ねえリトリア、予知魔術師って冬眠すんのと問いかけられ、少女は微妙な笑みをゆるく深めてみせた。
「私が……冬眠的なことをしたことが、ありましたかフィオーレさん……?」
「だよなぁー。うーん、いや、ソキがさぁ? 最近ずっと寝てて。なんか冬眠してるぽいんだよね」
香草茶に息を吹きかけて、フィオーレはそれをこくん、と喉に通して首を傾げた。深刻さのない表情と口調だが、眉を寄せているのを見る分に、思い悩んではいるらしい。はぁ、とあいまいな返事をしながら、リトリアは落ち着かない気持ちで周囲に視線を巡らせた。砂漠は、日のひかりが強い国だ。王の賓客を出迎える為の部屋は、差し込む陽光を調節されている。それなのに楽音とはあまりに差があって、リトリアは眩しくて幾度も瞬きをした。室内の壁や、柱、調度品の基調色が白だからかも知れない。よくよく見ればそれは、広がる砂漠に似た薄い赤みがかった黄色なのだが、ひかりが強すぎて、リトリアには白く見えるのだった。ひかりが色を奪う、白色の国だ。リトリアは砂漠を、そう思う。
その中に、ほとりほとりと色を落とすように、人がいる。
「ロゼアもちょっと不安がってるけど、ソキの体調は安定してるし、魔力もすごく落ち着いてる。だから、平気だとは思うんだけどさー」
机に肘をついて、だらしない姿で香草茶をすするフィオーレに、視線を留める。ソキのように目立たないだけで、フィオーレもまたうるわしく整えられた男だった。彼は『砂漠の花嫁』や『花婿』とは、また違った風な花の印象をふりまく男だ。顕著なのは、その髪色だろう。赤と桃色の入り混じった髪は、染められたものとは全く違う。髪の房ごとに色が異なっているのではなく、色をぐるりと混ぜきらない絵具を髪に不規則に塗ったかのように。混ざり合わない、二つの色彩がそこへ写し取られている。瞳もそうだった。灰緑の瞳。燃え落ちた残りと、瑞々しい若葉の。生と死の混じるいろ。どうしてこの国にいるのだろう、とリトリアはぼんやりと考える。ひかりの強すぎるこの国に、どうしてこの男はいるのだろう。
強すぎる陽は花を弱らせ、じわじわと死に至らせるばかりだというのに。それを王たちが知らぬ訳ではないだろうに。フィオーレは、まるで補給するように、体に染みさせるように、こくり、と香草茶を喉に通して。ぼんやりとしているリトリアの、名を呼んだ。
「リトリア。……なに?」
「……ううん」
でもそれは、きっと。どうしてリトリアが、楽音にいるのか。その答えと同じである筈だった。他の道は選べなかった。他の道があったのに、切り捨てて、選ばなかった。きっと、その、結果だ。そのことを悲しく思うことはあるけれど。後悔はしていない。後悔しない、と決めたから。そんなことを、したくない、と思っているからだ。リトリアは瞬きで夢現の思考を振り払い、話を聞く体勢を整えたフィオーレを、まっすぐに見つめた。
「それよりも。私を呼んだ理由はなんでしょうか、白魔法使い」
「予知魔術師って冬眠すんのかリトリアに聞いてみろよ、って陛下がね?」
「……『砂漠の花嫁』って冬眠されるのですか? と、『お屋敷』に先に聞かれた方がよかったんじゃ……?」
賓客質の窓からは、その『お屋敷』の建物が見えた。王宮の内装と同じく、ま白くひかる外壁によって形作られた場所だった。うつくしいつくりの建物だと、一部を見ただけでも思う。職人の手によって設計され、整えられ、手をいれられて保たれている。芸術品めいた印象を受けるのは、そこで養育されている『花嫁』を目にした時と、同じ感情だ。フィオーレもまたリトリアの視線を追いかけ、建物に目を留め息を吐き出した。
「陛下はロゼアに聞いたらしいよ。『砂漠の花嫁』って冬眠すんの? って」
