを、紛らわせることはできても満たせない。リトリアが、ソキの苦しさを消すことができなかったように。二人で寄り添っているのに。ずっと、ひとりの。別々の夜を過ごしていた。
そのひとは、どうしてリトリアの傍にいてくれないのだろう。ソキと同じように、どうしても、傍に行けない理由があるのだろうか。考えて、ソキは悲しい気持ちで瞬きをした。リトリアも、そのひとの傍に行ってはいけない理由があるのだろうか。求めているのに。心からその存在を求めているのに。それはあまりに辛いことだった。ソキには今はアスルがいるけれど、リトリアにはぎゅっとできるものもない。ソキはそわそわと薄暗い室内を見回し、数日間の記憶を探って考え、しゅんと肩を落とした。やっぱり、ぎゅっとできるものは無かった気がする。あんまり柔らかに抱きつぶせないクッションがいくつかあったが、それはつまり身を預けたり座り込んだりする用で、寂しかったり悲しかったり、眠かったりする時にぎゅっとするものは、リトリアの部屋にはないのだった。
服とね、靴と、髪飾り。鞄や、装飾品。毎日、それから特別な時に身につけるいくつかのもの。身を飾るいくつかのもの。それは贈り物として、リトリアの元を訪れるのだという。無記名で。まるで名を綴ればリトリアが拒否するのではと思っているかのように。そんなことないんですけどね、とリトリアは困ったように、泣きそうに目を伏せて囁いた。誰がくれたかなんて、箱を開けた瞬間に分かる。贈り物がリトリアを選んで訪れたその瞬間にさえ。特別な胸のときめきが、予感が、リトリアにそっと囁きかけてくれる。あのひとが、あのひとの。あのひとからの。分からない筈がない。ソキちゃんだって、それがロゼアくんからなら分かるでしょう、と囁かれて、頷かない理由などなかった。
それから、時々本が届く。児童書や、歴史書や、政治文化風習物語。様々な本が届く。まるできまぐれな揃えで。通りがかりに目について、たまたま手に取って、これが好きそうこれに目を通せば、これを、とふと願ってくれたかのような統一感の無さで。それから綺麗なつくりの万年筆と、インク。質の良い便箋と封筒。時にはかき取り用の帳面が数冊。願うように、祈るように。暖かななにかを確かに宿して、それらはリトリアの元を訪れる。服たちとはまた違う風に。完璧に痕跡を消した、どうあっても後を追えない匿名から。触れればリトリアに害が及ぶのだと、だから消してしまわなければならないと、そう思っている風に。違うのに、とリトリアは血色の声で囁いた。
もし、もしも、本当にそうであるのだとしたら。王はそれを私の元へ届けてくれることはない。昔から、ずっと。あのひとたちは私にとても優しくしてくれて、それ故に、痛みや傷や苦しみ悲しみからは最大限遠ざけて守ってくれようとする。だからそれがもし罪なのだとしたら。私がいくら手を伸ばし乞うたとしても、あのひとたちがそれを許してくれることはない。私が、いくら、頼んでも。大人しくしていても。あのひとが、やりもしない罪に怯えられて、どこにも姿を現すことを許してもらえないように。寝物語に、ほろほろと。ソキが強張ったリトリアの、大事なひとたちに纏わるおはなしのなかで、藤色の少女は響かない声でそう告げた。溶けてしまいそうな朝露の声で。透明な、しんと染みいる水のような声で。
ストルとツフィアの名を、リトリアは一度として出しはしなかったが、その気持ちをソキは分かるような気がした。そこだけ、そこも、ソキとリトリアは逆なのだった。会えなくなったから、ソキはロゼアのことを呼び続けるけれど。会えなくなってしまったから、リトリアはそのどちらもを呼びはしないのだ。会いたいと叫ぶソキとは逆に。会いたくなってしまうから、と口をつぐむ。その声が届きさえすれば、どんな手段を使っても、必ず、ロゼアはソキの元へ来てくれるのを知っている。届きさえすれば。届いた時に。来てくれないかもしれない、とリトリアは怯えて口を閉ざす。もし、もしも、もしかしたら。届いて、それで来てくれないかも知れない、と怖がって、リトリアは大切なひとの名前を胸に秘める。
