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 連日の疲労で寮長がついに倒れ、かけたので、朝から『寮』は騒然とした雰囲気に包まれていた。疲れた顔をしてもう駄目だと呻きながらも、頑張る俺は今世界最高に輝いている、と渾身の決め顔でロリエスに花束を差し出し、一蹴されるのが寮長という人の常である。己の限界というものを正確に把握し、その線ぎりぎりを保つのに長けている人であるので、これはもう本当に一大事なのだった。ソキの帰宅事故による魔力揺れの影響が、比較的少なかった占星術師たちの中には、先のそれより動揺した面持ちでいる者もあるくらいである。談話室のソファで肩を落とし、両手をぎゅっと握りしめて言葉を発しないメーシャも、そのうち一人であるらしかった。
 ソキは、体調不良の回復が得手だとみなされているロゼアが、白魔術師たちと言葉を交わす腕の中からそれを眺め、居心地が悪そうにもぞもぞした。そもそも寮長がそんなにも疲労を溜めこんだのは、『扉』が使えなくなったからで、その為の連絡役としてあちこち飛び回されたからで、その中でも手紙を運んでくれたからで、それだけでなくソキの為にお菓子やアスルを持ってきてくれたからで。それなのに、ソキが無理矢理に帰って来てしまったからで。その、後始末をしなければいけないせいだった。寮長は待っていろと言っただろ、とソキに言ったきり、どうしてあんなことをしたんだ、と怒ることは一度としてなかったけれど。ソキを責める声がひとつもない訳ではなかったことを、予知魔術師はちゃんと知っていた。
 その声をソキにひとつも届けないように。寮長がどれだけ心を砕いて、懸命に動いてくれたのかも。ロゼアは、ソキは悪くないよ、と言ってくれたし、ナリアンもメーシャも一言だって、ソキがそうして帰ってきたことを怒ったり責めたりしなかったけれど。談話室の空気が不穏に揺れている。肌に爪をたててひっかいて行くような痛みに、ソキはしょんぼりとくちびるを尖らせ、ロゼアの腕の中で体をちいさくした。寮長が倒れ、かけたのはソキのせいである。それを責める意思がいくつも、空気をよどませてソキの息を苦しくした。ロゼアの肩に頬をくっつけたソキの耳元で、柔らかな声が幾度もソキを呼ぶ。ソキ、ソキ。俺のお花さん。ごめんな、もうすこししたらお部屋に戻ろうな。かわいいかわいい、俺のお花さん。
 ロゼアの声は蜜のように甘く、心地よくソキに流されて行く。温かな香草茶に溶かされる角砂糖の気持ちでふわふわしながら、ソキはちらっ、と視線だけを持ち上げ、難しい顔をしている白魔術師たちを見た。ひとりと、視線が合う。なに、とばかり微笑みかけてくる先輩に、ソキはいっしょうけんめい、息を吸い込んだ。ロゼアの肩に頬をぺたんとくっつけたまま、はく、はく、何度もくちびるを動かして。導きだした声はみっともなく震えて、掠れて、消えそうな響きだった。
「ごめんなさいです……」
「え。……え、え? ま、またなにかやっちゃったの? それとも、まだなにかやっちゃってたの……?」
「寮長が……ぐったりさん、なのは、ソキが悪い子だからです……」
 誰からも、直には。お前が悪い、と言葉を投げられないのが苦しかった。もっと怒ってくれれば、楽なのに。誰も彼もが頭を抱え込んで呻くばかりで、一度くらいは、もうすこし待っていてくれれば良かったのに、と告げるくらいで。誰も、ソキのせいで、とは言わなかった。はしばみ色の瞳を柔らかく苦笑させ、ひとりの白魔術師が場に座りこむ。重たく持ち上げられた視線を、降ろさせるように下から覗き込んで。
「分かった。怒って欲しいんだ」
