なんだか、たくさん眠った気がする。ふあふああくびをして、くしくしと目を丸めた指でこすって、ソキはぼんやりと瞼を持ち上げた。
「ん? 起きた? ソキ」
「……ろぇあちゃ」
「まだ眠いな、ソキ。……まだ朝になってないよ。おいで」
肩まで軽く温かな布で包みなおされ、抱き寄せられて、ソキはきゅぅと喉を鳴らしてすり寄った。
「ろ、ぜ、あ、ちゃーん……。ソキ、かえてきたです」
「うん。おかえり、ソキ」
ぎゅ、と強く抱きしめられる。ソキは眠たい気持ちのまま、じわりと浮んで来た涙に懸命に瞬きをした。息ができないくらい、苦しいくらいの力ではないけれど。これまでになかった腕の強さは、昨夜のそれも夢ではないと教えてくれている。ろぜあちゃん、ろぜあちゃん、と寝かしつけてくる手に甘えながら、ソキはロゼアをじっと見つめた。ロゼアの赤褐色の瞳は、とろりとした熱を滲ませている。視線を重ねたまま、ソキ、と囁くロゼアの手が。ゆっくりと、幾度も、頬を撫でた。
「眠いだろ。眠っていいよ。……どうしたの、ソキ」
「ロゼアちゃんは、ねない、です……? ソキと、いっしょに、眠るです」
くし、と親指の爪でやわく肌をひっかいてくる悪戯に、きゃぁんと肩をすくめて笑って。ソキはロゼアの腕の中で、んしょんしょ、とけんめいに腕を伸ばし、首筋に回して、ぴとっと体をくっつけなおした。
「ろぜあちゃん? いいですかぁ……? ソキは、あったかくて、ねむたくて、やわやわで、ぎゅっとすると、きもちです。ロゼアちゃんがね、いなかたです、からね、いつもよりちょっと……ちょっと、です。ちょっぴり、ですよ。ちょっぴり、ぎゅっとした時のきもちいのがすくないかもですけど……いいにおい、も、あんまり、かもですけど……。でも、でも、でもぉ……眠れないから、ソキをぎゅってするのがいいと、ソキは思うですよ。そしたらね、ロゼアちゃんはきもちです。ソキもぎゅぅはだいすきです。ね、ね? ね? ……ロゼアちゃん、ぎゅぅ、する? するです?」
そきはぁ、ぎゅっ、していいです、て、言ってるですよ、と。くちびるを尖らせて主張すれば、ロゼアは肩を震わせて笑った。
「知ってるよ」
ぐっ、と腕に力が込められた。ソキの柔らかな体の線がゆがんで、ロゼアにくっついてしまうくらい。強く、深く、抱きしめられる。
「……ソキのにおいだ」
「ソキ、いいにおい? する……?」
「うん。お花のにおいがするよ。いい匂いがする」
俺のお花さん。耳元に囁き落とされるその言葉だけで、腕の力とは関係がなく、息が詰まった。『花嫁』と、いつからか呼ばなくなったロゼアの囁くそれは、その言葉の代わりのようで。それでいてひどく甘く、柔らかな傷のように、ソキの心を痛くさせる。嬉しくて胸が痛むことを、ロゼアが教えてくれた。ソキはロゼアの首筋に額を擦りつけ、ろぜあちゃんのにおいがするぅ、と呟き落とす。
「アスルからも、ロゼアちゃんのいいにおいがしたです……。ロゼアちゃん、アスルをぎゅぅしたです? なら、ソキのこともたくさんぎゅぅしないとだめです。ロゼアちゃんのぎゅぅはソキのだもん」
「ぎゅう、してるだろ」
「ふゃんうゃん。昨日みたいなぎゅぅがいいです。ロゼアちゃん、ソキをぎゅぅーって、して?」
ソキはとっても嬉しくてきもちいでした。だからあのぎゅぅがいいです。ねえねえ、してして。ぎゅーってして。ねえねえ、ねえねえロゼアちゃん、ねえねえ、と体を擦りつけながら訴える。ロゼアは微笑んで、また後でな、と言った。