「ロゼアくんは……なんと……?」
「陛下馬鹿なんじゃないんですか。冬眠なんてしねぇよ疲れてるなら寝ろよ。ソキかわいい、っていう内容を、ものすごくものすごーく丁寧にした手紙が、差し出して二時間後くらいに帰ってきた」
よって、可能性を潰す為に予知魔術師の呼び出しとなった訳である。私にも手紙をくださればよかったのに、と苦笑するリトリアに、フィオーレはそんな冷たいこと言うもんじゃないよ、と肩を震わせて笑う。
「ひさしぶりに顔が見たかったんだよ、陛下は」
「わたしの?」
「うん。先日ね、ツフィアに関わる仕事を、しなければいけなくて。そのせいで、リトリアが心配だったみたい」
予期せぬ名前に、リトリアの鼓動と指先が跳ねる。つめたい水に突き落とされてしまったような表情で、声なく説明を求めるリトリアに。フィオーレはゆったりとした声音で、悪いことじゃないよ、と言った。
「ツフィアがね、ある書類を見たいって言ってて……。その許可の為に、また色々誓約書書かせたり、したからさ。陛下がうんざりしてただけ。うちの陛下は……言葉魔術師嫌悪症だからね、仕方がないんだけど。今回は書類書くのにじんましんでたりとかで、ちょうわらったんだけどさ」
「そこは笑うのでよかったんですか……」
「だってもう笑うしかなくない?」
じんましんでたじんましんっ、ひいいいいっ、と指差して爆笑した白魔法使いが、王に蹴られ殴られ踏みにじられる様を想像して、リトリアは微笑んで頷いた。なにも言いはしなかった。まあ、本人がそれでいいと思っているのなら、口出しすべきことではないのだ。
「ツフィアは、なにを?」
「んー……書類。読みたかったんだって」
「そうですか」
その名前を聞くだけで。息づく、その仔細に、かすかに触れるだけで。あいしている、と思う。いとおしく思う。傍にいられないのに。遠ざけたのはリトリアなのに。ツフィアは、それを許してくれるのだろうか。思う心の片隅に、ふと暗い影が落ちる。ああ、でも。嫌われてしまったのだった。
「好きに……また、なってもらいたい、な」
「誰に?」
俺は好きだよ、リトリア。にっこり笑って囁くフィオーレに、知ってるわ、と大人びた響きで肩を震わせて。分かっているくせに、とリトリアは机に肘をつき、手を組んでそこに顎を乗せた。くちびるを尖らせて、告げる。
「ツフィア。ストルさんも」
「前から思ってたんだけど、リトリアのそれ二股じゃね? 分かってる?」
お父さんみたいー、とか。お母さんみたいー、じゃないんだもんなー、と面白そうに笑うフィオーレに、リトリアはもじもじと指先を組み替えた。あまり褒められたことではない、と分かっているのだが。
「……だってふたりとも好きなんだもん。砂漠の、陛下だって、ハレムにいっぱい女のひとを囲ってらっしゃるし……私の、楽音の陛下だって、第三王妃さままでいらっしゃるし……白雪の陛下は夫君がおひとりだけど。星降と花舞の陛下は、おはなしも、聞かない、けど……」
「星降はそーっとしておくのがいいと思うんだよね俺」
五国の王は全員が二十代の後半。そろそろ三十である。成人年齢が十五、各国の結婚適齢期がその前後であることを考えれば、女性を囲っていて跡継ぎに恵まれていない砂漠もそろそろ危機感を持ち始めてもおかしくはないが、噂さえ聞かない二国も危ないのではないだろうか。眉を寄せながら、リトリアは触れられなかったもう一国を問いかけた。
「花舞は?」
「養子でも取るんじゃね?」
「……ご結婚される、のでは、なく?」
いぶかしむリトリアに、フィオーレは肩を震わせて笑う。細められたその瞳が、ぞっとするほど冷たい感情を刷いていたことに。リトリアは気がつかなかった。全く普段通りの声音で、フィオーレは言った。
