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 ひょい、と抱きあげられた衝撃で、ソキは目を覚ました。ふあぁ、んく、とあくびをしてふにゃふにゃとするソキを、ロゼアが息を吐きながら膝の上に下ろす。とん、とん、と指先が背に触れ、ソキは頬をぺとりとロゼアの肩にくっつけた。
「ロゼアちゃん、おかえりなさいです……。ソキ、眠ってたです……?」
『おまんじゅうみたいで可愛かったね、メーシャくん』
「うん。顔隠して眠る猫みたいだったね。眩しかったの? ソキ」
 ロゼアの返事よりはやく響いた二人の声に、ソキはぽやーっとした表情でまぶたを持ちあげた。なりあんく、と、めーしゃくん、です。おはよーございますです、とほんわほんわ響く声は八割眠っていたので、二人は穏やかな表情で笑みを深め、口々におやすみなさいとソキに言った。朝である。起きなければいけないのである。ぷぅぷ、と頬を膨らませて、ソキは抱き上げたきりじっとしているロゼアに、ねぼけきった眼差しをむけた。
「ロゼアちゃん。どうしたの……? なでなでも、ぎゅぅもないです……さびしいです……」
「……ソキ」
 ほう、と息を吐き出して。心から安堵した囁きで、ロゼアはソキを抱き寄せた。ソキの息がすこし苦しくなってしまうくらいの力で抱きしめながら、てのひらが頭皮に触れ、髪を梳き、背を辿って撫でて行く。きゅぅ、とすこし潰れた声をあげたながらじっとしているソキに、ほら、言っただろ、と微笑ましげなメーシャの声が聞こえてくる。
「きっと、すごく怖い夢を見て混乱しちゃっただけだよって。ね、ソキ」
『ロゼア、ロゼア、大丈夫だよ。ソキちゃんがロゼアを嫌がるだなんてこと、ある筈ないよ。ね?』
「ソキはぁ、そんなこと、したことないです」
 なにを勘違いしてるですか、とまだ半分寝ぼけた声で怒りながら言い聞かせるソキに、ナリアンとメーシャは視線を交わして頷きあった。
「そうだよね……でも、心配だな。よく眠れるおまじない、しようか? ストル先生から教わったんだ」
「ロゼアちゃん、ねぶそくなの? それは大変なことです……。ソキを、ぎゅぅ、ってして、眠るといいです。ほっぺをね、ぺとってくっつけてね、ソキをぎゅーって、ぎゅーってしてね、ねむるとね、きっとね、あったかくてきもちです……よいしょ」
 頬をむにっとロゼアにくっつけて、ソキは満足そうに息を吐き出した。口元に手を押しあてて笑いながら、メーシャがソキ、と囁きを落とす。
「ロゼアのこと、好き?」
「好きです。もちろんです! だぁいすきー、ですー! ろぜあちゃーん、だーいーすきー、ですー。すきー、すきすきー、ろぜあちゃーん。……ふにゃん? 元気がないです。どうしたの……? うーん、うーん……ソキがいっぱいすきすきをあげるです。すきー、すきすきー、ろぜあちゃーん」
 さくし、さっきょく、ソキ。ロゼアちゃんすきすきのうた、をほんわほんわ歌い出すソキに、ナリアンが顔を覆いながら頷いた。
『ほらあぁああ! 大丈夫だよロゼア! 間違いないよ! 絶対寝ぼけてたんだよ……! だって俺の妹は今日もこんなに可愛い……天使……かわいい……ソキちゃんに限って飴と鞭なんていうことはないって俺が断言する。だから元気だしてロゼア。なにかの間違いだったんだよ』
「よかったね、誤解がとけて。死にそうな顔してたもんね、ロゼア」
