胸元にそっと触れていた指先が、離れて行く。その指先に連れて行かれるような気持ちで、ソキは満ちた息を吐き出した。視線が手に触れたまま、離れて行かないことに気がついたのだろう。考えるように指を口元へ引き寄せながら、ウィッシュは蝶の羽ばたきのように瞬きをした。
「ソキ? なに、どうしたの……? 俺の手、なにかある?」
うぅん、色付けてもらったりはしてないんだけどなぁ磨いてもらったけどえへへ、と嬉しそうに照れながらはにかむウィッシュに、ソキはまだ指から視線を外さないまま、はふ、と息を吐きだした。
「おにいちゃん。とぉっても綺麗になったです……! とってもです。すっごくです」
「そう? ソキは今日も可愛いよ。思ったより体調が悪くなさそうというか、状態が安定しすぎててびっくりしたけど……ソキ? ほんとに、もう一回、よーく考えて、俺に教えて? ほんとにちゃんと魔力使えたの? ほんとに、ソキが自分で、ばーんてして、どーんてして、ぴょってして、えい! ってしたの? 気持ち悪くなったりしたよな? 体痛かったろ? ほらー、ソキー、いいこだからさー。俺にちゃんと教えてよー」
「あ! たいへん、たいへんです! おにいちゃんがこんなにお綺麗だと、ロゼアちゃんが見惚れちゃうかも知れません! うっとりしちゃうにちぁいないです……! やぁんやんやん! やんやん! ロゼアちゃん、うっとりしちゃだめだめぇっ……! ロゼアちゃんのかわいいはソキのぉ!」
大慌てで、ソキはロゼアの目元にちまこい手を伸ばした。目隠しです、これは急がないと大変なことになるです、とおろおろするソキを、うん、と不思議そうな顔をしたロゼアがゆすって抱きなおす。きゃぁん、きゃんっ、とはしゃいでくっつきなおすソキの背を、ロゼアの手が慣れた仕草でぽん、と撫でた。ソキの頭にロゼアの頬がくっついて、ぬくもりと体重がかけられる。
「ソキかわいい。……はー、可愛い。可愛い、可愛い、俺のお花さん」
「お前ら誰も会話通じ合ってねぇよと思うのはこの場で俺だけなのか……? 俺だけなんだろうな……」
「寮長? 頭痛い? もー、だから、まだ寝てなきゃだめだよって俺言ったのにー。ロリエスに迎えに来てもらおうね? 俺、連絡しておくからね」
それとも俺と一緒にすぐ寝室戻る、と首を傾げて問うウィッシュに、お前お願いだから言葉を選べよと呻き、寮長は額に手を押し当てた。それをきっかけにしたように、ソキの耳に談話室のざわめきが戻る。ぎゅむりとやや抱きつぶされたロゼアの腕の中から、ソキはきょろきょろと視線を彷徨わせ、室内を見回した。魔術師のたまごたちは、すっかり平常通りである。この場所で見かけるにしては、講師たる王宮魔術師の数が多いような気もするが、特に異変と思わないくらい、一時と比べれば数は減っていた。顔色がひどく悪いものもなく、ソファの上で疲弊している寮長を覗けば、『学園』は平均的な雰囲気を取り戻したように思えた。
見慣れた光景ともうひとつ違うものがあるとすれば、天井近くをふわふわと行き来する妖精の数だろうか。通年、妖精たちが住まいである花園を離れ、『学園』までやってくることはひどく珍しい。来訪が禁じられている訳ではない。ただ、妖精たちは『学園』をたまごたちの住まい、彼らの領域であると思っているから、そこへずかずかと踏み込んで行く真似をしないだけである。鍵の開いていない家に、勝手に入って行くのに似た気持ちであるという。一応は共用とされている公共の場は、自分のものではないから踏み込むのにためらいがある。ソキを案内した妖精は、赤いリボンをひらつかせ、腕組みをしながらソキにそう説明してくれた。
妖精たちは領域というものをひどく大事にするいきものだ。縄張り意識が強いのよ、と妖精はきっぱりとした口調で言っていた。ただし、普段であるならば。脅かされず、世界が平常であるならば。他者の、開かれた場所まではあまり行くことがないのだと。つまり天井近くを行き交う妖精たちは、ここまで見回りに来てくれているのである。猫さんもなわばりー、をお散歩へ行くです、ソキはちゃぁんと知ってるです、と説明に頷いてアレと一緒にすんなと頬を蹴られたことを思い出し、くちびるを尖らせながら、ソキは両腕を高く持ち上げた。妖精たちの中に、見覚えのある姿を見つけ出したからである。