「また、あとで……? あとでに、なったら、ぎゅー? です?」
「うん。さ、もう寝ような、ソキ」
ぽん、ぽん、と背を叩くロゼアのてのひらが、ソキを眠りに促している。やわい体の線を歪めるくらいの、強い力はそのままに。体のどこにも力を入れないでロゼアに預けたまま、ソキはふあふあとあくびをした。ろぜあちゃんもねむるの、と問えば、うん、と言葉がすぐ近くで響いて行く。そっと肌に触れて染み込むように。ソキは幸せにふにゃりとした笑みを浮かべて、おやすみなさい、と言った。離しちゃだめです、となんとか言った言葉にも。うん、と確かに返されたので。ソキは安心して、眠りにころりと落っこちた。
ぷぅ、ぷぅ。うにゃ。ん、くう。くぴ。ぴすぅー、と息をするたび、ソキはちいさな声をもらして眠っている。その頬を指先で撫でながら、ロゼアはしばらくその様を見つめていた。瞬きすら惜しいと告げるように、ゆっくりとそれを繰り返しながら。やがて、朝も近くじわりと空気が光を滲ませた頃、ロゼアも目を閉じて。その腕の中にソキを抱き、深い眠りを受け入れた。
朝日は透き通る蜂蜜の色をしている。ソキはぽーっとしながら窓から降る光の帯を見つめ、ロゼアの胸に頬をぺとんとくっつけなおした。いつもよりずっと部屋が明るいのは、ナリアンとメーシャが泊まりに来ていた名残だろう。ソキにはすこし眩しいくらいのきらめきは、春のひんやりとした空気を遠ざけていた。冬はいつの間にか終わっていた。じきに春も深くなっていくだろう。壁にかけられている数字だけの簡素なカレンダーに、ぼやけた視線を向けて考える。もうすこしすれば、案内妖精が迎えに来てくれた日に差し掛かる。ロゼアと離されていたのは、もう一年も前のことで。昨日までのことだった。
「でも、ソキはもう決めたです……。これからは、ずーっと、ずぅっと、ロゼアちゃんと一緒です」
それで、ソキは『花嫁』ではなく、ロゼアをしあわせにする女の子を目指すのだ。強いぎゅぅもしてもらえたことであるし、それはなんだか、頑張ればできることのような気がした。ふにゃぁんふにゃんきゃぁんやん、と照れてもじもじした後、ソキはあれっと瞬きをした。すー、と静かな、穏やかな寝息がすぐ傍から響いている。顔をあげれば、ロゼアはまだ夢の中。閉ざされた瞼が持ちあがる気配はなかった。
「ろぜあちゃん? ……おねぼうさんです。きゃぁん……!」
声をこっそり潜めて、ソキはじーっとロゼアのことを見つめた。よほど深い眠りの中であるらしい。ソキがきらきらした目でいくら見つめても、気配に敏いロゼアが瞼を震わせることはなかった。えへへ、ともぞもぞ身を起こし、ソキはきょろりと室内を見回した。整理整頓された室内に、特に見覚えのないものはなく。そして、当たり前のことながら誰の姿も見つけることはできなかった。きょろ、きょろ、あっちを確認して、こっちを確認して。ソキはこくん、と力強く頷いた。
「ロゼアちゃんは、おねむです……。ということは、ということはぁ……!」
きゃぁあん、とひそめたはしゃぎ声で頬に両手を押しあて、もじもじもじもじ身をよじった。
「ちゅうの、ちゅうのちゃんすということですうううぅ……!」
きゃぁあんやぁあんやんやんはうーはうーっ、とひとしきり興奮した声でおおはしゃぎしたのち、ソキは真っ赤に染まった頬からそーっと手を外し、きゅっと拳に握り締めた。