 ロゼアが、食堂に現れた瞬間。その顔を見た途端、ナリアンとメーシャが異常事態を察知した。それくらい、ロゼアは青ざめて強張った、思いつめた顔をしていた。まさかまたソキがどこかへ消えてしまったのか、と思ったくらいだ。あるいは、誘拐にでもあってロゼアのもとへ脅迫状が届いたのかとも思うくらい。なにせ、ソキが帰って来られなくなった時より、ロゼアは張り詰めていたからだ。どうしたのどうしたのなにがあったか俺たちに話して絶対に力になるから、と二人がかりで問い詰めて、ようやく吐き出させた言葉が、ソキが泣いて嫌がったんだ、である。
 嫌な夢だったね、と即座に言ったのがナリアン。ロゼア大丈夫だよ悪夢だったんだよ、時々びっくりするくらい鮮明な夢ってあるよね、朝だよ、と言ったのがメーシャである。けれども、ロゼアの表情は硬いままで。ソキが、と呟いてうつむくばかりだった。重傷だ、重傷だね、と視線を交わして会話し、ナリアンとメーシャはロゼアの腕をつかんで、ずるずると部屋まで引き戻したのである。ソキちゃんがロゼアを嫌がるだなんてことないから、と言い聞かせ慰め、慰め、慰めて。そして、ソキはやっぱりロゼアの腕の中で、しあわせそうに、ろぜあちゃんすきすきのうた、をまだ歌っている。あっ、これはもしかしてちゅうの、ちゅうのちゃんすですうううう、と真っ赤になってもじもじするソキに、二人はしみじみと頷いた。
「うん。ソキがちゅってすれば、絶対元気になると思うよ」
「は? 誰にだよ」
「ロゼアにだよ?」
 顔をあげたロゼアの腕の中で、ソキがぷきゃんと声をあげて抱きつぶされている。ソキがキスすれば、というくだりだけ、落ち込んでいても聞こえたらしい。ロゼアったら、とメーシャは肩を震わせた。
「元気でた? よかったね、ロゼア」
「そき……そきまだなにもしていなかたです……。ちゅうの、ちゅうのちゃんすー、だったです……!」
「好きな時にしていいと思うよ、ソキ」
 ちがうですぅちゅうは、ロゼアちゃんが寝てたりぽやーっとしてたりする時にこっそりするものです、じゃないとロゼアちゃんに嫌われちゃうです、という謎の主張を、ロゼアの腕の中で堂々とするソキに、メーシャは微笑んでうんもう朝だよ起きようね、と囁いた。
「さ、ロゼア。ソキも一緒に、食堂へ行こう? 皆心配していたよ。元気な姿、見せてあげようね」
「あれ? ねぼけたことにされてるぅ? です? あれ? あれれ……?」
「あ、でもソキは着替えがあるよね。俺とナリアンは部屋の外で待ってるからね、ロゼア」
 だから早く着替えさせて一緒にご飯を食べに行こうね、と念押しし、メーシャはナリアンと連れだって部屋を出て行ってしまった。待ってるからね、と扉を閉じながら告げられて、ロゼアは深々と溜息をつく。ふにおちないですー、と呟き、ソキはロゼアにもにもにと頬をくっつけた。
「お着替えするです? ロゼアちゃん、げんきでた? ロゼアちゃん、ソキのことすき? ソキは、ロゼアちゃんがだぁいすきです。すきすきです。いーっぱい、すきですよ。わかったぁ? ……すきすきのお歌をうたってあげる?」
「ソキ」
「なあに、ロゼアちゃん」
 ぎゅ、っと抱きしめられる。
「ソキ」
 心から、安堵した声で。何度もそう呼ばれて。膝に抱かれたままで着替えをすまされ、さあ食堂へ行こうな、と抱きあげられて。ソキはシーツの上へ視線を落とし、ぱちぱちと瞬きした。そこへ砂が零れていた気がしたのだが。どこへ行ってしまったのか、もう見つけることはできず。それきり、砂のことを思い出すことはなかった。その日から。ソキはほんの少し、ロゼアが傍を離れるだけで。触れていないだけで、眠ってしまうようになった。抱きあげられれば目を覚まし、傍を離れればまた眠りにつく。短い夢に繰り返し、繰り返し、囚われて。その中で夢を見る。泣き声の夢だった。白い本がめくられている夢だった。金の砂粒の夢だった。短い夢たち。泣き声が響いている。泣き声が。声をあげて泣く声が。