「例えばさぁ。ロリエスが、陛下が誰かに穢されるのを許すと思う?」
「う、うぅん……でも、陛下がほんとの、ほんとに、好きなひとだったら……?」
女王が心から望んだ相手をも、退けるようなひとではない筈だった。そうだね、とフィオーレは頷く。
「だから、養子を取るしかないと思うよ」
「そうなの?」
「うん。……その先に幸せがあるとしても。手放せる『傍付き』っていうのは、ほんとすごいな、と思うよ。俺はね。ロゼアが聞いたら、ヤな顔するかも知れないけどさ。俺は、それがもしかしたら不幸にさせるかも知れないって分かってて……手放さないし、離すつもりも、ないから」
だから、リトリアのこともすごいな、と思ってるよ。嫌われたくらいで傍にいないっていうのはね、と苦笑するフィオーレに。リトリアはむっとくちびるを尖らせ、ばかにしてる、と訴えた。
「私は、だって……嫌な思いをして欲しくないし、しあわせに……なって、幸せでいて欲しいし……」
「その人からもたらされる不幸ならしあわせ、っていう人も世の中にはいるよ。俺とかエノーラとか」
「ツフィアも、ストルさんも、へんたいじゃないもの」
そんなかわいくないことを言うのはこの口かなー、と伸びてきた手が、リトリアの顔を包み込んでぐりぐりと撫でまわす。もう、やだ、フィオーレったら、と笑いながら、リトリアはもう一度ソキちゃんの様子を見に行きたいな、と呟いた。その願いを、フィオーレなら叶えてくれることを。リトリアは知っていて、おねがい、と首を傾げてあまくねだった。
今日もおまんじゅうみたいになって寝てるよ、というナリアンの言葉通り、ソキは談話室のソファの上で、うつ伏せにまるくなって眠っていた。寝苦しくないのかと思うが、ぷう、ぷう、すぴ、ぴっ、ぴすー、ぴすすー、と漏れてくる寝息があんまりにも気持ちよさそうなので、特に問題はないらしい。まるくなった体に、抱き込まれているのはつぶれたアスルだった。ソキの腕はぎゅむぎゅむと遠慮なくそれを抱き潰していたから、リトリアはすこしだけ、起きた時に腕が痛くならないのかしら、と心配になる。だってソキは本当に脆くて弱くて柔らかいのだ。楽音に留め置かれた先の数日で、寝室を一緒にしていたから、リトリアはそれをよく知っていた。大丈夫よ、と囁きながら、リトリアはソキの前に膝を折り、力のこめられた腕に指先を乗せる。ぽん、ぽん、と叩いて、撫でても、ソキは力を緩めなかった。
代わりに、うとぉ、っとした、寝ぼけた、蕩けた眼差しで瞼が持ち上がる。
「ふにゃ、う……う、う……? り、と……あ、ちゃ……?」
「ごめんね。起こしてしまったわね。……ね、ね、ソキちゃん。腕痛くならない? ちから、緩められる?」
「んん。だめ。だぁめ。アスルは、そきの。そきのぉ……」
あげない、とばかり抱きしめたアスルに頬をすりつけ、ソキはまたそのまま、くてん、として眠りに落ちてしまった。本当に、ちょっとばかり起きただけであったらしい。伝え聞いたように。確かにこれは、冬眠めいていた。最初のころはロゼアが抱き上げればすぐに目を覚ましたらしいが、最近は眠ったままであることも多く、ナリアンも数日言葉を交わしていないらしい。そうなの、と眉を寄せ、リトリアはソキの隣に腰かけた。ぴ、ぴす、ぴす、ぷにゃ、く、くぴー、と寝息がほわほわ響いてくるので、緊張して深刻に、考えを深めるのは難しいことだった。
『今日は、ひとりなんだね』
「はい。一時間くらいしたら、レディさんが来てくださるそうなんですが」