 面白がるように、そう言った。隣でハリアスが咎めるように息を吸い込み、なにか言いかけるのを笑みひとつで黙らせて。白魔術師は言葉を探す様子で、じっくりとソキのことを見つめた。未熟でかわいい私の後輩さん。笑みを含んだ声で、癒しの紡ぎ手はソキに囁きかけた。
「あなたはもうすこし上手にやるべきだったわ。どへたくそだから皆にバレて、こんなに大騒ぎになってしまったのだもの。魔術を……上手に扱う術を覚えなさいな。そうすれば、今度同じことやっても反省文の提出だけで済むか、うまーいことすればバレないで行けるかもしれない」
「先輩」
「ロゼアくん。あなたにも教えておいてあげるけど」
 つよく咎めるロゼアに口の端を歪めて笑い。白魔術師は誇り高く、まっすぐな目で言ってのけた。
「ソキちゃんが今回怒られなかったのはね……怒っても仕方がないと、魔術に触れた者、誰もが堪えているのはね。赤ん坊が癇癪おこして机に置いておいた水差しを倒して、辺り一面水浸しにして水差し壊しちゃったからって言って、それは誰が悪いのか? っていう話だからよ。もうすこし我慢してくれればよかったのかも知れない。皆そう思ったし、それは口に出しちゃった。でもね、そんな倒れる所に水いっぱいの割れものを置いて、目を離して誰も傍にいなかった。そっちの方が問題。……これは、本人の自意識の問題ではないのよ、黒魔術師のたまごさん。魔術師は、己の魔力を飼いならさなきゃいけない。育てて、自分の言うことを聞かせなければいけない。せめて、自分の言葉だけでも通じて、理解するように、育てなければいけない。ソキちゃんは、それがまったく出来ていない。していないんじゃなくて、できない。できていない、ことを……」
 感情を堪えて、は、と息を吐き出して。立ちあがり、白魔術師は微笑んだ。
「どうして出来ないの? なんて。怒るようなことはしたくないわ」
 魔術師だから、己の魔術を意のままに扱える、だなんて。そんなことは確約されていないのだ。
「でも、できるようになればいいね、とは思う。誰もが、ソキちゃんにそれを願っている。……祈ってる。もうすこし……次は、次こそは。もうすこし上手くやりなさいな。針で布を縫い合わせるみたいに。……で、ロゼアくん。寮長はどうするのが一番元気になられると思う?」
『ロリエスせんせいを部屋にぶちこんでおけばいいんじゃないですか……』
 メーシャに同調して一緒に落ち込みながら、投げやりに己の師を売るナリアンの物言いに、白魔術師はやっぱり、と困ったように首を傾げる。傾げながらも、その両手に現れたものを見て、ソキはほよほよと息を吐きだした。荒縄である。白魔術師はなぜか、全員溜息をつきながら荒縄を持っていた。ハリアスも、心底不本意そうな顔つきで、お付き合い感いっぱいの空気を醸し出しながらも、腰のポーチに詰め込んだそれを取り出していた。ソキはうりうりとロゼアの肩に頬をなすりつけ、くちびるを尖らせて訴える。
「ロゼアちゃん。ソキは、そんけいできるせんぱい、が欲しいです」
「俺もだよ」
「え? していいよ? ほーらほーら尊敬できる先輩だよー? 尊敬しなさい遠慮せず」
 正確にいうなら。最後まで尊敬しきることのできる先輩が欲しいのである。なぜ魔術師の先輩というのは、誰も彼もが香ばしい性格をしているのか。あ、でもユーニャ先輩は好きですとくすんくすんと鼻を鳴らしながら言うソキに、ロゼアが俺もだよと深々と頷く。この失礼さんどもめ、という目で後輩たちを見つめたあと、荒縄を装備した白魔術師たちは、よしロリエス先生と話し合いに行こうか、とぞろぞろと談話室を出て行った。話し合いとは、という顔で、よろよろとナリアンが顔をあげる。灰色の声でロリエス先生ごめんなさい、と告げたあと、ナリアンはまたぱたりとメーシャにもたれかかってしまった。よしよし、とナリアンを撫でたのち、メーシャも落ち込み作業へ戻って行く。