 あいしていると叫んでいた。



 呼びたかった。あなたのことを。
 伝えたかった。

 愛してるの。私も。
 たったひとりの存在として、あなたを。



 曇り空が広がっている。灰色ではなく、黒色にすら近い空だった。夜ではない。真昼の最も明るい時間であるのに、光が差し込む気配すらなかった。うっすらとした闇に包まれている。もう晴れないことを、魔術師たちは知っていた。魔力ある者なら、誰もがそれを聞いているだろう。卵の殻が砕けるような。硝子細工をすり潰すような。微細な音が響いている。壊れているのだ。砕けているのだ。接続が今にも絶えようとしている。世界はほどなく、欠片と化すだろう。それを阻止しようとする者も数人はあったが、無駄な努力であることも、分かっているに違いない。先延ばしにすら出来ないほど、この世界は終わりに近付いている。
 すこし前に、戦いがあった。すこし前に、戦いは終わった。一番初めに消えたのは、砂漠の国だった。王宮魔術師たちが一斉に反旗を翻し、王を殺し王都を焼き払い、白雪の国へ攻め込んだのだ。突然のことに、なすすべもなかったのだという。女王の命令により、他国にそれを伝えよと命じられた、たったひとりの魔術師だけが生き延びた。魔術師はどうして、と泣き叫んで気を狂わせた。ロゼア、ソキ、どうして。どうして俺の王を殺したの。どうして、どうして、と慟哭するウィッシュに。予知魔術師の少女が囁き告げた。ソキちゃんは、使われてしまった。言葉魔術師の武器として。ロゼアさんは、囚われてしまった。予知魔術師のちからなら、人心を操ることなどたやすくできる。
 これは呪い。これは、怒り。どうしてもそうしたいのに、どうしても、そうできないと分かってしまったから。八つ当たりにぜんぶ、壊そうとしてるだけなの。それだけなの。そんなことをしても、どうにもならないって、分かってるのに。でもそうしなければ生きていけないほど、死ぬこともできないくらい、シークさんはこの欠片の世界を憎んでしまった。わたしたちは全員殺される。魔力を持っているから。この世界はぜんぶ壊される。この世界がなければ、あの憎悪が生み出されることもなかったから。説得はもう出来ない。始まってしまったから。分かりあうことはもう出来ない。始まってしまったから。許してあげることはもうできない。もう始まってしまったから。たくさん、殺されてしまったから。残された道は、たったひとつ。ひとつしか、私たちには残されていない。
 戦いの終わりはあっけないものだった。その時。なんらかのきっかけで、ロゼアは己を支配する力から脱したのだという。言葉魔術師に操られるまま、予知魔術を乱発するソキを抱き上げて。敵味方入り混じるただ中で、ロゼアはソキに囁いた。
『愛しているよ、ソキ。『傍付き』として、『花嫁』のソキを、だけじゃない』
 人形めいた面差しに。その瞬間だけ、己の意識を取り戻して。ソキはじっと、ロゼアを見ていた。
『たったひとりの、ひととして』
 誰が。止める間もなかったのだという。
『俺をしあわせにしてくれる』
 ロゼアは、宝石の埋め込まれた短剣を。魔術師として与えられた武器を鞘から抜き。
『ソキ』
 ソキの胸を、刺し貫いた。
『あいしてる』