えええええねえ陛下お願いお願い俺もたまにはリトリアの保護者したいんだよ保護者、いいでしょ保護者ねえねえ陛下ねえったらーっ、とだだをこねた白魔法使いは、うるさいと一言怒られた後、足払いをかけられ背中を踏みにじられ舌打ちをされ、王にいいから国から出るなと言い渡されていた。なんでも、砂漠の国内では先の空間破壊の影響か、魔力が落ち着いていないらしい。リトリアが訪れた折りも、空気中には魔力のきらめきが満ち、散らばって漂う状態が続いていた。あれでは魔術師たちの中で、体調を崩す者もあるだろう。いかな学園を卒業した魔術師といえど、あのきらめきは意識を揺らし酔わしてしまう。その状況で白魔法使いが国を、王の傍を離れるなど、考えられないことだった。
『ソキちゃんは。いったい、どうしたんだろうね』
魔力を伝って寄せられる、その声を。リトリアは、なんだか優しい気持ちで受け止めた。こうして向かい合って話すのは、はじめてである筈なのに。不思議に緊張することはなく。昔、何度もそうして話していたかのように。楽な気持ちで、リトリアは息を吸い込んだ。
「私にも、よく分からないんです……予知魔術師が、皆、こう、という訳ではありませんから」
『そうだよね。メーシャくんも、俺も、色々調べたりしてるけど、こんな風に寝ちゃうっていうのは、魔術師の異変としてあまり見ないし……眠るにしても、あんまり気持ちよさそうだから、なんか違う気がするし……。それに、ロゼアが全然不安がってないっていうか、落ち着いてるから。あ、これ大丈夫なんだ……? 大丈夫なんだよね、ロゼア。うんそうだね寝てるソキちゃんかわいいね? ってなるし……』
「……ロゼアさん、落ち着いてらっしゃるんですね?」
そういえばフィオーレも、そんな風なことを言っていた気がする。ロゼアが慌てたり焦ったりしてないから、いまひとつ緊急性を感じて対処できないんだよね、と。ソキ本人も、眠たくて寝ているだけで体調不良を感じている訳ではないらしい。それにしても、本当に気持ちよさそうに眠っている。ぴすー、ぴすー、くぴっ、ぷぷぅー、と寝息が零れるのに、リトリアは肩を震わせて笑った。
「ソキちゃんったら……もう。かわいいなぁ……」
『ね。……あ、ロゼアおかえり。リトリアさんがお見舞いに来てくれてるよ』
「ただいま、ナリアン。リトリアさん、こんにちは。ありがとうございます」
実技訓練から戻ったのだろう。ロゼアは、動きやすそうな黒の上下に身を包んでいた。その姿を、どこかで見た気がして。リトリアは体に緊張を走らせかけた。黒い服のロゼアは苦手だ、とリトリアは思う。普段は全然、そんなことを思わないのだけれど。その色は。血に触れても、分からない。表情をかたくするリトリアに、汗くさいかなすみません、と穏やかな声で謝罪して。ロゼアはまるくなって眠るソキを、ひょい、とその腕に取り戻した。頬を撫でるように滑ったてのひらが、とくとくと拍を刻む首筋に押しあてられる。指先がもう一度、頬のまるみを撫でるように触れて。耳を覆うようにくすぐった後、額にくっつけられる。ん、ん、と淡く喉を鳴らすソキに、ロゼアはほっとしたように息を吐き出した。
「ソキ、そき、そーき。おねむりさん。ただいま」
「ん、んー……んぅ……? ろぜあちゃん!」
「うん。俺だよ。……俺だよ、ソキ」
リトリアとすこし距離をあけてその隣に座り、ロゼアはふにゃふにゃと目を覚ましたソキの額に、己のそれを押し当てた。きゅぅ、と嬉しくてたまらない声をあげて、ソキがくしくし、肌をこすり合わせる。抱き潰していたアスルを膝に落下させ、ソキはロゼアの首に、あまえた仕草で腕をまわした。
「ろぜあちゃー……すきー。すき、すき、すーきー……ろぜあちゃーん。すきすきー……」
「うん。俺もだよ、ソキ。かわいいソキ。俺のお花さん。……今日はなんの夢?」
「きょうは、なんのぉ、ゆめー……?」