 ソキはふたりをじぃっと見つめたのち、背伸びをして、ロゼアの耳元にこしょこしょと囁いた。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん」
「うん? お部屋に戻る?」
「ううん。あのね、あのね、ソキね。あのね……ソキは、寮長のお見舞いに、行きたいです」
 ねえねえ、いいでしょ、とくちびるを尖らせてねだるソキに。ロゼアはソキをぎゅっ、と抱き締めて。ソキがどうしてもそうしたいのなら、いいよ、と溜息をついた。ぶふっ、とメーシャとナリアンが同時に笑いに吹き出し。けれどもまだ、落ち込む気分は晴れないようだった。



 寮長の部屋は四階の奥にある。四階。かつて対国家兵器として使役された魔術師たちの区画。その身一つで滅びを招き、数多くの同胞を虐殺した者たち。適性者の数は常に少なく、だからこそ四階は空室が多い。男性区画であっても、女性区画であっても、それは同じことだった。ソキの普段住む三階には、共用の物置代わりにされている空室がひとつあるきりだから、久しぶりに訪れた四階はどこかがらんとした印象だった。ソキが知っている限り、使われている部屋は女性区画で二部屋、男性区画で二部屋があるばかりである。集められた適性は、予知魔術師、複合属性形黒魔術師が二人、そして召喚術師。それでも、四部屋使われている状況をして、多い、のだとソキは聞く。
 恐れるように。かつて犠牲の矢面に立たされた魔術師の適性は、現れなくなってしまったのだ。希少種と呼ばれたかつてより、ずっと少なく。やがて現れなくなる時も来るのだろう。そう囁かれるくらいに、四階は常にがらんとしている。筈なのだが。入学してから一番活気がある四階に、ロゼアの腕に運ばれながらやってきて、ソキはぱちぱちと目を瞬かせた。そこかしこから、あっロゼアだー、とまっさきに声がかかり、行きかう者たちにもなんとなく見覚えがあるので、ソキは両手いっぱいに紙製の飾りだのリボンだの花だの灯篭だのをごちゃごちゃに持っている先輩たちを、ひとまとめでなんと呼ぶか知っていた。
「狂宴部さんです」
「おはようソキちゃん! きょうも最高に可愛いね! 十四歳になっても変わらないその可愛らしさが最高にかみさまありがとう感! ……あっ、ロゼアくん、あのね。そういえば私ずっとお願いしようと思っていたことが、あって……」
 風の動きでしゃらしゃらと典雅な音を響かせる飾りを腕に抱きながら、一人の少女が頬を染めて駆け寄ってくる。言葉の前半の内容はともかく、熱っぽく期待に満ちた表情と、後半の言葉に、ソキはロゼアにぴとっとくっつきなおした。とっちゃだめえええ、と無言で訴えるべく、ぐりぐりうりうりふにゃあぁああっ、と肩やら首筋にぐりぐり体をすりつける。ロゼアは、うん、と訝しげな声をあげ、ソキの背をぽんぽんと撫でた。
「ソキ? どうしたの? ……先輩、なにか?」
「ソキちゃんに編みあげブーツとか履かせる時には私を呼んで欲しいの。美少女の足元に跪き! 紐を結んで行く喜び……!」
 そういえばこの先輩は服飾部にも所属していて、かつてナリアンにスカートをはかせようとしたり、メーシャに短いズボンをはかせようとしたり、ロゼアに脚にぴったりとしたズボンをはかせようとしたり、ソキに裸足でちょっと踏んでくれないかな、ということを頼んで来たりした前科があるのだった、ということを、ソキは思い出した。名前を一緒に思い出せないのは、へんたいさんのなまえをおぼえておくのはやめましょう、と教育された成果である。やんやんやん、とソキはロゼアに抱きつきなおした。