「ルノンくんですー。ルノンくん、ルノンくん? ……あれ? ソキがお呼びしてるのに、ルノンくんが降りて来てくれないです? なんで? あれ? ……ルノンくんー、るーのーんーくーんー? ソキがぁ、呼んでるですよ? あれ? ねえねえ、ねえ、ねえ」
呼んでるのに、ソキが呼んでるですのに、とくちびるを尖らせて頬をぷっとさせながらちたぱたするソキに、妖精は苦笑いし、次第に絆されたように表情を崩して行った。くすくす、肩を震わせながら高度を低くしてきた妖精は、すふんっ、と自慢げに鼻を鳴らし、両手を差し出すソキのてのひらへ降り立った。
『はいはい。ルノンくんが来ましたよ。どうしたんだ?』
「リボンちゃんは?」
『うん。絶対そういう用事だとは思ってたんだけどな?』
分かりやすくて歪みなくってかわいい、とばかりにっこり笑って、ルノンは別にいつでも一緒にいる訳じゃないし、と透き通る金の羽根をぱたつかせた。
『朝から見てない。用事があるなら探すけど』
「ぷー。ソキ、リボンちゃんにお聞きしたいことがあったです……あ、でもでもぉ? ルノンくんでも分かるです?」
その瞬間に。嫌な予感を覚えたのは、恐らく本能に違いない。いや俺ちょっと用事があったから、と飛び立とうとするルノンにきゅむりと眉を寄せ、ソキはいやいや、むずがるように体を揺すって問いかけた。
「ソキ、一年前と比べてどれくらい成長したです?」
『えっ。えっ……え、えぇ、え? ……い……一ミリ、くらい……?』
「身長じゃないですううぅ! 魔力ですううううっ!」
ふぎゃあぁあんっ、と癇癪を起してばたばたするソキからぱっと離れて飛び立ち、ルノンは苦笑いをして腕組みをした。まさか成長してません、とも言えず。それ所か、安定的には後退している、とも告げにくかった。ソキの担当教員がすぐ傍にいることでもあるのだし。機嫌を損ねてじたじたするソキに、あれなに怒ってんの、とようやく意識を戻したのだろう。寮長にぺたぺた触って熱や体調を推しはかっていたウィッシュが、ルノンに気がついてごめんなー、と言った。
「ソキ、気が短いからさー。こら、ソキ。なにがあったか分からないけど、そんなにすぐ怒ったらだめだろ? なー、ロゼア」
「んー……」
もう行っていいよ、ほんとにごめんな、と見送られるルノンに、目礼を送りながら。ロゼアは膝の上でもぞもぞばたばた暴れるソキを抱きなおし、ぽん、ぽん、と背を撫でた。ふしゅ、とふくらまされたソキの頬から、空気が抜ける。ん、ぷぷぷぅ、とまたも膨らまされたので、ロゼアはあまやかな声でソキの名を呼び、まあるい頬を指の腹でするすると撫で擦った。ふしゅー、と頬から空気が抜ける。んん、と上目づかいにロゼアを見上げて、ソキはぷっ、と頬をふくらませた。そーき、と笑いながら、ロゼアが頬をてのひらでうりうりと撫でる。きゃぁぅ、と身をよじって、ソキは笑った。ぷぅ、ぷー、と緩む頬をけんめいに膨らませているのを肘をついて眺め、寮長が白い目で呟く。
「アイツ絶対、すぐ怒るソキかわいいとか思ってるぞ……もしくはすぐ機嫌なおるソキかわいいとかだぞロゼアほんとまじ」
「もー。じゃあ、寮長に聞こうかな。寮長? ソキが帰ってきた時って、体調どんな感じだった?」
「ウィッシュもお前ほんとにな……ほんとに、じゃあ、からの言葉を一致させろよっていうかな……お前らいいからもうすこし人の話というか会話の流れを叩き折り叩き折りしながら進んで行くのやめろよっつーかな……。ソキの体調ならロゼアに聞くのが一番だろ? 俺の目から見ても悪そうではあったが……魔力的なことか?」
魔力的なことだよ、と頷いて。ウィッシュは機嫌良く伸びあがり、ロゼアに頬をぺとっとくっつけているソキを見た。
「ロゼアから離されたんだもん。体調が良い訳ないよ。そんなことは分かってる。で、それに付随して魔力がおかしくなってるのは魔術師の常で……俺がなんで? って思ってるのは、そんな状態なのに、あれだけの規模の魔力をソキが扱えたことと、そこからの回復の仕方と……おかしいくらいの安定の仕方だよ」
