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 ソキがチェチェリアに会いに行くことは叶わなかった。ロゼアちゃんはここから動かないで待っていような、をしたです、と頬をぷっと膨らませたソキが、談話室のソファから動こうとしなかった為である。リトリアに同行していたのがフィオーレなら、好奇心ついでに抱き上げてみるくらいは試みただろうが、一緒にいたのはレディである。砂漠出身の火の魔法使いは苦笑気味に溜息をついた後、ソキさまがそう仰るのであれば、と指先をしなやかに動かして焔の小鳥を作りあげ、それを伝令として友人に言葉を伝えた。授業が終わり次第、チェチェリアはロゼアと共に、この談話室に姿を現してくれる筈である。報告に、ソキは大変満足そうにこくりと頷き、机の上に用意されていたお茶と菓子でふたりのことをもてなした。
 実技授業の時間は、教員の性格や本人の能力のあり方、その時の体調によっても決まってくるから、通常、定められた枠が終わったからと言って、すぐに戻ってくると決まっている訳ではない。それでも、とりあえず定刻を過ぎて五分。リトリアとレディが、ロゼアが帰ってくることを確信したのは、ソキの態度のせいである。それまで歓談に応じていたソキは、不意に瞬きをした。ぴくん、と瞼を震わせて、その長い睫毛の先までをあまやかに意識させ、くちびるで息を吸い込む。宝石色の瞳に、ひかりが蕩けるように現れた。花を支えるがくのような、水から指先によって掬い上げられた翡翠のような。見る者を、そこに存在する、たったそれだけのことで惹きつけ魅了する、魔性の色彩が現れる。
 あっと短い悲鳴めいた、狼狽した声をあげて、ソキは茶器を持っていた指先を、己の胸へ押し当てた。落ち着かずに何度も、何度も組み合わされる手指はほっそりとして白く、透き通る柔らかな肌に包まれている。慎ましく、うるわしい光沢を放つ爪は、磨き上げられた真珠の色をしていた。爪は、ほんのすこしの角度の変化で、淡く恋の色に染まる。光に触れて目覚める、咲き染めの薔薇の色を宿していた。んん、とちいさな声をもらし、まるで泣くのをこらえるように、何度も、何度も瞬きをして、ソキはやわりと首をかしげ、ぎこちなく息を吸い込むくちびるに、ぎゅっと指先を押し当てた。首筋から肩の輪郭線は、触れれば崩れる月のかたちをなぞっている。内側から光を零すようで。そこから目を離せなくなる。
 目尻と頬をうっすらとしら紅に染め、ソキは俯き加減に、そっと髪に手を押し当てた。撫でるようにして整え、髪に編み込まれたリボンに、指の先を淡く触れさせる。かすかな震えは、なにか、祈りを思わせた。胸に抱くたったひとつの望みのために、ソキはずっと、息苦しい程にそれを想っている。たったひとりを。その想いだけを。抱いて、抱いて、祈って、そして何度でも。繰り返してきたことを、リトリアは眩暈のように思い出した。一瞬だけ、忍び込んだそれは、息を吸い込む間にもうどこかへ消えてしまったのだけれど。この幸せが望みだ、とリトリアは思う。この子の、この人の、この存在の、その望みが。それが満たされ、報われる幸福が。全ての魔術師の運命。死のさだめを、覆す先にある。
「――ソキ」
「ロゼアちゃん……! ろぜあちゃ、ろぜあちゃん……! ロゼアちゃぁんっ……! おかえりなさい……!」
「ソキ、ソキ。ただいま、ソキ」
 談話室にロゼアが現れた瞬間。ソキはソファの上で両腕を持ち上げ、ロゼアに向かって必死で伸ばした。うん、と微笑みながら早足に、ロゼアは人の間をすり抜け、リトリアとレディに目礼したのち、ソファの前に膝をつく。おいで、とロゼアの口唇が音なくつづる。ひたすら、その腕の中に取り戻される時を待つ少女へ向かって。ソキは、ころん、とソファから落ちるように、ロゼアの腕の中へ身を寄せた。危なげなく受け止め、抱き寄せて、ロゼアはほぅと息を吐いた。てのひらをソキの頬、首筋、額と滑らせ、押し当てて。立ち上がりながら抱き直し、すりついてくる頭に、頬をくっつけて目を細める。
「ソキ」
 一言で。その声だけで。満たされたことが。求めていることが、分かる。どんなに望んでいることか。どんなに、待ち焦がれたことなのか。己の腕に、ソキを取り戻すその時を。
