ぽやぽやと瞼を持ちあげる。ねむたい。口をちょっと開いたまま、ソキはんん、とほわんほわんした声をあげた。すぐにソキ、とやんわりとした響きの、ロゼアの囁きが体に満ちる。耳をくすぐるように息を吹き込まれたから、ソキは肩をすくめてきゃうー、ふにゃぁぅー、とのんびりした声でくすぐったがり、寝起きのまなざしで、のた、のた、と瞬きをした。
「ロゼアちゃんは、なにをしてる、のー……? おひるねを、いっしょ、したぁ……? です……?」
「うん。いっしょに眠ったろ、ソキ」
髪に差しいれられた指が、あまく背をくすぐりながら何度も梳いて行く。その心地よさに、ソキはとろとろと息を吐き出しながら、こっくりと頷いた。ソキの体はロゼアの膝上に横抱きにされたままで、寝台の上に降ろされる気配はない。そこへ腰かけているのはロゼアだけで、二人分の体重だけが寝台を沈ませていた。はふー、と満たされきった息を吐き出すソキの髪を、またロゼアの手が梳いて行く。さらさらと指の間を抜けて行く砂色の髪に、ロゼアの瞳が嬉しげに滲んだ。
「ほら、ソキ。さらさらになったよ。お風呂に入ったらお肌のお手入れをしような」
「おていれ……? ……あ。ソキの髪が、きしきし、しなくなってるです!」
ぺたんっと髪に両手をあてて、ソキはしあわせにはにかみ、ロゼアに体をくっつけなおした。数日間、考えもしなかった理由で傍を離されていたせいなのか、ソキの髪はきしっと痛んでしまっていて、肌もなんだかざらついてしまっていた。爪もすこし長かったのだが、それも眠っている間にロゼアがやすりをかけてくれたらしい。つやつやに磨かれている手の先を見つめて、ソキはふやぁん、と嬉しげにもじもじ体を動かした。
「もしかして、ソキが眠っている間に、ロゼアちゃんはおていれをしてくれたです。うれしいです……」
「よかった。……さ、ソキ。おなかがすいたろ? 着替えて、夕ご飯を食べに行こうな」
こくん、とあまえた仕草で反射的に頷いてから、ソキはおなかにぽんっと両手を押し当てた。今日のお昼寝着はやや薄めのタオル地で作られていて、ふわふわとソキの体を包み込んでくれている。脇の下から腰辺りまで編んで閉じてある紐に手を伸ばされるのに、ソキはねえねえ、とじゃれついた。
「ご飯を食べたらソキはお風呂です? ろぜあちゃんと、おふろ?」
「ん? 寮ではいっしょにお風呂入れないだろ」
大浴場は男女別である。当然のことながら、寮でソキはロゼアと一緒に入浴したことはないのだが。お昼寝着の紐を手早く解かれながら、ソキはロゼアの服をくいくい引っ張った。
「おふよいっしょがいい……」
「ん? ……ソキ。寮はお風呂、別になってるだろ? どうしたの」
「ソキはいま、ちょっともロゼアちゃんから離れたくないです。ロゼアちゃん、おふりょ……ソキとおふよぉ……!」
ロゼアの膝上でもぞもぞしながら、ソキはくちびるを尖らせてけんめいにねだった。服を脱がされて裸身になった状態で、ロゼアにぎゅぅ、と抱きついてじぃっと目を見つめる。
「ね、ね? ね……? ……ん、くちゅっ」
「んー……。ソキ、ソキ。ほら、服着ような」
「ちゅん、くちゅんっ……。うぅ……ソキはもしかしてやっぱりみりょくがたりないです……ゆゆしきじたいです」
ロゼアの差し出した下着で胸を覆いながら、ソキは頬をぷっと膨らませてうなった。あっ、もしかして御足が隠れていたからかも知れませんソキはろぜあちゃをゆうわくするですゆーわくですそしてめろめろですっ、と意気込んで腰から太股の上にくしゃりと落ちたお昼寝着をたくしあげかける動きを、ロゼアの手がやんわり、丁寧に、手早く阻んだ。
