顔色悪くとも、ソファに寝そべって動かなくとも、椅子に引っかかってぶ厚い布のようになりつつも、とりあえず全ての生徒が床から起き上がり、談話室に集えるようになるまで四日間の時が必要だった。空間と世界、散らばった魔力の正常化は五ヶ国の王宮魔術師たちによって速やかに行われ、未熟な卵たちはそこに、卒業して行った者たちとの差を思い知る。安定と、乱れた末に平常を取り戻す地力の差が圧倒的に違うのだ。それでも多忙故だろう。つかれた顔をして現れた砂漠の白魔法使いは、ひとりひとりの生徒に声をかけ、状態を確認したのち、反省文頑張ろうなー、とソキに呑気な応援をして帰って行った。びゃあぁあああっ、と不満のあまりソキは怒りで泣き叫んだが、それでも各国に提出する書類と寮内に掲示する白紙の反省文書が消えることはなかった。
くちびるを尖らせ、ぐずっぐずっちたぱたやんやんロゼアちゃあぁあんしながら、ソキがそれを全て書きあげ、提出と掲載の許可が降りるまでも四日間。かくして、ようやく常のざわめきに近いものを取り戻した談話室の壁に、真新しい『ソキはもうしません反省文。寮内掲示用』を張りつけ、寮長はくるりと振り返る。四日間じっとしていたわりに、その顔色は元気とは言い難く。りょうちょはきっと動き回って変なことを言ったり変な格好をしたりしないといけないです、でもほんとにお体が辛かったらどうしよう、とソキはくちびるを尖らせつつ、ロゼアの膝上でちょこりと首を傾げてみせた。ねえねえロゼアちゃん、と甘えてしなだれかかり、くしくし体をこすりつけている間に、寮長はよく響く声で全体連絡っ、と声をあげた。
「先程、正式な通達があった! 今年の新入生はなし! 繰り返す、今年の新入生はひとりもいない! よって慣例により、前年度入学の四人が今年も『星降ろし』をすること。パーティーに関しては近くなったらまた通達があるだろうが、今回は普通に王が遊びに来る舞踏会形式だな。仮面舞踏会したいって言ってたヤツらは早めに計画組んで企画書を俺まで提出するように。よし、通達終了。体調悪いヤツは自室に籠って寝てろ。あんまり吐き気がひどいようなら無理しないで保健室! 俺はもう我慢できないから俺の女神に! 癒しを! 施されてくる! 止めるなっ!」
そこで施されるなあたり、寮長はまだロリエスと想いを通じあわせていないらしい。うわあぁあ、と涙声で頭を抱えるナリアンは、けれども何日か前よりずっと元気に見えた。寮長よりも状態としては落ち着いているのだろう。俺はもういいんではやく行って下さいはやく、はやく、ほんとはやくほんといますぐほんと速やかにっ、とナリアンに羽虫を追い払う手つきで遠ざけられながらも、寮長はぬるい笑みを浮かべてソキたちの元へ歩んでくる。ソキはほぼ定位置となっている談話室の端っこで、ロゼアに抱きあげられたままくつろいでいた。
広々とした机を挟んで隣り合って座るナリアンと、唯一歓迎の笑みを浮かべて寮長の名を呼びやうメーシャに、シルはややぐったりとした表情を向けて首をふる。
「よかったなお前ら……後輩ができないぞ……」
「よかった、なんですか?」
「お互いの為にな。お前たちが後輩の面倒見られるとは思えねぇし」
まだ自分のことで手一杯だろ、と苦笑する寮長に、メーシャは照れくさそうに肩をすくめて笑った。
「それでも、慣れないひとに手を差し出すくらいはできますよ。でもいないんですね、新入生。残念だな……」
「……お前ほんといいこだな、メーシャ」
『あ、ちょっとやめてください寮長俺の友人に気軽にさわらないでくださあああああ撫でんなあああああ!』
メーシャの頭をわしゃわしゃかき回して愛でた寮長が、芸術的なポーズを決めつつナリアンを指差した。
「次はお前だ。よーしよーしナリアンは可愛いなあぁあああ?」
『ぎああああぁあああっ!』
「りょうちょが今日もナリアンくんをいじめてるです。とってもよくないと思います」
体調が本当に悪いかもしれない、というのはソキの思い過ごしだったようだ。心配しなくても大丈夫だったです、とぷぷっと頬を膨らませていると、ロゼアの指がするすると、まるくなった肌を撫でて行く。ふしゅる、と息を吐きだし、ソキはふにゃんふにゃんの笑みでロゼアを見上げた。