「いいこにしてたか?」
『ボクの言う通りにできタ?』
 それなのに。歪んだ気配が忍び込んだような気がして、リトリアは額に指を押し当てた。抱き上げたままソファに腰かけるロゼアの腕の中、ぎゅっと頬を押し付けて目を閉じていたソキが、はにかんで淡く、瞼を持ち上げる。
「ソキ、ロゼアちゃんのいうとおり、できたです……」
『偉いネ』
「そっか。偉いな、ソキは。いいこだな」
 ぎゅぅっとロゼアが腕に力を込めて、ソキの柔らかな体が抱きつぶされる。きゅぅっ、と喉の奥であまやかに笑い、ソキはくてっと力を抜いて、拘束の中で落ち着いた。はうー、はふーっ、と幸せでいっぱいの息を零し、ソキはぱちぱちっと瞬きをして、すいとリトリアに視線を移動させる。まるで、リトリアがソキを呼んだような仕草だった。ロゼアの頬に肩をくっつけなおすついでの風に、ソキがほにゃりと首を傾げる。
「リトリアちゃん。なぁに……?」
「え、えっ……っと……? な……なにも?」
「うにゃん? ソキは、リトリアさんに呼ばれた気がしたです。気のせい?」
 いぶかしむソキに怖々頷き返し、リトリアは魔力を見る目に集中した。ソキを注視する。空の、乾いた花瓶にほたほたと、水が注がれているような気配がする。魔力だ。もうソキは十分に満ちているのに、それでもどこか空虚な場所に、その洞に、魔力が確かに注がれていた。胸騒ぎがした。けれど。リトリアの、本能に近い所にある直感が、思考よりはやく言葉を叩き出す。これはおかしいことではない。異変かも知れないけれど、おかしい、ことでは、ないのだ。それは予知魔術師として、正しい。予知魔術師が、そう機能する為に、正しく使われる為に、必要な準備だ。リトリアにだけは、それが分かった。この世界で唯一、ソキと同じ適性を持つ、予知魔術師であるからこそ。
 見誤った。異変であることを。予知魔術師であるからこそ、おかしくない、と判断して。言葉魔術師の武器として、ソキが整えられ始めているなら。それは魔術師に与えられた正当な権利であるから。予知魔術師はそれを、おかしい、と思うことはできないのだ。



 残っていた仕事を片付けてきたのだろう。帰り支度を整えて談話室に現れたチェチェリアは、ゆったりとした歩みでリトリアたちとの距離をつめながら、ソキに目を向け微笑みを深めた。もう微笑む以外にどう気持ちを表現したらいいのか分からない。そういう表情だった。
「……程々にな、ロゼア」
「はい? あの、なにをでしょうか」
「うん。……うん、リトリア、帰ろうか。レディも、『扉』まで送ろう」
 己の魔力でソキを染めることに、であるのだが。素直に不思議がって問いかけられるので、チェチェリアにはどうしても言えなかったらしい。担当教員といえど、だからこそ、生徒の色恋沙汰に口を挟むべきではないと我が王も仰っていた、気がするしとチェチェリアが遠い目になるのに、リトリアはそぅっとソファを立ち上がった。二人の主君である楽音の王は、口を挟んで私におもしろい結果が跳ね返ってくるのであれば、あなたたちは私の魔術師として積極的にそれをなすべきですね、と告げる想像がたやすい性格をしているが、幸い、聞いたことはなかった。これからも聞かないでおこう。精神安定と、なにより己の身の為に。視線を交わし、苦労を分かち合って、リトリアはきょとんとするソキの顔を覗き込んだ。
「あのね、ソキちゃん。あの、あんまり、ロゼアくんの……その、魔力を、ね……」
「ロゼアちゃんのまよく! いっぱいでー、ソキはきもちです!」
 ぺっかあぁああっ、と輝く笑みで自慢されたので、リトリアは頬を染め、そっかぁ、と諦め気味に頷いた。担当教員も言えないことだし。『学園』の者たちも、言えないのか放置しているのか言ってもソキが聞き流したか言い聞かせてもソキがでもでもロゼアちゃん、をだだをこねて聞かなかったことにしたかは定かではないが、リトリアたちがいる間、特にそれについて注意しにくる素振りを見せなかったのだし。これは、これで、もういいのだろう。他者の魔力で己を満たす意味を知ったとしても、ソキは喜びそうなことであるのだし。ロゼアが戻って来てからというものの一時もその腕の中から離れず、ソキはちたぱたと脚を動かした。