「ソキ。自分で服着替えるの? 俺がしなくていい? ……俺にして欲しい?」
「ふにゃん? ソキ、ロゼアちゃんにお着替えさせて欲しいです」
「うん。……うん、いいこだな、ソキ。じっとしていような」
抱きあげなおされ、ぎゅぅ、と強く抱きしめられて、ソキはしあわせにふにゃふにゃと体の力をとろけさせた。はうー、ろぜあちゃ、はうぅーっ、と甘えて胸に頬を擦りつけると、ゆるゆると満たされた吐息が頭の上で吐き出される。寝台の傍に用意しておかれた外出着を手早く着せられ、ソキはひょい、と抱きあげられる。歩かせる、という選択肢がそもそも存在していない、『花嫁』を移動させる『傍付き』の仕草だった。んん、と目をぱちぱちさせるソキに額を重ね、ロゼアがやんわりと笑いかけてくる。
「ソキ。お風呂から出たらお肌のお手入れ、しような。俺がするから誰にも頼まなくて良いよ」
「はーい。ソキ、ロゼアちゃんの言う通りできるです。……えらい? えらい? かわいい?」
「うん。ソキは偉いな。かわいいな。かわいいからぎゅっとしような」
言葉通りにぎゅっとされたソキの、きゃぁあぅきゃぁんはうぅふにゃあぁあーっ、とはしゃぎきったとろとろの、ほわふわした声が黒魔術師たちの廊下に響き渡り。魔術師のたまごたちは視線を交わし合って、脱力気味に苦笑した。まあ、なににせよ。帰ってきたのは喜ばしいことである、と言わんばかりに。
なないろの光の球体が、ゆうらゆらと浮遊している。それは膨らませたシャボン玉にとてもよく似ていて、それでいてソキが触れてもぱちんと弾けてしまうことはなかった。ひと呼吸ごと、油膜が揺れるよう表面の色は混じり合い揺らめいて変わっていく。魔力だ、とソキは思った。それは恐らく、『扉』の復旧や各国の防衛にあたっていた者たちの、吹き飛ばされた魔力の結晶で。欠片の世界をまあるく、卵の殻のように包み込んでいた守護の魔力の欠片だった。色も、形も、大きさも違うのに、その球体はソキに砂漠の広がりを思わせた。砕けた砂がどこまでも続いている光景と、同じ印象を胸に降り積もらせる。砂漠の欠片を、世界中にばらまいてしまったような、そんな気がした。
言い知れぬ不安にくちびるを尖らせたソキを、ロゼアの腕がぎゅっと抱きしめ直す。
「どうしタの……?」
その声が奇妙にひずんでいた気がして、ソキは勢いよくロゼアの顔を仰ぎ見た。ロゼアは、不思議そうな顔をしている。ぽん、ぽん、と背を宥めて撫でる手も、ぴっとり体にくっつくぬくもりも。夜に沈み行く夕陽を宿した、赤褐色の瞳の穏やかさも。ソキの知る、変わらぬ、ロゼアのもので。ソキは、ふー、と緊張を解いた息を吐き、なんでもないですと呟いてロゼアに身をすり寄せなおした。
「ソキはお疲れにちぁいないです……。ろぜあちゃん、ソキはおなかがすきました」
「うん。いっぱいご飯食べような」
きっと、ご飯を食べないでお風呂に行ったから、体がくたくたで耳がおかしくなってしまっただけである。そう結論付けて、ソキは生乾きの髪をゆっくり指で梳き、乾かしてくれるロゼアの腕の中で、ふあふあとあくびをした。太陽の魔力はソキにじわじわと染み込んで行く。心地よさにまた、あくびが零れた。くすくすと、ロゼアの笑いが耳元に触れて行く。ご飯を食べたら寝ような、と告げるロゼアは女子風呂の前から食堂へ移動している筈なのに、足音も聞こえなければ振動のひとつもソキの体にやってこない。ロゼアだけがソキに与えられる安心が、そこにあった。くてん、と力を抜いて体を預け切り、ソキはロゼアの肩越しに、漂う球体をぽやぽやとしたまなざしで見つめる。