「ロゼアちゃんは先輩さんになりたかったです?」
「ん? なんで?」
「ロゼアちゃんは賑やかなのがお好きです。ソキ、ちゃぁんと知ってるです」
腰に手をあててふんぞり返ると、その動きに従って服の繊細な飾りがシャラシャラと揺れ動く。雪を削って擦り合せたような、砂を振り越して詰めた小瓶をひっくり返したような、ごく繊細できよらかな、耳を痛くしない音だった。真新しいその飾りを指で摘んで撫でながら、ロゼアの瞳がソキの目を覗き込んでくる。言葉を促されるのにぱっと頬を染めながら、ソキはだって、だってね、と指先をもじもじと組み合わせる。
「ソキはロゼアちゃんとふたりでいるのがいっとう好きですけど、ロゼアちゃんは『お屋敷』でも皆で一緒にいるのが好きだったです。だから、きっとロゼアちゃんは先輩になって、後輩さんの面倒をみるのを楽しみにしていたです。……ソキは後輩さんがいなくてよかったです。だって、だって、ロゼアちゃんを好きになっちゃうです。たいへんです。来年までに、ソキはロゼアちゃんをめろめろに……! めろめろにするです……!」
「お前なに言ってんの大丈夫かコイツ」
見たトコそう体調がおかしいようには思えないが、とうろんな目を向けてくる寮長に、ソキはもおおぉぜぇんぜん分かってないんですからぁーっ、とぷんぷこしながら、ロゼアの膝上でさらにふんぞりかえった。
「ソキはぁ、ロゼアちゃんにだっこしてい? とかぁ、ぎゅぅしていい? とか、お願いされるようになるです。お願いをされるです。これは大切なことです……! つまり! めろめろということです! あっ、あっ、だめだめぇロゼアちゃんソキをお膝から降ろそうとしちゃいやいやん!」
「降ろさないよ? だっこし直すだけだろ」
あんまりふんぞり返られたのでおさまりが悪くなったのだろう。腕の力を緩めてひょいと抱きあげられるのに猛抗議するソキに、ロゼアはふわりと微笑んでそう言い聞かせた。それならいいんです、となすがままに座り位置を調整させられながら、ソキは頭を抱えてしゃがみこんでいる寮長に、ちらっとばかり視線を投げかけた。
「寮長は頭が痛いです。はやくお部屋に帰ってお休むといいです……あ、あっ、でもでもその前に、みて、みて? このお服のお飾り、かわいいでしょう……?」
なんと、なんとですよっ。ロゼアちゃんが今日の朝にお針と糸でくっつけてくれたですううたいへん手間暇がかかっているということですソキロゼアちゃんにてまひまかけて頂くのだぁいすきですすごいでしょうすごいでしょうさあ褒めて褒めてそれで褒め終わったらりょうちょは寝に行ってもいいですよあれ褒めがなかなかこないですなんで、と目をぱちくりさせるソキを眺め、ナリアンがしみじみと頷いた。
『動くと音がするね、メーシャくん』
「そうだね、ナリアン」
『でもソキちゃんは分かってないよね、メーシャくん』
そうだね、とナリアンの傍らでうつくしい少年が微笑ましげに頷く。つまり猫に鈴をつけるのと同じ理由である。ロゼア本当に不安だったんだね、よかったねソキが戻って来て、とふわふわ笑いあって頷く二人の会話を聞こえないことにしながら、寮長はふらりと立ちあがった。溜息をつき、なにも言わず、寮長はこれだけは果たさねばならぬという義務感溢れた顔つきで、ソキに一通の書状を差し出した。砂漠の国章が押印された、正式なものである。くちびるを尖らせるソキに、王からのお呼び出しだ行けよ、と寮長は言った。いつもの三者面談である。ソキはロゼアにびとっとくっついていやんいやんと首を振った後、無理に持たされた書状からぷい、と顔を背けて。はい、とそれをロゼアに受け渡した。
ロゼアの人差し指と中指を、きゅむりと握る。くちびるを尖らせ、脚をふらふらさせながら、ソキは不満げにぱしぱし瞬きをした。
「ソキはとってもふかぁくはんせーしてるです……。はんせーしているですので、ごめんなさいをするのもやぶさかではないです……ラティさんは許してくれたです。フィオーレさんも、だから、きっと、許してくれるに違いないです。……んん、フィオーレさん、おててを貸してくださいです」