「ソキ、ロゼアちゃんにちゅうしちゃうです。きゃぁん。……ろぜあちゃ、ねてるぅ? まだ起きちゃだめですよ。いいですかぁ? まだー、おきたらー、だめ、てソキは言ってるですよー……? ……ロゼアちゃん、よくおやすみです? きゃぁんやぁああんっ、このすきにぃ、こっそり! ちゅう! し・ちゃ・う・で・すー!」
頬にもちゅってしたいですけどでもでもやっぱり唇ですきゃぁあんやぁああんはうぅううっ、とひとしきり悶えたのち、ソキは手でちまちまと寝乱れた髪を整え、よし、と大きく頷いた。
「準備でぇーきたぁー! ですー! ……んしょ。んー……」
『アタシを魔力酔いで昏睡させといていちゃついてんじゃないわよーっ!』
「ぴゃぁあああああ! ソキまだなにもしていないですうぅうううぴゃあああああああろぜあちゃ起きちゃったですうううううう!」
あんまりなことですううううもうちょっとだったですううううっ、と打ちひしがれてべしょりと寝台に伏すソキを、寝ぼけまなこのロゼアがひょいと抱き上げる。んー、と声をもらしながら体を起こし、膝の上に抱きあげて、ロゼアはあくびをしながらソキの背をぽん、と撫でた。
「どうしたんだ? ソキ」
「め、めったにないことだったです……きちょうなちゃんすだったです……。ううぅ……う、う……う……? ……あ、あー! ああぁー! リボンちゃんですうううう!」
『遅いのよこのノロマーっ!』
ソキが見上げる先。天井からつりさげられた灯篭の中で、妖精が眦をつりあげて怒り狂っていた。火は消されて久しいのか、熱にやられた様子もない。ソキはぱちぱち瞬きして、くにゃん、と力なく首を傾げてみせた。
「リボンちゃん、そんなところでなにしてるです? ……捕まっちゃったごっこ?」
『なんでそんな結論に達したのか分かりやすく説明しろこの馬鹿』
「ぷーぷぷぷ! この間読んだ御本で、妖精さんが捕まえられてたです」
こんなでね、こんなでね、こんなのにね、こうやってね、ぺいってしてね、それで鍵を閉めてね、それでねそれでね、と身ぶり手ぶりでけんめいに説明するソキに、妖精は半眼になりながら六角柱に作られた、透明な硝子を脚で蹴った。
『アンタが! 空間ぶち抜いて帰ってくるなんてことするから! 一番近くにあった安定した魔力の傍で蹲ってるしかなくなったのよ反省しろっ! ああぁあと遅くなったけど、おかえり、ソキ。怪我はない? ちゃんとご飯食べてた? 眠れてたの?』
「きゃぁん。リボンちゃんがお優しいです……!」
『嬉しげに照れてないでアタシの質問に答えなさいよおおおおおっ!』
なんでアンタはすぐそうやって自分の都合の良いトコしか拾い聞きしないのよほんとにいいいっ、と怒りながら、妖精は硝子をがんがん蹴って灯篭から脱出し、腰に手をあてて空からロゼアを見下ろした。その後ろでは、鍵はかかってなかったんだから普通にあけて出てください、と頭を抱えたシディが顔を覗かせている。妖精たちは、灯篭を宿代わりに夜を明かしていたらしい。ソキは己の案内妖精と、ぐったりするシディをきょとんと見比べて。ねえねえロゼアちゃん、と己を抱く腕を指先で突きながら、上目づかいに問いかけた。
「リボンちゃんとシディくんは、なかよしさん?」
「……ん?」
「ふたりでいっしょに寝てたです……!」
なかよしさんです、と頬を赤らめて照れるソキに、シディが頭を抱えて天を仰ぐ。前代未聞にして未曾有の大規模巻き込まれ事故です、とシディが呻くのと。お前の脳内に咲いた花を今日全滅させてやる覚悟しろ、と低くうねる声で妖精が吐き捨てたのは、ほとんど同時のことだった。