そんなことにはならないのに。
「ロゼアちゃん……。ソキがロゼアちゃんに会えないのは、きっと、ソキの呼び方がいけないに違いないです。ロゼアちゃんは、聞こえたら、ちゃぁんとソキの所にお迎えに来てくれるもん。約束です。絶対、です。だからソキの呼ぶのがまだロゼアちゃんには聞こえてないに違いないです。ロゼアちゃんろぜあちゃん。……それとも、嫁ぎ先がやんやんじゃないから、おむかえにきてくれないです? そん、そんなことは、ないです……きっと、きっと、ソキのかんちがいです……ソキはロゼアちゃんにおあいしたくて、いっぱい呼んでるです。だからまだ、きっと、きこえてないです」
ぐずっ、と鼻をすすりあげてアスルに顔を擦りつけ、ソキはろぜあちゃぁん、としょんぼりした声で呼びやった。
「『扉』が使えなくなっちゃったから、いけないです……。きっと、きっと、ロゼアちゃんは、ソキをお迎えに行く用意をしてくれてるもん。それで、『扉』が使えるようになるのを、ソキとおんなじに待っててくれてるだけです。……ソキも、待ってるです。『扉』を見に行くです……!」
それは、なんだかとても良い考えのような気がした。ロゼアは、『扉』の向こうでソキを迎えに来ようと思って、ずっと待っていてくれているかも知れない。だから、ソキも『扉』の近くにいなければいけないのだ。もういてもたってもいられずに、ソキは寝台の上であわあわと大慌てでアスルを抱きしめ直し、枕の傍に置いておいたしろうさぎちゃんお出かけリュックを引き寄せた。中にはロゼアから届いたばかりの焼き菓子や、飴が詰め込まれている。魔術師たるソキの『武器』である、白い表紙の本もそこにあった。手に取った時、その白い本は辞書くらいの大きさと分厚さの上製本であった気がしたのだが。今はなんだか、表紙の紙質だけは硬く変わらず、大きさがちんまりとした文庫程になっている。報告を受けて様子を見に来た白い魔法使い曰く、重たくて持ち運びしにくいから相手が気をちょう使ってくれたんじゃないかな、とのことだった。
心配しなくても、ソキはちゃぁんと、しろほんちゃんのことも連れて行くですよぉ、と言い聞かせ、ソキはうさぎちゃんリュックをよいしょと背負いなおした。寝台から滑り降り、立ち上がり、アスルを抱き上げてぎゅっと抱きなおす。頬をくっつけてもふもふとすれば、アスルからはやはり、ロゼアのいいにおいがした。ふにゃぁんきゃぁんやんやん、ともじもじして、ソキは頬をちょっぴり赤く染め、そわそわと視線を彷徨わせる。
『サア、おいで……。ロゼアクンが待っているヨ』
「ソキ、そき。もう、おうちに、かえらなくちゃ、です……! きっと、もう、『扉』が使えるよになってるにちぁいないです!」
『キミにはその力がある。さあ』
くすくす、内側から響く声に導かれ惑わされながら、ソキはてちてち、ふらつきながらも歩き出した。
こんなのってないです、あんまりです、あんまりなことです、と力の限り打ちひしがれながら、ソキは『扉』のある廊下にしゃがんでうずくまった。不思議なことに、リトリアの部屋から廊下に出て、あれこっちだったきがするです、でもこっちだったきもするですうぅう、とてちてちふらふら彷徨っていた間も、『扉』の前に辿りついた今でさえ、ソキは誰とも会うことがなかった。見る者が見ればはきと分かる程、空気には魔力のきらめきが満ちている。光の粒子ですぐ傍のものさえ見えなくなる程の、濃密な魔力の放出。魔力ある者、ない者を無差別に、強制的に眠りへつかせるその術は、ソキにだけ効果を与えていなかった。目隠しをされて手を引かれているように。疑問に思う心ごと闇の向こうへ連れ去られて行く。