「……魔力が?」
「魔力が」
転がすようにその言葉だけを繰り返し、ウィッシュは柘榴色の瞳を訝しさにゆがめた。
「あんなに安定する筈ないし、あんなに回復してる筈がない。あんなにいっぱいに、魔力で満たされてる筈がないんだよ。満ちるものが、ないんだから。……水器が元に戻ってるようにも思えないし、そういう風には感じ取れない。……なんだろう」
「悪いことか?」
「分かんない。リトリアの担当教員さんに聞いてみるよ、前例がないか」
あと、リトリアにも聞いてみる。考えながら呟くウィッシュの視線の先で、ソキはくっつけた頬をくしくし擦りつけ、ロゼアにくっつくのに忙しいようだった。甘えやがって、とうんざりする寮長の呟きに、『花婿』は苦笑する。甘えるというか。あれは『花嫁』の自己主張だ。ロゼアちゃんはソキのっ、ロゼアちゃんはソキのおおおっ、といっしょうけんめい主張すべく頑張っているのに、離れてて寂しかったもんなー、わかるわかる、とのほほんと頷いて。ウィッシュは眠たげにあくびをした。リトリアに聞くのを忘れないようにしなければ、と思った。
星降の筆頭魔術師。リトリアの元担当教員たる男からの回答が、常識的に考えてその安定の仕方はちょっとおかしいし、リトリアにそう言った状態が見られたことはありませんでした、というものだったので、ウィッシュは速やかに楽音に対し、予知魔術師の外出許可を要請した。予知魔術師本人が出向いて、調子を見てくれるのが一番だと思ったからである。当代の王の魔術師たちの中でも、リトリアは特に魔力の純度、密度が高い。扱いが上手であるかはまた別問題だとしても、こと予知魔術師の魔力問題について、同一適性であることを踏まえた上でも、これ以上ない適任者だと思われた。もう大丈夫だから、ちょっと見がてらお外に出してあげなよー、という気づかいであることも想像にたやすかった。
かくして火の魔法使い、レディを伴い、リトリアが『学園』を訪れたのは五月のはじめ。初夏の頃である。新入生のいる年度なら、迎えの役を割り振られた妖精の気配で『中間区』は不思議なざわめきに満ちているものだが、リトリアを出迎えた空気はひやりと落ち着き穏やかだった。ようやく、ソキのぶち抜いた空間の修復も終わり、全体の魔力酔いも収まった所である。平年通りの『学園』である筈なのだが、リトリアはそこになんとなく抑圧されたものを感じ取り、無言で目を瞬かせた。視線を辺りに彷徨わせるうち、無意識に立ち止まっていたのだろう。数歩先を大股に行っていたレディが、足音を立てながら戻り、リトリアの腕を掴んで引いた。
「どうしたの? なにかいた?」
「……なんでもないです」
うん、と納得してくれたような、それでいて不満げな声をもらし、レディはきゅぅと眉を寄せて息を吐く。リトリアの元へ現れた時から、レディはなんとなく不機嫌だった。己でもそれを自覚しているのだろう。気持ちの荒れをリトリアにぶつけてしまったことを恥じるように、レディは唇に力をこめ、掴んでいた腕から指を離す。
「ごめん……でも、ちょっと私から離れないでいてくれる?」
「はい。なにか、ありましたか……?」
「ええ。ちょっと、ちょっとね……すごく個人的な理由で苛々してるだけだから、リトリアちゃんには申し訳ないんだけど……うん、でも、うん。うん……。リトリアちゃん、私が守ってあげるからね……!」
なんらかの理由で気合いを入れ直すレディの手に指先を預けながら、リトリアはくすりと笑み零し、よろしくお願いしますと囁いた。手を包みこみ引きながら、レディはほっとした微笑みでもちろん、と囁く。その役目を王たちから押しつけられたというのに、守り役としてのレディは、リトリアの目から見ても熱心だった。繋いだ手からじわりと魔力が染み込む。血を熱くするような火の魔力は、リトリアの気分を悪くするものではなかったから、そのまま受け入れる。触れただけで、己の内側にある魔力が、相手に伝ってしまうことはない。それは無意識の加護であり、それでいて明確な目印にもなりうる行為だった。魔力そのものは『魔術師』に共通した、資源にも似たような存在である。しかしそれは、ひとの手を介して世界へ現れる時、明確な個人差、個性を持って行くものなのだ。