魔力そのものに存在が近い妖精にしてみれば、それは意識を失う程の衝撃であったらしい。恐らくは数秒間の完全な昏倒の後、妖精が意識を取り戻したきっかけは、ロゼアがソキの名を呼びながら部屋をかけ出して行ったからだった。ロゼアの部屋には、少年の魔力が満ちている。太陽の黒魔術師。時に敵と定めたものを一瞬にして蒸発させ、植物を狂い死ぬほど成長させるその無慈悲な力は、本人の半ば無意識で室内空調に役立てられている。魔力純度をこの上なく希釈すれば、確かにその力は空調にとても役立つのだ。光と熱の魔力。降り注ぐそれを和らげ、時には強め、空気を暖め、上昇しすぎないように抑え込む。下限することを食い止める。
ソキが戻って来れないことで『学園』に泊まり込んで帰りを待つ、と宣言した妖精を、ロゼアは賓客のように部屋へ招いてもてなしたのだが。そこへ満ちる糖蜜のような魔力に触れて、妖精はほとほと呆れかえって腕組みをし、臓腑の底から溜息をついた。傍らで優しい微笑みでロゼアを眺めていたシディも、心配してやってきてナリアンにひっついていたニーアも、明るい笑顔であれこれと話しかけ大丈夫だって、と言い切ってやっていたルノンも、同じような表情でロゼアを見た。世界断絶の知らせを受けて、導きの子の様子見に来た妖精たちも、同じような表情だった。妖精たちは、時折、丘に花を摘みに来てはロゼアちゃんやんやん、とぐずったり照れたりちからいっぱい自慢したりする、ソキのことを知っている。
その迎えに来るロゼアのことも、シディに会いに来てなにくれと世話を焼く以上の理由で、妖精たちは知っていたのだ。妖精たちの知るロゼアというのは、シディの導きの子であり、チェチェリアの生徒であり、希少な太陽の黒魔術師であり、そしてひどい少年だった。なぜならソキの主張を総合して要約すると、なんだかそのうち恋人ができて飽きられてそうしたらもうだめですでもそんなのいやです、という風になるので、苛烈な妖精の物言いを加味せずとも、とりあえずちょっと呪う案件、くらいには思っていたものなのだが。シディの、いえ絶対にそんなことはないと思いますよ僕はね、という遠い目で呟かれた言葉の意味を、案内役を経験した妖精たちは、魔力に触れることで思い知る。
それは鳥籠だった。美しく、麗しく、かくも繊細に編みあげられた鳥籠の鋼だった。太陽の魔力は鋼の檻を形成している。その範囲はロゼアの居室。そして妖精たちが見る所、その扉は完全に開かれていて、役目を成していないように思えた。妖精は、ソキがそーっと差し出した角砂糖を奪うように受け取ると、がりがりかじり、ロゼアを睨みつける。食堂へ連れ出される前に確認したが、扉が開くことで流れの絶えていた太陽の魔力が、正しく循環するようになっていた。檻はそこへ抱くものを取り戻し、扉を閉じたのだ。ソキは、食堂に来るなりこふんと咳をして、おせきがでるです、と眉を寄せている。ロゼアの部屋にいる時に、その喉が悲鳴をあげることはなかった。
がりがりがり、八つ当たり気味に角砂糖を噛じり、ごくん、とひとつめを飲み込んで。妖精は苛々と羽根を震わせ、ほらさっさとよこしなさいよ、とソキに両手を差し出した。ソキは、またそーっとした動きで妖精に角砂糖を差し出し、並べられた朝食に目もくれず、ぱちぱちと瞬きをする。
「リボンちゃん、今日はいっぱいお砂糖さんを食べるです……。おなかがすいたの?」
『……ア・ン・タ・がっ!』