「ソキ、お靴もロゼアちゃんにしてもらうことにしたですから、先輩はだめです」
「ロゼアくんは美少女独占禁止法に違反してる。よくない」
「五ヶ国のどこにもそんな法律はありません、先輩」
 ソキの身を隠すように僅かばかり抱き方を変え、ロゼアは透き通る笑みでやんわりと囁いた。
「でも、どうしても、と仰るのなら筆記試験から受けて頂けますか?」
「筆記試験」
「はい。『お屋敷』の」
 今まではそんなこと言わなかったのに、と不服そうな声をあげる少女に、ロゼアはそうですね、と頷いた。
「ですが本来、ソキの身支度を出来るのは俺と、許可された数人だけのことでしたので」
「……あれ? ロゼアくんさぁ、心が狭くなってない? どうしたの?」
「でっしょおおお? きゃぁん! つまりぃ、ソキにめろめろー! ということです! きゃぁああんっ」
 両手を胸に押し当てて身をよじり、おおはしゃぎで喜ぶソキに、ロゼアは笑みを深めるばかりでなにも言わなかった。肯定することも、否定することもなく。微笑んでいた。ふ、となにか違和を感じてソキは視線を持ち上げる。どうしてだろう。ほんのわずか。一瞬だけ。知らない男の腕に抱きあげられているような不安と、底知れない恐怖を覚えた気がした。
「……ロゼアちゃん?」
「え? ……なに、ソキ」
 どうしたの、と額を重ねてくるロゼアに、ソキはほっとして笑み崩れる。なんでもないです、と告げながら、ソキは言い知れない予感をひとつ、胸の奥ですりつぶした。やっぱり、離されていたせいで、ソキはずっと疲れてしまっているのかも知れない。お見舞いが終わったらいっぱい眠るです、とこくりと頷き、ソキはえええええ、と不満顔で首を振っている先輩に、ところで、と問いかけた。
「先輩たちは、ここでなにをしていたです? 部活動?」
「ああ、違うわよ。個人活動。我らが寮長がお疲れだから、回復祈願というか。魔術的儀式というか」
「呪うんですか?」
 手伝いますよ、とばかりの声でにこりと微笑むロゼアに、あれ私いま回復祈願って言わなかったかしら、と先輩は訝しげに後輩を見つめ返した。やぁんいやぁん見つめあったりしたらだめだめぇっ、とソキはロゼアの目をちまこい手でけんめいに塞ごうとしたのだが。うん、とくすぐったがる声の響きで笑ったロゼアに、すぐに手は絡め取られてしまう。指がするすると絡んで、ロゼアの口元に引き寄せられた。そーき、とあまやかに笑う吐息が、爪を撫でてくすぐったい。
「危ないだろ? どうしたの」
「あ、あぅ、ふにゃ……。ろぜ、ろぜあちゃ……ソキじゃないひとと、見つめあったらだめなんですよ……」
「だめなの?」
 ふふ、と目を細めて笑われて、ソキは顔を真っ赤にして混乱した。なんだろう。ロゼアがすごくすごくソキのことをすごくすごく好きみたいに感じられる。指が絡んだ手は片方が解かれてソキのことを抱きなおしたが、もう片方はそのままで、指がゆっくりと肌を撫でている。触れあった肌からじわじわと染み込む魔力が、ふたりの間を循環する。目の前が一瞬見えなくなる眩暈に、ソキはくにゃりとロゼアの体に身を伏せた。ロゼアの手がゆっくり、ソキの髪を撫でている。触れあった場所から、体温と一緒に、染み込む水のように魔力が流される。
 あまい、あまい、毒のように。
「……ろぜあちゃん?」
 じん、としびれて動けなくなる。目をうるませてくちびるをとがらせ、ソキはロゼアの耳元でこしょこしょと名を呼んだ。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん……ねえねえ、ロゼアちゃん!」