すん、すん、くすん、と鼻を鳴らし、ソキはうらめしい気持ちで『扉』をじっとにらんだ。
「これじゃおうちに帰れないです……ふにゃ、うぅ……うやん、やん、やぁあんっ」
いやぁいやぁ、と体を左右に揺らしてぐずっても、『扉』は使える気配を見せなかった。そこにあるのはただ木の扉そのものであり、魔力が繋いでいた筈の道筋はぷつりと途絶えたままだった。
「ろ、ろぜあちゃ……ろぜあちゃん。ロゼアちゃん、ロゼアちゃん……ソキ、会いたい。会いたいです。ソキ、ロゼアちゃんに会いたい……。ぎゅってして欲しいです。ぎゅってして、だっこして、ソキ、て呼んで欲しいです……。ロゼアちゃん、そき、そきはお迎え待ってるです……う、ううぅ」
瞼に拳を押し当てて鼻をすすってから、ソキは空に向かって両腕を差し出した。ろぜあちゃん、ともう一度呼ぶ。ソキ、待ってるです。会いたいです。お迎えに来て。ねえねえ、ロゼアちゃん。ソキはもういっぱい呼んだ。ソキ、もう、いっぱい待った。
「……ろぜあちゃんはどうして来てくれないの? ……ソキが、ほんとはもう、ロゼアちゃんのかわいい。じゃなくなちゃたからです……? ろぜあちゃが、ソキを、ソキが聞かないでも、かわいいっていて、くれなくな、ちゃ、た、の、ソキもう、ちゃんと、わかってるです……。ロゼアちゃんは……もう、ソキが、いらなくなっちゃったの……? ……ちぁうです。そんな、そんなこと、ないです。ないです……ないですぅ……!」
『じゃあナンデ、キミが乞わないと言葉がないノ? キミが求めなければ、なにもアタエラレナイノ?』
「そきが……もとめなければ……」
そうだよ、と耳の奥で笑い声がする。ほたほたと涙をこぼすソキを慰めることもなく。ただ追い詰めて行くだけの声がする。
『キミが求めなければ与えられない。キミはロゼアクンが、なにかをシタイ、と思える存在じゃナイのかも知れないネ……? だってソウだろう? 考えてもゴランよ。キミは乞われたコトがあるのかい? たった一度デモ、たった、ヒトコトでも』
一度でいい。一回でいい。一言だけで、いい。
『キミが』
求めてくれたら。
『欲しい、って』
今もただ、それだけを願っている。
『……カワイソウにねぇ。ほら、ほら、急いで帰らなくちゃいけないネ? もしかしたらキミが帰る前ニ、ロゼアクンが欲しがるコを見つけてしまうかもしれないよ。そうなったらキミは必要がなくなる。だってそうだろう? キミが手を伸ばしても、ロゼアくんの手が他に伸ばされていたら……もうそれは、キミのものにはならないんだから』
怖くて。ソキは一度も、ロゼアが告白をどうしたのか、聞いてはいなかった。ロゼアもソキに話してくれることは、一度だってなかった。でも、変わらなかったから。ロゼアがなにも変わらなかったから。ずっとロゼアは、ソキのものだと思っていたけれど。息が苦しくて、ソキは胸に強く手を押し当てた。嫁ぐ時の決まりごと。『花嫁の花』は、ソキの胸にもう沈んでしまっている。永遠の恋だけが残っている。
「でも」
泣きながら、ソキは顔をあげた。
「でも、ソキは……ロゼアちゃんを幸せにできる、おんなのこになるって、決めたです。だから……!」
その恋を道連れに、歩いて行くと決めた。
「だから、ロゼアちゃんのところへ帰らなくちゃ……! それに、それに、この間、ロゼアちゃんは、ソキに呼んだだけをしてくれたです……。あれは、ロゼアちゃんが、ソキにお傍に来て欲しいっていうことです。そうです。きっとそうです。そうにちがいないです……! おいで、って言ったもん。ソキ、ロゼアちゃんに、おいでをしてもらえたもん……! ろぜあちゃ、ソキが欲しいしてくれなくても、おいでをしてくれるです」