ロゼアの手を離して、ソキはフィオーレに向かって両手を差し出した。あ、わーい俺にもやってくれるの、と弾んだ声でフィオーレは右手を差し出してくる。その手を両手で包み込み、ソキは目をうるませてフィオーレを見つめた。
「フィオーレさん、ごめんなさい……。許してくれなくっちゃ嫌ですよ……」
「……ちょ……ろ、ろぜ、ろぜあ、ロゼアさん……! ちょあああああああこれぎゅってしたり!」
「ソキ。もういいだろ? 手を離そうな」
はぁーい、とほわほわした声で返事をして、ソキはぱっとばかりフィオーレから両手を離した。うわぁああああっ、と裏返った声で叫びながら、フィオーレがその場に蹲る。耳をうっすら赤く染める白魔法使いをロゼアだけが部屋の隅にある綿埃を見つめる冷たい目で眺めていたが、ソキにことごとく沈められた砂漠の魔術師たちは、たいそうフィオーレに同情的だった。分かる分かる、とソキに握られた手を胸元に引き寄せて息を吐きながら、歩み寄ったラティが爪先で青年の脇腹を蹴る。
「もうなんかすごい抱きしめたい気がするよね……。……あの、一日だけでも借りられたり」
「しません」
「お金なら払うからあぁあっ……! 分かった! 私もうほんとすごいよく分かった! 正直いままでなんで『花嫁』ちゃんとか『花婿』くんが、国外に旅行にお呼ばれしてものすごい貢物と一緒に帰ってくるのちょっと意味が分からないっていうか、ええぇええええ数日なのにこれいいの? こんなにいいの? ってくらいもらってくる理由というか意味が分かった……! お金払うから来てください……! 望むだけあげるからあぁあっ!」
ちくしょう国外の豪族に生まれたかったっ、金銭をよこせ山のようにだっ、とやや正気を取り戻せていない魔術師たちの叫びが室内にこだまするのに、その主たる王からは白んだ視線だけが向けられている。
「おい、ソキ。俺は全員に謝れとは言ったが、全員をおかしくしろとは言わなかったな?」
「えへん。ソキは気合いを入れてごめんなさいをしたです」
「よーしよーし俺は褒めてないからな……?」
腕組みをしてクッションの巣に背を預け、砂漠の王は深々と溜息をついた。ソキとロゼアが現れたのは、つい三十分も前のことだ。とりあえず行き来できるようになったから前回の面談の後、具体的にどういう経緯で楽音預かりになり、そこからどうして無理に『学園』へ戻ったのかを説明ついでに顔を見せにこい、と言ったのは確かに砂漠の王そのひとであるのだが。呼んだのはソキだけである。一人だけである。なぜロゼアもくっついてくるのか。なんでお前まで来たんだよ、と頭が痛そうに問いかけた王に対して、ロゼアはとても丁寧な響きでこう告げた。
『なにを仰っておいででしょうか、我らが砂漠の尊き王よ。ソキがまた一人で戻れなくなったらどうされるおつもりで?』
石畳を蠢く毒虫を見る目だった。ほんとコイツ分かってねぇなとでも言いたげな目だった。ロゼアの師、チェチェリアを筆頭に、その時『学園』にいた王宮魔術師連名で、各国の王あてに出された文書を思い出さざるを得ない、乾き切った冷たい目だった。
『ロゼアが限界なのでしばらくはソキを与えて大人しくさせておいてください。大丈夫です、ソキさえ与えておけばロゼアは無害です。ソキさえ与えておけば。帰って来てくれて! ほんと! ありがとう! ほんと! もういいそれだけでいい後始末は私たちに任せなさいなんとかする』
『お願いですからなにか用事がある時は同行を認めてあげてください。ロゼアの』
『いいですか問題はソキちゃんがひとりで頑張れるか否かではありません。ロゼアくんです。ロゼアくんなのです。いいですか! 相手は太陽の黒魔術師ですよ! しかも未熟なんですよおおおおおおお追い詰め駄目絶対! こわい! やだぁあああこわいいいいい!』
お前たちはたったの四日五日でどんな恐怖体験をさせられてきたんだ、と王たちがそろってぬるい目をした陳述集、こと、ソキちゃんの単独行動をしばらくは控えめにしてあげてくださいお願いします嘆願書の内容は、どれもこれもがそんな叫びで満ちていた。砂漠の王はソキを腕に抱きあげたまま、音もなく歩み寄りしゃがみこんだロゼアの気配に、いつの間にか閉じていた瞼を持ち上げ、鈍く視線を向けて睨みつける。