受け取った角砂糖をそのまま、ソキの指先めがけて投げつけて。妖精はやぁんっ、と声をあげて両手を上にあげたソキを、苛々しきった眼差しで睨みつけた。
『あんな風穴なんぞ開けなければ! アタシだってこんなに食べたりしないわよーっ!』
「ニーアちゃんはっ? ニーアちゃんは……っ?」
『……角砂糖が足りなくなるから、蜂蜜を飲ませなさい』
ひょい、ぱく、あむ、こくん。ひょい、ぱく、あむ、こくん。規則正しく、それでいて必死な様子で角砂糖を瞬く間に飲み込んで行くニーアを振り返り、妖精は嫌そうな顔でナリアンに文句を言った。ナリアンの前には白い小皿に、それこそ山と角砂糖が積まれているが、妖精もソキも知っている。ほんの十分ほど前には、その山は三つあったのだ。今はもうひとつだけである。ひょい、ぱく、あむ、こくん、の音は早くはならなかったが遅くもならない。早々に、『学園』の角砂糖備蓄を枯渇させるのが忍びなくなったのだろう。ルノンとシディは紅茶にミルクを注ぎ入れるちいさな器を借り受けて、それぞれ蜂蜜を喉に通している。
ソキ、リボンちゃんにも蜂蜜さんをあげるです、とほわほわ言ってくるのに、妖精は厳しい目を向けた。
『いいから。アンタは自分の食事をなさい』
「リボンちゃん? ソキはぁ、いま忙しいです」
妖精が見たところ、ソキはロゼアの膝の上に陣取って降りようとしないまま、ぺたーっと体をくっつけて甘えているようにしか思えないのだが。なにに忙しいっていうの、と説明を求める妖精に、ソキはよくぞ聞いてくれましたっ、とばかり、えへんと偉そうにふんぞりかえって告げた。
「ソキはロゼアちゃんに、いいぃーっぱぁーい! あまえるです。いそがしです」
はふー、と息を吐き出して、ソキはロゼアにきゅむりとばかり抱きつきなおした。妖精が半ば睨むように沈黙する間も、ソキはやたらと幸せそうな様子でくしくしと頬を擦りつけ、はうーはぅーきゃうーきゅぅう、きゃぁぅーっ、と声をあげてはしゃいでいる。はしゃぎきっている。ロゼアは甘えてくるソキにふっと笑みをこぼし、膝の上に抱きなおした。ぎゅ、と妖精が見て分かるほど、ロゼアの腕に力が込められる。
「ソキ。ソキ、そーき。どうしたんだ?」
「甘えてるです。ロゼアちゃんはソキを甘やかさなくっちゃいけないです」
「あまえてるの?」
くすくす、笑いながらロゼアが頬をソキの頭にくっつける。頭に重みが加わったので、ソキはぷきゅ、とすこし潰れたような声を出した。んー、とのんびり笑ったロゼアが、ソキの背をぽんぽんと撫でて宥める。ソキはすぐにくてんっと体から力を抜いて、ロゼアの膝上でもぞもぞ、体の座りの良い位置を探した。そしてまた、ぺとぉーっ、と見るからにあまえきった仕草でロゼアにくっついた。
「ねえねえ、ロゼアちゃん。ロゼアちゃんは、今日はソキと一緒にお昼寝をするです。ね、ね、ね? いいでしょう?」
それで、ソキが先に起きて今度こそろぜあちゃんにちゅ、ちゅうを、するですっ、という欲望が先走っているのが妖精にもよく分かるおねだりだった。机にあぐらをかき、肘をついて首を傾げながら、妖精は片手で角砂糖を口に運び、がりがりがりとかじって行く。妖精の考えが正しければ、十中二十五くらいの確率で、いっしょにお昼寝なんぞしたソキが先に起きるという事態は起こらない。ロゼアはソキの髪を手櫛で梳き、一本の三つ編みを作りながら問いかける。
「お昼寝したい?」
「ソキ、ロゼアちゃんと一緒にお昼寝したいです」