ひとりひとりの声が、指の形が、違うように。それを視認するに長けたものなら、見ただけで誰の魔力かすぐに分かるほど。相手に己の魔力を注ぐという行為は、単なる回復の他であれば、獣が縄張りにしるしをつける行為に他ならない。恋人であっても通常、同意なしにはしないことだが、レディのそれは純粋な守護の意思であり、リトリアになにかあった時に全自動で発動する遠隔攻撃の準備でしかない。魔法使い程に魔力の量が潤滑であればこそ、余剰分を無意識に使ってしまっているだけなのだろう。相性が悪くないから、眩暈や気持ちの悪さを感じることがないのは幸いだった。それに、リトリアは他者の魔力を身の内に落とし込むことに慣れていた。
そっと息を吐き出して落ち込みかける意識を叱咤し、リトリアは顔をあげ、レディに連れられて廊下を歩いて行く。ようやく冬の冷たさを感じることも無くなった、初夏の陽気が肌に触れて行く。そこへ一瞬、熱風めいたきらめきを感じた気がして、リトリアはまた目を瞬かせた。なにか。空気に異質な魔力がそっと混じっている。そんな気がしたのだが、リトリアよりも魔力の視認に長けたレディが特におかしな顔をしていないので、気のせいなのだろう。胸のざわめきを指先で押さえ、リトリアはとと、と小走りに、談話室へ駆けこんだ。
「ソキちゃん……!」
あっと声をあげ、ソキはきゃあぁんと甘い響きで笑って、ソファからリトリアに両腕を持ち上げてみせた。
「リトリアさんですううぅ! リトリアさん、こんにちは、なんですよ。レディさんもいらっしゃいませです。ねえ、ねえ、こっちへ来てくださいです……! リトリアさん、リトリアさん。ねえねえ、元気にしていたです? ソキのせいで、お叱りされたり、しなかった……?」
「大丈夫です。ソキちゃんも、元気そうでよかった……」
レディと手を繋いだまま小走りにかけより、リトリアは思わず頬を赤らめた。その背後でレディがああと息を吐き呻いているので、それはリトリアの気のせいでもなんでもないらしい。ふにゃん、と目をぱちくりさせて首を傾げるソキは、分かっていないに違いなかった。ぎこちなく視線を彷徨わせるリトリアに向けられた、それが得意な生徒たちの眼差しは、うんうんその気持ちわかるよー、と言わんばかりのもので。ある程度の慣れを感じさせたから、昨日今日のことでもないらしい。ソキの隣にすとんと腰をおろし、リトリアはそっと、頬に両手を押し当てて息を吸い込む。
「ソキちゃん……魔力、ロゼアさんが……くれるの……?」
「ろぜあちゃのまよく! とぉってもあったかくてきもちです!」
いいでしょおおおすごいでしょおおおっ、とばかり、ぺっかあぁああっとした笑みでふんぞりかえるソキには、分かっていないにせよ、ロゼアの魔力で満たされている自覚、というものはあるらしかった。使っている香水を借りて付けてみたんですけど、そうでしょういい匂いでしょう、と同じくらいの感覚でいるらしい。これは教えてあげた方がいいのかな、でもでも、ともじもじするリトリアの前、床の上にしゃがみこみながら、レディが深刻な顔でソキのことを呼ぶ。
「……ロゼアさ、くんは。ソキさまに、なにか……なにを……?」
「ロゼアちゃん? ロゼアちゃんは、いま、授業中です。ソキに、ここから動かないで待っていような? ってして、ぎゅって、そうなんですうううきゃあぁあああんきょうもソキをぎゅって、ぎゅううぅってして、かわいいかわいい俺のお花さん。かわいいソキ、行ってきます、って言って頬をすりすりってして! ソキに! ろぜあちゃが! ほっぺをすりすりってしてきゃぁあああんふにゃぁんふにゃんやんやんはうううううっ!」
顔を真っ赤にして身悶えて興奮するソキには、身を満たしきったロゼアの魔力より、そちらの方がよほど恥ずかしくて嬉しくてたまらない出来事のようだった。つまりロゼアちゃんはソキにさいきん、めろめろー、というやつなんですううううはううううっ、と目をうるませ、顔を真っ赤にしてちたぱたちたぱたひとしきり興奮したのち。ソキはあれれ、と目をぱちくりさせ、微笑むレディとリトリアを見比べて。