ぐずぐず鼻を鳴らして、零れる涙を拭って、アスルをぎゅっと抱きしめて頬をこすりつけて。よし、とソキは前を向きなおした。
「ソキ、おうちかえる!」
『うん』
響いた声は暖かだった。それまでとは別種のものだった。ナリアンくん、と無意識に呼ぶソキ足元から、風が逆巻く。うん、と笑い頷くように。その指で先を指し示すような声が、告げる。
『そうだね、行こう。……さ、ロゼアが待ってる』
砂の音がした。砂が風に運ばれて行く音が。ざらりと音を立て、砂漠を渡って行く音の波。ソキの足元から金の砂粒が彼方へ流れ、魔力のきらめきと共に散っていく。じわり、胸元から白い輝きが零れて咲いた。大輪の花だった。その花の姿を見降ろさず、だからこそ気がつくこともなく。ソキは正式な手順で発動させた予知魔術を、正しく世界に向けて解き放った。
ぷきゃんっ、と声をあげて、ソキは誰もいない廊下で躓いた。や、やっ、と声をあげながらもぞもぞと座り、ソキはアスルをぎゅっと抱きしめて顔を擦りつける。
「痛いです……。アスルは痛くなかったです? ここはどこですか……」
すんすん鼻をすすって瞬きをして、ソキは暗い廊下をきょろりと見渡した。なんとなく、見覚えがあるような、ないような。ううんと眉を寄せながらもそもそ立ちあがり、ソキは背後を振り返ってあっと声をあげた。そこにあったのは『扉』だった。ただし、楽音のものでも、砂漠のものでもない。学園の寮から各国へ通じる、数日前にソキがくぐって行った『扉』だった。ぱちぱち目を瞬かせて、ソキはアスルをぎゅむりと抱きつぶす。
「ソキ、寮に、かえてきたです……! ろ、ろぜあちゃ、ロゼアちゃんは……?」
ろぜあちゃん、ろぜあちゃん、と心細い声で幾度も呼んで、ソキはうるうる浮んだ涙を、アスルにくしくし擦りつけて拭った。
「おむかえ、ない、です……。まだ、夜だから、きっと、ロゼアちゃんは、寝てるです……。ソキはこっそり潜り込むです。そうしたら、きっと、朝になって起きたロゼアちゃんは、ソキをぎゅぅしてくれるです。あする、あするぅ、一緒に帰ろうね。ソキがぎゅぅってしてあげますからね」
もうちょっとですよ寂しくないですよソキが一緒ですよ、と言い聞かせてアスルをぎゅむぎゅむ抱きなおし、ソキはてちてち歩き出した。寮はどこもかしこも寝静まっていて、灯されている火の数も乏しく、薄暗い。やぅ、うぅ、と怖がって声をあげながら、てちてち、普段よりずっとちいさな歩幅でちまちま歩き、ソキが『扉』から住居室へ続く廊下を、曲がった時のことだった。ト、トン、と連続して軽やかな、ちいさな音が響いた。それが急激に動きを止めた靴音と。両膝が廊下につかれた音だと、分かるよりも早く。足元にアスルがぽて、と落ちた。体が引き寄せられる。
「ソキ……っ!」
腕の中に。どんなにか戻りたいと願った、腕の中に。どんなにか聞きたいと思った、声と共に。
「ソキ、ソキ、ソキ……!」
「ロ、ゼア……ちゃ……ん?」
抱き上げる間も惜しいとするように。ロゼアの両腕が、ソキを強く抱きしめていた。ソキ、と聞いたこともない声の響きで、ロゼアが呼ぶ。腕が、そうされたことのない程の力で、ソキの体を抱き寄せた。かかとが、くっと持ちあがる。背伸びをしながら抱き返して、ソキはロゼアにぴたりと体をくっつけた。
「ロゼアちゃん……」
「ソキ。……ソキ」
満たされた。ようやっと満たされた、熱っぽい掠れた声が、耳元でソキを呼ぶ。はは、と吐息に乗せてロゼアは笑って、ぎゅぅ、とさらにソキを抱き寄せる。ソキのやわらかな体が軋んで痛むほど。その腕に力がこもっていた。