「え。わっ……っと……? ソキ。どうしたんだよ、大きな声を出して」
「ソキ、お見舞い……はやく、行くです。それで、それで、ロゼアちゃんと一緒に寝るです」
 怖い。ほとんど初めて、ロゼアに覚えた感情に混乱しながら、それを気のせいだ、とぎゅっと手の中で握りつぶして。ソキはロゼアに強く抱きつきなおし、もつれた舌をけんめいに動かしてそう訴えた。はやく二人きりにならなくちゃ、という焦りと。ふたりになるの怖いです、という心の、片方の訴えに目隠しをする。分からないからだ。どうしてなのか、分からない。だってソキはロゼアが大好きで、大好きでだいすきで、恋人になりたい、とずっとずっと思っているのに。恋人みたいにされるのが、怖い、だなんて。そんなことはなにかの間違いだった。
「寮長は起きてらっしゃると思うわ。さっき、ロリエス先生が投げ込まれていたし」
「……万一の可能性を考えて、訪問は邪魔にならないんでしょうか」
「衣服の乱れがあったとすれば、私たちがすべきことはただ一つ。おめでとうございます、と言って扉を閉めて祝賀会の準備をすることよ。分かるわね?」
 いえ理解したくありません、という微笑みで、ロゼアは従順にはいと頷き、返事をしている。交わされる言葉を半分聞き流しながら、ソキは不安に揺れる胸に手を押し当てた。ソキは、どうしてしまったんだろう。ロゼアが好きなのは本当で。望みは、全然変わっていなくて。ずっと、ずっと、それを願っていた筈なのに。きっと、やっぱり、体調が悪いのだ、と思ってソキはこくりと頷いた。もしかしたら疲れていて、気持ちが悪くなったから、怖くて、不安になってしまったのかも知れない。ぽん、とロゼアの手がソキの背を撫でる。ふ、と気持ちを宥めて、ソキは伸びあがって、ロゼアの頬に己のそれをくっつけた。もにもにすりすりして、きゅぅ、と喉を鳴らして笑う。
「ろぜあちゃ、ろぜあちゃ……。ふにゃぁん、ロゼアちゃん!」
「ソキ、そき。あまえたさんなソキ。俺のお花さん。どうしたの」
 なんでもないです、とソキは言った。ロゼアはうん、と笑みを深め、ソキをぎゅっと抱きなおしてくれる。それにとろけるような喜びしか感じなかったから、ソキはほっと胸を撫で下ろして力を抜いた。やっぱり、なにか勘違いで。ソキはいっぱい疲れてしまっているのだった。
「……仲が良いな」
 いつの間にか寮長の部屋の、扉が開かれていた。半開きの扉に背を預け、腕を組んで微笑んでいたのはロリエスだ。その声の響きが、ほんのすこし羨ましい、とでも言いたげなものだったので。ソキは目をぱちくりさせ、久しぶりに見るナリアンの担当教員へぺこりとお辞儀した。
「ロリせんせい、こんにちは、です。……たいへんです、お服のみだれがあるです」
「ああ。荒縄には苦労させられたよ……」
「……おつかれさまです、ロリエス先生」
 おおまじめな顔で頬を赤らめ、きゃぁんと照れたソキとは対照的に。ロゼアは非礼にならない程度の同情的な視線で、ロリエスに心から囁きかけた。花舞の黒魔術師たるロリエスは疲れ切った苦笑で、ああ、とだけ言い、廊下をぱたぱたと動きまわる狂宴部の者たちを、好意的な視線でひと撫でした。シル、という男が好かれていることを、ひそかに喜ぶ仕草だった。
「見舞いに来てくれたんだろう? 眠っていて悪いが、顔を見て行くといい。来てくれたことは伝えよう。起きた時に喜ぶ」
「……おつかれなの?」
「ソキのせいではないよ。己の限界、というものはよくよく弁えておくものだ。一人前だと自負するならね」
 さ、おいで、と招くロリエスに頷き、ロゼアは一歩を踏み出した。