「もしかして、ソキになにかご用事があったんです……?」
ようやく気がついたように、とてもとても不思議そうに、そう言った。
リトリアが呼ばれたのは、ソキの魔力の安定の理由を探る為である。魔力を溜めておく水器を持たない魔術師であるから、ソキのそれが安定状態を保っている、そのことがすでにおかしいのだが。リトリアさん、きいてきいてぇ、あのねあのねロゼアちゃんがね、と頬を赤く染めて興奮しながら話し続けるソキに、特別な異変を感じ取れることはなかった。確かに、魔力が体に満ちて、ひどく安定している。その魔力が根本的にロゼアから受け渡されたものであるという事実を考えなければ、これはただ魔力がいっぱいになって、落ち着いているだけの状態だった。
「それでね、それでねソキは思ったんですけど。もしかしてロゼアちゃんはソキのこと、ちょっと好きすきにっ……きゃあぁあん! かわいい、かわいいソキっていーっぱい言ってくれるようになったです。ソキは、ロゼアちゃんの、かわいい、です。ふにゃぁあんやんやんやぁあんっ」
「……前とおんなじじゃないの?」
「だってほっぺをすりってしてくれるですうううリトリアさん、さわるぅ? リトリアさんなら、ちょっとだけ、ソキのほっぺを撫でてみても、いいんですよ? でもりょうちょはだめですお断りです減っちゃうです」
談話室の隅に視線を投げかけ、びしっとした声で嫌がるソキに、はいはいはい、と受け流すような仕草で頷きが向けられている。思わず笑ってしまいながら、リトリアはすこしだけね、と囁いて、ソキの頬に指先を伸ばした。しっとりとした、さわり心地のいい肌だった。きめ細かく整えられたそれは、指先に吸いつくような滑らかさだ。ほんのわずか指先を押しかえす弾力に、思わずソキの体を引き寄せ、腕いっぱいに抱きしめたくなる。リトリアはふるっと指先を震わせてソキから引き剥がし、ぎこちなく息を吸い込んで、頷く。
「きもちいい……ね……?」
「でっしょおおお? ロゼアちゃんがね、両手でね、ソキの頬を包んでくれてね。ソキ、ソキ、かわいいソキ。俺のお花さん。俺の傍にいような。ソキのして欲しいことなんでも言っていいよって。だからね、ソキね、ソキをロゼアちゃんの好きにして? ってお願いしたです」
げふっ、とも。ぶふっ、ともつかないひずんだ音でレディが咳き込む音が聞こえたが、リトリアはさもありなん、と微笑みを深めてそうなの、と頷いた。これは昼間に聞いていい話なのだろうか。というか談話室で聞いていていい話なのだろうか。えっと、あの、その、待ってね、と控えめに食い止めようとするリトリアの話を、もちろんまるっと聞き流して彼方にぽいっと投げた満面の笑みで、それでねそれでね、とソキはもじもじと続けて行く。
「ロゼアちゃんの好きな風にソキに触っていいんですよ? ね、ね、ソキをロゼアちゃんの好きにして? いっぱいして? さわって? ねえねえ、って言った……いったら……言ったです……ソキはめいっぱいゆーわくしたです。ほんとです。ちゃんとお膝に乗ってお胸もくっつけて、すりすりしたです。柔らかくてとってもきもちいな筈です。お風呂上がりで、ほわほわあったか、いいにおいー、だったですうううう」
べこっ、べこここっ、と途中でなにかへこむような音がした、気がした。ソファに両手をついて、体を支え切れずにくにゃりとその場に蹲り、ソキはいやぁあああっ、と悲痛な声で頭をふり、もぞもぞしている。
「そうしたら、そうしたらロゼアちゃんったら、何度もソキに念押しするです。ほんと? 好きにしていいの? 俺の好きにしていい? かわいいソキ。ほんと? って。だからソキはもちろんです、ソキをロゼアちゃんの好きにして? って言ったですううううこれはいけると思ったですううう! ロゼアちゃはうん分かったって言ってくれて、ソキをころんて寝台に横にさせたからこれでもうロゼアちゃんはソキにめろめろですきもちいのですって思ったのに、思ったのに……!」
「う、うん……うん……?」