砕けた世界の欠片が、そこかしこに満ちていた。
「ねえ、ねえ、ロゼアちゃん。ソキね、ソキね」
「うん。なに、ソキ」
ぺと、とロゼアの頬がソキの頭にくっつく。やんわり抱き寄せなおされて、ソキは満たされた息を吐き出した。
「ソキはね。ロゼアちゃんのお傍に、ずぅっといるです。決めたです。……うれし?」
「嬉しいよ。あたりまえだろ、ソキ」
「ふにゃぁん……。ソキ、そき、めいっぱいがんばるです……」
顔に両手を押し当ててもじもじてれてれやんやんしながらも、ソキは思い出してぷっと頬をふくらませた。うん、と訝しんで降ろされるロゼアの視線を受けながら、ソキはぺたぺたと己の頬や首筋、胸やおなか、二の腕、脚を服の上から触って、げせぬです、とくちびるを尖らせる。
「ソキは、やわやわでさわるととってもきもちです……。ろぜあちゃん?」
「なあに」
「ロゼアちゃんは、もっとちゃぁんと、ソキをロゼアちゃんのすきすきにしないといけないです」
いいですかぁ、と拗ねて叱りつけるような口調で、ソキはロゼアに主張した。
「すきすきが足りないからいけないと思うです。ろぜあちゃん? ソキをちゃぁんと、ロゼアちゃんのすきすきにして? しないとだめです、てソキは言ってるです。ソキは早くロゼアちゃんのすきすきでいーっぱいになって、めろめろにしないといけないです! めろめろです!」
「……めろめろにするの? 誰を? なんで?」
「ソキはろぜあちゃんをめろめろにするです。ほねぬき、というやつです!」
えへへんっ、とふんぞりかえって主張するソキの顔を、ひょい、と覗き込んだメーシャが笑う。
「ソキ。物事には限度があるんだよ? これ以上は難しいんじゃないかな」
「ふにゃ! ああぁ、メーシャくんですぅー! メーシャくん、こんばんは」
「こんばんは。おかえり、ソキ。待ってたよ。俺も、ナリアンも……もちろん、ロゼアも。ずっとずっと、ソキが帰って来てくれるのを待ってたんだよ。……おかえり。よかった」
微笑んだメーシャはくちびるを尖らせたまま首を傾げるソキに手を伸ばし、熱を計るように額に指先を滑らせた。ひとと距離を保ちたがるメーシャにしては珍しい接触に、ソキはぱちぱち目を瞬かせた。ソキをぽかぽか温める魔力はロゼアのものだけで、それを受け渡された風でもない。なぁに、と問われるのに微笑みを深めて、なにも告げず。メーシャはロゼアに視線を向け、瞬間的な笑いに吹き出した。
「ちょっと撫でただけだよ」
「なにも言ってない」
「眉間のしわが全てを語ってるよ……?」
んん、と不思議そうな声をあげて顔をあげ、ソキはうにゃんふにゃん、とロゼアの眉間に指先でじゃれついた。てしてし触って、ろぜあちゃんどうしたの、と体をすりつける。
「ふきげんさんです……?」
「違うよ、ソキ。大丈夫。……でも今触る必要なかったろ、メーシャ」
「あ、ソキだ。久しぶりだな、と思って。警戒しないでも、俺はソキにはめろめろにならないよ……?」
肩を震わせて笑いながら告げるメーシャに、ロゼアは分かってるよと早口で言い切った。ぎゅむりと抱き締め直されて、ソキはきゅぅ、と幸せな声をもらす。なんだかよく分からないのだが、ロゼアがぎゅっとしてくれたので、ソキはもうそれでいいのである。はふ、と息をはいて腕の中でじっとするソキに、ロゼアはしっかりとした声で言い聞かせた。