「リトリアさんと、レディさんはもうお帰りです……? チェチェリア先生も、お帰り……?」
「ああ。私はまた明日来るよ」
「んん……リトリアさんは、ソキのお顔を見に来てくれたです?」
 訪れた用を告げないままであったので、心当たりがちっともなかったのだろう。きょとんと問い返されるのに、リトリアは微笑しながら頷いた。顔を見て、調査をする為だ。嘘ではなかった。えへへ、と嬉しげにはにかんで、ソキはリトリアの腕にからみつく。
「ほんとに帰っちゃうです? ソキ、リトリアさんにお聞きしたいことがあるですよ」
「ソキ? 困らせたらだめだろ」
「やぁんやぁん。……あ! ロゼアちゃん! たいへんなことです!」
 腕を解かせながら柔らかくたしなめるロゼアに、ソキはきりっとした顔で向き直った。ん、と目を瞬かせるロゼアに、ソキは自分の胸にふにふにと手を押し当て、おむねなんですけどぉ、とくちびるを尖らせる。
「ロゼアちゃん、もしかして……! リトリアさんみたいに、お胸ないのがお好きになったです? そ、それともっ、それともぉ……! チェチェせんせ、みたいな、せくしー! な、おとなの、いろけー、というのがお好みになったですっ……?」
「……ん? ソキ、なんの話?」
「ロゼアちゃんのすきすきなおはなしですううう!」
 顔を両手で覆って沈黙するリトリアの肩に、ぽんとばかりチェチェリアの手がおかれる。これはむごい、とチェチェリアの顔が物語っていた。よろけながらも立ち上がり、リトリアはうるんだ目でチェチェリアの服を引っ張った。
「す……ストルさんは……ぺたんこなお胸でも好きかな……?」
「聞くなよ。いいか、リトリア。絶対にストル本人には聞くなよ……! どうしても知りたいというなら……レディ?」
「やめてやめてお願いやめて私を死地に送り込まないで!」
 同僚だろうリトリアが不安がって可哀想だと思わないのか、月のない夜ある夜心穏やかに過ごしたいのよ私だって、と視線で会話をしている二人に挟まれ、リトリアははぁ、と落ち込んだ息を吐き出した。ちらりとソキを振り返る。耳元でささやかれたロゼアの回答は、どうやらソキのお気に召したらしかった。喜びに目を潤ませ、ロゼアに頬をくっつけてもにもにと擦りつけている。リトリアは指先に視線を落とし、きもちよかったなぁ、と思い返す。ロゼアくんいいな、と思ったのは。そっと胸にしまい込む、内緒のことだった。



 ふたりが楽音の王に全ての報告を終える頃、辺りにはもう夜の帳が降りていた。チェチェリアが同席したのはひとえに、それは大変面白くなりそうなのでぜひとも首を突っ込み口を挟んでその様子を詳細に私に報告しなさい、と王がリトリアに命じるのを食い止める為だったのだが。うるわしい男は少女の報告を微笑んで聞くだけで、チェチェリアが危惧した展開にはならなかった。もっとも、今か今かと胃を痛くしながら待機するチェチェリを見て楽しんでいたふしがあるので、王宮魔術師の不安もなにもかも、分かってはいるのだろう。今回言わなかっただけで、今後も絶対言わない相手である、とは決して思わなかったので、音なく閉じた扉に額を押し付けるようにして、チェチェリアは深く嘆息した。
「いいか、リトリア……しばらく、不用意に陛下と接触しないように」
「はぁい」
 同じ立場の王宮魔術師に囁くには、あまりに制限的な言葉だとチェチェリアは眉をゆがめたが、言われた当人は苦笑しただけで、それ以上気にする素振りを見せなかった。リトリアの立場はこの楽音において、食客にも似ている。事情を深く知らぬ魔術師でない者の中には、リトリアは気まぐれでごく簡単な仕事ばかりをこなし、王の傍で楽しげに語り、あとは日がな一日部屋でぼぅっとしているだけだ、と不満をあらわにする者もあるという。リトリアも、それを知っている。知っていて、もうどうしようもないのだと微笑み、受け入れる様は罪を犯した囚人のようにも思われた。それに対する思いを振り切るように、チェチェリアは唇に力を込め、扉に預けていた体重を脚に戻した。