 室内は一般的な寮生と変わるものがなかった。特別に広すぎることはなく、目に見えて高価な品々がある訳ではない。使い古された印象の棚に収められているのは魔術書が大半で、それも真新しいものはひとつとして見つけられない。まるで勤勉な魔術師の住まい、そのものだった。妙なものがあるとすれば、部屋の隅に投げ捨てられた荒縄くらいのものだろうか。ロリエスが勧める一人掛けのソファにロゼアが腰かけると、教員は書き物机の椅子を引き寄せて座った。訪問者を想定していない、もののない部屋だった。ロゼアの部屋のように、天井から下げた布で空間を区切ってもいないので、殊更がらんとした広がりばかりがある、もの寂しい部屋だった。
 ソキはロゼアの腕の中でもちゃもちゃと方向を変えて座り直し、部屋の中をひと通り見回した。ぎゅっと抱きしめてくる腕をお腹の上に抱えながら、ソキはちょっとくちびるを尖らせ、ロリエスの背後を見ようとする。
「ロリせんせい? 寮長はおねむなんですか?」
「睡眠薬に愛された男だからな。あと四時間は起きないさ」
「……寮長は倒れかけた、です?」
 だからお薬で眠らせたに違いないです、と目をうるませるソキから、男が眠る姿はちっとも見えなかった。ちょうどソファと寝台の間にロリエスは椅子を置いていて、ソキが右に体を揺らしても、左によじっても、なぜだか全然見えないのである。部屋には深い、安定的な寝息だけが響いている。そこにある気配だけが、ソキに寮長の存在を教えてくれていた。むむむ、と眉を寄せるソキにおかしげに笑い、ロリエスは柔らかく瞳を和ませた。
「シルが薬で眠っているのは、体調のせいではないよ。魔術師には時々あることだ。幸い、例は多くないだけで」
「眠れない、ということですか? なにかの助けなければ?」
「毎日、必ず、そうという訳ではないよ、ロゼア。ただ、月の満ち欠けのように周期的なものでね。悪いことに、一連の騒ぎと、その周期が重なってしまった……のを良いことに、この男がまあ好んで眠りを抱かなかったと、ただそういうことだ。眠らない数時間の積み重ねで、そう好転する事態もないというのは、分かっていた筈なのだけれどね……。心配するのは個人の情。それを飼い慣らしてこその魔術師。だから……いつまで経っても卒業できないのかも知れないな、シルは。すこしばかり他人に腕を広げ過ぎる」
 微笑むロリエスの纏う空気は、どこかひんやりとしたものだった。己という存在を酷使した寮長に対して、どうも怒っているらしい。ソキは諦めずに右にもぞもぞ、左にうにうに動きながら、くちびるを尖らせてロゼアを見上げる。
「ロゼアちゃん? ソキ、お見舞いに来たんですよ? みーえーなーいー、でーすーぅー」
「うん? 大丈夫。寮長はよく眠ってるよ、ソキ。顔色も悪すぎる訳じゃないし、明日もゆっくりすれば起きられるんじゃないかな」
「んー……。はやぁーく、げんきー、にー。なぁります、よーうーにー。ですー。」
 ほんわほんわふわふわした声で歌って、ソキはこれでよしっ、と言わんばかり、ロゼアの腕の中でふんぞりかえった。
「ソキ、とっておきのお見舞いの歌をしてあげたです。寮長はすぐ元気になるです。本当はおててをぎゅぅってしてするですけど、お眠りなんじゃ仕方がないです。でもソキはちゃんとお見舞いの歌をしたです」
「……ソキは偉いな」
「なるほど。これがナリアンの言っていた不本意そうなロゼアか」
 口元に手をあてて笑いに震えながら、ロリエスは椅子から立ち上がった。微笑んでロゼアも同じようにして、体が部屋の出口へと向かう。ところでナリアンは先生となにを話しているのか今度詳しくお聞きしても、なに、俺の友人が今日もかわいかったとそういう惚気さ、と意識の外を滑って行く音を聞きながら、ソキはんーっとけんめいに体を伸ばして寝台を覗き見た。ほんのわずか、見えた寮長は静かに眠っているようだった。ふふん、これで寮長は明日は絶対元気です、と胸を張るソキの前で、ぱたんと扉が閉じられた。