「ソキ、ソキ。誰か誘惑したりするのは、やめような。体調が良くないだろ。……メーシャなに笑ってるんだよ」
「体調が……良くても、だ、誰か誘惑しようとするのは止めるのにな、と思って……!」
「俺がいるのになんで誰か誘惑しないといけないんだよ。誰だそんなことしろってソキに言ったヤツ」
ぶはっ、とこみあげる笑いに耐えきれなかったメーシャが、口を手で押さえてその場にしゃがみこむ。ぷるぷると震えて笑いながら、メーシャは楽しくて仕方がなさそうにロゼアのことを見上げた。
「俺がいるのに……?」
「……なんだよ」
「ううん。それより、ロゼア? ソキがなんだかきらきらしてるよ?」
ん、と視線を落とされるのに、ソキは指先をもじもじ擦り合わせたのち、頬に両手を押し当てた。
「ロゼアちゃんは、もしかしてぇ……もしかしてなんですけどぉ、ソキとメーシャくんにお話するのに、ちょっとだけお声の感じとかがちぁうです……? ロゼアちゃん、ロゼアちゃん。ソキにもメーシャくんにするみたいに、お話してみて? してみてくださいです。ねえねえ、いいでしょう……?」
「……ロゼアってソキ以外には時々雑だもんね」
「ねえねえ、ろぜあちゃん? ねえねえ、ねえねえ。ろーぜーあーちゃー? ねえねえ」
ソキにも、なんだよ、をしてぇ、ねえねえしてして、と体をぐりぐり擦りつけながらあまく強請ると、ロゼアの腕にぎゅぅと力が込められる。ぎゅむ、ぎゅぎゅっと抱きしめられて、ソキはきゃぁあああんっ、とはしゃぎきったとろとろの声を響かせた。
「ろぜあちゃが! ろぜあちゃが……! ソキを! ソキを! いっぱいぎゅぅしてくれてるですううぅううきゃぁあんきゃああぁああんっ……! ……もっとぉ。ロゼアちゃん、もっとぉ……!」
「よし、ソキ。夕ご飯を食べような。食べたらぎゅぅしてもいいよ」
「きゃあぁああん! ソキはゆうごはんをたべるううう! たべるですうううぅ!」
それでロゼアちゃんにぎゅぅをしてもらうです、とはしゃぐソキの髪が、温かくふわふわと背に流れて行く。お風呂から出たての時はまだ生乾きだった髪は、食堂に来るまでにすっかり乾いて気持ちがいい。ロゼアちゃんはすごいです、と頬を肩に擦りつけながら告げれば、メーシャが感心したように頷いた。
「使い方も上手だけど、発想がすごいよね。太陽の熱の魔力で、髪の毛乾かすって」
「ふにゃぁ……ロゼアちゃんのなでなでが、さらにあったかくてきもちいのになったです……。あ、あっ、でも、でも、あの、あのね。ロゼアちゃん、あのね。あの……ソキ以外をこうやって乾かしちゃだめですよ。これはロゼアちゃんのぎゅぅと、だっこと、なでなでと一緒で、ソキのですよ? わかった? わかったです? わかったなら、ロゼアちゃんはソキをだいすきって言って、ぎゅぅってして、それでそれで、うん、って言うです」
「うん。大好きだよ、ソキ」
ぎゅむっと抱きしめられながら囁かれ、ソキは分かったならいいんですぅーっ、と腕の中でふんぞりかえった。
ナリアンが食堂に姿を現したのは、ソキが一時間はかけた夕食の最後のふたくちと、ちまりちまりと格闘している最中のことだった。あっナリアンくんですー、とまたも目の前の食事から気を反らしたソキの肩を、ロゼアがぽんぽん、とてのひらで叩く。
「ソキ、ソキ。はい、あーん」