「なんだよ」
「陛下に、なんだよ、をされたです……。陛下? ソキはぁ、ちゃぁんと陛下にもごめんなさいができるんですよ?」
はい、おててを貸してくださいね、とにこにこ差し出されたソキの両手に指先を預けてやったのは、ちょっとした好奇心だった。未だに部屋のあちこちに座りこみ、お金さえあればだの、陛下『砂漠の花嫁』一時間貸し出しとか『お屋敷』にお願いしてみてくださいだの、うわあぁああぎゅってしたいいい、だの呻く魔術師たちが受けた衝撃がどれくらいか、知ってみたかったのだった。微妙に嫌そうな顔をしているロゼアの膝にちょこっと腰かけたまま、ソキは砂漠の王の手を大切そうに包み込んだ。やわやわとした指の、しっとりとした肌だった。
「陛下。ソキはとっても反省しているです」
「……おう」
あまい声が、体の芯をくすぐって行く。指先がすこしだけ、王の手を撫でた。
「陛下……?」
じぃ、と下から瞳が覗き込む。うるみ、不安げに揺れる、とろりとした色の。
「許してくれなくっちゃ……やです」
ねえ、ねえ。いいでしょう、とすこし拗ねて尖ったくちびるから、零れる声はほんのすこし艶やかに響いた。ねえ、と囁き、首が傾げられる。とうめいな首筋の肌を滑る髪は、金糸のように乾いていた。
「ソキ」
ぱし、と意識を叩き払うように。まっすぐ響く声が、王の意識を正気へ突き飛ばした。
「ソキ、ソキ。もういいよ」
「……陛下、ソキのごめんなさい、わかったぁ? ……分かったです?」
くちびるを尖らせ、頬をぷっと膨らませてロゼアに問いかけ。それから、砂漠の王に目を向けて、ソキはちょこりと首を傾げてみせた。その手はいつの間にか、王の指から離れている。それなのに。触れた感触が、肌に染み込むように残っていた。これを。己のものとするならば。差し出せるものは全てと思わせる。己の咎なくその座から去った、『最優』の『砂漠の花嫁』。指を握りこむようにして、王は深く息を吐きだした。
「……分かった」
はー、と深く、長く、もう一度息を吐き出して。王は手をひらいてふらふらと振り、感触を何処へと逃しながら、立ち直る気配のない魔術師たちを見つめた。
「これはマズいな……」
「う、うぅ……。ロゼアくん……いくら払えばソキちゃんをおひざ抱っことかさせてくれるの……?」
「ソキ、ロゼアちゃん以外の抱っこは! ぜぇえったい! いや! です!」
ぺっかあぁあっ、とばかり輝く笑みで言い切られて、復活しかけていた魔術師の数名が、再び床に沈んだ。そして動かなくなった。溜息をつきながら指先をふり、砂漠の王は窓の外を眺める。溜息しかでなかった。
とろとろの幸せに蕩けた目が、うっとりと瞬きを繰り返す。もじ、もじ、と椅子の上で身じろぎをして、ソキはあからんだ頬に両手をきゅっと押し当て、ふにゃぁあやぁああんっ、と照れ切った声を響かせた。
「ロゼアちゃんがソキを、ぎゅぅってしてくれたぁ、です……それで、それで、ほっぺをすりって、ソキにすりってして、行ってきますをいてくれたです……。はふ……きゃぁんっ、きゃあぁああんっ」
「もう二十回は聞いたから、お前いい加減その目の前の始末書を書き終えろよ……?」
ロゼアが授業を終わって戻ってくる前にな、とげっそりとした顔で机に片ひじをつき、覗き込んでくる寮長に、ソキはうるうるできらきらの目をうるませ、だってだってと指先を擦り合せた。
「ぎゅぅですよ。ぎゅうですよりょうちょ……! ソキが、ぷきゅん、てしちゃうくらいのぎゅぅですよ……?」
「……そうだな。お前ちょっと潰れてたな。珍しく」
とにもかくにも安定したのなら、授業を受けなければならないのが魔術師のたまご、その常だ。未だソキの開けた『穴』は修復途中であるというが、世界中に散らばった魔力の欠片は落ちた埃のように足元を漂っているばかりで、空気中へ過度に舞い上がることをしなかった。今は足の甲を浸す川の流れのように、ゆらゆらとしているばかりである。時期が来ればそれも消えてしまうのだ、とソキは聞いた。水面に巨石を叩きつけたがごとき魔力そのものの揺れも、数日を経てなんとか落ち着きを取り戻している。『扉』も使えるようになったから、先日のソキのように砂漠へロゼアとでかけることもできるし、『学園』へ向かって教員が足を運ぶことも、もういつも通りにできるのだった。