 口付け。なんの言葉も聞くことはなく。ロゼアはソキを喪い、言葉魔術師の手から武器を奪い去った。茫然とする言葉魔術師に、ロゼアはソキを抱き上げたままで微笑み告げた。死ね、と一言。暴走に近い放出のされ方をした太陽の魔力は、ロゼアの傍にいた者たちをことごとく蒸発させ、あるいは黒く炭化させて命を奪い。そして、戦いは終わった。あまりにあっけなく、唐突に。しかし平和が訪れることはなかった。魔術師の弾圧が始まったのだ。大戦争のあとのように。生き残った魔術師たちが、ひとり、またひとりと命を失っていく中で。ぱきん、と壊れる音がした。世界が、途絶え始めた音だった。岩石と砂ばかりとなった砂漠の国が、荒涼とした地が広がるばかりとなった白雪の国が。消える音だった。
 世界はたったの三ヶ国となり。魔術師たちはひとりの例外もなく、『学園』へ閉じ込められた。残された国も、もう保たれることはない。消滅を待つ日々であっても、もう魔術師を目にしたくないと。民の声に逆らえず、王は魔術師たちに別れを告げたのだ。だからこの世界も、『学園』も、ほどなく消えてしまうだろう。明日、明後日のことでなくとも。一月先にはまだあろうとも。一年はもう巡らないと。ロゼアは、そのことを知っていた。日々は粛々と流れて行く。閉ざされた当初こそ、ロゼアを責める者もあったが、最近は声を掛けてくる者さえいなかった。
 メーシャは戦いの中で倒れ、ナリアンはロゼアの姿をみると、目を伏せて拳を握る。どうして殺したの、とロゼアに問いを叩きつけたのは、ナリアンだっただろうか。それとも他の誰かだったのだろうか。思い出せないまま、ロゼアは告げた答えを思い返す。ソキが望んだからだ。己の意思とは関係なく、泣き叫んでもどれだけ抗っても、魔術を使わされ。魔術師を殺し。人々を殺し。ロゼアに、殺させ続けたソキの。とうとう、抵抗する意識が邪魔だと支配されきってしまう前に、ソキがロゼアへ告げた。最後の、ソキ自身の言葉だったからだ。ころして、とソキは泣いていた。ころして、ころしてロゼアちゃんはやくはやくソキをこわしてソキを枯れさせておねがいもういやこんなのはいやですろぜあちゃんごめんなさいごめんなさいろぜあちゃん、ごめんなさい。そきが、ろぜあちゃん。ろぜあちゃん。
 支配せよ、と言葉魔術師に告げられて。ソキは抗えず、ロゼアを操った。その後、支配権を言葉魔術師に受け渡して。抱きあげられた腕の中で、ずっと、ソキは泣いていた。喉を切り裂こうとする刃を、熱によって溶かされ。噛もうとした舌を、口付けでしびれさせて。意識を壊されてしまう瞬間まで。たすけて、と言っていた。たすけて、ごめんなさい、たすけて、ゆるして、ゆるして、ごめんなさい。たすけて。ごめんなさい。ころして。はやく。はやく。しなせて。おねがい。たすけて、たすけて。壊されて。人形のようになったソキを抱いて、ずっと、ロゼアはその時を待っていた。ソキの望みを叶えるその瞬間を。だから、殺したのだと。告げたロゼアに、誰からも、もうその質問が向けられることはなかった。



 あなたの為ならなんだってできた。ほんとう。
 あなたの為ならなんだってできる。ほんとう。

 だから教えて。なんでもいいの。どんなことだっていいの。
 なんでも叶えられる。
 あなたが願ってくれたなら。