「ロゼアちゃん。……ロゼアちゃん、すき。すき、すき、だいすき……大好きです、すき」
ずっと。ずっと、ずっと。
「すき……!」
こうして欲しかった。痛いくらい抱きしめて欲しかった。脆いつくりの体が、痛いと訴えてもかまわないから。嬉しくて、嬉しくて、息がつまる。は、はぅ、と掠れた響きで息を吸うソキの髪を、ロゼアの手がゆっくりと一撫でする。
「俺もだよ、ソキ。俺もだ……」
「ん。……ん、んっ、きゅ……ぅ」
さらに強まった力に、ソキは眉を寄せて声をもらした。はっと息を飲んだロゼアが、腕から強い力を解いてしまう。ソキ、と気遣う声で頬を撫でられて、ソキは半狂乱の悲鳴をあげた。
「やめちゃやです! いや、いやいやぁっ……!」
「ソキ」
「ぎゅぅして! ぎゅぅ! やめないでやめないでっ……! ソキを離しちゃ嫌です!」
ぐっ、と背が抱き寄せ直される。体をくっつけて、ぎゅっと抱きしめて、ロゼアがうん、と言って笑った。腕は抱き寄せる場所を思い出すように僅かに動き、力が込めなおされる。ソキが息をできる強さで。弱い体が軋まず、痛まないぎりぎりの強さで。抱きしめ直される。『花嫁』であった時も、『学園』に入学してからも。そんなに強く、抱きしめられたことはなかった。
「離さないよ」
身動きがすこしもできないくらい。ぴったり、体がくっつけられている。ひとつのもののように。ひとつに、なりたがるように。ロゼアはソキを抱きしめて、髪を、背を、撫でていた。
え、えっ、えくっ、ぐずっ、すん、すん、とロゼアの肩に顔を伏せて震えているソキはどう見ても泣いていたが、声をかけるとふわふわした涙声で泣いてないです気のせいですそれはいいがかりというものです、と可愛くないことを言われるので、寮長はなまぬるく放置してやることにした。まあ、ロゼアが慰めているというか膝の上に抱きあげていつになくぴったりと抱き寄せて撫でているのだし、そのうち落ち着くだろう。寮長はたたき起こされたが故にひどく鈍くしか動かない頭をもてあましながら、あー、と意味のない声をあげて寮の天井を仰いだ。それにしても。
「大丈夫だから待ってろっつったろ……?」
びくぅっ、とばかりソキの体が震え、えぅ、うぅ、えっく、ううぅ、と声が上がった。ロゼアから寮長を刺し殺したがる視線が向けられるが、ソキが顔を伏せているからだろう。寮長は一応安全の為に距離をあけながら、呆れ顔でソファに座るふたりを眺めやった。ここ数日のソキなしのせいで、ロゼアが完全に荒れすさんでいる。分かっていないのはソキだけである。寮に留まるを得なくなった教員たちも、世界に風穴を開けられた衝撃と強大な魔力に当然目をさましていたが、ロゼアにひっつくソキを見て、それを見守るチェチェリアを見て、肩をぽむぽむ叩きながら解散となった。
だいたいロゼアはソキの前で猫をかぶりすぎである、と寮長はこの数日でしみじみ思っていた。なんだってロゼアが不機嫌で苛々して落ち込んでヘコんで不安定だということを告げただけで、正常な認識の存在から疑われる眼差しを向けられなければいけないのか。それはまったく寮長の持つ想いである。普通なら、こんなにべっとりしているソキがロゼアの傍から離されるというのは、考えただけでもおおごとだと分かるのに。ソキはなぜか、かたくなに、無意識なまでに、ロゼアがいつもと変わりない日常生活を送っていると考え、それを寮長の口から聞きたがった。
まるで、それで安心したいのだと言うように。あんなにも不安で瞳を揺らし、魔力を震わせておいて。まったくどうして、そんなことが聞けたことだろう。一回くらい、こいつらまとめて医者のトコにぶち込んだ方がいいんじゃねぇの精神的な問題で、と思いながら、寮長は浮んで来るあくびをそのままに、いまひとつ動いてくれない頭でぼんやりしながら、あー、とまた声をあげた。ものすごく眠くてつかれて眠くてだるくて眠くて眠いので、これだけは、ということを終わらせて、さっさと寝台へ戻らなければいけない。