「あー……ん。あむ。……んんぅー……ロゼアちゃん、ソキはもうおなかいっぱいです」
「うん。あともうひとくちで終わりだからな、ソキ」
角切りの桃を一欠片、残ったヨーグルトにまぶして木の匙を口元へ運ばれるのに、ソキはいやんいやぁん、とロゼアの膝上でちたぱたした。
「ロゼアちゃんが、だいすきなソキ、もうちょっと食べて? って言わないとソキはあーんもしてあげないですうぅ」
「大好きなソキ。かわいいかわいいソキ。もうちょっとだけ食べような。はい、あーん」
「あーん。あむっ!」
二人の真正面に席を据えたメーシャが、顔を両手で覆ってくつくつと笑いをこらえている。あむあむ、あむ、こくんっ、と最後のひとくちまで綺麗にたいらげたソキを撫でながら、ロゼアが憮然とした目を友人に向ける。
「なんだよ、メーシャ」
「ううん? ……ソキのそれは、なにかな、と思って。わがまま? ふきげん?」
「メーシャくん? ソキはぁ、いま、はんこーき、です」
えっへん、と胸を張ってふんぞりかえるソキの現在位置は、椅子に腰かけるロゼアの膝の上である。ぺたぁーっと全身をくっつけて甘えて、ぎゅっと抱きしめてもらって、髪も撫でてもらっている最中だ。反抗期、とメーシャが繰り返して確認すると、ソキは自慢げな顔でこくりと頷く。反抗期、ともう一度呟き、メーシャはちらりとロゼアに視線を移動させた。な、ん、だ、よ、と言ってくるロゼアに、メーシャはきれいな顔で微笑んだ。
「ロゼア、反抗されてるの?」
「大好きなソキって言わないと、ソキは本当になにもしないよ。……だから、なんだよその顔」
「俺の知ってる反抗期と違うかな、と思っただけだよ。ロゼア」
ロゼアって本当に可愛いよね、と笑みを深めるメーシャに、なにを言うより早く。ふらふら食堂を漂っていたナリアンが、ずべしゃぁっ、とばかり机に倒れ込んで着席したので、ソキがぴゃぁっ、と悲鳴をあげた。
「ナリアンくん! ナリアンくん、どうしたですか……!」
『もう無理だめ無理ごめん無理俺の心が耐えきれない……気持ち、わるい……!』
「うえってするです? やぁあああそれは大変なことです! ソキがすっきりするお茶をもってきてあげるぅ……!」
ういしょっ、とロゼアの膝上から床に滑り下りようとして、ソキはちたちたぱたんと両腕脚を動かした。あれ、と瞬きして首を傾げる。もう一度、ちたぱた、ちたぱたしてから、ソキはもぞもぞと座り直し、くちびるを尖らせてロゼアを見上げる。
「ロゼアちゃん? ソキはぁ、お膝抱っこから降りられない気がするです」
「ソキ。一人で出歩いたりしたら、また戻れなくなるかも知れないだろ。俺も一緒に行けばいいだろ?」
「悪化しやがったああぁああ……!」
ソキじゃなくてロゼアの方がなっ、とひきつった声で言い放ち、けたたましく駆けこんで来たのは寮長だった。うああぁあっ、と悪夢の具現を見つめた者の涙声でナリアンが呻き、突っ伏したままもぞもぞと身動きをする。メーシャはナリアンの肩を叩いて慰めながら、顔色悪くふらふらと歩み寄ってくる寮長に、新入生たちの中でほぼ唯一、心配そうな目を向けて問いかけた。
「寮長。顔色がすごく……まだ昨日までの疲れも残っているでしょうし、休んでいなければ」
「ロゼアだと半分以上はお前のせいでもあるからなこの幼女趣味とか罵りたくなるんだがメーシャだとこの反応が正常にも関わらずメーシャの優しさまじ尊いとか思えてくるからほんとお前らなんなんだよ……ナリアンは出歩かないで俺の傍にいろっつったろうがこのっ……!」