「ん。いいよ。お昼寝の服に着替えような」
きゃあぁあんっ、と両手をあげておおはしゃぎするソキに、妖精は深く溜息をついた。昼寝をするのに一々服を着替えるなとか、アンタそれどうせ自分で脱ぎ気しないんでしょそもそもその服を選んで来るのはロゼアでしょうロゼアの趣味の服でしょうとか、言ってやりたいことは事細かにそれこそたくさん、たくさん、山のように積み上がって谷底が見えないくらいに、あるのだが。そーっとシディが、供え物のように差し出してきたはちみつを受け取り、妖精はそれをごきゅごきゅと飲んだ。お静まりください、と控えめな願いは聞かなかったふりである。こと、と空の容器を机に置いて、妖精はゆぅらりと羽根を揺らして問うた。
『で? アンタ食事はいつになったらするの? アタシが言うまでも! ないと思うけどっ! コイツどうせちっともさっぱり全然食事なんぞしてないしできてないと思うから! 戻ってきたんだったらまず食べさせたり飲ませたりしなきゃダメじゃないのそれでまた体調崩したらどうするつもりなのロゼアテメェ!』
「やん! リボンちゃん、ロゼアちゃんを叱っちゃだめぇ……!」
『アンタにどう言おうとなんの改善も期待できないから最初からロゼアを怒ってんのよアタシはーっ!』
それともなにアンタちゃんとご飯を食べるっていうの、と睨みつければ、ソキはもちゃもちゃと慌てた仕草でロゼアにくっつきなおした。ソキ、いま、いそがしいです。くちびるを尖らせて繰り返された主張に、アンタそれ生命維持的な優先順位としては最下位に近いんだからね、と妖精はうんざりと天を仰ぐ。くちびるを尖らせたまま、ソキは拗ねた声でちがうですう、と言った。
「いーっぱいロゼアちゃんを堪能しないと、ソキはごはんを食べたり眠る気にならないです。ロゼアちゃんが足りないです……。……あ、まちがえちゃったです。んっとぉ……ロゼアちゃんがいるのに、ごはんを頑張るのと、おやすみするのは、もったいないです。わかったぁ?」
『ロゼア充電機能は葬り去れ! 今日を限りに!』
「リボンちゃんがむりなんだいをソキにいうぅ……!」
それを自ら無理難題と言うのであれば、ロゼアから離れたらソキはじわじわ充電切れを起こして弱るということなのだが。コイツ本当に分かってるんだろうかという目で、妖精はソキを睨みつけた。分かっていて離すだのなんだの努力していたというなら、それは緩やかな自殺に他ならず。それが嫁いでいたとしても同じことだと気がついて、妖精はぞっと背を震わせた。どうして気がつかなかったのだろう。『砂漠の花嫁』はうつくしい。妖精の目から見ても。もしも子を授かったとすれば、その赤子もさぞ愛らしいことだろう。その血を引く者たちは、皆うつくしいに違いない。なのに。今も『砂漠の花嫁』は、生きた輸出品としての価値を保ち続けている。
それは、つまり。続かないということだ。引き離され、弱って、死ぬならば。
『……悪趣味に過ぎるわ』
「リボンさん?」
『いいこと、ロゼア』
吐き捨てる妖精を訝しむロゼアを、睨みつけ。一言一句を刻みつけるように、妖精は言った。
『アンタ、なにがあってもソキを離すんじゃないわよ。ソキが、やぁんやぁんひとりだちするぅー、ですぅー。だの、ロゼアちゃんが嬉しいのがいいですからソキはちょっとあっちへいってくることにするです、しょもん。だの! おひざだっこはそつぎょうすることにしたです、だの……いや、だっこはいいわ。卒業させてもいいヤツだわ。全然これっぽっちも問題がないヤツだったわ』