普段と変わりがあるとすれば、顔色が悪くふらつく生徒の数がすこしばかり多いことと。疲労の抜けない顔をした寮長、そしてソキの前にでんっ、ででんっ、とばかりそびえ立つ始末書の束である。どうしても受けなければいけない授業でロゼアがいなくなるのと引き換えに、寮長がそれを持って、談話室でやんやんしていたソキの元へ現れたのである。あんまりである。余韻が台無しである。気にせずもじもじしていたとはいえ、ぎゅぅの後に立ち向かうものとして、これ以上なく現実的で反省に満ちたものだった。寮長は浪漫というものが分からないに違いないです、とくちびるを尖らせながら呟き、ソキは仕方がなく、一番上に置かれていた紙束を手に取った。
眉を寄せ、くちびるをさらにつんっとさせながら、くんにゃりと首を傾げる。
「今回の予知魔術発動の手順について、過去の事例を参考に詳細に報告しなさい、です……?」
「よかった……文字読めないのかと思っただろうが」
「あれ? ソキはなんだか? りょうちょに? すっごく? ばかにされてるぅ? です?」
いいですかぁ、ソキは、ソキはぁ『お屋敷』で最優と呼ばれたいちにんまえの『花嫁』さんだったんですよつまりおべんきょというのもとぉっても優秀だったということです、とその場にロゼアがいないのを良いことにそれなりに誇張した言葉でふんぞり、ソキはちぱちぱと瞬きをする。寮長はソキに始末書、と言った気がしたのだが。表紙をめくって綴じられた中を確認しても、そこにある文字列はソキの考えていたものとはまるで違っていた。そもそも始末書は、冊子形式になっているものとは違うのではないだろうか。どう確認してもそれは、授業で使う教本めいていた。ぱらぱらと一冊をめくって確認し、膝の上に置き、もうひとつを手に取って確認して。ソキはそれを両手でぎゅっと握ったまま、こくん、と頷いた。
「寮長が持ってくるものを間違えたです」
「それでいいんだよ」
「しまつしょ? です?」
不思議そうに繰り返すソキに根気よく頷いてやりながら、寮長はだるそうに、いつもナリアンとメーシャが座っているソファに上半身を倒した。視線だけをソキに向けて、それがそうだから書いて終わらせて俺に提出しろ、と繰り返す。
「それが、魔術師の……というか、予知魔術師の始末書として扱われる書類一式で間違いない。のちの資料も兼ねてることは確かだがな。お前がやらなきゃいけないのは、今回の世界をぶち抜いて、さらにそれを通路として転移した予知魔術の、発動までの術式の解析と、それの詳細な報告。魔力消費量、体調、他。思い出せる限りの全ての詳細な記録を、全魔術師に閲覧可能な形式に仕上げること。それと、反省札一ヶ月。今回の騒動の罰はそれでぜんぶだ。よかったな、独房で反省を促されたりしないで」
全ての魔力を遮断するそこへ、ソキを閉じ込めてはどうか、という意見もあったのだが。お前そんなことしたらロゼアがどうなるか分かってんのか、と遠い目をした寮長の一声で、その意見は取り下げられた。ここ数日のロゼアの評価は、ソキの前でものすごくぶ厚い、温和で穏やかという猫を被った青少年である。風の噂に評価を漏れ聞いたロゼアだけが、不満げな顔をしていた。どくぼう、です、とソキは不安げな顔をする。
「それはもしかして……もしかしてなんですけど……。ソキを、ぴょって掴んで、ぽいって投げて、鍵をがしゃんてされて、ロゼアちゃんもパパもママも会わせてもらえなくて、とっても暗くて、怖くて、ごめんなさいをいっぱいしても出してもらえないお部屋です……?」
「……お前んち独房あんのか? ソキ」
「や、やっ、うぅ……! あんまりです……あんまりなことです……」
ぶわっと涙ぐんで青ざめ、体中に力をこめてぷるぷる震えながら警戒するソキに、寮長はのっそりと体を起こした。大丈夫だ、としっかりとした声で囁きながら手を伸ばし、ぽん、と一度だけ頭を撫でてやる。
「行かなくていい」