口をちいさな三角形の形に半開きにしながら、ぽやぽやと繰り返すソキは、誰がどう見ても完全に寝ぼけていた。んー、んー、と考えてロゼアに体全体をすりつけてもぞもぞしたのち、ソキはぎゅむり、とばかり抱きつき直してあくびをした。
「わかんなくなっちゃたです……。でも、でも、ソキは、ろぜあちゃん、すき……すき」
「ん。知ってるよ。もうちょっと眠る? 夕ご飯には起きような、ソキ」
ふにゃふにゃ、リトリアにはうまく聞き取れない声で。恐らくは、ロゼアちゃんの言うとおりにできるです、というようなことを言ったのち、ソキはまた瞼をおろして、すうすうと眠りに戻ってしまった。これが今日だけのことであるなら、昨夜よほどなにかあって疲れているのだろう、とも思えるのだが。ソキがこうなってから、もう一週間も経過しているのだという。眠っているだけみたいなんだ、とロゼアは言った。意識が。その体にない方が、言葉魔術師は武器の調整がしやすい。不意にそう思って、リトリアは眉を寄せ、ロゼアの言葉に頷いた。
ソキはしあわせそうに眠っていた。悪い夢ではないことが、幸いに思えた。
ほやほやと瞬きをして、あくびをして四肢に力を込め、ソキは寝台の上に起きあがった。ちょっぴりゴワついてしまったアスルに、くちびるを尖らせながら頬をすりつける。膝の上にぽんとおいて室内を見回せば、最近すっかり見慣れた、夜である。ぷー、と頬を膨らませるのにもなんだか慣れてしまって、ソキはやんやん、と寝台の上で体をもぞもぞさせた。
「ソキがせぇーっかく起きたですのに、また夜です……。ソキは朝とか、お昼にも起きたいです……」
どうも日中は、ねむたい、という記憶しか残っていない。なんとなく起きて、ロゼアにご飯を食べさせてもらってうとうとして、おふろに入れてもらって、お服を着替えさせてもらって、いる気は、するのだが。くちびるを尖らせながら両手をぺた、とあてた髪も、肌も、汗や汚れでぺたつくことはなく。さらりとした感触が心地いい、きちんとお手入れなされたものだった。もぉー。もぉー、あっでもロゼアちゃんたらちゃぁんとおていれー、をしてくれているですソキは嬉しいです、と気を取り直してもじもじし、薄暗い部屋に響く寝息に、視線を向けた。寝台にはロゼアが横になっている。その両手はゆるくソキの体に巻き付き、抱き寄せていたが、組んだ指はほとんど外れかかっていた。起きたソキが好き勝手にもぞもぞ動いていた為である。胸にきゅっと抱き寄せられた心地いい眠りを思い出し、ソキは熱っぽい息を吐き出した。
「ロゼアちゃんのだっこ……ぎゅぅ、きもちいです……。きっと、それでソキはいっぱい眠ってしまうです。あんまり、あんまり気持ちいいから、これはもうしょうがないことです。でも、でも、でもぉ……でも、ソキは朝のロゼアちゃんも、お昼のロゼアちゃんも、いっぱぁい大好きですから、これは起きていないといけないです。明日こそ、ソキは起きるです。おねむりさんは、卒業、というやつです」
幸い、なんだか、ひと区切りした、という気がしていたので。なにがどうひと区切りしていたのか分からないが、こんなにも眠ってしまうことは、もうおしまいの筈だった。寝台の傍、ちいさな棚の上に置かれた灯篭で、火がゆらゆらと揺れている。生み出される陰影の中に身を置きながら、ソキは眠るロゼアの顔をじーっと見つめていた。
「ソキは最近、ロゼアちゃんがおねむりさんな顔をたくさん見るです。おつかれ……?」
なんだか、急に怖くなって。ソキはてのひらをぺたん、とばかりロゼアの頬にくっつけた。肌は暖かく、吐息が指先をくすぐっていく。ほっとして、泣きそうに息を吐き出して、ソキは瞬きをする瞼に力を込める。瞼が招くくらやみの向こうに、砕けて散らばる夢をみた。