 明日行くから準備しておいてねー、ロゼアが一緒でもいいよー、というのほほんとした様子の手紙を丁寧に折り直し、ソキはそれをロゼアに差し出した。寝台の上。背と寝台の間にクッションをいくつも入れて持たれていたロゼアの胸に、ソキはぴとっとくっつきなおして頬をすりつける。
「はうー……ロゼアちゃん、明日ご一緒してくれる? ソキは一緒なのがいいです」
「ん? ……うん。いいよ。ウィッシュさまが来られるの? どうして?」
「面談? です? ……ソキはなんだか、いろんな人に面談をされてるぅ……ソキが悪いこだからです?」
 むーっとくちびるを尖らせて問いかけると、ロゼアは渡された手紙を丁寧に枕元に置き、ソキの髪に指をさしいれた。視線が重ねられる。頭肌と耳に触れながら、ロゼアの指がゆっくりと、ソキの髪を梳いて撫でて行く。
「そんなことないよ。ソキはいいこだよ。可愛いよ。……どうしてそう、思うの?」
「……たくさん迷惑をかけたです。いろんな人にごめんなさい、をしたです。反省札もついてるです」
 ようやく『学園』運営管理部から特製一ヶ月反省札が届いたよー、と。ソキは寮長のお見まいからロゼアの部屋まで戻ってくる道すがら、ついにそれをつけられてしまったのだ。紙や木の札ではなく、しゃぼん玉のような丸い魔力の塊が、ソキの肩近くをふよふよと漂っている。ロゼアはそれを指先で弾いて一定距離まで離し、ソキの肩をくるむように薄布を引きあげた。ぎゅ、と抱き締られ、耳元で声が囁く。
「謝ったろ、ソキは。反省も、ちゃんとできただろ。なら、悪くないよ」
「ほんとう?」
「もちろん。魔力の使い方だって、ソキはこれから、うんと上手になるよ」
 単に励ますのではなく。それにしては、どこか確信的な言い方だった。ソキは視線を持ち上げて目をぱちぱちさせた後、ロゼアの肩に頬をすりつけるよう首を傾げて、ふあふあと問いかける。
「ソキ、上手になう……? ほんとう?」
「なるよ。なる。……すぐ、出来るようになるよ」
「ふにゃぁ、うにゃぁあん……! ロゼアちゃんがそういうなら、ソキは、きっとすぐ、すぐです! 一人前の、魔術師さん、に、なるぅ……!」
 はしゃいでぎゅっと抱きついて、ソキはすぐですよ、と言った。ロゼアちゃんがすぐって言ったです。すぐです。ソキは一人前になるです。すぐですよ。ねえねえ、だからね、ロゼアちゃん。待っていてね。もうすこしだけ、待っていてね。ソキはちゃんと一人前になるです。訴えるソキの頭を引き寄せ、髪に息を吹き込むように笑って。ロゼアは、それに、うん、と言った。
「頑張ろうな」
『……楽しみダね?』
 肌からじわじわ染み込み循環する魔力の奥底で、嘲笑うように響く声を。ソキは怖くて、気のせいだ、と思いこむことにした。ロゼアから与えられる魔力は蜂蜜のように甘く、どろりと、喉にからみ。息を苦しく、眩暈を覚えさせた。それは透明な水ではなく、薬を混ぜられたものであるような。混ざりものの胸騒ぎを、ソキに覚えさせたのだけれど。ソキ、ソキ、と囁くロゼアから染みいる魔力は、いつのまにかふわりと包みこみ、抱き守り、気持ちを穏やかにするだけの、うっとりとした喜びを感じさせるだけのものになっていたので。
 それは、やっぱり、気のせいなのだと。ソキはそう、思った。

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