『う、うああぁああああやだあぁああああ! 寮長の傍だと体調がいいのに離れると気持ち悪くなるとかやだぁあああああ俺の心が耐えきれない助けてニーア、ソキちゃん、メーシャ、ロゼアあぁ……! ロリエス先生……! ロリエス先生はやくこの男と結婚してあげてくださいそうすればこのひともうちょっと落ち着くと思うんですお願いしますロリエス先生結婚してください俺に! いらぬ! 嫉妬とか! してないでーっ!』
ないしん、というのがだだもれですぅ二人ともどうしたの、お疲れです、とくちびるを尖らせてちたぱたしながら不思議がるソキを、ロゼアの手がぽん、ぽん、ぽん、と撫でて行く。ぷふーっ、と不満の零れる息を吐きながら、ソキはそういえばと改めて食堂を見回した。天井の高い広々としたつくりの食堂は、朝や昼であれば眩しい程の光を取りこみきらびやかだが、陽の落ち切ったこの時刻、窓から見える夜と森の広がりのせいで、落ち着き切った空気が漂っていた。色とりどりの机や椅子は整然と並べられたモザイクタイルのようにソキの目を楽しませたが、そこへ腰かける者の数がいつもよりずっと少ないせいで、うすぼんやりと物悲しい。
皆もう談話室にいるですか、と呟くソキに、寮長が顔色悪く首を振った。
「生徒の過半数が保健室行きだ。と言っても床の数が足りないから臨時で部屋を作ってそこにごろごろ寝てるけどな……ほら、ナリアン。戻るぞ。……それともなんだ? 慣れた自分の部屋で俺に添い寝して欲しいとかそういうことかよしわかった行くぞ」
『やだああああぁああああ! 俺の部屋が寮長に汚染されるやだああああっ!』
「寮長。なにが?」
起きているのか、と。眉を寄せて問うロゼアに、寮長はうんざりした顔を向けて息を吐いた。視線はそのままロゼアと、その腕の中に納まりきったソキを見比べたのち、メーシャへと移る。お前の安定はさすがに占星術師だなとメーシャを褒めたあと、寮長は魔力酔いだ、と言った。
「ソキの空間ぶち抜きの影響で、生徒の大半が魔力酔い起こしてるんだよ……。直後は妖精に影響が出てる分まだ大丈夫だったんだが、こうも魔力の欠片が散らばってるとな……。メーシャは、さすがにストルが担当についてるだけあって持ちこたえてるみたいだが」
「……俺も、ソキも、なんともありませんが?」
「お前らそれで影響あったらおかしいだろうが」
そういえばちょっとだるい気がするような、しないような、と考えながら立ち上がり、メーシャはいやだいやだと抵抗するナリアンに微笑みかけた。俺はナリアンがゆっくりして、早く元気になってくれるのがいいな、と説得するのにナリアンを任せ、寮長は怪訝そうなロゼアに向き合い直す。
「ソキはお前の『 』だろう、黒魔術師」
「……なんと仰いましたか? すみません、聞き取れなくて」
「いや、だから」
額に指先を押し当てて息を吐き、寮長はぱしぱしと瞬きを繰り返すソキにも目を向けた。ソキは胸に両手を押し当てながら不安げに首を傾げ、寮長をそっと見上げてくちびるを尖らせる。
「りょうちょ、なぁに……? なんて、言った、です?」
「寮長、すみません。俺にも聞き取れなくて。いま、なんと?」
ナリアンは突っ伏したまま動かなくなっていたが、このひと今日はなにしてるの的な気配が寮長の元へ届いていたので、特に答えを聞く必要はなかった。まあさっきよりは安定してきてなによりだ、と思いながらもナリアンの頭を平手でぺしりとひっ叩き、寮長はぱしぱし、何度も不安げに瞬きをするソキの顔をひょいと覗き込んだ。砕かれている。眩暈のするような事実を直感して、寮長はそうか、と息を吐いた。