『お姫ちゃんは本当に、頑張りすぎちゃうんだから……』
夢で。ここ最近はずっと、同じところへいた気がする。そっちへ引き寄せられてはいけないよ、と柔らかな声がソキを導き。しんと静まり返る書庫の隅。用意された椅子の上に腰かけて、誰かがなにかをするのを、じっと見つめていたかのような。訪れた誰かに、胸にぱっと花が咲くような思いで。だっこをねだって、ぎゅっと抱きしめてもらったような。ソキがそれをお願いしたくなるのは、この世でたったひとり、ロゼアだけなのだが。夢でもこれはいけないことです、うわきー、というやつですちぁうですソキはロゼアちゃんひとすじですうううと頬に手を当ててやんやんと身をよじり、ソキはでもきもちいかったです、と息を吐き出した。
『それにしたって、こんなにここへ呼んでしまって。大丈夫なんですか? 先輩』
『大丈夫としっかり保障してしまえる程には大丈夫じゃないよ。修復にも、もうすこし時間がかかるし……でも、どの道、俺達には会わなきゃいけないから。順番が前後しただけだと思えばいいんじゃないかな』
『それでいいんですか……? ああ、ごめんな。ソキが不安がることはないよ。なぁんにも、ないよ……』
ことん、さらさらさら。ことん、さらさらさら。繰り返しひっくり返される砂時計の音が響く、やわらかな夢だった。
『かわいい、かわいいソキ。怖い夢はここへ置いていこうな』
頬を撫でる手が、瞳を覗き込んでくる赤褐色の慈愛が。ソキへあんまり優しくそう囁くので。ソキはけんめいに訴えたのだ。ロゼアちゃんが、ロゼアちゃんがね。いっぱい、みんなに、えいってされて、それで、ソキをぎゅってしてくれて、ソキは痛い所もなんにもないのに、ロゼアちゃんはたくさんお怪我をされて。ロゼアちゃん、ロゼアちゃんがお返事をしてくれないです。ソキ、いっぱい呼んだのに。呼んでるのに。やめてってお願いしたですのに。誰も。ロゼアちゃんも。いうことをきいてくれなくて。ろぜあちゃん。ろぜあちゃんが、また、そき、たすけられなくて。しんじゃう。え、えっく、としゃくりあげて訴えるソキを、抱き上げた腕に抵抗することなど、考えもつかなかった。
大事に頬を撫でられる。首筋にしっかりと押し当てられた手が、拍に、ぬくもりに、香りに、満たされきった息を導いていく。ソキ、そき。背をとんとん、となでる指先。額に触れる手。ソキ、と囁く声が。おなじものだった。泣き叫んで、ほんのすこし掠れてしまっただけ。ソキにはちゃんと分かった。ロゼアとおなじものだ。ソキのロゼアではないけれど。でも、どこかのソキのものだった、ロゼアの。だから。えぇん、とかなしい気持ちで、ソキはその腕の中で何度か泣いた。
『ソキ、ソキ。かわいいソキ。おねむりさん。もういいよ。もう十分だよ。がんばったな。よく頑張ったな……。もう、いいよ。起きていような。おねむりさんはおしまいにしような。もう十分だろ』
『でもソキは……ソキは、まだたくさん、まちがえてしまてるです』
それを告げたのは確かにソキで。ソキのくちで、ソキのことばなのだけれど。そういう風に言わなければいけないような気がしたから、そうしただけで。ちっともソキの意思ではなかったのだ。抱き上げてあやしながら、うん、と困ったような囁きが静寂を揺らす。
『全部分からなくても、もう間違えないだろ。そんなに苦しくならなくていいよ、ソキ。いいんだよ……』
『……ゆるしてくれるの?』
『許さないといけないことなんて、なんにもないよ。愛してるよ。……あいしてる』