 等間隔に火を揺らす灯篭が、夜の訪れを告げている。食堂へ行こうか、と歩き出すその背を、待って、とリトリアの言葉が引き留めた。無防備に、振り返って。チェチェリアはなぜか、息をのんだ。廊下にはまばらに、行きかう者の姿がある。文官や士官たち、勤務へ向かう女官や騎士たち。魔術師の姿も、ぽつりぽつりと。ひとがいない訳ではない。それなのに、広い廊下のただ中に立つリトリアの周囲は、静まり返っていた。音がないような錯覚。空気を震わせることを、許されていないような。張り詰めている。揺れる火の灯りは足元だけに落ちていて、リトリアの表情の一切を伝えてはこなかった。暮れゆく夜を呼びよせて。その中で、少女の声がとうめいに響く。
「チェチェ、ソキちゃんね。……ソキちゃんはね」
 言葉の綴り方だけが。たったそれだけが、チェチェリアの知る、淡い少女のものだった。慈雨に濡れる花のような。華奢で、幼く、指先ひとつで摘めてしまう。そうされても、その一瞬だけでも触れられたと。相手を恋しがり泣くような。甘い淡い花の、少女。
「陛下にもお伝えしたけれど、ソキちゃんは、ウィッシュさんが不安に思うようなことは起きていないの」
「ああ。私の目から見ても、レディが考えても……すこしばかり、ロゼアの魔力が満ちすぎているだけで、魔術師として、ちからが……おかしくなったり、体調が悪くなったりすることは、ないと。そう思う」
「うん。……うん、あのね、チェチェ。あのね、あのね……」
 震えるリトリアの指が、闇をすいと切り裂いて。胸元へ強く押しあてられるのが、見える。
「予知魔術師として、あれでいいの。とても、とても、正しいのよ」
 表情は分からない。けれど。泣いているように、感じた。
「でも、私たちがもし、予知魔術師として扱われきる日が来たなら……。私たちは先へ行けない。誰一人」
 ひきつった息を、少女の喉が吸い込んだ。
「だれひとりよ、チェチェリア」
 血で。夥しい血で王宮の廊下が染め抜かれる。逃れようと走り抜ける者たちの足元で、豪雨のように跳ねまわる。あるいは、荒野。国と国の境。かつての大乱世。魔術師たちが武器として取り扱われた、世界分割前の大戦争のように。見知った魔術師たちが並んでいる。こちら側と、むこう側。それぞれの先頭に立つのは、花の印象を持つ少女たち。ひとりは愛しい者の腕に抱かれ、ひとりは、ひとりきり、背を伸ばして対峙している。向かい合う者は敵だった。国を犯し壊し殺す敵だった。殺さねばならない。すでに一国は血に沈んでいる。残っているのは、だいたい三国。だいたい、でしかない。チェチェリアの主君はもう、助かるかどうか、分からない。
 どんな状態でも、最後の一呼吸に間に合えば。そう告げた白魔法使いは、やんわりとした微笑みで、チェチェリアと向かい合わせに立っていた。距離がある。姿は、豆粒ようにしか見えない。けれども、分かる。対峙しているのが誰なのか。誰たち、なのか。悪夢だ。とびきりの悪夢だった。次々ともたらされる、世界が切り裂かれていく知らせを、王宮魔術師たちは絶叫しながら否定したがった。友がいた、恋人がいた。共に学んだ仲間たちだった。命があった。ひとがいた。皆、殺され消えてしまった。そしてまた、これから、死んでいく。
 砂漠の王宮魔術師は、己の王すら手に掛けた。この世界の敵。彼らを許さず、全員殺せ。そして主犯たる、ソキ、ロゼア、シーク。彼ら三名と親しかった者、一定期間以上接触を持った者には謀反の疑いがある。彼らを殲滅したのち、疑わしきは許されず。チェチェリアは死ぬだろう。リトリアも許されない。だからこそ少女は先頭に立たされた。予知魔術師に相対できるのは、殺し手のない現在、同じ適性を持つ者のみ。ソキと、ロゼア。二人が学園から姿を消した日から、メーシャとナリアンの行方も知れないままだった。殺していないよ、と言葉魔術師は告げたという。生きている、とは。言わなかったのだという。ああ、また、とリトリアのくちびるが言葉を綴ったのを、チェチェリアは確かに見た気がした。
 それがなにを意味するのか。分からないままに。