「びゃあぁああああああ!」
『うるさいわよ黙りなさいソキ。ともかく、いいこと、ロゼア?』
殺意すら滲ませる瞳でロゼアを見据えて。呪うような声で、妖精は嗤った。
『アンタが知らないソキの望みを、アタシは知ってる。でも教えてやらない。無理にソキから聞きだすことも許さない。……覚えておけ、ロゼア。お前が、アタシのソキの本当の望みを叶えず、裏切るならば……アンタはそこまでの男だったってことよ。嫁いだ方がソキは幸せになれたかも知れない、ってことよ』
「そんなことないです……! リボンちゃん、なんでそんなこと言うですか……?」
うるうる、目を涙で滲ませて鼻をすするソキに、妖精はだってそういうことでしょう、と角砂糖に歯を立てた。
『だってアンタ、愛されたがりの、愛したがりだもの。アンタをちゃんと大事にしてくれるヤツに猫っかわいがりされて、それなりに絆されて懐いた方がよかったっていうこともあるんじゃないの? このまんまだったらね』
ロゼアは、不思議そうに首を傾げたあと、やわらかく笑った。
「俺がソキを離すなんてないし、ソキの願いを叶えないなんてことはないですよ。ソキの望みは――俺の望みだ」
「ろ、ろぜあちゃ……。ロゼアちゃん、ほんと? ほんと……?」
ぱっと赤く頬を染めて。涙ぐんだ瞳のまま、ソキはロゼアを見上げて問いかけた。ロゼアをしあわせにできる女の子になりたいと思う、ソキの望みが、もし。ロゼアも望んでくれていることなのだとしたら。ロゼアは、ん、と問うように声を揺らしながら、ソキの瞼をゆるゆると撫でた。
「本当だよ。どうして? ……どうしたの、ソキ」
「そき、がんばる、です。頑張るです! ソキ、うんと、うんと、がんばるです……!」
ぎゅううぅう、と首に腕を絡めて抱きつくソキに、ロゼアはうん、と言って微笑みを深める。本日二杯めの蜂蜜を飲みほしたのち、妖精は非常にやさぐれた気持ちで問いかけた。
『ソキはもう知ってたけど、ロゼア。お前、思いこみ激しいって言われたことある? あるわよね?』
「いえ、特に」
『アンタたちには! 話し合いが! 足りない……!』
すん、すん、と感極まってぐずりだしてしまったソキを抱いたまま、ロゼアは妖精に不思議そうな眼差しを向けて立ち上がった。なにか言葉を告げようと迷ったのち、ソキを落ち着かせるのが最優先だと判断したのだろう。どうしたんだよ、ソキ。大丈夫だよ、もう離れたりしてないだろ、と糖蜜のような声でロゼアは囁く。そういうんで泣いてんじゃないわよコイツほんとどうしてやろうかしら、と思いつつ、妖精は深く息を吐く。まあ、なににせよ。泣くようになっただけ良い傾向だと思、えないが、思っておいてやろう。
失礼します、また後でゆっくり、と妖精に微笑んでロゼアは食堂を去っていく。それを見送ってから、妖精は気がついた。ところで結局ソキはなにか食べたり飲んだりしてた気がしないんだけどアイツはそれでいいのかしらまあどうせ部屋に専用の食糧だのなんだの備えてるだろうから事足りはするんでしょうけれどあああぁあああもうアイツほんとマジこれでソキのことをしあわせにしなかったらころしてやまちがえた殺意を持ってのろってやるわよどちくしょう、と吐き出して、妖精はさらに砂糖をがりがりと齧った。今日はもうたぶんソキは出てこないだろうし、明日も怪しい所だろう。食べたら花園に戻って蜜蜂を襲撃しに行こう、とかたく誓う妖精に、シディがつかれた顔で溜息をついた。