 死にゆく世界は静かだった。妖精たちの姿はいつの間にか消えていた。か細い糸を辿って、他の世界へ。幻獣たちが住む世界へ、移動したのだという。シディは泣き腫らした目でボクはロゼアの傍にいますと告げ、その形を失うまで寄り添っていた。鉱石妖精、という種だったのだというシディは、妖精としての形を失うとうつくしい石になった。それを取り上げたのは、ソキの案内妖精だった。妖精はやはり、泣き腫らした、荒れすさんだ目をしてロゼアのことを睨みつけ、これはアンタにはあげない、と言って飛び去った。それきり、戻ってはこなかった。他の妖精たちを追いかけて、世界を渡ったのか。それともどこかで朽ちる時を待っているのか。ロゼアにはもう、分からないことだった。
 ひとり、ひとりと、眠りにつく。終焉は静かな眠りとして訪れた。それは世界から切り離された魔術師たちへ贈られた、魔力というものからの慈悲であったのかも知れない。ひとり、ひとり、目覚めぬ者が増えていく。今では起きているのは火の魔法使いと、ロゼアのふたりになっていた。火の魔法使いは、己のことを墓守と呼んだ。墓守はやりたいことがあるのならやっておきなさいな、と日課のようにロゼアに語りかけた。話しかけている、と思うには、あまりに返事を期待しない、それでいて柔らかな声だった。物言わぬ木石を慈しむような響きだった。だからやはりそれは、語りかける、とするのが正しいのだった。やりたいことなど、残っている訳がない。ソキが喪われた。それが、ロゼアの、すべてだった。
 それなのに、思い出がそこかしこから語りかける。寮の部屋も、階段も、食堂も談話室も。木陰も、小道も、どこでさえ。ソキと過ごした思い出に満ちていた。
『ロゼアちゃん』
 いまも。耳の傍であまく、柔らかな声が語りかける。
『ねえ、ねえ、ロゼアちゃん。あのね、あのね、ソキね。あのね……』
 うん、と。返事をしても、その先が聞こえない。あのね、あのね、とけんめいに、なにか告げようとするソキの。たすけて、という悲鳴が、やわらかな思い出を引き裂いて消していく。さいごの。愛告げられた瞬間に。言葉を告げようとふるえた唇が、声を発するより早く口付けた。ある時から、ソキの声はその全てが言葉魔術師の道具だった。どんな言葉も魔術でしかなかった。たすけて、と告げたのが最後のソキの言葉。だからもうなにも、響かせる訳にはいかなかった。たすけて、とソキは言った。ロゼアに。たすけて、と。だから。答えを聞くことは、どうしてもできなかった。
『……ききたい?』
 幻が、ロゼアに語りかける。視線を落とすと、そこにはいつものようにソキがいた。いつの間にか、ずっと。ロゼアには、ソキが見えるようになっていた。気が狂ったのだと、眠り行く誰かがロゼアに言った。幻が、それでも、本物のソキのように首をかしげる。繋いでいる手から、感じるぬくもりなどひとつもなく。言葉は空気を震わせず、体の内から響いてくるのに。それでも、ソキが言った。
『こたえを、ききたい? ロゼアちゃん。ねえねえ。……ソキが、どういう筈だったか、知りたい?』
 それが紡ぐ、ソキ、という呼称は。やはり他人事めいていた。吐息に乗せて、ロゼアは告げる。
「知りたいよ」
『おねがい?』
 ちょこり、と首を傾げてそれが問う。ロゼアは目を細めて、笑った。
「そうだな。うん。……うん、お願い」
『わかったです』
 それじゃあね。こっち、こっち。こっちですよ。こっちにきて、と。それはロゼアの手を引っ張って、てちてち、つたない足取りで歩き出した。抱き上げよう、と思わず、ロゼアはそれについて歩く。ロゼアが抱き上げるのは、それを、そうしようと望んだのは。望むのは。ソキ、たったひとりに対してのことで。だから、それを抱き上げよう、とは。思わなかった。
『あれ。あれです。あの本をちょうだい』