零れた。大粒の涙が床に触れる前に金の砂になり。ようやくソキは、己の手を引いて夢へ連れていくちからから、抜け出すことが出来たのだった。まばたきひとつ分の夢から覚めて、ソキはふあふあふあ、とあくびをした。もうー、ねむいですー、ソキはもう起きるって決めたんですからねむったらいけないんですよぉ、と何処ぞへ訴えながら、ややごわつくアスルを引き寄せ、頬をくっつける。
「……アスル、朝になったらお洗濯してもらうですよ。アスルも、ソキといっしょに、けんめいにがんばったです。だから、ふわふわにしてもらうです。これはごほうびというやつです」
それがいいに違いない。こくり、と頷き、ソキは眠るロゼアの隣にころんと転がった。深い眠りの中にいるのだろう。穏やかな寝息を響かせ、ロゼアは目を覚まさなかった。眠るロゼアちゃんは、なんだかとても可愛いです、はうー、とじーっと見ながらうっとりして。ソキは突然、それに気がついた。これはもしかしてもしかしなくても。ちゅうのだいちゃんす、というやつである。
「きゃあぁんっ! たっ、たたたたいへんなことです今日こそ……! だ、だいじょぶかなぁ、だいじょうぶです……? ソキのくちびる、きもち……? ……ん、ん。たぶんだいじょうぶです。今日こそ、おきないうちに、ちゅっとするです……!」
ふにふに、己の唇に指先を何度か押し当てて。ソキはかたい決意の顔で、こくり、と頷いた。それからロゼアを見て、口唇を見て、やぁんやぁんと身をよじってもじもじし。ソキはぎゅむーっとアスルを抱き潰し、顔をうずめるようにして呟いた。
「……よこうえんしゅうが、ひつよう、かもしれないです」
どうしてか、前よりずっとどきどきするのである。口唇に、いや角度的にちょっと難しいようなら頬でもかまわないのだが。ちゅっとくちびるを触れさせるだけだというのに、なんだかとっても難しいことのような気がした。それに、起こしてしまっては一大事だ。ううん、ううん、と考え、ソキはアスルのつぶらな瞳と見つめ合った。ややあって、こくん、と頷く。ソキは両手でそろそろとアスルを持ち上げると、ロゼアの顔の前でこんなかな、こんなかな、と何度も何度も角度を調節して。えいっ、ときゅうと目を閉じて、ふにっとロゼアへ押しつけた。すぐさま、ぱっとアスルを取り上げ、ソキはあああぁあっ、と悲鳴を上げる。
「たいへんです……! ソキはいま目をつむってしまったです……! かくど……! ろ、ろぜあちゃの、ちゅうの、かくどが……!」
だいしっぱいである。なんとなく、しか分からなくなってしまった。やぁんやぁああんこれくらいだったです、きっとそうです、とアスルをもにもに手でもてあそび、ソキはきょろきょろ左右を見回した。もう一度、アスルのつぶらなひとみと見つめ合う。
「……あするぅ? ソキが、ちゅってしてあげます」
だって、ロゼアのちゅうはソキのなのである。アスルのじゃないのだ。ちゅー、ちゅちゅちゅ、ちうー、とちょっぴりごわつくアスルに、ソキは上機嫌でくちびるを押し当てた。
「……ソキ? なにしてるんだ?」
「ぴっ、ぴゃあぁああっ!」
「ソキ、そき。しー……どうしたの、ソキ。驚いたな。ごめんな」
驚きのあまり、ぼてっとアスルを落っことしてしまったソキを抱き寄せ。ロゼアはがっちりとその体を抱きしめ直した。あう、あう、と顔を赤くして、ソキはそぅっとロゼアを覗き込む。眠たげな赤褐色の瞳が、ソキをじっと見つめていた。なにも聞けずにもぞもぞと胸元へすり寄ってきたソキを撫でて、ロゼアは笑いながら、おやすみ、と囁く。それに、こくん、と頷きながらも、ソキはまだちゅうが足りなかたですからあする、あするぅ、と手を伸ばしてちたぱたしたのだが。ロゼアはなぜか、それを許してくれることはなく。ぎゅー、ぎゅぎゅむっ、と抱きつぶされてしまったので、ソキはぷきゅ、としあわせに潰れてしまった。