起き出してきた教員も寮生たちも部屋へ引きあげ、談話室にいるのはふたりと、寮長だけだった。ロゼアの部屋で一緒にごろ寝していたナリアンとメーシャは、寝ぼけまなこでやって来てソキを確認したのち、寝具を回収しに戻って行った。今頃は自分の部屋で寝なおしている頃だろう。明日お見舞いに行くからね、と囁くナリアンはソキが起き上がれないだろうと予想をつけていて、メーシャはよかったねロゼアと目頭を押さえていた。ソキは二人に対して顔をあげ、あうあうとなにかを言いかけたが、すぐにロゼアの肩にぺとりと額をくっつけなおし、ぐりぐりと擦りつけて甘えていた。
う、うっ、ぐずっ、くすん、すん、としゃくりあげる響きが、静まり返った真夜中の談話室に響いている。ロゼアは寮長をどう殺すか考えていた視線をソキへと戻し、ぽん、ぽん、と背を撫でて髪に指をからませた。
「ソキ、ソキ。もう大丈夫だよ。……大丈夫。俺はずっと傍にいるよ。ソキのことを離さないよ」
ぎゅむううう、とソキの腕に力が込めてくっつきなおされるのに、ロゼアからふわりと満ちた気配が零れ落ちる。太陽の黒魔術師の、ここ数日の苛烈さが。冷えた肌を柔らかく温めるだけの陽光と変す。
「あー……あー、ともかく、だ。……お前たぶん向こう一月は反省札だな」
「うやぅ! う、うぅ、うー……! ぐずっ……」
「俺たちの転移と違って、お前のは風穴を開けて通ってきたってことなんだよ……。お前この修復にどんだけ時間と労力かかると思って……あああ、だから……だから待ってろっつったのに……。あー……あああ……」
楽音から『学園』のある世界に向かって、くっきりと魔力で線が引かれたのを、魔術師であるなら誰もが感じ取っただろう。それは本人の魔力量の少なさと、維持しようという意思がなかった為に、すでに消えかけているかけ橋ではあるのだが。本来、そうでなかった二点を貫いたものの為に、世界を包むまぁるい膜に、黒々とした孔が開いてしまっていた。予知魔術師は世界すら壊す力を持っている。その願いひとつ、叶える為に。ロゼアの元へ帰るという願いひとつの為に。ソキは、一歩間違えば世界を突き崩す真似をしてしまった。
未だ安定しきらない、未熟な予知魔術師であるというのに。
「……よし、考えるのは明日から。俺はとりあえず寝る! 寝るぞ……!」
「おやすみなさい、寮長」
「お前のそうやって律儀に挨拶してくる所が地味に嫌いだばーかばーか猫かぶり……!」
礼儀正しくしたのに罵倒されたロゼアは、ぬるい笑みを浮かべて寮長を見送った。追わなかったのはもちろん、腕の中にソキがいるからである。先程からずっと、ロゼアの肩にくしくし額や、頬を擦りつけることに忙しいソキは、怒られたのに反応したものの恐らく話は聞いていなかっただろう。ソキ、ソキ、と囁き落とし、ロゼアはぎゅっと柔らかな体を抱きなおした。
「眠りに行こう」
「ぎゅって、して、寝てくださいです……。ぎゅぅ。ロゼアちゃん、ぎゅぅ……!」
「うん」
ぐずるソキの体をぴっとりくっつけて、ロゼアはその腕に力を込めなおした。きゅぅ、と嬉しそうに鳴いて、ソキはその腕の中で動かなくなる。うとうと、すぐに眠たそうに意識をまどろませる額を重ね合わせ、ロゼアは満ちた思いで囁き落とした。
「おやすみ、ソキ。いい夢を」
数日ぶりに聞くことのできた言葉に。ソキはあどけなく笑い、ロゼアの額にすり、と肌を擦り合わせた。
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