「ほんと……? ソキ、わるいこじゃない? できそこない、ない……?」
「悪いことしたら、反省できるだろ。……ほら、それ終わらせような。授業終わったら、ロゼアもすぐ来るだろ?」
顔色を伺いながら、ぽん、ぽん、と頭を撫でられて、ソキはぐずぐず鼻をすすってけんめいに頷いた。
「終わったら、ロゼアちゃんは褒めてくれるです……? ソキ、えらい?」
「あー、褒めてくれる褒めてくれる。えらい、えらい。えらいぞー」
ものすごく雑に同意してくれる寮長に、ソキは目をくしくし手で擦って、気を取り直した笑みでふにゃりとはにかんだ。頬に指先をそえて、やん、と身をよじる。
「ご褒美にちゅうをしてもらえるかもです……?」
「……いやそれは……どうだろうな……?」
「ちゅう。ロゼアちゃんの、ちゅう……! ……ふにゃあぁああきゃああぁあんやぁんやぁん! やぁああああんソキがんばるうううう!」
よく頑張ったなソキ、と微笑んだロゼアが温かな大きな手で頬を包み込み、そっとくちびるで触れてくれる所まで想像して、ソキは顔を真っ赤にしてちたぱたちたぱた興奮した。だってだってぎゅぅ、と。ほっぺをぴとっとして、すりっとしてくれたのだ。あんまりにロゼアがご機嫌な時に、ものすごくたまにしてくれることなので、これはもしかしたら勢いとかそういうものでちゅうもしてくれるのではないだろうか。ソキはぎゅっと手を握り、呆れ顔の寮長にふんぞり返った。
「ソキ、じつは! いつでもロゼアちゃんがちゅうをしてくれたくなっちゃうように! お顔のおていれをけんめいにしたです……! ほっぺが、やわやわで、とってもきもちです……! それできっとロゼアちゃんは、ほっぺをすりっ、てしたくなったにちぁいないですうううきゃぁあんめろめろってことですううううう! ろぜあちゃが! そきに! ソキに! めろめろになってきているということですうううううこれはすごいことですうううううはううはぅうううふにゃぁああきゃあぁんきゃぁああんやぁんやんやんはううぅー!」
「お前、ちょろいんだかめんどくさいんだか心底分からんな……。頬?」
「あ。やんやん、りょうちょの為のほっぺじゃないので触らないでくださいです。……いやぁああん! いやぁーん! むにむにしちゃだめぇっ! ろぜあちゃんのなのっ! ソキのほっぺはいまぜぇんぶロゼアちゃんのなのぉいやんいやん!」
もにっ。ふにゃふにゃ。もちーっ、と触って押しつぶして摘んで引っ張って、おおお、と感動の声をあげる寮長の手首を、ソキは指先でぺっちぺっち叩いて怒った。その、あくまで淡い抵抗が寮長を煽ったらしい。ふ、と笑ってもにもに頬を弄られて、ソキはぴゃあぁああああっ、と涙声で叫んだ。
「これは無理強いというやつですうううう! ソキはりょうちょに無理強い、を働かれてるですううううロゼアちゃあぁああああ! ロゼアちゃあああああソキはやんやんなことをりょうちょうがすごくすっごく楽しそうにしてくるうううう!」
「お前もうちょっと抵抗の仕方とか教わっといた方がいいんじゃねぇの」
「なんでソキがロゼアちゃんに抵抗をしないといけないんですか!」
ぺちんっ、と言葉で頬を叩かれたような気持ちで、寮長は瞬きをした。ふ、となぜか笑みが浮かんできて脱力する。その隙にソキは寮長の不埒な手からなんとか逃れ、ぷぷぷぷぅっ、と頬を膨らませてふんぞりかえる。
「んもーぉ、んもーお! ……あっ、これを言いつければ、ロゼアちゃんがたいへんだったな、のちゅうを! ちゅうを! してくれるかもしれないです! りょうちょもたまにはいいことをするです褒めてあげてもいいですでももうソキに触っちゃだめです」
「……お前なんでそんなちゅうして欲しがってんだ?」
呆れてソファに座り直す寮長を理解不能の目で見つめて、ソキはまったくもう、と首を傾げた。
「ちゅうしてもらえればこっちのものです」
「……ん?」
「ちゅってしてもらえたらぁ、いーっぱい誘惑してぇ、ソキはもうロゼアちゃんをめろめろです!」
それできもちいのするですっ、ロゼアちゃんに触ってもらうですうう、と気合いいっぱいに宣言するソキに、寮長はしばらく頭を抱え込んだ。怒るか問いただすかを悩んでいるようだった。