「お前、自分で分かってないからその単語が消去されんのか……。予知魔術師、なにしでかすかわからんな」
「ソキはいまなにもしなかったです……」
ほんとです、と無実を訴えてしょんぼりとするソキに、寮長は静かに頷いた。
「いまは、な。前にやった効果が続いてんだろ……。まあ、いいか。分からなくても効果は十分あるようだし。ソキ、ロゼアから離れんなよ。全体の魔力酔いが落ち着くまでは危ないからな。メーシャも、気分が悪くなったら、迷惑だの人出が足りないだのこれくらいなら大丈夫だの言ってないで、すぐ保健室に来ること。あまりに魔力の揺れが大きくて、来ないようならこちらから捕獲部隊が行くから逃げ切れるとは思わないように。よし、ほら、ナリアン。行くぞ? 世界が俺にナリアンと添い寝をしろと囁き告げている……!」
『うわぁあああん! そんな世界なんて爆発四散すればいいんだああぁあっ!』
はっはっは、お前を俺の添い寝なしでは安眠できないようにしてやるぜ、とソキが考え得る限り最悪の嫌がらせを提示する寮長にずるずると引っ張られて、ナリアンはぎゃあぁあああああと悲鳴をあげながらも食堂からいなくなってしまった。それでも全力で、力づくで連行されたようには見えなかったので、ナリアンはとても弱っているし、寮長がそうしろというのが正しいとも分かっているようだった。メーシャはくすくすと笑いながらふたりに手を振って見送り、俺はどうしようかな、と呟いて立ち上がる。
「今はまだ大丈夫だけど……。今日は早めに眠ろうかな。ストル先生にも言われてるし」
「メーシャくん。おやすみなさい。……ロゼアちゃん? ソキとロゼアちゃんも、もうお部屋に帰るです?」
普段なら、このあと談話室でゆったりと時間を過ごしてから、部屋へ引きあげて行くのだが。食堂を見渡すと、もうすでに一部の灯りが落とされている。食堂勤務の魔術師たちも眠そう、かつだるそうにしているから、その談話室がわりに食堂で時を過ごしていた者たちにも、そろそろ行こうか、という気配が漂い始めていた。ロゼアはソキの問いに頷くと、空の食器を手早くまとめ、立ち上がった。だっこ、と両腕を持ち上げてねだるソキをひょいと抱き上げて、ロゼアは満ちた息を吐きだした。
ソキはロゼアにひしっと抱きつき、首筋に鼻先をうずめてふんすふんすと匂いを嗅ぐ。
「お風呂上がりのロゼアちゃんのいいにおい、です。ソキもこれがいいです」
「ん? 香水? 俺と一緒が良いの?」
「あっ、でもロゼアちゃんの好きなにおいが一番いいです。ロゼアちゃんは、ソキを、ロゼアちゃんの一番すきすきなにおいにしておかないといけないです。ロゼアちゃんが、ソキをぎゅってして、なでなでして、ぎゅぎゅってしたくなるようなのです。あと触ってください!」
ぺっかーっ、とした笑顔で要求をぶち込んでくるソキに、ロゼアは微笑み、ぽんぽんと背を撫でながら歩き出す。触ってるだろ、とのんびりした声に、ソキがふゃんふにゃんと腕の中でもぞもぞするのに、くすぐったく笑みを深め。ロゼアはきゅ、とソキを抱く腕に力をこめた。
『ソウダヨネ』
忍びよる声は、一瞬で。
『ロゼアくんも、ボクのお人形サンがいいんだモノね……?』
砕かればらまかれた魔力のきらめきに紛れ、夜の静けさに溶け込んでしまった。