雲行きが怪しく、なっている気が全然しないのはリトリアの勘違いではなかったらしい。その場に突っ伏したまま、ソキは悲痛な声でいやぁいやぁああっ、と嘆き、すんすんと鼻をすすりあげている。
「ロゼアちゃんったら、ソキのおていれー、をしたです! あしも! おせなかも! おかおも! ぜんぶ、ぜんぶです……! ソキはおせなか、くすぐったいですぅー、いやんいやんってしたですのにぃ! ロゼアちゃんったら、俺の好きにしていいって言ったろ? かわいいかわいいソキ、好きにしていいんだろ? って言って、いいいーっぱい、お背中をなでこなでこして香油ぬったり、まっさじ、したり、なでこなでこして、いっぱぁーい、さわってくれたですうううううそういうんじゃなかったですううううソキのみりょくがたりないですうううううゆゆしきじたいですうううううう!」
「リトリアー、それ、毎日のことだから。ほっといていいぞー」
とりあえず傍観している寮長の声は、呆れに彩られきっていた。こくん、と頷きながら、リトリアはソキの髪を撫でてやる。不用意に触れたことを後悔してしまいそうな、さらさらの髪だった。手をしっかり洗ってからにすればよかった、と思う。いい香りもした。白い花の香りだった。
「ソキのなにがたりないですかぁああ……! ……も、もしかして、もしかしてなんですけど……!」
もちゃもちゃ、ちたぱたした仕草で顔をあげたソキは、青ざめた表情でリトリア、の胸を見た。
「ろぜあちゃ……! リトリアちゃんみたいなお胸が好きになったんじゃ……!」
「ソキいいいいいっ!」
「やああぁあああたいへんなことですうううう! ふわふわでふにゃふにゃのソキのお胸より、控えめで慎ましくってすとーんってしたのが好きになってたら……! リトリアちゃんみたいなお胸ないのがお好きになってたらどうしようですうううう!」
頭を抱えて全力で叫ぶ寮長の声を完全無視して、ソキはあわあわと己の胸に両手を置いている。ふくよかで、やわらかそうなふくらみと、己のそれを見比べて、リトリアはぺたんっとそこへ両手を押し当てた。おなかよりは、やわらかい。ような気がする。
「せっ……成長期がこれから来るんだもん……」
しかし。ソキのような、ふくよかで柔らかそうな胸や肩、ほっそりとした印象の腕と、折れてしまいそうな腰回り。ふんわりとした、それでいて華奢で儚い、完璧に整えられきった印象の体つきには、これからどうしても成長できる気がしない。ストルさんもやっぱり、お胸がほわんとしていた方が好きかな、と落ち込むリトリアの眼前で、ソキはふたたび打ちひしがれた様子で、へしょりとソファに突っ伏した。
「ソキ、リトリアちゃんみたいなおむねになるぅ……。なるもん。なるうぅ……」
「ロゼアほんと性欲ねぇなみたいな嘆きはもう構わないとは言ったけどな! 被害拡大させんなってあれほど、あれほど言っただろうがこのつんつるてんの鳥頭がっ!」
「構わないんですか……?」
でもストルさんの好みとか、今度こっそり誰かに聞いておこう、と決意しつつ。視線を向けたリトリアは、訝しげな顔で瞬きをした。見るに見かねて駆け寄ってきたらしき寮長が、けれども傍に来ることなく、不自然な距離を保っていたからである。やぁね、そんな何回も殺人未遂なんてしないわよ、と眉を寄せるレディにお前じゃねぇよと呻き、寮長は警戒の眼差しで、まだ嘆いているソキを見た。
「先日から、ソキをひっぱたくと火に直に触ったみたいに痛くなんだよ。手が」
「……やけど? 守護か呪い、ですか?」
「いや、単にロゼアの魔力が敵に対して反発してるだけ、というか。静電気みたいなもんだけどな。……まだ」
ともかく、近くまで行くと反射的に折檻してしまい、手が痛いので一定距離を開けることにしたらしい。そんなのりょうちょがソキをぺちんってしなければいい問題ですうううう、とぷんぷんしながら文句を言うソキに、リトリアは困惑の視線を向け。寮長を見て、レディを見て、もう一度ソキに視線を戻して、しばらく考え。ちょっと、チェチェリアのところまで、一緒に行きましょうか、と提案した。なにか考える所があるようだった。