 それがロゼアを連れて行ったのは、図書館だった。図書館の、中ほどにある棚の、一番上の本を指差した。あの本。あの、はしっこにある、白い本ですよ。まっしろの本です。あれをね、ちょうだい。何度もねだられ、ロゼアは幻も変なことを要求するものだと溜息をつきながら、梯子を上って要求の通りにした。他にやることもなく、やろう、と思えることもなく。眠れもしないので、暇をつぶすにはちょうどいいのだった。梯子を下り、本を差し出したロゼアに、それはありがとうございます、とぺこんと頭を下げて、笑って。差し出される本を受け取ろうとはせず、ふるふる、と首を横に振った。
『ロゼアちゃん。ソキね、いっしょうけんめいに、がんばったです』
「……うん?」
『それは、ソキの本。ソキの武器。予知魔術師の、武器ですよ。ロゼアちゃん』
 やはり他人のことを語る口ぶりで、そう告げて。それは、瞠目するロゼアの、手に持つ本を指差した。
『ソキはね、ロゼアちゃん。お人形さんにされちゃったですけど、でも、全然なんにも、分からなくなっちゃってた訳じゃ、なかったです。目が見えたです。お耳が聞こえてたです。でも、手も、足も、自分で動かせなかったです。息をしてたけど、ソキがしたくてしてたんじゃなかったです。言葉を話すけど、ソキがほんとうに言いたかったことは、もうなんにも、言えなかったです』
「……うん。知ってたよ」
『起きていても、嫌な夢みたいで。眠っていても、ずっと夢を見ていて。だからもうソキには、夢と、現実の、区別がなかったです。どっちが本当の夢、とか。どっちが本当の現実、とかでも、なくて。もうどっちも夢で、どっちも現実で……だから、ソキは、それがどちらで、告げられたことで。本当かどうかも、分からなかったけれど。ソキは、それをね、ちゃんと書き残して、誰にも見つけられないように逃がして隠してしまったですよ』
 ソキは夢で、これから起こることを、あるひとに教えてもらっていたです。これから自分がどう死ぬか。これから世界がどうなるか。これから、ロゼアちゃんが、どういう風に世界と共に死んでいくか。ぜんぶ、ぜんぶ、知っていたです。だからね。だからね、と笑って、それは言った。
『もし、もしも……もしも、ロゼアちゃんが。ソキの……気持ちを知りたいって、思ってくれていたら、その時に。ちゃんと叶えてあげられるように、けんめいに、ちからを、残しておいたです。言えないのはわかってたです。夢で、誰かが、そう言ったです。だからね、ソキは、まりょくをね、えいって、切り離してね、隠して。リボンちゃんにお願いして、大事に、だいじに、隠してもらったです。リボンちゃんね、ソキに、会いにきてくれたの。ソキ、ソキって、ソキのことを呼んで。ソキはもうおにんぎょさんにされちゃってて、助からないって分かってたのに、リボンちゃんはソキって呼んで、アンタもうほんとにロゼアロゼアって最後までそればっかりなんだからって、怒って、でも、リボンちゃんが……ソキを守ってくれていたです』
 切り離した力はあんまりちいさすぎて。かたちを思い出すのにも、うんと時間がかかってしまって。間に合うかどうかも分からなくて。でも、ロゼアが望んでくれたから。そう言って、ソキはしあわせそうに笑った。
『ソキね、ソキはね、魔力だからね、ロゼアちゃんには言えないです。ソキは知ってるけど、でも、ロゼアちゃんはソキを、ソキみたいに抱っこしてくれなかたですからね、言ったらいけないの。ソキが言っちゃいけないことなの。だからね、ロゼアちゃん』
 だからね、と。白い本が示される。