「世界は、いつも透明で、まっすぐで……いつも、そこへ辿りついてしまう。もしかしたら、その結末こそが、本当は正しいのかも知れない。でも……諦めたくない。もう、諦めたくないよ、チェチェ。わたしは……なにもかも、ぜんぶ、ほしいっておもう。あの子の幸せも。わたしの……ストルさんも、ツフィアも。シークさんも。……ああ、私、何度、この手で」
 てのひらを。リトリアがじっと見つめている。
「あの子を殺してしまったんだろう……」
 仲間だった。友達だった。妹みたいに思っていた。泣きながらチェチェリアに訴えられた言葉。そんなことは、聞いた覚えのない筈なのに。腕に抱えた血の温度を、チェチェリアは知っている気がした。最初から刺し違える気しかなかったのだろうと。死にゆくリトリアに、誰かが囁いたことも。こうしないと巻き戻せない、と。予知魔術師が笑ったことも。
「でも、私は、知ってる。私だけが、知ってる、のに……ぜんぶ、幸せになって欲しい、だけなのに」
 さあ、もう一度。息絶えたソキの手を握って、リトリアが凄絶に笑ったことも。
「シークさんの望みだけが叶わない……叶えられないよ。どうしても、どうしても、どうしても……!」
『馬鹿だね』
 取り巻く闇が。リトリアの表情を隠す、その夜が。震えて笑ったような、声だった。
『キミはもう、しあわせな夢をボクにくれた。そう言ったろう……?』
「でも!」
『イチバン初めの、たったヒトツの願い。それを抱き続けて、叶えることだけが、幸せじゃないヨ。……願いが、叶うコトだけを、幸せと呼ぶんじゃないだろう? 願いが叶わなかったことが、必ず、辛い訳じゃないんだよ』
 幸福を願うことが、愛だとするなら。その為に祈りを繰り返すことを、愛だとするなら。リトリアのそれは、愛だった。相手の痛みを理解し、分かち合い、癒そうとする。思いやって涙を流す。同調的な愛。
『キミは、ボクの願いを潰して先へ行くべきダ。そうだろう……?』
「わたしは、あなたに……あなたにも」
 しあわせになって欲しかった。その望みを捨て切れないで、ここまで来てしまった。顔を覆って泣くリトリアに、夜が寄り添い、触れていた。しばらくは、なにも語らず。ただ、傍らにあった。しゃくりあげながらも、リトリアが顔をあげるまで。じっと、その時を待っていた。
『リトリアちゃん』
「……うん。うん……うん、分かってる。分かってます」
『ありがとう。ボクはしあわせだ』
 うん、と頷いて、リトリアは一歩踏み出した。くらやみの隙間から、ようやく、ひかりに触れる。見つめてくるチェチェリアに、ふわ、とリトリアは笑った。咲くことを思い出した、花のように。
「チェチェ」
 ふっ、と悪夢がかき消される。記憶も。覚えていたことがなにもかも遠ざけられる。ああ、と瞬きをしながら呻くチェチェリアに、リトリアは切なく目を細めて。その瞼のむこうに、同じように、全てまた置き去りにして。
「行こう?」
 手を差し出した。言葉に詰まるチェチェリアに首をかしげ、食堂へ行くんでしょう、とリトリアは問いかける。そうだ。そういう話をしていた筈だった。頷いて、チェチェリアはリトリアの手を取った。



 誰かが泣いている。聞き覚えのある声だった。ああぁん、と声をあげて泣いている。知っている声だった。ソキは重たく痛む頭に苦しみながら、ぺたんと地に座り込んだ。額に両手を押し当てる。目の前には本があった。白い帆布で包まれた上製本。手に取った時には教本と同じ大きさだった筈のそれが、いつ文庫本の大きさになったのか、ソキはどうしても思い出せない。泣いている、泣いている。誰かが泣いている。声をあげて。知っている筈なのに。頭が痛くて思い出せない。呻いてうずくまるソキの頭の先で、白い本がひとりでに開く。
 風もないのにぱらぱらとめくられていく。地に置かれたまま。誰かが読んでいるかのように。白い本がめくられて行く。ぱらぱら、ぱらぱら。未だなにも書かれていない白いページが。頭が痛くて。泣き声がして。ソキはそれがなんだかわからない。
『――して』
 泣き声。悲鳴。声が。言葉が。頭の奥で痛みになって反響する。
『して、る……』
 ぱらぱら、ぱらぱら。白いページがめくられていく。執拗に、執拗に。何度も、何度も、繰り返し。文字が書き込まれていないことを、確認する。ぱらぱら、ぱらぱら。雨のように。金の砂が降っている。砂時計の世界のよう。ひっくり返されて、天から、金の砂が降り注いでいる。