『そこへ、ソキはちゃんと書いておいたです。ソキには言えなかった言葉を……ロゼアちゃんに、伝えることは、もうできないですけど。もし、もしもね、ロゼアちゃんが……それを望んでくれるなら。ロゼアちゃんが、ソキの……言えなかった、想いを、聞きたいって。ほんとに、そう思って、くれるなら』
「聞きたい」
 とん、と膝をついて。視線を重ねて。ロゼアはそれを、そっと抱き寄せた。
「知りたいよ。……ソキ」
『ろ、ろぜあちゃ……そき、ソキ、ない、です』
「うん。でも、ソキだろ。ソキだったんだろ」
 額に涙をいっぱいに溜めて。きゅっとくちびるに力を込めるソキに、ロゼアは手を伸ばす。涙に触れることは、できなかった。
「ソキ、ソキ。教えて? この本に書いてある?」
『……ロゼアちゃんがね、聞くことは、できないです。でもね、別の……別の世界の、ロゼアちゃんが』
 ソキが。もうこんなことになりませんようにって、お願いして。願いを。託すことなら、できるから。どうか繰り返して。やり直して。なにもかも失って消え去っていくこの朽ち果てる世界を。繋げて行って欲しい。希望の残された、未来の先へ。
『そこで、そこでなら……いつか、きっと、ソキはロゼアちゃんに言うから』
「うん」
『ロゼアちゃん……ろぜあちゃん、ロゼアちゃん。ソキ、そきね、そきはね、ずっと、ずっと、ずっと……!』
 ぱきん、と音がして。幻の姿が消え去った。ぱらりと音を立てて、図書館の床に砂粒が落ちる。とうめいな、金の。宝石を砕いたような、ソキの髪の色をした。うつくしく、きよらかな、砂粒だった。ロゼアはそれを丁寧にかき集め、てのひらに握り込んで口付ける。
「……いつか、教えて。ソキ」
 あいしているよ。この世界と、俺の終わるその時まで。その先も。ろぜあちゃん、とあまい声が記憶の中でロゼアを呼ぶ。うん、と微笑んで、ロゼアは死にゆく世界へ踏み出した。



 おねむりさんのソキ。おはよう。柔らかく響く声で囁かれ、ソキはきゅぅ、と喉を震わせて笑った。
「ろぜあちゃん。あれ? ……あれ、あれ? 夜です……」
「うん。夜だよ。……もう眠るところ。ソキは起きちゃったな。おねむりさん。お水飲める?」
「んん? んー……のむです」
 目をくしくしこすって、もぞりと体を起して。ソキは、ふああぁあ、と大きなあくびをした。瞬きをしながら室内を見回すも、ロゼアの言った通りに夜である。灯篭に火が揺れるも薄暗く、寝起きのソキはふあふあとまたあくびをしながら、くんにゃりと体ごと首をかしげて見せた。力を失ったように安定しないソキをしっかり抱き寄せ、ロゼアの手がソキの頬に触れる。肌を、その下の体温を探るようにじっとしていたてのひらは、中々頬から離れなかった。眠たげにぼんやりするソキを、不安がるようにてのひらが首筋へ滑り落とされる。とく、とく、普段よりすこしゆったりと打たれる鼓動に、ソキを抱き寄せる腕に力が込められた。
 ロゼアの指がソキのくちびるを、鼻を、瞼を、撫でるように触れて確かめていく。痛い所ないか、ソキ。熱っぽくないか、と囁き問う言葉に、ソキはふあふあとあくびをしながら頷いた。ソキはー、げぇんきー、ですー、とあくびの間に頷いて、首の後ろに抱き寄せるように手を触れさせながら、額を重ねて来るロゼアを見つめ返す。ろぜあちゃん、ロゼアちゃん。ねえねえ。ねえ、ねえ。あまく。したったらずな声で呼べば、すぐに伏せられていた赤褐色の瞳がソキを抱く。熱に溶けるように、くすぶっていた不安がどこかへと消える。ろーぜーあ、ちゃーん、と呼べば、ふわりと解けた笑い声が、ソキ、と呼んだ。寝台に座り直すロゼアに目をぱちくりさせながら、ソキはきょろりと室内を見回した。