『わたしも……ソキ、も』
 泣いている。伝えられなかった言葉を繰り返しながら。
『あいしてるの』
 金の砂が。
『ロゼアちゃん……!』
 降り積もっていく。



 ぱた、と本が開かれたまま動かなくなる。
 文字が。白いページに。言葉が、書き込まれていた。



 悲鳴をのんだ喉が引きつって、苦しい咳が何度も出て行った。ソキ、と慌てて身を起したロゼアが、体を寝台から抱き上げた。膝上に抱え込まれて、背が撫でられ、耳元で声が繰り返す。ソキ、ソキ。ソキ。けふ、ごほっ、とむせかえって、ソキは鈍い頭の痛みに、訳も分からずロゼアの胸に両手を押し当てた。怖かった。逃れたかった。ソキ、ソキ。どうしたんだよ。俺だよ。俺だよ、ソキ。こわくないよ。だいじょうぶ。大丈夫だよ、ソキ。怖い夢はおわり。おわりだよ、おわっただろ。ソキ、ソキ。繰り返されているのに、ソキはロゼアの胸をぽかぽか叩いて、いやいや首を振ってむずがった。
「ろぜあちゃんのだもん……」
 強くつむった瞼から、涙がにじんで流れて行く。しゃくりあげながら、ソキは必至に、くらやみのむこうへ訴えた。
「ソキは、ソキは、ぜんぶロゼアちゃんのだもん……! ちぁうもん、ちがうもん……!」
「ソキ? そき、そき。どうしたんだよ……」
 答える声を。反響する泣き声が塗りつぶして奪っていく。夢の中から現へと手を伸ばして。耳を塞いで意識を奪う。強く咳き込みながら、ソキはろぜあちゃん、と涙声で訴え、呼んで、ふつりと意識を途絶えさせた。ぱらぱらと、金の砂が降っている。寝台で青ざめるソキの元へ。



 誰かが泣いている。
 誰かが泣きながら、短剣を。
 あいしてると一言告げて。



 なんだか、とってもソキは寝不足なのである。腫れぼったい瞼をのたのたと動かし、くちびるを尖らせ、頬を膨らませて、ソキはいやんと寝台の上を転がった。室内にひとりきりである。遠くで鳥が朝の挨拶を交わす声が聞こえていたが、ソキは室内にひとりきりである。ぷっぷぷー、ぷーっ、と思う存分頬を膨らませ、アスルをよじよじと引き寄せて、ソキはまたころんと寝返りを打った。夜に起きた記憶もないのに、なんだかとっても寝不足で、その上けふんと咳が出るので、今日のソキは外出禁止をロゼアから言い渡されてしまったのだ。ロゼアは朝食をとりに食堂まで出かけているから、ナリアンもメーシャにもそれは伝わっていることだろう。
 ぷー、ぷー、ぷー、と頬を膨らませ、ソキはころんころんと、右に左に寝台を転がった。
「……あれ?」
 ぴんと張られたシーツの上に。金の砂が落ちているのを見つけて、ソキはぱちくり目を瞬かせた。そーっと指先を伸ばして、触れる。宝石が砕けたような、うつくしい、透き通る砂粒だった。
「んん……?」
 恐らく。雲が太陽を隠したのだろう。ふっと部屋が薄暗くなる。砂に触れていたソキの指先に、誰かがぬくもりを与えた。ぱちん、と瞬くソキの視線の先に、ひとりの少女が現れる。頭が痛い。泣き声がする。その姿も、声も、ソキは。
『……どうか、わたしの記憶が、今度こそ』
 知っているのに。
『助ける、糧となりますよう』
 思い出せない。
『あいしてるの。あいしてるの……。ずっと、ずっと、あなただけを。わたしは、ずっと……あいしてる、あいしてるの。すきなの。すき、すき……』
 零れ落ちた涙を、拭う指先を持たず。
『ろぜあちゃん……』
 囁く声は、同じものなのに。その存在の名を呼ぶことができずに、ソキはふっと意識を失い、寝台にうずくまった。夢を見る。短い夢を、繰り返し見る。何度も、何度も、失ってしまった夢を、ソキは見る。助けて、と悲鳴じみた声が響いている。泣き声の合間に。助けて、助けて。今度こそ助けて。こんなにも縺れ絡み合い集束してしまった世界では、もう繰り返すことができない。だから、お願い、今度こそ。
『ロゼアちゃんを助けて……!』
 あいしていると。一言。告げられなかった世界の彼方から。声が響いている。

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