「ソキは、朝起きた気がするです。夜です。……あれ? あれれ?」
「ん、はい。お水飲もうな。……ソキ。体がだるい? おなか痛いか?」
 月の障りは、まだすこし先の筈だけど。囁き、ロゼアのてのひらが、服の上から下腹部にそっと触れる。温めるようにてのひらが押しあてられ、ソキはふにゃん、と身をよじってもじもじした。だるくは思わないし、痛くも感じないし、鼻の奥や、喉がかゆい感じもしなかった。ただ、ぬくもりだけがある。ロゼアの体温。ロゼアの、熱。それに触れられること。それが触れていること。熱をもらえることが、幸福だと思う。はふ、と幸せな息を吐き出して、ソキはちまちま、小動物めいた動きで首を振った。
「大丈夫なんですよ。んー、んー。えっとね、あのね、ロゼアちゃん」
「うん」
「あの、あの……あのね……。ソキは最近、なんだか、とってもねむたいです。それで、ずぅっと同じ夢を見るです。おんなじ、なのは、分かるんですけどぉ……んん、うまく思い出せないです。うーん……」
 様子を見に来た白魔法使い曰く、冬眠してると思っておけばいいんじゃないかな初夏だけど、とのことで。特に病気や、魔術師的な体調不良ということではないらしかった。『花嫁』が枯れかかっているのとも違う、と『傍付き』であるロゼアは判断していた。身体的な不調はなく、精神的にも穏やかで。魔術師の安定は元より無いが、魔力が荒れている故でもないのだという。訝しみ、くすぶる不安を抱えながら、ロゼアは要領を得ないソキの言葉を聞いていた。なにかがおかしい、と思う。なにか、今までにないことが起こっている。それは確かなことだった。しかし、対処する手立てはなく。勤めて気持ちを荒らさず、穏やかに傍にあろうとするロゼアの努力が裏目に出て、最近の眠りっぱなしは、ソキの冬眠ならぬ初夏眠り、ということで、魔術師たちに受け入れられていた。
 ロゼアの精神状態の影響を、ソキはあまりに容易く受けすぎる。ロゼアが穏やかであれば、ソキは落ち着き。苛立ち、落ち込めば、石を投げられた薄氷のようにあっけなく砕け散る。混乱してしまう。それはソキの体調悪化を招くのだ。だからこそ『傍付き』は感情を落ち着かせる術に長ける。それだけのことだ。不安を、表に出さない。ただそれだけのことなのだ。こく、こく、こくん、と水を飲むソキを、ロゼアはじっと見つめていた。はふ、ソキはおみずをのんだです、と自慢げに空の杯を差し出してくるのに、ロゼアは微笑んだ。僅かであっても、本物の安堵の滲む笑みだった。茶器を簡単に小卓の上に片付け、眠ろうか、と囁いてロゼアは寝台に横になる。ソキはその隣にころん、とばかり転がり、もぞもぞもぞとすり寄った。耳元にくちびるを寄せ、内緒話をするような声で囁く。
「ロゼアちゃん、おやすみなさいをするです? ソキが、そいねー、をしてあげるです!」
「うん」
 おいで、とロゼアの腕がソキを引き寄せ、深く抱き込んで背を撫でる。頭に鼻先をうずめるようにして笑って、ロゼアはソキ、と囁いた。
「じゃあ、一緒に寝ような。おやすみ、ソキ」
「……あれ?」
「良い夢を」
 ぎゅーっとソキを抱きしめて。ゆっくり、ゆっくり、息を吐き出して。腕いっぱいに満たされたロゼアに、ソキはしばらく、眠りたがらなさそうに、腕の中でもぞもぞと動き。やがて、もぅー、と幸せそうにふにゃふにゃと笑い、ロゼアにぺとっとくっついて目を閉じた。だぁいすきですよ、ろぜあちゃん、と。眠りに落ちる時まで、囁いた。

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